地名一覧

第1888話 2019/05/07

京都市域(北山背)の古代寺院(4)

 北野廃寺(北区北野上白梅町)が最古級(飛鳥時代、七世紀前半頃)の寺院遺跡とれさていることを紹介しましたが、京都市域(北山背)には同じく飛鳥時代の創建とされる広隆寺(右京区太秦)が現存しています。聖徳太子との関係が深く、国宝彌勒菩薩像がある洛西の古刹です。寺域内の発掘調査では七世紀前半頃に遡る素弁蓮華文軒丸瓦が出土していることから、飛鳥時代に遡る創建と見てよいようですが、瓦の編年から北野廃寺の方がより古いとされています。
 北野廃寺と同様に、創建は九州王朝(倭国)の時代ですから、聖徳太子との関係も疑う必要があります。七世紀前半のこの地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられませんので、聖徳太子に関連する伝承や解釈も、九州王朝の天子・多利思北孤か太子の利歌彌多弗利のものだったのではないでしょうか。
 『日本書紀』の史料批判も含めて、大和の飛鳥や斑鳩以外の地の聖徳太子伝承の見直しが必要です。もちろん広隆寺もその対象です。なぜなら、中世以降に成立した聖徳太子伝記類には九州年号(金光など)が散見され、九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の伝承が近畿天皇家の厩戸皇子の伝承に置き換えられていることがわたしたちの研究により明らかとなりつつあるのですから。(つづく)


第1887話 2019/05/07

京都市域(北山背)の古代寺院(3)

 八角仏塔の樫原廃寺(西京区)、巨大金堂基壇の北白川廃寺(北区)に続いて北野廃寺(北区北野上白梅町)を紹介します。北野廃寺は昭和11年の路面電車(チンチン電車)の敷設工事により発見されました。大量の古瓦が出土し、瓦や土器の編年などにより飛鳥時代(七世紀前半頃)の全国的にも最古級の寺院跡であることがわかりました。京都市考古資料館の展示でも素弁蓮華文軒丸瓦や須恵器坏H、同Gが展示されており、学芸員の方の説明でも七世紀後半の須恵器坏Bは出土していないとのことで、北野廃寺は七世紀前半頃の創建と考えられます。
 この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。従って、飛鳥時代の最古級の寺院創建は九州王朝の影響下でなされたと思われます。既に七世紀初頭頃には九州王朝は難波や河内を直轄支配地としていたと考えられますから、北野廃寺は同時代の難波天王寺などの九州王朝系寺院との関係を考えるべきと思います。
 本稿に関連する〝余談〟ですが、九州王朝説・多元史観に立つと「飛鳥時代」という呼称も再考が必要となりそうです。(つづく)


第1886話 2019/05/06

京都市域(北山背)の古代寺院(2)

 京都市考古資料館の特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」で最も注目した遺跡が北白川廃寺跡(左京区)でした。銀閣寺の北側に位置する北白川地区から廃寺跡が発見されたのは昭和9年のことで、巨大な金堂基壇(36.1m×22.8m)や回廊が出土しました。その後、昭和50年になって金堂の西80mの地点から塔跡も発見されました。
 わたしが驚いたのはその金堂基壇の巨大さです。北白川廃寺創建は出土瓦(山田寺式)を根拠に七世紀の第三四半期の早い時期と編年されており、その時代の寺院の金堂としては奈良県桜井市から出土した吉備池廃寺(37m×約28m)に次ぐ大きさとのことです。現存する法隆寺金堂の基壇が22.1m×18.8mですから、これと比べてもかなりの規模であることがおわかりいただけるでしょう。
 ここで問題となるのが、この北白川廃寺のことは『日本書紀』にも後の史料にも見えず、山背(やましろ)国の北部にこのような巨大寺院を建立した勢力についても不明です。想定される創建時期が前期難波宮とほぼ同時期であることも見逃せません。巨大な北白川廃寺は近畿天皇家とは関係が薄い勢力、あるいはその存在を近畿天皇家が『日本書紀』には記したくなかった勢力による造営と考えるべきではないでしょうか。すなわち、九州王朝系勢力が創建に関わったのではないでしょうか。
 さらに同廃寺の南に隣接する小倉町別当町遺跡からは、「高志」「丁」の刻印をもつ無紋銀銭が出土しています(七世紀中頃と編年)。無紋銀銭は近江の崇福寺遺跡や難波から数多く出土しています。前期難波宮を九州王朝の複都(太宰府「倭京」と難波京の両京制)とするわたしの説や、近江朝を九州王朝系とする正木説の立場からすれば、九州王朝と関わりが深いとされる地から無紋銀銭が出土していることとなり、小倉町別当町遺跡から出土した無紋銀銭も偶然と見るよりも、北白川廃寺を創建した勢力(九州王朝系か)との関係を検討すべきものと思われるのです。(つづく)


第1885話 2019/05/05

京都市域(北山背)の古代寺院(1)

 京都市考古資料館(上京区)で特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」(無料)が開催されていることを久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から教えていただき、昨日、見学してきました。
 わたしは古代史研究において、山背(やましろ)国、中でも京都市域についてはそれほど興味がなく不勉強でした。ところが今回の特別展示を拝見して驚きました。もしかすると古代の京都市域(北山背)は九州王朝と関係が深い地域ではないかと考えるようになりました。その理由について紹介したいと思います。もちろん、調査研究や論証はこれからですので、考古学的事実とわたしの感想を記していきます。
 最初に紹介するのが西京区の樫原廃寺です。昭和41年の発掘調査により、七世紀唯一の八角仏塔が出土しています。同時期における八角形の建造物は前期難波宮の八角殿(二基)と熊本県の鞠智城の八角鼓楼(新旧の各二基)が知られているだけですから、非常に珍しいものです。前期難波宮は九州王朝の複都(太宰府「倭京」と難波京の両京制)とわたしは考えていますし、鞠智城も九州王朝による要塞的施設ですから、八角仏塔が出土した樫原廃寺も九州王朝との関係があるのではないかと推測しています。
 造営年次は前期難波宮の652年(九州年号「白雉元年」)だけが判明しており、鞠智城鼓楼や樫原廃寺との先後関係は未詳です。しかし、樫原廃寺の八角仏塔を建立した工人集団と前期難波宮の八角殿を造営した工人集団(番匠)とが全くの無関係とは考えにくいのではないでしょうか。なお、樫原廃寺からは八角仏塔を取り囲む回廊・築地塀と大形の中門が出土していますが、金堂に相応しい規模の遺構は回廊内から発見されていません。八角仏塔の北側に小規模の建築物があるだけという、不思議な遺構です。(つづく)


第1877話 2019/04/17

米沢の古代史

 昨晩、山形新幹線で米沢市に到着しました。米沢は初めてでしたので、駅の観光案内所で観光マップをいただき、米沢で最も古い寺社はどこかとたずねたところ、上杉神社と白子(しろこ)神社とのことでした。スマホで調べてみると、白子神社の創建は和銅5年(712)、ご祭神は火産霊命と埴山姫命とありました。
 山形市まで北上すれば羽黒山修験道関連の伝承(「洛中洛外日記」266話「東北の九州年号」を参照)に九州年号「端政」(589〜593年)が見えるのですが、米沢市には九州年号は未発見です。本格的調査ではありませんから断定はできませんが、山形県地方への九州王朝の影響や九州年号の伝播は日本海側ルートだったのかもしれません。そのため、米沢市を経由せずに越後から日本海沿いに山形方面に伝わった可能性があるようです。
 ただ、米沢市内には前方後円墳が散見されますので、遅くとも古墳時代には前方後円墳を築造する勢力や文明が伝わっていたわけですから、この勢力と九州王朝との関係などがこれからの多元的米沢市(置賜地方)古代史研究の課題です。


第1715話 2018/07/29

「佐用」は「さよ」か「さよう」か

 先週、仕事で鳥取を訪問したのですが、そのとき乗った特急電車の停車駅名の訓みについての小文を「洛中洛外日記【号外】」にて配信したところ、二名の方からメールが届きました。まず配信した「洛中洛外日記【号外】」を下記に部分転載します。

古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2018/07/27
「郡家」「智頭」の訓み
 鳥取から京都に向かう特急スーパーはくと12号の車中で書いています。(中略)途中の駅名の訓みが珍しく、車内アナウンスがなければわからない駅名がいくつもありました。たとえば「郡家」。当然、「ぐんけ」と訓むものと思っていたのですが、車内アナウンスは「こうげ」でした。何故、「こうげ」という地名に「郡家」という漢字を当てたのか気になりました。
 「智頭」も「ちとう」だろうか「ちがしら」だろうかと勘ぐっていたら、これは単純に「ちず(づ)」でした(駅のローマ字表記は“chizu”)。「ちず(づ)」とは何を意味するのでしょうか。おそらく「ち」は古い時代の神様の名前のことと思われますが、「ず(づ)」は文字通り「あたま」のことか、港を意味する「つ(津)」なのか、よくわかりません。
 「大原」駅はそのものずばり「おおはら」駅なのですが、その大原駅から見える風景は山中の狭い盆地であり、とても「大草原」のようなイメージの「大原」ではないことに疑問を抱きました。しかし、三千院で有名な京都の大原も山間の集落であり、「大草原」ではありません。従って、本来「はら(原)」という日本語は狭い領域を示す用語ではないでしょうか。その狭い「原」にしては広い所なので「大原」と呼ばれたのではないかと考えています。もしこの理解が当たっていたら、「高天原(たかまがはら)」という地名も本来は比較的小領域に対するものであったのかもしれません。
 水害被害で有名になった「佐用」駅もありました。訓みは「さよ」であって、「さよう」ではないことも今回知りました。
 佐用駅の次は「上郡」駅です。こちらは普通に「かみごおり」駅で、ちょっと安心しました。(後略。転載終わり)

 この記事を読まれた茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)より、次のメールをいただきました。貴重な情報と思われ、茂山さんのご了解を得て、転載します。

【以下。メールを転載】
古賀様
 JR命名の佐用駅は「さよ」ですが行政区分は佐用(さよう)郡佐用(さよう)町です。僕は駅名の読みが古称ではないかと思っています。播磨国風土記に遡る地名で、風土記では「讃容」です。しかし、僕はさらに古く出雲王朝時代に淵源をもつ地名ではないかと考えます。九州王朝の途中までは「吉備国」だったようです。「讃」の用字は讃岐とも関係があったのでしょうか?
 風土記では、伊和大神と競った玉津日女命が勝利ののち「賛容都比売命」と名を改めたことになっていますが、地元では「佐用姫さん」と親しまれる「佐用都姫」で、佐用都姫神社があります。創建年不詳なのは、それほど古いのだ(九州年号以前)と想像します。ですから、「佐用都姫」の方が地名のもとではないかとも考えます。
 玉津日女命が賛容都比売命に改名する説話は稲作開始の伝承のような話しです。同じモチーフの伝承が製鉄の開始にもつながるようで、佐用都姫神社の近くは精錬の遺跡が広範囲に広がっており、今でも鉄滓(のろ)が地表に転がっています。こちらは、風土記ではずっと時代が下って孝徳期の製鉄開始とされていますが・・・。 茂山
【メール転載終わり】

 「洛中洛外日記」の校正チェックしていただいている加藤健先生(古田史学の会・会員、交野市。元高校教諭)からは、「郡」を「こう」と訓む地名が交野市にもあることをお知らせいただきました。「郡津」と書いて「こうづ」と訓むそうです。こうした情報が即座にいただけることは、有り難いことと感謝しています。


第1691話 2018/06/14

熊野古道の「九十九王子」

 一昨日訪れた海南駅の駅前広場に海南市観光案内の大きな看板があり、一瞥して、やたらと「○○王子」という表記が多いことに気づきました。「熊野古道」沿いに分布しているようですが、次のような「○○王子」がありました。

 「松坂王子」「松代王子」「菩提房王子」「祓戸王子」「藤白王子」「藤代塔下王子」「所坂王子」「一壷王子」

 これらたくさんの王子は近畿天皇家や九州王朝の王子名でもなさそうで、いったい何者だろうかと不思議に思いスマホでネット検索したところ、中世における熊野詣での「休憩場所」が「○○王子」と称され(「○○」は地名のようです)、それらを併せて「九十九王子」と呼ばれているとのこと。その淵源や実体については諸説あるようです。それほど著名な「王子」が熊野詣でをしたことが背景であれば、その「王子」の個人名や伝承が伝わっていてもよさそうに思うのですが、それもはっきりしていないようです。それにしても不思議な現象です。
 九州王朝でも高良大社の御祭神高良玉垂命の九人の子供が「九躰の皇子」として神社に祀られていますが、こちらはそれぞれに「個人(神)名」(注①)があり、「王子」ではなく多くは「皇子」と表記されます。まさに九州王朝の天子(天皇)の子供にふさわしい表記です。ところが海南市などの「九十九王子」は「王子」表記で、「個人(神)名」も不明です。
 似たような例に、愛媛県の西条市などに散見される「○○天皇」地名があります(合田洋一さんのご教示による。注②)。こちらも「○○」部分は個人名とは思われませんし、九州王朝にも近畿天皇家にもそうした天皇名は無いようです。当地を著名な某天皇が行幸か滞在したことを反映した表記かもしれませんが、今のところよくわかりません。
 また、熊本県を中心に多数分布する「天子宮」もその「天子」は九州王朝の天子ではないかと推定はしていますが、具体的に誰のことかは未詳です。
 いずれの例も多元史観による解明が待たれています。これからも調査研究したいと思います。

(注)
①筑後の「九躰の皇子」の神名は次の通り。
「斯礼賀志命」「朝日豊盛命」「暮日豊盛命」「渕志命」「渓上命」「那男美命」「坂本命」「安志奇命」「安楽應寶秘命」
②「長沢天皇」ほか。同地域には字地名「紫宸殿」「天皇」もあり、合田さんは7世紀後半に九州王朝の都がこの地に置かれた痕跡とされています。


第1544話 2017/11/25

『苫田郡誌』に見える「高良神社」

 「洛中洛外日記」1542話で紹介した『まいられぇ岡山』(山陽新聞社)に掲載されている高野神社(津山市、安閑天皇2年〔534〕)について調査してみました。
 津山市地方の昭和初期の記録に『苫田郡誌』(苫田郡教育委員会編集、昭和2年発行)があり、国会図書館デジタルライブラリーで同書を流し読みしたところ、高野神社の説明として次のように記されていました。

 「高野神社 所在 二宮村字高野
 彦波限建鵜草葺不合尊を祀り、大己貴命・鏡作尊を相殿となす。社傳によれば安閑天皇二年の鎮座と称せられ、(以下略)」(1004頁)

 社傳に「安閑天皇二年の鎮座」とあるとのことですから、神社には史料が残っていそうです。
 その『苫田郡誌』の神社の項目を読んでいますと、この地方にも「高良神社」「高良神」がありました。

 「田神社 所在 田邑村大字下田邑
 應神天皇・神功皇后を祀り、高良命を相殿となす。(以下略)」(1105頁)
 「高良神社 所在 高野村大字押入
 武内宿禰命を祀る。由緒不明」(1116頁)

 この他に、「高良神社」ではありませんが、欽明期創建と伝える神社が散見され、興味深い地域のように思われました。当地の研究者による多元史観での再検討が期待されます。


第1542話 2017/11/22

『まいられぇ岡山』(山陽新聞社)

      のピンポイント古代史

 昨日からの四国出張では、行きは明石大橋を渡り、帰りは瀬戸中央自動車道から山陽道を走っています。吉備SAに置かれていたパンフレットによれば、今年は山陽道全線開通20周年の節目とのこと。現在、「古田史学の会」で編集中の『古代に真実を求めて』21集の特集の一つが「多元史観による古代官道研究」ですが、ある研究では古代官道の距離と現代の高速道路の距離が近い数字を示すようです。古代も現代も移動効率や土木工学に基づくと、似たような経路となるのかもしれません。
 吉備SAでは『まいられぇ岡山』(山陽新聞社)という小冊子(86頁)をいただきました。副題が「神社仏閣を巡る」とあり、岡山県内の有名な寺社がカラー写真で紹介されているという優れものでした。山陽新聞社から本年6月に発刊されたもので、地元新聞社の強みを活かした冊子でした。
 わたしは岡山県や古代吉備の寺社に詳しくありませんので、短時間で読めて勉強になりました。一読しての感想は、8世紀創建の寺社が多く、九州王朝の時代、すなわち7世紀以前の創建寺社は年代が伝承されているものでは2件だけでした。もちろん、同冊子に掲載されていない寺社にも古い所があると思いますが、掲載されているのは千手山弘法寺遍明院(瀬戸内市、開山7世紀後半)と高野神社(津山市、安閑天皇2年〔534〕)でした。この他には有名な吉備津神社(岡山市)や吉備津彦神社(岡山市)などは創建年代不明とされています。
 千手山弘法寺遍明院の解説には「遍明院は東壽院とともに7世紀後半に天智天皇の勅願を受け、千手山弘法寺塔頭寺院として開かれた。弘法大師巡錫の地として知られる。」とありますから、もしかすると縁起書などには、創建年の表記に九州年号の「白鳳」が使用されているかもしれません。とりあえずスマホで検索調査してみると、「天智元年(662)」と紹介するサイトや「大化四年(648)、天智天皇の勅願」とするものがありました。「天智元年(662)」は白鳳2年に相当しますが、「大化四年(648)」では天智天皇の時代ではありません。九州年号の「大化4年」でも698年ですから、やはり天智期ではありませんから、不思議な表記です。やはり、縁起書など出典にあたる必要があります。ただ、いずれにしても九州王朝の時代ですから、その創建主体は天智天皇ではなく、九州王朝系の権力者の可能性がうかがわれます。
 高野神社創建年の記述として「安閑天皇2年(534)」とありますが、『日本書紀』によれば安閑天皇2年は535年なので、同冊子の誤植か、異伝なのかもしれません。仮に534年であれば、九州年号の「教到4年」に相当します。ここでも縁起書など原典にあたる必要があります。
 九州年号による岡山県の寺社伝承などを調査分析すれば、吉備の多元的古代が見えてくるかもしれません。


第1522話 2017/10/26

富山県に多い「野」さん

 「洛中洛外日記」1507話で現代日本の「野」地名として岐阜県揖斐郡大野町の字地名「野(の)」を紹介しました。それを「洛洛メール便」で読まれた御婦人(古田史学の会・会員)が、10月15日に東京家政学院大学で開催した講演会に見えられ、講演後に次のようなことを教えていただきました。
 その御婦人の友人に「野(の)」さんがおられ、北海道在住の方だがご先祖は富山県の出身とのこと。確かに北陸地方には珍しい姓の方がおられることは知っていましたが、「野」一字の姓があることは知りませんでした。ネットで調べると確かに「野」さんは富山県が最多のようでした。なぜ「野」さんが富山県に多いのかなど興味は尽きませんが、わたしの「洛中洛外日記」が多くの方にご注目いただき、こうした新情報が寄せられることに感謝しています。


第1507話 2017/09/24

倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名

 「洛中洛外日記」1505話「日本列島出土の鍍金鏡」で紹介した、岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳は野古墳群に属しています。わたしはこの「野古墳群」という名称に興味を持ち、地図などで調べたところ当地の字地名が「野(の)」でした。最初は「大野古墳群」の間違いではないかと思ったのですが、「野古墳群」でよかったのです。
 小領域の字地名とはいえ、「野」のような一字地名は珍しく、古代日本語の原初的な意味を持つ地名と思われ、古田先生が提唱された「言素論」の貴重なサンプルではないでしょうか。「野」の他には三重県津市の「津」も同様です。その字義は港でほぼ間違いなく、「野」は一定の面積を有す「平地」のことでしょうか。あるいは、そのことを淵源とした地名接尾語かもしれません。
 『三国志』倭人伝の国名に「奴」の字が使用されるケースが少なくないのですが、「奴国」などはその代表例です。この「奴」こそ、現代日本の地名にも多用される「野」に対応していると考えられます。従来の倭人伝研究では「奴」を「do」「na」と読んだり、中には「to」と読む論者もありました。残念ながら『三国志』時代の中国語音韻の復元はまだなされておらず、「奴」の音はいわゆる中古音に近い「no」か「nu」とする説が比較的有力と見られています。
 他方、日本列島内の地名と倭人伝国名との一致などから、現代日本語地名の読みが『三国志』時代の音韻復元に利用できそうであることを古田先生は指摘されていました。そうした中で、「洛中洛外日記」827話「『言素論』の可能性」でもご紹介した中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)の好著『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』(海鳥社、2014年)が出版され、倭人伝の「奴」は日本の地名に多用される「野(no)」に相当することを論証されました。古代中国語音韻研究の最新成果とも整合しており、この中村説は有力と思います。
 こうした古田学派内の研究成果にわたしは触れていましたので、岐阜県揖斐郡大野町の字地名「野」の存在を知ったとき、これこそ弥生時代まで遡る可能性が高い地名であり、「倭人伝」の「奴国」の「奴」と同義ではないかと思いました。その「野」と呼ばれた地域に「野古墳群」が存在することも、深い歴史的背景を有していたためであり、偶然ではないと思います。ちなみに、当地には「美濃」「大野」など「野(no)」地名が散見され、古代の「奴国」の一つではなかったでしょうか。倭人伝にも複数の「奴国」がありますが、弥生時代も現代も「の」あるいは「○○の」は一般地名化するほど普通に使用されたと思われます。(つづく)


第1416話 2017/06/07

天草と草津(滋賀県)の地名由来新考

 昨晩は鹿児島市のホテルに宿泊し、今朝は鹿児島空港行きの高速バスの車中で執筆しています。今日のスケジュールは超ハードで、宮崎・熊本・鹿児島の三県を巡回し、夜は天草のホテルで宿泊です。

 「洛中洛外日記」425話(2012/06/12)で「天草」の語源について考察したことがあります(下記に転載)。それは「あまくさ」の意味を、海(あま)の日(くさ)とする新説です。今でも有効な仮説と考えています。同様に滋賀県の「草津」の地名も、日(くさ)の津(つ)、すなわち「太陽の港」「朝日で照り輝く港」を意味するのではないかという作業仮説(思いつき)に至りました。
 この場合、この地名は草津側で命名されたものではないと考えられます。なぜなら、草津の住民にとって太陽は更に東側の山々から昇るものであり、自らの居住地(草津)を「太陽の港」などとは受け止められないからです。従って、もしこの作業仮説(思いつき)が正しければ、「日津(くさつ)」と命名したのは琵琶湖の対岸(西岸)の人々ではないかと思われます。その地域の人々であれば、朝日が琵琶湖の対岸(東岸)の草津方面から昇ることになり、草津を日(くさ)に照り輝く津(つ)と表現したとしても一応の理屈が通るからです。
 しかし、地名というものは誰かがそう呼んだからそう決まるというものではなく、周囲の誰もが納得できる理由や動機が必要です。そこでわたしは草津の琵琶湖対岸に、「くさつ」と命名した権力者が居たのであれば、その地名を周囲や当地の住民も納得せざるを得ないのではないかと考えました。
 それでは草津の琵琶湖対岸には何があるでしょうか。そうです。錦織遺跡(近江大津宮)です。ここにいた天子あるいは天皇が、自らの宮殿から見て東対岸の港方向から昇る朝日にちなんで、その港(津)を日(くさ)津(つ)と命名したのではないかと考えました。
 この草津の地名由来を「日津(くさつ)」とする作業仮説(思いつき)を学問的仮説として成立させるためには、少なくとも次の手続きが必要です。それは近江大津宮から朝日を見たとき、草津方面が日(くさ)の津、すなわち朝日に照り輝く港と呼ぶにふさわしいかどうかを実地検証する必要があります。
 そのことが確認できれば仮説として成立するのではないでしょうか。もちろんその場合でも一つの「仮説」ですから、検証や論争を経て、他の仮説よりも有力と認証されれば「有力仮説」となり、その考えが多くの人々に支持されたときに「定説」の地位を得ます。さて、今回のわたしの作業仮説(思いつき)はどのような運命をたどるのでしょうか。皆さんのご批判を心待ちにしています。

【転載】洛中洛外日記
第425話 2012/06/12
「天草」の語源

 第422話で紹介しましたように、先週、出張で天草に行ったとき、ふと考えたのが「天草」の意味でした。もちろん漢字は当て字で、「天にはえている植物」の意味ではないと思います。
 この疑問はわりと簡単に「解決」しました。「天(あま)」は「海」のことで、「草(くさ)」は太陽のことです。すなわち「あまくさ」とは「海の太陽」のことではないでしょうか。天草島の地理関係から考えると、「海に沈む夕日」が適切かもしれません。
 ちなみに、現在では上天草島や下天草島など全体を「天草」と称していますが、もともとは下天草島の西海岸側の一部の地名だったようです。ですから、そこは海に沈む夕日がきれいな絶景の観光スポットだと思いますし、「あまくさ」=「海の太陽」(が美しく見える地)という地名にぴったりです。ホテルでもらった観光案内パンフレットにも天草の紹介文として「東シナ海に沈む夕日が日本一きれいなところ」とありました。偶然とは思えない表現の一致です。
 「あま」が「海」というのはよく知られていますし、今も「海」を「あま」と読む地名は少なくありません。しかし、「くさ」が何故「太陽」なのか疑問に思われる方もおられると思います。
 実は昔、古田先生から教えていただいたことなのですが、「日下」を「くさか」、「日下部」を「くさかべ」と訓むように、「日」のことを古代日本では「くさ」と訓んでいたのです。すなわち、太陽のことを「くさ」」と訓んだ時代や人々が日本列島にあったのです。
 「あまくさ」の語源に対応した正確な漢字を当てるとすれば、「海日」ではないでしょうか。「海に沈む夕日が美しい島」、天草は古代史研究(装飾壁画古墳)でも重要な島なのですが、そのことは別の機会にふれたいと思います。