万葉集一覧

第3199話 2024/01/12

古田史学の万葉論 (5)

  ―天香具山豊後説の論証―

 古田万葉論の中でも、際だった新説が天香具山=豊後国の鶴見岳説でした。従来の万葉学では、天香具山とあれば大和飛鳥の香具山のこととして歌を解釈してきました。その結果、万葉歌(巻一、二番歌)に見える天の香具山はかなり無理無茶な解釈が横行していました。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は 《『万葉集』巻一、二番歌》

 古田先生は万葉歌理解の基本的認識に基づいて、「歌」と「題詞」を切り離し、「歌」そのものの内容から、この歌の舞台を豊後の別府湾近辺(旧名は『和名抄』に「海部郡 安萬」とある)とされ、天の香具山を鶴見岳(標高1375m)とする新説に至りました。詳細は『古代史の十字路』(注①)の第三章「豊後なる『天の香具山』の歌」に記されていますので、興味のある方は同書をご覧下さい。古田先生の疑問点は次のようでした。

〈1〉「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山」とあるが、大和の他の諸山と比べて、飛鳥の香具山は特段に「群山あれど とりよろふ」(意味不詳)と歌うほどの特徴ある山ではない。むしろ周囲との比高約50メートルに過ぎない低山(標高152メートル)である。従って、同歌の「天の香具山」を奈良県飛鳥の香具山とするのは無理だ。
〈2〉しかも、飛鳥の香具山は、「天の香具山 登り立ち 国見をすれば」とあるような、国見をするに相応しい山とは言い難い。
〈3〉「海原は 鷗(かまめ)立ち立つ」とあるのも、不審。香具山に登っても海は見えないし、鷗が飛んでいるとも思えない。奈良盆地に海はなく、当地で詠めるような内容ではないのだ。従来の解釈では、「鷗」をユリカモメのこととするが、様々な池で「鷗」の存在を歌う例は『万葉集』にはない。
〈4〉従来説では、「海原」を香具山の近くの埴安池(1200㎡)と解釈するが、そのような〝ため池〟を「海原」と歌う例も『万葉集』にない。

以上のことから、この歌の「天の香具山」は奈良県飛鳥の香具山ではないとされ、この歌の情景に相応しい地を探されました。そして、次の論証と傍証により、豊後の鶴見岳が最も相応しいとする仮説に至ります。

〈5〉「天の香具山」とあることから、そこは「アマ」と呼ばれた領域である。
〈6〉「蜻蛉(あきづ)島 大和の国は」とあり、これは『古事記』の国生み神話に出現する「大倭豊秋津島」ではないか。「豊」は豊国であり、大分県。秋津は「安岐」の津であり、別府湾に相当する。豊後国の古名が「安萬(あま)」である。こうしたことを『盗まれた神話』(注②)で論証した。別府市内には「天間(あまま)区」(旧、天間村)という地名もある。
〈7〉「海原は 鷗(かまめ)立ち立つ」という表現も別府湾岸であれば、問題ない。
〈8〉この地であれば、別府温泉の湯が「煙」となって立ち上っており、「国原は 煙立ち立つ」という表現がピッタリである。
〈9〉当地には国見をするに相応しい山がある。鶴見岳だ(標高1375メートル)。「天の香具山 登り立ち 国見をすれば」と歌われているように、「国見」が可能な名山である。更に、別府市天間区には「登り立(のぼりたて)」という小字地名も遺存しており、鶴見岳を「天の香具山」とする理解の傍証となっている。
〈10〉鶴見岳には「火男火女(ほのおほのめ)神社」があり、ご祭神は主に「火(ほ)の迦具土(かぐつち)命」である。「火(ほ)」は鶴見岳が火山であることに由来し、「土(つち)」は「津」(港)の「ち」(神の古名)を意味する。語幹は「迦具(かぐ)」であり、この神を祭る鶴見岳は「天(安萬)の香具(かぐ)山」と呼ばれるに相応しい。

 古田先生の論証は更に詳細を究めるのですが、これほどの論証を尽くして、 「天の香具山」豊後国鶴見岳説を提唱されたのです。従来の万葉学では、「天の香具山」とあれば条件反射の如く、奈良県飛鳥の香具山と理解し、それにあわせるためには無理無茶な解釈もいとわなかったことと比べれば、古田万葉論がいかに学問的に優れた、ある意味で極めて常識的・合理的な文献理解に立ったものであるかがわかります。

 この「天の香具山」多元説が一旦成立すると、『万葉集』などに見える「天の香具山」が、どの山を指しているのかという基本作業(史料批判)が全ての研究者に要求され、新たな万葉学(文献史学としての万葉歌の新解釈)がここから成立します。まさに〝新時代の万葉学〟誕生です。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代史の十字路 ―万葉批判―』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3188話 2023/12/27

古田史学の万葉論 (4)

   ―豊後の天香具山―

 古田万葉論では、万葉集の「歌」そのものは第一史料であり、その作者が作った直接史料、すなわち同時代史料です。他方、歌の「題詞」つまり前書きや歌のあとに付せられた解説は、万葉集が編集された時点、つまり「歌」そのものから見れば「後代」の認識をしめす「後代史料」ないし「第二史料」です。この基本認識に基づいて、古田先生は従来の万葉学の常識を次から次へとくつがえす新説を発表されました。その中でも際だった新説が天香具山=豊後の鶴見岳説でした。
従来の万葉学では、天香具山とあれば大和飛鳥の香具山のこととして、誰もが疑わなかったと言ってもよいでしょう。ところが次の万葉歌(巻一、二番歌)に見える天の香具山は、とても大和飛鳥の風景とは思えず、かなり無理無茶な解釈が横行していました。

 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は 《『万葉集』巻一、二番歌》

 歌の前文にある「題詞」には、「高市岡本宮に天の下知らしめしし天皇の代 息長足日廣額天皇(舒明天皇)」「天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌」とあるため、この歌は舒明天皇の御製とされ、従って大和明日香の歌とされてきました。しかし、大和明日香に「海原」はありませんし、「鷗」も飛んでいません。すなわち、第一史料たる「歌」と後代の第二史料たる「題詞」の内容が矛盾しているのです。そこで、古田先生は先の万葉歌理解の基本的認識に基づいて、「歌」と「題詞」を切り離し、「歌」そのものの内容から、この歌の舞台を豊後の別府湾近辺(旧名は『和名抄』に「海部郡 安萬」とある)とされ、天の香具山を鶴見岳(標高1375m)とする新説に至りました。

 その論証の詳細は『古代史の十字路』(注)の第三章「豊後なる『天の香具山』の歌」に記されていますので、是非、お読みください。(つづく)

(注)古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3187話 2023/12/24

古田史学の万葉論 (3)

  元暦校本と学問の方法

 古田万葉論には際だった特徴があります。『万葉集』を歴史研究の史料として扱うため、同書写本間の異同を調べ、最も原形を保っている写本を採用するという史料批判を最初に行っていることです。これは文献史学では当然の手続きですが、この学問の方法を『万葉集』にも採用されました。そして、元暦校本が最も優れた写本として、研究に使用されたのです。このことが『古代史の十字路』(注①)で次のように記されています。

 〝ところが幸いにも、万葉集には「元暦(げんりゃく)校本、万葉集」と呼ばれる、すぐれた古写本が残されている。元暦とは、「一一八四~一一八五」〟平安時代の末だ。万葉のすべてではないけれど、かなりの大部を占める。この元暦校本を中心とする万葉集古写本の原姿、それを徹底して重んずる、これがわたしの基本の立場である。〟同書7頁。

 古田先生の古代史の第一著『「邪馬台国」はなかった』(注②)で、『三国志』写本の中で最も原本の姿を留めている紹熙本を採用したことを説明されました。これと同一の学問の方法を『万葉集』でも採用されたのです。そして、『三国志』と『万葉集』の史料性格の違いについて次のように説明しています。

 〝三国志の場合、その全体が同一の著者の筆にによって書かれていた。わたしの尊敬する歴史家陳寿がその人である。それ故、その全体を「三世紀の同時代史料」として取り扱うことができた。彼は、三世紀、西晋朝の史官である。魏志倭人伝も、もちろんその中の一篇だった。倭人伝は文字通り、三世紀における同時代史料、いいかえれば「第一史料」の性格をもっていたのである。(中略)

 この点、万葉集の場合は、ちがっている。なぜなら、「歌」そのものは、第一史料だ。その作者が作ったもの、“作者の息吹の結晶”とも言うべき直接史料だ。すなわち、同時代史料なのである。歴史学の研究者としてのわたしの目から見れば、それはすぐれた「史料」なのだ。

 ところが、歌の「題詞」つまり前書きや歌のあとに伏せられた解説、つまり後書きといったもの、これらはちがう。万葉集が編集された時点、つまり「歌」そのものから見れば「後代」の認識をしめす。つまり、直接史料、ないし第一史料ではなく、「後代史料」ないし「第二史料」なのである。この区別こそが肝心だ。
もちろん、歌の作者自身が「題詞つき」で歌を作ったケースも存在しよう。たとえば、万葉集の後半に多い、大伴家持の歌などはそう感ぜさせられるものが少なくない。

 しかし、そのような「見地」が、先立つ多くの万葉集の歌々にもまた“適用”されうる、という保証は全くない。従って、「史料」としての歌を取り扱うための基本条件、それは右にのべたように
(A)歌そのものは、第一史料(直接史料、同時代史料)
(B)前書きや後書きは、第二史料(間接史料、後代史料)
と見なさなければならぬ。〟前掲書8~9頁。

 ここに示された学問の方法こそ、古田万葉論の基本をなすものです。残念ながら、古田学派の論者の中には、〝「歌」は史料として採用できるが、「題詞」は信用できない〟と、古田先生の学問の方法を単純化した、不正確な理解も散見されます。第一史料である「歌」が第二史料の「題詞」などより優先しますが、両者間に矛盾がなければ、第二史料もエビデンスとして採用することができますので、留意が必要です。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3185話 2023/12/21

古田史学の万葉論 (2)

    古田武彦の万葉三部作

 古田先生には古田史学「初期三部作」と呼ばれている有名な著作があります(注①)。また、晩年に著された「万葉三部作」(注②)もあります。その概要について説明した拙稿「古田武彦氏の著作と学説」(注③)より、当該部分を転載します。

【『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)より転載】

五.古田史学万葉三部作の画期

○『人麿の運命』原書房 平成六年(一九九四)
○『古代史の十字路』東洋書林 平成十三年(二〇〇一)
○『壬申大乱』東洋書林 平成十三年(二〇〇一)

 日本古代史研究において『万葉集』を史料根拠とすることは難しく、他方、古代文学作品として国語学や音韻学の分野からのアプローチが「万葉学」として盛んに研究されてきました。古田先生も史料根拠として限定的に『万葉集』を取り扱われたことはありましたが、この万葉三部作により、本格的な『万葉集』研究と史料批判の方法を確立されました。

 『人麿の運命』では柿本人麿が九州王朝の歌人であったとされ、九州王朝『万葉集』の復元に挑戦されました。『古代史の十字路』では本格的な万葉批判を行われ、まず『万葉集』元暦校本が最も優れた写本であり、それに基づいての史料批判を進められました。そして、題詞や左注は『万葉集』編纂時点に付された後代史料であり、歌本文は作者が詠んだ一次史料(同時代史料)であり、題詞と歌本文に齟齬や矛盾がある場合は、歌本文を優先させなければならないとされました。その方法論により、天の香具山は大分県の鶴見岳であり、雷山は糸島半島の雷山であったことなどを発見されました。

 『壬申大乱』では、佐賀県「吉野」説や筑紫の「飛鳥」説など従来説を覆す新説を発表されました。その結果、『日本書紀』の「壬申の乱」が造作であり、史実は九州から東海までの西日本全体を舞台とする「壬申大乱」であったとされたのです。「壬申の乱」は研究者や作家が多くの論稿や作品を発表してきましたが、古田先生は一貫して慎重な姿勢を崩されませんでした。なぜなら、『日本書紀』の「壬申の乱」の記事は詳しすぎて、逆に史実かどうか信用できず、そのまま史実として取り扱うのは学問的に危ないとされました。真の歴史家の史料を見る目の凄さを感じさせる慎重さでしたが、『万葉集』の史料批判の方法を確立され、ようやく「壬申の乱」を研究テーマとして取り上げられ、『壬申大乱』を発表されたのです。こうした古田先生の学問的慎重さも、わたしたちは学ばなければなりません。
【転載終わり】
(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『壬申大乱』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古賀達也「古田武彦氏の著作と学説」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第3184話 2023/12/20

古田史学の万葉論 (1) 序

 先日の「古田史学の会」関西例会で発表された、大原重雄さんによる万葉28番歌の新解釈(注①)を発端として、「洛中洛外日記」で同28番歌の拙論(注②)などを紹介しました。良い機会でもあり、古田先生の万葉論の再勉強を兼ねて、古田史学における『万葉集』批判や学問の方法などについて紹介することにします。

 わたしの見るところ、古田学派における『万葉集』研究には優れた論稿もありますが、他方、「ああも言えれば、こうも言える」(注③)ような論者の主観に基づく解釈に終始し、学問的論証の成立が不十分不適切な論稿も少なくないように思われます。わたし自身も、古田万葉論は難解で、若い頃は十分に理解できませんでした。今でも、歌の主観的解釈と、学問としての客観的解釈の区別を曖昧に理解しているケースがあり、『万葉集』を文献史学のエビデンスとして使用することの難しさを感じています。

 そこで、古田万葉三部作(注④)を紐解きながら、古田万葉論について一つずつ勉強しなおします。長い連載となりそうですが、しばらくお付き合いください。(つづく)

(注)
①大原重雄〝持統の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと〟「古田史学の会」関西例会、12月16日。久冨直子さんとの共同研究。
古賀達也「洛中洛外日記」3181話(2023/12/17)〝万葉28番歌の新解釈〟
②同「洛中洛外日記」3183話(2023/12/19)〝「春過ぎて夏来たるらし」の“季語(風物詩)”〟
③中小路俊逸氏(追手門学院大学教授・国文学。故人)の言葉「ああも言えれば、こうも言えるというようなものは論証ではありません」がある。
古賀達也「洛中洛外日記」1427話(2017/06/20)〝中小路駿逸先生の遺稿集が発刊〟
④古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『壬申大乱』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3183話 2023/12/19

「春過ぎて夏来たるらし」の

      〝季語(風物詩)〟

 先日の「古田史学の会」関西例会で、大原さんの発表〝持統の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと〟にて紹介された、『万葉集』28番歌の「~らし」の用法についての毛利正守氏の研究(注①)は特に勉強になりました。

 春過ぎて夏来たるらし 白たえの衣ほしたり 天の香具山

 毛利論文によれば、「春過ぎて夏来たるらし」の「らし」に続く言葉として、春が過ぎて夏が来たことを象徴する自然物でなければならず、『万葉集』に見える「~らし」の用法全14首において、28番歌を除く13首が自然物「梅の花、木末(こぬれ)、鶯、霞、なでしこの花、ひぐらし」であるのに対して、この28番歌だけが季節感に乏しい「白妙の衣」であり、特異な一首とされています。

 こうした視点での史料批判が萬葉学の分野でなされていることを知り、わたしが25年前に発表した同歌の解釈「染色化学から見た万葉集 紫外線漂白と天の香具山」(注②)も、同様の問題意識に端を発していたことを改めて認識することができました。拙論では、同歌を初夏の風物詩となっていた「白妙の衣の紫外線漂白(晒し)」の歌としました。すなわち、「~らし」の用法に対応する初夏の風物詩(自然物ではないが、初夏のおとずれを表す古代の人々の営み)と理解するものです。当仮説は繊維加工の業界紙『月刊加工技術』(注③)にも掲載されましたので、転載します。

(注)
①毛利正守「持統天皇御製歌 巻一・二十八番歌をめぐって」『万葉』211号、萬葉学会、2012年。
②古賀達也「染色化学から見た万葉集 — 紫外線漂白と天の香具山」『古田史学会報』26号、1998年。
③同「古代のジャパンクオリティー2 万葉集の中の紫外線漂白」『月刊加工技術』6月号、2015年。

【転載】古代のジャパンクオリティー 2

万葉集の中の紫外線漂白

古賀達也(古田史学の会・編集長)

 万葉集には天皇から庶民に至るまでの歌が約4500首以上も収録されている。しかもその歌の意味がわたしたち現代人にも理解できるというのだから、これはすごいという他ない。世界的に見ても、古代(8~9世紀)の言葉や歌が21世紀の国民にも理解できるというのは奇跡的であろう。これは日本列島では言語を異にする異民族による侵略支配という歴史がなかったことによる。周囲を海に囲まれ、交流が可能な程度に大陸とは適度に離れており、かつ国民性が穏やかで国土も豊かだったのである。
その万葉集に繊維漂白(晒し)の歌があることをご存知だろうか。たとえば次の歌だ。

 多摩川に さらす手作りさらさらに 何ぞこの児の ここだ愛(かな)しき  武蔵の国の歌(3373番歌)

 大意は、多摩川に晒す手作りの布がサラサラと美しく流れるように、なぜこの娘がこんなにかわいいのだろうか、というもの。川で麻布を晒す作業をしている乙女が何と可愛いことかと、男性が女性を想う歌と解されている。多摩川での晒し作業は、調布とか麻布という地名が今も残っているように、古代から盛んであった。
次の歌も有名だ。持統天皇(女帝、在位690~697年)が飛鳥の藤原宮で詠んだ歌とされる。

 春過ぎて 夏きたるらし 白たえの 衣ほしたり 天の香具山  持統天皇(28番歌)

 国文学界では「春が過ぎたら夏が来るのは当たり前、くどい」と酷評されることもある歌だ。しかし、繊維加工という視点から見ると、古代のジャパンクオリティーを読み込んだ名歌となる。なぜならこの歌は単に洗濯物を干している歌ではない。洗濯するのに季節は関係ないのに、わざわざ「春過ぎて 夏来るらし」と季節を限定しているのには理由があるはずだ。すなわち、その時季に行う紫外線漂白(晒し)の歌なのである。

 紫外線エネルギーは色素を分解するため、染色された衣服にとって好ましくない。しかし、白い衣服であれば適切な量の紫外線により漂白効果が得られる。その適切な量の紫外線こそ、「春過ぎて夏来るらし」の頃の太陽光なのだ。夏の強烈な日射しでは強すぎるし、水分蒸発も早すぎて、紫外線エネルギーによるオゾン発生の前に衣は水分を失ってしまう。だから、この季節が最も紫外線漂白に適していることを古代の人々は経験的に知っていたのだ。

 こうした科学的理解に立ったとき、先の万葉歌は古代人の知恵を読み込んだ、絶妙の歌として蘇る。なお、藤原宮からは香具山は遠すぎて、干した衣など見えないので、この歌は藤原宮で持統天皇が詠んだものではないとする説もある(古田武彦説)。


第3181話 2023/12/17

万葉28番歌の新解釈

 昨日、東淀川区民会館で「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回、1月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。関西例会としては初めて使用する会場ですので、ご注意下さい。
今回も興味深い発表が続きました。中でも大原さんの〝持統の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと〟は持統天皇の『万葉集』28番歌の新解釈です(久冨直子さんとの共同研究)。

春過ぎて夏来たるらし 白たえの衣ほしたり 天の香具山

 この歌の「白たえの衣」とは、対馬北部の鰐浦に群集するヒトツバタゴ(別名:ウミテラシ・ナタオラシ・ミズイシ)の花を例えたもので、春になると辺り一面が真っ白になるような花を咲かせるとのこと。なぜそのように言えるのかを傍証を示して論じた研究で、「洗濯物を山に干したりしない」という久冨さんの説明には一理あると思いました。

 この万葉歌は国文学でも「春過ぎて夏来たるらし」という表現が冗長とする意見もあり、評価が分かれていました。古田先生もこの歌の「天の香具山」を大分県の鶴見岳とする新説を発表されています(注①)。わたしも25年前にこの歌の解釈について論文「染色化学から見た万葉集 紫外線漂白と天の香具山」を発表したことがありましたので(注②)、懐かしく思いました。正木さんも同歌について〝「春過ぎて夏来たるらし」〟(注③)を発表されており、古田学派内でも以前から注目された万葉歌でした。

 12月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔12月度関西例会の内容〕
①国譲りの真相 (大阪市・西井健一郎)
②「中天皇」に関する考察 (茨木市・満田正賢)
③古墳時代のDNA分析結果に当惑する研究者たち NHKフロンティア「日本人とは何者なのか」 (大山崎町・大原重雄)
④持統の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと (大山崎町・大原重雄)
⑤続「倭京」と多利思北孤 顕現する「オホキミ」のシルエット (東大阪市・萩野秀公)
⑥NHK[歴史探偵]「白村江の戦い」の虚構 (川西市・正木 裕)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
01/20(土) 会場:豊中倶楽部自治会館
☆01/21(日)は新春古代史講演会(キャンパスプラザ京都)を開催します。

(注)
①古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、2001年。
②古賀達也「染色化学から見た万葉集 紫外線漂白と天の香具山」『古田史学会報』26号、1998年。
同「古代のジャパンクオリティー2 万葉集の中の紫外線漂白」『月刊加工技術』6月号、2015年。
③正木 裕「『春過ぎて夏来たるらし』考」『古田史学会報』119号、2013年。

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古田史学の会東淀川区民会館2023.12.16

12月度関西例会発表一覧
(ファイル・参照動画)

YouTube公開動画です。

1,国譲りの真相
(大阪市・西井健一郎)

https://www.youtube.com/watch?v=s0TRJE932Xc
https://www.youtube.com/watch?v=5GTIUSyVS8k
https://www.youtube.com/watch?v=AECnF7YCakA

2,中天皇に関する考察
(八尾市・満田正賢)

https://www.youtube.com/watch?v=F8d2usA_xzM

 

3,古墳時代のDNA分析結果に当惑する研究者たち

      (大山崎町・大原重雄)

このYouTube動画のみ、アドレスの限定公開です。

https://www.youtube.com/watch?v=1MsqLYIr8vU

https://www.youtube.com/watch?v=inlUjT3UBe0

4,持統の白妙の衣は対馬の鰐浦の白い花のこと
(大山崎町・大原重雄)

https://www.youtube.com/watch?v=kS9CXSgqMus

https://www.youtube.com/watch?v=qOP0ey4w01E

5,顕現するオホキミのシルエット
(東大阪市・萩野秀公)

https://www.youtube.com/watch?v=EqqkCkC3MAs

https://www.youtube.com/watch?v=i5MTbdKpVCc

 

6,NHK歴史探偵「白村江の戦い」の虚構
(川西市・正木裕)

https://www.youtube.com/watch?v=r3BDW54K-lA

https://www.youtube.com/watch?v=7b20VarMXL4

準備中https://www.youtube.com/watch?v=0rUjBYkgAQw


第2734話 2022/05/01

『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」 (3)

 『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」が藤原定家の筆跡になるものとする大久間喜一郎氏の論文(注①)を紹介しましたが、仮名序には柿本人麿についての不思議な記述があります。それは人麿の位階を「おほきみつのくらゐ」(正三位のこと)としていることです。

 「(前略)いにしへより、かくつたはるうちにも、なら《文武天皇》の御時よりぞ、ひろまりにける。かのおほむ世や、哥のこゝろをしろしめたりけむ。かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける。これは、きみもひとも、身をあはせたりといふなるべし。(後略)」日本古典文学大系『古今和歌集』仮名序、98~99頁

 正三位は諸王・諸臣の位階に相当し、臣下としては高位です。『万葉集』に見える人麿の姓(かばね)は朝臣(柿本朝臣人麿)であり、天武紀に見える八色の姓(注②)の真人に次ぐ2番目の姓です。真人であれば正三位は妥当かもしれませんが、朝臣である人麿にはやや不適切な位階ではないでしょうか。ちなみに、日本古典文学大系『古今和歌集』の頭注では仮名序の「おほきみつのくらゐ」に対して次のように解説しています。

 「おほきみつのくらゐ ― 正三位。柿本人麿は、万葉集では、持統天皇・文武天皇の時代の人で、身分は六位以下であったろうと考えられている。」日本古典文学大系『古今和歌集』98頁

 このように朝臣姓の人麿は六位以下と考えられています。従って、仮名序に記された正三位という位階は『万葉集』の朝臣姓とは異なる情報に基づいたものと思われます。また、この「おほきみつのくらゐ」の部分には傍注は付されていませんから、定家も特に疑問視していなかったのではないでしょうか。
 ここで注目されるのが、「洛中洛外日記」(注③)で紹介した『柿本家系図』の系譜冒頭の「柿本人麿真人」と由緒書中の「柿本氏ハ 八色姓ノ 第一位ニシテ 人麿ニ 賜リシを真人姓ナリ」という記事です。この「真人」姓であれば、正三位は妥当です。例えば天武天皇の和風諡号は天渟中原瀛真人天皇とされています。また遣唐使として唐に派遣された粟田朝臣真人も名前に真人を有しており、最終的な位階は正三位まで上り詰めています。
 ここからは全くの推測ですが、人麿の没年記事(注④)が九州年号の大長四年丁未(707)で記されていることから、真人の姓(かばね)や正三位の位階は九州王朝(倭国)から与えられたものかもしれません。そうした九州王朝系史料に遺された人麿伝承が、『古今和歌集』仮名序の「おほきみつのくらゐ」や『拾遺和歌集』の渡唐伝承(注⑤)のように、平安時代になると世に出始めたのではないでしょうか。そして、そのような九州王朝系伝承に基づいて記されたのが『柿本家系図』かもしれません。

(注)
①大久間喜一郎「平安以降の人麿」『人麿を考える』万葉夏季大学13、上代文学会編、昭和61年(1986)。
②天武十三年条に見える八色の姓(やくさのかばね)は、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の八つの姓の制度。
③古賀達也「洛中洛外日記」2699~2711話(2022/03/14~04/03)〝柿本人麻呂系図の紹介 (1)~(8)〟
④『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2707話(2022/03/26)〝柿本人麻呂系図の紹介 (6) ―人麻呂の渡唐伝承―〟


第2732話 2022/04/29

『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」 (2)

 『古今和歌集』には仮名漢字書きによる仮名序と漢文による真名序があり、いずれにも柿本人麿の名前が見えます。わたしが人麿研究において注目したのが仮名序にある不思議な傍注でした。日本古典文学大系『古今和歌集』によれば、仮名序の次の記事中の「ならの御時」部分に「文武天皇」という傍注(《文武天皇》の部分)があります。

 「(前略)いにしへより、かくつたはるうちにも、なら《文武天皇》の御時よりぞ、ひろまりにける。かのおほむ世や、哥のこゝろをしろしめたりけむ。かのおほん時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、哥のひじりなりける。これは、きみもひとも、身をあはせたりといふなるべし。(後略)」日本古典文学大系『古今和歌集』98~99頁

 その傍注「文武天皇」の解説が同書頭注に記されています。

 「ならの御時よりぞ ― あとの方の『かの御時よりこの方、としはもゝとせあまり、世はとつぎになむなりにける』という『かの御時』が、この『ならの御時』であるとすると、第五十一代平城天皇ということになるが、柿本人麿や山部赤人のいた時代ということになると、持統天皇・文武天皇・聖武天皇などを考えなければならなくなる。」同書98頁頭注

 延喜五年(905)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』の仮名序に「ならの御時」とあれば、それは平城天皇(治世806~809年)の御時となるのですが、柿本人麿・山部赤人の頃であれば、持統天皇・文武天皇・聖武天皇などの御時と考えなければならないという解説です。これと同様の理解をした後代の人物が、「ならの御時」の天皇に対して「文武天皇」と傍書したものと思われます。その傍書した人物についての説明が見当たらないので、わたしは気になっていました。
 確かに「平城の御時」とあれば普通は平城天皇を思い浮かべます。これが奈良時代(平城京の時代)であれば、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁と桓武の各天皇が対象となり、傍注の「文武天皇」は含まれません。従って、この傍注の筆者は「ならの御時」を柿本人麿の時代のことと認識したうえで、その時代の天皇として「文武天皇」と注記したと思われます。すなわち、人麿の生きた時代の代表的天皇、あるいは没したときの天皇が文武と認識していたのではないでしょうか。わたしは後者の可能性が高いと考えています。というのも、『古今和歌集』や『万葉集』の読者であれば、人麿の歌が詠まれた時代の天皇は文武だけではなく持統も含まれていると知っていたはずだからです。従って、「持統天皇 文武天皇」ではなく、「文武天皇」とだけ注記していますから、人麿が没したときの天皇として注記したのではないでしょうか。
 ところが人麿の没年については『日本書紀』『続日本紀』をはじめ『万葉集』や『古今和歌集』にも記されておらず、現代の通説でも没年は不明とされています。ですから傍注筆者は文武天皇の時代とする情報を持っていたと考えざるを得ません。わたしは人麿の没年を九州年号の大長四年丁未(707)と考えていますので(注①)、この年であれば文武天皇の最晩年(慶雲四年)ですから、傍注筆者の認識は正しいことになります。もう少し正確に言いますと、大長四年三月十八日没(注②)であり、同年六月に文武は崩御していますから、人麿の没年を文武天皇の治世のときとする傍注筆者の認識は正確だったわけです。
 そこで、このような情報を持っていた傍注筆者とはどのような人物なのかが気になっていたのです。ところが昨日、偶然にもご近所の古書店で入手した『人麿を考える』(注③)に収録された大久間喜一郎氏の「平安以降の人麿」にこの傍注のことが触れられており、その筆者について「恐らく定家の筆跡と見られる」とされていたのです。『明月記』の作者としても著名な藤原定家(1162~1241年)は『古今和歌集』の校訂者としても知られています。日本古典文学大系『古今和歌集』の解説には、「定家本は定家の校訂した本であるが、世間に広く用いられている。」(61頁)とあります。もし、大久間氏の推定が正しければ、定家は人麿の没年を知っていたことになり、もしかすると九州年号による「大長四年丁未」という史料を見ていたのかもしれません。(つづく)

(注)
①『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
②古賀達也「洛中洛外日記」2711話(2022/04/03)〝柿本人麻呂系図の紹介 (8) ―石見国益田家の「柿本朝臣系図」―〟
③『人麿を考える』万葉夏季大学13、上代文学会編、昭和61年(1986)。


第2731話 2022/04/28

『古今和歌集』仮名序傍注の「文武天皇」 (1)

 柿本人麿の名前が『古今和歌集』の仮名序にあるのですが、そのことについて少し触れることにします。以前、わたしは『古今和歌集』の古写本について調査したことがありました(注①)。
 阿倍仲麻呂の有名な歌「天の原 ふりさけみれば春日なる みかさの山に いでし月かも」が、『古今和歌集』古写本(注②)では「天の原 ふりさけみれば春日なる みかさの山を いでし月かも」となっていることから、仲麻呂は「みかさの山(の上)に」出た月ではなく、「みかさの山を」とあるように、みかさ山から出た月を歌ったとする研究を古田先生と行いました。その結果、奈良の御蓋山では低すぎて(標高約283m)、月は後方の春日山連峰から出るので、仲麻呂が歌った「みかさ山」は太宰府の三笠山(宝満山、標高829m)のこととしました。
 このときの『古今和歌集』写本調査の経験もあって、柿本人麿系図の研究で気づいたのが同集仮名序に傍記されている「文武天皇」の四文字でした。(つづく)

(注)
①「みかさ山と月」に関しては次の拙稿や「洛中洛外日記」で論じた。
 「平城宮朱雀門で観月会 — みかさの山にいでし月かも??」『古田史学会報』28号、1998年10月。
 「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年4月。
 〔再掲載〕「『三笠山』新考 — 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年6月。
 「三笠の山をいでし月 -和歌に見える九州王朝の残映-」『九州倭国通信』193号、2019年1月。
 「九州王朝説で読む『大宰府の研究』〝凍りついた発想〟大和朝廷一元史観の「宿痾」〈前編〉」『九州倭国通信』195号、2019年5月。
 「九州王朝説で読む『大宰府の研究』〝凍りついた発想〟大和朝廷一元史観の「宿痾」〈後編〉」『九州倭国通信』196号、2019年7月。
 「洛中洛外日記」第731話(2014/06/19)〝「月」と酒の歌〟
 「同」第1733話(2018/08/27)〝杉本直治郞博士と村岡典嗣先生(1)〟
 「同」1842話(2019/02/20)〝九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)〟
②延喜五年(905)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』は、貫之による自筆原本が三本あったとされているがいずれも現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本の存在が知られている。一つは前田家尊経閣文庫所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、一一七七年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。また、教長本は「みかさの山を」と書かれており、これもまた新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる。


第2720話 2022/04/14

万葉歌の大王 (8)

 ―「遠の朝庭」と「筑紫本宮」―

 本シリーズの発端となった人麿の歌「大王の遠の朝庭(みかど)」(注①)について、わたしは次のように理解しました。

(ⅰ) 「朝庭」を筑紫の朝庭とする古田先生の理解(注②)は正しい。
(ⅱ) 「大王」は「遠の朝庭」(太宰府)から遠く離れた地にいる。
(ⅲ) 「大王の遠の朝庭」とあるからには、「遠の朝庭」は「大王」の「朝庭」である。
(ⅳ) この歌の時代が七世紀であれば、「大王」も「遠の朝庭」も九州王朝(倭国)のことと考えざるを得ない。
(ⅴ) 八世紀の歌であれば大和朝廷の「大王」(天皇)のこととなるが、筑紫(太宰府)に大和朝廷が自らの「朝庭」を置いたことはない。
(ⅵ) 従って、「遠の朝庭」は筑紫にある九州王朝の「朝庭」のことであり、「大王」は九州王朝の天子であり、このとき筑紫から遠くはなれた〝近つ朝庭(みかど)〟とでも言うべき所に九州王朝の「大王」(天子)はいたと考えられる(注③)。
(ⅶ) 以上ような、この歌の解釈に整合するのが九州王朝の両京制(注④)という概念である。

 この両京制の両京とは、筑紫太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)のことですが、朱鳥元年(686)の前期難波宮焼亡後は太宰府(倭京)と藤原京になるのかもしれません。ここで思い起こされるのが、「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟などで紹介(注⑤)した『二中歴』「都督歴」に見える次の記事です。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」〈古賀訳〉

 鎌倉時代初期に成立した『二中歴』に収録されている「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前の「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としています。
 また、ここに見える「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記であり、「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えました。しかし、「本宮」に対応するのは「新宮」とした方がよいことに気づきました。たとえば、「本薬師寺」と「新薬師寺」のようにです。七世紀前半(九州年号の倭京元年、618年)に造営された太宰府条坊都市(倭京)が「筑紫本宮」であれば、七世紀中頃(九州年号の白雉元年、652年)に造営された前期難波宮(難波京)を「難波新宮」とするのは極めて妥当です。
 なお、この両京制は、首都とその代替・予備都市としての副都というよりも、権威の都(倭京・筑紫本宮)と権力の都(難波京・難波新宮)のように、評制による全国統治のための機能分離によるものとわたしは理解しています。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻三 304
 大君(大王)の 遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば 神代し思ほゆ
[題詞] 柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首
[原文] 大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
②古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「近つ飛鳥」「遠つ飛鳥」、「近つ淡海」「遠つ淡海」のように、「遠」に対応するのは「近」であることから、「遠の朝庭」に対応するのは「近つ朝庭」である。すなわち、「近つ朝庭」の存在がなければ、「遠の朝庭」という表現は成立し難いのではあるまいか。
④古賀達也「洛中洛外日記」2663~2681話(2022/01/16~02/11)〝難波宮の複都制と副都(1)~(10)〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟
 同「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 同「『都督府』の多元的考察」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。


第2719話 2022/04/13

万葉歌の大王 (7)

 ―八世紀の「大王」と「天皇」―

 万葉歌には「天皇」が使用されている歌があります。次の人麿の歌です。題詞によれば、日並皇子(草壁皇子)が亡くなったときに詠んだもので、持統三年(689)のことになります。

【『万葉集』巻二 0167】(注①)
 天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて [一云 天雲の八重雲別きて] 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろき(天皇)の 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ [一云 神登り いましにしかば] 我が君(王) 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも [一云 さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす]

「すめろきの 敷きます国」の原文は「天皇之 敷座國」です。また、「飛ぶ鳥の 清御原の宮に」(飛鳥之 浄之宮尓)とありますから、大和の飛鳥が歌の舞台です。更に「高照らす 日の御子」(高照 日之皇子)や「我が大君 皇子の命」(吾王 皇子之命)、「皇子の宮人」(皇子之宮人)とあり、「飛鳥」の「浄之宮」に「天皇」や「皇子」がいたとことがわかります。この「天皇」「皇子」呼称は、飛鳥宮遺跡から出土した「天皇」「○○皇子」木簡(注②)と対応しており、七世紀後半の飛鳥宮にいた天武や持統らがナンバーツーとしての「天皇」を名のっていたことを人麿の歌も証言していたことになり、貴重です。
 ちなみに、この歌に対する古田先生の解釈は変化しています。当初、『人麿の運命』(1994年)ではこの歌の「天皇」を持統天皇とし、舞台も大和飛鳥とされていましたが、『壬申大乱』(2001年)では九州王朝の「筑紫飛鳥」での歌とし、「天皇」を「あまつ、すめろぎ」と解し、通例の用法の「天皇」ではないとされました。この古田新説も有力ですので、別途、検証したいと思います。
 そして九州王朝から大和朝廷の時代(八世紀)となり、大和朝廷は公的にはナンバーワンとしての「天皇」や「天子」「皇帝」(『養老律令』「儀制令第十八」、注③)を称します。他方、同じ八世紀成立の万葉歌には、それらナンバーワン「天皇」に対して「大王」が使用されています。

【『万葉集』巻一 0077】(注④)
 吾が大君(大王) ものな思ほし皇神の 継ぎて賜へる 我なけなくに

【『万葉集』巻六 0956】(注⑤)
やすみしし 我が大君(大王)の 食す国は 大和(日本)もここも 同じとぞ思ふ

【『万葉集』巻六 1047】(注⑥)
 やすみしし 我が大君(大王)の 高敷かす 大和(日本)の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 生駒山 飛火が岳に 萩の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代の ことにしあれば 大君(皇)の 引きのまにまに 春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも

【『万葉集』巻六 1050】(注⑦)
 現つ神 我が大君(皇)の 天の下 八島の内に 国はしも さはにあれども 里はしも さはにあれども 山なみの よろしき国と 川なみの たち合ふ里と 山背の 鹿背山の際に 宮柱 太敷きまつり 高知らす 布当の宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥が音響む 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺も繁に 巌には 花咲きををり あなあはれ 布当の原 いと貴 大宮所 うべしこそ 吾が大君(大王)は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮ここと 定めけらしも

 このように近畿天皇家が日本国のナンバーワン「天皇」や「天子」「皇帝」を称していたとき、万葉歌では伝統的な古称「大王(おおきみ)」を歌人たちは使用していることがわかります。ここには、古田先生が主張した「大王≠天子(天皇)」という〝基本ルール〟は採用されていないのです。
 万葉歌には「おおきみ」という倭語に対して「大王」という表記が使用され、その伝統は九州王朝時代に遡るものと思われます。そして八世紀の大和朝廷の歌人たちは、この古称「大王」表記の伝統を受け継いだわけです。(つづく)

(注)
①[題詞] 日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]
 [原文] 天地之初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓 天照 日女之命 [一云 指上 日女之命] 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 [一云 天雲之 八重雲別而] 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 々座奴 [一云 神登 座尓之可婆] 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 [一云 食國] 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 [一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為]
②古賀達也「洛中洛外日記」2356話(2021/01/23)〝『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証〟において、「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」と記された木簡の出土を紹介した。
③『養老律令』「儀制令第十八」に次の規定がある。
 「天子。祭祀に称する所。」
 「天皇。詔書に称する所。」
 「皇帝。華夷に称する所。」
 「陛下。上表に称する所。」
④[題詞](和銅元年戊申 / 天皇御製)御名部皇女奉和御歌
 [原文] 吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
⑤[題詞] 帥大伴卿和歌一首
 [原文] 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
⑥[題詞] 悲寧樂故郷作歌一首[并短歌]
 [原文] 八隅知之 吾大王乃 高敷為 日本國者 皇祖乃 神之御代自 敷座流 國尓之有者 阿礼将座 御子之嗣継 天下 所知座跡 八百萬 千年矣兼而 定家牟 平城京師者 炎乃 春尓之成者 春日山 御笠之野邊尓 櫻花 木晩牢 皃鳥者 間無數鳴 露霜乃 秋去来者 射駒山 飛火賀※塊丹 芽乃枝乎 石辛見散之 狭男壮鹿者 妻呼令動 山見者 山裳見皃石 里見者 里裳住吉 物負之 八十伴緒乃 打經而 思煎敷者 天地乃 依會限 萬世丹 榮将徃迹 思煎石 大宮尚矣 恃有之 名良乃京矣 新世乃 事尓之有者 皇之 引乃真尓真荷 春花乃 遷日易 村鳥乃 旦立徃者 刺竹之 大宮人能 踏平之 通之道者 馬裳不行 人裳徃莫者 荒尓異類香聞
 [左注] (右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)
 ※塊の字は、元暦校本では山偏に鬼とする。
⑦[題詞] 讃久邇新京歌二首[并短歌]
 [原文] 明津神 吾皇之 天下 八嶋之中尓 國者霜 多雖有 里者霜 澤尓雖有 山並之 宜國跡 川次之 立合郷跡 山代乃 鹿脊山際尓 宮柱 太敷奉 高知為 布當乃宮者 河近見 湍音叙清 山近見 鳥賀鳴慟 秋去者 山裳動響尓 左男鹿者 妻呼令響 春去者 岡邊裳繁尓 巌者 花開乎呼理 痛怜 布當乃原 甚貴 大宮處 諾己曽 吾大王者 君之随 所聞賜而 刺竹乃 大宮此跡 定異等霜
[左注] (右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也)