万葉集一覧

第274話 2010/08/01

柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実

 『古田史学会報』77号(2006/12)に発表した「最後の九州年号−「大長」年号の史料批判−」において、九州年号の最後は「大長」で、703年から711年まで続いたことを論証しました。その史料根拠として、十六世紀に成立した辞書『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項を紹介しました。次の記事です。   
 「柿本人丸 −−者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。」(以下略)   柿本人麻呂が大長四年丁未に石見国高津で亡くなったという記事ですが、この大長七年丁未は707年に相当します。この時既に大和朝廷は自らの年号を制定し ており、慶雲四年にあたります。ということは、『運歩色葉集』が依拠した人麻呂没年原史料には九州年号の大長が記されており、その成立は8世紀初頭の同時 代史料に基づくと考えられます。   
 なぜなら、後代になって九州年号を記した年代暦などに基づいて「大長」年号を付加編纂した可能性は小さいからです。既に大和朝廷の年号「慶雲」があるの ですから、701年以後であれば慶雲を使用するでしょう。更に、現存する年代暦は大長がない『二中歴』が最古ですし、それ以外の年代暦には大長が700年 以前に「移動」されたものしかないので、後代に於いて707年丁未の没年に九州年号の大長が使用される可能性は考えにくいのです。   
 このように考えると、8世紀初頭の最末期の九州年号「大長」を使用していた人物により柿本人麻呂の没年記事が書かれたことにならざるを得ません。すなわ ち、九州王朝系の人物により柿本人麻呂の没年が記録されたことになるのです。したがって柿本人麻呂自身も九州王朝系の人物だったと論理は展開するのです が、これは既に古田先生が指摘されてきたことと一致します。   
 この没年記事の持つ論理性からも、柿本人麻呂は九州王朝の宮廷歌人だったことになります。恐らく、晩年は大和朝廷の歌人としても活躍したと思われますが、九州王朝の元宮廷歌人という輝ける経歴が、『続日本紀』などに柿本人麻呂の名前が登場しなかった理由だったのではないでしょうか。   
 しかし、九州王朝系の人物により柿本人麻呂の没年は九州年号「大長七年丁未」と記されたのです。この二年後に大長年号は終了し、九州年号と恐らくは九州王朝も終焉を迎えます。もし人麻呂が生きていれば、九州王朝の滅亡をどのように歌ったでしょうか。興味は尽きません。


第233話 2009/10/31

南朝の「黄葉」と北朝の「紅葉」

 わたしは京都の化学会社に勤めているのですが、社員教育の一環として月に一度、京都大学教授の内田賢徳(うちだまさのり)先生による日本語や万葉集のセミナーを受講しています。その10月のセミナーで内田先生から興味深い史料事実を教えていただきました。
 それは、8世紀に成立した万葉集では、「もみじ」の表記に「黄葉」が使用されているが、9世紀の漢詩集などでは「紅葉」が使用されており、これは中国南朝(六朝時代、4〜6世紀)に使用されていた「黄葉」と、7世紀の唐で使用されていた「紅葉」の影響を、それぞれが受けたという史料事実です。すなわち、 万葉集は南朝の影響を色濃く受け、9世紀以降は北朝の影響を日本文学は受けているのだそうです。
 この史料事実は九州王朝説により、万葉集は九州王朝時代に成立した和歌を数多く含み、九州王朝が長く中国南朝に臣従し、その文化的影響を受けていた痕跡と考えると、うまく説明できそうです。対して、8世紀以後の大和朝廷の時代になると遣唐使により北朝の影響を受けだしたものと思われます。
 中国南朝が滅亡した後も、九州王朝(倭国)文学は南朝の影響と伝統を継承したのでしょう。このように、文学史の視点からも九州王朝説は有力であり、より深い理解へと導きうる仮説と言わざるを得ません。


第142話 2007/09/09

中村中を聴く
 わたしが30年来の中島みゆきファンであることは、ことあるごとに言ってきましたが、この何ヶ月か毎日のように聴いているのが、中村中(なかむら・あた
る)です。まだ二十歳そこそこの若いシンガーソングライターですが、初めてのアルバム「天までとどけ」は素晴らしいアルバムです。中でも「友達の詩」「風
になる」は後世に残る名曲だと思います。中島みゆきがデビューした時と同じくらいの才能を感じさせてくれるミュージシャンです。

   ところで、この「中村」という苗字は福岡県、とりわけ筑前に大変多い苗字です。わたしの学生時代のクラス(久留米高専工業化学科11期)には中村君が3人もいました。福岡県には那珂川や那賀川町もありますし、お隣の佐賀県には中原村(なかばる)がありました。
 わたしのカンですが、この「なか」という地名や苗字は、『万葉集』に見える九州王朝の人物である中皇命(なかつすめらみこと)と関係するのではないで
しょうか。もしかすると、中村さんや那珂川・中原の「なか」と中皇命の「なか」は淵源を同じくするものと思われてなりません。論証は困難ですが、大きくは
外れていない様な気がします。いかがでしょうか。


第141話 2007/09/01

万葉文化館訪問
 今日はヴィッツを借りて、奈良県明日香村までドライブしました。自宅から徒歩2分の所にあるトヨタレンタカーは大変重宝しています。

 飛鳥資料館や石舞台古墳などあちこち廻ってきましたが、中でも万葉文化館はとても気に入りました。冨本銭が出土した飛鳥池工房遺跡の上に立てられた同館
はとても美しい建物で、古代関係の展示の他、日本画(今野忠一日本画展など)も素晴らしいものでした。奈良県もなかなか良い仕事をしたものだと感心しまし
た。入館料600円+駐車料500円も、見終わった後は高いとは思いませんでした。
   また、地下の劇場では「柿本人麻呂」をテーマに人形と映像による万葉劇場が上演されており、これも定説による解説とは言え、人麻呂と『万葉集』がますます好きになりました。新たな研究の芽生えとなるような体験でした。
   喫茶店も落ち着いた雰囲気で景色も抜群。また行ってみたいと思いました。古田先生も人麻呂の歌に関しての新発見が続いておられるようで、このことも紹介したいのですが、古田先生が公式に発表されるまで口止めされています。あしからず。
   お天気にも恵まれ、とても素敵な一日でした。次は、琵琶湖に行ってみようと思っています。「岩走る淡海」の国です。


第110話 2006/12/22

『万葉集巻一』九州王朝作歌説?!
  ちょっと遅くなりましたが、16日に行われた関西例会の報告をします。今回も多彩な研究報告がなされましたが、水野代表による『万葉集巻一』九州王朝作歌説はちょっと強引な感じもしましたが、なかなか面白い説だと思いました。何せ、『万葉集』の巻一全部が九州王朝で作られたというものですから、本当だったら面白いけれど、そんな全部の歌を論証可能なのか、というのが率直な感想でした。しかし、このような大胆な説が発表できるのも、例会の良いところではないでしょうか。
 新年一月の関西例会は、午後は古田先生の講演会がありますので、午前中だけとなります。会場がいつもと異なりますので、お間違いないように。

〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞 8/30古田・安川対談、12/7寛政原本を見る
○研究発表
1).「自悪其名不雅」考、泥憲和氏の「『九章算術』の短里を読んで」(向日市・西村秀己)
2). 倭国律令のこと、平安時代に至っても弾圧されていた肥後国、二人の美濃王(姫路市・泥憲和)
3). 伊勢王・その一 総論(川西市・正木裕)
4). 九州王朝諸系図の検討と分析(奈良市・飯田満麿)
5). 武烈天皇紀における「倭君」・その二(相模原市・冨川ケイ子)
6). 運歩色葉集と九州年号(木津町・竹村順弘)
7). 装飾古墳の文様(生駒市・伊東義彰)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・「寛政原本発見!東日流外三郡誌」・『万葉集巻一』九州王朝作歌説・他(奈良市・水野孝夫)


第103話 2006/10/15

万葉仮名と九州王朝

 このほど、難波宮跡から万葉仮名が書かれた木簡が出土しました。7世紀中頃の木簡とのことで、当時における日本列島での文字文化や和歌文化を研究する上で、まさに一級史料といえるでしょう。
 この新聞報道を読んでみますと、この木簡の出土により万葉仮名の成立が従来説の7世紀末より30年ほど遡ったと、その意義を強調されていますが、古田史学によれば万葉仮名はもっと古くから九州王朝で成立していたと考えられます。
 古田先生の講演録「筑紫朝廷と近畿大王」(『市民の古代』15集、1993年)で、万葉仮名と九州王朝の関係について触れられていますが、『万葉集』巻七に「古集」というものが記されており、『万葉集』よりも古い歌集が存在していたことを指摘されています。そしてその「古集中に出ず」として紹介された歌が筑紫で成立したものであることを論証されました。すなわち、「古集」とは筑紫万葉であるとされたのです。
 したがって、このことからも九州王朝内で万葉仮名による歌集が『万葉集』に先行して作られていたことがわかります。と同時に、万葉仮名は古くから九州王朝内で成立していたということになるというわけです。
 志賀島の金印など、古くから漢字文明に接していた九州王朝ですから、その漢字を倭語の表音表記として転用することが、いつからかなされたものでしょう。それがいつのことかは、まだ正確にはわかりませんが、少なくとも通説の7世紀末、あるいは今回の木簡の7世紀中頃といった、そんな「新しい」時代のことではないと思います。
 万葉仮名成立についても、古田史学、多元的歴史観による解明が待たれているのです。


第56話2006/01/09

岩走る淡海・補考

 『万葉集』に見える枕詞「岩走る」について、第52話で仮説を発表しました。それは、熊本県球磨川河口の「淡海」を舞台に、宇土半島産の阿蘇ピンク石を船で海上輸送した風景を「岩走る淡海」と表現したことに始まるのではないか、というものでした。この仮説発表以来、賛否両論が寄せられましたので、一部をご紹介したいと思います。
 まずは武雄市の古川清久さん(本会会員)からで、基本的に賛成された上で、阿蘇ピンク石が産出する馬門地区は宇土半島の北側にあり、球磨川河口とは反対側であることが問題点とご指摘いただきました。さすがは現地に詳しい古川さん。なるほどと思いました。私の仮説の弱点を見事に指摘していただき、感謝申し上げます。今後の検討課題にしたいと思います。
 次は大和田さんという方からのご意見。 3230番歌の「石走る甘南備山」等に着目され、「岩走る」とは石垣や列石の表現ではないかとされ、「石走る甘南備山」とは神籠石を意味するとされました。確かに雷山神籠石や高良山神籠石など山の急斜面に延々と並ぶ列石を、「岩走る」と表現してもおかしくありません。他方、「岩走る淡海」についは、「淡海」を博多湾岸付近の海とされ、倭国の玄関口を護る石垣があったのではないかと推測されています。これも、なかなか面白い説だと思いました。
 こうした指摘や別の違った仮説の提起は、学問にとって大切なことで、有り難く受け止めたいと思います。わたしも更にじっくりと考えたいと思います。歴史の真実は逃げたり無くなったりしませんから、時間をかけて検討します。また、進展があれば御報告させていただきます。


第52話 2005/12/10

石走る淡海

 『万葉集』などの歌枕には意味不明のものが少なくありません。「石走る淡海」もその一つです。淡海などの歌枕とされる「いわはしる」と言われても、琵琶湖を岩が走るのを見たことも聞いたこともありません。ところが、最近ちょっと面白いアイデアがひらめきましたので、ご披露したいと思います。
 淡海は本来は琵琶湖ではないという問題については、既にこのコーナーでも紹介しましたが(第17話)、現在の所、熊本県の球磨川河口とする西村・水野説が有力です。この説に従えば、もう一つ注目すべきことがあります。それは球磨川河口の北部に位置する宇土半島から阿蘇ピンク石が産出するという事実です。このことも、以前に触れたことがありますね(第25話)。本年この阿蘇ピンク石の巨岩を復原された古代船で近畿まで運ぶプロジェクトがありましたが、これこそ「淡海」を「石走る」にピッタリではないでしょうか。
 古代において、遠く近畿まで阿蘇ピンク石を船で運ぶ姿を見た歌人達が「石走る淡海」と詠んだ、そのように思うのです。それは、勇壮かつかなり異様な印象深い光景に違いありません。もしかすると柿本人麿も、球磨川河口の海を阿蘇ピンク石を積んだ船が滑るように走る情景を見たのかも知れません(『万葉集』29番歌に「石走る淡海」が見える)。
 いかがでしょうか、このアイデア。かなりいけそうな気がするのですか。もし当たっていれば、「石走る」という枕詞も九州産ということになり、最初に九州王朝下で作歌されたことになります。


第17話 2005/08/05

「淡海は琵琶湖ではなかった」

 古田史学の会内部でしばしば研究テーマとなっているものに、「淡海」はどこかという問題があります。口火を切られたのが木村賢司さん(会員・豊中市)で、『万葉集』に見える「淡海の海」を全て抜き出され、その歌の内容から通説の琵琶湖ではありえないとされました(「夕波千鳥」、『古田史学会報』38号)。そして、淡海の海を博多湾近辺の海ではないかとされました。
 古田先生は現在の鳥取県にあたる『和名抄』の邑美を候補とされ、後に阿波(徳島県)近海と考察されるに至っています。
 西村秀己さん(本会全国世話人・向日市)は『倭姫命世記』に見える「淡海浦」の地勢記事から熊本県八代市の球磨川河口付近とする説を関西例会で口頭発表されました。
 いずれの説も一理あるものの決め手に欠けていました。そんな中で発表されたのが、水野孝夫さん(本会代表・奈良市)の「阿漕的仮説 — さまよえる倭姫」(『古田史学会報』69号)でした。その結論は西村説を裏づけるものですが、『倭姫命世記』に記された淡海浦の記事、すなわち西に七つの島があり、南には海水に淡水が混じって淡くなるという海域が八代市球磨川河口(球磨川の伏流水が水島付近で湧き出している)に存在することを見つけられたのでした。しかも、対岸の天草には放浪するお姫様の伝承を持つ姫戸などの地域があったのです。すなわち、倭姫伝承も九州王朝の伝承からの盗用だったのでした。
 これらの発見には、当地や有明海などに詳しい古川清久さん(会員・武雄市)の協力があったそうですが、こうした共同作業などは古田史学の会の持つ特長です。プロの学者でもできないような新発見が古田学派内では次々と行われています。あなたも古田史学の会に入って、一緒に研究しませんか。

「阿漕的仮説−さまよえる倭姫−」(『古田史学会報』69号)参考資料

ひぼろぎ逍遥阿漕(あこぎ)を参照

鯨魚(いさな)の問題や、歌そのものについては下記通り。

古田氏の「淡海」の過去の見解である『和名抄』の邑美については下記をご覧下さい。
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

この歌に対する古田氏の最新の理解(阿波の国、四国徳島近辺)については、
『古代に真実を求めて』 (第八集 明石書店)講演記録「原初的宗教の資料批判」の質問一をご覧ください。