風土記一覧

『古代に真実を求めて』28集の特集テーマは、「風土記・地誌の九州王朝」です

第3318話 2024/07/05

読んでおきたい、古田武彦「風土記」論

 『古代に真実を求めて』28集の特集テーマ「風土記・地誌の九州王朝」の企画構成案を練っています。ある程度まとまれば、編集会議を招集して提案し、編集部員のご意見や企画案も聞かせていただく予定です。

 自らの投稿原稿についても執筆準備をしています。それに先だち、古田先生の「風土記」関連論文の読み直しも進めています。古田「風土記」論を久しぶりに集中して勉強していますが、その代表的関連論文を紹介します。特集論文の投稿を予定されている方にも読んでおいていただきたいものばかりです。なぜか、古田先生にしては『風土記』関連論文は比較的少なく、読破はそれほど難しくはありません。以下、そのジャンル分けを示します。

 まず、風土記全般の重要テーマである、「県(あがた)」風土記と「郡(こおり)」風土記について論じたものが、❶❷❺❿⓫です。「県」風土記が九州地方に遺っていることから、九州王朝風土記(筑紫風土記)の存在という古田「風土記」論にとって不可欠の研究分野です。

 『常陸国風土記』に関わって論じたものが、❸。『出雲国風土記』に関わって論じたものが、❸❻❼❽⓬⓭。『播磨国風土記』に関わって論じたものが、⓮。 「筑後国風土記逸文」と卑弥呼について論じたものが、❹❾です。いずれも懐かしいものばかりです。

 《古田武彦「風土記」論 主要論文一覧》
「九州王朝の風土記」『市民の古代』第4集、新泉社、昭和57年(1982)。
「九州王朝にも風土記があった」『よみがえる九州王朝』角川選書、昭和58年(1983)。
❸「日本列島各地の神話」『古代は輝いていたⅠ――『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社、昭和59年(1984)。
❹「卑弥呼論」『古代は輝いていたⅠ――『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社、昭和59年(1984)。
❺「二つの『風土記』」『古代は輝いていたⅢ――』朝日新聞社、昭和60年(1985)。
「国造制の史料批判――出雲風土記における「国造と朝廷」」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❼「部民制の史料批判――出雲風土記を中心として」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❽「続・部民制の史料批判――「部」の始原と発展」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
「卑弥呼の比定――「甕依姫」説の新展開」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❿「九州王朝の短里――東方の証言」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
⓫「二つの風土記と二つの里程」『倭人伝を徹底して読む』大阪出版、昭和62年(1987)。
⓬「出雲風土記の中の古代公害病」『古代は沈黙せず』駸々堂、昭和63年(1988)。
「縄文文明を証明する「国引神話」」『吉野ヶ里の秘密』光文社、平成1年(1989)。
「播磨風土記」『市民の古代』第12集、新泉社、平成2年(1990)。

 この他にも、古田先生の重要論文があるかもしれません。ご教示いただければ幸いです。また、古田学派研究者による重要論文もあり、別の機会に紹介します。


第3317話 2024/07/03

『古代に真実を求めて』

     28集の特集テーマ

 「古田史学の会」の会員論集『古代に真実を求めて』28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。風土記や地誌を研究対象として、そこに遺された九州王朝や多元史観の痕跡を論じ、論文やフォーラム・コラムとして投稿してください。地誌の場合、その成立が中近世であっても、内容が古代を対象としており、適切な史料批判(古代の真実を反映していることの証明)を経ていれば、古代史研究のエビデンスとして採用できます。

 具体的には、現存する五つの風土記(常陸国・播磨国・出雲国・肥前国・豊後国)と風土記逸文が研究の対象になります。地誌は各地にあり、成立時期や史料性格(公的か私的か。編纂目的)が異なりますから、採用にあたっては当該史料の性格や概要の説明が必要です。これは読者に対しても必要な配慮ですので、ご留意下さい。この点、現存五風土記の場合は著名ですし、学界で古代史料として認められていますから、出典の明示があれば問題はないでしょう。

 ご参考までに、閲覧・入手が比較的可能で著名な九州地方の地誌を管見の範囲で紹介します。会員の皆さんからの、後世に残すべき優れた多元史観の論文、読んで勉強になり、かつ面白い投稿をお待ちしています。

○『太宰管内志』伊藤常足、天保12年(1841)〈歴史図書社、昭和44年(1969)〉
○『筑前国続風土記』貝原益軒、宝永6年(1709)〈文献出版、昭和63年(1988)〉
○『筑前国続風土記付録』加藤一純・鷹取周成、寛政11年(1799)〈文献出版、昭和52年(1977)〉
○『筑前国続風土記拾遺』青柳種信、文化11年(1814)〈文献出版、平成5年(1993)〉
○『筑後志』杉山正仲・小川正格、安永6年(1777)〈久留米郷土研究会編、昭和49年(1974)〉
○『肥前旧事』南里有隣編著・糸山貞幹増訂、江戸後期〈『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、昭和48年(1973)〉
○『肥前古跡縁起』大木英鉄、寛文5年(1665)〈『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、昭和48年(1973)〉
○『肥後国誌』森本一瑞、明和9年(1772)〈青潮社、昭和46年(1971)〉
○『豊前志』渡辺重春、文久3年(1863)〈雄山閣、昭和46年(1971)〉
○『豊後国誌』唐橋君山・田能村竹田・伊藤猛、享和3年(1803)〈文献出版、昭和50年(1975)〉
○『三国名勝図会』天保14年(1843)〈青潮社、昭和57年(1982)〉※日向・大隅・薩摩の地誌。


第3316話 2024/07/02

『古代に真実を求めて』28集

        の投稿募集要項

 「古田史学の会」の会員論集『古代に真実を求めて』28集の投稿締め切り日は本年9月30日です。特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。下記の規定に従ってご投稿ください。

①特集論文・一般論文(一万五千字以内)、フォーラム(随筆・紀行文など。五千字以内)、コラム(解説小文。二千字程度)を募集します。
論文は新規の研究であること。他誌掲載論文、二重投稿、これに類するものは採用しません。それとは別に、編集部の判断に基づき、他誌掲載稿を転載することがあります。
②採用稿を本会ホームページに掲載することがありますので、ご承諾の上、投稿してください。
③28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。古田史学・多元史観の継承発展に寄与できる論文をご投稿ください。
④投稿は一人四編までとします〔編集部からの依頼原稿を除く〕。
⑤投稿締め切り 令和六年(二〇二四)九月末
⑥原稿はワード、またはテキストファイル形式で提出して下さい。ワードの特殊機能(ルビ、段落自動設定など)は使用しないで下さい。ルビは()内に付記してください〔例 古田史学(ふるたしがく)〕。

 掲載する写真や表は、文書ファイルとは別に写真ファイル・エクセルファイルとして提出して下さい(ワード掲載写真は画像が不鮮明になるため)。その際、写真・表の掲載位置を原稿中に指示してください。
⑦投稿先 古賀達也まで。詳しくは27集末尾の投稿要項をご覧下さい。

 以下は採用審査における基本視点と執筆上の諸注意です。ご留意下さい。

Ⅰ.審査時の視点
(1) 「新規性」と「進歩性」
この二点が無ければ不採用となります。

(2) エビデンスの明示、エビデンスに対する解釈の合理性と普遍性
提示したエビデンス(史料事実や出土事実)が間違っていたり、不適切な論稿は審査以前の問題で、失格です。解釈の当否は重要な審査対象となります。ここで新説としての優劣を判断します。

(3) 先行説(特に古田説)の紹介と自説との比較説明
古田史学支持者が主たる読者である「古田史学論集」への投稿ですから、古田説と異なる新説については、古田説の正確な引用・紹介と丁寧な説明が要請されます。

(4) 話題性、面白さ、わかりやすさ、字数・文章の簡潔性
これらは読者への配慮であり、出版事業としても不可欠の視点です。

Ⅱ.論文の構成と様式

(1) 冒頭に要旨と結論を略記してください。学術論文は推理小説ではありませんから、読み進めなければ結論がわからないような構成は不適切です。短文の場合はこの限りではありません。

(2) 引用・参照文献の紹介と後注の書式について。
書式例) 著者名「論文名」『文献名』発行社、発行年次(西暦、必要であれば年号を併記)。
例) 古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、一九七一年。ミネルヴァ書房より復刻。
例) 中島恒次郞「日本古代の大宰府管内における食器生産」『大宰府の研究』高志書院、二〇一八年。

(3) 縦書きを前提として、漢数字と英数字を使い分けてください。難字にはルビをふってください。


第3251話 2024/03/16

スタンフォード大学にある

     明治時代の日本地図

 本日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。次回、4月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。

 (都島区民センター(図書館)から変更になりました)

 今回の発表で特にわたしが注目したのが、播磨風土記の地名の現在位置に関する研究で谷本さんが使用した明治期作成の地図でした。一見、現在作成されている国土地理院の地図のようですが、今は失われた明治期の字地名が掲載されています。その地図がアメリカのスタンフォード大学図書館のホームページに掲載されており、誰でもアクセス可能とのことで驚きました。
江戸時代に遡る字地名の調査には、江戸期の地誌か明治二年作成『明治前期 全国村名小字調査書』(注①)を使用していたのですが、それですと地名はわかっても、その正確な場所がわからないことが多く、調査が大変でした。ところが、スタンフォード大学所蔵の地図であれば正確な場所もわかり、研究者にとってはとても有り難いことです。谷本さんのご教示により、そのような地図がネットで見られること知り、有益でした。

 ちなみに、『古代に真実を求めて』28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」(注②)ですから、とてもタイムリーな研究発表でした。

 3月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔3月度関西例会の内容〕
①天孫降臨とニニギ命 (大阪市・西井健一郎)
②剣の神のタケミカヅチが素手でタケミナカタと戦う理由 (大山崎町・大原重雄)
③モーツァルトの「魔笛」と古事記の相似形の説話 (大山崎町・大原重雄)
④4月ハイキング「春の櫻宮から難波宮を歩く」の案内 (八尾市・上田 武)
⑤『隋書』重視で、『書紀』の元本に照らす (東大阪市・萩野秀公)
⑥「邪馬台国と火の国」論の再提起 (茨木市・満田正賢)
⑦播磨風土記・地名考(続) ―宍禾郡・柏野里・敷草村の条― (神戸市・谷本 茂)
⑧「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住跡を発見」報道と倭国の半島進出 (川西市・正木 裕)

◎古賀から役員会の報告
・会員総会・記念講演会(27集出版記念)の日程と講師
6月16日(日)午後 会場:ドーンセンター 参加費:無料
講演会講師:谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
演題:未定
※前日(6月15日)の関西例会もドーンセンターで開催します。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
04/20(土) 会場:豊中倶楽部自治会館

(注)
①『明治前期 全国村名小字調査書』ゆまに書房、1986年。
②二十八集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。風土記や地誌を研究対象として、そこに遺された九州王朝の痕跡を論じ、論文やフォーラム・コラムとして投稿してください。地誌の場合、その成立が中近世であっても、内容が古代を対象としており、適切な史料批判を経ていれば、古代史のエビデンスとして採用していただいてかまいません。(『古代に真実を求めて』28集の投稿募集要項より)

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古田史学の会 東成区民センター 2024.3.16

2024年 3月度関西例会発表一覧
(ファイル・動画)

YouTube公開動画①②です。

1,天孫降臨とニニギ命 (大阪市・西井健一郎)

 動画はありません

2,剣の神のタケミカヅチが素手でタケミナカタと戦う理由
(大山崎町・大原重雄)

https://youtu.be/2o-eoZcsysU
https://youtu.be/M3qkbHgjd9U

3,モーツァルトの「魔笛」と古事記の相似形の説話 (大山崎町・大原重雄)

https://youtu.be/DrWQ2nw9pH0
https://youtu.be/afRJ4Bdhgso

4,4月ハイキング「春の櫻宮から難波宮を歩く」の案内 (八尾市・上田 武)

 動画はありません

5,『隋書』重視で、『書紀』の元本に照らす (東大阪市・萩野秀公)

 動画はありません

6,「邪馬台国と火の国」論の再提起 (茨木市・満田正賢)

 動画はありません

7,播磨風土記・地名考(続) ―宍禾郡・柏野里・敷草村の条―
(神戸市・谷本 茂)

 動画はありません

8,「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住跡を発見」報道と倭国の半島進出 (川西市・正木 裕)

https://youtu.be/0e3xqq5JO1U
https://youtu.be/G8XqfEc37EQ


第2085話 2020/02/16

「筑後国風土記」の疾病記事と八面大王

 「洛中洛外日記」2050話(2019/12/04)〝古代の九州と信州の諸接点〟において、遺伝性の病気(アミロイドポリニューロパチー)の集積地が熊本県と長野県に分布を示していることを紹介しました。このことは「洛中洛外日記」読者のSさん(長崎市の医師)から教えていただいたのですが、最近、そのSさんからメールが届き、興味深い仮説が記されていました。
 それは、「筑後国風土記逸文」に見える次の疾病記事は、アミロイドポリニューロパチーによるものではないかというアイデア(作業仮説)です。

 「(前略)ここに、官軍、追ひ尋(まぎ)て蹤(あと)を失ひき。士、怒(いかり)やまず。石神の手を撃(う)ち折り、石馬の頭を打ち堕(おと)しき。古老の傅へて云へらく、上妻の縣に多く篤き疾(やまひ)あるは、蓋しく茲(これ)によるか。」

 この逸文は、筑紫の君磐井が官軍(近畿天皇家)との戦いに敗れた事件を記したものですが、古田先生は上妻の地に病人が多いのは白村江戦敗北などによる戦傷者が多かったことが背景にあったのではないかとされました。
 ところが、信州に残る「八面大王」伝承は「ヤメ大王」のことであり、それを磐井のこととする仮説も提唱されていることから、Sさんの推定のように、「筑後国風土記逸文」に記された上妻の縣(現在の八女地方)に多い疾病がアミロイドポリニューロパチーによるものであれば、その遺伝性疾患は信州まで逃げた「八面大王」(磐井)らによって、当地に伝えられたと考えることもできそうです。
 ただし、九州におけるアミロイドポリニューロパチーの集積地は熊本県荒尾市とのことですから、「上妻の縣」(福岡県八女地方)とは少し離れています。こうした検討課題が残ってはいますが、Sさんの推定を作業仮説の一つとして、検討の俎上に載せても良いのではないでしょうか。


第1715話 2018/07/29

「佐用」は「さよ」か「さよう」か

 先週、仕事で鳥取を訪問したのですが、そのとき乗った特急電車の停車駅名の訓みについての小文を「洛中洛外日記【号外】」にて配信したところ、二名の方からメールが届きました。まず配信した「洛中洛外日記【号外】」を下記に部分転載します。

古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2018/07/27
「郡家」「智頭」の訓み
 鳥取から京都に向かう特急スーパーはくと12号の車中で書いています。(中略)途中の駅名の訓みが珍しく、車内アナウンスがなければわからない駅名がいくつもありました。たとえば「郡家」。当然、「ぐんけ」と訓むものと思っていたのですが、車内アナウンスは「こうげ」でした。何故、「こうげ」という地名に「郡家」という漢字を当てたのか気になりました。
 「智頭」も「ちとう」だろうか「ちがしら」だろうかと勘ぐっていたら、これは単純に「ちず(づ)」でした(駅のローマ字表記は“chizu”)。「ちず(づ)」とは何を意味するのでしょうか。おそらく「ち」は古い時代の神様の名前のことと思われますが、「ず(づ)」は文字通り「あたま」のことか、港を意味する「つ(津)」なのか、よくわかりません。
 「大原」駅はそのものずばり「おおはら」駅なのですが、その大原駅から見える風景は山中の狭い盆地であり、とても「大草原」のようなイメージの「大原」ではないことに疑問を抱きました。しかし、三千院で有名な京都の大原も山間の集落であり、「大草原」ではありません。従って、本来「はら(原)」という日本語は狭い領域を示す用語ではないでしょうか。その狭い「原」にしては広い所なので「大原」と呼ばれたのではないかと考えています。もしこの理解が当たっていたら、「高天原(たかまがはら)」という地名も本来は比較的小領域に対するものであったのかもしれません。
 水害被害で有名になった「佐用」駅もありました。訓みは「さよ」であって、「さよう」ではないことも今回知りました。
 佐用駅の次は「上郡」駅です。こちらは普通に「かみごおり」駅で、ちょっと安心しました。(後略。転載終わり)

 この記事を読まれた茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)より、次のメールをいただきました。貴重な情報と思われ、茂山さんのご了解を得て、転載します。

【以下。メールを転載】
古賀様
 JR命名の佐用駅は「さよ」ですが行政区分は佐用(さよう)郡佐用(さよう)町です。僕は駅名の読みが古称ではないかと思っています。播磨国風土記に遡る地名で、風土記では「讃容」です。しかし、僕はさらに古く出雲王朝時代に淵源をもつ地名ではないかと考えます。九州王朝の途中までは「吉備国」だったようです。「讃」の用字は讃岐とも関係があったのでしょうか?
 風土記では、伊和大神と競った玉津日女命が勝利ののち「賛容都比売命」と名を改めたことになっていますが、地元では「佐用姫さん」と親しまれる「佐用都姫」で、佐用都姫神社があります。創建年不詳なのは、それほど古いのだ(九州年号以前)と想像します。ですから、「佐用都姫」の方が地名のもとではないかとも考えます。
 玉津日女命が賛容都比売命に改名する説話は稲作開始の伝承のような話しです。同じモチーフの伝承が製鉄の開始にもつながるようで、佐用都姫神社の近くは精錬の遺跡が広範囲に広がっており、今でも鉄滓(のろ)が地表に転がっています。こちらは、風土記ではずっと時代が下って孝徳期の製鉄開始とされていますが・・・。 茂山
【メール転載終わり】

 「洛中洛外日記」の校正チェックしていただいている加藤健先生(古田史学の会・会員、交野市。元高校教諭)からは、「郡」を「こう」と訓む地名が交野市にもあることをお知らせいただきました。「郡津」と書いて「こうづ」と訓むそうです。こうした情報が即座にいただけることは、有り難いことと感謝しています。


第1709話 2018/07/19

「東山道十五国」の成立時期

 9月1日(土)の『発見された倭京』出版記念東京講演会(東京家政学院大学・千代田三番町キャンパス)に向けて、講演者の準備も着々と進められています。中でも、「九州王朝の古代官道」について講演される肥沼孝治さんと山田春廣さんの講演内容の目次や当日使用されるパワーポイントの画像作成状況が、両氏のブログにリアルタイムで紹介されており、その内容が面白く、ますます講演会が待ち遠しくなってきました。
 特に山田さんが講演される「東山道十五国」(『日本書紀』景行紀55年条)を九州王朝の「東山道」とするテーマは画期的な発見であり、多くの皆さんにお聴きいただきたい研究です。もちろん、まだまだ研究・検証が必要な仮説で、その「東山道十五国」記事がなぜ『日本書紀』景行紀55年条に記されているのかなど重要な課題も残されています。この点については、山田さんご自身も「『東山道十五國』の比定」(『発見された倭京』所収)の末尾で次のように述べられています。

 「また、『古事記』にはない“以彦狭嶋王、拝『東山道十五國』都督”記事がなぜ『日本書紀』景行紀にあるのかも未解明です。これらは今後の研究に委ねたいと思います。」(145頁)

 『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。

 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」

 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。
 九州王朝の「東山道十五国」の成立が7世紀中頃では逆にちょっと遅いような気もしますが、景行天皇の時代とするのか孝徳天皇の時代とするのか、引き続き検討したいと思います。


第1701話 2018/06/29

『風土記』の中の利歌彌多弗利(聖徳王)

 九州年号研究の進展により、『二中歴』には見えない「聖徳(629〜634年)」という九州年号は利歌彌多弗利の「法号」とする説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より発表されました。今のところ、この正木説が最有力とわたしは考えていますが、この正木説に立つと新たな展開が見えてきます。今回、ご紹介する『播磨風土記』に見える「聖徳王」を九州王朝の利歌彌多弗利(多利思北孤の太子)とする理解です。
 『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)所収「播磨風土記」には次のような「聖徳王」という表記が見えます。

(印南郡)
 「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」(265頁)
 『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)

 有名な「石の宝殿」のことを記した記事ですが、ここに見える「聖徳王」や「弓削大連」について、岩波の頭注では次のように解説されています。

 頭注二五「推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう。太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。」(265頁)
 頭注二六「物部守屋。排仏を主張して聖徳太子に攻め滅ぼされた(五八七没)。」(265頁)

 ここでは「聖徳の王の御世」の説明として「推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう」とされていますが、本当でしょうか。『播磨風土記』では時代を特定する記述方法としては次のように近畿天皇家の「○○天皇の御世」という表記が採用されています。同じ「印南郡」に見える三例を紹介します。

 「難波の高津の御宮の天皇の御世(仁徳天皇)」
 「大帯日子の天皇の御世(景行天皇)」
 「志我の高穴穂の宮に御宇しめし天皇の御世(成務天皇)」
 ※( )内は古賀による付記。

 これらと比較しても「聖徳の王の御世」という表記は異質です。いわゆる聖徳太子の摂政時代であれば推古天皇が存在するのですから、例えば「飛鳥の治田宮の天皇の御世」という表記が可能であるにもかかわらず「聖徳の王の御世」とあるのは不審です。しかも、頭注で指摘されているように、「太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。」であり、『日本書紀』の内容と一致しません。
 ところがこの記事を多元史観・九州王朝説で解釈すれば、先の正木説に基づき「聖徳王の御世」とは九州王朝の利歌彌多弗利の時代となり、それは前代の多利思北孤崩御後の九州年号「仁王元年(623)」から恐らく「命長七年(646)」の頃を意味します。
 さらに、同記事に見える「弓削の大連」も、物部守屋とは別人となります。ですから、時代もいわゆる聖徳太子よりも後となり、「弓削の大連の造れる石」とされた「石の宝殿」も当地の有力者と思われる「弓削の大連」が造らせたものと理解すべきでしょう。
 わたしはこの「石の宝殿」がある生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問したことがあり、そのときに九州年号「白雉」が案内板の御由緒に使用されていることを知りました。そのことを「洛中洛外日記」1348話(2017/03/07)で次のように記しました。

【以下転載】
石の宝殿(生石神社)の九州年号「白雉五年」

 今日は仕事で兵庫県加古川市に行ってきました。お昼休みに時間が空きましたので、出張先近くにある石の宝殿で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。どうしても行っておきたい所でしたので、短時間でしたが石の宝殿を見学しました。
 有名な史跡ですので説明の必要もないかと思いますが、同神社の案内板に書かれた御由緒によれば、御祭神は大穴牟遅と少毘古那の二神で、創建は崇神天皇の御代(97年)とのことです。
 特に興味が引かれたのが、孝徳天皇より白雉五年に社領地千石が与えられたという伝承です。この白雉五年が九州年号による伝承であれば656年のこととなります。この「白雉五年」伝承を記した出典があるはずですので、これから調査することにします。
【転載終わり】

 九州王朝が難波副都(前期難波宮)を造営した時代の白雉五年の伝承ということですから、利歌彌多弗利の次の時代です(正木説では「伊勢王」の時代)。従って『播磨国風土記』に記された「弓削の大連」も社領地千石が与えらるほどの九州王朝系の有力氏族であったと考えるべきでしょう。
 以上のように、『播磨国風土記』に見える「聖徳王」を利歌彌多弗利のこととする仮説(やや思いつき)を提起しましたが、いかがでしょうか。


第1700話 2018/06/28

『風土記』の中の九州王朝「国分(府)寺」

 九州王朝の「国府寺」建立の史料的痕跡として『聖徳太子伝記』や『日本書紀』推古2年条などを紹介してきましたが、『風土記』にもその痕跡を見いだしました。『豊後国風土記』の次の記事です。

「風土記 豊後の国
郡は八所〔郷は四十、里は一百一十〕、驛は九所〔並に小路〕、烽は五所〔並に下国〕、寺は二所なり〔僧の寺と尼の寺なり。〕」(357頁)
頭注九「大分郡の条に見える二寺」(356頁)
「大分の郡 郷は九所〔里は廿五〕、驛は一所、烽は一所、寺は二所なり〔一つは僧の寺、一つは尼の寺なり〕。」(367頁)
頭注二一「箋釈は天平十三年の勅命による国分寺及び国分尼寺としているが恐らくは不可。国分寺以前のものであろう。肥前風土記の寺の記載(三九一頁頭注一三)参照。」(367頁)
『豊後国風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)※〔 〕内は小文字。

 豊後国国府のあった大分郡に僧寺と尼寺の存在が記されています。『風土記』成立時の8世紀前半頃ですから豊後国に寺院が二つしかないということはありえません。ですから、国府にあるこの二つの寺は豊後国を代表する寺院と考えざるをえません。従って、九州王朝による多元的「国分寺」説に立てば、豊後国の「国分寺(国府寺)」と「国分尼寺(国府尼寺)」の可能性が高いと思われます。「頭注二一」でも「(聖武天皇による)国分寺以前のものであろう」としています。

 同様の例が次の『肥前国風土記』にも見えます。

「肥前の国
郡は二十一所〔郷は七十、里は一百八十七〕、驛は一十八所〔小路〕、烽は二十所〔下国〕、城は一所、寺は二所〔僧の寺なり〕。」(379頁)
「神埼の郡 郷は九所〔里は廿六〕、驛は一所、烽は一所、寺は一所〔僧の寺〕なり。」(389頁)
頭注七「背振山霊仙寺に擬している。」(388頁)
「佐嘉の郡 郷は六所〔里は一十九〕、驛は一所、寺は一所なり。」(391頁)
頭注一三「佐嘉駅(延喜式・和名抄)。佐賀市の北方、大和村尼寺の東方の国分附近が肥前国府の遺蹟地で、駅も同地にあったのであろう。」(391頁)
頭注一四「巻首の注によれば、これも僧寺であり、『僧寺』と注書のあるべきところである。大和村尼寺真島の国分寺趾にあった寺であろう。国分寺と称せられる以前の寺である。」(391頁)
『肥前国風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)

 肥前国府があった佐嘉郡に「僧寺」があったと記されており、地名には「大和村尼寺」と「尼寺」があった痕跡も見え、豊後国府と同様に肥前国府にも「国分寺(国府寺)」と「国分尼寺(国府尼寺)」があったと思われます。ここでも「頭注一四」では「国分寺と称せられる以前の寺である」と解説されており、7世紀以前に遡る九州王朝時代の寺院と考えざるを得ません。

 これら九州島内の二つの現存『風土記』に見える「国分寺(国府寺)」「国分尼寺(国府尼寺)」と思われる記事は、九州王朝による多元的「国分寺」建立の史料根拠としてもよいのではないでしょうか。


第1639話 2018/04/03

百済伝来阿弥陀如来像の流転(2)

 観世音寺創建時の本尊は百済から伝来した金銅阿弥陀如来像であったことが次の史料から明らかになっています。

 「其の状(太宰府解文)云わく、去る(康治二年、一一四三)六月二一日の夜、観世音寺の堂塔・回廊焼亡す。(略)但し、塔に於いては康平七年(一〇六四)五月十一日に焼亡す。中尊の丈六金銅阿弥陀如来像、猛火の中に在りても尊容に変わり無し。昔、百済國より之は渡り奉られり。云々。」(古賀訳)
 『国史大系』所収、「本朝世紀」
 康治二年(一一四三)七月十九日条

 これは康治二年(一一四三)の火災の記事ですが、このときは金堂は被災しておらず、阿弥陀如来像は無事でした。このように観世音寺は創建以来度々火災に遭っていることが、各史料に記されています。例えば次の通りです。

○筑前國観世音寺三綱等解案
 「當伽藍は是天智天皇の草創なり。(略)而るに去る康平七年(一〇六四)五月十一日、不慮の天火出来し、五間講堂・五重塔婆・佛地が焼亡す。」(古賀訳)
 元永二年(一一一九)三月二七日
 『平安遺文』〔一八九八〕所収。
 ※内閣文庫所蔵観世音寺文書

 康平七年(一〇六四)の火災により観世音寺は五重塔や講堂等が全焼し、金堂は火災を免れました。「不慮の天火出来」とありますから、落雷による火災と思われます。その後、観世音寺の復興が進められますが、五重塔だけは再建されていないようです。
 観世音寺の本尊金銅阿弥陀如来像は百済渡来で「丈六」とされていることから、身長一丈六尺(四・八五m)の仏像のようです(座像の場合は半分の二・四二m)。この丈六の阿弥陀如来像が百済から献上されたのであれば、それは百済滅亡(六六〇)以前の出来事となり、阿弥陀如来像の九州王朝への「搬入」は、当然、観世音寺創建(六七〇)よりも以前のこととなります。
 ちなみに、この阿弥陀如来像は天正十四年の兵乱により失われたようで、『筑前国続風土記拾遺』に次のように記されています。

 「此阿弥陀佛は金銅なりしか百済より船に積て志摩郡岐志浦につく。其所を今も佛崎とよぶ。此佛の座床なりし鐵今も残れり。依て其村を御床と云。彼寺の佛像ハ天正十四年兵乱に掠られてなくなりしといふ。」
 『筑前国続風土記拾遺』御笠郡三、観世音寺

 倭国と百済の盟友の証であった阿弥陀如来像も天正十四年(一五八六)岩屋城攻防戦のおり、島津軍兵によって鋳潰され刀の鍔にされたと伝わっています。こうして白鳳十年の創建以来残っていた佛像も失われました。
 なお、『筑前国続風土記拾遺』によれば、「講堂佛前の紫石の獅子は百済國より献すると云」(御笠郡観世音寺)とあり、本尊以外にも百済からの奉納品があったことがうかがえます。(つづく)


第1520話 2017/10/22

秩父神社棟札の九州年号「明要」

 先の東京講演会の前日、東京古田会の勉強会に参加させていただきました。テーマは記紀歌謡と和田家文書研究で、「古田史学の会」関西例会ではほとんど扱われないジャンルでもあり、よい勉強になりました。中でも安彦克己さん(港区)による和田家文書の記載内容を現地調査で確認するという研究報告はとても素晴らしいものでした。いつか、和田家文書をテーマとした書籍を安彦さんと共同で発行したいと強く思いました。
 その安彦さんから回覧された史料に『新編武蔵風土記稿』の「秩父神社」の棟札が記された部分があり、興味深く拝見しました。同史料に九州年号「明要」が見えることは知っていましたが、見るのは初めてでした。棟札の九州年号部分は次のような内容です。

(表)合奉造武州秩父郡武光名大宮妙見大菩薩御社檀一宇檜皮葺成就畢[中略]

(裏)右当社開基者仁王三十代 欽明天皇御宇、明要六年丙寅奉祝、 以而来至今天正廿年壬辰一千四十六年也[中略]當初明要六年開基以来天正弐拾年壬辰迄一千四十六年也[後略]

 この棟札は天正二十年(一五九二)に社殿を造立したときに作成されたもので、同社開基を明要六年(五四六)と記した貴重な史料です。秩父神社の創建年代については諸説ありますが、九州年号「明要」による記録は貴重です(「天武天皇白鳳四年の鎮座」とする記事も見えます)。秩父神社についての研究も機会があれば挑戦したいものです。

《参考資料》
 新編武蔵風土記稿 巻之二百五十五 秩父郡之十
大宮郷
妙見社
下町続にあり、 当社は【延喜式】神名帳に載たる、本郡二座の一秩父神社なり、 人皇四十代天武天皇白鳳四年の鎮座にして、 祭神は当国国造の祖知々夫彦命とも、大己貴尊とも云、 又当社天正二十年の棟札の裏書に、欽明天皇御宇、明要六年丙寅鎮座とあり、明要は逸号なれば、丙寅は即位より七年に当れり、 当今の縁起には、大和国三輪大明神を写など記して、其説定かならず、按に【国造本紀】瑞籬朝御世八意思兼命十世孫知々夫彦命、定賜国造拝詞大神と據れば、崇神の朝国造を置玉ひし時より、国神の祀らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑ひなかるべし、 然に後年知々夫彦命の霊をも配せ祀りしかば、両説となりしにあらずや、 三輪を写せしと云は、いかなる據にや詳ならず、又当今妙見社と号するものは、後年社内に北辰妙見社を勧請して、霊験著しかりければ、終に妙見の名盛に行はれて、本社の旧号は失ひしなるべし、
[中略]
神体白幣を置、社伝云、中古までは末社も七十五宇建てたりしに、兵乱の為に焼亡せられ、神田も掠め奪はれ、神殿瑞籬のみ纔に存せしを、五十七石の神領を御寄附ありしより、神事祭礼旧に復すと云、毎年二月三日祈年の祀り、八月二十三日年穀の祭、十一月三日麦穀の祀りにて、近郷つどひてことに賑はへり、
按に当所へ妙見を勧請せしことは、千葉系譜に據に、天慶年中平高望の五男、村岡五郎良文常陸の国香、下野国染谷川の辺にて、平将門と合戦の時、国香が加勢としてはせ向ひ、難なく将門を追退けし頃奇瑞有し故、良文里老を招て此辺に霊験の神社ありやと問ひければ、里老答て上野国群馬郡花園村に、妙見菩薩の霊場ありと云、夫より良文同国緑野郡平井へ赴き、秩父へ居を移しせし時、彼花園の妙見を当地へ勧請し、其後又良文下総国千葉へ転ぜし時、当所の妙見を彼国へ勧請すといへり、
[中略]
本社 南向一丈七尺余に一丈九尺余、高二丈七尺八寸、前に幣殿り、一丈二尺に一丈八尺、高一丈八尺五寸、拝殿三丈六尺に一丈八尺余、高二丈三尺余唐破風作なり、
鳥居 木にて造る、南向柱間二丈、拝殿距ること四十三間程、此間切石を敷けり、社地には檜・杉生茂り、又大樫など若干株あり、此鳥居内にある末社下に記す、当社棟札左の如し、

合奉造武州秩父郡武光名大宮妙見大菩薩御社檀一宇檜皮葺成就畢
[中略]
右当社開基者仁王三十代 欽明天皇御宇、明要六年丙寅奉祝、 以而来至今天正廿年壬辰一千四十六年也
[中略]
御本事 薬師如来 脇持多門天座像一尊者、甚秘故不顕之、

東照宮御社 本社東南隅にあり
知々夫彦社 天照太神社 日御崎社 豊受太神社
七十五末社 本社の後ろより、少し左右へ折廻し、一棟にて七十五座区別す、片倉明神社 由留伎明神社 伊雑波明神社 羽野明神社 阿野権現社 多戸明神社 中原明神社 多賀明神社 枚岡明神社 大鳥明神社 住吉明神社 敢国明神社 都波岐明神社 伊射波明神社 熱田明神社 事麻知明神社 浅間明神社 三島明神社 寒川明神社 洲崎明神社 玉前明神社 香取大神宮 鹿島大神宮 南宮明神社 水無明神社 諏訪明神社 抜鉾明神社 二荒山明神社 都々古和気明神社 大物忌明神社 遠敷明神社 気比明神社 白山明神社 気多明神社 伊夜彦明神社 渡津明神社 天神地祇社 出雲明神社 籠守明神社 宇倍明神社 倭文明神社 物部明神社 由良姫明神社 仲山明神社 吉備明神社 厳島明神社 玉裡明神社 日前明神社 大麻彦明神社 田村明神社  都佐明神社 筥崎明神社 高良玉垂明神社 西寒田明神社 淀姫明神社  阿蘇明神社 和多積明神社 松尾明神社 吉田明神社 戸隠明神社 丹生明神社 貴布禰明神社 広瀬明神社 龍田明神社 正八幡宮  粟島明神社 恩智明神社 斯香明神社 熊野権現社 水尾明神社 白鬚明神社 御崎明神社 石出明神社 賀茂明神社 許波明神社


第1466話 2017/07/29

「[身冉]牟羅国=済州島」説を撤回

 「古田史学の会」内外の研究者による、『隋書』の[身冉]牟羅国についてのメール論争を拝見していて、これはえらいことになったとわたしは驚愕しました。
 今から22年も前のことなのですが、『古田史学会報』11号(1995年12月)でわたしは「『隋書』[身冉]牟羅国記事についての試論」という論稿で、[身冉]牟羅国を済州島とする仮説を発表しました。今から読み直すと、明らかに論証は成立しておらず、どうやら結論も間違っていることに気づいたからです。
 そこで、7月の「古田史学の会」関西例会にて22年前に発表した自説を撤回しますと宣言しました。そうしたら野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から「えぇーっ。古賀さん撤回するの?」と声があがり、「すみません。撤回します」と謝りました。学問研究ですから、間違っていると気づいたら早く撤回するに限る、意地をはってもろくなことにはならないと思い撤回したのですが、恥を忍んで撤回の事情と理由を説明します。
 これは言い訳にすぎませんが、当時は会員も少なく今ほど『古田史学会報』に原稿が集まらず、編集を担当していたわたしは不足分の原稿を自分で書くことがありました。その際、余った余白分の字数にあわせて原稿を書く必要がありました。11号の拙稿もそうした穴埋め原稿として仕方なく急遽執筆したことを憶えています。従って、論証も説明も不十分な論稿と言わざるを得ません。こうした事情が当時はあったのです。しかし、それでも掲載に問題ないと判断したわけで、40歳のときのわたしの学問レベルを恥じるほかありません。
 次に研究論文としての論証上の問題点を説明します。対象となった『隋書』の当該部分は次の通りです。

「其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗」「其南海行三月,有[身冉]牟羅國,南北千餘里,東西數百里」(『隋書』百済伝)

 この記事によれば、[身冉]牟羅國を済州島とするためには少なくとも次の論証が必要です。

①国の大きさが「南北千餘里,東西數百里」とあり、短里(1里76m)表記であることの説明。
②同じく国の形の表記が縦横逆であることの説明。
③その位置が百済の南「海行三月」の所と表記されていることの説明。
④『隋書』国伝には済州島のことを「[身冉]羅国」とされ、「[身冉]牟羅國」とは異なることの説明。

 この中で、拙稿でとりあえず説明したのは①と②だけで、③と④は検討課題として先送りにして論証していませんでした。しかも、今から見ると②の論証も不適切でした。すなわち、「筑後国風土記逸文」の磐井の墓(岩戸山古墳)の縦横の距離の表記が実際の古墳とは一見逆になっている例を[身冉]牟羅國にも援用したのですが、「筑後国風土記逸文」には「南北各六十丈、東西各四十丈」とあり、『隋書』百済伝の表記にはない「各」という文字があり、南北間が六十丈ではなく南辺と北辺が各六十丈という意味です。「東西各四十丈」も東辺と西辺が各四十丈となり、岩戸山古墳の現状に対応しています。他方、『隋書』の記事には「各」の字が無く、表記通り縦長の地形を意味していると理解せざるを得ず、従って横長の済州島では一致しません。
 『隋書』国伝の済州島の表記「[身冉]羅国」との不一致についても次のように曖昧に処理して、論証していません。
 「国伝には済州島が[身冉]羅国と記されている。はたしてこの[身冉]羅国と百済伝末尾の[身冉]牟羅国が同一か別国かという問題(通説ではどらも済州島とする)も残っているが、この表記の差異についても別に論じることとする。」
 このように問題を先送りにして、しかも別に論じることなく22年も放置していました。更に論稿末尾を次のような「逃げ」の一文で締めくくっています。
 「本稿では問題提起にとどめ、いずれ論文として詳細を展開するつもりである。」
 以上のように、22年前の拙稿は論証が果たされておらず、その後も論じることなく今日に至っています。そのため、わたしは自説を撤回しました。拙稿の誤りに気づかせていただいた「メール論争」参加者の皆さんに感謝します。それにしても、「若気の至り」とはいえ、インターネット上に後々まで残るみっともない論稿で、恥ずかしい限りです。