風土記一覧

第94話 2006/08/16

水鏡天満宮と櫛田神社

 お盆休みは、同窓会(久留米高専・化学科11期)に出席するために帰省しました。途中、福岡で友人と会うために博多駅で下車し、炎天下の博多の町を天神 まで歩きました。その時、水鏡天満宮の前を通りました。鳥居に掲げられた「天満宮」の額の文字は、いわゆるA級戦犯とされ、刑死した広田弘毅(総理大臣・ 外相)が11歳の時に書いたものです。

 博多祇園山笠で有名な櫛田神社の境内も通り抜けたのですが、社殿などが工事中で、その説明板には「1250年記念改修」というようなことが記されていま した。それを見て、そうすると同社鎮座は756年になるけれど、私は7世紀末頃だったと記憶していたので、京都に戻ってから調べてみました。
 『筑前国続風土記』には天平宝字元年(756)に勧請されたとありますから、ちょうど1250年前です。しかし、『筑前国続風土記拾遺』には中巌円月の書が引用されており、それには「持統天皇朱雀中之建也」とあります。朱雀は九州年号で、684〜685年のことですから、私はこちらの説を記憶していたので した。
  どうも櫛田神社の歴史も九州王朝と関係が深そうです。機会があれば調査研究したいものです。中巌円月の名前は冨川ケイ子さんの研究で知ったのですが(第67話「鎌倉時代の学問弾圧」を参照)、朱雀という九州年号とともに、ここに中巌円月の名前が出てきたことにちょっと驚きました。


第85話 2006/06/15

「白鳳壬申」骨蔵器の証言

 第83話に掲載した次の七世紀後半部分の九州年号を御覧になって、白鳳年間が他と比べて異常に長いことに気づかれたと思います。実はこの点も九州年号真作の論理性が現れているところです。そのことについて述べたいと思います。
常色 元(丁未)〜五 647−651
白雉 元(壬子)〜九 652−660
白鳳 元(辛酉)〜二三 661−683
朱雀 元(甲申)〜二 684−685
朱鳥 元(丙戌)〜九 686−694
大化 元(乙未)〜六 695−700

 九州年号中、最も著名で期間が長いのが白鳳です。『二中歴』などによれば、その元年は661年辛酉であり、二三年癸未(683)まで続きます。これは近畿天皇家の斉明七年から天武十一年に相当します。その間、白村江の敗戦、九州王朝の天子である筑紫の君薩夜麻の虜囚と帰国、筑紫大地震、唐軍の筑紫駐留、壬申の乱など数々の大事件が発生しています。とりわけ唐の軍隊の筑紫進駐により、九州年号の改元など許されない状況だったと思われます。
 こうした列島をおおった政治的緊張と混乱が、白鳳年号を改元できず結果として長期に続いた原因だったのです。従って、白鳳が長いのは偽作ではなく真作の根拠となるのです。たまたま白鳳年間を長期間に偽作したら、こうした列島(とりわけ九州)の政治情勢と一致したなどとは、およそ考えられません。この点も、偽作説論者はまったく説明できていません。
 この白鳳年号は『日本書紀』には記されていませんが、『続日本紀』の聖武天皇の詔報中に見える他、『類従三代格』所収天平九年三月十日(737)「太政官符謹奏」にも現れています。

 「詔し報へて曰はく、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ。」
  『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)

  「請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事
右得皇后宮織*觧稱*。始興之本。従白鳳年。迄干淡海天朝。内大臣割取家財。爲講説資。伏願。永世万代勿令断絶。(以下略)」
  『類従三代格』「太政官符謹奏」天平九年三月十日(737)

織*は、身編に織。糸編無し。
稱*は、人編に稱。禾偏無し。

 このように、近畿天皇家の公文書にも九州年号が使用されていたのです。特に聖武天皇の詔報に使用されている点など、九州年号真作説の大きな証拠と言えます。通説では、この白鳳を『日本書紀』の白雉が後に言いかえられたとしていますが、これも無茶な主張です。そして何よりも、白鳳年号の金石文が江戸時代に出土していたのです。
 江戸時代に成立した筑前の地誌『筑前国続風土記附録』の博多官内町海元寺の項に、次のような白鳳年号を記した金石文が紹介されています。

 「近年濡衣の塔の邊より石龕一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れす。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」
  『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺

 博多湾岸から出土した「白鳳壬申」(672年)と記された骨蔵器の記事です。残念ながらこの骨蔵器はその後行方不明になっています。なお、この『筑前国続風土記附録』は筑前黒田藩公認の地誌で、信頼性の高い史料です。
 これでも、大和朝廷一元史観の人々は、「九州年号はなかった。九州王朝もなかった。」と言い張るつもりでしょうか。少しは科学的で学問的な思考をしていただきたいものです。


第80話 2006/06/03

八十神と八十さん

 洛中洛外日記も第80話を迎えることができました。それにちなんで、昨年来研究発表してきた八十神(やそがみ)についてご紹介したいと思います(論文未発表)。
 「古層の神名」(第42話、他)で触れてきましたように、「そ」の神様を捜していたのですが、『古事記』の大国主神話(因幡の白兎説話など)の中に登場する八十神が「そ」の神様ではないかと気づきました。『古事記』では大国主のたくさんのお兄さんたちとして扱われていますが、本来は「そ」の神様である八十神と「ち」の神様であるオオナムチとの出雲・因幡の争奪戦争だったのです。ちなみに、この説話では大国主とはよばれずにオオナムチの名前で八十神と争っています。すなわち金属器以前の時代に起こった「そ」の神様の文明圏と「ち」の神様の文明圏の衝突の伝承が、古事記に大国主神話として盗用されていたのでした。
 それでは八十神の本拠地はどこでしょうか。これもひょんなことから判明しました。わたしの勤務先でのこと。営業部の報告を読んでいたところ、相手先の担当者名に八十(やそ)さんという方のお名前が記されていたのです。西条八十のように名前に八十があるのは知っていましたが、苗字にも八十があったのです。そこで、太田斉二郎さん(本会副代表)にお願いして、電話帳ソフトで八十さんの分布を調べて貰いました。そうしたらなんと、姫路市に集中分布していました。出雲や因幡にはほとんどありません。
 念のため『播磨風土記』を調べたところ、印南郡益気(やけ)の里の斗形(ますがた)山の記事に「石の橋あり。伝えていへらく、上古の時、此の橋天に至り、八十人衆、上り下り往来ひき。故、八十橋といふ。」とここに八十がありました。現在もこの八十橋の伝承地があります。益気(やけ)の里の「や」も八十の「や」と関係ありそうですね。また、揖保川下流には八十大橋もあります。従って、播磨の地には八十が古代から地名などで存在していることから、苗字の八十さんが姫路市に集中分布しているのも偶然の一致とは考えられません。播磨が八十神の本拠地だったのです。
 こうした視点から、先の『古事記』の神話を見直したとき、播磨の八十神と外来勢力であるオオナムチとの出雲・因幡争奪戦という構図が明確に浮かび上がってくるのではないでしょうか。そうするとオオナムチの本拠地はどこでしょうか。それはこれからの研究課題です。


第42話 2005/11/04

古層の神名「そ」

 「ち」や「け」の神様と共に、古田先生は「そ」の神様の存在も提起されています。阿蘇山や浅茅湾(対馬)、木曽などの地名に残っているアソやキソ、熊襲のクマソなどがその例として上げられています。特にアソやアソウの地名は全国に多数有ります。この他にも、「社」の読みにコソがあり、姫社(ヒメコソ)などの例が著名です(『肥前国風土記』)。ちょっと汚い例ですがクソも、この神名に関係ありそうです。
 ただ、この「そ」の神様の場合、「ち」や「け」と異なって、はっきりと「〜ソ」とわかる形で神名に残されていないように思います。もし、あれば教えて下さい。逆に言えば、それだけ古い神様なのかもしれません。
 最後に、この「そ」の神名についても、わたしは面白いアイデアを持っています。それは、日本の古称の一つである扶桑もフソという神名が語源ではないかというアイデアです。古代日本列島の人々がフソと神様を呼んでいたのを中国人が聞いて、扶桑という漢字を当てたのではないでしょうか。ただし、これは論証抜きの全くの思いつきですので、信用しないで聞き流していただいて結構です。


第28話 2005/09/16

卑弥呼(ひみか)の子孫は?

 古代の有名人と言えば、邪馬壹国(「邪馬台国」とするのは誤り。三国志原文は「邪馬壹国」やまいちこく)の女王卑弥呼(ひみか)でしょう。その卑弥呼の御子孫は続いているのでしょうか。結論から言うと、魏志倭人伝には卑弥呼は独身だったと記されていることから、直系の子孫はいないと思われます。しかし、後を継いだ同族の娘、壹與(「台與」とするのも誤り。原文は「壹與」)の子孫はいる可能性があります。
というのも、筑後国風土記逸文に次のような記事があるからです。

 「昔、此の堺の上に麁猛神あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いた)く多なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ひき。時に、筑紫君・肥君等占へて、今の筑紫君等が祖甕依姫(みかよりひめ)を祝と為して祭る。爾より以降、路行く人、神に害はれず。是を以ちて、筑紫の神と曰ふ。」

 この甕依姫(みかよりひめ)が卑弥呼のことである可能性が極めて高いことを古田先生は論証されましたが、そうすると甕依姫が「今の筑紫君等が祖」と呼ばれているように、風土記成立時点の「今」、おそらく6〜7世紀、あるいは8世紀時点の筑紫の君の祖先が卑弥呼であったことになります。すなわち、筑紫の君磐井や薩夜麻らが卑弥呼や壹與の一族の出であることになります(直接には壹與の子孫)。九州王朝の王であった筑紫の君の御子孫が現存されていることは、以前に述べましたが、この御子孫達が壹與直系の可能性を有しているのではないでしょうか。もちろん、九州王朝王家の血統も複雑のようですから、断定は控えますが、興味有る「可能性」だと思います。