2010年02月一覧

第245話 2010/02/21

九州年号「端政」 と菩薩天子

 昨日の関西例会では、姫路市の野田さんから天孫降臨の「笠沙」を御笠郡ではなく、クシフル岳の北側に位置する今宿の「笠掛」とする新説を発表されました。有力な仮説だと思いました。更なる証拠堅めが期待されます。
 正木さんからは今回も素晴らしい発見が報告されました。九州年号「端政」の出典が、中国南北朝時代の僧、曇鸞(467〜542)の著『讃阿弥陀仏偈』に ある「願容端正(政)」(菩薩の顔の相)ではなかったかというものです。隋書イ妥国伝の「海西の菩薩天子」の菩薩に対応しており、なるほどと思わせる発見でした。この多利思北孤と「菩薩天子」というテーマは法隆寺の本尊の変遷にも関わってきそうで、楽しみなテーマです。
 2月関西例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「栗隈王」など知らない・他(豊中市・木村賢司)

2). 天孫降臨の「笠沙」の所在地   ーー「笠沙」は志摩郡「今宿」である(姫路市・野田利郎)
 「笠沙」は「今宿」/古事記の「笠沙」/日本書紀の「笠狭の岬」/分散としての降臨/不可解なニニギノ命の行動/「既而」/「天浮橋」の用途/宗像から来たニニギノ命の行動/今宿に留まる、ニニギノ命

3). 常立神・その2ーー常根津日子とシキのハエ(大阪市・西井健一郎)

4). 謡曲と九州王朝3「多利思北孤」と『風姿花伝』(川西市・正木裕) 世阿弥著『風姿花伝』に記す、聖徳太子が秦河勝に命じた「六十六番の遊宴、六十六面製作」譚、及び法華経を六十六国の菩薩に納める「六十六部廻国」風習は、「海東の菩薩天子」たる多利思北孤の六十六国分割と、『二中歴』に記す端政元年法華経伝来の証左であり、また六十六国分割は仏教説話に由来する事を論じた。

5). 九州年号「端政(正)」改元と多利思北孤(川西市・正木裕) 多利思北孤の即位年号と考えられる「端政」(五八九〜)は、「正しい政治の始め」の意味と共に、菩薩の顔容を示す語『顔容端政』から採られた事、彼は物部討伐後、隋に備え難波・河内に進出、更に東国へ使者を派遣、全国を仏教にのっとり六十六に分国し、宗教上・政治上の権力を兼ね備えた「菩薩天子」を志向した。以上を南朝「梁」の武帝も崇拝した僧「曇鸞」の『讃阿弥陀仏偈』、端政年間の九州年号諸資料等から示した。

6). 忍熊王と両面宿儺などその他(木津川市・竹村順弘)

7). 魏志倭人伝は「漢音」で読んではいけない(京都市・古賀達也)

8). 前期難波宮と藤原宮の考古学(京都市・古賀達也)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・「淡海」八代海説ほか、遠賀川河口説、琵琶湖説比較考察・他(奈良市・水野孝夫)


第244話 2010/02/07

『古田史学会報』96号の紹介

 『古田史学会報』96号が発行されました。今号には正木さんと西村さんの秀逸な論文が掲載されています。どちらにも九州王朝史研究にとって貴重な方法論と仮説が提示されています。
 九州年号と『日本書紀』中の遷都遷宮記事との関連性を情況証拠と作業仮説の積み上げで肉薄を試みられた正木稿。7世紀後半の筑紫率である栗隈王は九州王朝の王族であるから、その孫の橘諸兄も九州王朝の王族で、九州王朝滅亡後に大和朝廷の左大臣まで上り詰めたとの骨太な論証を展開された西村稿。双方ともと
ても重要な研究と方法論と思われました。この方法論を更に援用展開することにより、失われた九州王朝の歴史が復原作業が進むものと期待されます。
 なお、最近『古田史学会報』への投稿が少なく、編集割付作業に苦労しています。投稿や地域の情報提供など、よろしくお願いいたします。

  『古田史学会報』96号の内容
○九州年号の改元について(後編) 川西市 正木裕
○橘諸兄考 —九州王朝臣下たちの行方— 向日市 西村秀己
○第六回古代史セミナー〜古田武彦先生を囲んで〜
  日本古代史新考自由自在(その二) 霧島市 松本郁子
○古賀達也の洛中洛外日記より転載
  纏向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない 京都市 古賀達也
○「人文カガク」と科学の間「科学の本質は自己修正的である事だ」カールセーガン
 「古田史学を語る会・奈良」太田齊二郎
○梔子(3) **古田武彦『古代は輝いていた』より** 深津栄美
○伊倉 十二 —天子宮は誰を祀るか—  武雄市 古川清久
○史跡めぐりハイキング古田史学の会・関西
○年頭のご挨拶 代表 水野孝夫
○古田史学の会関西例会のご案内
○割付担当の穴埋めヨタ話(2) 綱敷天神の謎 西村秀己


第243話 2010/02/06

前期難波宮と番匠の初め

 第224話において、寺井誠氏の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会)を紹介しましたが、そこで指摘された前期難波宮から北部九州の須恵器が出土しているという考古学的事実が何を指し示すのか、どのような証明力を有するのかをずっと考えてきました。

 というのも、通説通り前期難波宮が孝徳の王宮であれば、その建設に北部九州の工人達も参加したということになり、前期難波宮が九州王朝の副都であったという特段の証明力にならないという反論が予想されたからです。しかも、前期難波宮からは北部九州以外の土器も出土していますから、尚更です。
 こうした学問上の論証力という視点から、寺井論文の持つ意味についてより深い考察が必要と考え続けてきたのです。そして、寺井論文を何度も熟読するうちに、やがて論点がはっきりと見えてきたのです。その結論は、寺井論文はわたしの前期難波宮九州王朝副都説を間違いなく証明する貴重な考古学的事実を指し示しているというものでした。
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは 王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。ここまで論証が進むと、前期難波宮九州王朝副都説は揺るぎなく確立された最有力説と思うのですが、いかがでしょうか。