2015年11月一覧

第1100話 2015/11/30

高島忠平先生からのメール

 「洛中洛外日記」第1099話で高島忠平さんによる古田先生の追悼記事が「西日本新聞」11月4日朝刊に掲載されていることをご紹介しました。とても誠実な追悼文でしたので、高島先生にメールでお礼を申し上げ、『古代に真実を求めて』古田先生追悼特集号への転載許可をお願いしたところ、ご了解のメールをいただきました。大変有り難いことと感謝しています。機会があれば、佐賀市の旭学園を訪問し、お礼を申し上げたいと思います。
 11月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com )まで、メールでお申し込みください。(「洛洛メール便」は当会会員向けのサービスです。)

11月の「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル

2015/11/01 角替豊さんと旧交をあたためる
2015/11/04 城南海さんの新曲「月と月」が美しい
2015/11/07 わたしが死んだら、賀茂川に入れて魚に与えよ
2015/11/10 朝来市の赤淵神社訪問
2015/11/15 中島みゆきと古田先生
2015/11/18 赤淵神社文書の撮影調査を実施
2015/11/20 最古の木造建築物、法隆寺の耐震技術
2015/11/27 大阪大学中之島センターで講演


第1099話 2015/11/29

高島忠平さんが追悼記事

 「洛中洛外日記」の読者で久留米市の犬塚幹夫さんからメールをいただき、「西日本新聞」11月4日朝刊に高島忠平さんによる古田先生の追悼記事が掲載されていることを教えていただきました。
 高島さんは吉野ヶ里遺跡を発掘された著名な考古学者で、学界内では少数派の「邪馬台国」九州説に立たれています。現在は学校法人旭学園(佐賀市)の理事長をされておられますが、古田先生とは古くから親交がありました。1991年8月に昭和薬科大学諏訪校舎で1週間にわたり開催された「古代史討論シンポジウム『邪馬台国』徹底論争 --邪馬壹国問題を起点として--」(東方史学会主催)に、七田忠昭さんとともに参加されています。そのときの発表や討論の内容は『「邪馬台国」徹底論争』1〜3巻(新泉社)に収録されています。24年前のことですが、読み返してみますと、懐かしさがこみ上げてきます。
 「西日本新聞」の追悼記事は「古田武彦さんを悼む」という表題とともに、「常識、定説、権威に対する疑問と反抗心」という見出しと先生の遺影・著作の写真が掲載されています。そして「邪馬壹国」説に始まり、「多元的古代」「九州王朝」説にもふれられ、「私は多元的古代史観に共感している。古田さんの描く九州王朝説をそのまま受け入れられないが、「地域史観」を持っている。(中略)私も邪馬台国のフォーラムに呼ばれたことがある。自説は確固として、激しく主張されるが、他説には謙虚に耳を傾けておられた姿が印象的であった。」と記されています。
 そして最後に、「古田さんは、もともとは思想史が専門で、親鸞の研究で知られている。既成の日本仏教に反旗をひるがえし、仏教に革命をもたらした親鸞と古田さんの間には、共通して常識、定説、既成の権威に対する絶えない疑問と反抗心があったように思う。冥界で出会った2人はどんな論争をしているだろうか。ご冥福を祈ります。」と結ばれており、とても誠実な追悼文です。先生も冥界で喜んでおられることでしょう。高島さんに感謝したいと思います。なお、同記事の全文は「古田史学の会」やわたしのfacebook(Tatuya Koga)に張り付けていますので、ぜひご覧ください。


第1098話 2015/11/28

『邪馬壹国の歴史学』のゲラ校正

 本日、「古田史学の会」編集(編集長:服部静尚さん)の『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の初校用ゲラがミネルヴァ書房から送られてきました。
 同書は古田先生が亡くなられて最初に「古田史学の会」が発行する本となりました。先生が亡くなられる前に執筆していた「はじめに」を急遽書き換えて、追悼の言葉を入れました。また、巻頭には古田先生の遺影を掲載することにしました。先生からもご寄稿いただきましたが、それは「古田史学の会」として先生からの最後の原稿となりました。
 わたしの論稿からは次のものが収録されますが、中でも「『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-」は先生からお褒めいただいた自信作です。

○はじめに --追悼の辞
○『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-
○『三国志』中華書局本の原文改訂
○纒向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず

 わたしが論文を発表するとき、いつも第一読者として古田先生を意識してきました。先生から褒められた論文はそれほど多くはありませんが、これからは先生から褒められることもお叱りをうけることもなく、亡師孤独の研究の日々が続きます。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の内容は古田先生から高い評価をいただいたもので、わたしたち「古田史学の会」の総力を結集して作り上げた一冊です。来年1月17日の「古田武彦先生追悼講演会」に発刊を間に合わせたいと願っています。そして、謹んで先生の御霊前に進呈したいと思います。


第1097話 2015/11/27

『赤淵大明神縁起』の史料状況

 「洛中洛外日記」第1093話で、永禄三年(1560)成立の『赤淵大明神縁起』をオール漢字の『赤淵神社縁起』を読み下したものと紹介したのですが、それはわたしのとんでもない勘違いでした。同書の存在を教えていただいた金沢大学のKさんから届いたメールによると、Kさんがわたしに提供されたものは『赤淵大明神縁起』をKさんが書き下ろして訳されたもので、原本は漢文とのことでした。
 『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)は福井県文書館に所蔵されており、同館のデジタルライブラリーで閲覧可能でした。パソコン画面で拝見しますと、本文は赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』とほとんど同文のようです(比較精査中)。また、両者の活字本の共通した「欠字」部分は、欠字ではなく、ワープロに無い文字(梵字か)であったため、共に「欠字」のような扱いとなっていたことも、赤淵神社で原文を実見して判明しました。『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)をワープロで活字起こしされたKさんからも、このことを確認できました。この点も、わたしの「早とちり」でした。
 既に指摘したことですが、『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)には末尾に「天長五年」という年次表記がなく、体裁としては永禄三年(1560)に心月寺(福井市)の才応総芸によるものとなっています。その理解が正しいとすると、赤淵神社にあるほぼ同文の『赤淵神社縁起』は才応総芸による『赤淵大明神縁起』の写本となってしまうのですが、その場合、末尾の「天長五年」という年次表記が意味不明となってしまいます。
 なお赤淵神社には、ともに「天長五年」の年次表記を末尾に持つ、内容が若干異なる「赤淵神社縁起」が2種類あり、このことも含めて才応総芸による『赤淵大明神縁起』との関係などを引き続き調査検討する必要があります。
 ちなみに、才応総芸が『赤淵大明神縁起』を書いたとき、九州年号の「常色元年(647)」「常色三年(649)」「朱雀元年(684)」をそのまま使用しており、永禄三年(1560)にそれら九州年号による表米の活躍を記した史料が存在していたことは疑えません。そして、才応総芸はそれら九州年号を『日本書紀』にある「大化(645〜649)」や「朱鳥(686)」に書き換えることなく、そのまま九州年号で『赤淵大明神縁起』を書いたとすれば、それが創作であれ書写であれ、才応総芸の「古代年号」認識を考える上で興味深い史料状況です。(つづく)


第1096話 2015/11/24

正倉院の毛製宝物の材質

 本日、大阪市天王寺区のホテルアウィーナ大阪で開催された繊維応用技術研究会に出席し、奥村章(おくむら・あきら)さん(消費科学研究所・技術顧問)の講演「正倉院の毛製宝物の材質を調べる」の座長をさせていただきました。
 講師の奥村さんは北海道大学農学部を卒業後、大阪府立産業技術総合研究所に勤務され、平成21〜24年の秋の正倉院開封期間中に特別材質調査の調査員として、毛製宝物の筆、伎楽面、伎楽衣装、毛氈(もうせん)、鞆、馬具など117点の材質を調査されました。ちなみに、正倉院は校倉造りとされていますが、「北倉」と「南倉」のみが校倉作りで、「中倉」は板倉造りで、内部は二階建てだそうです。現在、正倉院内部は空で、宝物は「西宝庫」に保管されているとのこと。
 その調査結果や調査方法などの体験談をお聞かせいただいたのですが、走査電子顕微鏡(SEM)やソフトX線透視画像により明らかとなった新知見など、とても興味深いものでした。とりわけ、従来はカシミアに似た故品種の山羊やアンゴラ山羊(モヘア)とされていた毛氈(フェルト生地)の材質が、実は羊毛であったという素材判定結果は新聞でも報道され、今年の正倉院展でも展示され注目されたところです。
 奥村さんの調査成果は画期的なものとされ、「正倉院の毛製品宝物の調査は、今後50年はしなくてもよい」との高い評価がなされたそうです。「古田史学の会」講演会の講師としてお呼びする機会があればと思います。
 歴史研究における最新の科学分析技術の進化発展に比べると、旧来の大和朝廷一元史観から未だ抜け出すことができない日本古代史学界の後進性には絶望感を覚えました。


第1095話 2015/11/21

関西例会で赤淵神社文書調査報告

 今日の関西例会は冒頭に西村さんから、那須与一が扇の的を射たのは現地伝承の高松市牟礼町側(東側)ではなく、西の屋島側からとする考察が発表されました。西側からでないと逆光(夕日)となり、眩しくて的を射ることは困難とのことです。また、その日の戦闘で那須与一は屋島の「内裏」焼き討ちに参戦しており、屋島側にいたことは明らかです。従って、現在の「現地伝承」は信用できないとされました。
 正木裕さんからは、北海道のアイヌの聖地(沙流川水系額平川・沙流郡平取町)から産出される「アオトラ石(縄文時代の石斧の材料・緑色片岩の一種)」を紹介され、古田先生が『真実の東北王朝』で記されたとおり、アイヌ神話(アイヌの「天孫降臨神話」)が縄文時代にまで遡ることを報告されました。
 11月18日に実施した朝来市の赤淵神社文書現地調査報告として、茂山憲史さんが撮影された文書の写真をプロジェクターで映写し、正木さんから説明されました。
 わたしからも、赤淵神社縁起が2種類あり、どちらがより原型を保っているのか史料批判上判断しがたいことを説明しました。いずれにしても平安時代成立(天長5年、828年)の史料に九州年号の「常色」や「朱雀」が記されていることには違いなく、九州年号を鎌倉時代に僧侶が偽作したとする「通説」を否定する直接史料であることを強調しました。引き続き、同史料の調査分析を進めたいと思います。
 11月例会の発表は次の通りでした。

〔11月度関西例会の内容〕
①那須与一「扇の的」の現場検証(高松市・西村秀己)
②「最勝会」について(八尾市・服部静尚)
国伝の「東西五月行南北三月行」(姫路市・野田利郎)
④『園部垣内古墳』を読んで(京都市・岡下英男)
⑤『真実の東北王朝』は「真実」だった(川西市・正木裕)
⑥赤淵神社文書映写(茂山憲史氏撮影。解説:正木裕さん)
⑦赤淵神社文書現地調査報告(京都市・古賀達也)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼会の準備・森嶋瑤子さん(森嶋通夫夫人)へメッセージ要請・KBS京都「本日、米團治日和」テープ起しの校正・史跡巡りハイキング(阪神香櫨園駅周辺、辰馬考古資料館)・TV視聴(奈良大学文学講座)・光石真由美『旅を書く』・大橋乙羽『千山萬水』・その他


第1094話 2015/11/17

「大阪異業種交流プラザ」で服部さんが講演

 本日、大阪市北区大手前のアスコット社で開催された「大阪異業種交流プラザ」で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が講演されましたので、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)や茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)とともに参加してきました。演題は「古代史が語る天王寺と四天王寺の真相」というもので、なぜ地名(天王寺区)とお寺(四天王寺)の名前が異なるのかという問題を、金光明経や九州年号、九州王朝説という視点から解明するという講演でした。
 質疑応答ではわたしにもご質問いただいたので、「日本最初の年号、大化」や「聖徳太子」が歴史教科書から消えつつあることを古田説に基づいて説明しました。参加者は大阪市の企業経営者の方々が多く、初めて聞かれる九州王朝説・多元史観に驚いておられました。
 講演後の懇親会でも、とても面白かったとなかなかの評判で、「古田史学の会」に入会して勉強したいというご婦人も現れたほどです。会場を提供されていた株式会社アスコットの森井義雄社長は、箸墓古墳が卑弥呼の墓と考えておられる方ですが、「古賀さんの説明は論理的で反論のしようがなかった」とお褒めの言葉をいただきました。
 服部さんや主催者のみなさんのおかげで、また古田史学の輪が広がりました。古田先生の本を読みたいと、著作名を聞かれる方もあらわれ、古田史学の持つ真実の学問の力を改めて感じることができました。


第1093話 2015/11/14

永禄三年(1560)成立『赤淵大明神縁起』

 朝来市の赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』の研究を「洛中洛外日記」で連載したところ、金沢大学のKさんからメールをいただき、以来、学問的な交流が続いています。今回、Kさんから『赤淵大明神縁起』(松平文庫本)の存在を教えていただきました。いただいたメールによると、『赤淵神社縁起』は朝倉義景が永禄三年(1560年)に心月寺(福井市)の才応総芸に命じて作らせたとされる『赤淵大明神縁起』に酷似しているということなのです。
 そこで、先日拝見させていただいた赤淵神社所蔵の『赤淵神社縁起』(活字本、天長五年成立)と比較したところ、オール漢字の『赤淵神社縁起』を読み下したものが『赤淵大明神縁起』であることがわかりました。しかも、『赤淵大明神縁起』は欠字が多く、『赤淵神社縁起』の方がより祖形であると判断できました。
 しかも両者は恐らく同系統の原本に基づいていると考えられます。その根拠の一つは、冒頭近くにある次の文の※部分の字が共に欠字となっており、既に※の部分が欠字となった共通の原本(の系統)によったと考えられるからです。

 「吾朝大日※字之上具足国也雖為小国号大日本国」(『赤淵神社縁起』赤淵神社所蔵本)

 「吾ガ朝ハ大日※字ノ之上ニ□テ?□足スル国也、小国為リトイヘドモ、大日本国ト号ス、」(『赤淵大明神縁起』松平文庫本)
 〔古賀注〕「※」「□」は欠字。「?」は活字が読みとれませんでした。

 この他にも、『赤淵大明神縁起』では九州年号の「常色元年」(647年)という表記が「常□元年」(□は欠字)となっていたり「常常元年」となっている部分があり、『赤淵神社縁起』赤淵神社所蔵本の方が良好な写本です。しかも、『赤淵大明神縁起』松平文庫本の末尾には書写年次は「永禄三年庚申六月六日 総芸 判」と記されていますが、書写原本の成立年次「天長五年」(828年)は記されていません。もちろん、最終的には活字本ではなく原本での確認が必要です。
 この『赤淵大明神縁起』松平文庫本により、『赤淵神社縁起』赤淵神社所蔵本の書写原本、あるいは同系統本の存在が永禄三年(1560年)までは確実に遡れることとなりました。
 心月寺(福井市)の才応総芸に『赤淵大明神縁起』の作成を命じた朝倉義景は表米宿禰の子孫ですから、みずからの出自が7世紀の表米宿禰であり、表米宿禰は孝徳天皇の皇子であるとする『赤淵大明神縁起』やその伝承を重要視していたことは確かでしょう。こうして、平安時代成立の九州年号史料『赤淵神社縁起』の研究はまた一歩進展しました。こうなると学問のためにも、赤淵神社所蔵原本を拝見する機会を得たいと願っています。


第1092話 2015/11/13

「とーとーたらり、とーたらり」

 奄美大島出身の歌手、城南海(きずき・みなみ)さん(25歳)のニューアルバム「尊々加那志〜トウトガナシ〜」を購入したのですが、奄美大島の方言で「尊々加那志〜トウトガナシ〜」とは「大切なあなた」「尊い人」という意味とのこと。そこで、謡曲「翁」などで歌われる意味不明のフレーズ「とーとーたらり、とーたらり」の「とーとー」とは「尊い」「大切な」という意味ではないかと思いつきました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が謡曲に滅法詳しいので、先日、朝来市の赤淵神社訪問のおり、おたずねしました。やはり「とーとーたらり」は「翁」で謡われるものの、意味は諸説有るが不明とのことでした。
 インターネットで調べたところ、「とーとー」は「尊い」とする説があり、その発音からも現代語の「とおとい」と共通したものと思われました。「たらり」は「きらり」とひかるという説があり、「大切なもがきらきら光っている」という意味でしょうか。沖縄や奄美大島で「たらり」という方言があれば、それは有力説となりそうですが、ご存じの方があればご教示ください。
 いずれにしても、「とーとーたらり」で始まる「翁」などの謡曲の歌詞の淵源は南方系のようです。しかし、時代の流れの中で、意味不明となってしまった歴史的背景が問題となります。このテーマも古田先生が提起された言素論で解明できれば面白いのですが、引き続き検討したいと思います。


第1091話 2015/11/11

『記紀九州』創刊号の鳩山邦夫議員の発言

 久留米市の福島雅彦さんから『記紀九州』創刊号(平成27年11月10日、梓書院)を御贈呈いただきました。表紙にはかわいい女の子のイラストとともに、「古事記・日本書紀からひもとく九州王朝説」「九州から見直す日本の歴史!!」とあり、九州王朝説をコンセプトとした雑誌です。このような雑誌が九州王朝のお膝元の筑後地方から発信される時代になったようです。古田先生が生きておられれば、きっと目を細めて喜ばれたことと思います。
 同書では福島雅彦さんのほか大矢野範義さんらが独自のを「邪馬台国」論や「九州王朝」論を展開されています。また、“マンガでわかる「九州王朝説」”と銘打たれた平沢弘明さんの「まほろば!」も掲載されており、企画にも工夫がこらされています。
 なかでも注目した企画は、冒頭に掲載された衆議院議員の鳩山邦夫さん(福岡6区)のインタビュー記事です。鳩山さんは編集子からの「古代九州王朝の議論につきましてお話をお聞きします。」という質問等に答えるかたちで、次のように述べられておられます。

 (前略)私は「邪馬台国九州説」を強く支持しています。また、『古事記』や『日本書紀』の研究を通して、古代王朝が邪馬台国と関係があるのかないのかという問題は、重要な問題であります。日本の古代史の時代が北部九州で展開されたという可能性を考察するこのような議論は、日本の古代史を再考察する上でも重要で、興味深い取り組みであると考えています。
 私は、このような「九州王朝論」の取り組みが成功して新しい日本史研究が出現すると期待しています。そして、将来、日本史の教科書が「九州王朝論」の成果を取り入れて書き換えられていくと期待しています。(後略)

 鳩山議員の言葉通り、歴史教科書に古田説・多元史観が採用される日が一日もはやく来るよう、「古田史学の会」は頑張っていきたいと思います。

(補記)『記紀九州』を発刊された梓書院(福岡市)は、安本美典責任編集『季刊邪馬台国』を発行されている出版社です。


第1090話 2015/11/10

「古田武彦先生追悼講演会」のご案内済み

 10月14日に御逝去された古田先生の追悼講演会を、来年1月17日(日)、大阪市浪速区の「大阪府立大学なんばサテライト(I-siteなんば)」にて執り行うことといたしましたので、取り急ぎご案内申し上げます。
 年内に京都で開催すべく検討を進めてきましたが、時節柄会場や宿泊施設の確保が困難なため、「古田史学の会」が予定していました新年講演会の会場をそのまま利用し、「古田武彦先生追悼講演会」とすることにしました。なお、『古田史学会報』などでご案内したとおり、新井宏氏にご講演いただきます。
 既に、松本深志高校時代の教え子、北村明也様(古田史学の会・松本)や御遺族(古田光河様)らのご臨席のご承諾もいただいています。また、東北大学の御後輩で日本思想史学会前会長の佐藤弘夫教授からもメッセージをいただけるはこびです。
 ご来賓や式次第などの詳細は決まり次第、ご報告いたします。古田先生とのお別れに多くの皆様にご臨席賜りますよう、お願い申しあげます。なお、主催は「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)」「多元的古代研究会」「古田史学の会」の三団体で、ミネルヴァ書房様協賛での開催となります。

古田武彦先生追悼講演会のご案内

期日 2016年 1月17日(日)午後1時から4時30分まで
場所

大阪府立大学I-siteなんば2階C会議場
          カンファレンスルーム

住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル2階
大阪府立大学I-siteなんばの交通アクセスはここから。

南海電鉄難波駅なんばパークス方面出口より
       南約800m 徒歩12分
地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より
       南約1,000m 徒歩15分
地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)
    1号出口より東約450m 徒歩7分

講演
1).追悼式 午後1時〜2時30分
2). 古代史講演会 午後3時〜4時30分

  「鉛同位体比から視た平原鏡から三角縁神獣鏡」
      新井 宏氏

 銅鏡に含まれる鉛同位体の分析から、「三角縁神獣鏡の大部分は複製を含めた国産である」とされている冶金学者で『理系の視点からみた「考古学」の論争点』などの著書があります。
(韓国国立慶尚大学招聘教授)

 

なお終了後、懇親会(別途申込)も実施されます。

参加費

無料


第1089話 2015/11/08

「死んだら地獄に行きたい」

 親鸞は当時としてはかなり長寿で、90歳で没しました(1173〜1262)。これは数え年ですから、満年齢では89歳となり、古田先生も親鸞と同年齢で亡くなられたことに気づきました。もしかすると、古田先生はこの親鸞の没年齢を意識されていたのかもしれません。というのも、KBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録(8月27日)で、米團治さんの質問に対して次のように答えておられるのです。

米團治さん「まだまだ先生、研究を続けられますよね。」
古田先生「まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思います。」

 このとき、古田先生は笑いながら答えておられましたので、冗談とわたしは受け止めていました。
 似たようなお話ですが、近年、古田先生は講演で「死んだら地獄に行きたい」と言われるようになりました。地獄には現世で浮かばれなかった人々、恨みをいだいた人々が行っているはずだから、そうした人々の声こそ聞いてみたいという、先生ならではの学問的好奇心に基づいたロジックと、わたしは受け止めていました。しかし、そう言われる先生の思いは、もっともっと深いところにあったのではないかと考えるようになりました。
 古田先生が「日本人の魂の古典」といわれた、『歎異抄』(親鸞の言葉を弟子の唯円が記したもの)の中に、その「地獄に行きたい」の真意をうかがうヒントがあったのです。その『歎異抄』の中でも、先生のお気に入りだった第二条に次の有名な親鸞の言葉があります。

 「たとい法然聖人にだまされて、念仏して地獄に落ちてしまっても、少しも後悔するはずはないのです。その理由は、ほかの行にはげんでも、仏になる身が、念仏したために地獄に落ちるのでしたら、確かに「聖人にだまされて」という後悔もしましょうが、どんな行もおよびがたい、わたしの身だから、どうあろうと、もう地獄はきまりきったすみかだ。」(古田武彦訳。『人と思想 親鸞』清水書院)

 親鸞が「もう地獄はきまりきったすみかだ。」と言い切った『歎異抄』のこの言葉を、青年の日から晩年まで親鸞研究を続けられた古田先生が「地獄に行きたい」というとき、意識されなかったはずはありません。その親鸞が行った地獄に古田先生は行きたいと言われたのではなかったでしょうか。
 わたしは主に日本古代史を古田先生から学びましたが、おりにふれて親鸞や鎌倉仏教、そして思想史についてもお話をうかがいました。そうした先生の言葉を「洛中洛外日記」などでこれからもご紹介していきたいと思います。

参考 親鸞流罪記録について