2023年06月一覧

第3057話 2023/06/30

『続日本紀』の古歌「西の都」考

 『続日本紀』寶龜元年三月条に、歌垣で歌われた次のような「古歌」が見えます。

「乙女らに男立ち添ひ踏みならす、西の都は万代の宮」
「淵も瀬も清く爽(さやけ)し博多川、千歳を待ちて澄める川かも」

当該記事全文は次のようです。原文は本稿末尾に掲載しました。

【宝亀元年三月条】
辛卯の日、葛井(ふじい)・船・津・文・武生(たけふ)・蔵の六氏の男女二百三十人、歌垣に供奉す。その服は並に青ずりの細き布衣を着て紅(くれない)の長き紐を垂る。男女相並び行を分かちておもむろに進む。歌ひて曰く、
「乙女らに男立ち添ひ踏みならす、西の都は万代の宮」
と。その歌垣歌ひて曰く、
「淵も瀬も清く爽(さやけ)し博多川、千歳を待ちて澄める川かも」
と。歌の曲折毎に、袂(たもと)を挙げて節となす。その余四首並に是れ古詩なり。また煩はしくは載せず。時に五位より已上・内舎人及び女嬬に詔して、亦其の歌垣の中に列す。歌数終はる時、河内の太夫従四位の上藤原の朝臣雄田麻呂より已下、和舞(やまとまひ)を奏す。六氏の歌垣に人ごとに商布二千段綿五百屯を賜ふ。

 三十年ほど前、わたしが九州王朝歌謡(君が代・海行かば)の論文を執筆していたとき(注①)、この『続日本紀』の歌の存在を知り、九州王朝関連の歌のようだという感触は得たものの、決め手がなく、判断を保留していました。その後、「再考 洞田稿の視点 「西の都」はどこか」(注②)でも再検討したのですが、やはりうまく説明できず、疑問を解消できませんでした。そこでの課題は「西の都」を太宰府としたとき、それに対応する「東の都」を見いだせなかったからです。そのときの考察の様子を次のように記しています。

〝新日本古典文学大系『続日本紀』の解説では、「西京の由義宮の永遠の繁栄を歌う頌歌」とされているが、由義宮が西京と定められたのは神護景雲三年(769)十月のことで、歌垣の前年のことだ。ところが、これらの歌のことを「是れ古詩なり」と記されており、由義宮を西京に定めたために新たに創作された歌ではないことがわかる。すなわち、古くからあった歌を由義宮用に転用したのだ。
とすれば、この西の都とはどこだろうか。近畿天皇家の都とすれば、大和に対して西にあった都の有力候補は「難波宮」であろう。〟
〝九州王朝の都と考えた場合はどうだろうか。この場合、二つのケースが考えられる。「西の都」という表現が、近畿天皇家から見て、西にある九州王朝の都、たとえば太宰府といった場合。「遠の朝廷」という表現もこれと類似視点(時間・空間)か。もう一つは複数ある九州王朝の都のうち、西に位置する都をさす場合だ。この場合、この歌は九州王朝内での視点で作られたことを意味する。
いずれの場合も、糸島博多湾岸にあった都であれば、天孫降臨以来の伝統を持っており「万代の都」という表現はピッタリだ。ただ、後者の場合、西の都に対して、東の都が九州王朝内部になければならない。(中略)前者の場合も可能性としては否定できないが、近畿天皇家内部で九州王朝の都を讃える歌を創作し、伝承されてきたということになり、やや不自然な感じがする。〟

 この再考察から四半世紀を経た今であれば、有力な仮説を提示できます。それは、「西の都」は博多湾岸や太宰府にあった九州王朝の都「万世の都」であり、「東の都」は652年(九州年号の白雉元年)に創建した前期難波宮(難波京)とする仮説「両京制」です。前期難波宮九州王朝複都説が成立したおかけで、三十年来の疑問に一応の回答を見いだすことができました。学問研究の進歩を実感できたテーマでした。

(注)
①古田武彦・藤田友治・灰塚照明・古賀達也『「君が代」、うずまく源流』新泉社、一九九一年。
②古賀達也「再考 洞田稿の視点 「西の都」はどこか」『古田史学会報』26号、1998年。

【『続日本紀』寶龜元年三月条】
辛夘、葛井・船・津・文・武生・藏六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並着青摺細布衣、垂紅長紐。男女相並。分行徐進。
歌曰、
「乎止賣良尓 乎止古多智蘇比 布美奈良須 尓詩乃美夜古波 与呂豆与乃美夜」
其歌垣歌曰、
「布知毛世毛 伎与久佐夜氣志 波可多我波 知止世乎麻知弖 須賣流可波可母」
毎歌曲折、擧袂爲節。其餘四首、並是古詩、不復煩載。時詔五位已上、内舍人及女孺、亦列其歌垣中。歌數闋訖、河内大夫從四位上藤原朝臣雄田麻呂已下奏和舞。賜六氏歌垣人商布二千段、綿五百屯。


第3056話 2023/06/29

『九州王朝の興亡』出版記念

  東京講演会(8月5日)のお知らせ

『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26集)の出版記念東京講演会

『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26集)の出版記念東京講演会を8月5日(土)に開催します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今月発行した『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26集)の出版記念東京講演会を8月5日(土)に開催します。正木裕さんとわたしが講演させて頂きます。詳細は下記の通りです。講演会終了後には、開催にご協力いただいた東京の二つの友好団体(東京古田会・多元的古代研究会)役員の方と懇親の場を持ち、友好を深め、古田史学や古田学派の将来像について語り合えればと思います。

□『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26集)出版記念東京講演会

[日時] 8月5日(土) 13時40分~16時30分 (開場13:20)
[会場] 文京シビックセンター(文京区役所 4Fシルバーホール)

[演題/講師]
○海を渡った万葉歌人 ―柿本人麿系図と「遠の朝廷」― 古賀達也(古田史学の会・代表)
○『旧唐書』と『続日本紀』に記された王朝交代 ―隼人は「千年王朝」の主だった― 正木 裕(古田史学の会・事務局長)

[参加費] 500円(資料代) ※予約不要・先着100名とさせていただきます。
[主催] 古田史学の会 [協力] 多元的古代研究会・古田武彦と古代史を研究する会


第3055話 2023/06/28

30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む

 最近、『古田史学会報』投稿論文審査の必要性から、30年前に発表した拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」(注①)を読みました。当論文は、1991年に信州白樺湖畔の昭和薬科大学諏訪校舎で開催された古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム発表者の研究論文を収録した『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』に掲載されたものです。わたしは同シンポジウムの実行委員会の一員として運営に徹していたのですが、古田先生のご配慮により、特別に論文掲載を許されました。しかも、内容は「邪馬台国」論争と殆ど無関係な『三国史記』の史料批判をテーマとしたものでした。

 同稿の主論点は『三国史記』新羅本紀に見える八~九世紀の日本国記事の日本は大和朝廷ではなく王朝交代後の〝九州王朝〟のことであるとするものです。すなわち、列島の代表王朝の地位を大和朝廷に取って代わられた後も、〝九州王朝〟は完全に滅亡したわけではなく、新羅と〝交流〟〝交戦〟していたとする仮説です。その根拠として、新羅本紀に記された日本国記事の内容が大和朝廷(近畿天皇家)の『続日本紀』の記事とほとんど対応していないことを指摘しました。

 一旦、この理解に立つと、新羅本紀の文武王十年(670年)の記事に見える倭国から日本国への国号変更記事(注②)は、九州王朝が国名を倭国から日本国に変更したと見なさざるを得ないとしました。

 この理解は古田説とは異なるものでしたが、古田先生から咎めらることもなく、『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』に採用していただきました。当時、わたしの関心事は701年の王朝交代後の九州王朝がどうなったのかということでしたので、関連論文を発表し続けていました(注③)。なお、当論文の末尾をわたしは次のように締めくくっています。

 〝「孤立を恐れず。論理に従いて悔いず。一寸の権威化も喜ばす」とは古田武彦氏の言である。思うに、この言葉に導かれて本稿は成立し得た。学恩に深謝しつつ筆を擱くこととする。〟

 37歳の時の未熟な論文ではありますが、今、読み直しても、研究の視点や学問の方法は大きく誤ってはいないようです。(つづく)

(注)
①古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂、1993年。
②「文武十年(670年)十二月、倭国、更(か)えて日本と号す。自ら言う「日の出づる所に近し。」と。以て名と為す。」『三国史記』新羅本紀第六、文武王紀。
③王朝交代後の九州王朝について論じた次の拙稿がある。
「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
 「九州王朝の末裔たち ―『続日本後紀』にいた筑紫の君―」『市民の古代』12集、市民の古代研究会編、1990年。
「空海は九州王朝を知っていた ―多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ―」『市民の古代』13集、1991年、新泉社。


第3054話 2023/06/27

元岡遺跡出土木簡に遺る

      王朝交代の痕跡(4)

 元岡・桑原遺跡群出土の二つの紀年木簡、「大寶元年辛丑」(701年)木簡と「壬辰年韓鐵□□」木簡の考察を続けてきましたが、同遺跡からは次の二つの「延暦四年」(785年)木簡も出土しています(注①)。

・口壹升(サイン・花押)
・計帳造書口粮用(伋)口
延暦四年六月廿四日

献上  □□□(沙)魚皮〈折損〉延暦四年十月十四日真成

 701年に王朝交代し、785年にもなると木簡の紀年表記は年号(延暦四年)だけとなり、干支は使用されていません。しかも年号記載箇所は、「大寶元年辛丑」木簡とは異なり、文末に移動します。この頃になると、九州王朝時代の干支表記の伝統が失われていたことがわかります。

 九州王朝は早くから干支に強いこだわりを見せていたように思います。それを象徴するのが元岡遺跡群の古墳から出土した〝四寅剣(刀)〟です(注②)。それには金象眼で次の銘文が記されています。

大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)

 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、570年の庚寅であることがわかります。冒頭の「大歳庚寅」は『日本書紀』の用例に従えば、九州王朝の天子の即位年干支が庚寅であることを意味しますが、この年に九州年号が和僧から金光に改元されており、天子即位による改元と思われます。ところがこの年干支と日付干支が共に庚寅であることに着眼されたのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)でした。

 正木さんによれば、干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣(しいんけん)といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、570年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前3時~5時)に造られたのであれば四寅剣になることに気付かれたのです。朝鮮半島では古代から中近世にかけて四寅剣が数多く作られ、国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです(注③)。この四寅剣(刀)のように、九州王朝は干支の持つ意味に関心を示しており、荷札木簡にさえも年号ではなく干支表記を採用したことに、国家としての深い政治思想が込められていたと思われるのです。

(注)
①『元岡・桑原遺跡群8 ―第20次調査報告―』福岡市教育委員会、2007年。
服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。花押が古代木簡に使用されていたとする見解を服部秀雄氏は提起しており、興味深い。
②古賀達也「洛中洛外日記」339話(2011/09/25)〝「大歳庚寅」象眼鉄刀銘の考察〟
同「洛中洛外日記」340話(2011/10/01)〝「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元〟
同「洛中洛外日記」341話(2011/10/02)〝「大歳庚寅」銘鉄刀の目的〟
同「洛中洛外日記」342話(2011/10/09)〝「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)〟
正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」『古田史学会報』107号、2011年。
古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」『古田史学会報』107号、2011年。
③古賀達也「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟
正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」『古田史学会報』157号、2020年。
古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」『東京古田会ニュース』192号、2020年。
正木 裕「『壹』から始める古田史学・三十三 多利思北孤の時代Ⅹ 多利思北孤と九州年号と「法興」年号」『古田史学会報』167号、2021年。

Youtube 講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y
古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3053話 2023/06/26

元岡遺跡出土木簡に

     遺る王朝交代の痕跡(3)

 福岡市西区元岡・桑原遺跡群からは、「大寶元年」(701年)木簡(第20次調査)の他に七世紀末の紀年木簡が出土(第7次調査)しています。「壬辰年韓鐵□□」(□は判読不明文字)と記された荷札木簡で、「壬辰年」は伴出した土器の編年から、692年のこととされています(注①)。従って、これは王朝交代前の干支紀年木簡で、九州年号の朱鳥七年に当たります。ちなみに、「大寶元年辛丑」は九州年号の大化七年に当たります。

 当木簡に示された「韓鐵」が荷物の鉄製品・素材のことなのか、それとも地名なのかは判断し難いのですが、同遺跡群からは製鉄遺構が出土しており、それとの関係は否定できないと思われます。また、「壬辰年」と「韓鐵」の文字が連続していることを重視すれば、〝壬辰年(692年)に韓半島から届いた鉄〟という理解も可能です(注②)。

 出土した「壬辰年韓鐵」と「大寶元年辛丑」(701年)木簡を多元史観の視点から考察すれば、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代(701年)を跨いで、二つの王朝の木簡紀年表記の変化(干支→年号)を混乱なくスムーズに受け入れたことがわかります。すなわち、当地に於いて王朝交代は混乱なく行われたことを意味します。しかも、九州年号「大化七年(701年)」が継続していたにもかかわらず、大和朝廷の新年号「大宝元年」を干支表記「辛丑」と併用していることから、木簡の記載者は〝年号〟の持つ意味や使用方法を知悉していたと思われます。これには、最初の九州年号「継体」(元年は517年。注③)から続く年号使用の歴史的背景があったこと、言うまでもないでしょう。いわば、筑前国嶋郡は年号使用の最先進地だったのです。(つづく)

(注)
①『元岡・桑原遺跡群12 ―第7次調査報告―』(福岡市教育委員会、2008年
②「韓鐵」を朝鮮半島からの原料鉄とする次の先行説がある。
服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。
③「継体」を最初の九州年号とするのは、『二中歴』年代歴による。

 

参考 Youtube講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
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第3052話 2023/06/25

元岡遺跡出土木簡に

      遺る王朝交代の痕跡(2)

福岡市西区元岡・桑原遺跡群から出土(第20次調査)した次の「大寶元年」(701年)木簡は、年号が記載されたものとしては国内最古級の木簡です。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
官出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている(注①)。

701年の王朝交代に伴い、大和朝廷は大宝年号を建元(同年三月)し、大宝令を制定・施行します。そして律令制による全国統治を藤原宮で開始し、各地の産物を税として徴収するのですが、その荷札木簡に年号を記すことを命じたものと思われます(注②)。そう考えなければ、荷札木簡が全国一斉に紀年表記が干支から年号に変化したことを説明できません。そしてその最古の年号を記したのが、元岡・桑原遺跡群出土「大寶元年」木簡なのです。

通常、701年以後の荷札木簡の紀年表記は年号だけで、干支は記されないのですが、当木簡は年号と干支の併記「大寶元年辛丑」であることから、大宝令施行直後の状況を示す姿と考えられています(注③)。また、こうした王朝交代による紀年木簡の変化が、大和から遠く離れた九州王朝の中枢領域(筑前国嶋郡)で同時期に発生していることは、王朝交代が事前の周到な準備により、平和裏に行われたことを示唆します。更に、翌大宝二年(702)には大和朝廷による全国的な戸籍「大宝二年籍」が当地でも造籍されます。同戸籍が、正倉院文書「大宝二年筑前国嶋郡川部里戸籍」断簡として遺っていることは著名です。

これらの史料により、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の実像解明が進むことと期待されます。(つづく)

(注)
①服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。
②『養老律令』儀制令には次のように公文書に年号使用を命じており、荷札木簡もそれに準じたものと思われる。

「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)
なお、『令集解』「儀制令」に次の引用文が記されており、同様の条文が『大宝律令』にも存在したと考えられている。
「釋云、大寶慶雲之類。謂之年號。古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。穴云、用年號。謂延暦是。問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前云耳。」『令集解』(国史大系)第三 733頁。

ここに見える「古記」には「大寶」だけを例示していることから、この記事は『大寶律令』の注釈とされている。
③『元岡・桑原遺跡群8 ―第20次調査報告―』(福岡市教育委員会、2007年)に、「太賓元年辛丑」(七〇一)の年紀は干支との併用で、大宝令施行直後の状況を示す資料と言えよう。」とある。

参考 YouTube講演
木簡の中の九州王朝 古賀達也
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2023年8月19日


第3051話 2023/06/24

元岡遺跡出土木簡に遺る

    王朝交代の痕跡(1)

 九州年号研究における大きな問題の一つに、出土した紀年木簡に九州年号が見当たらないことがあります(注①)。唯一、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「元壬子年」木簡が(注②)、九州年号「白雉」の元年干支「壬子」と一致することから(注③)、九州年号に基づく干支木簡であることを示しています。

 701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代により、これら出土木簡の表記方法が全国一斉に変化したことが知られています。一つは行政単位が評から郡に、もう一つは紀年表記が干支から年号に変わります。

 こうした王朝交代による紀年木簡の変化が、大和から遠く離れた九州王朝の中枢領域でも王朝交代と同時期に発生しています。それは福岡市西区元岡桑原遺跡群から出土した木簡です。第20次調査(2000~2003年)で同遺跡の九州大学移転用地内で、古代の役所が存在したことを示す多数の木簡が出士しました。その木簡には、大和朝廷の最初の年号である「大寶元年」(701年)と書かれたものがあり、これは年号が記載されたものとしては国内最古級の木簡です。そこには次の文字が記されていました(注④)。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
官出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている。

 これは納税の際の物品名(鮑)や、運搬する馬の特徴を記したもので、関を通週するための通行手形とみられています。(つづく)

(注)
①古賀達也「九州王朝「儀制令」の予察 ―九州年号の使用範囲―」『東京古田会ニュース』184号、2019年。
②古賀達也「木簡に九州年号の痕跡――『三壬子年』木簡の史料批判」『古田史学会報』74号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
「『元壬子年』木簡の論理」『古田史学会報』75号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③『日本書紀』の白雉元年(庚戌)は650年、九州年号の白雉元年(壬子)は652年であり、二年のずれがある。「元壬子年」木簡の出土により、九州年号の白雉が正しく、『日本書紀』の白雉は二年ずらして転用したことが明らかとなった。拙稿「白雉改元の史料批判」(『古田史学会報』76号、2006年。『「九州年号」の研究』に収録)において、『日本書紀』の史料批判により、同様の結論に至っていた。
④服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。

参考 Youtube講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
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古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3050話 2023/06/23

「赤淵大明神縁起」所蔵文書館の紹介

本日の「多元の会」リモート研究会では、服部静尚さんによる『赤淵神社縁起』の解説がありました。同縁起は兵庫県朝来市にある赤淵神社所蔵のもので、九州年号の常色や朱雀などが記されており、注目されています。同研究会に参加した関東の研究者の皆さんも感心を示されたようで、『赤淵神社縁起』に関する拙稿についても紹介させていただきました。本稿末尾に同じく正木裕さんの関連論文と拙稿の表題などを付記しましたので、「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」などで閲覧いただければ幸いです。また、ご質問頂いた、常色年間(647~651)頃の九州王朝(倭国)と蝦夷国との関係については、正木裕さんの論稿「『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について」(注①)に詳述されていますので、ご参照下さい。
なお、赤淵神社蔵『赤淵神社縁起』とほぼ同内容の『赤淵大明神縁起』(注②)が福井県文書館松平文庫にあり、申請すれば閲覧が可能です。こちらは公立の施設ですから、どなたでも利用でき、研究に便利です。

(注)
①正木 裕「『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について」『古田史学会報』113号、2012年。
②朝倉義景が永禄三年(1560)に心月寺(福井市)の才応総芸に命じて作らせたとされる。内容は『赤淵神社縁起』に酷似している。

【赤淵神社関連論稿(古田史学の会)】

古賀達也の洛中洛外日記「赤淵神社」カテゴリー一括表示
○古賀達也「洛中洛外日記」604話(2013/10/03)〝赤渕神社縁起の「常色元年」〟
○同606話(2013/10/06)〝「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号〟
○同607話(2013/10/12)〝実見、『赤渕神社縁起』(活字本)〟
○同608話(2013/10/13)〝『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰〟
○同610話(2013/10/17)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎〟
○同611話(2013/10/18)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相〟
○同613話(2013/10/20)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」〟
○同614話(2013/10/22)〝『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」〟
○同615話(2013/10/24)〝日本海側の「悪王子」「鬼」伝承〟
○同618話(2013/11/04)〝『赤渕神社縁起』の九州年号〟
○同690話(2014/04/06)〝朝来市「赤淵神社」へのドライブ〟
○同719話(2014/06/02)〝因幡国宇倍神社と「常色の宗教改革」〟
○同1093話(2015/11/14)〝永禄三年(1560)成立『赤淵大明神縁起』〟
○同1095話(2015/11/21)〝関西例会で赤淵神社文書調査報告〟
○同1097話(2015/11/27)〝『赤淵大明神縁起』の史料状況〟
○同2949話(2023/02/20)〝甲斐国造の日下部氏と九州王朝〟
○古賀達也「『赤渕神社縁起』の史料批判」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
○同「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。
○正木 裕「九州王朝の天子の系列(下改め3)『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績」『古田史学会報』166号、2022年。


第3049話 2023/06/22

吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (2)

―〝被葬者・副葬品不在墓〟の論理―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺からは残念ながら副葬品(鏡・剣・玉類・他)や被葬者(人骨・歯など)は検出されませんでした。この出土事実を残念に思うと同時に、学問的にはとても貴重な問題を秘めているように思います。石棺内から赤色顔料が検出されたことにより、当地の有力者の墓と見られており、この〝被葬者・副葬品不在墓〟は様々な可能性を示唆します。たとえば次のような経緯を想定できます。

(ケースA) この石棺墓は吉野ヶ里集落の有力者のために、その人物の生前から造営された寿陵であった。ところが、何らかの事情により、その人物のご遺体を埋葬できなかった。たとえば、戦死などにより、ご遺体を敵対勢力が奪い去ったので、墓はそのまま埋め戻された。

(ケースB) 同じく、当該人物が生死不明の状況に陥り、あるいは当地を離れたため、墓はそのまま使用せずに埋め戻された。この場合、別人の墓としての再利用は憚られた。

(ケースC) 一旦、石棺に埋葬したが、何らかの事情により、別の場所に御遺骸と副葬品を再埋葬した。石棺は再利用されることなく、そのまま埋め戻された。

(ケースD) 当時(弥生後期)としては新流行の石棺墓を、有力者が自らの墓(寿陵)として造営したが、没後、遺族の希望、あるいは伝統的慣習を重んじた吉野ヶ里集落の風習により、従来の甕棺墓に埋葬され、石棺はそのまま埋め戻された。

この他にも様々な推論が可能ですが、いずれにしても吉野ヶ里集落にただならぬ事態か、急激な思想(墓制)の変化が発生したことをうかがわせます。これらの想定はメディアからの情報と机上の推論に基づくものですので、断定することなく、調査報告書の発表を待ちたいと思います。


第3048話 2023/06/21

『古代に真実を求めて』

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[8]『古代に真実を求めて』第22集 2600円  5冊
タイトル 「倭国古伝」
[9]『古代に真実を求めて』第23集 2600円  1冊
タイトル 「『古事記』『日本書紀』千三百年の孤独」
[10]『古代に真実を求めて』第24集 2800円 16冊
タイトル 「俾弥呼と邪馬壹国」
[11]『古代に真実を求めて』第25集 2200円  8冊
タイトル 「古代史の争点」
[12]『古代に真実を求めて』第26集 2200円 1 6冊
タイトル 「九州王朝の興亡」


第3047話 2023/06/20

吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (1)

 吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺からは残念ながら副葬品や被葬者は検出されませんでした。「洛中洛外日記」(注①)で「吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。」と書いていたわたしも、〝やはり出なかったのか〟とがっかりしました。というのも、石棺の蓋を開けてから、「副葬品はなかった」という報道まで間が開きすぎていたからです。
吉野ヶ里遺跡の最高所からの出土石棺ですから、当然、発掘担当者たちは一流の機材と準備をもって事に当たっていたはずです。なぜなら、石棺の蓋を開けた時点で金属探知機による副葬品の位置確認を行い、薄皮を剥ぐように慎重に発掘しなければならないからです。そうした事前準備をしていたのなら、その時点で鏡や剣など金属器の反応がないことがわかります。わたしたちにはうかがい知れない特段の事情があったのかもしれませんが、世間やマスコミの注目を維持するために、あえて発表を遅らせたのではないかとさえ邪推したくなります。もし、金属探知機を使用できないほど発掘調査の予算が少ないのであれば、当地の考古学者や行政の担当者に同情します。
ちなみに最先端機材を使用した事例として、福岡県古賀市の船原古墳発掘調査があります。それは下記のような調査方法でした(注②)。

(1) 遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロのカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
(2) 次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この(1)と(2)で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
(3) そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
(4) 遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

こうした作業により、船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元され、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存されました。日本の発掘調査技術はここまで進んでいるのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3035話(2023/06/08)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2) ―蓋裏面に刻まれた「×」印―〟
②同「洛中洛外日記」2063話(2020/01/12)〝「九州古代史の会」新春例会・新年会に参加〟


第3046話 2023/06/19

東北地方の罵倒語「ツボケ」の歴史背景

 松本修『全国アホ・バカ分布考』(注①)には、不思議な罵倒語として、「田蔵田(タクラダ)」の他に東北地方の「ツボケ」があります。これを言素論で解析すると、語幹は「ツボ」で、「ケ」は古層の神名と理解できます(注②)。すなわち「ツボ」の神様となります。「ツボ」は文字通り「坪」「壺」のことか、あるいは地名の可能性もありそうです。たとえば「つぼの碑(いしぶみ)」という石碑のことが諸史料に見え、これを青森県東北町坪(つぼ)の集落近くで発見された「日本中央」碑のこととする説があります(注③)。そうすると、「ツボ」は地名のこととなります。

 いずれにしても、「ツボ」の「ケ」(神)が罵倒語として使用されていることから、対立し罵倒された「ツボケ」の民がある時代に存在していたと考えられます。恐らく、この対立は古代に遡るものであり、「ツボケ」の民とは蝦夷国の民であり、蝦夷国が祀った神様に「ツボ」の「ケ」様がいたのではないでしょうか。この推測を支持する史料があります。和田家文書『東日流外三郡誌』です。同書には古代東北(津軽)にいた「津保化族」の説話が多数収録されています。津軽には「津保化族」と「阿蘇部族」が住んでいたが、大和あるいは筑紫から逃げてきた安日彦・長脛彦兄弟に征服されたとする説話です。

 このような先住民の名前が罵倒語として使用された例を、古田先生が上岡龍太郎さんとの対談で次のように紹介しています(注④)。

上岡 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。
古田 そうなんですよ。
上岡 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これをやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちょっと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。
古田 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうです。
上岡 ほう、やっぱり先住民。
古田 ええ「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②古賀達也「洛中洛外日記」41話(2005/10/30)〝古層の神名「け」〟
同「古層の神名」『古田史学会報』71号、2005年。
③ウィキペディアには次の解説がある。
〝12世紀末に編纂された顕昭作の『袖中抄』19巻に「顕昭云(いわく)。いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。」とある。〟
〝青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に1000人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
明治天皇が東北地方を巡幸する1876年(明治9年)に、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。
1949年(昭和24年)6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。〟
④「上岡龍太郎が見た古代史」『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。