2023年06月30日一覧

第3057話 2023/06/30

『続日本紀』の古歌「西の都」考

 『続日本紀』寶龜元年三月条に、歌垣で歌われた次のような「古歌」が見えます。

「乙女らに男立ち添ひ踏みならす、西の都は万代の宮」
「淵も瀬も清く爽(さやけ)し博多川、千歳を待ちて澄める川かも」

当該記事全文は次のようです。原文は本稿末尾に掲載しました。

【宝亀元年三月条】
辛卯の日、葛井(ふじい)・船・津・文・武生(たけふ)・蔵の六氏の男女二百三十人、歌垣に供奉す。その服は並に青ずりの細き布衣を着て紅(くれない)の長き紐を垂る。男女相並び行を分かちておもむろに進む。歌ひて曰く、
「乙女らに男立ち添ひ踏みならす、西の都は万代の宮」
と。その歌垣歌ひて曰く、
「淵も瀬も清く爽(さやけ)し博多川、千歳を待ちて澄める川かも」
と。歌の曲折毎に、袂(たもと)を挙げて節となす。その余四首並に是れ古詩なり。また煩はしくは載せず。時に五位より已上・内舎人及び女嬬に詔して、亦其の歌垣の中に列す。歌数終はる時、河内の太夫従四位の上藤原の朝臣雄田麻呂より已下、和舞(やまとまひ)を奏す。六氏の歌垣に人ごとに商布二千段綿五百屯を賜ふ。

 三十年ほど前、わたしが九州王朝歌謡(君が代・海行かば)の論文を執筆していたとき(注①)、この『続日本紀』の歌の存在を知り、九州王朝関連の歌のようだという感触は得たものの、決め手がなく、判断を保留していました。その後、「再考 洞田稿の視点 「西の都」はどこか」(注②)でも再検討したのですが、やはりうまく説明できず、疑問を解消できませんでした。そこでの課題は「西の都」を太宰府としたとき、それに対応する「東の都」を見いだせなかったからです。そのときの考察の様子を次のように記しています。

〝新日本古典文学大系『続日本紀』の解説では、「西京の由義宮の永遠の繁栄を歌う頌歌」とされているが、由義宮が西京と定められたのは神護景雲三年(769)十月のことで、歌垣の前年のことだ。ところが、これらの歌のことを「是れ古詩なり」と記されており、由義宮を西京に定めたために新たに創作された歌ではないことがわかる。すなわち、古くからあった歌を由義宮用に転用したのだ。
とすれば、この西の都とはどこだろうか。近畿天皇家の都とすれば、大和に対して西にあった都の有力候補は「難波宮」であろう。〟
〝九州王朝の都と考えた場合はどうだろうか。この場合、二つのケースが考えられる。「西の都」という表現が、近畿天皇家から見て、西にある九州王朝の都、たとえば太宰府といった場合。「遠の朝廷」という表現もこれと類似視点(時間・空間)か。もう一つは複数ある九州王朝の都のうち、西に位置する都をさす場合だ。この場合、この歌は九州王朝内での視点で作られたことを意味する。
いずれの場合も、糸島博多湾岸にあった都であれば、天孫降臨以来の伝統を持っており「万代の都」という表現はピッタリだ。ただ、後者の場合、西の都に対して、東の都が九州王朝内部になければならない。(中略)前者の場合も可能性としては否定できないが、近畿天皇家内部で九州王朝の都を讃える歌を創作し、伝承されてきたということになり、やや不自然な感じがする。〟

 この再考察から四半世紀を経た今であれば、有力な仮説を提示できます。それは、「西の都」は博多湾岸や太宰府にあった九州王朝の都「万世の都」であり、「東の都」は652年(九州年号の白雉元年)に創建した前期難波宮(難波京)とする仮説「両京制」です。前期難波宮九州王朝複都説が成立したおかけで、三十年来の疑問に一応の回答を見いだすことができました。学問研究の進歩を実感できたテーマでした。

(注)
①古田武彦・藤田友治・灰塚照明・古賀達也『「君が代」、うずまく源流』新泉社、一九九一年。
②古賀達也「再考 洞田稿の視点 「西の都」はどこか」『古田史学会報』26号、1998年。

【『続日本紀』寶龜元年三月条】
辛夘、葛井・船・津・文・武生・藏六氏男女二百卅人供奉歌垣。其服並着青摺細布衣、垂紅長紐。男女相並。分行徐進。
歌曰、
「乎止賣良尓 乎止古多智蘇比 布美奈良須 尓詩乃美夜古波 与呂豆与乃美夜」
其歌垣歌曰、
「布知毛世毛 伎与久佐夜氣志 波可多我波 知止世乎麻知弖 須賣流可波可母」
毎歌曲折、擧袂爲節。其餘四首、並是古詩、不復煩載。時詔五位已上、内舍人及女孺、亦列其歌垣中。歌數闋訖、河内大夫從四位上藤原朝臣雄田麻呂已下奏和舞。賜六氏歌垣人商布二千段、綿五百屯。