古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3286話 2024/05/15

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (3)

 大下隆司さんの発表資料には、前期難波宮孝徳朝説への反対論者として伊藤純さんの名前がありました。伊藤さんとは面識がありましたので、懐かしく思いました。十二年前のことですが、大阪歴博研究員だった伊藤純さんに前期難波宮造営年代についてお聞きしたことがありました(注)。
わたしは伊藤さんが前期難波宮孝徳期造営説に立っておられると思いこみ、その根拠について質問を続けていたのですが、どうも様子がおかしのいです。そこで突っ込んでおたずねしたところ、なんと伊藤さんは前期難波宮天武朝造営説だったのです。
「わたしは少数派です。九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。学問は多数決ではありませんから。」
「学問は多数決ではない」という意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学的出土物(水利施設出土土器編年、634年伐採木樋の年輪年代、「戊申年」648年木簡)は全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。伊藤さんの答えは、もし「宮殿平面の編年」というものがあるとすれば、前期難波宮の規模は孝徳朝では不適格であり、天武朝にこそふさわしいというものでした。

 この伊藤さんの見解にわたしは深く同意しました。もちろん、「天武朝造営説」にではなく、「前期難波宮の規模が孝徳朝では不適格」という部分にです。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝「副都」説(後に「複都」とした)に至った理由の一つだったからです。すなわち、七世紀中頃の大和朝廷の宮殿としては、その前後の飛鳥宮と比較して突出した規模と全く異なった様式(朝堂院様式)なのです。

 更に言えば、九州王朝説に立つものとして、大宰府政庁よりも格段に大規模な前期難波宮を通説通り大和の天皇のものとするならば、701年の王朝交代まで列島の代表王朝だった九州王朝(倭国)の存在と九州王朝説そのものが揺らぎかねません。しかも、前期難波宮創建(652年)は、王朝交代の主要因となった白村江敗戦(663年)よりも前のことです。この問題に気づいてから、わたしは何年も考え続け、その結果出した解答が前期難波宮九州王朝「副都」説だったのです。

 そこで、わたしは伊藤さんに次の質問を投げかけました。
「考古学的に見て、孝徳期説と天武期説のどちらが妥当と思われますか」。
この問いに対して、伊藤さんは
「孝徳期説の方がおさまりがよい」
と述べられたのです。自説は天武朝説であるにもかかわらず、考古学的な判断としては「孝徳朝の方がおさまりがよい」と正直に述べられたのです。この言葉に、伊藤さんの考古学者としての誠実さと、古代史研究者としての論理の鋭さを感じました。たとえ意見が異なっていても、伊藤さんのような誠実な研究者とは学問的対話が成立し、お互いを高め合うことができます。

 対話の最後にわたしは、
「大阪歴博の研究者は全員が孝徳期造営説と思いこんでいたのですが、伊藤さんのような少数説があることに、ある意味安心しました。これからは文献研究者も考古学者も、考古学編年と宮殿発展史との矛盾をうまく説明することが要請されます。学問は多数決ではありませんので、これからも頑張ってください。今日はいろいろと教えていただき、ありがとうございました。」
とお礼を述べました。そして、伊藤さんが抱かれた矛盾(前期難波宮造営時期は、考古学的には七世紀中葉だが、近畿天皇家の宮殿様式・規模の変遷史からは七世紀後葉とするのが妥当)を解決できる仮説は、前期難波宮九州王朝王宮説しかないと確信を深めたものでした。

 孝徳朝説に反対の伊藤さんの認識「九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説」からも、〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟とした、わたしの見解はやはり妥当なものなのです。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」474話(2012/09/26)〝前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾〟


第3285話 2024/05/14

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (2)

 大下隆司さんが前期難波宮孝徳朝説への反対論者として紹介した研究者に白石太一郎さん(注①)がいます。しかし、白石さんは大下さんや泉武さんの天武朝説とは異なり、天智朝造営説です。白石さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(注②)冒頭の「はじめに」に次のように記されています。

「今日では、少なくとも考古学の分野では、前期難波宮を孝徳朝の難波長柄豊碕宮と考える説がほぼ定説化している。」3頁

 このように、孝徳朝説に反対する白石さん自身が、孝徳朝説を「少なくとも考古学の分野では(中略)ほぼ定説化している」と認識していることがわかります。わたしが〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟としたことと同様の認識なのです。そして、白石さんは次のような見解をくり返し述べ、孝徳朝説と同時に天武朝説(672~686年)をも否定しています。

 「前期難波宮整地層出土の土器群の中には明らかに西暦660年代頃のものが含まれている可能性が大きいと思われる。」3頁
「このように、前期難波宮整地層にはおそらくは水落段階、すなわち前章の検討結果からは660年代中頃から後半の土器が含まれていることになる。」17頁
「前期難波宮の整地層と水利施設の厳密な層位関係はもとより不明であるが、この水利施設が前期難波宮造営の一環として建設されたものであることについては疑いなかろう。ただしその時期は、飛鳥編年では坂田寺池段階のものであり、660年代前半、遡っても660年前後にまでしか上らない。」20頁
「前期難波宮下層の土器が『到底天武朝まで下がるものとは考えられない』という考え方が大きな落とし穴になっていたように思われる。それは天武朝までは下がらないとしても、孝徳朝までは遡らないのである。」22頁 ※この部分は白石氏自身の以前の見解に対してのもの。

 以上のように、白石さんは前期難波宮天武朝説ではなく、天智朝説(662~671年)なのです。その根拠は飛鳥編年に基づくもので、「最近の飛鳥編年にもとづく土器の編年研究では、少なくとも七世紀中葉から第3四半期では10年単位の議論が可能な段階になってきている」(20頁)として、孝徳朝説も天武朝説も否定し、天智朝説を主張されています。
ですから、孝徳朝説(定説)を否定する少数意見のなかにも両立し得ない天智朝説と天武朝説があり、飛鳥編年による土器編年も一様ではないことが見て取れます。ここで重要な視点は、飛鳥編年とは『日本書紀』の記事をその年次も含めて正しいとすることを前提として成立しています。更に、飛鳥から出土した遺構や層位を『日本書紀』の特定の記事に対応させ、そこからの出土土器を相対編年するという手法を採用しています。

 従って、『日本書紀』の記述が正しいかどうかは検証の対象であり、論証抜きで是とする一元史観を批判するわたしたち古田学派の研究者にとっては、飛鳥編年も検証の対象であり、採用する場合でも用心深く使用しなければならないことを改めて指摘しておきたいと思います(注③)。わたしは、白石さんのように土器の相対編年だけで10年単位の年次判定をすることは危険であり、難波編年を作成した佐藤隆さんのように前葉・中葉・後葉の幅で土器編年を捉えるのが妥当と考え、佐藤さんの七世紀の難波編年を支持してきました(注④)。
今回紹介した白石さんの論文によっても、前期難波宮孝徳朝説が定説となっていることがご理解いただけると思います。(つづく)

(注)
①下記①の論文発表時、大阪府立近つ飛鳥博物館々長。
②白石太一郎「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報16』大阪府立近つ飛鳥博物館、2012年。
③飛鳥編年の基礎データそのものが信頼性に問題があるとした次の論文がある。
服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 ―白石太一郎氏の提起を考える―」『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店、2014年。
④佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』2000年、大阪市文化財協会。


第3284話 2024/05/13

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (1)

 わたしは前期難波宮を七世紀中葉(九州年号の白雉元年、652年創建)に造営された九州王朝の複都の一つと考えていますが、近畿天皇家一元史観の学界では、近畿天皇家(後の大和朝廷)の孝徳天皇が造営した難波長柄豊碕宮とする説、すなわち孝徳朝説が定説の位置を占めています。このことを少なからぬ考古学者にも直接あるいは論文を読んで確かめてきましたので、〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟と、これまでも紹介してきました。

 ところが、昨日の多元的古代研究会月例会での大下隆司さんの研究発表では、孝徳朝説は大阪歴博による間違った見解であり、多くの考古学者や研究者から反対意見が出されており、定説はおろか、多数説でもないかのような説明がなされました。学問研究ですから、意見や解釈が異なるのは全くかまいませんし、異説が学問の発展に寄与することも稀ではありません。わたしも常々「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」と言ってきた通りです。しかし、事実(エビデンス)に対しては、誠実かつ正確であらねばなりません。良い機会でもありますので、前期難波宮孝徳朝説が古代史学界の「定説」であることを改めて具体的に紹介します。

 まず、大下さんが高く評価され、紹介した泉武さんの論文(注)冒頭の「要旨」には次の一文があります。

 「前期難波宮は乙巳の変(645年)により孝徳朝が成立し、難波遷都によって造営された難波長柄豊碕宮であることが定説化している。この宮殿が図1で示した正方位の建物を指し、前期難波宮整地層の上に造営されたことも周知されている。」

 このように、前期難波宮天武朝説の泉さんご自身が、前期難波宮整地層上の正方位の建物(前期難波宮)が孝徳朝の難波長柄豊碕宮であることが「定説化している」「周知されている」と明言しています。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「難波宮」の項目にも「前期難波宮」の解説として、次の記事があります。

 「乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。(中略)
建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。(後略)」

 このように定説に反対する研究者も、web辞書にも孝徳朝説を定説として取り扱っています。しかもウィキペディアには、少数説の天武朝説の紹介さえもなく(これはこれで問題ですが)、大下さんの発表内容とはかなり様子が異なっていることをご理解いただけることでしょう。(つづく)

(注)泉武「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
上町台地法円坂から出土した南北正方位の巨大宮殿である前期難波宮を天武朝、その下層遺構の東偏(N23°E)した建物跡(SB1883)などを孝徳朝の宮殿とする。


第3283話 2024/05/09

「正方位」宮殿の一元史観による編年

 泉論文(注①)では、下層遺跡土壙(SK10043)から出土した「贄」木簡、湧水施設(SG301)から出土した「謹啓」木簡などを根拠として、南北正方位の巨大宮殿である前期難波宮を天武朝、その下層遺構の東偏(N23°E)した建物跡(SB1883)などを孝徳朝の宮殿としました。これら木簡の他に、その建物の建築方位についても自説の根拠としました。それは飛鳥宮跡などの建築方位の変遷を根拠とする次の解釈によります。

(1) 飛鳥宮跡第Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636年)に比定されており、その建築方位は北で約20度西に振る。
(2) 第Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643年)であり、それ以降は建物主軸は正方位となる(注②)。
(3) 石舞台古墳の西の地域に造営された島庄遺跡は、Ⅰ~Ⅲ期(600~670年代)までは西偏する建物であり、Ⅳ期(670年以降)は正方位となる。Ⅳ期の建物は大規模な土地造成と設計計画のもとに建てられている(注③)。
(4) これらの調査成果により、自然地形に制約された建物主軸が正方位に変更されるのは七世紀中頃以降であるとの見通しが得られる。
(5) 以上のように、飛鳥京の諸宮殿と前期難波宮の二つの宮殿建物(前期難波宮と下層遺跡建物)は、斉明朝(皇極朝カ)から孝徳朝にかけて正方位建物ではなかった蓋然性が強い。

 この説明のうち、(1)(2)(3)は考古学的エビデンスとその編年の解釈で、それらに基づいた編年理解が(4)(5)になります。しかし、(1)(2)に基づけば正方位建物の出現は七世紀中葉であり、(3)を重視すれば七世紀後葉となりますので、そうした二つの解釈の内、後者の解釈を採用して(5)の自説を導き出すのは恣意的のように見えます。

 わたしは難波や飛鳥の王宮建築では、七世紀中葉になって正方位を採用したと考えていますが、仮に泉論文の解釈(5)が成立するとしても、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解によれば、九州王朝が飛鳥の近畿天皇家よりも早く正方位の宮殿建築を採用したと理解することが可能であり、やはり問題はありません。

 このように泉論文の一見鋭い指摘は、近畿天皇家一元史観に基づく通説に対して有効ではあっても、九州王朝説にとってはむしろ通説の限界や矛盾を指摘した視点となり、前期難波宮九州王朝複都説を側面から支持する研究と言うことができるのです。

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『飛鳥京跡Ⅲ』橿原考古学研究所調査報告第102冊、2008年。
③相原嘉之「嶋宮をめぐる諸問題 ―島庄遺跡の発掘成果とその意義―」『明日香村文化財調査研究紀要』第10号、明日香村教育委員会、2011年。


第3282話 2024/05/07

難波宮湧水施設出土「謹啓」木簡の証言

 泉論文(注①)では、下層遺跡から出土した「贄」木簡を孝徳朝宮殿の根拠としたのですが、前期難波宮北西の湧水施設(SG301)から出土した次の「謹啓」木簡(注②)も自説(前期難波宮天武朝説)の根拠としました。

・「謹啓」 ・「*□然而」 *□[初カ](遺物番号533)

 同水利施設は、井戸がなかった前期難波宮の水利施設と見なされ、七世紀中葉の造営であることが出土土器編年(須恵器坏G、坏H)により判明しました。さらに年輪年代測定により、湧水施設の木枠の伐採年が634年であったことも、「洛中洛外日記」で紹介した通りです(注③)。

 この従来説に対して、泉論文では、「謹啓」木簡は七世紀後葉の飛鳥池や石神遺跡の天武朝の遺構から出土しており、難波宮出土の「謹啓」木簡も天武朝のものと理解できるとされました。そして、「謹啓」木簡の出土層位(第7B層)は水利施設の最下層であり、難波宮水利施設が天武朝(七世紀後葉)に造営された証拠とされました。従って、この水利施設を利用した前期難波宮は天武朝の宮殿であり、その下の下層遺跡を孝徳朝の宮殿としたわけです。

 しかしながら、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解によれば、この「謹啓」木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証となります。すなわち、飛鳥に居した近畿天皇家の天武らよりもはやく九州王朝の難波宮では「謹啓」という用語が使用されていたと理解することができるからです。泉論文の「謹啓」木簡の証言は、九州王朝が採用していた「謹啓」という用語を、七世紀後葉に実力者となった天武らが飛鳥で使用開始したことに気づかせてくれたという意味で、貴重なものとわたしは評価しています。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。
③古賀達也「洛中洛外日記」3278話(2024/05/01)〝泉論文と前期難波宮造営時期のエビデンス〟


第3281話 2024/05/06

『多元』181号の紹介

 友好団体の多元的古代研究会機関紙『多元』181号が届きました。同号には拙稿〝九州王朝の両京制を論ず(三) ―「西都」太宰府倭京と「東都」難波京―〟を掲載していただきました。同稿では、前期難波宮九州王朝複都説の研究経緯と、七世紀の九州王朝(倭国)が採用した両京制について論じました。
一面に掲載された新庄宗昭さんの〝「遺跡・飛鳥浄御原宮跡」異聞〟は、飛鳥浄御原遺跡の外形(平面図)が直角ではなく、台形であることに注目した論稿です。この飛鳥宮第Ⅲ期の遺構を「遺構事実として内裏の施設だけが点在したことは、規模からして王宮ではあり、王族の私的居住空間であることは間違いはない。」とされ、律令宮殿である飛鳥浄御原宮ではないと結論されました。考古学報告書に基づいた論稿であり、やや難解な解説が続きますが、天武期の近畿天皇家の実体について、考古学の視点から論じたもので、是非は別としても貴重な研究と思われました。

 同テーマについては拙稿「飛鳥「京」と出土木簡の齟齬 ―戦後実証史学と九州王朝説―」(注)で論じましたが、飛鳥宮や藤原京についての考古学研究が古田学派でも盛んになることを願っています。

 同号には、「倭国から日本国」(『古代に真実を求めて』27集)の紹介記事も掲載していただきました。

(注)古賀達也「飛鳥「京」と出土木簡の齟齬 ―戦後実証史学と九州王朝説―」『倭国から日本国へ』(『古代に真実を求めて』27集)明石書店、2024年。


第3280話 2024/05/05

難波宮西側谷出土

    「贄」「戊申年」木簡の証言

 泉論文(注①)で、孝徳朝宮殿の根拠とされた「贄」木簡(前期難波宮整地層直下の土壙SK10043出土)は、その北側約450mの地点から検出された東西方向の谷からも出土しています。出土層位は前期難波宮のゴミ捨て場跡と考えられており、その第16層から33点の木簡が出土しています(注②)。その中に次の表記を持つ木簡が特に注目されました。

 「委尓ア栗□□」(4号木簡) ※「尓ア」は贄(にえ)。
「戊申年」(11号木簡) ※戊申年は648年。

 泉論文では、土壙SK10043から出土した「贄」木簡とあわせて、隣接する二地点から「贄」木簡が出土したことは、その近傍に孝徳天皇の宮殿があった根拠としました。しかも「戊申年」(648年)木簡と伴出したことにより、下層遺跡の建物の造営が孝徳朝の頃とする根拠にもなりました。こうした指摘も、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 この点も、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、これらの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証とできることは前話で述べたとおりです。また、『伊予三島縁起』に見える「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申、日本国をご巡礼したまう。)は、九州王朝による難波宮造営のための「番匠」派遣記事であり、九州年号の「常色二年戊申」と難波宮出土「戊申年」木簡との年次(648年)の一致は偶然ではなく、何らかの関係を示唆するとの正木氏の指摘もあります(注③)。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ ―大阪府警察本部庁舎新築工事に伴う発掘調査報告書― 図版編』大阪府文化財調査研究センター、2002年。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第3279話 2024/05/03

難波宮下層遺構出土の「贄」木簡の証言

 前期難波宮を天武朝による造営とする泉論文(注①)では、難波宮出土木簡に記された用語を根拠とした、前期難波宮整地層の下層遺構を孝徳朝の宮殿とする見解があります。今までにはなかった視点であり、興味深いものでした。それは前期難波宮整地層の直下に掘られた土壙SK10043から出土した次の木簡です。

「・□□□□・□□〔比罷ヵ〕尓ア」 (木簡番号0)

 東野治之氏の釈読によれば(注②)、「此罷」は枇杷、「尓ア」は贄(にえ)とのこと。贄とは天皇や神に捧げる供物であることから、同木簡が出土した土壙SK10043の近傍に天皇の居所が存在していたことを示唆し、それは孝徳天皇としか考えられないことから、下層遺構の建物こそが孝徳天皇の宮殿であると泉論文は結論づけています。従って、前期難波宮整地層上に造営された巨大宮殿は天武朝のものとしたわけです。

 『日本書紀』によれば、七世紀の難波に宮殿を最初に造営したのは孝徳天皇ですから、その天皇に捧げる「贄」木簡が出土した下層遺構の建物は孝徳天皇の宮殿と理解する他ありません。この泉論文の指摘は、近畿天皇家一元史観の通説では反論困難です。

 しかし、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解に立てば、遅くとも五世紀の「倭の五王」時代には九州王朝は難波に進出し、七世紀前葉には難波天王寺を創建(倭京二年・619年)していますから、七世紀前葉の下層遺構から、九州王朝の有力者に捧げられた「贄」木簡が出土しても不思議ではありません。むしろこの木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証ではないでしょうか。泉論文の結論には反対ですが、優れた論文であると、わたしが評価した理由は正に下層遺構から出土した「贄」木簡の指摘にありました。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②東野治之「橋脚MP-2区SK 10043出土木簡について」『難波宮址の研究 第7』大阪市文化財協会、1981年。


第3278話 2024/05/01

泉論文と

  前期難波宮造営時期のエビデンス

前期難波宮を天武朝による七世紀後葉の造営とする泉論文(注①)ですが、わたしは、前期難波宮と藤原宮の整地層出土主要土器が異なっており(前期難波宮は須恵器坏GとH。藤原宮は坏B)、両者を同時期(天武期・七世紀後葉)と見なすのは無理であり、明らかに前期難波宮の整地層が数十年は先行すると考えています。このことは、殆どの考古学者も認めているところです。更に言えば、前期難波宮孝徳期(七世紀中葉)造営を示す次のエビデンスが知られています(注②)。

(1) 難波宮近傍のゴミ捨て場層から「戊申年」(648年)木簡が出土し、前期難波宮整地層出土土器編年と一致したことにより、前期難波宮孝徳期造営説は最有力説となった。

(2) 水利施設出土木材の年輪年代測定により、最外層年輪を有す木材サンプルの伐採年が634年と判明した。転用の痕跡もなく、634年に伐採されたヒノキ原木が使用されたと考えられ、前期難波宮孝徳期造営説が更に強化された。

(3) 年輪セルロース酸素同位体比による年代測定によれば(注③)、難波宮から出土した柱を測定したところ、七世紀前半のものとわかった。この柱材は2004年の調査で出土したもので、1点(直径約31㎝、長さ約126㎝)はコウヤマキ製で、もう1点(直径約28㎝、長さ約60㎝)は樹種不明。最外層の年輪は612年、583年と判明した。伐採年を示す樹皮は残っていないが、部材の加工状況から、いずれも600年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられ、通説(孝徳朝による七世紀中葉造営説)に有利な根拠とされた。

以上のように、干支木簡や理化学的年代測定値のいずれもが前期難波宮の造営を七世紀中葉であることを示唆しており、七世紀後葉の天武期とするエビデンスはありません。これらは難波宮研究では有名な事実ですが、(2)(3)については、なぜか泉論文には触れられてもいません。自説に不都合なデータを無視したのであれば、それは学問的態度ではないという批判を避けられないでしょう。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②この場合、孝徳期(七世紀中葉)の造営を示唆するというにとどまり、造営主体が孝徳天皇(近畿天皇家)であることを示すわけではない。
③総合地球環境学研究所・中塚武教授による測定。


第3277話 2024/04/29

泉武氏「前期難波宮孝徳朝説」批判の論理

 高橋工さん(注①)から教えて頂いた、泉武さんの論文「前期難波宮孝徳朝説の検討」とその続編「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」を読みました(注②)。前期難波宮天武朝造営説は、今までにも少数の研究者から発表されていましたが、発掘調査などで判明した多くの考古学的根拠により、殆どの研究者からは孝徳朝造営説が支持され、ほぼ定説と見なされてきました。ですから、今更どのような根拠でその定説を批判するのだろうかと興味を持って泉論文を精読したのですが、今までにはない新たな視点による批判が見られ、驚きました。

 それは一元史観(日本書紀の記事の大枠を是とする歴史認識)に基づく定説(孝徳朝説)の考古学者には反論しにくいものでした。今後、定説の立場から、どのような反論がなされるのか楽しみです。しかし、泉さんの孝徳朝説批判の多くに対しては反証が可能なのですが、定説側からの反論が困難な指摘部分こそ、わたしが提唱した前期難波宮九州王朝複都説の傍証とも言えるものでした。そうした意味に於いて、泉論文はとても重要な指摘がなされており、その結論(前期難波宮天武朝説)にわたしは反対ですが、優れた批判論文でした。

 泉説の特徴は、前期難波宮整地層の下から出土した下層遺跡の建物を孝徳朝の宮殿と見なし、整地層の上に立てられた前期難波宮を天武朝による造営とすることです。従って、更に上にある聖武朝の後期難波宮を含めて、上町台地法円坂には三層の王宮があったとします。定説では、前期難波宮整地層から出土する土器が7世紀中葉と編年されることから、整地層の上に造られた朝堂院様式の巨大宮殿を難波長柄豊碕宮とします。これに対して、泉さんは次のように論断します。

 〝1.前期難波宮整地層の問題。通説的には同整地層出土の土器を7世紀中葉に比定して、この整地層を基盤にする建物が孝徳天皇の長柄豊碕宮であると主張されているが、考古学上の基本的な方法論では、整地層の造営は7世紀中葉以降であるとしかできない。〟「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」42頁。

 この「考古学上の基本的な方法論では、整地層の造営は7世紀中葉以降であるとしかできない」とする見解自体は誤りではありませんが、実際の整地層出土土器の様相を見れば、この見解をもって整地層の造営を天武紀とする根拠にはできません。なぜなら、天武朝の時代(671~686年)の代表的な土器である須恵器坏Bが整地層からは全く出土しないからです。この出土事実に触れないまま、泉論文では「基本的な方法論」のみを述べて、整地層出土土器の現実を無視しており、学問的には恣意的な論法と言わざるを得ません。

 更に言えば、天武朝の時代の造営である藤原宮(京)の整地層から出土する主要土器は須恵器坏Bであり、主要出土土器を須恵器坏G・坏Hとする前期難波宮整地層とは様相が全く異なっています。この一点だけでも、泉説が成立しないことは明白と思われます。(つづく)

(注)
①大阪市文化財協会・事業企画課。
②泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。


第3276話 2024/04/24

「天皇」地名と天子宮の分布比較

 「天皇」地名が愛媛県東部に濃密分布していることについて、古代越智氏が九州王朝(倭国)の天子から、臣下としての「天皇」号を称することを許されたことが歴史的背景にあったためとする、多元的「天皇」併存説をわたしは発表しました。古田旧説によれば、九州王朝のナンバーワン天子の下のナンバーツー天皇を近畿天皇家は名乗っていたと考えられているのに対して、多元的「天皇」併存説は、臣下としての天皇を名乗った複数の有力氏族があったとする仮説です。
その痕跡として、愛媛県を筆頭として四国地方に「天皇」地名が濃密分布することを紹介しました(注①)。次の通りです。

【国内の「天皇」地名】
※〔未確認〕とあるものは、web上の地図では確認できなかったもので、存在しないということでは無い。
《四国以外》
宮城県仙台市泉区実沢細椚天皇 ※当地に須賀神社がある。
宮城県仙台市泉区野村天皇  ※当地に須賀神社がある。
福島県喜多方市塩川町小府根午頭天皇 ※当地に牛頭天皇神社がある。
愛知県安城市古井町天皇
京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇 ※当地に大宮神社がある。
《四国》
徳島県美馬郡つるぎ町半田天皇 ※近隣に式内建神社がある。
香川県高松市林町天皇
香川県仲多度郡まんのう町四條天皇
愛媛県西条市福武甲天皇 ※当地に天皇神社(スサノオと崇徳上皇を祭神とする)がある。崇徳上皇来訪伝承があり、それにより「天皇」地名が付けられたとされているようである。
愛媛県西条市明理川(天皇) ※〔未確認〕
愛媛県西条市丹原町長野天皇 ※近隣に無量寺がある。
愛媛県今治市朝倉天皇
高知県高知市春野町弘岡上天皇 ※当地に天皇神社がある。
高知県香南市香我美町徳王子天皇 ※〔未確認〕
高知県香南市夜須町国光天皇

 以上の「天皇」地名が見つかりましたが、他方、九州と北海道には「天皇」地名がないとする文献もあります(注②)。北海道はともかく、九州にないことを不思議に思っていました。しかし、よくよく考えてみると、九州王朝の臣下としての多元的「天皇」併存説であれば、九州王朝の天子の直轄支配領域である九州に、「天皇」地名がないのは当然であることに気づきました。あるとすれば、それは「天皇」ではなく、「天子」地名ではないでしょうか。そうであれば、「天子宮(てんしぐう)」が熊本県北部を中心に分布していることが注目されます。管見では次の通りです。

○天子宮 熊本県菊池郡大津町森223
○天子宮 熊本県葦北郡芦北町大字小田浦752-1
○平国天子宮 熊本県葦北郡津奈木町平国
○天子宮 熊本県葦北郡芦北町乙千屋574
○小天(こあま)天子宮 熊本県玉名市天水町小天1170
○天子宮 熊本県玉名郡玉東町大字山口
○天子宮 熊本県玉名市玉東町木葉

 他方、佐賀県には「天子社」の分布が見られます(別途、紹介します)。これらは九州王朝の天子(阿毎多利思北孤か)に淵源するのではないかと想像していますが(注③)、残念ながら未だ決定的なエビデンスの発見や論証には至っていません。しかしながらこれらの特徴的な分布事実は、九州王朝の「天子」とその臣下としての多元的「天皇」併存説に整合するように思いますので、引き続き検討します。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟
②鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、昭和52年。
③古賀達也「洛中洛外日記」136話(2007/08/12)〝天子宮〟


第3275話 2024/04/22

『九州倭国通信』214号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.214号が届きましたので、紹介します。同号には拙稿「筑前地誌で探る卑弥呼の墓」を掲載していただきました。古田先生は卑弥呼の墓の有力候補地として、弥生遺跡として著名な須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本)の山上にある熊野神社社殿下とされました(注①)。拙論では、この古田説を補強すべく、『筑前国続風土記拾遺』(注②)に見える次の記事を紹介しました。

 「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産神也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、三二〇~三二一頁。

 ここに記された皇后峯の山頂が現・熊野神社に当たり、卑弥呼のことが神功皇后伝承として伝えられているとしました。
同号冒頭には大宰府蔵司遺跡の写真が掲載されており、本年二月十七日に開催された発掘調査報告会(九州歴史資料館主催)について、工藤常泰さん(九州古代史の会・会長)より詳細な報告がなされており、勉強になりました。なかでも、蔵司地区から出土した大型建物(479.7㎡)が政庁正殿よりも巨大で、大宰府官衙群中最大です。その用途として、「大宰府財政を束ねた中枢施設」や「外国の使節をもてなした饗応施設」とする諸説が出されているとのことです。九州王朝説に立った場合、どのような仮説が成立するのか楽しみなテーマです。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、一九八七年。
②広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(一九九三年)。