古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3424話 2025/02/15

倭人伝「七万余戸」の考察 (5)

―50年逆行する「邪馬台国」畿内説―

 今回のテーマ「七万余戸」に限らず、文献史学の「邪馬台国」畿内説論者たちは、倭人伝に記された里数値や行程方角、戸数などをなぜか信頼できないとします。そこで、代表的な畿内説論者の仁藤敦史さんの著書・論文(注①)を取り寄せ、読んでみました。その読後感は「倭人伝研究が古田武彦以前の状況、言わば50年逆行している」というものでした。ちなみに同様の感想を、古田学派の中でも中国史書・倭人伝研究に最も精通する谷本茂さん(古田史学の会・編集部、日本科学史学会・会員)も漏らされていました。

 谷本さんは京都大学時代(工学部)からの古田説支持者で、中国古典の天文算術書『周髀算経』の研究により、周代に短里(1里=76~77m)が使用されていたことを明らかにした研究業績が著名です(注②)。その谷本さんから、仁藤さんら「邪馬台国」畿内説論者の倭人伝研究は「50年、時代に逆行している」と聞いていたのですが、実際に読んでみると、まさにその通りでした。併せて読んだ安本美典氏の著作『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(注③)の方が考古学エビデンスも解釈も〝はるかにまとも〟と思えたほどです。

 詳しくは後述しますが、古田先生や谷本さんが明らかにした魏・西晋朝短里説は、「邪馬台国」畿内説にとって最も不都合な仮説なのです。その証拠に、仁藤さんや渡邉義浩さんの著書(注④)には、古田先生が50年前に提起し、当時論争が続いた短里説が全く扱われていません(注⑤)。短里説の存在を読者には絶対に知られたくないかのようでした。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』1978年3月。
「解説にかえて 魏志倭人伝と短里 ―『周髀算経』の里単位―」、古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。
同「『邪馬一国の証明』復刻版解説」、古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房、2019年。
③安本美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』宝島社新書、2009年。
④渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』中公新書、2010年。
⑤古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年(昭和46)。ミネルヴァ書房より復刻。
古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。


第3429話 2025/02/13

『三国志』短里説の衝撃 (4)

    ―『三国志』の中の短里―

 仁藤敦史氏は〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟(注①)とするのですが、その大前提となるのが『三国志』が漢代の里単位「長里」(一里約400m強)により里程記事が書かれているとする解釈です。これで倭人伝などの里程記事が問題なく読めるのであればまだしも、実際の距離とは5~6倍近く異なるため、諸説が出されてきたのですから、研究者として魏代の里単位が何メートルなのかを確認する作業が不可欠なはずです。しかし、仁藤氏の論文や著書にはその作業がなされた形跡が見えません。

 他方、古田武彦氏は〝単位問題では、いつでも、「その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。」〟(注②)として、『三国志』に書かれている里程記事を調査して、実際の距離との比較により、一里を「七五~九〇メートルで七五メートルに近い値」とする短里説を提唱しました。なお、谷本茂さんによる『周髀算経』の研究(注③)により、短里は一里76~77mであることが有力となりました。長里は一里435mとされています。具体的には次のような史料根拠と計算に基づいています。古田先生があげた多数の例から一部を紹介します。

○(一大国)方三百里なる可し。〔魏志倭人伝〕
壱岐島は約20kmの正方形内に収まり、短里では概略妥当であり、長里ではまったく妥当しない。ちなみに、魏の張政が軍事司令官(塞曹掾史)として二十年間倭国に滞在していたことが知られている。その軍事報告に基づいて倭人伝は記されていると考えられ、小島の壱岐島を五~六倍(面積比で二五~三六倍)の大きな島と張政が見間違うはずがない。
○(韓)方四千里。〔魏志韓伝〕
韓半島の南辺約300km÷4000里=約75m。東夷伝中の韓伝で短里が使用されている例。
○天柱山高峻二十余里。〔魏志張遼伝〕
天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。
○北軍を去ること二里余、同時発火す。〔呉志周瑜伝〕
周瑜伝裴注に江表伝が引文されている。その赤壁の戦の描写中にこの記事がある。呉の軍船が揚子江の中江に至って「降服」を叫んだのち、「二里余」に至って発火した。この赤壁の川幅は約400~500mであり、短里なら適切だが、長里ではとうてい妥当しない。公表伝は西晋の虞薄の著作であるから、『三国志』と同じく、短里で書かれていたことが判明する。

 以上のように『三国志』は魏・西晋朝の公認里単位「短里」で書かれており、当然のこととして倭人伝の里程記事も短里で読むべきです(注④)。したがって、郡(帯方郡)から倭国の都までの総里程「万二千余里」も短里であり、その到着点は博多湾岸(筑前中域)となります。他方、当地は「弥生銀座」と称されているように、弥生時代の鉄器、漢式鏡の列島内最多出土地で、最大の都市遺跡比恵那珂遺跡群(福岡市博多区・他)もあります。短里による行程理解と考古学出土物の双方が、倭国の都として同じ地点を指し示しているのです。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。
③谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』177号、1978年。
④「古田史学の会」研究者により、『三国志』内に長里が使用されている例が発見されている。『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年)を参照されたい。


第3428話 2025/02/12

『三国志』短里説の衝撃 (3)

     ―「短里説」無視の構造―

 「邪馬台国」畿内説の仁藤敦史氏の著書・論文(注①)には、短里説は全く触れられていません。その理由は、仁藤氏が採用した次のような論理構造の(ⅰ)と(ⅱ)にあります。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく、厳密な史料批判、東アジア的分析視角、考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値となっており、魏王朝の間接的な支配が及ぶ、限界の地という意味を持たされていたことになる。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 仁藤氏は(ⅰ)を大前提に論を進めるのですが、実はその大前提が間違っています。前半の〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟というのは仁藤氏の意見であり、それが正しいかどうかは検証の対象です。学問では当たり前のことですが、自らの意見を自説成立の前提とはできません。そのようなことは学者である仁藤氏には分かりきったことのはずです。ですから、後半の〝この点は衆目の一致するところである〟という一文が続いているわけですが、これもまた仁藤氏の意見です。すなわち、それも検証の対象であり、自説成立の前提にはなりません。しかも、「衆目の一致」という意見は二重の意味で誤りです。まず、学問の当否は多数決では決まらないという点で誤っています。更に、古田先生をはじめ(注②)、倭人伝の里程記事は短里によれば比較的正確な行程であり、日本列島内に位置づける説が複数の研究者(注③)から発表されています。したがって、衆目は決して一致しているわけではありません。

 (ⅱ)に至っては、長里説(一里約400メートル強)を論証抜きの大前提として初めて言えることであって、短里であればその大前提が崩れ、〝当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低い〟とする仁藤氏の解釈そのものが成立しません。こうした論理構造からもうかがえるように、畿内説は〝倭人伝の里程記事を信用しない理由〟を、それぞれの論者が〝手を変え品を変え〟て、今日まで発表し続けているといっても過言ではありません。この状況こそ、古田先生が

 「倭人伝中の里数値を漢代の里単位と同じ「単位」に解して、〝とんでもない錯覚〟の中に躍らされてきた、研究史上の苦い経験があります。たとえば、
○(韓)方四千里。 (魏志韓伝)
○郡(帯方郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里 (魏志倭人伝)
を、〝大風呂敷だ〟と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。」

 と、50年前から言われてきたことなのです(注④)。近年の畿内説論者が、短里説の存在そのものに触れようともしない真の理由がここにあると、わたしは睨んでいます(ⅰとⅱの大前提が崩れるため)。ちなみに、古田先生の学問の方法は彼らとは真逆です。その精神が、名著『「邪馬台国」はなかった』の序文に次のように記されています。

 「わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰さがわたしを導きとおしてくれたのである。
はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。
その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③安本美典氏や荊木美行氏(皇學館大学教授)は短里説を採用し、「邪馬台国」の位置を筑前朝倉や筑後山門とする。小澤毅(三重大学教授)も北部九州説である。
小澤毅「『魏志倭人伝』が語る邪馬台国の位置」『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。
④古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。


第3427話 2025/02/11

『三国志』短里説の衝撃 (2)

 ―「短里・里程」論争の研究史―

 「邪馬台国」畿内説の仁藤敦史氏の著書・論文(注①)には、短里説は全く触れられていません。谷本さんが指摘された「里数値はまったく信頼できないものとして無視し、里数値以外の情報にもとづいて女王国の位置を求めようとする立場」に立っています。もちろん、自説成立のために短里説を否定するのはかまいませんが、それならば短里説を紹介し、根拠をあげて学問的に批判するのが学者や研究者のあるべき姿だとわたしは思います。

 短里説が取るに足らない仮説であるのならば、古田先生が『三国志』短里説を1971年に発表した後(注②)、あれほど長期にわたる論争が続くはずもありません。良い機会ですので、当時の短里・里程論争の関連著書を紹介します。
古田先生と谷本茂さんの共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(注③)で、谷本さんが次の書籍・論文を紹介しています。

【「魏・西晋朝短里説」への反論】
○山尾幸久『魏志倭人伝』講談社、1972年
○白崎昭一郎『東アジアの中の邪馬臺国』芙蓉書房、1978年。
○佐藤鉄章『隠された邪馬台国』サンケイ出版、1979年。
○安本美典『「邪馬壹国」はなかった』新人物往来社、1980年。
○『季刊邪馬台国』12号、梓書院、1982年。13号、1982年。35号、1988年。などに里程の特集。
○原島令二『邪馬台国から古墳の発生へ』六興出版、1987年。
○石田健彦「『三国志』の里単位について ―「赤壁の戦」を疑う―」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。

【里程論争について】
○三品彰英『邪馬台国研究総覧』創元社、1970年。
○篠原俊次「魏志倭人伝の里程単位」『季刊邪馬台国』35号、1988年
○古田武彦『古代は沈黙せず』駸々堂出版、1988年。
○古田武彦編『古代史討論シンポジウム 「邪馬台国」徹底論争』第一巻 言語、行路・里程編、新泉社、1992年。
○秦政明「『三国志』における短里・長里混在の論理性」『市民の古代』15集、新泉社、1993年。
○帯刀永一「短里説・長里説の再検討」『市民の古代』15集、新泉社、1993年。

【『周髀算経』に基づく短里説批判とそれへの反論】
○篠原俊次「一寸千(短)里説批判」『五条古代文化』30号、五条古代文化研究会、1985年。
○篠原俊次「魏志倭人伝の里程単位 ―その4―」『計量史研究』8号、日本計量史学会、1985年。
○谷本茂「『周髀算経』の里単位について」『季刊邪馬台国』35号、梓書院、1988年。

 このように50年以上前から、20年間にわたって続けられた「短里・里程」論争に一切触れない仁藤氏の論文・著書を、「時代を50年逆行している」と谷本さんが批評したのはもっともなことです。最後に、倭人伝中の里単位について言及した古田先生の著書『邪馬一国への道標』(注④)の次の一文を紹介します。

 「倭人伝中の里数値を漢代の里単位と同じ「単位」に解して、〝とんでもない錯覚〟の中に躍らされてきた、研究史上の苦い経験があります。たとえば、
○(韓)方四千里。 (魏志韓伝)
○郡(帯方郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里 (魏志倭人伝)
を、〝大風呂敷だ〟と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。つまり、単位問題では、いつでも、〝その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。〟」同書一〇七頁 (つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
④古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。

【写真】『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』出版30周年記念講演会での谷本さんと古賀の祝賀講演。東京朝日新聞社ホールにて、2001年10月8日。


第3426話 2025/02/10

『古田史学会報』186号の紹介

『古田史学会報』186号を紹介します。同号には拙稿〝「九州王朝律令」復元研究の予察〟と〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟〝〔新年のご挨拶〕超満員御礼!新春古代史講演会〟の三編を掲載して頂きました。

〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟で紹介した、生前、安藤さんよりいただいた未発表稿「真福寺本古事記の文字について」は、遺稿として多元的古代研究会へお譲りしました。同会の会報『多元』か記念刊行物に収録していただけるとのことですので、故人のご遺志にもかない、同会々員のみなさんにも喜んでいただけることと思います。

〝「九州王朝律令」復元研究の予察〟は、現存しない九州王朝律令の復元のために、木簡・金石文・『日本書紀』などに遺っている断片史料を紹介したものです。言わば基礎研究ですので、今後の九州王朝研究に裨益できれば幸いです。
一面に掲載された正木稿「「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(上)」は前号掲載の「『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾」に続く、筑紫君磐井に関する本格的な論文です。この分野の有力説になるのではないでしょうか。注目したいと思います。

古谷さんの論稿〝「牛利」という姓名〟は倭人伝に見える「都市牛利」について、「都市」を官職名とした『古田史学会報』147号(2018年)の論稿「長沙走馬楼呉簡の研究」の続編でもあり、「牛利」の「牛」を姓、「利」を名とするものです。史料根拠も示されており、有力説ではないでしょうか。これもなかなか面白い仮説と思いました。
186号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』186号の内容】
○「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(上) 川西市 正木 裕
○不改常典仮託説批判 古田武彦説と中野渡俊治説の対比 たつの市 日野智貴
○國枝氏の「唐書類の読み方」への返答 神戸市 谷本 茂
○なぜ、『隋書』は「裴清」と書いたのか ―推古紀の遣唐使の解明― 姫路市 野田利郎
○「九州王朝律令」復元研究の予察 京都市 古賀達也
○「牛利」という姓名 枚方市 古谷弘美
○安藤哲朗氏のご逝去を悼む 古田史学の会・代表 古賀達也
○〔新年のご挨拶〕超満員御礼!新春古代史講演会 古田史学の会・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○「会員募集」ご協力のお願い
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く勉強になる紙面作りにご協力下さい。


第3425話 2025/02/09

『三国志』短里説の衝撃 (1)

 ―短里説を避ける「邪馬台国」畿内説―

 〝倭人伝「七万余戸」の考察 (1)~(5)〟として続けてきた前話までの論点を〝『三国志』短里説の衝撃〟に変えて、「邪馬台国」畿内説論者、仁藤敦史氏の著書・論文(注①)が「時代を50年逆行している」ことについて詳述します。
短里説をテーマとした古田先生と谷本茂さんの共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(注②)には、谷本さんによる次の的確な分析が示されています。

 「『三国志』倭人伝には、魏の直轄地帯方郡(郡治は現在のソウル付近)から倭の女王の都する邪馬壹国までの行路里程が記されている。全体の行程は、郡(帯方郡)より女王国(邪馬壹国)に至る万二千余里とある。進行方向は大略南であるから、一里=四〇〇メートル強の通常の魏代の里単位で理解しようとすると、ソウル近辺から南へ五〇〇〇キロメートルの遠隔地が女王国の候補地となる。はるか熱帯のどこかの島に卑弥呼がいたのであろうか。(中略)一般の古代史研究者は、あくまでも女王国を日本列島内に求めようと努力している。
したがって、倭人伝の行路里程記事に対する態度は、論理的に二つに分かれざるをえない。里数値はまったく信頼できないものとして無視し、里数値以外の情報にもとづいて女王国の位置を求めようとする立場と、里数値を合理的に解釈しようと努力する立場とがある。」98ページ

 仁藤氏の場合は他者の研究や様々な解釈を並べますが、本質的には前者の立場をとります。氏の論文「倭国の成立と東アジア」と著書『卑弥呼と台与』では、自らの立場(里数値はまったく信頼できない)を表明し、「邪馬台国」畿内説へと結論づけます。その主たる論理構造は次のようです。ちなみに短里説には全く触れていません。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく、厳密な史料批判、東アジア的分析視角、考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値となっており、魏王朝の間接的な支配が及ぶ、限界の地という意味を持たされていたことになる。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 以上のような論理構造を持つ仁藤説ですが、ひとつずつ検証することにします。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。


第3424話 2025/02/07

倭人伝「七万余戸」の考察 (5)

 ―50年逆行する「邪馬台国」畿内説―

 今回のテーマ「七万余戸」に限らず、文献史学の「邪馬台国」畿内説論者たちは、倭人伝に記された里数値や行程方角、戸数などをなぜか信頼できないとします。そこで、代表的な畿内説論者の仁藤敦史さんの著書・論文(注①)を取り寄せ、読んでみました。その読後感は「倭人伝研究が古田武彦以前の状況、言わば50年逆行している」というものでした。ちなみに同様の感想を、古田学派の中でも中国史書・倭人伝研究に最も精通する谷本茂さん(古田史学の会・編集部、日本科学史学会・会員)も漏らされていました。

 谷本さんは京都大学時代(工学部)からの古田説支持者で、中国古典の天文算術書『周髀算経』の研究により、周代に短里(1里=76~77m)が使用されていたことを明らかにした研究業績が著名です(注②)。その谷本さんから、仁藤さんら「邪馬台国」畿内説論者の倭人伝研究は「50年、時代に逆行している」と聞いていたのですが、実際に読んでみると、まさにその通りでした。併せて読んだ安本美典氏の著作『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(注③)の方が考古学エビデンスも解釈も〝はるかにまとも〟と思えたほどです。

 詳しくは後述しますが、古田先生や谷本さんが明らかにした魏・西晋朝短里説は、「邪馬台国」畿内説にとって最も不都合な仮説なのです。その証拠に、仁藤さんや渡邉義浩さんの著書(注④)には、古田先生が50年前に提起し、当時論争が続いた短里説が全く扱われていません(注⑤)。短里説の存在を読者には絶対に知られたくないかのようでした。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』1978年3月。
「解説にかえて 魏志倭人伝と短里 ―『周髀算経』の里単位―」、古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。
同「『邪馬一国の証明』復刻版解説」、古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房、2019年。
③安本美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』宝島社新書、2009年。
④渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』中公新書、2010年。
⑤古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年(昭和46)。ミネルヴァ書房より復刻。
古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。

 

【写真】谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」の短里計算式と関西例会で発表する谷本さん


第3423話 2025/02/06

倭人伝「七万余戸」の考察 (4)

 ―戸数と面積の相関論(正木裕説)―

 弥生時代の人口推計学の方法(遺跡の「発見数」を計算に使用)や推定値(弥生時代の人口約60万人)が、同分野の研究者(注①)からも「計算方法に根本的な問題がある」との疑義が出されていることから、そのような推定値を根拠として、倭人伝の「七万余戸」を否定することはできないことがわかりました。

 そこで今回は文献史学の立場から、倭人伝に記された各国の戸数とその領域の平野部面積に相関があり、その戸数が信頼できることを実証的に論じた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究「邪馬壹国の所在と魏使の行程」(注②)を紹介します。同研究の概要を説明したメールが正木さんから届きましたので、転載します。詳しくは『古代に真実を求めて』17集に収録した正木論文を読んで下さい。

【以下、メールを転載】
古賀様
極めて大雑把な計算ですが、壱岐の面積と戸数をもとに計算した「魏志倭人伝」の各国の面積と領域は次のとおり。

①壱岐(一大国)は138㎢・3千許家で、これから比例させた、「千戸(家)」の伊都国・不彌国両国の面積は1/3の各約50㎢。
(*壱岐の耕地面積割合は1/3程度。怡土平野はほぼ耕地だからこれを一定考慮すれば両国は約25㎢=方5㎞の範囲の国)

②「奴国」の「二万戸」を比例させれば約800㎢。これは山岳部(背振山脈)を除外すれば怡土平野+肥前国程度。

③「邪馬壹国」の「七万戸」を比例させれば約2800㎢。これは山岳部(古処馬見英彦山地)を除けば、南西は筑後川河口の有明海岸まで、南は耳納山地を含み、東は周防灘沿岸の豊前市付近まで、北東は直方平野から関門海峡までを包む領域で、邪馬壹国は筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国だったことになる。

 つまり壱岐の戸数と面積をもとにすれば「七万戸」は北部九州、それも福岡県とその周辺に収まる「合理的な戸数」になります。
全国で60万人などという人口推計がおかしいのです。
正木
【転載おわり】

 この正木さんの計算方法は簡単明瞭であり、誰でも検証可能なデータに基づいていますから、説得力があります。他方、現在の文献史学における「邪馬台国」畿内説論者たちは、倭人伝に記された里数値や行程方角、戸数などをなぜか信頼できないとします。そこで、畿内説論者の著書・論文(注③)を入手し、取り急ぎ読んでみました。(つづく)

(注)
①中村大「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」『令和元年度縄文文化特別研究報告書』函館市縄文文化交流センター、2019年。
http://www.hjcc.jp/wp/wp-content/themes/jomon/assets/images/research/pdf/r1hjcc_report.pdf
②正木裕「邪馬壹国の所在と魏使の行程」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
③渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』中公新書、2010年。
仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。


第3422話 2025/02/05

倭人伝「七万余戸」の考察 (3)

 ―人口推計方法の限界―

 弥生時代の人口推計学の方法は本当に正しいのかという疑問をどうしても払拭できませんので、とりあえずネット上の緒論を見てみました。それによれば、鬼頭宏氏の推定人口(注①)は小山修三氏の説(注②)に依拠しているとのことで、次のような説明と計算式が示されていました(注③)。

【以下、転載】
2-1 原典データの人口算出プロセス
原典データは大略次のようなプロセスで人口を算出しています。

ア 日本でもっともふるく、かつ比較的信頼性のたかい人口データである沢田吾一(1927)の奈良時代人口(国別租税高による推算)を基準とする。
イ 沢田データに時間的に近い土師期(古墳、奈良、平安)遺跡数をもとめる。
ウ データのそろう関東地方の遺跡当たり基準価Vを求める。
V=P/T 遺跡当たり基準価(V)=土師期の人口(P)/遺跡総数(T)
V=943000/5549≒170
エ 縄文各期の人口は例えば
縄文中期人口=縄文中期制限定数(C)×縄文中期遺跡数×V
でもとめる。
期別制限定数は結果蓋然性が高くなるような方法により早期1/20、前期1/7、中期1/7、後期1/7、晩期1/7、弥生1/3を設定する。(Shuzo Koyama 1979)
【転載おわり】

 この人口推定に用いられた計算式が論理的に妥当かどうか、わたしには判断できませんが、推定にあたり、各時代ごとの遺跡数が主要ファクターになっていることは明確です。また、「期別制限定数」なるものも、恣意性が排除できない曖昧な数値のように見えます。

 このような計算式で精確な人口が推定出来るものなのでしょうか。そもそも、各時代の遺跡数などわかるはずもありません。わかるのは発見された遺跡の数だけですし、遺跡の性格や規模はどのようにカウントし、定数に反映させているのでしょうか。はっきり言って、こんな計算式で縄文時代や弥生時代の人口が推定できるとは、わたしには到底思えません。そこで、人口推定の専門家の論文を探しました。

 近年では、小山氏の人口推計に問題があるとする研究者は少なからずいるようです。たとえば立命館大学に縄文時代の人口研究を専門とする中村大氏がいます。氏の論文「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」(注④)の「小山推定の意義と問題点」において、「計算方法に根本的な問題がある」として、計算に使用した遺跡数が「発見数」であり、「本当の存在数」ではないと指摘しています。これこそわたしが問題視していたことの一つです。

 このように問題が指摘されている現代の研究者による人口推定値を根拠として、同時代史料である倭人伝の記事を否定するのは、文献史学の方法から見ても問題ではないでしょうか。現代人の認識によって、古代史料を改訂・否定(たとえば倭人伝の中心国名「邪馬壹国」を「邪馬臺(台)国」に、その位置を示す方角「南」を「東」と書き換えるなど)するには、必要にして十分な論証が必要であると、古田先生が述べてきた通りです。ですから、疑うべきは同時代史料よりも、問題があるとされる現代人による推定値の方ではないでしょうか。

 なお、中村さんは2018年に、弥生時代の人口推定の新しい方法を発表されたらしく、立命館大学の知人を介して中村さんにお会いし、御教示いただこうかと考えています。専門家に直接お聞きするのが、より勉強になると思いますので。(つづく)

(注)
①鬼頭宏『図説 人口で見る日本史』PHP出版、2007年。
②『ブログ歴史人口学』によれば、小山修三氏の説に依拠した鬼頭宏氏の推定人口は次のように説明されている。
遺跡数と、遺跡当たりの推定収容人口比から、弥生時代に関しては遺跡数に56、中期以降の縄文時代に関しては遺跡数に24、縄文時代早期に関しては遺跡数に8を乗じた値をそれぞれの時代の推定人口とすることで算出された。
縄文時代早期 2万0100人
縄文時代前期 10万5500人
縄文時代中期 26万1300人
縄文時代後期 16万0300人
縄文時代晩期 7万5800人
弥生時代 59万4900人
http://houki.yonago-kodaisi.com/F-geo-Jinkou.html
③『ブログ花見川流域を歩く』「縄文時代人口データ原典の考察」2020年6月7日
https://hanamigawa2011.blogspot.com/2020/06/blog-post_7.html
④中村大「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」『令和元年度縄文文化特別研究報告書』函館市縄文文化交流センター、2019年。
http://www.hjcc.jp/wp/wp-content/themes/jomon/assets/images/research/pdf/r1hjcc_report.pdf


第3421話 2025/02/04

倭人伝「七万余戸」の考察 (2)

 ―弥生時代に戸籍はあったか―

 『三国志』魏志倭人伝に記された邪馬壹国の人口記事「七万余戸」という数字は誇張されたもので信頼できないとされているようです。その理由の一つに、「弥生時代に戸籍制度があったとは思われない」という意見があります。他方、当時の国家制度は中国の影響を受けて、その時代にふさわしい制度があったとする意見もあります。わたしもこの意見に賛成です。

 とは言え、当時の倭国の「戸」制度の内容は未詳です。しかし倭人伝に次の記事が見え、注目されます。

 「尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。」

 「租賦を収む」とあるように、「租賦」(祖は穀物、賦は労役と考えられている。注①)を徴収する制度が記されていることから、徴税・徴発のためには戸籍が不可欠です。特に労役や徴兵のためには人口や年齢構成などの把握が必要ですから、吉野ヶ里遺跡や比恵那珂遺跡のような大規模集落、大都市遺構の存在を見ても、それらを造営・維持管理するための国家制度(戸籍・官僚制度・軍事制度・官道など)があったことを疑えません。

 戸制度については古田先生による考察が『倭人伝を徹底して読む』の「第七章 戸数問題」(注②)にあり、倭人伝に見える「戸」を「魏の制度としての戸」としています。そこでは『漢書』地理志の戸数が列記されており、その一戸あたりの人数を計算すると概ね四人から五人であることがわかります。この数値を援用すれば、邪馬壹国の「七万余戸」は約30~35万人となります。これでも邪馬壹国だけで現代の人口推計学による弥生時代の推定人口(北海道・沖縄を除く)約60万人の半数ほどになりますから、両者は整合していません。どちらがより正しいのでしょうか。わたしが学んだ文献史学の方法や立場からは、現代の人口推計学の方法は本当に正しいのかという疑問をどうしても払拭できません。(つづく)

(注)
①国営吉野ヶ里歴史公園HP「弥生ミュージアム 第五章 弥生時代の社会」の解説による。
②古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。


第3420話 2025/02/03

倭人伝「七万余戸」の考察 (1)

 八王子セミナー(注①)の実行委員として、橘高修さん(東京古田会副会長)と意見交換する機会に恵まれました。今、検討しているテーマは、『三国志』魏志倭人伝に記された邪馬壹国の人口記事「七万余戸」の信頼性についてです。当該記事は次のようです。

 「南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。」

 一戸の人数がどれくらいかはわかりませんが、仮に5~10人であれば「七万余戸」の邪馬壹国の人口は35~70万人になります。橘高さんから教えていただいたのですが、現代の人口推計学によると、弥生時代の列島の人口(北海道・沖縄を除く)は約60万人とのことなので(注②)、倭人伝の「七万余戸」という記事は誇張されたもので信頼できないとされています。また、弥生時代に戸籍制度があったとは思われないことも、この「七万余戸」という史料事実を歴史事実とはできない理由になっているようです。

 他方、文献史学の方法からすれば、確たる根拠もなく、現代人の認識とあわないという理由で史料事実を否定してはならず、まずは書かれてあるとおりに古代中国人の認識として理解しておくということになります。そのため、現代人による人口推計値約60万人が、どの程度確かな方法や理論により成立しているのかを調べることが必要です。

 更に、もう一つの課題である、邪馬壹国の時代に戸籍があったのか、当時の一戸は何人くらいなのかという調査も必要です。橘高さんの問題提起を受けて、わたしはこれらのテーマについて勉強を始めました。(つづく)

(注)
①八王子市にある大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー」の略称。毎年11月に開催。協力団体として「古田史学の会」も参加している。
②鬼頭宏『図説 人口で見る日本史』PHP出版、2007年。


第3419話 2025/01/31

『東京古田会ニュース』220号の紹介

 『東京古田会ニュース』220号が届きました。拙稿「『難波の宮」発見逸話 ―山根徳太郎氏の苦難―」を掲載していただきました。同稿では、難波宮を発掘した山根徳太郎氏が調査資金不足や有力な学問的批判に苦しんでいたことを紹介しました。

 その学問的批判とは喜田貞吉さんらによるもので、『日本書紀』に見える孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は、地名の一致や地勢から判断すると狭隘な大阪市中央区の法円坂ではなく、北区の長柄・豊﨑の地であるとするものです。当時はこの見解が有力説でしたが、前期難波宮の出土により法円坂説が通説となり、今日に至っています。しかし、それでは何故地名が一致しないのかという問題は未解決のままでした。そこで、拙稿では次のように論じました。

〝喜田氏の見解は『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応という文献史学の論証に基づいており、他方、山根氏の上町台地法円坂説は考古学的出土事実により実証されている。なぜ、このように論証と実証の結果が異なったのか。ここに、近畿天皇家一元史観では解き難い問題の本質と矛盾があるのだが、その理由は明白だ。“列島内最大規模の宮殿であるからには、列島の最高権力者である近畿天皇家の宮殿のはず”という、一元史観の歴史認識(岩盤規制)に従わざるを得ないからだ。

 結論から言えば、山根氏が発見した前期難波宮は孝徳紀に書かれた「難波長柄豊碕宮」ではなく、九州王朝の王宮(難波宮)だった。その証拠の一つとして、法円坂から出土した聖武天皇の宮殿とされた後期難波宮は、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記されており、「難波長柄豊碕宮」とはされていない。この史料事実は、法円坂の地は「難波長柄豊碕」という地名ではなかったことを示唆する。〟

 論文末尾には〝残された「真の問題」、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」が北区長柄にあったことを立証したい。〟と書きましたが、これは大変な仕事になりそうです。

 当号に掲載された國枝浩さん(世田谷区)の二つの論稿には深く考えさせられました。一つは一面を飾った「古田氏の旧説撤回問題(上)」で、古田先生が自説を変更されたいくつかのテーマについて、その問題点を指摘したものです。これらについては古田先生の著作だけではその経緯や論理構造がわかりにくいかもしれませんので、わたしも「洛中洛外日記」などで説明したこともありましたし、古田史学の会・関西例会でも少なからぬ論者により当否が論じられてきました。新たに古田史学に触れられた方のためにも、國枝さんの論稿は有意義なものと思いました。

 もう一つの「『大作塚』AIと会話して」も重要なテーマです。古田説や倭人伝の「大作塚」の理解に対してのAI(Chat GPT)との問答を紹介したものです。近年、実用化が飛躍的に進んだAIの機能が歴史学などの学問や研究にどのような影響を与えるのか、研究者はAIとどのように接するべきなのかなど、近未来の重要課題です。國枝さんの問題提起により、この問題を深く考えるきっかけとなりました。