古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3170話 2023/12/03

空理空論から古代リアリズムへ (1)

 先の八王子セミナー(注①)では様々なご質問をいただき、自説に対してどのような批判や疑問が持たれているのかを知ることができ、とても有意義でした。わたしは〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えていますので、有り難いことです。

 そうした質問の一つに、律令制中央官僚が八千人(注②)とするのは『養老律令』によるもので、七世紀の王都には不適切とするものがありました。同様の批判は、前期難波宮「九州王朝複都」説に反対する論者にもよく見られたものです。既に何度も説明してきたことですが、新たな視点も含めて改めて要点をまとめます。

(1) 『養老律令』はほぼ『大宝律令』と同内容であることが復元研究により明らかとなっており、藤原宮や平城宮は『大宝律令』により全国統治した王宮である。『養老律令』が施行されたのは天平勝宝九年(757)と見られている。
(2) 七世紀は九州王朝(倭国)の時代であり、九州王朝律令により全国統治していたと考えられる。
(3) 古田氏の九州王朝説によれば、七世紀中頃には、九州王朝が全国を評制により統治したとする。
(4) 当時、評制による全国統治が可能な規模を持つ王都王宮は、前期難波宮(難波京)だけである(注③)。
(5) 前期難波宮の朝堂院は藤原宮とほぼ同規模であり、したがって中央官僚の人数も大きくは異ならないと推定できる。
(6) 文献的にも、評制が前期難波宮(難波朝廷)で全国的に施行(天下立評)したとする史料(『皇太神宮儀式帳』)があり、その他の王都で評制が施行されたとする史料は見えない(注④)。

 古代の真実に迫るためには、史料根拠に基づかずに〝ああも言えれば、こうも言える(注⑤)〟程度の解釈による「空理空論」ではなく、古代人が律令制により全国統治する行政システムにとって、何が絶対条件なのか、という「古代のリアリズム」に基づいて論じなければならないと、わたしは先の八王子セミナーで主張しました。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」、公益財団法人大学セミナーハウスの主催。
②服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
③古賀達也「律令制の都『前期難波宮』」『古田史学会報』145号、2018年。
同「九州王朝の黄金時代 ―律令と評制による全国支配―」『多元』148号、2018年。
同「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、2023年。
同「律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―」古田武彦記念古代史セミナー2023にて発表。
同「洛中洛外日記」3157話(2023/11/11)〝八王子セミナー・セッションⅡの論点整理〟
④同「文字史料による「評」論 ―「評制」の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2014年。
同「九州王朝の両京制を論ず (一) ―列島支配の拠点「難波」―」『多元』に投稿中。
⑤〝ああも言えれば、こうも言えるというものは論証ではない〟との中小路俊逸氏(故人、追手門学院大学教授)の教えを受けたことがある。
古賀達也「洛中洛外日記」360話(2011/12/11)〝会報投稿のコツ(4)〟
同「洛中洛外日記」1427話(2017/06/20)〝中小路駿逸先生の遺稿集が発刊〟


第3169話 2023/12/01

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(4)

 飛鳥宮跡は大きくは三期の遺構からなり、通説では、Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636)、Ⅱ期は皇極・斉明天皇の飛鳥板蓋宮(643~645、655)、Ⅲ-A期は斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮(656~660)、Ⅲ-B期は同宮を拡張した天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694)とされ、これらは昭和35年から約190回にわたって行われた発掘調査に基づいています。他方、Ⅱ期を後飛鳥岡本宮、Ⅲ期を飛鳥浄御原宮とする佐藤隆さんの説などもあります(注①)。しかし、同遺構を三期にわけること自体は出土事実に基づいており、異論はないようです。

 いずれの遺構も『日本書紀』の記事に基づき、「飛鳥○○宮」と命名されており、それらが「飛鳥」と呼ばれる地域内にあったことを示しています。この七世紀における「飛鳥」の範囲については諸説ありますが、広く見る説では、北は香具山付近、南は稲淵付近にかけての飛鳥川両岸一帯とします(注②)。

 以上のように、飛鳥宮跡遺跡の調査により、七世紀における近畿天皇家の宮殿の姿が徐々に明らかとなり、地名や出土事実が『日本書紀』の記事と対応しうることから、その説得力を増しつつあります。この度、Ⅰ期の長大な塀跡が飛鳥宮跡「内郭」の位置から出土したことにより、七世紀前半においても当地に大型の宮殿があったことが推定できるようになりました。そして、その建築方位は南北正方位ではなく、七世紀中頃のⅡ期に至って、正方位の建物が飛鳥宮跡地域に出現することから、九州王朝による正方位の巨大宮殿、前期難波宮創建(652年)の影響(設計思想)が、畿内の近畿天皇家にも及んだものと思われます。

 わたしたち九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきです。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを、今回の出土は示唆しているのではないでしょうか。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応しうることは、『日本書紀』の当該記事の信頼性を高め、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければなりません。(おわり)

(注)
①佐藤隆「前期難波宮造営過程の再検討 ―飛鳥宮跡との比較を中心に―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第20号、2022年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
古賀達也「洛中洛外日記」2852~2853話(2022/10/04-05)〝宮名を以て天皇号を称した王権(3)~(4)〟
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2022年。


第3168話 2023/11/29

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(3)

 飛鳥宮跡は三期の遺構からなっており、Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮と考えられており、七世紀前半に遡る王宮遺構です。今回発見されたⅠ期の塀跡はⅡ期・Ⅲ期の遺構と重なり、内郭と呼ばれている飛鳥宮跡中枢の位置から出土しています。いずれも『日本書紀』に基づき「飛鳥○○宮」と命名されており、同地域が古代から飛鳥(アスカ)と称されていたことを前提としています。

 当地が古代から飛鳥(アスカ)と呼ばれていたことは、『日本書紀』(720年成立)以外にも、飛鳥宮跡の北に飛鳥寺があること(七世紀の飛鳥寺跡も出土)、「飛鳥寺」木簡が飛鳥池遺跡から出土していることなどから、確かなことと思われます。更に、「甲午年(694)」銘を持つ「法隆寺観音像造像記銅板」(注①)には大和の著名な寺名「鵤大寺」「片罡王寺」とともに「飛鳥寺」が見え、七世紀に飛鳥寺が大和にあったことを疑えません。

 また、「船王後墓誌」(注②)に見える舒明天皇の表記が「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」とあり(注③)、七世紀でも「飛鳥」は「阿須迦(アスカ)」と称されていたことがわかります。現存地名も明日香(アスカ)村であり、地名の持つ伝承力の強さがうかがわれます。(つづく)

(注)
①「法隆寺観音像造像記銅板」(奈良県斑鳩町)の銘文。
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓
②「船王後墓誌」の銘文。
(表)
惟舩氏 故王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也 生於乎娑陀宮治天下天皇之世 奉仕於等由羅宮 治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殯亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅 故戊辰年十二月殯葬於松岳山上 共婦安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也 即為安保万代之霊基 牢固永劫之寶地也
③「船王後墓誌」に見える「天皇」を九州王朝の〝天子の別称〟とする古田新説があるが、これは近畿天皇家が「天皇」を名乗ったのは文武からとする解釈に基づいている。しかし、前提となるエビデンス(「天皇・皇子」木簡・「天皇」金石文)は、七世紀に近畿天皇家が「天皇」を称したことを示しているので、この古田新説には従えない。
たとえば、七世紀の「天皇」銘木簡・金石文は全て近畿地方で出土・伝来してきたものであり、それら全てを九州王朝の〝天子の別称〟とする解釈は恣意的で無理筋と言わざるを得ないであろう。次の拙論を参照されたい。
○「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
○「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2019年。
○「大化改新詔と王朝交替」『東京古田会ニュース』194号、2020年。
○「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2023年。


第3167話 2023/11/28

『東京古田会ニュース』No.213の紹介

 『東京古田会ニュース』213号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の証言 ―令和の和田家文書調査―」を掲載していただきました。同稿は、本年5月6日~9日、青森県弘前市を訪れ、30年ぶりに実施した和田家文書調査の報告です。〝令和の和田家文書調査〟と名付けた今回の津軽行脚は、当地の「秋田孝季集史研究会」(会長 竹田侑子さん)の皆様から物心両面のご協力をいただき、数々の成果に恵まれました。同会への感謝を込めて同稿を執筆しました。その最後の一文を転載します。

 〝古田先生と行った津軽行脚〝平成の和田家文書調査〟から30年を経ました。初めて調査に同行したとき、先生は六七歳でした。そのおり、わたしに言われた言葉があります。

 「偽作キャンペーンが今でよかった。もしこれが10年後であったなら、わたしの身体は到底もたなかったと思う。」

 このときの先生の年齢に、わたしはなりました。貴重な証言をしていただいた津軽の古老たち、和田喜八郎さん、藤本光幸さん、そして古田先生も他界され、〝平成の調査〟をよく知る者はわたし一人となりました。後継の青年たちとともに、〝令和の和田家文書調査〟をこれからも続けます。〟

 当号の一面には竹田侑子さん(弘前市、秋田孝季集史研究会々長)の「消えた俾弥呼(1) 似て非なる二字 黄幢と黄憧」が掲載されていました。〝令和の調査〟で、お世話になった日々を思い起こしながら拝読しました。


第3166話 2023/11/27

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(2)

 飛鳥宮跡は三期の遺構からなっており、今回のⅠ期に属する長大な塀跡の出土を知り、〝やはりあったのか〟とわたしは思いました。Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮と考えられており、七世紀前半に遡る王宮遺構となるのですが、これまでは飛鳥宮跡からはあまり出土していませんでした(上層のⅡ期・Ⅲ期の遺跡保存のため、下層のⅠ期遺構の調査が進んでいない)。今回の出土は、文献史学や金石文の解釈にも影響を及ぼす、重要な発見です。このことについて説明します。

 報道やその後入手した橿原考古学研究所の報告にある、塀跡が45m以上という長大で、その向きが南北正方位ではなく、東に対して北に25°の振れを持っている点に、わたしは注目しています。これは、Ⅰ期の宮域が広域であり、当地の権力者の宮殿の規模にふさわしいことと、南北正方位ではないことは七世紀前半の特徴を示しています。ちなみにⅡ期・Ⅲ期の遺構は南北正方位であり、七世紀中頃から後半の特徴を示しています。

 こうした出土事実から、この塀跡を舒明天皇の飛鳥岡本宮に関わるものと判断されています。また、柱を据える穴は一辺1m以上あり、重要な建物などを区画する堅牢な塀跡とみられることも、この判断の根拠の一つとなっているようです。更に、柱穴には焼けた土や炭化物(灰)が残り、飛鳥岡本宮が636年に火災で焼けたという『日本書紀』の記述(注)と対応していることも、こうした判断を裏付けています。

 文献史学の視点からしても、法隆寺火災記事(670年)、前期難波宮火災記事(686年)と同様に、焼けてもいない飛鳥岡本宮が焼けたなどと『日本書紀』編者が記す必要性はなく、『日本書紀』の火災記事と今回の出土事実が一致していることは重要です。なぜなら、七世紀前半の飛鳥宮に関する『日本書紀』の記事の信憑性が、低くはないことを示唆するからです。

 木下正史さん(東京学芸大名誉教授・考古学)が、「舒明天皇の飛鳥岡本宮はこれまで状況が分からなかったが、長大な塀跡が見つかったことで宮がかなり広範囲に及んでいたことが考えられる。塀全体に焼けた痕跡があり、宮の大部分が焼けるほどの火災だったのではないか」とするのも、無理のない解釈と思われます。(つづく)

(注)『日本書紀』舒明八年条に次の記事が見える。
「六月、岡本宮に災(ひつ)けり。天皇、遷(うつ)りて田中宮に居(ま)します。」


第3165話 2023/11/26

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(1)

 「飛鳥からすごい遺構が出た」との一報に接したのは、多元的古代研究会主催の古代史研究会(2023.11.24)でのこと。司会の藤田隆一さんから教えて頂いたものです。その後、WEBで調べたところ、産経ニュース(2023/11/22)が最も詳しく報道されていたようですので、要約して、転載します。

【以下、要約して転載】
2023/11/22 産経ニュース
飛鳥で長大な塀跡発掘
舒明天皇の「飛鳥岡本宮」か
歴代天皇の宮も一括で出土

 飛鳥時代に歴代天皇の宮が相次いで築かれた飛鳥宮跡で、7世紀前半の長さ45mにわたる塀跡が見つかり、橿原考古学研究所が22日、発表した。舒明天皇が政治を行った「飛鳥岡本宮」の内部を区切る塀と判明。同宮で大型の遺構が見つかったのは初めて。皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」や天武・持統天皇の「飛鳥浄御原宮」に関わる大型建物跡なども出土。天皇の代替わりごとに建て替えられた宮が一括して見つかるのは、極めて珍しい。

 飛鳥岡本宮に関わる塀跡は、柱の穴が南西から北東へ長さ45mにわたって延びているのを確認。柱を据える穴は一辺1m以上あり、重要な建物などを区画する堅牢な塀跡とみられる。同宮は、西側を流れる飛鳥川の地形に合わせて、東西軸に対して北へ20度ほど斜めに設計され、今回の塀跡も同じ方向に延びていた(注)。柱穴には焼けた土や灰が残り、同宮が636年に火災で焼けたという日本書紀の記述と合致した。

 飛鳥宮跡は、飛鳥岡本宮(Ⅰ期)、蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変(645年)の舞台の飛鳥板蓋宮(Ⅱ期)、斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮、同宮を拡張した飛鳥浄御原宮(Ⅲ期)がほぼ同じ場所に築かれたのが特徴。この一帯は昭和35年から約190回にわたって発掘されてきたが、Ⅰ~Ⅲ期の宮の遺構が同時に見つかる例はほとんどなかった。飛鳥板蓋宮以降は、建物がすべて南北方向に並ぶように統一されており、今回の発掘では、飛鳥板蓋宮に設けられた石組み溝(長さ6m)、飛鳥浄御原宮に関わる大型建物跡(東西21m、南北6m)などが出土した。

 木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)の話 「舒明天皇の飛鳥岡本宮はこれまで状況が分からなかったが、長大な塀跡が見つかったことで宮がかなり広範囲に及んでいたことが考えられる。塀全体に焼けた痕跡があり、宮の大部分が焼けるほどの火災だったのではないか」
【転載終わり】

(注)橿原考古学研究所の報告書には、「柱筋は東に対して北に25°の振れを持っている」とある。


第3164話 2023/11/24

深津栄美さんの思い出と遺品

 多元的古代研究会の会誌『多元』178号に深津栄美さんの訃報が掲載されていました。古田先生のご紹介で深津さんとは昭和薬科大学で一度だけお会いしたことがあります。また、『古田史学会報』に小説「彩神(カリスマ)」を十年にわたり連載していただきました(3~62号)。同連載は古田先生のお薦めによるものでした。論文だけではなく、九州王朝説をテーマにした読み物も掲載するようにとのことで、執筆者として深津さんを推薦されました。そうした御縁により、度々、お手紙や、春にはご近所の桜の写真を送っていただきました。
昨年十月には、古田先生との初めての出会いなどが記された日記二冊(「1989~91」、「平成3年~5年」)と「古田先生聴講記① 平成3年4月~5年12月」一冊が送られてきて、それらは深津さんの遺品となりました。おそらく、自らの死期を悟り、わたしに託したのではないかと思っています。

 訃報に接し、遺品の整理をしていましたら、平成3年(1991)8月に開催された〝「邪馬台国」徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として― 古代史討論シンポジウム〟の案内ポスター(B4版)と同「趣意書」がありました。同シンポジウムは古田先生(東方史学会)が主催したもので、資金集めから企画立案、関係者との交渉など、先生が押し進められたものです。「趣意書」はわたしが持っていなかったもので、今では貴重な資料です。古田先生や深津さんのご遺志に応えることにもなると思いますので、ここに同文の一部を抜粋し、その要旨を紹介します。

 「邪馬台国」徹底論争 古代史討論シンポジウム 趣意書(抜粋)

 わが国の先祖の歴史は晦冥の中にある。――研究の途次、そのように感ずること、稀ではありません。
その原因の一焦点が、いわゆる「邪馬台国」問題にあること、周知の通りです。近畿説・九州説その他各説競いながら、なお、日本国民の歴史教養の一致点を見出せずにいること、後代に対して、わたしたちの時代の責務を果たしていると、敢然として言いうるでしょうか。
〔中略〕

 けれども、遺憾なことに、歴史学界の名において、純学術的に当問題を一定期間、討議する、そういう機会を見なくなって、すでに久しいのです。
かつて故長沼賢海氏(九州大学名誉教授)は、次のように指摘されました。
「昔、志賀島出土の金印について、偽作説がでた。そこで真偽対立をめぐって大学内外の学者、一般の書家、金工細工師の方々をお招きして、朝から晩まで連日にわたって討論した。そして真作への帰趨を得たのである。今、なぜ、「邪馬台国」についても、それをやらぬか」

 九十歳の明治人の気迫あふれる叱咤とお聞きしました。〔中略〕立論の正面きっての対立を尊び、在官・在野を一切問わず、その身分(職業・性、等)を片鱗も区別せず、連日徹底した討論を行い、記録して永遠の後世に残す。この切実な企画を、ささやかな一隅の力にすぎませんが、敢えて今回も行うことを決意致しました。〔後略〕

 平成三年二月十五日
昭和薬科大学文化史研究室(東方史学会)
教授 古田武彦
助手 原田 実


第3163話 2023/11/21

三十年前の論稿「二つの日本国」 (14)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「七、結び」を転載します。本稿最後の部分になります。本稿は横田幸男さん(「古田史学の会」インターネット担当)により、「古田史学の会」のアーカイブに収録されることと思います。拙稿に限らず、古田学派の論文はデジタルアーカイブとして後世に伝えたいと願っています。

 【以下転載】
七、結び

 以上、本稿において私は『三国史記』の記述を信じて、そこから得た日本国=九州王朝という視点から、他史料への読解を試みた。かかる方法が真に有効かどうか、検証すべき論点はまだ残されていよう。たとえば『三国史記』新羅本紀そのものの検証もその一つかもしれない。しかし、私は次のような理由から新羅本紀の信憑性は低くないと考えている。すなわち、新羅と九州王朝は永く交戦状態にあり、互いに相手国に対する情報の正否は国家にとって死活問題であったはずだ。この要求、相手国の正確な情報収集は、隣国であるがゆえに緊急かつ重要であり、この点においては中国以上の切実さを帯びていたこと、これを疑えないのである。更に細かくこの関係を新羅側から見れば、大和なる近畿天皇家よりも九州王朝こそ、地理的にも直面する最大の宿敵であり国難の根源であった。そうした意識は『三国史記』『三国遺事』の随所に見られる。一例を示そう。

 海東の名賢安弘が撰せる東都成立記に云わく。新羅の第二十七代は、女王が主と為る。道有りといえども威なし。九韓、侵労す。若し竜宮の南の皇竜寺に九層の塔を建てれば、則ち隣国の災を鎮む可からん。第一の層は日本、第二の層は中華、第三の層は呉越。〈『三国遺事』塔像第四、皇竜寺九層塔条〉

 ここでいう女王とは善徳女王(六三二~六四六)である。この時代、新羅にとって日本はアジアの大国中国よりも国家の災いとされていたのであろう。こうした認識が、近畿天皇家が列島の代表者となった八世紀以後においても、九州王朝を自らの史書に記し続けた遠因となったのではなかったか。してみると、『三国史記』と『旧唐書』における日本国の実態の違いは、その国がおかれた切実な状況の反映であったとも言える。かかる理由において、わたしは新羅本紀における倭国・日本国記事、その史実性を明確な根拠なくして拒否してはならないと考えたのである。
史料はその史料の文脈で理解すること、この格率こそ、本稿の因ってたった規範であったが、その帰結として本稿で主張したところを再度記す。

 ①『三国史記』に見える倭国と日本国は同一国である。
②その国号変更時期は同書の記すとおり六七〇年であり、これを倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への中心権力交替記事と見なすことは不当である。
③『三国史記』によれば八~九世紀においても九州王朝(日本国)は新羅にとって無視しえぬ国家として存在していたと考えられる。
④ ③の事実を認めなければ理解できない記事が内外の史料に存在すること。

 以上のとおりであるが、同時に、八~九世紀における九州王朝が「国家」の体をなしていたかどうか、近畿天皇家による九州支配との二重権力構造をどのように表現あるいは理解すべかきなど、なお検討を要することが少なくない。更に、『続日本紀』における新羅との国交記事などの分析は今後の課題として残されたままである。この様に弱点を含んだ拙稿ではあるが、未だ古田武彦氏も深く論究されていない未踏の研究分野でもあることから、あえて一試論として蛮勇をもって記した次第である。
「孤立を恐れず、論理に従いて悔いず。一寸の権威化も喜ばず」とは古田武彦氏の言である。思うに、この言葉に導かれて本稿は成立し得た。学恩に感謝しつつ筆を擱くこととする。(おわり)
【転載おわり】


第3162話 2023/11/20

三十年前の論稿「二つの日本国」 (13)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「六、九州王朝の末裔たち」の後半部分を転載します。『八幡宇佐宮御託宣集』に見える「筑紫九国の王・阿知根王」説話を紹介し、八世紀における九州王朝の王ではないかとしました。

【以下転載】
六、九州王朝の末裔たち(後半)

 次に国内史料に眼を転じてみよう。『八幡宇佐宮御託宣集』(神吽編、一三一三年成立)第十四巻に、朱雀天皇承平七年(九三七)の託宣中に次のような記事がある。

昔、神亀五年(七二八)より始まりて、筑紫九国を領せる王有りき。阿知根王と云う。

 そしてこの後に、神がかり的な説話が記された後、編者による解説が次のように記されている。

私に云う。聖武天皇神亀五年、大宰府少貳藤原廣継、軍兵一万五千人を率いて、国王を自称し、九州を押領、謀叛をおこす。(中略)この筑紫九国を領する王、阿知根王は廣継か。彼の託宣とこの廣継とは時代は同じ。故に之を載す。之を尋ぬべし。

 『八幡宇佐宮御託宣集』には、九三七年の託宣中に九州の王、阿知根王の存在が記され、同書編纂時の十四世紀ではその実態が理解できず、編者の私見として藤原廣継のことではないかと解説を加えているのだ。そして、その根拠として挙げているのは、ともに聖武天皇の時代であるという点だ。しかし、編者は自信がないらしく、率直に「之を尋ぬべし」と困惑した様子を記している。
編者の困惑は当然である。世に言う「広嗣の乱」は天平十二年(七四〇)のことであり、託宣に記された神亀五年(七二八)とは年次が一致しないのだ。また、阿知根王の説話に登場する人物に、酒井常基・酒井有基・宇佐千基・三高朝臣左大臣などが見えるが、広嗣の乱においてはかかる人物の名前は見えない。こうしたことからも、阿知根王は藤原広嗣とは別人としなければならない。とすれば、筑紫九国の王とされた阿知根も九州王朝の王である可能性は少なくないと思われる。

 このように、九州王朝が八~九世紀においても存続していたとする視点からすれば、その痕跡や伝承が中国や朝鮮、そして九州内に残っていたとしても何ら不思議ではない。これらの厳密な分析、そして更なる史料探索は今後の課題とするが、我々の眼前にありながら、そのことに気づかないということも少なくないのではなかろうか。本稿にて提起した「二つの日本国」という概念の導入により、多くの史料が真実の輝きを増して、我々に訴えかけてくる、そのように思われてならない。(つづく)
【転載おわり】


第3161話 2023/11/19

藤原京と太宰府の朱雀大路

 八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023)での発表時間が30分でしたので、藤原京造営主体についての研究結果を詳述できませんでした。そこで、「洛中洛外日記」で説明することにします。

 セッションⅡ〝遺構に見る「倭国から日本国へ」〟の司会をされた橘高修さん(東京古田会・副会長)のご配慮により、論点整理が事前に届き、問題意識を共有することができました。提示された三つの論点(注①)についての私見を橘高さんに返信しました。なかでも《論点Ⅲ》はパネルディスカッションでの中心テーマでしたので、わたしも再検討を続け、下記のような私見(1)(2)(3)をまとめました。

《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか?造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
(1) 藤原京整地層出土土器編年(須恵器坏B出土)と藤原宮下層出土の井戸ヒノキ板の年輪年代測定(682年伐採)などから天武期の造営とするのが最有力。
(2) 飛鳥池出土の「天皇」・(天武の子供たち)「大津皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」・「詔」木簡により、天皇と皇子を称し、「詔」を発していた天武ら(近畿天皇家、後の大和朝廷)による造営とするのが妥当。その他の勢力によるとできるエビデンスはない。
(3) これらの史料事実に基づけば、王朝交代の準備として天武・持統らが全国統治のために造営したとする理解が最も穏当である。

 出土事実に基づく限り、以上の考察が最有力と思われますが、もう一つ重要な考古学的エビデンスとして〝朱雀大路の幅〟がありました。「洛中洛外日記」(注②)でも指摘しましたが、難波京・太宰府(倭京)・藤原京・平城京の朱雀大路幅についての比較・考察です。

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
▷朱雀大路幅 約33m ※時期(前期か後期か)についてはまだ絞り込めていないようなので、今のところ参考値に留まるが、前期難波宮の時代に朱雀大路は存在していたと考えられている。
【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃創建。通説は八世紀初頭)
▷朱雀大路(路面幅)約36m (側溝芯々間)約37.8m
【藤原京道路幅】(694年遷都) 側溝芯々間距離
▷朱雀大路 24m
【平城京道路幅】(710年遷都)
▷朱雀大路 約75m

 この四つの都城の朱雀大路を比較すると、藤原京は難波京よりも太宰府政庁Ⅱ期よりも規模が小さいことが注目されます。これは何とも説明しにくい出土事実です。すなわち、九州王朝の東西の都城(難波京・太宰府倭京)よりも小さいことは、701年の王朝交代に先だって造営された藤原京が、天武・持統ら大和朝廷のために造営されたとしても、あるいは九州王朝の天子のために造営されたとしても、その理由(動機)が説明しにくいのです。

 今のところ、わたしは次のように推察しています。天武らが造営した藤原京は、王朝交代以前(九州王朝の時代)の王宮であったため、九州王朝の天子の王都よりも朱雀大路を小規模にせざるを得なかったが、王朝交代後に造営した平城京では、誰はばかることなく最大規模(太宰府の二倍)の朱雀大路を造営したのではないでしょうか。他に、もっと良い推察が可能かもしれませんので、断定は控えますが、九州王朝が自らの天子のために藤原京を造営したとする仮説では、この朱雀大路がかなり小規模という出土事実の説明が困難なように思います。ちなみに、長谷田土壇のある右郭二坊大路の幅は約16mであり、朱雀大路(24m)よりも更に小規模です。

(注)
①橘高氏からは次の三点が提示された。
《論点Ⅰ》7世紀前半における倭国と日本国の関係:従属関係か並列関係か
《論点Ⅱ》倭国の近畿進出はあったか? あったとすればいつ頃か?
《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか? 造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
②古賀達也「洛中洛外日記」3138話(2023/10/17)〝七世紀の都城の朱雀大路の幅〟

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8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

https://www.youtube.com/watch?v=-CtvQ0eC8MA

このYouTube動画のみ、アドレスの「限定公開」です。


第3160話 2023/11/18

初めての関西例会の司会

 本日、浪速区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。司会担当(リモート参加)の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)がお仕事で出張中なので、わたしが代役を務めました。「古田史学の会」関西例会は30年の歴史を持ちますが、わたしが司会を担当したのは初めてのように思います。次回、12月例会の会場は東淀川区民会館です。

 今回は慣れない司会に集中するため、研究発表は遠慮しました。それに代えて、先週参加した八王子セミナーについて少々紹介しました。一つは、橘高修さん(東京古田会・副会長)が、パネルディスカッションの論点整理ために事前に提示された「タイムテーブル」記載の論点に対する、わたしの見解の紹介(注①)。もう一つは千葉県からセミナーに初参加されたKさんの挨拶を紹介しました。

 Kさんは「古田史学の会」の新会員で、ホームページを見て入会されたようです。初参加者の〝自己紹介・挨拶コーナー〟で、Kさんは「会場参加者が老人ばかりで若い人がいない。わたしは中学生の家庭教師もしているが、その子が古代史(古田説)に興味をもってくれており、〝試験の回答には書いてはいけない〟と断って教えています。その子が高校生になったら二人で八王子セミナーに参加します。」と述べられ、参加者から拍手がおくられました。

 今回の発表で注目されたのが、大原さんによる九州年号を持つ当麻寺縁起の紹介でした。大原さんの研究によれば、当麻寺(奈良県葛城市)の前身寺院の創建を、推古の時代の定光二年とする史料があり、この「定光二年」は九州年号の「定居二年」((612年))とのこと。そうであれば、『二中歴』に見える倭京二年(619年)の難波天王寺の創建よりも早く、「当麻寺」が九州王朝により創建された可能性をも示すことから、注目すべきものと思われました。なお、定居二年と言えば、泉佐野市日根野慈眼院所蔵の棟札冒頭に記された九州年号「定居二年(612年)」における当地への新羅国太子「修明正覚王」渡来伝承が思い起こされます(注②)。

 11月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔11月度関西例会の内容〕
①裴世清は十余国を陸行した (京都市・岡下英男)
②大国主譜(二)と大年神譜 (大阪市・西井健一郎)
③西井氏の「筑紫後期王朝説への疑問」に答える(1) (八尾市・満田正賢)
④続「倭京」と多利思北孤 倭(ワ)王朝の列島制覇戦略 (東大阪市・萩野秀公)
⑤「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か 唐の李賢の証言 (姫路市・野田利郎)
⑥當麻寺の年代 (大山崎町・大原重雄)
⑦鍵穴を通る神の説話の謎 (大山崎町・大原重雄)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
12/16(土) 会場:東淀川区民会館。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3157話(2023/11/11)〝八王子セミナー・セッションⅡの論点整理〟
②同「洛中洛外日記」2796話(2022/07/24)〝慈眼院「定居二年」棟札の紹介〟
同「洛中洛外日記」2797話(2022/07/26)〝慈眼院「定居二年」棟札の古代史〟
同「洛中洛外日記」2798話(2022/07/29)〝後代成立「九州年号棟札」の論理〟
同「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。

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古田史学の会浪速区民センター第5会議室 2023.11.18

11月度関西例会発表一覧(ファイル・参照動画)

ファイル公開は古賀達也のみです。 他はYouTube公開動画のみです。


1,裴世清は十余国を陸行した (京都市・岡下英男)
岡下英男@裴世清は十余国を陸行した231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=Rozs26ZEdTw

2,大国主譜(二)と大年神譜 (大阪市・西井健一郎)

西井健一郎@大国主譜(二)と大年神譜231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=zU_6W7LokhQ

3,西井氏の「筑紫後期王朝説への疑問」に答える() (八尾市・満田正賢)

満田正賢@西井氏の「筑紫後期王朝説への疑問」に答える(1) 231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=YMLr1rxfy-A

4,続「倭京」と多利思北孤 倭()王朝の列島制覇戦略 (東大阪市・萩野秀公)

萩野秀公@続「倭京」と多利思北孤 — 倭()王朝の列島制覇戦略231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=R8Bwu8ygfEw

5,「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か — 唐の李賢の証言 (姫路市・野田利郎)

野田利郎@「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か 唐の李賢の証言231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=wLBOfnaGr0I

6,當麻寺の年代 (大山崎町・大原重雄)

7,當麻寺など見学・鍵穴を通る神の説話の謎 (大山崎町・大原重雄)

大原重雄@當麻寺の年代・鍵穴を通る神の説話の謎231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=d6ENs4SriHY

8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

https://www.youtube.com/watch?v=-CtvQ0eC8MA

このYouTube動画のみ、アドレスの「限定公開」です。


第3159話 2023/11/13

三十年前の論稿「二つの日本国」 (12)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「六、九州王朝の末裔たち」の前半部分を転載します。国外史料(『旧唐書』『三国遺事』など)に見える謎の日本国王記事を紹介しました。

 【以下転載】
六、九州王朝の末裔たち(前半)

 『旧唐書』本紀には日本国に関して不思議な記事が二つある。
①日本国王幷妻還蕃、賜物遺之。〈順宗貞元二一年(八〇五)二月条〉
②日本国王子入朝貢方物。王子善碁、帝令待詔顧師言與之對手。〈宣宗大中二年(八四八)三月条〉

 ①は日本国王夫妻の帰国記事、②は日本国王子の来朝記事だが、ともに日本側史料には対応する人物、記事は見えない。従来これらの記事はどのように学界で扱われてきたのだろうか。管見では②の記事について、貞観四年(唐咸通三年、八六二)に入唐した真如親王とする説(宮崎市定氏)や、新羅人とする説(池田温氏)などが見受けられる。しかしながら、いずれの説も、年次が違っていたり、日本国王子を新羅人としたりで、およそ万人を首肯させうる論証とは言い難いようだ。なお、①を本格的に論究した論文には未だ探しえていない。

 両記事は『新唐書』には見えないが、②は『旧唐書』の他に『杜陽雑編』(九世紀末成立)、『冊府元亀』(十一世紀初頭成立)、その他にも記載されており、かなり注目をあびた事件であったようだ。にもかかわらず、近畿天皇家にこれに対応する伝承がないのは、どういうわけか。『旧唐書』の記事なのだから、この場合の日本国は近畿天皇家とするのが古田説の立場であるが、八世紀以後の二つの日本国という概念を援用できれば、これに二例の日本国記事を九州王朝の国王夫妻と王子のことと理解することが一応可能である。しかし史料批判上、こうした方法が許されるのかという問題もあるので、一試論として提起するにとどめておきたい。

 次に紹介するのは朝鮮半島側の文献『三国遺事』にある、これも謎とされる日本国記事である。

 貞元二年丙寅(七八六)十月十一日、日本王文慶{日本帝紀を按ずるに、第五十五主は文徳王なり。疑うらくは是れか。余に文慶なし。或る本に云わく。是の王の太子なりと。}、兵を挙げて新羅を伐たんと欲す。新羅に万波息笛有りと聞きて、兵を退かせ、金五十両を以て、使を遣わして、其の笛を請えり。〈紀異第二、元聖大王条〉 ※{ }内は細注。

 七八六年は桓武天皇の時代であり、文慶などという天皇は近畿天皇家にはいない。そこで『三国遺事』の編者も困ったらしく、細注にて二つの説を記している。一つは五十五代文徳天皇のことではないか。もう一つは或る本の説として文徳天皇の太子ではないか、という二説だ。しかし、これらいずれも否であることは明白だ。文徳天皇の在位は八五〇年から八五八年であり、時代的に一致しない。王子としても文慶という名は見えない(是の王を桓武とすれば、その時の皇太子は安殿親王、後の平城天皇でこれも文慶ではない。)
したがって、この文慶王は九州王朝の王と見るべきではあるまいか。となれば、筑紫の君薩夜麻以来、歴史の表舞台から姿を消した九州王朝の王の名前が一人明らかとなったわけである。(つづく)
【転載おわり】