古賀達也一覧

第3468話 2025/04/07

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (7)

 ―『穆天子伝』の部分里程と総里程―

 倭人伝のように部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先例『穆天子伝』を古田先生は見いだしました。同書は西晋朝のときに周墓から発見され、それは陳寿と同時代のことです。篆書で書かれた大量の竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わり、翻訳された『穆天子伝』を陳寿は読んだことでしょう。

 その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき叙述法が採用されていました。それは『穆天子伝』巻四に見える、穆天子西域巡幸の行路里程記事で、宗周から西王母の邦を経て大曠原に至り、周に帰還するまでの叙述です。そこに記された部分行路里程と総里程「各行兼数」の概略は次のようです(注)。

《『穆天子伝』巻四 西域巡幸の行路里数》
❶宗周のてん水より以て西し、河宗の邦・陽紆の山に至る 3400里
❷陽紆の西より西夏氏に至る 2500里
❸西夏より珠余氏に至り河首に及ぶ 1500里
❹河首の襄山より以て西南し、舂山の珠澤・崑崙の丘に至る 700里
❺舂山より以て西し、赤烏氏の舂山に至り 300里
❻東北、還りて羣玉の山截・舂山以北に至る ※里数値なし《700里》
❼羣玉の山より以て西し、西王母の邦に至る 3000里
※❻と❼は一文節。
❽(□)西王母の邦の北より曠原の野・飛鳥の其の羽を解く所に至る 1900里
❾(□)宗周、西北の大曠原に至る 14000里
❿乃ち還りて東南し、復び陽紆に至る 7000里
⓫還りて周に帰すること (3000里) ※周地に入ってからの行路であり、集計から除外してあるものと、見られる。
⓬各行兼数 35000里 ※「各行兼数」とは総里程のこと。

 ここに記された部分里程❶~❿の合計は34300里であり、総里程「各行兼数」35000里に700里足りません。そこで古田先生は行程記事を精査し、記された方角から見て、❹(西南へ700里)❺(西へ300里)❻(東北へ・無記載)が平行四辺形の3辺であり、そのため同数になる対面する2辺の里数の内、後の700里を「還りて~至る」として表現し(則地叙述法)、里数記載を省略したとしました(簡約叙述法)。これにより、部分里程の総和が総里程となったわけです。

 この則地叙述法と簡約叙述法が『穆天子伝』に採用され、それをお手本にして陳寿は『三国志』倭人伝を叙述したと古田先生はされました。それは公理(理性の鉄則)〝部分里程の総和は総里程〟を貫かれたことにより到達した仮説です。その際、現代人の認識や自説に基づく原文改定(研究不正)、原文無視(思考停止)を「否」とする、古田先生の学問の方法が一貫していたことを忘れてはならないでしょう。

 なお、必要にして十分な論証抜きでの原文改定(研究不正)、原文無視(思考停止)を排して、〝部分里程の総和は総里程〟が成立する古田説とは異なる解釈や仮説が新たに発表されれば、それも有力仮説の一つとして検証・評価しなければならないこと、言うまでもありません。(つづく)

(注)古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』(駸々堂、1991年)による。

〔補記〕
茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)より、古田先生の❻の訓みについて疑義が出され、次の読み下しが提起されたので紹介する。古田先生に書簡でこの読解を提案されていたとのことである。
「東北、羣玉の山に還り至るに、舂山以北を截(き)る。」
「中国哲学書電子化計画」(WEB)には句読点が次のように付され、茂山氏の訓みと対応している。
「東北還至于羣玉之山、截舂山以北。」


第3467話 2025/04/06

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (6)

―『穆天子伝』の発見―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)に基づいて史書編纂者は記し、それを献上された天子を筆頭に官僚や読者もそのように理解するはずだとする、古田先生の学問の方法は、文献史学やフィロロギーでは極めて常識的なものです。その一点にこだわり抜いたことにより、古田先生は倭人伝の行路里程に記された対海国と一大国の島内陸行(島巡り半周読法)に相当する計千四百里を部分里程に含めると、部分里程の総和が総里程「万二千余里」になることを発見したわけです。

 他方、倭人伝の文面には「千四百里」という里数値が直接的に記載されているわけではないため、このような間接的に里程を読み取らなければならないような先行史料(先例)の提示は当初はできていませんでした。そのため、〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟という批判が出されることになったものと思われます。

 しかしながら、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)は『三国志』編纂当時も現代も周知のことであり、陳寿もそのことをわかった上で帯方郡から邪馬壹国までの部分里程を行路記事中に書き続け、そして総里程も記してたわけです。ですから、部分里程が「千四百里」足らなければ、行路記事中のどこかに足し忘れた里程があるのではないかと考え続けたのが古田先生で、その他の論者はそのことについて〝思考停止〟してきたのが、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟論争でした。

 そのような状況が二十年ほど続いた後に、倭人伝と同様に、部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先行史料(先例)を古田先生は見いだしました。それが『穆天子伝』(五巻)です。同書は周の第五代の天子、穆(ぼく)王の業績を記した本で、三世紀、西晋朝のときに周の戦国期の王墓から発見されました。『三国志』の著者、陳寿の時代です。同墓から「数十車」にものぼる「竹書(竹簡)」が発掘され、その中に有名な『竹書紀年』と共に、『穆天子伝』もありました。先秦の文字(篆書)で書かれた竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わっていたことを疑えません、少なくとも翻訳完成した『穆天子伝』を陳寿は西晋の史官として読んでいたと考えるべきでしょう。その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき記述法が採用されていたのです。(つづく)


第3466話 2025/04/05

『東京古田会ニュース』221号の紹介

 『東京古田会ニュース』221号が届きました。拙稿「蝦夷国「会津高寺」への仏教伝来」を掲載していただきました。同稿は、近年わたしが取り組んでいるテーマ「古代日本列島の三国時代」、すなわち倭国(九州王朝)、日本国(大和朝廷)と蝦夷国(日高見国)の三国鼎立という多元史観研究の一環として、九州王朝から蝦夷国への仏教伝来史料を紹介したものです。

 残念なことに、多元史観・九州王朝説を支持する古田学派に於いても蝦夷国研究は他の二国と比べて研究が遅れており、中には七世紀段階でも律令制国家の倭国や近畿天皇家よりも、蝦夷国を一段と劣る〝部族連合〟のような捉え方をする論者も見かけます。これは学界にはびこる一元史観の延長で蝦夷国を捉えたものであり、やはり蝦夷国に対しても多元史観による実証的な研究が必要です。この取り組みの一つとして、仏教受容という切り口で蝦夷国の実体に迫りたいと思い、同稿を著したものです。

 『東京古田会ニュース』には他紙には見られない特徴的な連載があります。同会々長の安彦克己さんによる「和田家文書備忘録」です。当号で11回目を迎え、今回のテーマは「安東船と宗任」。宗任(むねとう)とは安倍宗任のことで、前九年の役で敗れた安倍貞任と息子の千代童丸は自刃し、宗任は九州に流されます。わたしも三十年前に和田家文書に記された宗任配流記事と九州に遺っている宗任伝承の一致について論文を書いたことがあり、とても懐かしいテーマです。

 このような和田家文書に記された記事について、安彦さんは備忘録として連載しています。こうした基礎研究に当たる作業は、後学による和田家文書研究に大いに役立つことと思います。5月末頃に八幡書店から刊行が予定されている『東日流外三郡誌の逆襲』にも安彦さんの下記の研究論文が収録されます。

第四部 和田家文書から見える世界 扉
第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って—

 同書や会紙の安彦さんの論考により、和田家文書研究が大きく前進することを願っています。


第3465話 2025/04/04

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (5)

 ―部分里程の総和は総里程―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)に基づいて著者は記し、読者もそのように理解するはずだという、文献史学とフィロロギーの基本認識(学問の方法)を古田先生は尊重し、それまでどの論者も成し得なかった倭人伝の総里程「万二千余里」と一致する部分里程を初めて明らかにしました。そして、その先例である『史記』大宛列伝の里程記事中の〝漢から大夏までの里程〟を紹介しました(注①)。当該部分は次のようです。

❶ 大宛(だいえん)は漢の正西に在り。漢を去る、万里なる可し。
❷ 大夏は大宛の西南二千余里に在り。
❸ 大夏は漢を去る、万二千里。漢の西南に居す。

 漢から大宛を経て大夏に至る里程記事で、❶「万里」+❷「二千余里」=❸「万二千里」とあり、部分里程の和が総里程となっています。このケースは部分里程が具体的に記されて、総里程との一致が単純計算で得られますが、倭人伝では対海国「方四百里」と一大国「方三百里」とある数値に基づく「島巡り半周読法」という解釈に至ることが簡単ではありませんでした。

 しかしながら、倭人伝には対海国と一大国の様子を次のように記載(報告)しており、島内の「道路如禽鹿徑」を陸行したことを表しています。この陸行の「距離」を陳寿は「方四百里」「方三百里」から算出し、それを加えて総里程「万二千余里」にしたのではないかと古田先生だけが気づいたのです。

【対海国】「方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田食海物自活、乖船南北市糴。」
【一大国】「方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。」

 この「島巡り半周読法」という仮説を導入することにより、倭人伝の部分里程の総和が総里程「万二千余里」に一致し、魏西晋朝短里説(1里=約76m)とあわせることにより、邪馬壹国博多湾岸説が成立しました。この古田説は〝部分の総和は全体〟という公理(理性の鉄則)に適った初めてで唯一の説であり、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟とは異次元の学問レベルに達したもので、多くの古代史ファンや研究者の支持を得たことはご存じの通りです。

 他方、〝部分の総和が総里程にならなくてもよい〟と、明言はせずとも事実上そうしてきた従来説は説得力を失いました。しかし、古田説発表後も、日本古代史学界、特に畿内説論者からはこの公理(理性の鉄則)は無視されてきました。このような学界の状況を古田先生は嘆き、次のように注意喚起しています(注②)。

〝汗牛充棟の名をほしいままにすべき、わが国の倭人伝研究の中に、瞠目すべき一大欠落が存在する。それは次の一点の点検である。
「帯方郡より女王国に至る総里程(一万二千余里)と、各部分里程の総和が一致しているか否か」

 およそ“部分を足せば、全体になる”とは、贅言(ぜいげん)するまでもなく、古今不動の通軌にして理性の鉄則である。とすれば、倭人伝内に多くの部分里程が頻出すると共に、他面、帯方郡治と女王国の間の総里程が銘記されている以上、右の通軌・鉄則に照らして、必ず倭人伝内の文章を点検すべきこと、他のあらゆる揣摩(しま)憶測の諸説に奔る前に、先ず通過すべき学問的関門でなければならぬ。

 しかるに従来の諸氏万家、これを怠り、いたずらに中心国(邪馬壹国。諸家のいわゆる「邪馬台国」)の帰趨すべき到達点の論議にのみ焦点を求めてきたのは、学問の方法上、きわめたる遺憾の一事という他はなかったのである。
それゆえ筆者は、倭人伝内の中心国の所在を求めるにさいし、この一点の検証を出発点としたのであった。

 論文「続、邪馬壹国」及び『「邪馬台国」はなかった』における所論がそれである。しかるに、爾来、二十年。他の分野、たとえば「国名」問題、「里単位(短里)」問題等においては、幸いにも幾多の反論に恵まれたにもかかわらず、この枢要の一点に関しては、ほとんど反論に会わず、しかも学界がこれを“受け容れた”形跡もなく、不可解なる二十年を経験してきたのであった。

 今回、当問題のもつ不可避の論理性を“裏書き”する重要な新史料に遭遇した。よって江湖にこれを率直に報告し、学界の真摯なる注意を喚起したいと思い、この一文を草するのである。〟『九州王朝の歴史学』9~10頁。

 この古田先生が遭遇した重要な新史料とは『穆天子伝』のことです。(つづく)

(注)
①古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。
②古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』駸々堂、1991年。


第3464話 2025/04/01

『東日流外三郡誌の逆襲』編集大詰め

八幡書店で進められている『東日流外三郡誌の逆襲』の編集作業が大詰めを迎えています。このところ毎晩遅くまで同社の武田社長と編集の打ち合わせと原稿の改定に追われています。順調に進めば5月末頃には発行できるとのことです。

同書の構成については八幡書店のアドバイスを尊重し、次のように改めることになりました。執筆者の皆様にはご理解の程、お願い申し上げます。引き続き、調整や修正があるかもしれませんが、出版のプロのご意見だけに、わたしが提案した当初の章立てよりもかなり読みやすくなっています。出版までもう一息です。

『東日流外三郡誌の逆襲』構成
●まえがきに相当(目次の前)
•『東日流外三郡誌』を学問のステージへ 古田史学の会 代表 古賀達也
•『和田家文書研究のすすめ』 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
•『東日流外三郡誌の逆襲』の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
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●目次
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プロローグ 扉

第1章 東日流の新時代を拓く 弘前市議会議員 石岡ちづ子
第2章 和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
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第一部 真実を証言する人々 扉

第3章 『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
第4章 真実を証言する人々 古賀達也
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第二部 偽作説への反証 扉

第5章 知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
第6章 実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
第7章 伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
第8章 和田家文書に使用された和紙 古賀達也
第9章 和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也
第10章 「東日流外三郡誌」の証言 令和の「和田家文書」調査 古賀達也
第11章 新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
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第三部 資料と遺物 扉

第12章 石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
第13章 役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也
第14章 和田家文書の戦後史 古賀達也
第15章 和田家文書デジタルアーカイブへの招待 藤田隆一
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第四部 和田家文書から見える世界 扉

第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
第22章 大神神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
第23章 田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
第24章 秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子
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○巻末特別対談 東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀達也
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あとがき 謝辞 ―冥界を彷徨う魂たちへ― 古賀達也


第3463話 2025/03/31

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (4)

「周旋五千余里」、野田利郎さんの里程案

倭人伝の里程記事「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。

○狗邪韓国→対海国 千余里
○対海国「方四百里」 八百里(島巡り半周読法により算出)
○対海国→一大国  千余里
○一大国「方三百」  六百里(島巡り半周読法により算出)
○一大国→末盧国  千余里
○末盧国→伊都国  五百余里
○伊都国→不彌国  百里
◎合計       五千余里
※伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれないとした。

古田学派ではこの古田説が支持されていますが、古田説と異なる仮説が「古田史学の会」関西例会(2016年)で発表されました(注①)。野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の新説です。そのときの例会の様子を「洛中洛外日記」(注②)で次のように記しています。一部修正して転載します。

〝昨日の関西例会で興味深い報告が野田利郎さんからなされました。「『三国志』と朝鮮半島の「倭」について」という研究報告の中で、『三国志』倭人伝に見える「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周旋五千余里ばかり。」の「五千余里」を倭人伝に記された倭国内の陸地の合計距離とされ、下記の行程里数を示されました。

❶ 対海国の陸行     800里(島巡り半周読法により算出)
❷ 一大国の陸行     600里(島巡り半周読法により算出)
❸ 末廬国から女王国   600余里
❹ 女王国の東の対岸(四国)から侏儒国 3000余里
❺ 合計        5000余里

倭人伝の「周旋五千余里」記事は、女王国から侏儒国への行程記事や裸国・黒歯国記事の直後にあり、対海国から侏儒国への倭国内陸地行程の合計5000余里と偶然の一致とは思えない里数値です。なお、❹3000余里は女王国から侏儒国への「四千余里」から渡海里数の「女王国東渡海千余里」を引いた里数です。
発表後の質疑応答のとき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から、この野田説に対してどう思うかと突然聞かれたのですが、わたしも野田さんのこの倭国内陸地里数合計値に注目していましたので、あたっているかどうかはわからないが、陳寿の認識([周旋五千余里」を導き出した計算方法)をたどる上で興味深いと、やや曖昧な返事をしました。〟

古田説では「周旋五千余里」を狗邪韓国から女王国までの里程としますが、野田説では倭国内の陸行里程記事がある対海国から侏儒国までの陸地(倭地)行程の合計距離とします。どちらも「五千余里」となり、どちらの説がより正しいのか、今のところ判らずにいます。そこで、野田説を『邪馬壹国の歴史学』(「古田史学の会」編、2016年)に収録し、後世の研究者の判断に委ねることにしました。ちなみに、野田説が有力とされたのは下記の理由からです。

(1) 倭人伝には「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」とあり、「五千餘里」とは魏使が実際に「倭地を参問」した距離であり、女王国への行程距離とはされていない。また、「倭地」とあるからには、倭国内の陸上の里程と解される。海峡(海上)を「倭地」とは言い難い。

(2) 「或絶或連、周旋可五千餘里。」とあり、海中の島国(絶在海中洲島之上)である倭地は海で絶えたり、陸上では連なり、それら魏使が参問した倭地(陸路)の合計を「周旋可五千餘里」としている。他方、実際に倭人伝に記された陸路里程❶❷❸❹の合計❺は五千余里であり、「周旋可五千餘里」と一致する。

(3) 陸路(参問倭地)の合計を「五千余里」としてることから、対海国と一大国の島巡り半周読法(計千四百里)を採用していることになる。もし、それを足さなければ倭地参問里程は「三千六百余里」となり、「五千余里」とある里程記事の根拠を説明できない。従って、「五千余里」は概数ではなく、郡から邪馬壹国への総里程「万二千余里」と同様に、陳寿が魏使の報告書から算出した「倭地参問」総里程である。

(4) 『三国志』に記された「周旋」記事の中には、ある領域の端から端までを巡るという意味での使用例がある。従って、倭人伝に見える倭地の端(対海国)から端(侏儒国)までの陸地(倭地)行程のこととする野田説は成立し得る。

古田先生の見解でも、魏使の最終目的地を侏儒国としており、そこまでの陸路里程を「周旋可五千餘里」とする野田説も有力な解釈と思われるのです。(つづく)

(注)
①野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」954話(2015/05/17)〝倭人伝「周旋可五千余里」の新理解〟


第3462話 2025/03/30

奈良新聞本社で関川尚功先生と対談

 本日、奈良新聞本社にて関川尚功先生(元橿原考古学研究所)と本年予定されている講演会の内容について相談をしました。とは言え、時間の大半は学問研究の話です。特に近年何かと話題になっている年輪年代測定法や炭素同位体年代測定補正値について意見交換しました。

 わたしからは奈文研の年輪年代測定の基本データは少なくとも七世紀においては正確であること、炭素同位体年代測定の補正曲線intCAL20は福井県水月湖のデータに基づいたJCALが採用されており、弥生時代の年代についても従来の土器や古墳の編年との整合性がとれて、信頼性が向上したのではないかと説明しました。

 同席していただいた奈良新聞社の竹村さんから3月25日の奈良新聞をいただきました。過日、「古田史学の会」創立30周年について受けた取材記事が二面にわたり掲載されていました。関川先生も奈良新聞を購読されているようで、私へのインタビュー記事に驚いたとのことでした。

 「古田史学の会」草創の歴史を大きく取り扱っていただいた奈良新聞社に深く感謝しています。


第3461話 2025/03/29

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (3)

  『史記』大宛列伝、司馬遷の里程計算

〝一方、その大宛列伝をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。里程論 175頁。

とあるように、陳寿が参考にしたと思われる『史記』大宛列伝の数ある里程記事中の〝漢から大夏までの里程〟は、「部分里程の和は総里程」という公理(理性の鉄則)に基づいています。当該部分を抜粋します。

❶ 大宛(だいえん)は漢の正西に在り。漢を去る、万里なる可し。
❷ 大夏は大宛の西南二千余里に在り。
❸ 大夏は漢を去る、万二千里。漢の西南に居す。

漢から大宛を経て大夏に至る里程記事ですが、❶西へ「万里」+❷西南へ「二千余里」=❸西南「万二千里」とあり、部分里程の和が総里程となっていますし、方向も「西→西南=西南」と一致しています。これは倭人伝の里程記事、「帯方郡治から狗邪韓国まで七千余里」+「倭地周旋五千余里」=「帯方郡から邪馬壹国まで一万二千余里」の先行例です。陳寿が高名な司馬遷の『史記』を読んでいなかったとは考えにくく、むしろ西晋朝の高級史官として、『史記』などの先行史書を参考にして『三国志』を著したものと思われます。
この「倭地周旋五千余里」は、古田説によれば次の倭国内の部分里程の合計と一致します。なお、古田説とは異なる有力説が野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)から発表されています(注)。

○狗邪韓国→対海国 千余里
○対海国「方四百里」 八百里(島巡り半周読法により算出)
○対海国→一大国  千余里
○一大国「方三百」  六百里(島巡り半周読法により算出)
○一大国→末盧国  千余里
○末盧国→伊都国  五百余里
○伊都国→不彌国  百里
◎合計       五千余里
※伊都国から奴国への百里は傍線行路であり、郡より女王国に至る一万二千余里に含まれないとした。

以上のように、『三国志』という同時代の史書を著述した西晋朝の高級史官である陳寿が、「部分の総和は全体」という公理(理性の鉄則)を知らなかった、あるいは無関心だったとは、わたしには到底思えません。また、当時の数学のレベルの高さは、『周髀算経』(成立は三世紀初頭)を見ても明らかです。ですから、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする見解には首肯できないのです。(つづく)

(注)野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。


第3460話 2025/03/28

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2)

 ―総里程「万二千余里」の根拠は何か―

 まず、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする古田説への批判について考えてみます。特に前半の総里程「万二千余里」を概数、すなわち厳密な計算に基づかないアバウトな数値とする理解については、古田先生による次の指摘があります。

〝さて問題のポイントは、帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里ということです。つまり12000-7000=5000(倭地)であって、はっきりした関係をなしています。これを偶然の一致だとか、倭地は周りが五千余里だということで、九州は長里で大体五千里になるだろう、足らないのは向こうがまちがえたなどとするのはおかしい。素直に解釈すべきだと思います。〟『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。「狗邪韓国、倭地」論 143~144頁。

〝一方、その大宛列伝(『史記』)をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟同。里程論 175頁。

 このように、倭人伝における陳寿の里程計算方法について詳述されました。これは文献史学におけるフィロロギーという学問の方法に基づいたものです。フィロロギーとはドイツの古典文献学者・歴史学者アウグスト・ベーク(August Boeckh 1785~1867年)が提唱した学問で、「人が認識したことを再認識する」というものです。このフィロロギーを村岡典嗣先生(1884~1946年、東北大学)がわが国にもたらし、弟子の古田武彦先生らが継承され、わたしたち古田学派の研究者がそれに続いています。日本ではフィロロギーを「文献学」とも訳されていますが、対象は文献だけではないことから、古田先生は原義(原語)のまま「フィロロギー」と呼ばれていましたので、わたしはこれに従っています(注①)。

 今回のケースでは、『三国志』の著者陳寿がどのような認識で倭人伝の行程・里程記事を著したのかを、現在のわたしたちが精確に再認識するということになります。すなわち、「万二千余里」をアバウトな概数と認識していたのか、陳寿なりの根拠を持った認識(ある情報に基づく計算式)に依っていたのかを探る、ということです。

 理系の化学や数学などの分野とは異なり、文献史学では人の心(理性・感情・認識・記憶など)や言動(講演、著述活動など)も重要な研究対象としますから、どうしてもフィロロギーの方法論を採用せざるを得ません。なぜなら、史料事実(真偽の程度未詳のエビデンス)と歴史事実は異なる概念であり、史料事実や出土事実それ自体が歴史事実を直接語るわけではないからです。このことについては別稿で論じたいと思います。

 先の古田先生の論考に見える「七千余里」「五千余里」「万二千余里」は、倭人伝の次の記事を典拠とします。

❶「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」
❷「自郡至女王國、萬二千餘里。」
❸「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

 ❶は帯方郡(ソウル付近とされる)から韓半島南岸の狗邪韓國までの距離(七千余里)、❷は帯方郡から女王国までの総里程(一万二千余里)
、❸は狗邪韓國から女王国までの距離(五千余里)のことですが、❸については野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)による有力な異論もあります(注②)。

 古田先生が「陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう」とするように、陳寿の里程記事はアバウトな概数ではなく、根拠とした数値と計算式に基づいた里数と思われます。そもそも、アバウトな概数であれば「余里」(+α里)という表記は全く不要です。そのような概数であれば、一万二千里とか七千里、五千里と記せばよいだけだからです。おそらく陳寿は、倭国を訪問した魏使の報告書や、倭国に二十年間滞在した「塞曹掾史張政」(注③)の知見に基づいていると考える他ありません。「○○余里」とまで記した里数値はそうした情報に基づいており、現代人の認識や自説に基づく解釈によって、それらを概数と決めつけることはできないように思います。

 更に言えば、倭人伝の里程記事に見える里数を単純に足しても、それは一万五百里(伊都国まで)、または一万六百里(不彌国まで)であるため、それらの概数表記は「一万里」あるいは「一万千里」となります。従って対海国(対馬)と一大国(壱岐)の半周読法(注④)により導き出された里数(千四百里)を採用しない限り、仮に概数としても「一万二千余里」にはなりません。このことからも、倭人伝の「萬二千餘里」はアバウトな概数ではなく、陳寿が神経を働かせて〝根拠に基づく計算〟により記された里数と見なさざるを得ないのです。(つづく)

(注)
①フィロロギーについては次の書籍を参照されたい。
アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』(安酸敏眞訳、知泉書館、2014年。原題 Encyklopadie und Methodologie der philologischen Wissenschaften 1877年)。
古田史学の会・関西例会では同書をテキストに、茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)が2017年4月から一年間にわたり「フィロロギーと古田史学」を連続講義した。
②野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
同『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』私家版、2016年。
③古田武彦『すべての日本国民に捧ぐ 古代史―日本国の真実』1992年、新泉社。
④倭人伝行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致し、「邪馬台国」研究に於いて、「万二千余里」の説明に初めて成功した。

【写真】アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』と関西例会で発表する茂山憲史さん。


第3459話 2025/03/28

『列島の古代と風土記』

     が明石書店から届く

 本日、明石書店から『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、全199頁)が届きました。自画自賛で申しわけありませんが、学問的にかなり優れた一冊です。古田史学・多元史観による風土記研究の大きな一歩ではないでしょうか。

 編集部の皆さん、執筆者の皆さん、なかでも全頁にわたり校正していただいた谷本茂さん・西村秀己さんに感謝いたします。

 古田史学の会・2024年度賛助会員(年会費5000円)の皆さんには、来週以降、西村さんが順次発送作業にはいりますので、しばらくお待ちください。書店やアマゾンからも購入可能です(定価2200円+税)。収録論文など、下記の通りです。

『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集)目次

【巻頭言】多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

【特集】列島の古代と風土記
「多元史観」からみた風土記論―その論点の概要― 谷本 茂
風土記に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓―須玖岡本に眠る女王― 古賀達也
《コラム》卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利郎
新羅来襲伝承の真実―『嶺相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
『播磨風土記』の地名再考・序説 谷本 茂
風土記の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
《コラム》九州地方の地誌紹介 古賀達也
《コラム》高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

【一般論文】
「志賀島・金印」を解明する 野田利郎
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神―三大論争における論証と実証― 古賀達也

【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
友好団体
編集後記
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会・会員募集


第3458話 2025/03/26

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (1)

 必要があって、『「邪馬台国」はなかった』(注①)を始めとする古田先生の初期の著作を何度も読み直しています。その勉強の成果の一端を、「洛中洛外日記」でも紹介してきたところです(注②)。

 そのようなおり、倭人伝の行程記事について思ってもいなかった古田説批判があることを知りました。それは〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい。〟あるいは〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟というものでした。すなわち、対海国(対馬)と一大国(壹岐)の島巡り半周読法(注③)は合計が一万二千里になるように解釈したもので、測定した証拠はないという古田説の根幹部分に対する批判です。

 このような古田先生の学問の方法の根幹部分(部分里程の和は総里程にならなければならない。注④)に対する批判があることを知ったのですが、どのように説明すればよいのだろうか、同時にその主張(部分里程の和が総里程と一致しなくてもよい)が成立するとした根拠は何だろうかと、わたしは考え込みました。〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と、わたしは考えていますので、古田先生ならどのように返答されるだろうかと思案中です。(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古賀達也「洛中洛外日記」第3420~3424話(2025/02/03~07)〝倭人伝「七万余戸」の考察 (1)~(5)〟
同「洛中洛外日記」第3425~3433話(2025/02/09~25)〝『三国志』短里説の衝撃 (1)~(8)〟
同「洛中洛外日記」3439話(2025/02/27)〝『三国志』短里説の衝撃〔余話〕―陳寿を信じとおす、とは何か―〟
同「洛中洛外日記」3446~3454話(2025/03/11~20)〝『三国志』「天柱山高峻二十余里」の論点 (1)~(7)〟

③倭人伝の行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする行程解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致した。これは従来の「邪馬台国」論争に於いて誰も成し得なかったことで、「万二千余里」の説明に初めて成功した行程解釈。

④古賀達也「洛中洛外日記」1538話(2017/11/14)〝邪馬壹国説博多湾岸説の論理構造〟で、次のように説明した。
〝この博多湾岸説の基礎となり、その論証・仮説群の成立を支えた論理構造は「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合でした。すなわち、邪馬壹国への行程記事に見える「部分里程」の合計は「総里程=12000余里」にならなければならないという論理構造です。そして、苦心惨憺された結果、対海国と一大国の半周行程の和(1400里)を発見され、部分里程の総和が総里程(12000余里)となる読解に成功されたのです。博多湾岸説誕生の瞬間でした。
こうして「部分里程」の合計が「総里程=12000余里」になるという古田説が成立し、そうならない他の説を圧倒する説得力を持ったのです。この論理構造、「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合こそ古田説が際だつ決定的論点だったのです。〟


第3457話 2025/03/25

唐詩に見える王朝交代の列島 (7)

 ―仲麻呂の出身地は太宰府―

 阿倍仲麻呂が日本国へ帰国の際に王維が作ったとされる詩の「九州」を古田先生が九州島のこととした理由の一つに、『古今和歌集』の著名な歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に いでし月かも」は、仲麻呂が太宰府の三笠山(宝満山)から出た月を詠んだものとする古田説の存在がありました。

 「天の原」歌について、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注①)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出ていることを意味する「みかさの山を」となっており、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、その東側の春日山連峰(花山497㍍~高円山461㍍)から月は出ると論じたことがあります(注②)。

 この「みかさの山を」とする古写本の存在を杉本直治郎氏の研究(注③)で知り、古田先生にお知らせしたところ、重要な問題へと進展しました。すなわち、仲麻呂が歌った「みかさの山」は奈良の御蓋山ではなく、太宰府の御笠山(宝満山、標高829m)とする古田説(注④)を論証できたのです。

 この論証の成立により、太宰府の御笠山から月が出ることを知っていた阿倍仲麻呂は、九州・太宰府の出身とする理解が可能となりました。この理解が王維の詩(注⑤)に見える「九州」を九州王朝の故地、九州島のこととする古田先生の解釈の傍証となったわけです。

 ちなみに、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代後(701年~)の平城京の知識人は、低すぎる御蓋山からは月が出ないことを知っていたので、「みかさの山を いでし月」では情景として不自然であるため、〝御蓋山の上方に昇っている月〟の意味にもとれる「みかさの山に いでし月」と、「を」→「に」に改変したと推定されます。このことが『古今和歌集』古写本と流布本の差異発生の原因になったのです。もっとも、「みかさの山に いでし月」と改変してもやはり不自然です。なぜなら平城京からは見える月は、後方(東)の春日山連峰の上にあり、「たかまど山に いでし月」とでも詠まなければならないからです。(つづく)

(注)
①延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる
②古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
③杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。
⑤《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
「九州」何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

【写真】太宰府の三笠山(宝満山)と阿倍仲麻呂画

【写真】太宰府の三笠山(宝満山)と阿倍仲麻呂画