古賀達也一覧

第3395話 2024/12/17

蝦夷国と倭国(九州王朝)は温泉大国

「洛中洛外日」3389~3394話(2024/12/09~15)〝『旧唐書』倭国伝・日本国伝の「蝦夷国」 (1)~(3)〟を書き終えて、改めて蝦夷国についての関心を深めました。そうした意識でWEBの記事を読んでいると、面白いことに気づきました。それは、蝦夷国と倭国(九州王朝)が共に温泉大国だということです。それは次の記事でした。

【以下、部分転載】
日本は2800を超える温泉地を有する温泉大国です。それでは、日本で一番「温泉の湧出量」が多い都道府県はどこかご存知でしょうか。今回、アンケートで尋ねたところ、回答者全体の約6割が正解しました。
LIMO編集部が全国の10歳代〜60歳代の男女100名を対象に、「北海道」「青森県」「大分県」「鹿児島県」の4択のうち、「日本で一番『温泉の湧出量』が多い都道府県はどこでしょうか」というアンケートを取ったところ、全体の62%が大分県と回答。次に多かったのが同率16%の北海道と鹿児島県。そして6%の青森県という順番になりました。

湧出量とは、1分間に採取できる湯量のこと。自然に湧き出る量だけでなく、掘削した量やポンプなどで汲み上げた量のすべてを合計した値です。

ちなみに各県にある温泉地の数は、多い順で以下の通りです(環境省「令和4年度温泉利用状況」)。
・北海道 230 ・青森県 125 ・鹿児島県 87 ・大分県 63

環境省が公表している「令和4年度温泉利用状況」によると、日本で一番「温泉の湧出量」が多い都道府県は、大分県です。気になる湧出量は、29万5708リットル/分となっています。別府温泉、湯布院温泉などで知られる大分県は、県内に18ある市町村のうち16市町村で温泉が湧出しており、源泉総数も5090と全国1位。とくに別府温泉がある別府市や湯布院温泉が有名な由布市などで源泉数が多くなっています。

大分県に次いで二番目に湧出量が多いのは、北海道の19万6262リットル/分。北海道は温泉地数では全国47都道府県で1位。三番目は指宿温泉や霧島温泉が有名な鹿児島県の17万5145リットル/分、四番目は青森県の13万8559リットル/分でした。ちなみに、全国には2879もの温泉地があり、全国の湧出量の合計は251万5272リットル/分。日本では1日で36億リットル以上もの温泉が湧いているのです。

《都道府県別温泉の湧出量の順位》
一位 大分県  29万5708リットル/分
二位 北海道  19万6262リットル/分
三位 鹿児島県 17万5145リットル/分
四位 青森県  13万8559リットル/分
五位 熊本県  12万9962リットル/分
六位 岩手県  11万2081リットル/分
七位 静岡県  11万 495リットル/分
八位 長野県  10万4716リットル/分
九位 秋田県   8万8416リットル/分
十位 福島県   7万7379リットル/分
【転載おわり】

この記事を読み、温泉湧出量上位県の大半を蝦夷国と倭国(九州王朝)が占めていることに気づきました(北海道を蝦夷国に入れることについては未証)。面白いことに、九州王朝から大和朝廷への王朝交代後(八世紀)において、大和朝廷の支配侵攻に最も烈しく抵抗したのが、東北の蝦夷国と南の隼人(薩摩・他)です。薩摩には大宮姫伝説(注)で有名な指宿温泉があります。これらは偶然かもしれませんが、「温泉」という切り口で古代史研究するのも面白そうです。

そういえば、和田家文書調査のために津軽に行ったとき、古田先生から「津軽ではどこを掘ってもお湯(温泉)が出る」と教えて頂いたことを思い出しました。わたしが三十代の頃のことです。

(注)大宮姫を九州王朝の皇女とする説をわたしや正木裕さんが発表している。
古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
同「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。


第3394話 2024/12/15

『旧唐書』倭国伝・日本国伝

        の「蝦夷国」 (3)

 『旧唐書』倭国伝に記された倭国の領域「東西五月行」に蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」として含まれると考えたのですが、同日本国伝(注①)では「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」とあり、列島の東北部の「山外」は「毛人の国」と別国表記されています。すなわち、701年の王朝交代後の日本国の領域は倭国よりも縮小していることから、「毛人の国」とは蝦夷国と考えざるを得ません。おそらく王朝交代により、蝦夷国は倭国の冊封(附屬)から離脱し、新たな列島の代表王朝となった日本国に「附屬」しなかったものと思われます。

 このことを示唆するのが、『続日本紀』以降の六国史(注②)などに頻出し始める蝦夷征討記事です。以下、「東北蝦夷の滅亡史」(注③)より関連記事を抜粋します。

708年 朝廷、陸奥への進出を本格化。史上初めての陸奥守として上毛野朝臣小足が任命される。遠江・駿河・甲斐・信濃・上野から兵士を徴発し軍団を編成。陸奥国の南半分(福島県)が朝廷の影響下に入る。

709年 蝦夷が越後に侵入。朝廷は、「越後・陸奥二国の蝦夷は野蛮な心があって馴れ難く、しばしば良民を害する」として征討を指示。陸奥鎮東将軍に巨勢朝臣麻呂を、征越後蝦夷将軍に佐伯宿禰石湯を任命。関東と北陸の兵士を集め、陸奥鎮東軍は東山道を、征越後軍は北陸道を北上。石湯の率いる征越後蝦夷軍は越前・越中・越後・佐渡の四国から百艘の船を徴発。船団は最上川河口まで進み、ここに出羽柵を造設。

712年 越後の国出羽郡、陸奥國から最上・置賜の二郡を分割・併合し出羽国を設立。

714年 尾張・上野・信濃・越後の国の民二百戸が出羽柵に入る。諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。移住は総計千三百戸におよぶ。

716年 巨勢朝臣麻呂が朝廷に建白。「出羽国においては和人が少なく狄徒も未だ十分に従っていない。土地が肥沃で田野も広大であるから、近国の人民を移住させ、狄徒を教え諭すと共に、土地の利益を確保すべきである」との建言に基づき、陸奥国の置賜・最上の二郡と、信濃・上野・越前・越後の四国の百姓それぞれ百戸を出羽国に移す。

718年 陸奥の南部を分割し、常陸国菊多から亘理までの海岸沿いを石城国、会津をふくめ白河から信夫郡までを石背国とする。

720年(養老四年) 蝦夷の叛乱。按察使(あぜち)の上毛野朝臣広人が殺される。持節征夷将軍と鎮狄将軍が率いる征討軍が出動。

721年 征討軍、蝦夷を千四百人余り、斬首・捕虜にし都に帰還。

724年(神亀元年) 海道の蝦夷が反乱。陸奥大橡の佐伯宿祢児屋麻呂を殺害。

724年 朝廷は藤原宇合を持節大将軍に任命。関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。

724年 出羽の蝦狄が叛乱。小野朝臣牛養を鎮狄将軍として派遣。

725年 陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人配す。この後和人に抵抗する蝦夷を数千人規模で諸国に配流。

733年 大野東人、出羽地方の本格的平定に乗り出す。

736年 朝廷は出羽平定作戦を承認。藤原不比等の息子である藤原麻呂を持節大使に任命。関東六国から騎兵千人など大規模な征討軍を編成。

737年 大野東人が大軍を率い、多賀城を出発。

737年 出羽討伐軍、奥羽山脈を越え大室駅に至り、出羽国守の田辺難破の軍と合流。

737年 討伐軍、雄勝峠を越え比羅保許山まで進出するが、蝦夷が反撃の姿勢を示したため撤退。

750年 大和朝廷、桃生柵・雄勝柵などの城柵をあいついで設置。

757年 藤原恵美朝臣朝獦が陸奥の守に就任。

760年 雄勝城が藤原朝獦により確立。没官奴233人・女卑277人が雄勝の柵戸(きのへ)として送られる。

762年 多賀城の大改修が始まる。「不孝・不恭・不友・不順の者」が数千の規模で捕えられ、陸奥に送り込まれる。

770年(宝亀元年) 蝦夷の宇漢迷公(ウカンメノキミ)宇屈波宇(ウクハウ)、桃生城下を逃亡し賊地にこもる。大和朝廷への朝貢を停止。呼び出しに応じず、「同族を率いて必ず城柵を侵さん」と宣言。朝廷は道嶋嶋足を派遣。

774年 大和朝廷の大伴駿河麻呂、二万の軍勢を率いて東北に侵攻。東北地方全土を巻き込む「三十八年戦争」が始まる。

776年 大伴駿河麻呂、出羽国志波で蝦夷軍と対決。蝦夷軍はこれを押し返すが、駿河麻呂は陸奥軍三千人を動員して撃破。

778年 出羽の蝦夷が朝廷軍を打ち破る。俘囚の長で陸奥国上治郡の大領、伊治公呰麻呂(いじのきみ・あざまろ)が伊治柵司令官となる。

780年(宝亀十一年) 呰麻呂が蜂起。陸奥国按察使の紀広純らを殺害。多賀城を略奪し焼き落とす。朝廷は藤原継縄を征東大使に、大伴益立・紀古佐美を征東副使とする討伐軍を編制。数万の兵力で多賀城を奪回するが、呰麻呂は一年にわたり抵抗を続ける。反乱は出羽地方の蝦夷へも拡大。朝廷は出羽鎮狄将軍に阿倍家麻呂を任命。

784年 大伴家持を征東将軍として陸奥に派遣。高齢の為にまもなく死亡。

788年 桓武天皇、紀古佐美を征夷大将軍に任命。東海・東山・坂東から兵員を集める。日高見国の蝦夷は、胆沢の大墓公阿弖流為(たものきみ・あてるい)と磐具公母礼(いわぐのきみ・もれい)を指導者として防衛体制を固める。

789年 3月、五万の大軍を与えられた紀古佐美は、多賀城を出発。蝦夷の集落十四村・家八百戸を焼き払いながら侵攻。5月末、朝廷軍は急襲にあい惨敗。9月、帰京した紀古佐美は征夷大将軍の位を剥奪される。

791年 大伴弟麻呂が征夷大使に任命される。百済王俊哲、坂上田村麻呂ら4人が征夷副使となり、十万の大軍が編制される。

792年 征東大使大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂に率いられた第二次征東軍が侵攻。十万余に及ぶ兵力で攻撃するが制圧に失敗。

794年 朝廷軍十万が日高見へ侵攻開始。この年だけで関東を中心に、九千人の諸国民が伊治城下の旧蝦夷領に入植。

797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される。

801年 征夷大将軍坂上田村麻呂、第三回目の日高見国攻略作戦。四万の軍が胆沢の阿弖流為軍を破る。

802年 田村麻呂、阿弖流為の本拠地に胆沢城を造築。多賀城から鎮守府を遷す。関東・甲信越から四千人が胆沢城下に送り込まれ、柵戸として警備にあたる。4月、阿弖流為と母礼は生命の安全を条件とし、五百余人を率いて田村麻呂に降伏。8月、朝廷は「蝦夷は野生獣心、裏切って定まりない」として、阿弖流為と母礼を河内国杜山で斬刑に処す。

 以上のように、九世紀初頭には蝦夷国は大和朝廷に制圧され、陸奥国・出羽国として日本国の律令体制に組み込まれます。こうした列島内の倭国・日本国・蝦夷国の興亡史を見たとき、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にありましたが、倭国から日本国への王朝交代を期に蝦夷国は独立を果たそうとしたものの、新たな列島の代表王朝となった大和朝廷の過酷な収奪・入植と軍事侵攻により、抵抗もむなしく滅んだものと思います。

 本シリーズでの考察により、わたしの多元史観・九州王朝説に基づく蝦夷国研究は、また少し進展したのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
②近畿天皇家の正史、『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を併せて「六国史」と呼ばれる。
③「東北蝦夷の滅亡史 和人による東北地方の侵略・征服
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/japan_history/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1%E5%8F%B2.htm


第3393話 2024/12/15

28集「列島の古代と風土記」

     表紙デザインに苦慮中

 ご近所の上京区出町桝形商店街組合の掲示版に、1/19京都講演会のチラシを置いていただいていますが、従来よりも早いペースでなくなり、今日もチラシ50枚を追加してきました。

 その近くに古書店が新たに開業していました。同商店街では古書店の出店は三件目ですので、商店街に集まる客層に本を愛する人が多いのかもしれません。早速、挨拶を兼ねて店内の古書を物色しました。

 カール・ポパー(1902~1994、イギリスの哲学者)の原書があり、ポパーが提唱した反証主義に興味を抱いていましたので購入を考えましたが、パラパラと中身を見たところ、わたしの英語力では哲学書の英文を到底理解できないことがわかり、断念しました。

 次いで服部邦夫著『鬼の風土記』という本が目に入り、表紙が美しいので迷わず購入しました。お値段も驚くほどの安価でした。「古田史学の会」の会員論集『古代に真実を求めて』28集「列島の古代と風土記」を編集中ですが、表紙デザインが未定ですので、その参考にもなると思い購入しました。

 みなさん、良い表紙デザイン案があればご教示ください。毎号、苦しんでいますので。


第3392話 2024/12/12

関川先生と京都講演会の打ち合わせ

 今日は奈良新聞本社で考古学者の関川尚功先生(元・橿原考古学研究所々員)と新春古代史講演会(1月19日、京都市)の打ち合わせを行いました。「古田史学の会」では案内チラシを二千部作成し、関西各地の博物館や図書館に配布していますが、今までになく多くのお問い合わせの電話をいただいています。

 「ヤマトを発掘して40年 考古学者が語る衝撃の真実 畿内に邪馬台国はなかった」というキャッチコピーと元・橿原考古学研究所の考古学者の講演ということで関心を集めているようで、毎日のように案内チラシを見た人から参加予約が必要かという問い合わせがあります。ちなみに、会場(キャンパスプラザ京都)は定員90名で、事前予約は行っていません。

 関川先生との打ち合わせが終わると、いつものように考古学談義が始まります。今回は、なぜ多くの考古学者が「邪馬台国」北部九州説を認めないのかについて、わたしの見解を紹介しました。それは次の二つの理由からではないかと考えています。

(1) 倭人伝に記された奴国(二万余戸)をナ国と読み、博多湾岸(旧地名は「那(ナ)の津」)にある列島内最大の弥生遺跡に比定したため、倭国の都、邪馬壹国(七万余戸)に比定できる弥生遺跡が列島から無くなってしまっ.た。そもそも「奴」を「ナ」とは読めない。「ノ」か「ヌ」であろう(注①)。

(2) 北部九州の弥生墓の編年を誤り、その結果、卑弥呼の時代(三世紀)の王墓が北部九州から無くなってしまった。梅原末治氏が晩年に発表した、須玖岡本遺跡(福岡県春日市)から出土した虁鳳(キホウ)鏡が魏の時代の鏡であり、同遺跡は三世紀の弥生墓とする研究を考古学界は無視した(注②)。

 この二点を関川先生に申し上げたところ、さすがは考古学者ですから、北部九州の弥生末期の墳墓の名前をいくつかあげられ、三世紀の弥生墓があることを教えて頂きました。このようなお話しが来年の新春古代史京都講演会でもお聞かせ頂けるのではないでしょうか。

 なお、10月に開催した東京講演会の動画配信(関川先生、正木裕さん)を「古田史学の会」ホームページ『新古代学の扉』でスタートしました(注③)。記念すべき講演ですので、古代の真実と学問を愛する多くの皆様に見て頂きたいと願っています。そして京都講演会にもおこし頂ければと思います。同講演会後、講師の先生方を囲んでの懇親会も企画中です(人数制限あり)。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」780話(2014/09/06)〝奴(な)国か奴(ぬ)国か〟
同「洛中洛外日記」1507話(2017/09/24)〝倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名〟
②同「洛中洛外日記」873話(2015/02/14)〝須玖岡本D地点出土「キ鳳鏡」の証言〟
同「洛中洛外日記」1988話(2019/09/12)〝梅原末治さんの業績と不運〟
③「古田史学の会」ホームページ『新古代学の扉』に収録
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#tokyo


第3391話 2024/12/11

「明石書店出版図書目録2025」が届く

 本日、明石書店から「明石書店出版図書目録2025」が届きました。同誌は明石書店から出版された書籍の目録で、毎年送っていただいています。同書店からは「古田史学の会」が編集している会員論集『古代に真実を求めて』を発行していただいており、今回の目録にも『古代に真実を求めて』第1集~27集が3頁にわたって掲載されています。

 自画自賛になりますが、『古代に真実を求めて』は同社刊行物の古代史分野を代表する書籍の地位を占めているように思います。文科省の外郭団体である国立情報学研究所(CiNii・サイニー)の登録認定書籍(注)に同書が指定されていることも、その現れではないでしょうか。なぜなら、国立情報学研究所が運営している「CiNii Research」に学術誌として認定登録されていることは、同書が学術研究誌として日本国家の認定を受けていることを意味し、それはなかなか得がたい待遇です。研究者や学生が自らの研究分野の関連研究や先行論文を検索する際、CiNiiを利用するのは、そのような国立情報学研究所のお墨付きを得ている書籍・論文であるからでもあります。

 『古代に真実を求めて』の掲載論文はCiNiiの登録認定を維持するために、それにふさわしい学問研究水準を維持し続けなければならず、もし認定取り消しとなったら、古田学派にとって大きな損失であり、社会科学系出版社としての評価を得ている明石書店にも迷惑(ブランド毀損)をかけることになります。

 なお、来春発行の『古代に真実を求めて』28集「列島の古代と風土記」は明石書店で初校ゲラを作成中です。年内にはゲラができあがり、掲載論文執筆者と編集部のゲラ校正担当者(西村さん、谷本さん、古賀)に届く予定です。その次の29集特集テーマは「藤原京と古代都城」で、投稿締切は2025年9月末です。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3104話(2023/09/04)〝『古代に真実を求めて』CiNii認定の重み〟


第3390話 2024/12/10

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (2)

 『旧唐書』の倭国伝(注①)に記された倭国の領域「東西五月行」には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」の一つとして含まれるとしましたが、日本国伝(注②)に見える「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」の「国界」とは異なることが気になっていました。と言うのも、東と北にある大山の外の「毛人の国」をわたしは蝦夷国としましたので、701年の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代にともない、日本国は倭国の統治領域をほぼそのまま受け継いだとすれば、「国界」(国境)も大きくは変わらないと考えていたからです。しかし、これはわたしの誤解でした。

 結論を言えば、七世紀以前の九州王朝時代と八世紀以降の大和朝廷時代とでは、両国と蝦夷国との関係は大きく異なっており、その関係性の変化が「国界」にも現れていたのです。従って、倭国伝には七世紀後半頃の倭国の「附屬」の「五十餘国」として「東西五月行」に蝦夷国は含まれ、王朝交代後の姿を記した日本国伝には山外の別国(毛人の国)として蝦夷国が記されたと考えられます。すなわち、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にあり、蝦夷国は倭国の文化(仏教も)を受容し、事実上の朝貢国であったと思われます(注③)。そのこと示す記事が『日本書紀』敏達紀に見えます。

〝十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり〕詔して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。〟『日本書紀』敏達十年(581)閏二月条

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は倭国王が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)らを呼びつけて、大足彦天皇(景行)の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では綾糟らは詫びて、これまで通り臣として服従することを盟約した、という内容です。すなわち、綾糟らは自らを倭国の臣と称し、倭国と蝦夷国は天皇(天子)と臣の関係であることを現しています。これは倭国を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していた記事ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
②『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
③古賀達也「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1)~(12)〟
同「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟
同「洛中洛外日記」2799話(2022/07/31)〝勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡〟
同「洛中洛外日記」2800話(2022/08/01)〝倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣〟
同「洛中洛外日記」2901~2903話(2022/12/26~30)〝蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)~(3)〟
「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第3389話 2024/12/09

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (1)

 「洛中洛外日記」〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 〟(注①)で、倭国伝冒頭(注②)に見える倭国(九州王朝)に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれる可能性について論じました。そこでの結論は、倭国伝には「在新羅東南大海中」とあり、本州島が半島ではなく大海中の島国と認識されていることから(津軽海峡の存在を知っている)、このことを重視すれば、倭国に「附屬」する「五十餘国」に、津軽海峡を知悉しているであろう蝦夷国(陸奥国・出羽国)が含まれていたと考えた方がよいとしました。すなわち、「東西五月行」の領域には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が含まれるとする理解です。

 これは七世紀後半に蝦夷国が倭国(九州王朝)に服属していたか否かというテーマでもあります。わたしの考察によれば、七世紀後半頃の蝦夷国は倭国の影響下にあり、その状況を「附屬」と『旧唐書』編者は表したとするに至りました。このことを示唆する『日本書紀』斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」の記事があります(注③)。

「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 唐の天子の質問に対して、蝦夷国には都加留と麁蝦夷と熟蝦夷の三種類があると、倭国の使者は答えています。遠くの都加留とは津軽地方(現・青森県)のことと思われ、その地の蝦夷が津軽海峡の存在を知らないはずがありません。従って、倭国伝には倭国の位置を「在新羅東南大海中」の島国と記されたわけです。また、熟蝦夷が毎歳「本國之朝」に入貢しているという記述も、倭国に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれているとする、わたしの見解を支持しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3385話(2024/12/03)〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 (1)〟
②『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
③『日本書紀』斉明五年(659)七月条に次の蝦夷関連記事がある。
秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子。
伊吉連博德書曰「(前略)天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷毎歳入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異極理喜怪、使人遠來辛苦、退在館裏、後更相見。(後略)」
難波吉士男人書曰「向大唐大使觸嶋而覆、副使親覲天子奉示蝦夷。於是、蝦夷以白鹿皮一・弓三・箭八十獻于天子。」


第3388話 2024/12/08

『東京古田会ニュース』219号の紹介

 『東京古田会ニュース』219号が届きました。拙稿「『幻想の津軽中山古墳群』の証言」を掲載していただきました。同稿で紹介した奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』(昭和51年刊)は、三十年前の和田家文書調査時に青森で入手したもので、同書には、津軽地方の石塔山横穴古墳(役小角墳墓)の解説中に、和田家が山中の洞窟から発見した遺物のことが記されています。次の記述です。

 「発見者(昭和26年6月)和田元市氏の口述、それをメモした在地の諸先生方のご教示と。福士貞蔵先生の解釈。出土した仏像と佛具、さらには舎利壺、銅板銘文、木皮漆書をもとに心血を傾けて数年間にわたって解読と解明にあたられた飯詰の開米智鎧師の後世に残るであろう原文の直訳記録に依存し、私見を導入して綴り込むことの大胆無謀を重々寛容願いたい。」70頁

 昭和26年に、山中で炭焼きをしていた和田父子(元市・喜八郎)が、自家の文書に基づいて発見した遺物について記されており、「和田元市氏の口述」とあることから、当時は喜八郎氏(25歳)よりも父親の元市氏の発言が重要であったことがわかります。このことは、和田家文書を喜八郎氏による偽作とする偽作説と、当時の状況を知る人の証言とは食い違うことを示しており、奈利田氏の証言は貴重です。

 同号で最も注目したのが國枝浩さん(世田谷区)の「本居宣長の中国との外交史論」でした。本居宣長『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』に見える日中国交史における宣長の思想性を論じたもの。古代史学界の一元史観批判にも通じる鋭い指摘であり、刮目しました。

 なお、國枝稿では『続日本紀』和銅二年条の蝦夷討伐記事を根拠に、『日本書紀』斉明四年条に見える蝦夷征討記事を史実とは認められないとしますが、『続日本紀』に記された大和朝廷と蝦夷国との交戦記事と、斉明紀に記された九州王朝によると思われる蝦夷支配記事を同列には扱えません。これは重要なテーマですので、改めて私見を述べたいと思います。


第3387話 2024/12/06

『旧唐書』倭国伝の

   「東西五月行、南北三月行」 (3)

今回は『旧唐書』倭国伝冒頭に見える、「東西五月行、南北三月行」の「南北三月行」について検討します。
「東西五月行」の検証と同様の視点により、倭国(九州王朝)の南北の距離(月数表記)を得るために、古代官道(駅路)と海道の対馬・壹岐から薩摩国・南島諸国までの駅数(『延喜式』「兵部省」による、注①)を合計するのですが、『延喜式』や『養老律令』には海路についての規定が見えず、種子島・屋久島・奄美大島などの南島諸国の行程日数の判断が今のところ困難です。そこでとりあえず、南北行路(九州縦断西陸路)にあり、薩摩国の古代からの港、坊津までの駅数を仮定し合計すると、概ね次のようになります。

❶肥前国(登望~大村 5駅)→筑前国内大宰府経由(佐尉~把伎 10駅) 計15駅
❷筑後国内(国府~狩道) 4駅
❸肥後国内 15駅
❹薩摩国内(市来~櫟野 6駅)→坊津(南さつま市)まで(仮に3駅と仮定) 計9駅

Ⅰ ❶❷❸❹の合計43駅
43駅÷29.5日≒1.5ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅱ これに壱岐島の2駅を加えると45駅。更に九州島との海峡渡海に1日を加える。
(45駅+1日)÷29.5日≒1.6ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅲ 更に対馬島内を4駅と仮定し、壹岐島への渡海1日を加える。
(49駅+2日)÷29.5日≒1.7ヶ月 概数表記 「南北二月行」
Ⅳ 更に南島諸国の面積・人口比較などに基づき(注②)、種子島3駅・屋久島2駅・奄美大島3駅・徳之島2駅(計10駅)と仮定し、それぞれの渡海1日(計4日)を加える。
(59駅+6日)÷29.5日≒2.2ヶ月 概数表記 「南北二月行」

以上の試算によれば、「南北二月行」との概数が得られました。『旧唐書』の「南北三月行」には足りませんが、南島諸国の範囲・駅数や、海路の行程日数などが全て仮定の値を使用しており、不正確なものとせざるを得ません。しかしながら大きくは外れていませんし、慎重を期して沖縄(琉球国)を南島諸国に入れていませんので、沖縄を加えれば「南北三月行」という表現は妥当となりそうです。結論として、『旧唐書』や『隋書』に見える倭国の領域表記「東西五月行、南北三月行」は、当時の倭国側の実測値に基づく妥当な認識のように思われます。(おわり)

(注)
①『延喜式』兵部省の「諸國駅傳馬」に記載された駅数よる。
②各島の面積と人口(2020年 総務省)。駅数は次のようにする。
壹岐島  135km2 25,000人 2駅『延喜式』による。
対馬島 696km2 28,374人 (4駅) 仮定。
種子島 444km2 27,690人 (3駅) 仮定。
屋久島 504km2 11,765人 (2駅) 仮定。
奄美大島 712km2 57,511人 (3駅) 仮定。
徳之島  248km2 21,803人 (2駅) 仮定。


第3386話 2024/12/04

『旧唐書』倭国伝の

    「東西五月行、南北三月行」 (2)

 本テーマで、わたしは古代官道(駅路)の行程日数を一日一駅として月数(概数)を計算しました。例えば、「東海道五十三次」であれば、終着点の京への一日を加えて、五十四日の旅程とし、それを陰暦の一月の平均値29.5日で割り(54÷29.5≒1.8ヶ月)、概算月数表記は「二月行」になると考えたわけです。これに対して、東海道は徒歩でも12~13日で行けるので(注①)、「一日一駅」は適切ではないとする反論が出ることを当然ながら予想できました。しかしその上で、『旧唐書』倭国伝の記事「東西五月行、南北三月行」は「一日一駅」によるものと判断しました。その理由はフィロロギーの方法と文献史学によるエビデンスと研究結果にありました。今回はこの二点について説明します。

 まず、フィロロギーの〝古代人がどのように考え、認識していたのかを、現代のわたしたちが正確に再認識する〟という視点で、次のように考察しました。

(1) 『旧唐書』倭国伝の記事「東西五月行、南北三月行」は前代の史書『隋書』俀国伝の「其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海」を採用したものと考えられる。
(2) 俀国伝には、その記事の直前に「夷人は里數を知らず。但(ただ)、計るに日を以(もっ)てす」とあり、夷人(倭人)は里数(里という単位)を知らないので、距離を行程日数(月数)で計っていると『隋書』の編者は認識している。
(3) しかし、隋の時代(七世紀初頭)に至っても倭国が里単位を知らなかったなどとは考えられない。距離や長さの単位を国家が認定し、採用していなかったのであれば、法隆寺のような建築物や太宰府条坊都市などを設計・造営できないからだ。
(4) 従って、隋や唐が採用した長里(注②)と古くからの短里(一里約76m)を採用していた倭国の里単位とでは、同じ距離の測定値が大きく異なることになるため、隋の使者は〝倭人は里単位を知らない〟と判断したものと思われる。そのため、倭国の距離を倭人からの月数表記情報に基づき、隋使は「其國境、東西五月行、南北三月行」と本国に報告し、『隋書』編者はそれを採用した。
(5) この理解に立てば、倭人は自国の領域を「東西五月行、南北三月行」と認識していたことになる。従って、この月数は実際の行程日数に基づいたものと考えざるを得ない。倭人がウソをついたとするのであれば、そう主張する側が根拠を示し、論証しなければならない。
(6) 逆に、この「東西五月行、南北三月行」という認識が正しければ、そのことを証明できるエビデンスがあるはずだ。

 以上の考察により、わたしは『延喜式』「諸國駅傳馬」に記された駅路と駅数をエビデンスとして採用し、「一日一駅」で試算したところ、『隋書』や『旧唐書』の「東西五月行」という表現とピッタリ対応することに気づいたのです。
次に、文献史学によるエビデンス調査と研究を行いました。その調査は主に「一日一駅」の根拠に集中しました。そして『養老律令』(注③)に次の条項があることを確認しました。

(7) 凡そ諸道に駅置くべくは、卅里毎に一駅を置け。(後略)〔厩牧令「須置駅条」〕
(8) 凡そ行程、馬は日七十里、歩(かち)五十里、車卅里。〔公式令「行程条」〕

 厩牧令「須置駅条」によれば、駅路には三十里(約16km)毎に駅を置くことが定められています。ただし、地勢や水源などの条件によってはその距離の増減も同条後文で認められています。そして公式令「行程条」には、一日の行程距離が規定されており、荷物を運ぶ「車」は三十里とあり、これは駅間の距離と同じです。従って、食料や水などの必需品の「車」での運搬が必要な遠路の行程では、「一日一駅」が令条文により定められた行程であることがわかります。ちなみに、この「車」による行路であることを示す「車路(くるまじ)」「クルマジ」という地名が古代官道跡に遺存していることも知られています(注④)。

 以上のように、「一日一駅」として行程日数を求めたことは適切な判断でした。(つづく)

(注)
①武部健一『道路の日本史 古代駅路から高速道路へ』中公新書、2015年。同書120頁に「江戸時代の東海道の旅は、一般に一二~一三日を要した」とある。
②古賀達也「唐代里単位の考察 ―「小里」と「大里」の混在―」『古田史学会報』175号、2023年。『旧唐書』地理志によれば、唐では「小里」(約430m)と「大里」(約540m)が混在することを論じた。
③『律令』日本思想大系、岩波書店、1990年版。
④木本雅康「西海道の古代官道」『海路』海鳥社、2015年。同稿12頁に「白村江の敗北による対外危機に備えて造られたと推測される古代山城を結ぶように、「車路」と呼ばれる直線路がはりめぐらされている」とある。


第3385話 2024/12/03

『旧唐書』倭国伝の

   「東西五月行、南北三月行」 (1)

 「洛中洛外日記」3380話〝『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」〟(注①)において、倭国伝冒頭(注②)に見える倭国(九州王朝)に「附屬」している「五十餘国」を、律令制による六十六国(年代により変化する)から九州島の九国と蝦夷国に相当する陸奥国あるいは出羽国も除いた国の数(五十六国、五十五国)ではないかとしました。もし蝦夷国が「附屬」の国に含まれていれば五十七国となります。

 この仮説が妥当であれば、倭国伝に記された倭国の地勢や領域を表現した「東西五月行、南北三月行」について説明できることに気づきました(注③)。たとえば「東海道五十三次」のように、江戸から京までの宿場ごとに一泊すれば、東海道の距離を次のように月数表記できます。

 東海道53+京1=54日
54÷29.5日(陰暦の一ヶ月)≒1.8ヶ月
概数表記 「東西二月行」

 これと同様の視点により、倭国(九州王朝)の東西の領域を律令制諸国の肥前国から陸奥国(蝦夷国)までの古代官道(駅路)の駅数を『延喜式』(注④)の「諸國駅傳馬」記事から求めると、その合計は次のようになります。

❶肥前国(15駅)→大宰府(1)→豊前国北端(2駅) 計18駅
❷山陽道(56駅) 計56駅
❸畿内(摂津国3駅・河内国3駅・山城国1駅・京1駅) 計8駅
❹東山道(常陸国まで) 計51駅
❺東山道(陸奥国内24駅を含む) 計75駅

◎常陸国まで ❶❷❸❹133駅÷29.5日≒4.5ヶ月 概数表記 「東西五月行」
◎陸奥国内を含む ❶❷❸❺157駅÷29.5日≒5.3ヶ月 概数表記 「東西五月行」

 このように、倭国(九州王朝)に陸奥国(蝦夷国)が「附屬」していても、していなくても、月数表記の概数は「東西五月行」となり、『旧唐書』倭国伝の東西領域距離「東西五月行」と一致します。結論として、古田先生が提起された「東西五月行」領域と似た認識に至りました。また、倭国伝には「在新羅東南大海中」とあり、本州島が半島ではなく大海中の島国と認識されていますから(津軽海峡の存在を認識している)、このことを重視すれば「東西五月行」に、津軽海峡を知悉しているであろう蝦夷国(陸奥国・出羽国)が含まれていたと考えた方がよいように思われます。これは七世紀後半の蝦夷国が倭国に「附屬」していたか否かというテーマでもあり、速断しない方が良いかも知れません。

 なお、本稿の論証が成立するためには、『延喜式』成立時(927年)と唐代の倭国(七世紀後半頃)における駅路と駅数がほぼ同じであることを前提としますが、「東西五月行」という±10%の幅を持つ概数表記であるため、エビデンスや方法論に大過ないと思われます。続いて「南北三月行」も同じ視点で検証します。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3380話(2024/11/20)〝『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」〟
②『旧唐書』倭国伝の冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
③『隋書』俀国伝にも俀国の領域を「其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海」とする記事がある。
④『延喜式』兵部省の「諸國駅傳馬」に記載された駅数よる。


第3384話 2024/11/28

王朝交代直後(八世紀第1四半期)の

             筑紫 (3)

 王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を「太寶元年」木簡と「大宝二年籍」西海道戸籍に基づいて考察しましたが、今回は筑紫大宰府が大和朝廷の支配下に置かれたことを端的に示す「和銅」ヘラ書き須恵器甕片を紹介します。
『延喜式』「主計寮上」によれば、筑前国の「調」(注①)として「大甕九口」「小甕百九十五口」が記されています。そのことを示すヘラ書き甕片が牛頸(うしくび)須恵器窯跡群や大宰府条坊跡から出土しています。それには次の文字がヘラ書きされています。

❶「*甕和銅八年」
❷「仲郡手」
❸「筑紫前国奈珂郡
手東里大神マ得身

幷三人
調大*甕一隻和銅六年」
❹「年調大*甕一」
❺「大神君百江
大神部麻呂
内椋人万呂
幷三人奉
*甕一隻和銅六年」
※*甕は瓦偏に長。

❶は大宰府条坊跡の羅城門近くから出土。❷~❺は牛頸須恵器窯跡群出土。

 これらの銘文から、和銅六年(713)頃には筑前国が日本国(大和朝廷)の収税の対象に入っていたことがわかります。しかし、それ以前の年号(大寶・慶雲)が記された甕片などが見えないことから、大宝元年(701)に日本国(大和朝廷)の影響下(大宝律令に基づく統治領域)に入った筑前国は和銅年間(708~715)に至り、本格的な収税の対象国に組み込まれたと考えることができそうです。

 この点、注目されるのが『続日本紀』養老二年(719)四月条の「道君首名(みちのきみおびとな)卒伝」です。「洛中洛外日記」(注②)で論じてきたところですが、首名が筑後国の国司に就任(肥後国兼任)した次の記事が見えます。

「和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。」〔和銅の末に出(い)でて、筑後守となり、肥後國を兼ね治き。〕

 和銅年間の末年は和銅八年(715年)ですから、先の大宰府条坊跡から出土した「和銅八年」ヘラ書き甕片との一致は偶然ではなく、大宝元年から和銅八年にかけて、筑前国を完全に自らの律令体制に組み込んだ大和朝廷が、次に筑後国(肥後国兼任)にも国司を派遣したという王朝交代直後の歴史経緯の痕跡ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①租庸調の一つで、都へ上納した地域の産物(布・糸・絹・特産物など)が「調」と呼ばれている。
②古賀達也「洛中洛外日記」3350~3362話(2024/09/23~10/05)〝『続日本紀』道君首名卒伝の「和銅末」の考察 (1)~(7)〟