第3303話 2024/06/13

難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (2)

 『難波の宮』(学生社、昭和39年)によれば、山根徳太郎さんは発掘費用不足の他に、学問的に有力な批判に苦しんでいたことがわかりました。それは難波宮を大阪市北区の長柄豊崎にあったとする、現存(遺存)地名を根拠とする古くからある説でした。同書にはその説のことが紹介されています。

〝しかしそれには有力な異論が提出されていた。喜田博士の名著『帝都』に
孝徳天皇大化の新宮は、実に此難波宮にて行はれた。精しくは難波長柄豊碕ノ宮と申す。今の豊崎村大字南北長柄は、実に其の名を伝へて居るものであろう。此所に始めて支那の長安城に模した新式の都城が経営された。〟58頁

〝喜田博士の説にしてもそれを支持しようとして唱えられた天坊翁の説にしても、どれも人を納得させることはむずかしい。この種の考え方は、享保十九年に完成した「五畿内志」の所説にもとづいて考案されたもので、天満の北方に長柄の村名のあることに注意をひきおこし、一方、上町台地を都城建設地として狭隘と感じて説を構えられたことであった。〟61頁

〝重圏文系軒瓦にもとづく様式論を最初に考えついた時代には、難波の宮址の所在位置について、学者のあいだに定説はたっていなかったのである。あるいは現大阪城址がそこだといい、あるいは天満橋の北方元長柄村の名称にこだわって立てられた説が強く主張せられた。〟120頁

〝ところで、このように第一〇次の発掘を、その成果からみて記述すると、いかにも易々楽々と仕事がなされたかのようにも思われよう。しかしことは決してそのような、なまやさしいものではない。最近になって聞いた話であるが、世間ではずいぶんわたくしどもの仕事に、あれこれとケチをつけていたのである。あんな所に長柄豊碕の宮があろうはずはない。長柄は明瞭に天満の北で、長柄村の名は古い。人柱で名高いナガラを法円坂町にもっていくなどはムチャだ、とひとかどの先生方が非難していられたのであった。「山根さん、長柄は天満の北が正しいのではないでしょうか」と申された博士もあった。〟183頁

 このように、山根徳太郎さんによる発掘調査で、法円坂から大型宮殿跡が姿を現し始めても、難波長柄豊碕宮を北区の長柄豊崎にあったとする説が有力であったことがわかります。(つづく)


第3302話 2024/06/12

難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (1)

 昨日、書架整理のため不要となった蔵書をご近所の古書店に売却し、そのお金で山根徳太郎著『難波の宮』(学生社、昭和39年)を購入しました。60年前の古い本ですので、最新発掘調査に基づく研究論文執筆に役立つこともないと思い、これまで読もうともしなかったのですが、気になってはいたので今回買って読みました。

 難波宮発掘と遺構保存に至る山根徳太郎さんのご苦労は、大阪歴博の特別展(注)などで知ってはいたのですが、同書を読んで、発掘費用不足や学問的に有力な批判に山根さんが苦しんでいたこともよくわかりました。
同書には、発掘費用調達に山根さんが苦しんでいたとき、教え子たちから寄附がよせられた逸話が次のように記されており、わたしも胸が熱くなりました。

〝このように、掘りだすたびに、一歩一歩と「難波の宮」の全貌が、大阪の中心部、法円坂町の台地上に浮かびあがろうとしている。しかし、一方、世間の人のなかには、まだまだこれらの成果をまったく認めない人も多い。学者のなかでも、現在までの成果では、難波の宮と認めず、わたしたちの努力を否定しようとされる方も少なくなかった。(中略)

 わたしは何といわれようとも、学問的成果には、深く心に期するところがあったが、ホトホト弱ったのは、研究資金の不足であった。(中略)

 そのころ、昭和三十一年十月十日の日、京都のわたしの宅に史泉会(大阪商大関係の歴史研究者の会)の古い会員の方が見えて、なつかしい昔話の後、封筒をわたしの前にさし出した。

 「先生、これは先生が難波の宮の発掘資金にお困りになっているのをみかねて、教え子たちが持ち寄ったものです。どうぞ発掘のお役に立ててください」(中略)

 「それはありがたいが、いったい誰がそのようなお金をくれたのか、知らせてほしい。名前を教えてくれ、でないとぼくは受取れない」(中略)

 この後、わたくしは、それらの人に会うたびに名前を知らせてくれるように、幾たびか申出た。そして翌三十二年の八月になって、やっと醵出者名簿が送られてきた。開いてみると、みな教え子ばかりで、一五〇人の名が記されていた。一人一人涙をおしぬぐいながら名簿を見つづけていたところ、その中の一人に、豊子という婦人の名前がある。その御主人はよく知っていた人であるが、さきごろ交通事故で世を去られた方である。その人の未亡人で、遺児を抱えて苦労していると聞いていた。そのような方まで募金に応じてくださると知っては、もはやわたくしには堪えられることではない。このようなことにならねばならないのならば、研究は止めにする。「どうぞこのような浄財の募集はしないようにして下さい」と、恒藤先生(大阪商大学長)にお願いしたことであった。(中略)

 このように浄財の寄進によって、昭和三十二年八月十二日から十月三十日までに実施した、第七次発掘には、じつに予想外の大きな成果があがった。近世大阪の発祥と目すべき石山本願寺の発見である。〟140~143頁(つづく)

(注)難波宮発掘調査60周年記念 特別展 大阪遺産難波宮 ―遺跡を読み解くキーワード― 大阪歴史博物館 平成26年(2014)


第3301話 2024/06/12

金光上人関連の和田家文書 (3)

 和田家文書の金光上人史料を研究した佐藤堅瑞氏(青森県西津軽郡柏村・淨円寺住職)へのインタビューを紹介しましたが、その数年後、偶然にもわたしは佐藤堅瑞さんと拙宅近くで出会いました。再会を喜び、聞けば娘さんが上京区に住んでおられ、この時期は京都に来て同居しているとのことでした。しかも拙宅の近くでしたので、日を改めて古田先生と二人でご挨拶にうかがいました。そこには石塔山神社の収蔵庫で見たスフインクスの像があり、古田先生は懐かしそうにしておられました。

 古田先生やわたしと一緒に和田家文書調査をした東京学芸大学教授の西村俊一さん(注①)も佐藤堅瑞さんに聞き取り調査をされており、そのことを同志社大学で開催された日本国際教育学会にて発表しています。報告集の関係部分を転載します(注②)。

〝日本国際教育学会 1999年11月7日
第10回大会報告 (於)京都・同志社大学
「日本国の原風景 ―「東日流外三郡誌」に関する一考察―」
西村俊一(東京学芸大学)
《前略》
3)浄円寺佐藤堅瑞住職(元青森県仏教会々長)の証言
当方は、1999年(平成11年)9月19日、他の研究者数名と共に浄円寺(西津軽郡柏村大字桑野木田)に佐藤堅瑞住職(元青森県仏教会々長)を訪ね、聞き取りを行った。彼は、和田喜八郎が資料を発見した当時の相談相手であった由であるが、大変穏和な人柄の宗教者であった。彼は、当時、「和田家資料」の中にそれまで知られていなかった『金光上人関係資料』が含まれていることを発見し、その譲渡を申し入れたが、和田喜八郎が応諾しないため、その模写版を作成してもらうこととした。これが、「和田家資料」の模写版作成の始まりであったとされる。

 訪問当日、佐藤堅瑞は、和田喜八郎が新たに持参したという初見の「金光上人関係資料」3点を示しながら、「和田喜八郎に、この様なものは書けませんよ」と、その感懐を漏らした。その意味は、主に金光上人がしたためた他力信仰論の中身に関わるものと解されたが、その資料の中の1点はいわゆる模写版であった。しかし、彼は、そのことに頓着している様子は全くなかった。そして、「偽書」論者の代表とも言うべき安本美典について、「あの人は学者さんでしょう? それがどうしてあんな行動に走るのでしょうねえ。この世の中は、本当に怖いですねえ」という趣旨のことを、問わず語りに語った。
当方は、この聞き取りによって、自らの心証に一つの定かな裏付けを得た様に感じたことを、ここに明記しておきたい。《後略》〟(つづく)

(注)
①西村俊一(1941~2017)。元東京学芸大学教授。国際教育学を専門とし、日本国際教育学会々長に就任。安藤昌益研究に造詣が深く、和田家文書研究にも取り組んだ。
「日本国の原風景 ―「東日流外三郡誌」に関する一考察―」『北東北 郷村研究』第7、8号、北東北郷村教育学院、2000年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/genihonj.html#link


第3300話 2024/06/11

『古田史学会報』182号の紹介

 本日届いた『古田史学会報』182号を紹介します。同号には拙稿〝「天皇」銘金石文の史料批判 ―船王後墓誌の証言―〟を掲載して頂きました。

 九州王朝(倭国)と近畿天皇家(後の大和朝廷)との関係について、古田先生は、701年の王朝交替より前は、倭国の臣下筆頭の近畿天皇家が七世紀初頭頃からナンバーツーとしての「天皇」号を称していたとされていましたが、晩年には、七世紀の金石文などに見える「天皇」はすべて九州王朝の天子の別称であり、近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする新説を発表されました。

 本稿において、わたしは古田旧説を支持しており、その根拠として船王後墓誌(国宝)に見える三名の天皇は、通説通り敏達天皇・推古天皇・舒明天皇でよいとし、古田新説は論証が成立していないとしました。

 一面に掲載された日野稿は、近畿天皇家皇族の呼称「皇弟・皇子・皇女」の実体や淵源について、『記紀』表記例を比較して論じたものです。更には天皇号の成立を天武からとする通説を批判し、船王後墓誌などを根拠に、敏達や用明は天皇を称していたとし、天智の不改常典に至り天皇号が世襲されるようになったとする仮説を発表しました。今後の論争や検証が待たれますが、とても興味深い論稿でした。

 なお、次号回しになった採用決定稿が複数ありますが、順次掲載していきます。

 『古田史学会報』に論文を投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込み簡潔でわかりやすい原稿にしてください。地域の情報紹介や面白い話題提供なども歓迎します。
長文の論文は『古代に真実を求めて』に投稿してください。次号28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。
182号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』182号の内容】
○皇弟・皇子・皇女の起源 たつの市 日野智貴
○さまよえる狗奴国と伊勢遺跡の謎 吹田市 茂山憲史
○緊急投稿「不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル」(下) 川西市 正木 裕
○小論・藤原宮の大溝SD1901A仮設運河説を考える 杉並区 新庄宗昭
○土佐国香長条里七世紀成立の可能性 高知市 別役政光
○「天皇」銘金石文の史料批判 ―船王後墓誌の証言―
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○会員総会・記念講演会のお知らせ
○「会員募集」ご協力のお願い
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第3299話 2024/06/09

金光上人関連の和田家文書 (2)

 和田家文書には金光上人(注①)に関する史料群があり、遅くともその一部は昭和24年には五所川原市飯詰の和田家の近くにある大泉寺の住職、開米智鎧氏にわたっています(注②)。それは「東日流外三郡誌」(昭和50年『市浦村史資料編』として刊行開始)よりも早い時期に世に出た和田家文書で、昭和22年夏に和田家天井裏に吊るしていた木箱が落下し、その中に入っていた古文書に金光上人史料が入っていたようです。当初は、山中の洞窟から発見された「役小角史料」が『飯詰村史』(注③)に掲載されていますが、その後、和田家文書中に金光上人史料が発見され、開米智鎧氏と佐藤堅瑞氏(青森県西津軽郡柏村・淨円寺住職)が調査研究されています。

 開米智鎧『金光上人』(昭和39年刊)には、当時の経緯が次のように紹介されています。

 「昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然燭光を仰ぎ得ました。

 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに至りました。

 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題して、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終りました。(中略)
特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部経の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。

 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合せた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の侭を掲載しました。要は新資料の提供にあります。」

 『金光上人』に先だって、佐藤堅瑞氏が『金光上人の研究』(昭和35年、注④)を発刊されています。佐藤氏はわたしからの質問に答えて次のように当時を回顧しています。『古田史学会報』7号(1995年)より、以下に抜粋して転載します。

 「金光上人史料」発見のいきさつ
平成七年(一九九五)五月五日、わたしは青森県柏村の淨円寺を訪れた。和田家文書が公開された昭和二十年代のことを知る人は今では殆どいなくなったが、開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(インタビュー時、八十才)に当時のことを証言していただくためだ。

 佐藤氏は昭和十二年より金光上人の研究を進め、昭和三五年には全国調査結果や和田家史料などに基づき『金光上人の研究』を発刊された。また、青森県仏教会々長の要職も兼ねておられた。

 「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。

〔古賀〕和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。
〔佐藤〕昭和二四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
〔古賀〕和田家文書にある「末法念仏独明抄」には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。
〔佐藤〕そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた「末法念仏独明抄」なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。
〔古賀〕内容も素晴らしいですからね。
〔佐藤〕素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。
〔古賀〕御著書の『金光上人の研究』で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね(脱稿は昭和三二年頃、発行は昭和三五年一月)。
〔佐藤〕そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角(えんのおづぬ)の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや「末法念仏独明抄」のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。
〔古賀〕思想的にも素晴らしい内容ですものね。
〔佐藤〕こうした史料は金光上人の出身地の九州にもないですよ。
〔古賀〕最近気付いたことなんですが、和田家の金光上人史料に親鸞が出て来るんです。「綽空(しゃっくう)」という若い頃の名前で。
〔佐藤〕そうそう。
〔古賀〕親鸞は有名ですが、普通の人は綽空なんていう名前は知らないですよね。ところで、昭和三一年頃に初めて和田家史料を見られたということですが、開米智鎧さんはもっと早いですね。
〔佐藤〕はい。あの方が一番早いんです。
〔古賀〕和田さんの話しでは、昭和二二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二四年編集完了、二六年発行)に掲載されていますね。
〔佐藤〕そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二四年七月でしたから、その後のことですね。
〔古賀〕佐藤さんも洞窟を見られたのですか。
〔佐藤〕そばまでは行きましたが、見ていません。
〔古賀〕開米さんは洞窟に入られたようですね。
〔佐藤〕そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは「師弟」の間柄でしたから。
〔古賀〕佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。
〔佐藤〕淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。
〔古賀〕量はどのくらいあったのでしょうか。
〔佐藤〕あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。
〔古賀〕和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。ガラスの上に置いて、下からライトを照らして、そっくりに模写されていたということでした。それらがあちこちに出回っているようです。
〔佐藤〕そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。
〔古賀〕当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。(つづく)

(注)
①金光(1154~1217年)は浄土宗の僧侶。九州石垣(福岡県久留米市田主丸町)の出身。土地の訴訟で鎌倉へ来た際に法然の弟子安楽と出会い、やがて法然に帰依して東北地方に念仏信仰を広めた。詳しい伝歴は不明。
②開米智鎧編『金光上人』昭和39年・1964年による。
③福士貞蔵編『飯詰村史』飯詰村役場、昭和26年。編者「自序」には「昭和24年霜月」とあり、編集は昭和24年に終了していたようである。霜月は陰暦の11月。昭和22年夏に天井から落下した和田家文書の一つ「飯詰町諸翁聞取帳」は、その翌日に福士氏にもたらされている(和田喜八郎氏談)。
④佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』昭和35年。


第3298話 2024/06/08

金光上人関連の和田家文書 (1)

 『東日流外三郡誌』を中心とする和田家文書の研究のため、史料性格別に次のように分類し、それに応じた史料批判が必要と発表してきました(注①)。

【和田家文書群の分類】
(α群)和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行した機械梳き和紙が主流(注②)。
(β群)主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。明治・大正期に使用された大福帳の裏紙再利用が多い。
(γ群)戦後作成の模写本(戦後レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は複数。紙は戦後のもの。厚めの紙が多く使用されており、薄墨などで古色処理が施されたものや故意に破ったものがある。和田喜八郎氏によれば、コーヒー等で着色を試みたとのこと。展示会用として外部に流出したものによく見られる。真新しい和紙に書かれたものが若干ある。

 これらのなかで、書写年代が比較的古いこともあって、史料批判が容易なα群に属する「東日流外三郡誌」はもっとも信頼性が高い史料と判断していますが、残念ながら明治写本約二百冊が行方不明となっているため、筆跡調査ができずに研究が滞っています。

 他方、「東日流外三郡誌」よりも早い時期(昭和24年以降。注③)に世に出た和田家文書で、αβγでは分類できない重要な史料群がありました。金光上人関連資料です。(つづく)

(注)
①「「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査―」『東京古田会ニュース』213号、2023年。
②永田富智氏(『北海道史』編纂委員)の鑑定による。
「永田富智氏へのインタビュー 昭和四六年『外三郡誌』二百冊を見た ―戦後偽作説を否定する新証言―」『古田史学会報』16号、1996年。「古田史学の会」のHP「新・古代学の扉」に収録。
③開米智鎧編『金光上人』(昭和39年・1964年)の「序説」による。


第3297話 2024/06/04

奈利田浮城『幻想の津軽中山古墳群』

      再読 (3)

奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』で紹介された石塔山横穴古墳(役小角墳墓)ですが、その位置と洞窟内外の様子が記されています。

「そして飯詰の村人が言う洞窟なるものは、石塔山梵場平なる約三〇〇坪ほどの傾斜面台地の丘陵中断の一角に径口(入口)約一米(羨門のことで造営時は一米半もあったか)巾一米半位と高さも一米半位の羨道が約一二米ほど続いてあって、そこに巾三米くらいで高さ二米位、奥行一〇米近い玄室が前室と後室に分けられてあったものと思われますが、さらに羨道の前面にかなり広い墓前域があったものと想定されます。なぜかく推定出来るかと申しますと、墓前域には高さ約一米半の五重塔が在ったこと、刻文摩滅破損の石塔が二基在ること、さらに経筒を内蔵させてあった小五重塔が二基も存在したこと、為念、経筒は高さ七寸、口径三寸で筒上に三寸の不動明王を安じて筒面に「役小角歴跡、修験宗大法、不開可」と書いてあり、経筒の中味は樹種不明の木皮漆書が所蔵されてあった。さらに左方塔の下に石造経筥(年代の極め手か)が埋蔵されてあって厚さ一寸の蓋石の中に銅銘板があった由。(後略)」75~76頁

ここに記された「洞窟なるものは、石塔山梵場平なる約三〇〇坪ほどの傾斜面台地の丘陵中断の一角に径口(入口)約一米」という表現が、テレビ東京で放送された〝三身洞〟の様子に似ていることに注目しました(注)。偽作キャンペーンでは、和田家が発見した遺物を偽造品とか古物商から買ったものと批判してきましたが、これら偽作キャンペーンが虚偽であることが、奈利田浮城氏の〝証言〟やテレビ番組の報道内容から、また一段と明らかになりました。同時に、秘宝の在処を書いた「東日流外三郡誌」の真作性の証明にもなったようです。(つづく)

(注)「土曜スペシャル ミステリアス・ジャパン みちのく黄金伝説の謎を求めて」、テレビ東京・キネマ東京作成。MCは中尾彬氏。昭和61年頃の放送。


第3296話 2024/06/03

奈利田浮城『幻想の津軽中山古墳群』

            再読 (2)

 奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』には、津軽地方の次の「古墳」が紹介されています。

味噌ヶ盛古墳・糠塚盛古墳・飯塚山古墳・石塔山横穴古墳(役小角墳墓)・姥森古墳(女酋長の縦穴墓)・大滝の沢古墳・六本松古墳。

 わたしが注目したのが、石塔山横穴古墳(役小角墳墓)です。その解説中に和田家が山中の洞窟から発見した遺物のことが記されています。それは次の記事です。

 「筆者も残念ながら附近まで足を運んで未だ現場を確認しておらない。従って、発見者(昭和二十六年六月)和田元市氏の口述、それをメモした在地の諸先生方のご教示と。福士貞蔵先生の解釈。出土した仏像と佛具、さらには舎利壺、銅板銘文、木皮漆書をもとに心血を傾けて数年間にわたって解読と解明にあたられた飯詰の開米智鎧師の後世に残るであろう原文の直訳記録に依存し、私見を導入して綴り込むことの大胆無謀を重々寛容願いたい。(中略)
昭和二十六年頃か、発掘当時は異常な反響を巻き起し、中央地方を不問、数多くの学者専門家の諸先生方いろいろと調査研究なされての諸見解を発表されて百家争鳴の感がありましたが、現在はほとんど忘れられたものか、五所川原でさいも極く一部の人々以外は話題にものぼらぬのは残念なことです。」70~71頁

 昭和26年に、山中で炭焼きを生業としていた和田父子(元市・喜八郎)が、自家の文書に基づいて発見した〝三身洞〟から出土した遺物(注)について記されており、「和田元市氏の口述」とあることから、当時は喜八郎氏よりも父親の元市氏の存在が重要であったことがわかります。このことは、和田家文書を喜八郎氏による偽作とする偽作説が、当時の状況を知る人の証言とは食い違っていることを示しています。その意味でも、『幻想の津軽中山古墳群』に記された奈利田氏の〝証言〟は貴重です。(つづく)

(注)当出土遺物の一部(舎利壺など)が福士貞蔵編著『飯詰村誌』(昭和二六年・1951年)に掲載されている。


第3295話 2024/06/01

奈利田浮城

 『幻想の津軽中山古墳群』再読 (1)

書棚を整理して、不要な蔵書を古書店に売却しています。そのおり、恐らく30年前の和田家文書調査時に入手した奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』のコピーが出て来ました。青森県のどこかの図書館でコピーしたものと思いますが、入手時の記憶がありません。あちこちに傍線を引いているので、それなりに読み込んではいるようですが、再読したところ、当時は気づかなかった重要な記事が散見されましたので、紹介します。

同書は津軽地方に古墳があったとする仮説に基づいて、五所川原市周辺の墳丘形状の遺構を紹介したものです。発行は昭和51年(1976年)とわたしが付記していますので、当時の様子がうかがえる貴重な〝証言〟にもなっています。出版社名が不明でしたのでwebで調べましたが、著者名・出版年次(昭和51年1月)は確認できますが、どうしても出版社名がわかりません。そこで、同書を所蔵していた弘前大学図書館に電話でたずねたところ、同館の所蔵本にも出版社名は記されていないとのことで、「私家版」のようです。著者名の奈利田浮城はペンネームと思われ、本名は成田不二雄さんかもしれません(注①)。 CiNii(注②)によれば、奈利田浮城氏による次の著書がありました。

『小説御所河原起源史』奈利田浮城著 成田不二雄 1974.1
『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』奈利田浮城著 成田不二雄 1976.1
『古代津軽の酋長豪族 奇伝異説』奈利田浮城著 高楯城史跡保護会 1978.11
『津軽蝦夷乃王国始末顕』奈利田浮城著 北奥文化研究会 1981.10
『あおもり古代史69の謎』奈利田浮城著 西北刊行会 1988.2

なお、私家版とは言え、「五所川原市長 佐々木栄造」による序文があり、「題字 青森県知事 竹内俊吉」とされており、著者の交友範囲がうかがえ、興味深く思います。(つづく)

(注)
①国立国会図書館サーチによれば、同書著者の欄に奈利田浮城、出版者に成田不二雄とある。
②CiNii(サイニィ、NII学術情報ナビゲータ、Citation Information by NII)は、国立情報学研究所(NII、National Institute of Informatics)が運営するデータベース群。ちなみに、「古田史学の会」が編集発行する『古代に真実を求めて』(明石書店)はCiNii認定図書である。


第3294話 2024/05/31

「古田史学の会」メール配信事業

          のお知らせ

「古田史学の会」の会員の皆さん、なかでもお会いする機会が少ない遠方の会員さんとの交流の場を作れないものかと考えてきました。そこで、インターネットのメール機能を利用して、「古田史学の会」や古田史学に関する情報発信と広報事業を新たに立ち上げます。幸いにも会費送金時の振込用紙にメルアドを書いていただいている会員さんが少なからずおられますので、エリアを限定してメール広報事業立ち上げの案内をテスト配信させていただきました。徐々に配信エリアを拡大します。
今回、関東エリアと九州エリアの会員と会友の皆さんにテスト配信したところ、好意的なご返信が届いています。他方、アドレスが間違っているためか、配信不可のメッセージが帰ってくるケースもあります。そこで、「洛中洛外日記」や『古田史学会報』で同事業をご案内することにしました。メール配信を希望される会員の方は、古賀か本会インターネット事務局まで、メールにてご一報いただきますようお願いいたします。
メール機能を使って、双方向の情報交換も進めたいと願っています。連日、各地からメールが届いていますので、返信が遅れたり、内容によっては回答できないことがあるかもしれません。その場合は、ご容赦ください。「古田史学の会」のメール配信事業にご理解とご協力をお願い申し上げます。


第3293話 2024/05/29

『東京古田会ニュース』216号の紹介

『東京古田会ニュース』216号が届きました。拙稿「古代都市成立の指標 ―都城論争の収斂を求めて―」を掲載していただきました。同稿では、昨年11月の八王子セミナーで発表した律令制都城の〝絶対条件〟として次の5点を示し、少なくともこれら全てを満たす七世紀の都城は難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)だけと結論づけました(注①)。

【律令制王都の絶対5条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

さらに「古代都市」の指標(必要条件)として提唱された〝G・V・チャイルドの古代都市成立の十基準〟(注②)などを紹介しました。そして、日本古代史が空理空論でなければ、研究者が合意できる「律令制都市存立の必要条件」と、誰もが知りうる「考古学的出土事実」にのみ基づいて、九州王朝都城を探るべきと主張しました。
『東京古田会ニュース』216号掲載記事で注目したのが、つぎの遺跡巡り旅行記でした。

○大宮姫伝承を訪ねて 東久留米市 村田智加子
○和田家文書をみちづれに「和田家文書と国東半島」の旅行に参加して 白井市 讃井優子

当地の状況が目に浮かぶような旅行記です。なかでも村田さんが紹介された鹿児島県の大宮姫伝承の報告は懐かしく拝読しました。わたしは学生時代に指宿市や枕崎市を旅行した経験もあり、初めて書いた長文の論文が「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」(注③)だったこともあり、とても印象深い旅行記でした。
会員の皆さんからの『古田史学会報』への遺跡巡り報告の投稿をお待ちしています。

(注)
①同セミナーでのわたしの演題と論旨は次の通り。
《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―
《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。
②Vere Gordon Childe (1950),The Urban Revolution. The Town Planning Review 21.
③古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。


第3292話 2024/05/27

二つの「白雉元年」と難波宮 (4)

  ―九州王朝の「白雉元年二月条」―

 『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650年)二月条の白雉改元記事は、九州王朝により九州年号の白雉元年(652年)二月に行われた改元の行事を記した九州王朝系史書からの転載(盗用)と思われます。同記事の内容もそのことを示しています。それは次の二点です。

(1) 改元記事には九州王朝への「人質」となっていた百済王子豊璋等の名前が見える。
〝甲申(15日)、朝庭の隊仗、元會儀の如し。左右大臣・百官の人等、四列を「紫門」の外に為す。(中略)左右大臣乃(すなわ)ち、百官及び「百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝」・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率いて、「中庭」に至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を殿前に進ましむ。〟

(2) 応神天皇の時代に白烏が宮に巣を作ったという吉祥や、仁徳天皇の時代に龍馬が西に現れたという記事などが特筆されているが、いずれも記紀の同天皇条には見えない事件であることから、これらも九州王朝系史書にあった記事と思われる。
〝詔して曰く「聖王、世に出(い)でて天下を治める時、天則(すなわち)ち應えて其の祥瑞を示す。曩者(むかし)、西土の君、周の成王の世と漢の明帝の時に白雉爰(ここ)に見ゆ。我が日本國、譽田天皇の世に白烏宮に樔(すく)ふ。大鷦鷯帝の時に龍馬西に見ゆ。(後略)」〟

 このように難波に九州王朝が都(太宰府倭京と難波京の複都制)を造り、諸行事を執り行ったことにより、それら九州王朝の事績が『日本書紀』孝徳紀に詳しく取り込まれたと思われ、同時に孝徳自身が賀正礼や改元の儀に臣下の一人として出席していたと考えざるを得ません。

 二つの「白雉元年」という史料事実は、こうした歴史の真実に迫る上で重要なエビデンスであり、視点であることをご理解いただけるものと思います。なお、このエビデンスと視点は、二つの「大化年号」研究でも重要であり、このことは古田先生や、近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)をはじめ少なからぬ古田学派研究者が「大化改新詔」研究として発表されてきたところです。(おわり)