第3406話 2025/01/03

新年の読書『日本のなかの朝鮮文化』

 正月の恒例行事としている「新年の読書」。令和七年は、拙宅から二軒先のお隣にある韓国古美術店〝スモモ〟の李さんからいただいた『日本のなかの朝鮮文化』のバックナンバーを読むことにしました。同書は李さんのお父上(高麗美術館(注①)の創立者)が発行したもので、わたしも何冊か持っていました。そのことを李さんに告げると、店頭に並んでいた44号(1979年)・45号(1980年)・46号(1980年)・47号(1980年)・48号(1980年)の五冊をプレゼントしていただきました。
今、くり返し読んでいるのが、44号に掲載された李進煕さん(注②)の「飛鳥寺と法隆寺の発掘」です。同論文は法隆寺再建説に対する批判ですが、1939年の発掘調査により火災の痕跡を持つ若草伽藍が発見され、法隆寺論争は再建説で決着していたので、1979年当時、どのような理由で再建説を批判したのだろうかと興味深く読みました。李進煕さんの主張は次の通りです。

〝私のいだいていた疑問の一つは、飛鳥時代の寺院は塔の心礎がすべて地下深いところにあるのに、「若草伽藍」のそれはどうして地上に据えられたのか、ということであった。ちなみに、百済の軍守里廃寺の心礎は地下六尺のところにあって、飛鳥時代のそれは、
四天王寺 基壇より十一・五尺
法隆寺  基壇より一〇尺
法興寺  基壇より九尺
中宮寺  基壇より七・五尺
となっている。ここで注目されるのは、現在の法隆寺五重塔が再建されたものであるならば、心礎が地上にあるべきなのに実際は地下九尺の深さにあり、地下にあるべき「若草伽藍」のそれは地上にあることである。つまり、両方ともまったく例外的存在となっているわけである。〟

 この指摘には、なるほどと思いました。確かに古代寺院の五重塔の心礎は古いほど版築基壇よりも更に地中深い位置にあり(法隆寺が著名)、七世紀中頃には基壇中まで上がり、後半頃になると基壇上部に心礎が置かれます(太宰府の観世音寺。白鳳十年 670年創建)。この心礎の位置が五重塔創建年代の編年に利用できます(注③)。ちなみに、心礎の位置は更にせり上がり、たとえば京都の東寺の五重塔の心柱は基壇上部よりも30㎝ほど上に浮いていました。わたしが二十代の頃、東寺の貫首のご好意により見せて頂いたことがあります。このタイプの構造は「梁上型」とか「宙づり型」と呼ばれているようです。

 李進煕さんの指摘によれば、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのです。このことについて若草伽藍現地を確認した李進煕さんは次のように記しています。

〝現場(若草伽藍跡)を訪れたとき、私はまず「塔心礎」に注目した。それは、高さが一・二メートル、四方が各々二・七メートルもある巨石だが、一九六八年の発掘の結果、「従来の推定とは異なり地中深くに埋地されたものではなく、地山面近くに直接据えられたもの」(榧本杜人「若草伽藍跡の発掘調査」『月刊文化財』第六十三号)であることがはっきりしていた。〟※(若草伽藍跡)は古賀による。

 この他にも李進煕さんは若草伽藍発掘調査報告の矛盾点を指摘し、若草伽藍は飛鳥時代よりも新しい遺跡と主張しています。そして、結論として法隆寺西院伽藍こそ飛鳥時代の建築物であり、若草伽藍とは無関係とする法隆寺非再建説を唱えました。(つづく)

(注)
①高麗美術館は京都市北区にある美術館。1988年開館。高麗青磁・朝鮮白磁をはじめとする陶磁器や、考古資料、絵画、民俗資料など、朝鮮半島の美術工芸品1700点を収蔵する日本唯一の韓国・朝鮮の専門美術館。高麗美術館研究所を付置する。1988年、在日朝鮮人の実業家である鄭詔文(チョン・ジョムン、1918年~1989年)の蒐集品をもとに創設された。収蔵された朝鮮の美術品は日本で蒐集されたもの。1998年、上田正昭が第二代館長に就任。2016年より井上満郎が第三代目館長に就任。(ウィキペディアを参照)
②李 進熙(り じんひ、1929年~2012年)は、在日韓国人の歴史研究者・著述家。和光大学名誉教授。文学博士(明治大学)。専門は考古学、古代史、日朝関係史。慶尚南道出身。1984年に韓国籍を取得。好太王碑文改竄説を唱え、改竄されていないとする古田武彦との論争は有名。その後、古田らの現地調査により改竄はなかったことが確認された。
③古賀達也「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)〝塔心柱による古代寺院編年方法〟


第3405話 2025/01/01

新年の対話、数学者との賀正宴

 令和七年の元旦、京都は快晴。今年もカフェ〝出町ビギン〟でおせちと銘酒獺祭(だっさい。注①)をいただきました。言わば賀正宴です。獺祭はわたしからのリクエストです。祇園のお店でママをしていたこともあるビギンのママの手料理で飲む獺祭は格別です。店頭にはママお手製の紅白の餅花(注②)が飾られており、京都花街のようなお正月風情で客人をもてなしてくれます。

 今日の最大の楽しみは、京都大学の数学者Aさんとの対話でした。わたしは朝9時の開店から訪れ、常連さんと獺祭を飲んでいたところ、お昼前にAさんが来店され、4時間にわたり学問論議(異業種交流)と酒宴を続けました(わたしは獺祭を4合飲んだらしい)。Aさんはフェルマーの最終定理解明に貢献した志村五郎博士(注③)のお弟子さん筋の方で、国家プロジェクトにも関わっている若手数学者です。今日は数学という分野の学問的性格について教えていただきました。

 数学者の荻上紘一先生(注④)からうかがった次の話について、他の数学者からも意見を聞いてみたいと願っていました。

〝数学には「学説」というものもないし、たとえば古田「史学」とか多元「史観」という概念が存在しませんから、「学派」も存在し得ません。証明された定理があるだけですから。〟(注⑤)

 この見解は数学界の共通認識なのかと問うたところ、「原理的にはその通りです」とのことでした。そして次の説明がありました。

〝数学には「流派・流儀」と言えるものならあります。証明を行うにあたって、「流派」によって得意とする流儀や方法(わざ)があります。そこでは論争があり、証明が成立しているのか否かについて見解が異なることもあります。〟

 このような小難しい話を二人で延々と続けました。Aさんは数学が大好きでたまらないという感じで、今、読んでいる数論の解説書がとても面白いと見せて頂きました。もちろん、わたしには全く理解できない数式が並んでいました。また、京都大学には際だって優れた学生がいて、期待しているとのことでした。
わたしからは化学と古代史学について、メディアではいかに科学の基本原理に反する報道がなされているのかを説明しました。たとえば「森林は二酸化炭素を吸収する」「温暖化でツバルが沈んでいる」などです。古代史学では、倭人伝原文には「邪馬壹国」とあるのに、「邪馬臺(台)国」として論文や教科書が書かれ続けていることを説明すると、「それは研究不正じゃないですか」との指摘がかえってきました。
とても楽しく有意義な新年の宴でした。また、お会いして学問談義をすることを約束しました。

(注)
①山口県岩国市旭酒造の純米大吟醸酒。
②餅花(もちはな)とは、正月に、木の枝に小さく切った餅や団子をさして飾るもの。
③志村五郎(しむら ごろう、1930年~2019年)は、日本出身の数学者。プリンストン大学名誉教授。専門は整数論。静岡県浜松市出身。
谷山-志村予想によるフェルマー予想解決への貢献、アーベル多様体の虚数乗法論の高次元化、志村多様体論の展開などで知られる。国際数学者会議に招待講演者として4回招聘されているほか、スティール賞、コール賞を受賞した日本を代表する数学者の一人。また、趣味で中国説話文学を収集しており、中国文学に関しての著作も複数存在する。(ウィキペディアによる)
④大学セミナーハウス理事長で数学者。古田武彦氏が教鞭をとった長野県松本深志高校出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長を歴任。2021年、瑞宝中綬章受章。古田武彦記念古代史セミナーの実行委員長。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2877話(2022/11/15)〝「学説」「学派」が「存在しえない領域「数学」〟


第3404話 2024/12/31

教科書に「邪馬壹国」説が載った時代

 大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー2025」(通称:八王子セミナー)の実行委員をさせていただくことになり、過日の実行委員会にリモートで初参加しました。そのおり、荻上紘一実行委員長(注①)から同セミナーの目的は「教科書を書き変える」であることが強調されました。それは「古田史学の会」創立の精神(注②)にも通じるものですから、わたしは賛意と協力を表明しました。

 とは言え、精神論や抽象論だけではだめですから、教科書を書き変えるための具体的な手続きの調査、そして近年での成功事例として「五代友厚の名誉回復」についての勉強を進めています(注③)。このことは別に紹介したいと思います。

 ご存じの方は少なくなったと思いますが、古田説が教科書に掲載されたことがありました。それは1980年頃の高校歴史教科書です。当時、16種の歴史教科書が出版されており、その内2種の教科書に通説の「邪馬台国」とともに古田説の「邪馬壹国」が記載されていました。中でも家永三郎氏が執筆した三省堂の教科書『新日本史』脚注には次のように書かれていました(注④)。

「今日伝わる文献のうち、『後漢書』『梁書』『隋書』などには邪馬臺国とあり、『魏志倭人伝』では、邪馬台国を邪馬壹国と記すが、邪馬臺(台)が正しいとする説が有力である。」

 もう一つの門脇禎二氏らによる『高校日本史』(三省堂)には本文中に次のように記されています。

「各地約30の小国を統合し、支配組織をより大きくととのえた国家が出現した。中国の『魏志倭人伝』に記された邪馬臺国(以下、邪馬台国と書く。邪馬「壹」国説もある)」

 その他14の教科書には「邪馬臺(台)国」だけが記されています。現在の歴史教科書全てを見たわけではありませんが、いつのまにか「邪馬壹国」は消されたようです。「邪馬壹国」が併記された教科書が今もあれば、ご教示下さい。「教科書を書き変える」の一つとして、1980年頃の「邪馬壹国」が併記されていた教科書に「書き戻す」ことから取り組むのが現実的かもしれません。

(注)
①大学セミナーハウス理事長で数学者。古田武彦氏が教鞭をとった長野県松本深志高校出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長を歴任。二〇二一年、瑞宝中綬章受章。
②古田史学の会・会則第2条に次の目的が明記されている。
「本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。」
③八木孝昌『五代友厚 名誉回復の記録 ―教科書等記述訂正をめぐって―』PHP研究所、2024年。
《同書著者による解説》『新・五代友厚伝』(PHP研究所)発刊後に大阪市立大学同窓会を中心に始まった五代名誉回復活動は、この4年間で劇的な結末を迎えた。明治14年の開拓使官有物払い下げ事件で政商五代が不当な利益をたくらんだとする高校日本史教科書の記述が訂正されるとは、誰が予想したであろうか。本書は教科書記述訂正に至るプロセスを克明に追った迫真のドキュメントであるとともに、真実を求める活動の未来を指し示す希望の書である。
◆五代友厚 1836~85年。薩摩藩の士族出身。明治政府の役人として今の大阪府知事にあたる「判事」を務めた後、実業界に転じた。「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一と並び「東の渋沢、西の五代」と称された。
④百埼大次「『邪馬台国』から邪馬壹国へ」『市民の古代・古田武彦とともに』第二集増補版、古田武彦を囲む会編(後に「市民の古代研究会」に改称)、1980年。増補版は1984年刊。


第3403話 2024/12/30

「列島の古代と風土記」

(『古代に真実を求めて』28集)の目次

来春発行予定の『古代に真実を求めて』(明石書店)の初校ゲラ校正が年末年始の仕事の一つになりました。28集のタイトルは「列島の古代と風土記」です。2024年度賛助会員に進呈しますが、書店やアマゾンでも購入できます。目次は次の通りです。

【巻頭言】多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

【特集】列島の古代と風土記
「多元史観」からみた風土記論―その論点の概要― 谷本 茂
風土記に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓―須玖岡本に眠る女王― 古賀達也
《コラム》卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利郎
新羅来襲伝承の真実―『嶺相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
『播磨風土記』の地名再考・序説 谷本 茂
風土記の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
《コラム》九州地方の地誌紹介 古賀達也
《コラム》高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

【一般論文】
「志賀島・金印」を解明する 野田利郎
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神―三大論争における論証と実証― 古賀達也

【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
友好団体
編集後記
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会・会員募集


第3402話 2024/12/29

九州王朝の都、太宰府の温泉 (4)

九州王朝の多利思北孤が次田温泉(すいたのゆ)がある太宰府に都(倭京)を造営し、遷都(遷宮)したのは九州年号の倭京元年(618年)と考えています(注①)。そこで今回は阿毎多利思北孤と温泉という視点で考察しました。

多利思北孤は旅行が好きだったようで、その痕跡が諸史料に残されています(注②)。その代表が伊予温湯碑銘文です。碑は行方不明ですが、その銘文が『釈日本紀』または『万葉集註釈』所引「伊予国風土記逸文」に見えます。下記のようです。JISにない字体は別字に置き換えていますが、本稿テーマの主旨には問題ないと思いますので、ご容赦下さい。

○伊予温湯碑銘文
法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。

惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽。窺望山岳之巖崿、反冀平子之能往。椿樹相廕而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊、豈悟洪灌霄庭意歟。才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

冒頭の「法興六年」は多利思北孤の「年号」で596年(注③)に当たります。多利思北孤(法王大王)が恵慈法師と葛城臣を伴って伊予まで行幸したことを記した碑文です。夷与村で神井を見たことを記念して碑文を作ったとあり、その文に「沐神井而瘳疹」とありますから、神井に沐浴したようです。「神井」とあり、温泉とは断定できませんが(注④)、多利思北孤は旅先での沐浴を好んでいたようにも思われます。

この後、倭京元年(618)に新都「倭京」を太宰府に造営・遷都したのも、今の二日市温泉、次田温泉(すいたのゆ)が近傍にあることが理由の一つにあったものと、この碑文からうかがえるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。
②正木 裕「多利思北孤の『東方遷居』について」『古田史学会報』169号、2022年。
③正木裕氏によれば、「法興」は多利思北孤が仏門に入ってからの年数であり、それを「年号」的に使用したとする。
正木 裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」『古田史学会報』104号、2011年。
④合田洋一氏の説によれば、碑文の「神井」は松山市の道後温泉ではなく、西条市にあった神聖(不可思議)な泉のこととする。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。


第3401話 2024/12/24

『梁塵秘抄』次田温泉の入浴順新考

 「洛中洛外日記」3398話(2024/12/20)〝九州王朝の都、太宰府の温泉 (2)〟において、九州王朝御用達温泉としての次田温泉(すいたのゆ、二日市温泉)の入浴順序が『梁塵秘抄』に記されていることを紹介しました。次の歌です。

「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』383番歌

 この歌によれば、最初に入浴するのは太宰府の高官、次に丁(観世音寺の僧侶と理解されているが未詳)、安楽寺の僧侶、四王寺の僧侶、太宰府勤務の武士、太宰府勤務の料理人が続き、「七九八丈」の意味も不明。「けむ丈」は傔仗で護衛の武士。そして最後に入浴するのは武蔵寺の僧侶、夜は過去の諸衆生とされています。

 概ねこうした理解になるとは思いますが、「丁」を「寺」の誤りとして、観世音寺の僧侶とすることには賛成できません(注①)。なぜなら平安時代に於いて、何の説明もなく「丁」とあれば、律令で定められた労役にあたる「丁(よぼろ)」とするのが常識的な理解だからです。おそらく、歌の中に「三安楽寺」「四には四王寺」「十には國分の武蔵寺」という当地の著名な寺院名が詠み込まれているのに、太宰府を代表する寺院である観世音寺が無いことから、「一官」に続く「二丁」を観世音寺のこととしたものと思われます。しかし、これは誤解と言わざるを得ません。それは次の事情からです。

(a) 「宮」と並んで特に説明もなく「丁」とあれば、この時代の「丁」の字の第一義は律令による「丁(よぼろ)」である。これを「寺」のことと理解するのは無理。
(b) 後白河法皇(1127~1192年)の編纂とされる『梁塵秘抄』の成立は治承年間(1177~1181年)の作とされている。
(c) 平安時代以降の観世音寺はたび重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像をことごとく失っている。康平七年(1064年)には火災で講堂、塔などを焼失。康和四年(1102年)には大風で金堂、南大門などが倒壊。その後復旧した金堂も康治二年(1143年)の火災で再焼失。治承年間頃に編纂された『梁塵秘抄』成立の頃には、観世音寺は廃寺同然となっていたであろう。
(d) 次田温泉の入浴順序の歌に、焼失していた観世音寺の僧の入浴順序が詠まれているとは考えにくい。この歌は編纂当時の太宰府で人口に膾炙していた「今様歌謡」(注②)とするのが穏当な理解であれば、「丁」を観世音寺僧のこととする解釈は無理筋である。
(e) 以上の理由から、この「丁」は字義通り、太宰府の労役に就いていた「よぼろ」(庶民)のことと解するのが最有力である。

 このようにわたしは考えました。そうであれば、次田温泉(すいたのゆ)の入浴順序は、太宰府の高官に続いて庶民から徴発された「丁(よぼろ)」であり、僧侶や武人、料理人よりも「丁(よぼろ)」が優先されていたことになります。これは当時の太宰府の人々の思想性を探る上でも貴重な歌と言えそうです。日々、労役に就く「丁(よぼろ)」の疲れや病を癒やすことを、僧侶や武人の入浴よりも優先するという判断(思想)は日本的で思いやりのある制度ではないでしょうか。もちろん、この入浴順序が七世紀の九州王朝時代と同じかどうかは、本稿の研究方法やエビデンスでは未詳とせざるを得ません。

(注)
①日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』383番歌頭注に、「丁―「寺」の誤写で観世音寺か。」とあり、補注には「山田博士(山田孝雄)」の説として、「丁は或は寺の誤写にして観世音寺をさせるか。」を紹介する。
②日本古典文学大系の「解説」には、『梁塵秘抄』は今様歌謡の時代を代表する「今様の集」であるとする。


第3400話 2024/12/23

九州王朝の都、太宰府の温泉 (3)

 太宰府条坊都市の近傍(南端)にある二日市温泉の存在が古代に遡り(注①)、九州王朝の天子や太宰府の官僚、庶民にとって貴重な温泉(次田温泉・すいたのゆ)であり、いうならば九州王朝が管理した王朝御用達の温泉だったと考えました。そのことを示す史料として、平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』に収録された、二日市温泉(すいたの湯)での入浴の順番を示した歌を紹介しました。

 「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』「梁塵秘抄」383番歌、岩波書店。

 次いで検討したのが、太宰府(倭京)をこの地に造営した理由です。九州王朝の多利思北孤がこの地に都を造営し、遷都(遷宮)した理由は次の点ではないかと考えています。

(1) 新羅や高句麗による北(博多湾)からの侵攻と、隋による南(有明海)からの侵攻に対して、防衛に有利な地である。水城と筑後川が防衛ラインとなる。
(2) 北に大野城(列島最大の山城)、南に基山(城山)があり、緊急避難が可能。
(3) 筑後・豊前・豊後・肥前・肥後へと向かう官道があり、交通の要所に位置する。
(4) 福岡平野や筑紫平野という九州最大の穀倉地帯がある。
(5) 南の朝倉方面には最古の須恵器窯跡があり、西には三大須恵器窯跡群(注②)の一つ、牛頸(うしくび)窯跡群が有り、太宰府条坊都市へ土器や瓦を供給できる。
(6) 近隣に次田温泉(二日市温泉)があり、王家の人々や官僚、武人の湯治に便利である。

 以上のように、太宰府(倭京)は実に優れた地に造られた都と言えます。特に、古代に於いて京内に温泉を持つことは、難波京・近江京・藤原京・平城京・平安京にはない一大利点です。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻六 961番歌の大伴旅人の歌に「次田(すいた)温泉」とあり、二日市温泉のこととされる。
作者 大伴旅人
題詞 帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
原文 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
訓読 湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く
②堺市の陶邑、名古屋市の猿投山(さなげやま)と牛頸(うしくび)の須恵器窯跡群は三大須恵器窯跡群遺跡と称される。


第3399話 2024/12/22

「風土記」研究の難しさ

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が都島区民センターで開催されました。1月例会の会場は豊中自治会館です。翌日(1/19)は京都市(キャンパスプラザ京都)で新春古代史講演会を開催します。今回の講演テーマは人気が高いようで、連日、問い合わせ電話があり、南は佐賀県・福岡県、北は福島県の方からも、参加したいとの声が届いています。

 今月、わたしは「王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言―」を発表しました。これは先月発表した「九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文―」の続編です。飛鳥池から出土した「天皇」「○○皇子」木簡は天武とその子どもとされていますが、その天武が「壬申の乱」の勝者になった後、九州王朝から天皇号を認められたのはいつ頃からかについて論じました。

 谷本さんの発表も感慨深いものでした。その内容はもとより、風土記研究の難しさ、なかでも風土記に見える未詳地名の研究が進んでいないことの言及には考えさせられました。谷本さんが所属している風土記学会も会員数が少なく、風土記研究はマイナーな分野のようでした。

 来春発行する『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、明石書店)の初校ゲラ校正作業を続けていますが、古田「風土記」論の概要を紹介した同書巻頭論文〝「多元史観」からみた風土記論 ―その論点の概要―」〟は谷本さんに執筆していただいたものです。確かに古田学派内でも「風土記」研究はあまり活発とは言えません。同書発行を期に、多元史観・九州王朝説に基づく多元的「風土記」研究が進むことを期待しています。

 12月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔12月度関西例会の内容〕
①『播磨国風土記』地名考(3)
―宍禾(シサハ)郡・柏野(カシハノ)里の地名(その2)― (神戸市・谷本 茂)
②船王後墓誌に出てくる三人の天皇について (茨木市・満田正賢)
③2024年古田学派YouTube動画について(報告) (東大阪市・横田幸男)
④王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言― (京都市・古賀達也)
⑤もう一人の倭王と純陀太子 (大山崎町・大原重雄)
⑥「倭京」とタリシホコ 最終章 (東大阪市・萩野秀公)
⑦縄文語で解く記紀の神々 景行帝と倭健 (大阪市・西井健一郎)
⑧『法華義疏』の「大委」は国名ではなかった (姫路市・野田利郎)

○1/19新春古代史京都講演会と懇親会の案内 (代表・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
01/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館 ※翌日1/19(日)は新春古代史講演会(京都)です。
02/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館


第3398話 2024/12/20

九州王朝の都、太宰府の温泉 (2)

 「温泉」という切り口と多元史観・九州王朝説に基づき研究を始めたのですが、太宰府条坊都市の近傍(南端)にある二日市温泉の存在が古代に遡ることがわかり、九州王朝の天子や太宰府の官僚、庶民にとって貴重な温泉(次田温泉・すいたのゆ)であることに気づきました。いうならばそれは九州王朝が管理した王朝御用達の温泉だったと思われるのです。

 ちなみに筑紫野市観光協会のHPによれば、二日市温泉の泉温は55.6度、泉質はアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)で、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔症、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進に効果があるとされています。
古代に於いて都の近くの温泉であれば、王朝にとっても貴重な施設であったはずです。そのことを示す史料がありました。平安時代末期、後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』です。同書には、二日市温泉(すいたの湯)での入浴の序列を示した次の歌があります。

 「すいたのみゆのしたいは、一官二丁三安楽寺 四には四王寺五さふらひ、六せんふ 七九八丈九けむ丈 十にはこくふんのむさしてら よるは過去の諸衆生」

 岩波の日本古典文学大系『和漢朗詠集 梁塵秘抄』には次のように表記されています。

 「次田(すいた)の御湯の次第は、一官二丁三安楽寺、四には四王寺五侍、六膳夫、七九八丈九傔仗、十には國分の武蔵寺、夜は過去の諸衆生」 383番歌

 この歌によれば、最初に入浴するのは太宰府の高官、次に丁(観世音寺の僧侶と理解されているが未詳)、安楽寺の僧侶、四王寺の僧侶、太宰府勤務の武士、太宰府勤務の料理人が続き、「七九八丈」の意味も不明。「けむ丈」は傔仗で護衛の武士。そして最後に入浴するのは武蔵寺の僧侶、そのあと(夜)は過去の諸衆生(先祖の霊か)とされています。

 これは平安時代の序列ですが、七世紀の九州王朝時代であれば、太宰府の高官の前に、天子やその家族が入浴したのではないでしょうか。昼間の最後に武蔵寺の僧侶とされていますが、同温泉の所在地が旧・武蔵寺村ですから、地元の寺の僧侶が後片付けや掃除の担当だったのかもしれません。しかし、この歌には庶民の入浴が記されていませんので、古代でも「川湯」だったのであれば、庶民は下流で入浴していたのかもしれません。(つづく)


第3397話 2024/12/19

九州王朝の都、太宰府の温泉 (1)

 「洛中洛外日記」3395話(2024/12/17)〝蝦夷国と倭国(九州王朝)は温泉大国〟において、蝦夷国と倭国(九州王朝)が共に温泉大国であることを紹介しました。「温泉」という切り口で古代史研究することも面白そうなので、九州王朝と温泉について考えてみました。

 令和四年の県別の温泉湧出量順位(環境省調査)は次の通りです。

《都道府県別温泉の湧出量の順位》
一位 大分県  29万5708リットル/分
二位 北海道  19万6262リットル/分
三位 鹿児島県 17万5145リットル/分
四位 青森県  13万8559リットル/分
五位 熊本県  12万9962リットル/分
六位 岩手県  11万2081リットル/分
七位 静岡県  11万 495リットル/分
八位 長野県  10万4716リットル/分
九位 秋田県   8万8416リットル/分
十位 福島県   7万7379リットル/分

 以上のデータと対応する九州王朝関係の温泉地は次の通りです。

○湯布院温泉〔大分県由布市〕『日本書紀』(注①)
○別府温泉(鶴見岳)〔大分県別府市〕『万葉集』「伊予国風土記逸文」(注②)
○阿蘇山〔熊本県〕『隋書』俀国伝(注③)
○二日市(次田)温泉〔福岡県筑紫野市〕『万葉集』(注④)

 この中でわたしが最も注目したのが、九州王朝の都(倭京)太宰府(太宰府市)の南に隣接する二日市温泉です。この温泉は「次田温泉(すいたのゆ)」として史料上でも奈良時代まで遡ることができる古湯です。それは『万葉集』に見える大宰帥(だざいのそち)大伴旅人が亡き妻を慕って詠んだ次の歌です。

帥大伴卿 宿次田温泉 聞鶴喧 作歌一首
湯の原に 鳴く葦鶴は 我がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く

 「次田温泉」(現・二日市温泉)は太宰府条坊都市の南端に位置する温泉で、おそらく九州王朝時代から、太宰府にいた天子や官僚、武人、庶民が利用していたのではないでしょうか。というよりも、この温泉が湧く地に隣接した所に、天子の阿毎多利思北孤が九州王朝の都を置いたと考えることもできそうです。ちなみに二日市温泉は、近世に至るまで筑紫(福岡県)では唯一の温泉として知られていました。明治頃の写真や地図には、鷺田川をせき止めた「川湯」と紹介されており、珍しいタイプの温泉です。(つづく)

(注)
①古田武彦「第六章 蜻蛉島とはどこか」『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。

 古田氏は、神武紀三十一年条に見える「……内木綿(ゆふ)の真迮(まさ)き国と雖も、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)の如くあるかな」の「木綿(ゆふ)」を湯布院盆地のこととされた。

②古田武彦氏は、『万葉集』巻一 2番歌の「天の香具山」を別府の鶴見岳とする説を「万葉学と神話学の誕生」(大阪、1999年)や「『万葉集』は歴史をくつがえす」『新・古代学』第4集(新泉社、1999年)などで発表した。

 また、『釈日本紀』巻七に収録された「伊予国風土記逸文」に見える「倭」の「天加具山」を鶴見岳とする論稿を筆者は発表した(「『伊予風土記』新考」『古田史学会報』68号、2005年)。

③『隋書』俀国伝に「阿蘇山」の噴火が記されている。
「阿蘇山有り、其の石、故無くして火を起こし天に接す。」

④『万葉集』巻六 961番歌
作者 大伴旅人
題詞 帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首
原文 湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
訓読 湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く


第3396話 2024/12/18

『古田史学会報』185号の紹介

『古田史学会報』185号を紹介します。同号には拙稿〝水野孝夫さんご逝去の報告〟と〝王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言―〟の二編を掲載して頂きました。
後者は、前号掲載の〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言〟の続編で、荷札木簡(献納国分布)と同時代「天皇銘」金石文をエビデンスとして、七世紀第4四半期における近畿天皇家や天武天皇の実勢力について論じました。それは王朝交代前夜(七世紀の末頃)の列島には、直轄支配領域の九州島に君臨した倭国(九州王朝、大義名分上のナンバーワンとしての天子)と、九州島を除く西日本から関東までを支配した近畿天皇家(大和朝廷、ナンバーツーとしての天武天皇)とが併存していたことを論証したものです。
本号には注目すべき論稿が掲載されていますが、中でも正木稿「『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾」は興味深く拝読しました。同稿では「磐井の乱」に対する古田旧説(「継体の乱」とする)と古田新説(「乱」そのものがなかった)を批判され、「筑後国風土記逸文」に見える石人石馬を打ち壊したのは、700年以後の大和朝廷の隼人(九州勢力)討伐軍であるとする説を発表されました。そして、王朝交代直後の九州の情勢を次のように捉えておられます。

〝『隋書』は、七世紀初頭の「日出る処の天子」阿毎多利思北孤の国には「阿蘇山あり」とし、隋の使者は噴火の様子を記している。そこから七〇〇年に反乱をおこした「肥人(肥後の勢力)」は、多利思北孤の俀(倭)国の中心領域、古田氏の言う九州王朝の中心勢力だったことが分かる。「肥人」の反乱が記されているからには、七〇〇年以降の一連の「反乱」は肥後・薩摩にとどまらず、大和朝廷の支配に反抗する『旧唐書』にいう倭国(九州王朝)の中心地域で広く勃発していたことになる。そして、筑紫から 肥後・薩摩を目指す「官軍(大和朝廷軍)」の行程では、必ず筑後を通過することになる。その際、これを妨げようとする勢力の抵抗があったことは想像に難くない。
石人・石馬を破壊し、抵抗する筑後の人々を弾圧したのは大和朝廷の「隼人(九州勢力)討伐軍の兵士」たちだったのではないか。「古老」はそれを「現認」していた。また、その際障がいを負った人々が多数存在していた。〟

わたしもこの見解に賛成です。実は赤尾恭司さん(多元的古代研究会・会員、佐倉市)が『万葉集』巻六(971~974番歌)の歌を根拠に、「筑紫の賊」が天平四年(732)に至っても大和朝廷に抵抗していたとする説を「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)などで発表されており、注目してきました。両者は異なるエビデンスに基づき、同様の見解に至ったわけです。王朝交代後の九州王朝の残影が明らかになりつつあります。

『古田史学会報』への投稿は、❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、❷テーマを絞り込み簡潔に。❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、❹史料根拠の明示、❺古田説や有力先行説と自説との比較、❻論証においては論理の飛躍がないようご留意下さい。❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。読んで面白い紙面作りにご協力下さい。
185号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』185号の内容】
○〔訃報〕水野孝夫さんご逝去の報告 古田史学の会・代表 古賀達也
○「船王後墓誌」銘文の「天皇」は誰か
西村秀己・古賀達也両氏への回答(2) たつの市 日野智貴
○岡下英男氏の「定策禁中」王朝交替論に関わる私見 宝塚市 小島芳夫
○小島芳夫氏の拙論への疑問に応える 神戸市 谷本 茂
○『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾 川西市 正木 裕
○王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言― 京都市 古賀達也
○古田武彦記念古代史セミナー2024参加の記 千葉市 倉沢良典
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○新春古代史講演会のお知らせ


第3395話 2024/12/17

蝦夷国と倭国(九州王朝)は温泉大国

「洛中洛外日」3389~3394話(2024/12/09~15)〝『旧唐書』倭国伝・日本国伝の「蝦夷国」 (1)~(3)〟を書き終えて、改めて蝦夷国についての関心を深めました。そうした意識でWEBの記事を読んでいると、面白いことに気づきました。それは、蝦夷国と倭国(九州王朝)が共に温泉大国だということです。それは次の記事でした。

【以下、部分転載】
日本は2800を超える温泉地を有する温泉大国です。それでは、日本で一番「温泉の湧出量」が多い都道府県はどこかご存知でしょうか。今回、アンケートで尋ねたところ、回答者全体の約6割が正解しました。
LIMO編集部が全国の10歳代〜60歳代の男女100名を対象に、「北海道」「青森県」「大分県」「鹿児島県」の4択のうち、「日本で一番『温泉の湧出量』が多い都道府県はどこでしょうか」というアンケートを取ったところ、全体の62%が大分県と回答。次に多かったのが同率16%の北海道と鹿児島県。そして6%の青森県という順番になりました。

湧出量とは、1分間に採取できる湯量のこと。自然に湧き出る量だけでなく、掘削した量やポンプなどで汲み上げた量のすべてを合計した値です。

ちなみに各県にある温泉地の数は、多い順で以下の通りです(環境省「令和4年度温泉利用状況」)。
・北海道 230 ・青森県 125 ・鹿児島県 87 ・大分県 63

環境省が公表している「令和4年度温泉利用状況」によると、日本で一番「温泉の湧出量」が多い都道府県は、大分県です。気になる湧出量は、29万5708リットル/分となっています。別府温泉、湯布院温泉などで知られる大分県は、県内に18ある市町村のうち16市町村で温泉が湧出しており、源泉総数も5090と全国1位。とくに別府温泉がある別府市や湯布院温泉が有名な由布市などで源泉数が多くなっています。

大分県に次いで二番目に湧出量が多いのは、北海道の19万6262リットル/分。北海道は温泉地数では全国47都道府県で1位。三番目は指宿温泉や霧島温泉が有名な鹿児島県の17万5145リットル/分、四番目は青森県の13万8559リットル/分でした。ちなみに、全国には2879もの温泉地があり、全国の湧出量の合計は251万5272リットル/分。日本では1日で36億リットル以上もの温泉が湧いているのです。

《都道府県別温泉の湧出量の順位》
一位 大分県  29万5708リットル/分
二位 北海道  19万6262リットル/分
三位 鹿児島県 17万5145リットル/分
四位 青森県  13万8559リットル/分
五位 熊本県  12万9962リットル/分
六位 岩手県  11万2081リットル/分
七位 静岡県  11万 495リットル/分
八位 長野県  10万4716リットル/分
九位 秋田県   8万8416リットル/分
十位 福島県   7万7379リットル/分
【転載おわり】

この記事を読み、温泉湧出量上位県の大半を蝦夷国と倭国(九州王朝)が占めていることに気づきました(北海道を蝦夷国に入れることについては未証)。面白いことに、九州王朝から大和朝廷への王朝交代後(八世紀)において、大和朝廷の支配侵攻に最も烈しく抵抗したのが、東北の蝦夷国と南の隼人(薩摩・他)です。薩摩には大宮姫伝説(注)で有名な指宿温泉があります。これらは偶然かもしれませんが、「温泉」という切り口で古代史研究するのも面白そうです。

そういえば、和田家文書調査のために津軽に行ったとき、古田先生から「津軽ではどこを掘ってもお湯(温泉)が出る」と教えて頂いたことを思い出しました。わたしが三十代の頃のことです。

(注)大宮姫を九州王朝の皇女とする説をわたしや正木裕さんが発表している。
古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
同「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。