第3256話 2024/03/25

6月16日(日)、出版記念講演会

        ・会員総会のお知らせ

 令和六年(2024年)に6月16日(日)午後、「倭国から日本国へ」『古代に真実を求めて』27集 出版記念講演会、並びに「古田史学の会」定期会員総会を開催します。会員の皆様のご出席をお願いいたします。講演会は一般の皆様もご参加頂けます。参加費は無料です。
なお、当日午前中に「古田史学の会」全国世話人会を開催します。

□開催日時 6月16日(日)午後1時開場予定(詳細は後日発表)
□会場 ドーンセンター 大阪市中央区大手前一丁目(京阪・天満橋駅 東へ約350m)
□講演会 講師・演題
谷本 茂氏(古田史学の会・会員、『古代に真実を求めて』編集部)
〔演題〕誤解され続けた『新唐書』日本伝 ―倭国と日本国の併合関係の「逆転」をめぐって―
正木 裕氏(古田史学の会・事務局長、『古代に真実を求めて』編集部)
〔演題〕百済領域の遺跡から見える倭国(九州王朝)の半島進出
□主催 古田史学の会
□参加費 無料


第3255話 2024/03/24

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (7)

 船王後墓誌銘文中にある「戊辰年十二月」という年次表記にわたしは注目しました。同年は天智七年(668年)に当たり、『日本書紀』によればその年の一月(新暦2月)に天智はそれまでの「称制」から「天皇」に即位します。次の通りです。

 「七年春正月丙戌朔戊子、皇太子卽天皇位。(或本云、六年歳次丁卯三月卽位。)」天智紀七年正月条

 ですから、墓誌中の他の年次表記例(注①)と同様に、本来であれば「近江大津宮治天下天皇之戊辰年十二月」のような近畿天皇家の大義名分に基づく表記になるところです。しかし、そうではありませんから、後代史料である『日本書紀』(720年成立)の記事よりも、同時代史料の金石文「船王後墓誌」(668年)を重視するという文献史学の基本的方法に従えば、次のような可能性や問題点に留意しなければなりません。

(ⅰ) 668年当時、天智は天皇に即位していなかった。即位記事に「或本云、六年歳次丁卯三月卽位。」と前年の667年に即位したとする異伝も見え、こちらが正しければ、ますます墓誌の年次表記と乖離する。
(ⅱ) 船氏は天智を「阿須迦天皇」の後継と認めていなかった。しかし、天智は「阿須迦天皇」(舒明天皇)の第二皇子であることから、この理解は困難なようにも思われる。
(ⅲ) 「阿須迦天皇」(舒明天皇)没後のどこかの時点で、近畿天皇家は天皇を名乗ることができなくなっていた。この理解では、近畿天皇家が「天皇」号を世襲することを九州王朝の天子が認めなかったということになるのだが、白村江戦後の九州王朝にそうしたことができたのかという問題がある。

 いずれにしても701年の王朝交代よりも前の九州王朝時代のことですから、多元史観・九州王朝説に基づいた検討が必要です。

 他方、天智の皇后の倭姫王を野中寺彌勒菩薩像銘の「中宮天皇」とする説が古田学派内で注目されていますが、近畿天皇家が天皇号を称することができる家柄であれば、近江大津宮には天智天皇と中宮天皇(倭姫王)という二人の天皇が夫婦として在位していたことになってしまい、さすがにこれでは不自然と思われます。そうすると、(ⅰ)のように天智は天皇に即位していなかったという理解のほうが妥当となりますが、もしそうであれば、例えば「不改常典」を定めた「近江大津宮御宇大倭根子天皇」(注②)とは天智ではなく、中宮天皇(倭姫王)ということになります。これは重大なテーマですので、拙速に論断することなく、反対意見にも耳を傾けて、慎重に考えたいと思います。

(注)

(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」 (641年12月3日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (668年12月)
②『続日本紀』の元明天皇即位の宣命には、「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」とある。聖武天皇即位の宣命には、「淡海大津宮御宇倭根子天皇」とある。


第3254話 2024/03/23

鶴岡八幡宮の神社本庁離脱に思う (2)

 鎌倉市の鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱するというWEBニュースなどによれば、全国の稲荷神社の総本宮とされる京都の伏見稲荷大社も神社本庁に加盟していないとのこと。そして両神社の名となった「八幡」や「稲荷」は『記紀』には見えない神名(或いはその由来となった地名)です。これは偶然のこととは思いますが、興味深く思いました。稲荷神社については、古田先生から次のような話を聞いたことがありました。

 〝日本人の主食であるお米の神様が『記紀』には登場しない。山河や動植物に神が宿るという日本人の宗教観からすると、これほど大切な食べ物の神様が『記紀』に見えないのは不思議だ。しかし、お米の神様がいなかったはずがない。それを祀らなかったはずがない。そう考えると、全国各地の祀られているお稲荷さんこそ、お米の神様ではないか。〟(注)

 この話を聞いて、なるほどと思いました。しかし、それではなぜ『記紀』に「稲荷」神が記されなかったのかという疑問は残ったままです。九州王朝の行政単位「評」が『日本書紀』では全て「郡」と表記されているという、前王朝の痕跡を消そうとした『日本書紀』編者の政治的意図と同様のことがお稲荷さんにもあったような気もしますが、そう言い切れるほどの史料調査と論証は出来ていません。

 ちなみに東日流外三郡誌には、日向の賊に追われたナガスネ彦が稲穂を持って東日流(津軽)に逃げたという伝承が採録されており、津軽からは筑紫の土器や板付水田と同じ工法を採用した水田跡(砂沢遺跡)が出土していることも注目されます。

 もしそうであれば、弥生時代の豊かな稲作地帯に金属器を武器として軍事侵攻(天孫降臨)した九州王朝の始原の勢力(天孫族)にとって、お稲荷さんを祀っていた側は敵対勢力ですから、その神様(「稲荷(イナリ)」という神名・地名)を神話や伝承から消し去ったのは、『記紀』を編纂した近畿天皇家というよりも、『記紀』神話の元史料を編纂した九州王朝だったことになりそうです。稲荷信仰や稲荷(イナリ)神名・地名の史料調査と多元史観による研究が必要です。

 余談ですが、神社本庁から離脱した金刀比羅宮や鶴岡八幡宮、そして元々加盟していなかった伏見稲荷大社は、いずれも国内有数の観光神社として著名です。これも偶然なのでしょうか。(つづく)

(注)伏見稲荷大社の主祭神(中央の下社)の「宇迦之御魂大神」(古事記)は『日本書紀』では「倉稲魂神」とされており、これは米の神であると、西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人、高松市)よりご教示いただいた。


第3253話 2024/03/20

鶴岡八幡宮の神社本庁離脱に思う (1)

 鎌倉市の鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱するというニュースに接しました。何年か前にも四国の金刀比羅宮も離脱したと記憶しており、神社界に何か大きな異変が起きているようです。個別の事情にはあまり関心はありませんが、日本思想史という学問領域の視点からすれば、日本人の価値観や倫理観、精神の美意識の変化が根底にあるようにも思われます。巷に言われている〝今だけ、金だけ、自分だけ〟という近年流行の思想が神社界にも影響しているのかもしれません。

 〝今だけ、金だけ、自分だけ〟という思想の対局にあったのが古田先生の学問精神であり、美意識でした。先生は物事や事象を歴史的に俯瞰されていましたし、お金に執着される姿をわたしは見たことがありません。そして何(自分)よりも真実と学問を大切にされていました。「学問を曲げるくらいなら、千回殺された方がましだ」とも仰っていました(注①)。

 わたしは鶴岡八幡宮には少々御縁がありました。若い頃、日蓮遺文の研究を行い、「日蓮の古代年号観」という論文を書いたことがあったからです(注②)。そのとき、膨大な日蓮遺文を何度も読み、年号に関する記事を検索しました。今でこそWEBで簡単に検索できますが、当時は会社が休みの日に図書館にこもって何時間も読み続けるしかありませんでした。36歳のときのことで、体力と集中力がありましたので、そうした無茶な調査研究も可能でした。そのとき読んだ「諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)」という日蓮遺文がとても印象的で、強く記憶に残っていました。

 文永八年(1271年)、鎌倉幕府に捕えられた日蓮が龍ノ口の刑場に引かれる途中、鶴岡八幡の前で「法華経の行者を守護すべき八幡菩薩よ、何故日蓮を護らぬのか」と大声で叱った事件について、後に日蓮が認めたのが「諫暁八幡抄」です(注③)。弟子等により伝えられた有名な遺文です。このとき、刑場にひかれる日蓮を乗せた馬の手綱をとったのは弟子の四条金吾と伝えられており、日蓮の突然の「諫暁」に金吾も驚いたことと思いますが、それ以上に驚いたのが叱られた八幡菩薩ではないでしょうか。結果としては、〝光り物〟の出現に、刑場の役人は恐れおののき、頸を刎ねることができず、日蓮は佐渡に流罪となりました。ちなみに、和田家文書にもこの事件「龍ノ口の法難」に触れた興味深い記事があります。(つづく)

(注)
①和田家文書偽作キャンペーンの中心的人物の一人であるS記者の取材を青森で受けられたとき、古田先生は東日流外三郡誌が偽書ではないことを説明し、「わたしは嘘をついていない。真実と学問を曲げるくらいなら、千回殺された方がましだ」と言われたことを、同席したわたしは聞いている。
②古賀達也「日蓮の古代年号観」『市民の古代』14集所収、新泉社、1992年。
③弘安三年(1280年)、日蓮59歳のときの撰述。真筆は静岡県富士大石寺所蔵(欠失あり)。


第3252話 2024/03/18

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (6)

 「船王後墓誌」には次の5件の年次・年代表記があります。

(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」 (641年12月3日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (668年12月)

 なかでも(5)の船王後の埋葬(改葬か)年次、すなわち同墓誌成立年次と考えられる「戊辰年十二月」が、学問的には最も重視すべき記事と思われます。なぜなら、668年時点の墓誌銘文作成者の歴史認識、あるいは墓誌の読者(墓に埋納後の、またはその直前での読者を誰と想定していたかは不明)に対して、このように認識して欲しいとする編纂意図を知る上での貴重なエビデンスだからです。
この銘文を多元史観・九州王朝説の視点で読むとき、一元史観の理解とは全く異なる歴史像が見えてきます。それは次のようなことです。

(ⅰ) 668年は九州王朝(倭国)の時代であり、近畿天皇家は九州王朝の臣下であり、近畿地方の有力豪族である。

(ⅱ) 従って、「○○宮治天下天皇之世」や「○○宮治天下天皇之朝」という表現は、船氏の直属の主人である近畿天皇家の大義名分に基づく、当該領域「天下」のトップを意味する「治天下天皇」、その「治世」や「朝廷」を意味する「世」「朝」の字を採用している。
これは小領域版「中華思想」的表現である。埼玉古墳群(埼玉県行田市)の稲荷山古墳出土鉄剣銘に見える「左治天下」や(注①)、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土鉄剣の「治天下」(注②)も同類の表現。

(ⅲ) すなわち、九州王朝時代であるにもかかわらず、『日本書紀』(720年成立)の大義名分「近畿天皇家一元史観」の表現を先取りするかのような銘文を、それが歴史事実か否かは別として、668年時点の船氏は採用したことになる。

(ⅳ) この船氏の行為は、白村江戦後の668年時点での九州王朝と近畿天皇家の力関係が影響していると考えることができる。

 九州王朝説によるならば、以上のような考察へと進まざるを得ないのです。もちろん、他の解釈もありますので、直ちにこれと断定するわけではありません。

 そのうえで、「戊辰年十二月」にはもう一つ重要な問題があります。それは、『日本書紀』によればその年は天智七年にあたり、同年二月には「称制」から「天皇」に即位しており、墓誌中の他の年次表記例に従うのであれば、「近江大津宮治天下天皇之戊辰年十二月」のような近畿天皇家の大義名分による表記になってしかるべきですが、そうはなっていません。同墓誌裏面末尾には数文字分の余白が残っており、「戊辰年十二月」の前に、たとえば「大津宮天皇」程度の文字を加えることは可能であったにもかかわらずです。(つづく)

(注)
①稲荷山古墳出土鉄剣の銘文(Wikipediaによる)
〔表〕辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
〔裏〕其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
②江田船山古墳出土鉄剣の銘文(Wikipediaによる)
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也


第3251話 2024/03/16

スタンフォード大学にある

     明治時代の日本地図

 本日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。次回、4月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。

 (都島区民センター(図書館)から変更になりました)

 今回の発表で特にわたしが注目したのが、播磨風土記の地名の現在位置に関する研究で谷本さんが使用した明治期作成の地図でした。一見、現在作成されている国土地理院の地図のようですが、今は失われた明治期の字地名が掲載されています。その地図がアメリカのスタンフォード大学図書館のホームページに掲載されており、誰でもアクセス可能とのことで驚きました。
江戸時代に遡る字地名の調査には、江戸期の地誌か明治二年作成『明治前期 全国村名小字調査書』(注①)を使用していたのですが、それですと地名はわかっても、その正確な場所がわからないことが多く、調査が大変でした。ところが、スタンフォード大学所蔵の地図であれば正確な場所もわかり、研究者にとってはとても有り難いことです。谷本さんのご教示により、そのような地図がネットで見られること知り、有益でした。

 ちなみに、『古代に真実を求めて』28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」(注②)ですから、とてもタイムリーな研究発表でした。

 3月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔3月度関西例会の内容〕
①天孫降臨とニニギ命 (大阪市・西井健一郎)
②剣の神のタケミカヅチが素手でタケミナカタと戦う理由 (大山崎町・大原重雄)
③モーツァルトの「魔笛」と古事記の相似形の説話 (大山崎町・大原重雄)
④4月ハイキング「春の櫻宮から難波宮を歩く」の案内 (八尾市・上田 武)
⑤『隋書』重視で、『書紀』の元本に照らす (東大阪市・萩野秀公)
⑥「邪馬台国と火の国」論の再提起 (茨木市・満田正賢)
⑦播磨風土記・地名考(続) ―宍禾郡・柏野里・敷草村の条― (神戸市・谷本 茂)
⑧「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住跡を発見」報道と倭国の半島進出 (川西市・正木 裕)

◎古賀から役員会の報告
・会員総会・記念講演会(27集出版記念)の日程と講師
6月16日(日)午後 会場:ドーンセンター 参加費:無料
講演会講師:谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
演題:未定
※前日(6月15日)の関西例会もドーンセンターで開催します。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
04/20(土) 会場:豊中倶楽部自治会館

(注)
①『明治前期 全国村名小字調査書』ゆまに書房、1986年。
②二十八集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。風土記や地誌を研究対象として、そこに遺された九州王朝の痕跡を論じ、論文やフォーラム・コラムとして投稿してください。地誌の場合、その成立が中近世であっても、内容が古代を対象としており、適切な史料批判を経ていれば、古代史のエビデンスとして採用していただいてかまいません。(『古代に真実を求めて』28集の投稿募集要項より)

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古田史学の会 東成区民センター 2024.3.16

2024年 3月度関西例会発表一覧
(ファイル・動画)

YouTube公開動画①②です。

1,天孫降臨とニニギ命 (大阪市・西井健一郎)

 動画はありません

2,剣の神のタケミカヅチが素手でタケミナカタと戦う理由
(大山崎町・大原重雄)

https://youtu.be/2o-eoZcsysU
https://youtu.be/M3qkbHgjd9U

3,モーツァルトの「魔笛」と古事記の相似形の説話 (大山崎町・大原重雄)

https://youtu.be/DrWQ2nw9pH0
https://youtu.be/afRJ4Bdhgso

4,4月ハイキング「春の櫻宮から難波宮を歩く」の案内 (八尾市・上田 武)

 動画はありません

5,『隋書』重視で、『書紀』の元本に照らす (東大阪市・萩野秀公)

 動画はありません

6,「邪馬台国と火の国」論の再提起 (茨木市・満田正賢)

 動画はありません

7,播磨風土記・地名考(続) ―宍禾郡・柏野里・敷草村の条―
(神戸市・谷本 茂)

 動画はありません

8,「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住跡を発見」報道と倭国の半島進出 (川西市・正木 裕)

https://youtu.be/0e3xqq5JO1U
https://youtu.be/G8XqfEc37EQ


第3250話 2024/03/15

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (5)

 本シリーズでは、「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について詳論し、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説は成立し難いとしました。そうすると、墓誌に見える三名の天皇(注①)は近畿天皇家の人物となるわけですが、その結果、新たに論ずべき課題が見えてきます。本シリーズの最後に、そのことについて考察します。

 同墓誌には、船王後の生涯に於いて特筆すべき事績と埋葬の年次表記として、次の五件が記されています(注②)。

(1) 「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
(2) 「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
(3) 「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
(4) 「阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」(641年12月3日)
(5) 「戊辰年十二月」 天智七年 (668年12月)

 この内、(1)(2)(3)は次のような構造となっており、同じ様式と言えます。

 [地名]+「宮」+「治天下 天皇」+「之世(朝)」

 これは七世紀の金石文によく見られる天皇名表記様式で、わたしはこれを「宮号表記天皇名」と呼んでいます。この宮号表記の場合、〝一つの宮殿には一人(一代)の天皇だけに限る〟という大前提が必要です。すなわち、新天皇の即位の度に遷宮するという伝統を持つ王家にしか採用できない名称表記方法です。従って、近畿天皇家の場合、藤原宮や平城宮、平安宮のように複数の天皇がそこで「治天下」していた場合、そのままではどの天皇のことを言っているのかわかりませんから、宮号を天皇名に使用するのはあまり適切な名称表記方法とは言えません。

 余談ですが、九州王朝(倭国)の場合、七世紀前半からは太宰府条坊都市「倭京」を都としますから、その宮殿に君臨したであろう数代の天子を宮号表記、たとえば「倭京の宮の天子」のようには呼んでいないと考えられます。その根拠として、法隆寺釈迦三尊像光背銘には「上宮法皇」とあり、天子(法皇)の阿毎多利思北孤は「上宮」という宮殿にいたように思われ、「上宮」の「上」が倭京内の小地名なのか、あるいは地名とは無関係に命名された王宮の名称なのか、今のところ不明です。わたしは後者の可能性が高いと考えています。すなわち、九州王朝の天子は「上宮」と呼ばれる宮殿で執政していたから、歴代の天子は「上宮法皇」「上宮王」などと呼ばれていたのではないかと推定しています。その場合、どの天子かを特定するために九州年号を併記したのではないでしょうか。この件については別途論じることにします。

 (4)は異質の表記で、[地名]+「天皇」であり、七世紀の金石文の天皇名表記としては珍しい様式です。管見では次の七世紀の天皇銘金石文があります。天皇名表記部分を抜粋します。

 《七世紀の「天皇」銘金石文》
○607年? 法隆寺薬師仏光背銘 (奈良県斑鳩町)
「池邊大宮治天下天皇」「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」
○666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘 (大阪府羽曳野市)
「中宮天皇」
○668年 船王後墓誌 (大阪府柏原市出土)
「乎娑陀宮治天下天皇」「等由羅宮治天下天皇」「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」
○677年 小野毛人墓誌 (京都市出土)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
○680年? 薬師寺東塔檫銘 (奈良市薬師寺)
「清原宮馭宇天皇」「大上天皇」
○686・698年 長谷寺千仏多宝塔銅板 (奈良県桜井市長谷寺)
「飛鳥清御原大宮治天下天皇」

 これらと比べて、宮殿がある所の地名だけを天皇名にした(4)「阿須迦天皇」は異質です。ただ、同墓誌には直前に「阿須迦宮治天下天皇」とあるので、二度目は文字数削減のために簡略化したのかもしれません。それにしても、「阿須迦宮天皇」ではなく、「阿須迦天皇」まで簡略した理由は不明です。
それ以上に不思議なのが、(5)の年次表記「戊辰年十二月」です。(つづく)

(注)
①船王後墓誌には次の天皇名が記されている。
「乎娑陀宮治天下 天皇之世」 敏達天皇 (572~585年)
「等由羅宮 治天下 天皇之朝」 推古天皇 (592~628年)
「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」 舒明天皇 (629~641年10月)
②墓誌の全文と訓よみくだし文は次の通り。
惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮 治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也
《訓よみくだし》
惟(おもふ)に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(668年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。


第3249話 2024/03/14

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (4)

「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈では、銘文に全く不要な「末」の一字を入れた理由の説明ができません。それでは、「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説ではどのような説明ができるでしょうか。「洛中洛外日記」(注①)などで述べてきましたが、改めて紹介します。わたしの理解は次の通りです。

(Ⅰ)舒明天皇は辛丑年(六四一)十月九日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのはその翌年(六四二年一月)であり、辛丑年(六四一)の十月九日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(六四一)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年(最後の一年)とする表記は適切である。

(Ⅱ)同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」とあるように、戊辰年(六六八年)であり、その時点から二七年前の辛丑年(六四一)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」の年で、年干支は「歳次辛丑」とするのは正確な表記であり、墓誌の内容として適切である。

(Ⅲ)同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と、全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは在位中ではないので、治世中を意味する「世」や「朝」を使用せず、「末」という〝非政治的〟で、ある時間帯を示す字を用いて「阿須迦天皇之末」という表記にしており、正確に使い分けていることがわかる。

(Ⅳ)このように、同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を「末」の一字を用いて正しく表現しており、「末」の一字の存在理由を説明できない古田新説(九州王朝の天皇)よりも通説(舒明天皇)の方がはるかに妥当である。

以上のわたしの指摘に対して、既に亡くなられていた古田先生はともかく(注②)、古田新説支持者からの反論は聞こえてきません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1737~1746話(2018/08/31~09/05)〝「船王後墓誌」の宮殿名(1)~(6)〟
「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年。
②古田武彦氏は2015年10月にご逝去。古賀の最初の発表は2018年8月。古田氏の没後三年を経て発表したのは、〝古田先生の喪(三回忌)が明けるまでは、批判論文の発表は控える〟という自らの思いに従ったことによる。「洛中洛外日記」1531話(2017/11/02)〝古田先生との論争的対話「都城論」(1)〟で、そのこと(三回忌)について触れている。


第3248話 2024/03/13

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈を、かなりの無理筋としたのには理由があります。その主なものを以下に列挙します。

(a)古田先生の主張であれば、銘文に「末」の字は全く不要であり、「阿須迦天皇之歳次辛丑」(641年)だけでよい。治世の末年と理解される「末」の字をわざわざ入れる必要は全くない。それにもかかわらず「末」の一字を入れた理由の説明がなされていない。

(b)仮に、阿須迦天皇の治世を永く見積った場合、当時の九州年号は「仁王(12年)」「僧要(5年)」「命長(7年)」の三年号であり、合計しても24年(623~646)にしかならず、次の「常色」改元(647年)は6年も先のことだ。19年目の「歳次辛丑」(641年)を治世の「末」と表記するのは明らかに不自然である。これは、例えば「2024年10月」を「2024年末」というようなものである。普通に「2024年末」とあれば、年末の12月下旬頃と思うであろう。すなわち、10月を年末というくらい不自然な解釈なのである。
※「仁王元年(623)」の前年に九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)が崩御しており、仮に古田新説に従えば、「阿須迦天皇」の治世初年をこれ以前にはできない。

(c)そのような「末」表記に前例があったとしても、それは「末」の本義とは異なる少数例と思われ、その少数の可能性の存在を示すに過ぎない。少数例の方が、多数例よりも優れた有力な読解とできる史料根拠の明示と合理的な説明ができて、初めて〝論証した〟と言えるのだが、古田新説ではそれがなされていない。なぜなら、単なる可能性存在(しかも少数例)の「主張」を、学理上、「論証」とは言わないからである。これでは〝可能性だけなら何でもあり〟との批判を避けられないであろう。

(d)更に言えば、『日本書紀』の舒明天皇の没年と「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)は一致するが、古田新説では、これを〝偶然の一致〟と見なさざるを得ない。自説に不利な史料事実を〝偶然の一致〟として無視・軽視するのであれば、あまりに恣意的と言う批判を避けられないであろう。

 以上のように、船王後墓誌銘文に対する古田先生の読解は、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説に不都合な金石文による批判を回避するための〝論証抜きの解釈〟と言わざるを得ません。とりわけ(c)の指摘は、〝論証とは何か〟という「学問の方法」に関する学理上の基本テーマです。従って、尊敬する古田先生には申し訳ないのですが、わたしは古田新説には従えないのです。(つづく)


第3247話 2024/03/12

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (2)

 近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする古田新説にとって、最も不都合な金石文の一つに船王後墓誌がありました。その銘文は次の通りです。

惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮 治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也

《訓よみくだし》
惟(おもふ)に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(668年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。

 銘文に見える三人の天皇を通説では次のように比定しています。

乎娑陀宮治天下天皇 → 敏達天皇 (572~585)
等由羅宮治天下天皇 → 推古天皇 (592~628)
阿須迦宮治天下天皇 → 舒明天皇 (629~641年10月)

 この最後の阿須迦天皇の名前が墓誌には二度見えます。「阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三」と「殯亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」です。後者は「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)に船王後が亡くなったという記事ですが、この年が「阿須迦天皇之末」であり、その年干支は「歳次辛丑」(641年)とあることから、「阿須迦天皇」をこの年(舒明13年)の10月に崩御した舒明天皇とする通説が成立したわけです。

 この通説は古田新説にとって決定的に不都合なものでした。もし、「阿須迦天皇」が九州王朝の天子の別称であれば、治世の「末」年の「歳次辛丑」(641年)かその翌年に九州年号が改元されていなければならないからです。しかし、その時点の九州年号「命長二年」(641年)が改元されるのは、六年後の常色元年(647年)です(注)。これでは、「阿須迦天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説は成立しません。天子が崩御したのに、改元されないことなど有り得ないからです。

 そこで古田先生が考え出されたのが、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」という解釈でした。しかし、これはかなり無理筋の解釈で、古田旧説を支持するわたしと新説を唱えた先生との間で論争が勃発しました。(つづく)

(注)「歳次辛丑」(641年)に九州年号が改元されていないことを、最初に指摘したのは正木裕氏(古田史学の会・事務局長)である。


第3246話 2024/03/11

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (1)

 九州王朝(倭国)と近畿天皇家(後の大和朝廷)との関係について、古田先生は、701年の王朝交替より前は、倭国の臣下筆頭の近畿天皇家が七世紀初頭頃からナンバーツーとしての「天皇」号を称していたとされました(古田旧説。注①)。ところが晩年には、七世紀の金石文など(注②)に見える「天皇」はすべて九州王朝の天子の別称であり、近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする新説を発表されました(注③)。

 わたしは一貫して古田旧説を支持していますが、その理由は、「天皇」銘を持つ七世紀の金石文・木簡や史料などが近畿地方で出土・伝来しており、その内容が『日本書紀』に記された近畿天皇家の事績と矛盾しないことなどによります。このテーマは七世紀の日本列島の真実の姿を明らかにするうえで重要なものです。今回は国宝に指定されている船王後墓誌の天皇銘について、改めて最新の考察を紹介することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏之光背銘」(朝日新聞社刊、一九八五年)
②六~七世紀の「天皇」史料(金石文・木簡)
596年 元興寺塔露盤銘「天皇」 (『元興寺縁起』所載。今なし)
607年? 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」 (奈良県斑鳩町)
666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」 (大阪府羽曳野市)
668年 船王後墓誌「天皇」 (大阪府柏原市出土)
677年 小野毛人墓誌「天皇」 (京都市出土)
680年? 薬師寺東塔檫銘「天皇」 (奈良市薬師寺)
天武期 飛鳥池出土木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇(子)」 (奈良県明日香村)
686・698年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」 (奈良県桜井市長谷寺)
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」(ミネルヴァ書房、二〇一四年)


第3245話 2024/03/08

藤原宮(京)造営尺の再検討 (2)

 大阪歴博の李陽浩(リ・ヤンホ)さんの論文「第1節 前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」(注①)によれば、藤原宮朝堂院の中軸線の振れはN0゜38’31″E、造営尺の値は1尺=0.291~0.2925mとのことで、その出典は「奈良文化財研究所2004」とありましたので、『奈良文化財研究所紀要 2004』(注②)を精読しました。同紀要に収録された「朝堂院東南隅・朝集殿院 東北隅の調査 ―第128次」に、箱崎和久氏による報告がありましたので、要点を抜粋します。

「朝堂院東南隅・朝集殿院
東北隅の調査 ―第128次
(中略)
これまでの朝堂院の調査成果をふまえて朝堂院全体の配置計画を考えてみたい。朝堂院の振れには、本調査で得たN0°38′31″Wを用いる。(中略)
朝堂院北面回廊棟通り(表14-B)から第一堂北妻(表14-C)までの距離は29.2mで、第107次調査では、これを100尺と解釈した(『紀要2001』)。このとき、単位尺は1尺=0.292mとなる。第二堂北妻(表14-D)は、朝堂院北面回廊棟通り(表14-B)から84.6mだが、1尺=0.292mを援用すると289.8尺が得られる。これは290尺に相当しよう。これらは大尺を用いると完好な数値を得られない。(中略)朝堂院の全長は1102尺となる。これを1100尺とみて、南北長321.3mから単位尺を求めると、1尺=0.2921mが得られる。
これは朝堂院の南北長を900大尺(1080尺)と想定した場合よりも、朝集殿院の単位尺1尺=0.2925mに近い。
このように建物配置に関係する北面回廊棟通りからの第一堂北妻、第二堂の北妻の距離、朝堂院の南北規模といった地割りは、大尺では完好な数値を得られず、むしろ単位尺を1尺=0.2910~0.2925とする尺(令小尺)の方が合理的に説明できる。(中略)
以上のように、現段階の発掘データでは、朝堂院の規模と朝堂の配置は、尺(令小尺)の方が完好な計画値を得られる。」

 この報告の結論部分「単位尺を1尺=0.2910~0.2925とする尺(令小尺)の方が合理的に説明できる」を李さんは紹介されたのですが、この数値から判断して、藤原宮造営尺が前期難波宮造営尺(1尺=29.2㎝)と同じである可能性が高いと思われました。そうであれば次のことが想定できます。

(1) 前期難波宮整地層からの主要出土須恵器は坏GとHであり、藤原京整地層からの主要出土須恵器は坏Bであることから、両者の造営時期が『日本書紀』の記事(前期難波宮創建652年。藤原宮遷都694年)と整合している。従って、両宮殿の造営時期には約40~50年の隔たりがあるが、同じ造営尺が採用されている。両条坊造営尺(1尺=29.5㎝)も同様。

(2) 他方、670年頃と考えている大宰府政庁Ⅱ期の造営では、1尺=29.4㎝と30㎝(条坊造営尺)の併用が判明しており(注③)、前期難波宮・藤原宮造営尺と異なっている。

 今までは、前期難波宮(652年創建、29.2㎝)→大宰府政庁Ⅱ期(670年頃、29.4㎝)→藤原宮(694年遷都、29.5㎝)と、1尺が時代とともに長くなるという一般的傾向に対応していると考えてきましたが、それほど単純ではないようです。この現象をどのように説明できるのか、新たな課題に直面しました。〝学問は自説が時代遅れになることを望む領域〟というマックス・ウェーバーの言葉(注④)を実感しています。

(注)
①『難波宮址の研究 第十三』大阪市文化財協会、2005年。
②『奈良文化財研究所紀要 2004』奈良文化財研究所、2004年。
③古賀達也「九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―」『古田史学会報』174号、2023年。
同「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
④マックス・ウェーバー(1864-1920)『職業としての学問』(岩波文庫)1917年にミュンヘンで行われた講演録。
古賀達也「洛中洛外日記」2876話(2022/11/14)〝自説が時代遅れになることを望む領域〟