第3174話 2023/12/07

大宰政庁Ⅱ期創建年代のエビデンス (2)

大宰府政庁Ⅱ期の創建年代を通説では八世紀初頭としており、自説(670年頃)とは約四半世紀以上の差がありました。わたしの知るところでは、通説の根拠と論理は次のようです。

(a) 政庁Ⅱ期整地層出土土器(須恵器坏Bなど)の編年が七世紀末から八世紀初頭であり、政庁の造営はそれ以後である。
(b) 同じく政庁Ⅱ期北面築地塀の下層から出土した木簡に「竺志前」と書かれたものがあり、これは『大宝律令』により筑前と筑後に分割された筑前国を意味することから、同遺構の造営は『大宝律令』(701年成立)以後となる。
(c) 政庁Ⅱ期に先行する太宰府条坊の成立が藤原京と同時期の七世紀末とされており、政庁Ⅱ期は八世紀初頭頃の造営となる。

上記の根拠のうち、特に重要なものは(b)の「竺志前」木簡です。この木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから次の「竺志前」木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

『大宰府政庁跡』(九州歴史資料館、二〇〇二年)では次のように解説しています。

「本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、八世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が八世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を八世紀前半とする大宰府論が展開されている。」『大宰府政庁跡』422頁。

この「木簡2」が「竺志前」木簡です。こうした資料根拠(エビデンス)と論理(ロジック)により通説が成立しており、一見すると有力です。(つづく)


第3173話 2023/12/06

大宰政庁Ⅱ期創建年代のエビデンス (1)

 先月の「古田史学の会」関西例会で、わたしは七世紀の都城創建年代について解説し、そのなかで大宰府政庁Ⅱ期の創建を670年頃としたのですが、参加者からその根拠(エビデンス)について質問がありました。関西例会らしい鋭い質問でした。なぜなら通説では八世紀初頭とされており、自説とは約四半世紀以上の差があったからです。そこで、次のように説明しました。

(1) 政庁Ⅱ期に先行した掘立柱の政庁Ⅰ期(新段階)と条坊の造営が、文献史学の研究によれば七世紀前半~中頃と考えられることから(注①)、礎石造りで朝堂院様式の政庁Ⅱ期は七世紀後半の創建と見なせる。
(2) 政庁Ⅱ期と同時期の創建と考えられる観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式であり、同じく老司Ⅰ式・Ⅱ式の創建瓦を持つ政庁Ⅱ期の創建も観世音寺と同時期とできる(注②)。
(3) 老司Ⅰ式・Ⅱ式瓦の発生は七世紀後半と編年されている(注③)。
(4) 観世音寺の創建を「白鳳十年」(670年)とする九州年号史料が複数ある(注④)。
(5) 以上のことから判断して、大宰府政庁Ⅱ期の成立を670年頃とするのは妥当である。

 以上のように述べ、八世紀初頭とする通説の根拠についても説明しました。(つづく)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。
古賀達也「洛中洛外日記」2955話(2023/03/01)〝大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (1)〟
②同「洛中洛外日記」814話(2014/11/01)〝考古学と文献史学からの太宰府編年(2)〟
③同「洛中洛外日記」1412話(2017/06/11)〝観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦〟
高倉彰洋「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
古賀達也「洛中洛外日記」2082話(2020/02/12)〝高倉彰洋さんの「観世音寺伽藍朱鳥元年完成」説〟
④同「洛中洛外日記」405話(2012/04/18)〝太宰府編年の再構築〟
同「洛中洛外日記」458話(2012/08/25)〝『日本帝皇年代記』の九州年号〟
「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
「観世音寺考」『古田史学会報』119号、2013年。


第3172話 2023/12/05

空理空論から古代リアリズムへ (3)

 八王子セミナーでは「前期難波宮を九州王朝の王宮と決めつけないほうがよいのでは」という意見も出されましたが、その理由がわかりませんでした。というのも、評制が施行された七世紀中頃において、全国統治が可能な宮殿・官衙、その官僚と家族・従者、商工業者、防衛のための兵士ら数万人が居住可能な大都市は、前期難波宮と難波京しか出土していないというエビデンスに基づけば、九州王朝説を是とするのであれば当地を九州王朝複都と理解するしかないと、研究発表したばかりでしたからです。これ以上、どのように説明すれば納得していただけるのか迷いました。そこで、根拠もなく決めつけているわけではないことを改めて説明するために、全国的な戸籍である庚午年籍の造籍作業を例にあげました。

 通説では、庚午年籍は庚午の年(670)に近江朝廷(天智天皇)により造籍された、初めての全国的戸籍とされています。『大宝律令』などにより、庚午年籍は永久保管が全国の国司に命じられており、六年に一度造籍される戸籍の中でも、基本となる重要戸籍とされてきました。戸籍は三十年で廃棄することを律令で定めていますが、庚午年籍だけは永久保存せよと命じているのです。大寶二年七月にも庚午年籍を基本とすることを命じる詔勅が出されています(『続日本紀』)。更に時代が下った承和六年(839)正月の時点でも、全国に庚午年籍を書写し、中務省への提出を命じていることから(『続日本後紀』)、九世紀においても、庚午年籍が全国に存在していたことがうかがえます。

 この庚午年籍を九州王朝説の視点から見れば、白鳳十年庚午の年(670)に造籍された九州王朝の「白鳳十年籍」となります。もちろん造籍を命じたのは九州王朝の天子となります(注)。この全国的造籍作業には膨大な事務作業が必要であることは、容易に推定できるでしょう。

 まず、全国の国司・評督等に統一した書式と記載ルールに基づく造籍方法を伝達し、それに基づく戸籍が全国から都へと提出されます。都では中央官僚が大量の戸籍を整理保管し、それを〝基本台帳〟として、仕丁(労役)や兵士(徴兵)、そして租税などを計算し、全国各地に通達するという事務作業が続きます。恐らく、それら作業を担当した九州王朝の中務省などの役人は数百人に及ぶのではないでしょうか。

 そうした多数の中央官僚による造籍作業が可能な都城は前期難波宮しかありません。同時に官僚の家族、従者、商工業者、兵士等が居住できる大都市も難波京と太宰府条坊都市しかありません。ただし、太宰府条坊都市には、前期難波宮のような全国統治が可能な大規模宮殿・官衙がありませんから、庚午年籍の造籍作業は前期難波宮で行われたとするのが最も妥当なのです(九州島内九ヶ国の造籍作業などは、伝統的に太宰府の官僚が行ったかもしれない)。

 このように、庚午年籍の造籍という古代人が行う膨大な実務作業の現実(リアリズム)を考えたとき、前期難波宮「九州王朝複都」説が論理的(ロジカル)に導き出されるのです。わたしたち古田学派は空理空論をしりぞけ、古代のリアリズムで九州王朝史を復元しなければならないと思います。(おわり)

(注)正木裕説によれば、九州王朝系近江朝による造籍となる。
正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。

 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝廷 ―正木新説の展開と考察―」『古田史学会報』134号、2016年。


第3171話 2023/12/04

空理空論から古代リアリズムへ (2)

 前期難波宮「九州王朝複都」説を論文発表したのは2008年ですが、口頭では古田先生への問題提起を皮切りに関西例会などでそれ以前から発表してきました。ところが古田先生から批判されたこともあってか、古田学派内から様々な批判がなされました。そのおかげで、再反論のために土器編年や関連遺構の調査、前期難波宮や難波京を発掘した考古学者たちへのヒアリングなどを実施し、わたし自身も大変勉強になりました。まさに〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟を実体験できました。

 他方、これはいかがなものかと思うような〝批判〟もありました。たとえば、前期難波宮のような大規模な遺構は出土しておらず、大阪市や大阪府の〝地域おこし〟のために造作されたもので、古賀はそれを自説の根拠にしているというものです。こうした批判は、難波宮(難波京)を数十年にわたり発掘調査してきた大阪の考古学者に対して甚だ失礼なものでした。

 また、次のような批判も最近まで繰り返されています。云わく、〝文献的裏付けは何もなく、考古学的裏付けもなく、根拠となるのは「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀達也氏の思考だけ〟というものです。

 この批判を受けて、わたしがこれまで発表してきた関連論文のリストを作成し、こうした批判が事実に基づかない「空理空論」であることを明らかにし、わたしの論文を正確に引用したうえで、事実に基づいた具体的な批判をいただけるよう努力しなければならないと、反省するに至りました。そこでこれまで発表した関連論文のリストを公表することにしました(多元的古代研究会の会誌『多元』に投稿させていただきました)。

2008年に発表した同テーマ最初の論文「前期難波宮は九州王朝の副都」を筆頭に、現在まで約50編の論文をわたしは発表してきました。論文の他に「洛中洛外日記」にも、関連する小文が多数あります(論文と内容が重複するものも含め、200編以上)。抜け落ちがあるかもしれませんが、各会誌・書籍で発表したそれらの論文・発表年を以下に列挙します。

《難波宮に関する論文・講演録》
【古田史学会報】古田史学の会編
① 前期難波宮は九州王朝の副都 (八五号、二〇〇八年)
② 「白鳳以来、朱雀以前」の新理解 (八六号、二〇〇八年)
③ 「白雉改元儀式」盗用の理由 (九〇号、二〇〇九年)
④ 前期難波宮の考古学(1) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇二号、二〇一一年)
⑤ 前期難波宮の考古学(2) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇三号、二〇一一年)
⑥ 前期難波宮の考古学(3) ―ここに九州王朝の副都ありき― (一〇八号、二〇一二年)
⑦ 前期難波宮の学習 (一一三号、二〇一二年)
⑧ 続・前期難波宮の学習 (一一四号、二〇一三年)
⑨ 七世紀の須恵器編年 ―前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁― (一一五号、二〇一三年)
⑩ 白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判― (一一六号、二〇一三年)
⑪ 難波と近江の出土土器の考察 (一一八号、二〇一三年)
⑫ 前期難波宮の論理 (一二二号、二〇一四年)
⑬ 条坊都市「難波京」の論理 (一二三号、二〇一四年)
⑭ 「要衝の都」前期難波宮 (一三三号、二〇一六年)
⑮ 九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) (一三五号、二〇一六年)
⑯ 九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) (一三六号、二〇一六年)
⑰ 九州王朝説に刺さった三本の矢(後編) (一三七号、二〇一六年)
⑱ 「倭京」の多元的考察 (一三八号、二〇一七年)
⑲ 律令制の都「前期難波宮」 (一四五号、二〇一八年)
⑳ 九州王朝の都市計画 ―前期難波宮と難波大道― (一四六号、二〇一八年)
㉑ 古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造― (一四七号、二〇一八年)
㉒ 九州王朝の高安城 (一四八号、二〇一八年)
㉓ 前期難波宮「天武朝造営」説の虚構 ―整地層出土「坏B」の真相― (一五一号、二〇一九年)
㉔『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》 (一五三号、二〇一九年)
㉕ 難波の都市化と九州王朝 (一五五号、二〇一九年)
㉖ 都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺― (一五八号、二〇二〇年)

【古代に真実を求めて】古田史学の会編、明石書店
㉗ 「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」 (十七集、二〇一四年)
㉘ 九州王朝の難波天王寺建立 (十八集、二〇一五年)
㉙ 柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京― (二六集、二〇二三年)

【「九州年号」の研究】古田史学の会編、ミネルヴァ書房、二〇一二年
㉚ 白雉改元の史料批判
㉛ 前期難波宮は九州王朝の副都

【多元】多元的古代研究会編
㉜ 古賀達也氏講演会報告(宮崎宇史)「太宰府と前期難波宮 ―九州年号と考古学による九州王朝史復元の研究―」 (九七号、二〇一〇年)
㉝ 古賀達也氏講演録(宮崎宇史)「王朝交替の古代史 ―七世紀の九州王朝―」 (一一五号、二〇一三年)
㉞ 白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判― (一一七号、二〇一三年)
㉟ 感想二題 ―『多元』一四二号を拝読して― (一四四号、二〇一八年)
㊱ 「評」を論ず ―評制施行時期について― (一四五号、二〇一八年)
㊲ 九州王朝の黄金時代 ―律令と評制による全国支配― (一四八号、二〇一八年)
㊳ 難波から出土した筑紫の土器 ―文献史学と考古学の整合― (一五三号、二〇一九年)
㊴ 前期難波宮出土「干支木簡」の考察 (一五七号、二〇二〇年)
㊵ 天武紀「複都詔」の考古学的批判 (一六〇号、二〇二〇年)
㊶ 七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動― (一七六号、二〇二三年)

【東京古田会ニュース】古田武彦と古代史を研究する会編
㊷ 前期難波宮九州王朝副都説の新展開 (一七一号、二〇一六年)
㊸ 前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証 (一七五号、二〇一七年)
㊹ 前期難波宮「天武朝」造営説への問い (一七六号、二〇一七年)
㊺ 一元史観から見た前期難波宮 (一七七号、二〇一七年)
㊻ 難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点― (一八五号、二〇一九年)
㊼ 古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺― (二〇二号、二〇二二年)

 以上のタイトルだけでも、その内容が多岐多面にわたることを理解していただけるのではないでしょうか。考古学関連論文も少なくありません(④⑤⑥⑨⑪⑫⑬⑳㉓㉔㉕㉖㊳㊴㊵㊷㊸㊼が該当)。筑紫(糸島博多湾岸等、九州王朝中枢領域)の須恵器が難波から出土していることも論文㊳で紹介しました。
このように、わたしが書いた研究テーマとしては、九州年号研究に次ぐ論文数なのです。〝「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀の思考だけ〟では、これだけの論文は書けないことをご理解いただけるものと思います。

 なお、これらの論文の多くは、古田先生に読んで頂くことを念頭に書き続けたものです。その結果、2014年(平成26年)の八王子セミナーでは、参加者からの「前期難波宮九州王朝副都説に対してどのように考えておられるのか」という質問に対して、「検討しなければならない」との返答がなされました。このときが最後の八王子セミナーとのことでしたので、わたしは初めて参加し、会場の片隅で聞いていました。先生からはいつものように批判されるものと思っていたのですが、「検討しなければならない」との言葉を聞き、その夜はうれしくてなかなか眠れませんでした。もちろん前期難波宮九州王朝副都説にただちに賛成されたわけではありませんが、はじめて古田先生から検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。しかしながら、検討結果をお聞きすることはついに叶いませんでした。その翌年に先生は亡くなられたからです(2015年10月14日没、89歳)。(つづく)


第3170話 2023/12/03

空理空論から古代リアリズムへ (1)

 先の八王子セミナー(注①)では様々なご質問をいただき、自説に対してどのような批判や疑問が持たれているのかを知ることができ、とても有意義でした。わたしは〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えていますので、有り難いことです。

 そうした質問の一つに、律令制中央官僚が八千人(注②)とするのは『養老律令』によるもので、七世紀の王都には不適切とするものがありました。同様の批判は、前期難波宮「九州王朝複都」説に反対する論者にもよく見られたものです。既に何度も説明してきたことですが、新たな視点も含めて改めて要点をまとめます。

(1) 『養老律令』はほぼ『大宝律令』と同内容であることが復元研究により明らかとなっており、藤原宮や平城宮は『大宝律令』により全国統治した王宮である。『養老律令』が施行されたのは天平勝宝九年(757)と見られている。
(2) 七世紀は九州王朝(倭国)の時代であり、九州王朝律令により全国統治していたと考えられる。
(3) 古田氏の九州王朝説によれば、七世紀中頃には、九州王朝が全国を評制により統治したとする。
(4) 当時、評制による全国統治が可能な規模を持つ王都王宮は、前期難波宮(難波京)だけである(注③)。
(5) 前期難波宮の朝堂院は藤原宮とほぼ同規模であり、したがって中央官僚の人数も大きくは異ならないと推定できる。
(6) 文献的にも、評制が前期難波宮(難波朝廷)で全国的に施行(天下立評)したとする史料(『皇太神宮儀式帳』)があり、その他の王都で評制が施行されたとする史料は見えない(注④)。

 古代の真実に迫るためには、史料根拠に基づかずに〝ああも言えれば、こうも言える(注⑤)〟程度の解釈による「空理空論」ではなく、古代人が律令制により全国統治する行政システムにとって、何が絶対条件なのか、という「古代のリアリズム」に基づいて論じなければならないと、わたしは先の八王子セミナーで主張しました。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」、公益財団法人大学セミナーハウスの主催。
②服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
③古賀達也「律令制の都『前期難波宮』」『古田史学会報』145号、2018年。
同「九州王朝の黄金時代 ―律令と評制による全国支配―」『多元』148号、2018年。
同「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、2023年。
同「律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―」古田武彦記念古代史セミナー2023にて発表。
同「洛中洛外日記」3157話(2023/11/11)〝八王子セミナー・セッションⅡの論点整理〟
④同「文字史料による「評」論 ―「評制」の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2014年。
同「九州王朝の両京制を論ず (一) ―列島支配の拠点「難波」―」『多元』に投稿中。
⑤〝ああも言えれば、こうも言えるというものは論証ではない〟との中小路俊逸氏(故人、追手門学院大学教授)の教えを受けたことがある。
古賀達也「洛中洛外日記」360話(2011/12/11)〝会報投稿のコツ(4)〟
同「洛中洛外日記」1427話(2017/06/20)〝中小路駿逸先生の遺稿集が発刊〟


第3169話 2023/12/01

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(4)

 飛鳥宮跡は大きくは三期の遺構からなり、通説では、Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636)、Ⅱ期は皇極・斉明天皇の飛鳥板蓋宮(643~645、655)、Ⅲ-A期は斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮(656~660)、Ⅲ-B期は同宮を拡張した天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694)とされ、これらは昭和35年から約190回にわたって行われた発掘調査に基づいています。他方、Ⅱ期を後飛鳥岡本宮、Ⅲ期を飛鳥浄御原宮とする佐藤隆さんの説などもあります(注①)。しかし、同遺構を三期にわけること自体は出土事実に基づいており、異論はないようです。

 いずれの遺構も『日本書紀』の記事に基づき、「飛鳥○○宮」と命名されており、それらが「飛鳥」と呼ばれる地域内にあったことを示しています。この七世紀における「飛鳥」の範囲については諸説ありますが、広く見る説では、北は香具山付近、南は稲淵付近にかけての飛鳥川両岸一帯とします(注②)。

 以上のように、飛鳥宮跡遺跡の調査により、七世紀における近畿天皇家の宮殿の姿が徐々に明らかとなり、地名や出土事実が『日本書紀』の記事と対応しうることから、その説得力を増しつつあります。この度、Ⅰ期の長大な塀跡が飛鳥宮跡「内郭」の位置から出土したことにより、七世紀前半においても当地に大型の宮殿があったことが推定できるようになりました。そして、その建築方位は南北正方位ではなく、七世紀中頃のⅡ期に至って、正方位の建物が飛鳥宮跡地域に出現することから、九州王朝による正方位の巨大宮殿、前期難波宮創建(652年)の影響(設計思想)が、畿内の近畿天皇家にも及んだものと思われます。

 わたしたち九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきです。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを、今回の出土は示唆しているのではないでしょうか。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応しうることは、『日本書紀』の当該記事の信頼性を高め、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければなりません。(おわり)

(注)
①佐藤隆「前期難波宮造営過程の再検討 ―飛鳥宮跡との比較を中心に―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第20号、2022年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
古賀達也「洛中洛外日記」2852~2853話(2022/10/04-05)〝宮名を以て天皇号を称した王権(3)~(4)〟
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2022年。


第3168話 2023/11/29

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(3)

 飛鳥宮跡は三期の遺構からなっており、Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮と考えられており、七世紀前半に遡る王宮遺構です。今回発見されたⅠ期の塀跡はⅡ期・Ⅲ期の遺構と重なり、内郭と呼ばれている飛鳥宮跡中枢の位置から出土しています。いずれも『日本書紀』に基づき「飛鳥○○宮」と命名されており、同地域が古代から飛鳥(アスカ)と称されていたことを前提としています。

 当地が古代から飛鳥(アスカ)と呼ばれていたことは、『日本書紀』(720年成立)以外にも、飛鳥宮跡の北に飛鳥寺があること(七世紀の飛鳥寺跡も出土)、「飛鳥寺」木簡が飛鳥池遺跡から出土していることなどから、確かなことと思われます。更に、「甲午年(694)」銘を持つ「法隆寺観音像造像記銅板」(注①)には大和の著名な寺名「鵤大寺」「片罡王寺」とともに「飛鳥寺」が見え、七世紀に飛鳥寺が大和にあったことを疑えません。

 また、「船王後墓誌」(注②)に見える舒明天皇の表記が「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」とあり(注③)、七世紀でも「飛鳥」は「阿須迦(アスカ)」と称されていたことがわかります。現存地名も明日香(アスカ)村であり、地名の持つ伝承力の強さがうかがわれます。(つづく)

(注)
①「法隆寺観音像造像記銅板」(奈良県斑鳩町)の銘文。
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓
②「船王後墓誌」の銘文。
(表)
惟舩氏 故王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也 生於乎娑陀宮治天下天皇之世 奉仕於等由羅宮 治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殯亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅 故戊辰年十二月殯葬於松岳山上 共婦安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也 即為安保万代之霊基 牢固永劫之寶地也
③「船王後墓誌」に見える「天皇」を九州王朝の〝天子の別称〟とする古田新説があるが、これは近畿天皇家が「天皇」を名乗ったのは文武からとする解釈に基づいている。しかし、前提となるエビデンス(「天皇・皇子」木簡・「天皇」金石文)は、七世紀に近畿天皇家が「天皇」を称したことを示しているので、この古田新説には従えない。
たとえば、七世紀の「天皇」銘木簡・金石文は全て近畿地方で出土・伝来してきたものであり、それら全てを九州王朝の〝天子の別称〟とする解釈は恣意的で無理筋と言わざるを得ないであろう。次の拙論を参照されたい。
○「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
○「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2019年。
○「大化改新詔と王朝交替」『東京古田会ニュース』194号、2020年。
○「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2023年。


第3167話 2023/11/28

『東京古田会ニュース』No.213の紹介

 『東京古田会ニュース』213号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の証言 ―令和の和田家文書調査―」を掲載していただきました。同稿は、本年5月6日~9日、青森県弘前市を訪れ、30年ぶりに実施した和田家文書調査の報告です。〝令和の和田家文書調査〟と名付けた今回の津軽行脚は、当地の「秋田孝季集史研究会」(会長 竹田侑子さん)の皆様から物心両面のご協力をいただき、数々の成果に恵まれました。同会への感謝を込めて同稿を執筆しました。その最後の一文を転載します。

 〝古田先生と行った津軽行脚〝平成の和田家文書調査〟から30年を経ました。初めて調査に同行したとき、先生は六七歳でした。そのおり、わたしに言われた言葉があります。

 「偽作キャンペーンが今でよかった。もしこれが10年後であったなら、わたしの身体は到底もたなかったと思う。」

 このときの先生の年齢に、わたしはなりました。貴重な証言をしていただいた津軽の古老たち、和田喜八郎さん、藤本光幸さん、そして古田先生も他界され、〝平成の調査〟をよく知る者はわたし一人となりました。後継の青年たちとともに、〝令和の和田家文書調査〟をこれからも続けます。〟

 当号の一面には竹田侑子さん(弘前市、秋田孝季集史研究会々長)の「消えた俾弥呼(1) 似て非なる二字 黄幢と黄憧」が掲載されていました。〝令和の調査〟で、お世話になった日々を思い起こしながら拝読しました。


第3166話 2023/11/27

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(2)

 飛鳥宮跡は三期の遺構からなっており、今回のⅠ期に属する長大な塀跡の出土を知り、〝やはりあったのか〟とわたしは思いました。Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮と考えられており、七世紀前半に遡る王宮遺構となるのですが、これまでは飛鳥宮跡からはあまり出土していませんでした(上層のⅡ期・Ⅲ期の遺跡保存のため、下層のⅠ期遺構の調査が進んでいない)。今回の出土は、文献史学や金石文の解釈にも影響を及ぼす、重要な発見です。このことについて説明します。

 報道やその後入手した橿原考古学研究所の報告にある、塀跡が45m以上という長大で、その向きが南北正方位ではなく、東に対して北に25°の振れを持っている点に、わたしは注目しています。これは、Ⅰ期の宮域が広域であり、当地の権力者の宮殿の規模にふさわしいことと、南北正方位ではないことは七世紀前半の特徴を示しています。ちなみにⅡ期・Ⅲ期の遺構は南北正方位であり、七世紀中頃から後半の特徴を示しています。

 こうした出土事実から、この塀跡を舒明天皇の飛鳥岡本宮に関わるものと判断されています。また、柱を据える穴は一辺1m以上あり、重要な建物などを区画する堅牢な塀跡とみられることも、この判断の根拠の一つとなっているようです。更に、柱穴には焼けた土や炭化物(灰)が残り、飛鳥岡本宮が636年に火災で焼けたという『日本書紀』の記述(注)と対応していることも、こうした判断を裏付けています。

 文献史学の視点からしても、法隆寺火災記事(670年)、前期難波宮火災記事(686年)と同様に、焼けてもいない飛鳥岡本宮が焼けたなどと『日本書紀』編者が記す必要性はなく、『日本書紀』の火災記事と今回の出土事実が一致していることは重要です。なぜなら、七世紀前半の飛鳥宮に関する『日本書紀』の記事の信憑性が、低くはないことを示唆するからです。

 木下正史さん(東京学芸大名誉教授・考古学)が、「舒明天皇の飛鳥岡本宮はこれまで状況が分からなかったが、長大な塀跡が見つかったことで宮がかなり広範囲に及んでいたことが考えられる。塀全体に焼けた痕跡があり、宮の大部分が焼けるほどの火災だったのではないか」とするのも、無理のない解釈と思われます。(つづく)

(注)『日本書紀』舒明八年条に次の記事が見える。
「六月、岡本宮に災(ひつ)けり。天皇、遷(うつ)りて田中宮に居(ま)します。」


第3165話 2023/11/26

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(1)

 「飛鳥からすごい遺構が出た」との一報に接したのは、多元的古代研究会主催の古代史研究会(2023.11.24)でのこと。司会の藤田隆一さんから教えて頂いたものです。その後、WEBで調べたところ、産経ニュース(2023/11/22)が最も詳しく報道されていたようですので、要約して、転載します。

【以下、要約して転載】
2023/11/22 産経ニュース
飛鳥で長大な塀跡発掘
舒明天皇の「飛鳥岡本宮」か
歴代天皇の宮も一括で出土

 飛鳥時代に歴代天皇の宮が相次いで築かれた飛鳥宮跡で、7世紀前半の長さ45mにわたる塀跡が見つかり、橿原考古学研究所が22日、発表した。舒明天皇が政治を行った「飛鳥岡本宮」の内部を区切る塀と判明。同宮で大型の遺構が見つかったのは初めて。皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」や天武・持統天皇の「飛鳥浄御原宮」に関わる大型建物跡なども出土。天皇の代替わりごとに建て替えられた宮が一括して見つかるのは、極めて珍しい。

 飛鳥岡本宮に関わる塀跡は、柱の穴が南西から北東へ長さ45mにわたって延びているのを確認。柱を据える穴は一辺1m以上あり、重要な建物などを区画する堅牢な塀跡とみられる。同宮は、西側を流れる飛鳥川の地形に合わせて、東西軸に対して北へ20度ほど斜めに設計され、今回の塀跡も同じ方向に延びていた(注)。柱穴には焼けた土や灰が残り、同宮が636年に火災で焼けたという日本書紀の記述と合致した。

 飛鳥宮跡は、飛鳥岡本宮(Ⅰ期)、蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変(645年)の舞台の飛鳥板蓋宮(Ⅱ期)、斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮、同宮を拡張した飛鳥浄御原宮(Ⅲ期)がほぼ同じ場所に築かれたのが特徴。この一帯は昭和35年から約190回にわたって発掘されてきたが、Ⅰ~Ⅲ期の宮の遺構が同時に見つかる例はほとんどなかった。飛鳥板蓋宮以降は、建物がすべて南北方向に並ぶように統一されており、今回の発掘では、飛鳥板蓋宮に設けられた石組み溝(長さ6m)、飛鳥浄御原宮に関わる大型建物跡(東西21m、南北6m)などが出土した。

 木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)の話 「舒明天皇の飛鳥岡本宮はこれまで状況が分からなかったが、長大な塀跡が見つかったことで宮がかなり広範囲に及んでいたことが考えられる。塀全体に焼けた痕跡があり、宮の大部分が焼けるほどの火災だったのではないか」
【転載終わり】

(注)橿原考古学研究所の報告書には、「柱筋は東に対して北に25°の振れを持っている」とある。


第3164話 2023/11/24

深津栄美さんの思い出と遺品

 多元的古代研究会の会誌『多元』178号に深津栄美さんの訃報が掲載されていました。古田先生のご紹介で深津さんとは昭和薬科大学で一度だけお会いしたことがあります。また、『古田史学会報』に小説「彩神(カリスマ)」を十年にわたり連載していただきました(3~62号)。同連載は古田先生のお薦めによるものでした。論文だけではなく、九州王朝説をテーマにした読み物も掲載するようにとのことで、執筆者として深津さんを推薦されました。そうした御縁により、度々、お手紙や、春にはご近所の桜の写真を送っていただきました。
昨年十月には、古田先生との初めての出会いなどが記された日記二冊(「1989~91」、「平成3年~5年」)と「古田先生聴講記① 平成3年4月~5年12月」一冊が送られてきて、それらは深津さんの遺品となりました。おそらく、自らの死期を悟り、わたしに託したのではないかと思っています。

 訃報に接し、遺品の整理をしていましたら、平成3年(1991)8月に開催された〝「邪馬台国」徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として― 古代史討論シンポジウム〟の案内ポスター(B4版)と同「趣意書」がありました。同シンポジウムは古田先生(東方史学会)が主催したもので、資金集めから企画立案、関係者との交渉など、先生が押し進められたものです。「趣意書」はわたしが持っていなかったもので、今では貴重な資料です。古田先生や深津さんのご遺志に応えることにもなると思いますので、ここに同文の一部を抜粋し、その要旨を紹介します。

 「邪馬台国」徹底論争 古代史討論シンポジウム 趣意書(抜粋)

 わが国の先祖の歴史は晦冥の中にある。――研究の途次、そのように感ずること、稀ではありません。
その原因の一焦点が、いわゆる「邪馬台国」問題にあること、周知の通りです。近畿説・九州説その他各説競いながら、なお、日本国民の歴史教養の一致点を見出せずにいること、後代に対して、わたしたちの時代の責務を果たしていると、敢然として言いうるでしょうか。
〔中略〕

 けれども、遺憾なことに、歴史学界の名において、純学術的に当問題を一定期間、討議する、そういう機会を見なくなって、すでに久しいのです。
かつて故長沼賢海氏(九州大学名誉教授)は、次のように指摘されました。
「昔、志賀島出土の金印について、偽作説がでた。そこで真偽対立をめぐって大学内外の学者、一般の書家、金工細工師の方々をお招きして、朝から晩まで連日にわたって討論した。そして真作への帰趨を得たのである。今、なぜ、「邪馬台国」についても、それをやらぬか」

 九十歳の明治人の気迫あふれる叱咤とお聞きしました。〔中略〕立論の正面きっての対立を尊び、在官・在野を一切問わず、その身分(職業・性、等)を片鱗も区別せず、連日徹底した討論を行い、記録して永遠の後世に残す。この切実な企画を、ささやかな一隅の力にすぎませんが、敢えて今回も行うことを決意致しました。〔後略〕

 平成三年二月十五日
昭和薬科大学文化史研究室(東方史学会)
教授 古田武彦
助手 原田 実


第3163話 2023/11/21

三十年前の論稿「二つの日本国」 (14)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「七、結び」を転載します。本稿最後の部分になります。本稿は横田幸男さん(「古田史学の会」インターネット担当)により、「古田史学の会」のアーカイブに収録されることと思います。拙稿に限らず、古田学派の論文はデジタルアーカイブとして後世に伝えたいと願っています。

 【以下転載】
七、結び

 以上、本稿において私は『三国史記』の記述を信じて、そこから得た日本国=九州王朝という視点から、他史料への読解を試みた。かかる方法が真に有効かどうか、検証すべき論点はまだ残されていよう。たとえば『三国史記』新羅本紀そのものの検証もその一つかもしれない。しかし、私は次のような理由から新羅本紀の信憑性は低くないと考えている。すなわち、新羅と九州王朝は永く交戦状態にあり、互いに相手国に対する情報の正否は国家にとって死活問題であったはずだ。この要求、相手国の正確な情報収集は、隣国であるがゆえに緊急かつ重要であり、この点においては中国以上の切実さを帯びていたこと、これを疑えないのである。更に細かくこの関係を新羅側から見れば、大和なる近畿天皇家よりも九州王朝こそ、地理的にも直面する最大の宿敵であり国難の根源であった。そうした意識は『三国史記』『三国遺事』の随所に見られる。一例を示そう。

 海東の名賢安弘が撰せる東都成立記に云わく。新羅の第二十七代は、女王が主と為る。道有りといえども威なし。九韓、侵労す。若し竜宮の南の皇竜寺に九層の塔を建てれば、則ち隣国の災を鎮む可からん。第一の層は日本、第二の層は中華、第三の層は呉越。〈『三国遺事』塔像第四、皇竜寺九層塔条〉

 ここでいう女王とは善徳女王(六三二~六四六)である。この時代、新羅にとって日本はアジアの大国中国よりも国家の災いとされていたのであろう。こうした認識が、近畿天皇家が列島の代表者となった八世紀以後においても、九州王朝を自らの史書に記し続けた遠因となったのではなかったか。してみると、『三国史記』と『旧唐書』における日本国の実態の違いは、その国がおかれた切実な状況の反映であったとも言える。かかる理由において、わたしは新羅本紀における倭国・日本国記事、その史実性を明確な根拠なくして拒否してはならないと考えたのである。
史料はその史料の文脈で理解すること、この格率こそ、本稿の因ってたった規範であったが、その帰結として本稿で主張したところを再度記す。

 ①『三国史記』に見える倭国と日本国は同一国である。
②その国号変更時期は同書の記すとおり六七〇年であり、これを倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への中心権力交替記事と見なすことは不当である。
③『三国史記』によれば八~九世紀においても九州王朝(日本国)は新羅にとって無視しえぬ国家として存在していたと考えられる。
④ ③の事実を認めなければ理解できない記事が内外の史料に存在すること。

 以上のとおりであるが、同時に、八~九世紀における九州王朝が「国家」の体をなしていたかどうか、近畿天皇家による九州支配との二重権力構造をどのように表現あるいは理解すべかきなど、なお検討を要することが少なくない。更に、『続日本紀』における新羅との国交記事などの分析は今後の課題として残されたままである。この様に弱点を含んだ拙稿ではあるが、未だ古田武彦氏も深く論究されていない未踏の研究分野でもあることから、あえて一試論として蛮勇をもって記した次第である。
「孤立を恐れず、論理に従いて悔いず。一寸の権威化も喜ばず」とは古田武彦氏の言である。思うに、この言葉に導かれて本稿は成立し得た。学恩に感謝しつつ筆を擱くこととする。(おわり)
【転載おわり】