難波朝廷(難波京)一覧

難波朝廷(難波京、前期難波宮)は、九州王朝の副都と考えられます

白雉改元の宮殿 — 「賀正礼」の史料批判―(会報113号、二〇一三年六月)
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho116/kai11603.html

「畿内を定めたのは九州王朝か ―すべてが繋がった―」服部静尚
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjit18/kinaisah.html
『古代に真実を求めて — 盗まれた「聖徳太子」伝承』より

第2605話 2021/10/31大化改新詔「畿内の四至」の諸説(1)
http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/wi-empire-kyushu-dynasty/post-9531/

第3274話 2024/04/21

高橋工氏の

  「前期難波宮孝徳朝説批判への批判」

 4月6日の「古田史学の会・関西」遺跡巡りの特別企画として、高橋工さん(大阪市文化財協会)をお招きして、難波宮発掘調査の最新状況についてのお話しをうかがうことができました(注①)。高橋さんは難波京条坊を最初に発見した考古学者です。実証的発掘調査研究を主領域とする考古学界において、氏はものごとを極めて論理的に考察される研究者で、わたしが尊敬する考古学者のお一人です。

 講演の終わりの方で次のことが書かれたスライドが映し出され、驚きました。

「5 孝徳朝(前期)難波宮説批判への批判
70年代に前期難波宮内裏の構造が明らかになるにつれ、この宮跡が孝徳朝(7世紀中葉)に遡ることがわかってきた。『日本書紀』に登場する難波長柄豊碕宮である。しかし、主に文献史学(古代史)の研究者から前期難波宮は天武朝(7世紀後葉)より古くはならないという批判が出た。理由は、孝徳朝にはこのように大規模な宮殿を必要とする官僚制度(およびそれを規定する成文法)がなかったとする考えによる。

 しかし、その後約30年間に行われた発掘調査では、遺構の年代が7世紀中葉を示す発見が積み上げられ、前期難波宮が孝徳朝の難波長柄豊碕宮である蓋然性は高まっていった。そして、ついに2000年、府警本部の発掘調査で「戊申年(749年)」を記した木簡が出土したことで、このことは証明されたと私達は考えている。

 ところが、ここ数年で、やはり孝徳朝説を否定する論文が続けて発表された。この論文では難波宮下層を孝徳朝難波宮に比定している。遺構考古学的にはこの殆どを論破することが可能であるが、根本には大化改新を史実性を低く評価し、巨大な前期難波宮が文献に現れた官僚制度とつりあわないとみる一部の文献史学者の考え方がいまだに根強く残っているということであろう。
では、文献との整合性を重視するのであれば、日本書紀白雉三(652)年に長柄豊碕宮の完成を記された「秋九月、造宮已訖、其宮殿状不可殫論」の評価に相応しい宮殿が他にあることを示す必要があろう。」

 この高橋さんの反論は近畿天皇家一元史観に基づく通説に依っていますので、全てに賛成するわけではありませんが、前期難波宮が7世紀中葉の造営とする見解は大賛成ですし、〝「秋九月、造宮已訖、其宮殿状不可殫論」の評価に相応しい宮殿が他にあることを示す必要があろう〟という反論も当然の指摘です。

 他方、わたしは未だに「前期難波宮孝徳朝説」(正確には前期難波宮7世紀中葉造営説)に反対する論文が発表されていることに驚き(注②)、「誰の論文でしょうか」とたずねたところ、「橿原考古学研究所の泉さんです」とのこと。存じ上げない名前でしたので、早速、調べてみることにしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3266話(2024/04/08)〝高橋工氏の難波宮最新報告を聴講〟
②古田学派内でも、前期難波宮を天武の造営とする見解が、大下隆司氏より発表されてきた。ところが、昨年、孝徳朝造営説に変更したと、同氏は多元的古代研究会のリモート研究会において、同会の和田事務局長の質問に対して答えられていた。論文による変更理由の説明がなされるものと期待している。


第3266話 2024/04/08

高橋工氏の難波宮最新報告を聴講

 一昨日、「古田史学の会・関西」の遺跡巡りがあり、その最後に高橋工さん(大阪市文化財協会)をお招きして、難波宮調査の最新状況をお聞きするという企画がありました。久しぶりに大阪歴博を訪問し、近くのマンションの集会所で高橋さんのお話を聞くことができました。

 高橋さんは難波京条坊を初めて発見した考古学者で、その主張は優れて論理的で、わたしが尊敬する考古学者の一人です。今回のお話しでは、次の三点の興味深い知見が示されました。

1. 難波京条坊・朱雀大路の造営は、前期難波宮が創建された孝徳朝から始まっており、その後、徐々に宮殿から南へ延伸した。朱雀大路から堺市方面(今塚遺跡)へ真南に伸びる難波大道の設計(グランドデザイン)は孝徳期に作られたと考えられる。

2. 前期難波宮内裏北側から大型宮殿(東脇殿)の一端が昨年3月に出土した。その規模は既に出土している内裏後殿よりも大きいと見られ、天皇の内裏にふさわしい(注①)。

3, 前期難波宮孝徳朝説への新たな批判が泉武氏(橿原考古学研究所)より出されたが、考古学的にも反論可能と考えている。

 特に3の批判が今も続いていることに驚きました。このことを知り、早速、泉さんの論文を拝読しました(注②)。難解な考古学論文ですので、もう二~三度は精読する必要がありますが、一読して感じたのは、今までにはない新たな視点と論理構築であり、通説の考古学者には反論が難しいように思いました。しかし、その主要論点こそ、前期難波宮九州王朝王宮説にとって有利なものであることに気づきました。このことについて、稿を改めて紹介します。

 最後に、高橋さんのお話を聞く機会を企画された上田武さん(古田史学の会・関西例会担当)に感謝いたします。

(注)
①「前期難波宮の内裏の発掘調査で重要な区画を発見!」『葦火』210号、大阪市文化財協会、2023年7月。
②泉武「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古學論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。


第3245話 2024/03/08

藤原宮(京)造営尺の再検討 (2)

 大阪歴博の李陽浩(リ・ヤンホ)さんの論文「第1節 前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」(注①)によれば、藤原宮朝堂院の中軸線の振れはN0゜38’31″E、造営尺の値は1尺=0.291~0.2925mとのことで、その出典は「奈良文化財研究所2004」とありましたので、『奈良文化財研究所紀要 2004』(注②)を精読しました。同紀要に収録された「朝堂院東南隅・朝集殿院 東北隅の調査 ―第128次」に、箱崎和久氏による報告がありましたので、要点を抜粋します。

「朝堂院東南隅・朝集殿院
東北隅の調査 ―第128次
(中略)
これまでの朝堂院の調査成果をふまえて朝堂院全体の配置計画を考えてみたい。朝堂院の振れには、本調査で得たN0°38′31″Wを用いる。(中略)
朝堂院北面回廊棟通り(表14-B)から第一堂北妻(表14-C)までの距離は29.2mで、第107次調査では、これを100尺と解釈した(『紀要2001』)。このとき、単位尺は1尺=0.292mとなる。第二堂北妻(表14-D)は、朝堂院北面回廊棟通り(表14-B)から84.6mだが、1尺=0.292mを援用すると289.8尺が得られる。これは290尺に相当しよう。これらは大尺を用いると完好な数値を得られない。(中略)朝堂院の全長は1102尺となる。これを1100尺とみて、南北長321.3mから単位尺を求めると、1尺=0.2921mが得られる。
これは朝堂院の南北長を900大尺(1080尺)と想定した場合よりも、朝集殿院の単位尺1尺=0.2925mに近い。
このように建物配置に関係する北面回廊棟通りからの第一堂北妻、第二堂の北妻の距離、朝堂院の南北規模といった地割りは、大尺では完好な数値を得られず、むしろ単位尺を1尺=0.2910~0.2925とする尺(令小尺)の方が合理的に説明できる。(中略)
以上のように、現段階の発掘データでは、朝堂院の規模と朝堂の配置は、尺(令小尺)の方が完好な計画値を得られる。」

 この報告の結論部分「単位尺を1尺=0.2910~0.2925とする尺(令小尺)の方が合理的に説明できる」を李さんは紹介されたのですが、この数値から判断して、藤原宮造営尺が前期難波宮造営尺(1尺=29.2㎝)と同じである可能性が高いと思われました。そうであれば次のことが想定できます。

(1) 前期難波宮整地層からの主要出土須恵器は坏GとHであり、藤原京整地層からの主要出土須恵器は坏Bであることから、両者の造営時期が『日本書紀』の記事(前期難波宮創建652年。藤原宮遷都694年)と整合している。従って、両宮殿の造営時期には約40~50年の隔たりがあるが、同じ造営尺が採用されている。両条坊造営尺(1尺=29.5㎝)も同様。

(2) 他方、670年頃と考えている大宰府政庁Ⅱ期の造営では、1尺=29.4㎝と30㎝(条坊造営尺)の併用が判明しており(注③)、前期難波宮・藤原宮造営尺と異なっている。

 今までは、前期難波宮(652年創建、29.2㎝)→大宰府政庁Ⅱ期(670年頃、29.4㎝)→藤原宮(694年遷都、29.5㎝)と、1尺が時代とともに長くなるという一般的傾向に対応していると考えてきましたが、それほど単純ではないようです。この現象をどのように説明できるのか、新たな課題に直面しました。〝学問は自説が時代遅れになることを望む領域〟というマックス・ウェーバーの言葉(注④)を実感しています。

(注)
①『難波宮址の研究 第十三』大阪市文化財協会、2005年。
②『奈良文化財研究所紀要 2004』奈良文化財研究所、2004年。
③古賀達也「九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―」『古田史学会報』174号、2023年。
同「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
④マックス・ウェーバー(1864-1920)『職業としての学問』(岩波文庫)1917年にミュンヘンで行われた講演録。
古賀達也「洛中洛外日記」2876話(2022/11/14)〝自説が時代遅れになることを望む領域〟


第3244話 2024/03/07

藤原宮(京)造営尺の再検討 (1)

 難波京条坊研究のため、関連報告書の再精査をしていて、わたし自身の認識の見直しを促す重要な指摘に気づきました。大阪歴博の古代建築の専門者、李陽浩(リ・ヤンホ)さんの論文「第1節 前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」(注①)の註に見える次の記事です。

 「(3)藤原宮朝堂院における近年の調査成果では、その中軸線の振れはN0゜38’31″Eとされる。また造営尺の検討では、大尺よりも小尺によるほうがより完好な数値を得ることができ、その値は1尺=0.291~0.2925mとされる[奈良文化財研究所2004:pp.98-99]。この藤原宮の中軸線の振れは、前期の振れN0゜39’56″Eと近似し、1尺=0.291~0.2925mという数値は、周知のように、前期難波宮推定造営尺1尺=0.292mにほぼ等しい。これら数値の関係は、前期難波宮と藤原宮との関係を考えるうえにおいて、極めて重要であると思われる。なお、近年韓国双北里では1尺=0.292mあるいは1尺=0.295mと考えられる定規が出土したことが知られる。[李ガンスン2000]。1尺=0.292mによる基準尺の存在を考えるうえで、注目すべき事例と考えられる。」94~95頁

 李さんに初めてお会いしたのは2012年12月、大阪歴博2階の難波塾でした。以来、前期難波宮や土器編年について何かと教えていただきました(注②)。そうしたこともあって、わたしが尊敬する考古学者のお一人です。その2004年の論文で紹介された藤原宮朝堂院の造営尺が同条坊尺の1尺=29.5㎝ではなく、前期難波宮の造営尺1尺=29.2㎝とほぼ同じという指摘に驚きました。藤原宮からは1尺=29.5㎝の定規が出土しており、木下正史『藤原京』(注③)に、次の説明がなされていることから、藤原宮も条坊も共に1尺=29.5㎝で造営されているものと思い込んでいました。

 「藤原宮からは一寸ごとに印をつけた一尺(復元長二九・五センチ)の木製物差しが出土している。長距離の測定や割り付けには間縄(けんなわ)なども使われたはずである。道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが二九・五センチとほぼ一定しており、きわめて精度の高いものであった。」84頁

 この説明をよく読むと、「道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが二九・五センチとほぼ一定」とあって、藤原宮の宮殿そのものの造営尺については触れていないようです。

 李さんの指摘によれば、藤原宮の造営尺は前期難波宮の造営尺29.2㎝に近く、条坊尺は両者ともに29.5㎝尺であり、中軸線の振り方向もほぼ同じという、これらの一致が何を意味するのか深く考える必要がありそうです。(つづく)

(注)
①『難波宮址の研究 第十三』大阪市文化財協会、2005年。
②古賀達也「洛中洛外日記」510話(2012/12/29)〝歴博学芸員・李陽浩さんとの問答〟
同「洛中洛外日記」511話(2012/12/30)〝難波宮中心軸のずれ〟
同「洛中洛外日記」512話(2012/12/31)〝難波宮の礎石の行方〟
同「洛中洛外日記」第756話(2014/08/01)〝森郁夫著『一瓦一説』を読む(6)〟
同「洛中洛外日記」884話(2015/02/27)〝「玉作五十戸俵」木簡の初歩的考察〟
同「洛中洛外日記」1034話(2015/08/23)〝前期難波宮の方位精度〟
同「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)〝塔心柱による古代寺院編年方法〟
同「洛中洛外日記」1905話(2019/05/23)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(1) 四天王寺創建瓦の編年〟
③木下正史『藤原京』中公新書、2003年。


第3232話 2024/02/20

難波京条坊研究の論理 (7)

 「新春古代史講演会2020」での高橋さん(大阪市文化財協会調査課長・講演当時)の講演で、わたしは次の指摘に注目しました。

(1) 前期難波宮は七世紀中頃(孝徳朝)の造営。
(2) 難波京には条坊があり、前期難波宮と同時期に造営開始され、孝徳期から天武期にかけて徐々に南側に拡張されている。
(3) 朱雀大路造営にあたり、谷にかかる部分の埋め立ては前期難波宮の近傍は七世紀中頃だが、南に行くに連れて八世紀やそれ以降の時期に埋め立てられている。

 高橋さんが示された難波京条坊や朱雀大路の造営時期、その発展段階の概要には説得力があります。しかしながら、朱雀大路のグランドデザインや造営過程については、全面的には賛成できません。朱雀大路にかかる谷の埋め立ては八世紀段階以降のものがあるとされますが、他方、遠く堺市方面まで続く「難波大道」の造営を七世紀中頃とする調査結果があり、全ての谷の埋め立ては遅れても、朱雀大路とそれに続く「難波大道」は前期難波宮造営時には設計されていたのではないでしょうか。

 わたしはこのことを、2018年2月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「七世紀の難波から飛鳥への道」で知り、「洛中洛外日記」などでも紹介してきました(注)。

 通説では、「難波大道」の造営時期は『日本書紀』推古二一年(613)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に七世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、2007年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から七世紀中頃の土器(飛鳥Ⅱ期)が出土したことにより、設置年代は七世紀中頃、もしくはそれ以降で七世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉四年(653年、九州年号の白雉二年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとしました。

 この「難波大道」遺構(堺市・松原市)は幅17mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは3mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。この精度の高さは、「難波大道」造営が朱雀大路の南北軸に基づいており、そして朱雀大路は前期難波宮南門を起点としていることによります。そうであれば、出土土器の編年が示すように、朱雀大路と「難波大道」の設計・造営が前期難波宮創建と同時期(七世紀中頃)に始まったと考えざるを得ません。

 以上のように、高橋さんの指摘(2)と安村さんの「難波大道」下層の土器編年が指し示すように、条坊の基準・起点となる前期難波宮から南に延びる朱雀大路とともに条坊都市も七世紀中頃に造営開始されたと考えるのが常識的かつ学問的判断ではないでしょうか。(おわり)

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」1617話(2018/03/01)〝九州王朝の難波大道(1)〟
「九州王朝の都市計画 ―前期難波宮と難波大道―」『古田史学会報』146号、2018年。
同「洛中洛外日記」2068話(2020/01/23)〝難波京朱雀大路の造営年代(3)〟


第3231話 2024/02/19

難波京条坊研究の論理 (6)

難波京の活動期間を初期(孝徳朝)、前期(天武朝)、後期(聖武朝)の三段階に分ける積山説に対して、わたしは、前期難波宮(京)は孝徳没後も列島内最大規模の王都であり、ここをおいて全国の評制統治が可能な規模の王都はないことから、前期難波宮は王都王宮として、朱鳥元年(686年)に焼失するまで、斉明期・天智期も機能していたはずと考えていました。たとえば670年(白鳳十年)に造籍された全国的戸籍「庚午年籍」も前期難波宮の九州王朝(倭国)の中央官僚がその作業に携わったと思われます。

積山説に考古学の分野から疑義を呈したのが佐藤隆さんでした。佐藤さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注①)によれば、孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されています。

同じく大阪の考古学者、高橋工さん(大阪市文化財協会調査課長・当時)も「新春古代史講演会2020」(古田史学の会・共催。注②)で「難波宮・難波京の最新発掘成果」について講演し、難波京条坊と朱雀大路の発掘調査による最新の報告がなされました。特に難波京の条坊の有無についての論争にふれられ、「前期難波宮を造営し、その地を宮都とするのだから、宮都にふさわしい条坊都市が当初から存在したと考えるのが当たり前」という指摘は素晴らしく論理的でした。考古学者からこれほどロジカルな発言を聞くのは初めてのことで、わたしは深く感動しました。

今回、紹介した佐藤さん高橋さんは、難波京発掘調査において日本を代表する考古学者であり、そのようなお二人による最新の見解は重要です。(つづく)

(注)
①佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。
②古賀達也「洛中洛外日記」2066話(2020/01/21)〝難波京朱雀大路の造営年代(1)〟


第3229話 2024/02/16

難波京条坊研究の論理 (5)

 積山説の年代観にわたしも疑問を感じていました。積山説(注①)は難波京を初期(孝徳朝)、前期(天武朝)、後期(聖武朝)の三段階に分けるのですが、前期(天武朝)から後期(聖武朝)までの間の数代の天皇の時代が抜けるのは理解できますが、初期(孝徳朝)と前期(天武朝)の間の斉明・天智の二代が抜けるのは不自然だからです。前期難波宮で執務していた数千人の中央官僚群は、その間、どこで何をしていたとするのでしょうか。

 前期難波宮は朱鳥元年(686年)の火災で焼失したことが『日本書紀』の記事だけでなく、出土遺構も火災の痕跡を示しており、焼失後は、聖武天皇による後期難波宮造営まで王都として機能していません。しかし、前期難波宮(京)は孝徳没後も列島内最大規模の王都であり、ここをおいて全国の評制統治が可能な規模の王都はありません。ですから、前期難波宮は王都王宮として、朱鳥元年に焼失するまで機能していたはずと考えていました。

 したがって、積山説は考古学的出土事実そのものに基づくというよりも、出土事実に対する解釈を『日本書紀』の記事(孝徳天皇没後の中大兄皇子らの飛鳥宮への転居)に基づいたのではないでしょうか。なぜなら、前期難波宮九州王朝王都説によるならば、孝徳没後の近畿天皇家内の記事(事情)と、九州王朝王都である前期難波宮の状況とは別の事柄だからです。とは言うものの、発掘調査報告書から積山説の当否を判断するのは、門外漢のわたしには難しく、実証的な批判は容易ではありませんでした。そのようなとき、この積山さんの理解に疑義を呈したのが佐藤隆さんでした。

 佐藤さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注②)には、文献史学の通説にとって衝撃的な次の指摘がありました。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1~2頁)

 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)

 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が「難波長柄豊碕宮」という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。

 この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされています。白村江戦(663年)での敗北により九州王朝の〝東の都〟難波京は停滞を始めたかもしれませんが、670年(白鳳十年)には全国的な戸籍「庚午年籍」の造籍を行っており、九州王朝の権威や実力が白村江戦敗北により、一気に無くなったということではないように思われます。

 わたしはこれまで難波編年の勉強において、土器様式の変遷に注目してきたのですが、佐藤さんは土器出土量の変遷にも着目され、その事実が『日本書紀』の飛鳥地域中心の記述と「不一致」であることを指摘されました。難波を自ら発掘されてきた考古学者ならではの慧眼です。この佐藤さんの指摘により、難波京の活動は斉明期・天智期にも継続されており、条坊造営も進んでいったと考えています。(つづく)

(注)
①積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
同『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。
②佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。


第3227話 2024/02/15

難波京条坊研究の論理 (4)

  難波京条坊研究において、当初は考古学的調査の過渡期で出土遺構例が充分ではなかったこともあり、たとえば植木久さんの『難波宮跡』(2009年、注①)では、なんらかの方格地割りの施工が七世紀中頃から七世紀末になされた可能性があると表現しています。こうした経緯に基づき、難波京の展開を論じたのが積山洋さんでした。

 積山さんの博士号論文「古代都城と難波宮の研究」(2009年、注②)は、難波京を初期(孝徳朝)、前期(天武朝)、後期(聖武朝)の三段階に分け、初期難波京では宮の外郭ラインを延長するという〝条坊制ではない方画プラン〟が施行されたとします。そして前期難波京では天武天皇の複都制構想のもと、〝方900尺の方画地割〟が部分的に施工され、その後、聖武天皇が天武天皇の意志を継いで〝条坊区画〟を伴う後期難波京を造営したとします。この理解は『日本書紀』や『続日本紀』の記事を前提(史実)として考古学的知見を当てはめたもので、基本的に一元史観の文献史学の通説を是とする立場と方法に立脚しています。

 博士号論文の四年後に出された『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』(注③)では、増加した発掘調査による知見も取り入れ、本格的に条坊が整備され始めるのは前期難波京(天武朝)であり、藤原京と併行するとしています。この積山説はほぼ定説となりました。

 この積山説の年代観に疑義を呈したのが佐藤隆さんでした(注④)。佐藤さんも「古田史学の会」で講演(注⑤)していただいたことがある大阪市の考古学者で、その優れた諸論文、なかでも「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注⑥)をわたしは高く評価し、古田学派研究者や古田説支持者にくり返し紹介してきました(注⑦)。(つづく)

(注)
①植木久『難波宮跡』同成社、2009年。
②積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
③積山洋『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。
④佐藤隆「古代難波地域における開発の諸様相 ―難波津および難波京の再検討―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第17号、2019年。
⑤佐藤隆氏(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」、新春古代史講演会2022。1月15日、会場:i-site なんば(大阪府立大学難波サテライト)。
⑥同「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。
⑦古賀達也「洛中洛外日記」1406話(2017/05/27)〝大阪歴博『研究紀要』15号を閲覧〟
同「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟
同「前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証」『東京古田会ニュース』175号、2017年。
同「洛中洛外日記」1906話(2019/05/24)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)“七世紀後半の難波と飛鳥”〟
同「『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》」『古田史学会報』153号、2019年。
同「洛中洛外日記」2600話(2021/10/22)〝佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(2)〟
同「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」『東京古田会ニュース』203号、2022年。
同「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、2023年。


第3226話 2024/02/14

難波京条坊研究の論理 (3)

 難波京(前期難波宮)には条坊があったとする、わたしの論理的予察が条坊跡出土により立証されましたが、わたしには、もう一つの重要な検証テーマがありました。それは、難波京の条坊造営が開始されたのはいつ頃からかという問題でした。

 前期難波宮を九州王朝の王都王宮とするわたしの仮説からすれば、あるいは一元史観の通説に立っても、その宮殿や官衙は全国を評制統治するために造営したのであり、そうであれば大勢の中央官僚やその家族、そしてその生活を支える商工業者が居住可能な巨大条坊都市が成立していなければならず、王宮・官衙と同時期に条坊都市設計・造営がなされたはずと考えていました。列島内最大規模で初の朝堂院様式の宮殿・官衙と、そこで執務する多数(数千人)の中央官僚とその家族の居住施設を、同時に設計・造営するのは当然のことではないでしょうか。古代史学が空理空論でなければ、そう考える他ありません。ですから、前期難波宮には条坊都市が伴っていたはずと、わたしは確信していました。この確信は、古田先生から学んだソクラテスの言葉〝論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも〟という学問精神に支えられていました。

 他方、難波京条坊の造営を聖武期(注①)、後に天武期(注②)からとする積山洋さんの説が発表され、有力視されてきました。難波を発掘調査してきた積山さんの研究と経験に基づく仮説ですから、考古学の専門家でもないわたしにとって、克服すべき大きな課題となったのです。(つづく)

(注)
①積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
②同『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。


第3225話 2024/02/13

難波京条坊研究の論理 (2)

 難波京(前期難波宮)には条坊があったはずとする、わたしの論理的予察に条坊跡の出土事実という実証が後追いしました。「古田史学の会」関西例会で、前期難波宮九州王朝王宮説を口頭発表したのは2007年ですが(注①)、その後、次の条坊跡の発見が続いたのです。ちなみに、最初に条坊跡(当時は用心深く「方格地割」と表現)を発見されたのは高橋工さんで、「古田史学の会」で講演していただいたこともある、大阪を代表する考古学者の一人です(注②)。

 1.天王寺区小宮町出土の橋遺構 (『葦火』No.147、2010年)
2.中央区上汐1丁目出土の道路側溝 (『葦火』No.166、2013年)
3.天王寺区大道2丁目出土の道路側溝跡 (『葦火』No.168、2014年)

 以上の3件ですが、いずれも難波宮や地図などから推定した難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの発見により難波京に条坊が存在したとする見解が有力となりました。とりわけ2の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層は前期難波宮の頃のものと判断されており、七世紀中頃の前期難波宮造営に伴って、条坊造営も開始されたことがうかがえます。もちろん、上町台地の地形上の制約から、太宰府や藤原京のような広範囲の整然とした条坊完備には至っていないと考えられています。
条坊跡の出土を受けて、それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次の批判を避けられないとわたしは論じました(注③)。

 第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第二に、中央区上汐1丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第三に、天王寺区大道2丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

 このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」です。しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」154話(2007/12/08)〝難波宮跡に立つ〟。論文発表は、2008年(「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号)。
②高橋工氏(大阪市文化財協会調査課長・当時)「難波宮・難波京の最新発掘成果」。新春古代史講演会2020。1月19日、会場:アネックスパル法円坂(旧大阪市教育会館。難波宮跡の東隣り)。
③古賀達也「洛中洛外日記」683話(2014/03/26)〝難波京からまた条坊の痕跡発見〟
「条坊都市『難波京』の論理」『古田史学会報』123号、2014年。


第3224話 2024/02/12

難波京条坊研究の論理 (1)

 わたしが前期難波宮九州王朝王宮説を発表したとき(注①)、同条坊についての研究も始めました。前期難波宮を、九州王朝(倭国)が全国を評制により統治した「副都」(注②)とわたしは捉えていましたので、そうであれば九州王朝の都、太宰府条坊都市(倭京)と同様に条坊を造営したはずと考えていました。当時は条坊跡の出土が今ほど確認されていなかったことと、谷筋が多い上町台地に条坊の施設は困難とする意見が優勢だったように思います。しかし、わたしは条坊の存在を確信していました。それは次のような論理性によります(注③)。

(1)七世紀初頭(九州年号の倭京元年、618年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。

(2)従って七世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。

(3)上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(14朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。

(4)以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 以上は歴史学の論理的予察に属しますが、考古学的出土事実という実証が後追いしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』八五号、二〇〇八年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)に収録。
②発表当初、前期難波宮を九州王朝の副都(首都は太宰府倭京)と理解していたが、後に両京制(複都説)を採用した九州王朝の「東の都(首都)」とするに至った。次の拙論を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
同「柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京―」『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26集)明石書店、2023年。
③同「洛中洛外日記」684話(2014/03/28)〝条坊都市「難波京」の論理〟


第3223話 2024/02/11

考古学における先験的な都市の指標 (2)

 G・V・チャイルド(注①)が提唱した「古代都市」の指標(必要条件)とは次の10基準です(Vere Gordon Childe、The Urban Revolution. The Town Planning Review 21、1950)。

(1)大規模集落と人口集住
(2)第一次産業以外の職能者(専業の工人・運送人・商人・役人・神官など)
(3)生産余剰の物納
(4)社会余剰の集中する神殿などのモニュメント
(5)知的労働に専従する支配階級
(6)文字記録システム
(7)暦や算術・幾何学・天文学
(8)芸術的表現
(9)奢侈品や原材料の長距離交易への依存
(10)支配階級に扶養された専業工人

 この10基準は西アジアの初期「古代都市」の指標(必要条件)ですから、弥生時代や古墳時代以降の日本列島の都市の指標としてはそのまま採用しにくいため、考古学者からは新たな指標が提案されています。南秀雄さんの「上町台地の都市化と繁多湾岸の比較 ―ミヤケとの関連」(注②)には、次の例が紹介されています。

○M.E.スミス氏による初期都市・初期国家形成における根本的プロセス・最重要基準(注③)。〔番号はチャイルドの基準提示純〕
(1)規模と人口密度
(2)恒常的専業者の存在
(3)税の収奪
(5)支配階級の形成
(10)血縁より地縁に基礎をおく国家組織

○エジプト考古学者 M.ビータク氏の9項目。
(1)高密度の住居(1ha当たり5人以上、人口2000人以上)
(2)コンパクトな居住形態
(3)非農業共同体
(4)労働・職業の分化と社会的階層性
(5)住み分け
(6)行政・裁判・交易・交通の地域的中心
(7)物資・技術の集中
(8)宗教上の中心
(9)避難・防御の中心

 このように考古学分野では「世界的標準」を学問の方法に採用したり、配慮しながら研究や自説の構築を進めています(注④)。こうした姿勢を古田学派でも自説の構築・検証に取り入れるべきではないでしょうか。

 わたしが提起した〝7世紀における律令制都城の絶対5条件〟とは、九州王朝(倭国)による律令制(評制)統治に不可欠な条件を、史料(エビデンス)が豊富な8世紀の大和朝廷(日本国)における律令制統治の実態から抽出したものです。そして、それら5条件はそれぞれ独立しているが、〝系〟として互いに必要不可欠な条件として連結していることを重視しました。

【律令制王都の絶対5条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

この10年、古田学派内で続いてきた、7世紀での九州王朝(倭国)の王都王宮の所在地論争を収斂させるための問題提起でもありますので、特に前期難波宮の九州王朝王宮(複都の一つ)説に反対する九州王朝説論者の真正面からの批判・批評を願っています。

(注)
①G・V・チャイルドについて、ウィキペディアの解説を転載する。
ヴィア・ゴードン・チャイルド(Vere Gordon Childe、1892年4月14日~1957年10月19日)は、オーストラリア生まれの考古学者・文献学者。ヨーロッパ先史時代の研究を専門とし、新石器革命(食料生産革命)、都市革命を提案した。また、マルクス主義の社会・経済理論と文化史的考古学の視点を結合させ、異端視されたマルクス主義考古学(英語版)の提唱者でもある。
②南秀雄「上町台地の都市化と繁多湾岸の比較 ―ミヤケとの関連」『大阪文化財研究所紀要』第19号、2018年。
③SMITH.E.Michael (2009)‘V.Gordon Childe and the Urban Revolution : a historical perspective on a revolution in urban studies’,Town Planning Review,80(1) (訳:南秀雄、「V.ゴードン・チャイルドと都市革命―都市研究の革命に対する歴史学的展望」『大阪文化財研究所紀要』第18号、2017年)
④古代都市論の諸研究について、小泉龍人「都市論再考 ―古代西アジアの都市化議論を検証する―」(『ラーフィダーン』第XXXIV巻、2013年)で簡潔に紹介されており、参考になった。