難波朝廷(難波京)一覧

第3302話 2024/06/12

難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (1)

 昨日、書架整理のため不要となった蔵書をご近所の古書店に売却し、そのお金で山根徳太郎著『難波の宮』(学生社、昭和39年)を購入しました。60年前の古い本ですので、最新発掘調査に基づく研究論文執筆に役立つこともないと思い、これまで読もうともしなかったのですが、気になってはいたので今回買って読みました。

 難波宮発掘と遺構保存に至る山根徳太郎さんのご苦労は、大阪歴博の特別展(注)などで知ってはいたのですが、同書を読んで、発掘費用不足や学問的に有力な批判に山根さんが苦しんでいたこともよくわかりました。
同書には、発掘費用調達に山根さんが苦しんでいたとき、教え子たちから寄附がよせられた逸話が次のように記されており、わたしも胸が熱くなりました。

〝このように、掘りだすたびに、一歩一歩と「難波の宮」の全貌が、大阪の中心部、法円坂町の台地上に浮かびあがろうとしている。しかし、一方、世間の人のなかには、まだまだこれらの成果をまったく認めない人も多い。学者のなかでも、現在までの成果では、難波の宮と認めず、わたしたちの努力を否定しようとされる方も少なくなかった。(中略)

 わたしは何といわれようとも、学問的成果には、深く心に期するところがあったが、ホトホト弱ったのは、研究資金の不足であった。(中略)

 そのころ、昭和三十一年十月十日の日、京都のわたしの宅に史泉会(大阪商大関係の歴史研究者の会)の古い会員の方が見えて、なつかしい昔話の後、封筒をわたしの前にさし出した。

 「先生、これは先生が難波の宮の発掘資金にお困りになっているのをみかねて、教え子たちが持ち寄ったものです。どうぞ発掘のお役に立ててください」(中略)

 「それはありがたいが、いったい誰がそのようなお金をくれたのか、知らせてほしい。名前を教えてくれ、でないとぼくは受取れない」(中略)

 この後、わたくしは、それらの人に会うたびに名前を知らせてくれるように、幾たびか申出た。そして翌三十二年の八月になって、やっと醵出者名簿が送られてきた。開いてみると、みな教え子ばかりで、一五〇人の名が記されていた。一人一人涙をおしぬぐいながら名簿を見つづけていたところ、その中の一人に、豊子という婦人の名前がある。その御主人はよく知っていた人であるが、さきごろ交通事故で世を去られた方である。その人の未亡人で、遺児を抱えて苦労していると聞いていた。そのような方まで募金に応じてくださると知っては、もはやわたくしには堪えられることではない。このようなことにならねばならないのならば、研究は止めにする。「どうぞこのような浄財の募集はしないようにして下さい」と、恒藤先生(大阪商大学長)にお願いしたことであった。(中略)

 このように浄財の寄進によって、昭和三十二年八月十二日から十月三十日までに実施した、第七次発掘には、じつに予想外の大きな成果があがった。近世大阪の発祥と目すべき石山本願寺の発見である。〟140~143頁(つづく)

(注)難波宮発掘調査60周年記念 特別展 大阪遺産難波宮 ―遺跡を読み解くキーワード― 大阪歴史博物館 平成26年(2014)


第3293話 2024/05/29

『東京古田会ニュース』216号の紹介

『東京古田会ニュース』216号が届きました。拙稿「古代都市成立の指標 ―都城論争の収斂を求めて―」を掲載していただきました。同稿では、昨年11月の八王子セミナーで発表した律令制都城の〝絶対条件〟として次の5点を示し、少なくともこれら全てを満たす七世紀の都城は難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)だけと結論づけました(注①)。

【律令制王都の絶対5条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

さらに「古代都市」の指標(必要条件)として提唱された〝G・V・チャイルドの古代都市成立の十基準〟(注②)などを紹介しました。そして、日本古代史が空理空論でなければ、研究者が合意できる「律令制都市存立の必要条件」と、誰もが知りうる「考古学的出土事実」にのみ基づいて、九州王朝都城を探るべきと主張しました。
『東京古田会ニュース』216号掲載記事で注目したのが、つぎの遺跡巡り旅行記でした。

○大宮姫伝承を訪ねて 東久留米市 村田智加子
○和田家文書をみちづれに「和田家文書と国東半島」の旅行に参加して 白井市 讃井優子

当地の状況が目に浮かぶような旅行記です。なかでも村田さんが紹介された鹿児島県の大宮姫伝承の報告は懐かしく拝読しました。わたしは学生時代に指宿市や枕崎市を旅行した経験もあり、初めて書いた長文の論文が「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」(注③)だったこともあり、とても印象深い旅行記でした。
会員の皆さんからの『古田史学会報』への遺跡巡り報告の投稿をお待ちしています。

(注)
①同セミナーでのわたしの演題と論旨は次の通り。
《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―
《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。
②Vere Gordon Childe (1950),The Urban Revolution. The Town Planning Review 21.
③古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。


第3292話 2024/05/27

二つの「白雉元年」と難波宮 (4)

  ―九州王朝の「白雉元年二月条」―

 『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650年)二月条の白雉改元記事は、九州王朝により九州年号の白雉元年(652年)二月に行われた改元の行事を記した九州王朝系史書からの転載(盗用)と思われます。同記事の内容もそのことを示しています。それは次の二点です。

(1) 改元記事には九州王朝への「人質」となっていた百済王子豊璋等の名前が見える。
〝甲申(15日)、朝庭の隊仗、元會儀の如し。左右大臣・百官の人等、四列を「紫門」の外に為す。(中略)左右大臣乃(すなわ)ち、百官及び「百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝」・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率いて、「中庭」に至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を殿前に進ましむ。〟

(2) 応神天皇の時代に白烏が宮に巣を作ったという吉祥や、仁徳天皇の時代に龍馬が西に現れたという記事などが特筆されているが、いずれも記紀の同天皇条には見えない事件であることから、これらも九州王朝系史書にあった記事と思われる。
〝詔して曰く「聖王、世に出(い)でて天下を治める時、天則(すなわち)ち應えて其の祥瑞を示す。曩者(むかし)、西土の君、周の成王の世と漢の明帝の時に白雉爰(ここ)に見ゆ。我が日本國、譽田天皇の世に白烏宮に樔(すく)ふ。大鷦鷯帝の時に龍馬西に見ゆ。(後略)」〟

 このように難波に九州王朝が都(太宰府倭京と難波京の複都制)を造り、諸行事を執り行ったことにより、それら九州王朝の事績が『日本書紀』孝徳紀に詳しく取り込まれたと思われ、同時に孝徳自身が賀正礼や改元の儀に臣下の一人として出席していたと考えざるを得ません。

 二つの「白雉元年」という史料事実は、こうした歴史の真実に迫る上で重要なエビデンスであり、視点であることをご理解いただけるものと思います。なお、このエビデンスと視点は、二つの「大化年号」研究でも重要であり、このことは古田先生や、近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)をはじめ少なからぬ古田学派研究者が「大化改新詔」研究として発表されてきたところです。(おわり)


第3291話 2024/05/26

二つの「白雉元年」と難波宮 (3)
―切り取られた白雉三年二月条―

 『日本書紀』の不自然な白雉改元記事は、九州年号「白雉」と一緒に二年ずらして『日本書紀』に転用された痕跡と考えざるを得ないと前話で述べましたが、その明瞭な痕跡が白雉三年(652年)正月条に遺されています。次の不思議な記事がそれです。

〝三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。〟『日本書紀』白雉三年(652年)正月条

 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に二年のずれがあるとすれば、九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(652年)条になければなりません。その孝徳紀白雉三年正月条には「正月より是の月に至るまでに」と意味不明の記事があるのです。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわかりません。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記しています。

 この点、わたしは次のように考えます。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に二月条があったのではないでしょうか。ところが、その二月条はカットされています。おそらく、カットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(650年)二月条の白雉改元記事だったのです。すなわち、孝徳紀白雉三年(652年)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り貼り」の痕跡だったのです(注)。『日本書紀』の白雉改元記事は九州王朝系史書からの、二年ずらしての転用(盗用)であり、このことが原因となって、二種類の白雉年号が発生したわけです。(つづく)

(注)古賀達也「白雉改元の史料批判 ―盗用された改元記事―」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。


第3290話 2024/05/25

二つの「白雉元年」と難波宮 (2)
―「白雉改元」のエビデンス―

 九州年号「白雉」には次の二種類があります。『日本書紀』型、元年は650年庚戌で五年間続く(650~654年)。『二中歴』型、元年は652年壬子で九年間続く(652~660年)。『二中歴』は鎌倉時代初頭に編纂された辞典で、歴代の年号を列記した「年代歴」冒頭に「継体」から「大化」まで31の九州年号(517~700年)が記されています(注①)。50年に及ぶ九州年号研究の結果、『二中歴』型が最も九州年号の原姿に近く、『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用(盗用)であるとされました。その痕跡が他ならぬ『日本書紀』にあることを『古田史学会報』などで発表してきたところです(注②)。
『日本書紀』は孝徳天皇六年(650年)を白雉元年として、同年二月条には、白雉改元に関わる白雉献上の儀式が大きな宮殿で大々的に執り行われた様子が記されています。その部分を要約し紹介します。

〝二月庚午朔戊寅(9日)、穴戸國司草壁連醜經(しこぶ)、白雉を獻じて曰く、(中略)
甲申(15日)、「朝庭」の隊仗、元會儀の如し。左右大臣・百官の人等、四列を「紫門」の外に為す。(中略)左右大臣乃(すなわ)ち、百官及び百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率いて、「中庭」に至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を「殿」前に進ましむ。

時に、左右大臣就きて輿の前頭を執(か)きて、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執きて、御座の前に置く。天皇、卽ち皇太子を召して共に執(と)りて觀る。皇太子、退いて再び拜す。(中略)
又詔して曰く、四方の諸國郡等、天の委ね付(さづ)くるに由りての故に、朕總(ふさ)ね臨(のぞ)みて御寓(あめのしたしら)す。今我が親神祖の知らす所、穴戸國の中に此の嘉瑞有り。所以(このゆえ)に、天下に大赦す。改元して白雉とす。〟『日本書紀』孝徳天皇白雉元年庚戌(650年)二月条

 穴戸國(長門国、山口県の西半分)の国司が白雉を天皇に献上し、それを吉兆として年号を白雉に改元したという記事で、「朝廷」「紫門」「中庭」「殿」(紫宸殿か)がある大規模な宮殿で儀式を執り行った様子が記されています。
大阪の上町台地の七世紀中葉の地層からは、前期難波宮しかこの規模の宮殿は出土していません。『日本書紀』には、このような大規模な宮殿の創建記事が、二年後の白雉三年九月条に記されています(注③)。ですから、『日本書紀』の白雉年号は九州年号の白雉を二年ずらして転用したものとすれば、白雉三年(652年)の大規模な宮殿創建は、九州年号の白雉元年に当たりますから、先の白雉献上記事や白雉改元記事も白雉年号とともに、『日本書紀』編者により652年から650年へ二年ずらされたと考えられます。すなわち、九州年号の白雉元年(652年)であれば、完成間近の前期難波宮で白雉改元儀式を執り行うことが可能なのです。

 ちなみに、「朝庭の隊仗、元會儀の如し」と二月条の記事にありますから、この白雉改元の儀式は正月の元會儀と同じ宮殿で行われたのではないでしょうか。白雉元年正月条冒頭には次の記事が見えます。

〝白雉元年春正月辛丑朔(1日)に、車駕、味經宮に幸(ゆ)きて、賀正禮を觀る。味經、これを阿膩賦(あじふ)と云う。この日に、車駕、宮に還る。〟『日本書紀』孝徳天皇白雉元年庚戌(650年)正月条

 ここでは賀正礼(元會儀の一つ)が行われた宮殿を味經宮としていますから、元會儀や白雉改元の儀式が行える大規模な前期難波宮は味經宮と呼ばれていたことになります。なお、この記事によれば、孝徳は賀正礼を観に行ったとあり、賀正礼を受けたとはされていません。その日のうちに別の宮に還ったともありますから、味經宮は孝徳の宮殿ではなかったと考えられます(注④)。この史料事実は、前期難波宮を九州王朝の王宮(複都の一つ)とするわたしの説の傍証となるものです。

 こうした『日本書紀』の不自然な白雉改元記事は、九州年号「白雉」と一緒に二年ずらして『日本書紀』に転用されたものと考えざるを得ません。この点、更に詳述します。(つづく)

(注)
①九州年号リスト ※701年以降の大化と大長は古賀説による。
継体 517~521年(5年間)
善記 522~525年(4年間)
正和 526~530年(5年間)
教到 531~535年(5年間)
僧聴 536~540年(5年間)
明要 541~551年(11年間)
貴楽 552~553年(2年間)
法清 554~557年(4年間)
兄弟 558年    (1年間)
蔵和 559~563年(5年間)
師安 564年    (1年間)
和僧 565~569年(5年間)
金光 570~575年(6年間)
賢接 576~580年(5年間)
鏡当 581~584年(4年間)
勝照 585~588年(4年間)
端政 589~593年(5年間)
告貴 594~600年(7年間)
願転 601~604年(4年間)
光元 605~610年(6年間)
定居 611~617年(7年間)
倭京 618~622年(5年間)
仁王 623~634年(12年間)
僧要 635~639年(5年間)
命長 640~646年(7年間)
常色 647~651年(5年間)
白雉 652~660年(9年間)
白鳳 661~683年(23年間)
朱雀 684~685年(2年間)
朱鳥 686~694年(9年間)
大化 695~703年(9年間) ※『二中歴』は大化六年(700年)まで。
大長 704~712年(9年間)
②古賀達也「白雉改元の史料批判 ―盗用された改元記事―」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③「秋九月に、宮造ること已(すで)におわりぬ。其の宮殿の状、殫(ことごとく)に論(い)うべからず。」『日本書紀』白雉三年(652年)九月条。
④古賀達也「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。


第3289話 2024/05/23

二つの「白雉元年」と難波宮 (1)

 ―「白雉」年号のエビデンス―

 九州年号「白雉」には『日本書紀』型と『二中歴』型の二種類があります。

◎『日本書紀』型は元年を650年庚戌として、五年間続く。
◎『二中歴』型は元年を652年壬子として、九年間続く。

 後代史料には、この二種類の白雉年号の存在に困惑したためか、次のような表記さえ出現します。

 「白雉元年[庚戌]歳次壬子」『箕面寺秘密緑起』(注①)

 []内の庚戌は小字による縦書き二行ですので、元来は「白雉元年歳次壬子」(652年)とあった記事に、『日本書紀』の「白雉元年」の干支「庚戌」(650年)を小文字で書き加えたものと思われます。というのも、元々「白雉元年[庚戌]」とあったのであれば、「歳次壬子」を付記する必要は全くありませんし、意味不明の年次表記にする必要もありません。しかし、「白雉元年歳次壬子」とあったのであれば、『日本書紀』の白雉元年干支と異なっているため、「庚戌」を付記したと動機を説明できます。

 50年に及ぶ九州年号研究により、『二中歴』型が最も九州年号の原姿に近く、『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用であると理解されてきました。その後、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡の再調査(2006年)により、『二中歴』型が正しかったことが決定づけられました。

 しかしながら、『木簡研究』19号(注②)には「三壬子年」と判読していましたので、兵庫県教育委員会の許可を得て、2006年4月21日に古田先生らと同木簡を二時間にわたり実見調査しました。そして次の所見を得ました。

【「元壬子年」木簡観察の所見】
1.第三画の右端が極端に上に跳ねている。木目に沿った墨の滲みかとも思われたが、そうではなく明確に上に跳ねていた。下には滲みがない。これが「元」である最大の根拠である。
2.第三画の中央付近が切れている。赤外線写真も撮影して確認したが、肉眼同様やはり切れていた。従って、「三」よりも「元」に近い。
3.第三画が第一画と第二画に比べて薄く、とぎれとぎれになっている。更に、左から右に引いたのであれば、書き始めの左側が濃くなるはずだが、実際は逆で、右側の方が濃くなっている。これは、右側と左側が別々に書かれた痕跡である。
4.木目により表面に凹凸があるが、第三画の左側は木目による突起の右斜面に墨が多く残っていた。これは、右(中央)から左へ線を書いた場合に起きる現象。従って、第三画の左半分は、右から左に書かれた「元」の字の第三画に相当する。
5.第三画右側に第二画から下ろしたとみられる墨の痕跡がわずかに認められた。これは「元」の第四画の初め部分である。

 以上のように、「三」ではなく「元」であることは明白ですし、肉眼でも「元」に見えました。元年を壬子の年とする年号は九州年号の「白雉」であり(注③)、やはり『二中歴』型が正しかったわけです。『木簡研究』の報告は『日本書紀』の二年ずれた白雉年号の影響を受けたようです。(つづく)

(注)
①「箕面寺秘密緑起」は五来重編『修験道資料集Ⅱ』(名著出版、1984年)による。同書解題には、「箕面寺秘密緑起」を江戸期成立と見なしている。
②『木簡研究』19号、木簡学会、1997年。
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/8834/1/AN00396860_19_044_045.pdf
③『木簡研究』19号には、高瀬氏一嘉氏による次の説明がなされている。
「裏面は年号と考えられ、年号で三のつく壬子は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」


第3288話 2024/05/20

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (4)

 前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である。この見解の根拠となる、前期難波宮孝徳朝説に反対する考古学者であっても「孝徳朝説は定説」とする、泉武さんと伊藤純さんの見解を紹介しました。同様の見解は考古学者にとどまらず、文献史学の著名な研究者からも述べられていることを本シリーズの最後に紹介します。直木孝次郎さん(1919~2019)と市大樹さんのお二人です(他にも大勢いますが)。

 直木さんは次のように主張され、前期難波宮こそ孝徳朝の首都にふさわしいとされました。

 〝周知のように藤原宮朝堂院も、平城宮第二次朝堂院も、いずれも十二朝堂をもつ。平城宮第一次朝堂院はやや形態をことにして十二朝堂ではないが、一般的には十二朝堂をもつのが朝堂院の通常の形態で、長岡京朝堂院が八朝堂であるのは、簡略型・節約型であるとするのが、従来の通説であった。この通説からすると、後期難波宮の八堂というのは、簡略・節約型である。なぜそうしたか。奈良時代の首都である平城京に対し、難波京は副都であったから、十二堂を八堂に減省したのであろう。(中略)

 首都十二堂に対し副都八堂という考えが存したとすると、前期難波宮が「十二の朝堂をもっていた」すなわち十二堂であったという前記の発掘成果は、前期難波宮が副都として設計されたのではなく、首都として設計・建設されたという推測をみちびく。

 もし前期難波宮が天武朝に、首都である大和の飛鳥浄御原宮に対する副都として造営されたなら、八堂となりそうなものである。浄御原宮の遺跡はまだ明確ではないが、現在有力視されている明日香村岡の飛鳥板蓋宮伝承地の上層宮跡にしても、他の場所にしても、十二朝堂をもっていたとは思われない。そうした浄御原宮に対する副都に十二朝堂が設備されるであろうか。前期難波宮が天武朝に造営されたとする意見について、私はこの点から疑問を抱くのである。

 前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろうから、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。(中略)

〔追記〕本章は一九八七年に執筆・公表したものであるが、一九八九年(平成元年)の発掘の結果、前期難波宮は「従来の東第一堂の北にさらに一堂があることが判明し、現在のところ少なくとも一四堂存在したことがわかった」(中尾芳治「難波宮発掘」〔直木編『古代を考える 難波』吉川弘文館、一九九二年〕)という。そうならば、ますます前期難波宮は副都である天武朝の難波の宮とするよりは、首都である孝徳朝の難波の長柄豊碕宮と考えた方がよいと思われる。〟(注②)

 次に木簡研究で著名な市大樹さん(大阪大学大学院教授)は次のように述べています。

 〝一九五四年から続く発掘調査によって、大阪市の上町台地法円坂の一帯から二時期にわたる宮殿遺構が検出され、上層を後期難波宮、下層を前期難波宮と呼んでいる。後期難波宮が聖武朝(七二四~四九)に再興された難波宮であることは異論を聞かない。これに対して前期難波宮は、ほぼ全面に火災痕跡があることから、『日本書紀』朱鳥元年(六八六)正月乙卯条に「酉時、難波大蔵省失火、宮室悉焼」と記される難波宮に相当すると見てよいが、造営時期を孝徳朝(六四五~五四)・天武朝(六七二~八六)いずれとみるのかで長い議論があった。しかし、一九九九年に北西部にある谷から「戊申年」(大化四年、六四八)と書かれた木簡が出土したことや、造成整地土から七世紀中葉の土器が多く出土したことなどもあり、現在では孝徳朝の難波長柄豊碕宮とみるのがほぼ通説となっている。〟(注③)

 このように「戊申年」木簡等を根拠として、前期難波宮を七世紀半ばの造営とすることが「ほぼ通説」であるとされ、市さんも通説に賛成しています。2017年9月、大阪歴博での講演会でも市さんはそのように述べていました。
学問は多数決ではありませんから、少数意見という理由でその仮説を否定するのは学問的ではありません。何よりも、わたしの説も定説「孝徳朝説」とは異なる超少数意見です。すなわち、前期難波宮を九州王朝による七世紀中葉(652年)創建とする説だからです。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」668話(2014/02/28)〝直木孝次郎さんの「前期難波宮」首都説〟
②直木孝次郎『難波宮と難波津の研究』吉川弘文館、1994年。
③市大樹「難波長柄豊碕宮の造営過程」『交錯する知』武田佐知子編、思文閣出版、2014年。


第3286話 2024/05/15

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (3)

 大下隆司さんの発表資料には、前期難波宮孝徳朝説への反対論者として伊藤純さんの名前がありました。伊藤さんとは面識がありましたので、懐かしく思いました。十二年前のことですが、大阪歴博研究員だった伊藤純さんに前期難波宮造営年代についてお聞きしたことがありました(注)。
わたしは伊藤さんが前期難波宮孝徳期造営説に立っておられると思いこみ、その根拠について質問を続けていたのですが、どうも様子がおかしのいです。そこで突っ込んでおたずねしたところ、なんと伊藤さんは前期難波宮天武朝造営説だったのです。
「わたしは少数派です。九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。学問は多数決ではありませんから。」
「学問は多数決ではない」という意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学的出土物(水利施設出土土器編年、634年伐採木樋の年輪年代、「戊申年」648年木簡)は全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。伊藤さんの答えは、もし「宮殿平面の編年」というものがあるとすれば、前期難波宮の規模は孝徳朝では不適格であり、天武朝にこそふさわしいというものでした。

 この伊藤さんの見解にわたしは深く同意しました。もちろん、「天武朝造営説」にではなく、「前期難波宮の規模が孝徳朝では不適格」という部分にです。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝「副都」説(後に「複都」とした)に至った理由の一つだったからです。すなわち、七世紀中頃の大和朝廷の宮殿としては、その前後の飛鳥宮と比較して突出した規模と全く異なった様式(朝堂院様式)なのです。

 更に言えば、九州王朝説に立つものとして、大宰府政庁よりも格段に大規模な前期難波宮を通説通り大和の天皇のものとするならば、701年の王朝交代まで列島の代表王朝だった九州王朝(倭国)の存在と九州王朝説そのものが揺らぎかねません。しかも、前期難波宮創建(652年)は、王朝交代の主要因となった白村江敗戦(663年)よりも前のことです。この問題に気づいてから、わたしは何年も考え続け、その結果出した解答が前期難波宮九州王朝「副都」説だったのです。

 そこで、わたしは伊藤さんに次の質問を投げかけました。
「考古学的に見て、孝徳期説と天武期説のどちらが妥当と思われますか」。
この問いに対して、伊藤さんは
「孝徳期説の方がおさまりがよい」
と述べられたのです。自説は天武朝説であるにもかかわらず、考古学的な判断としては「孝徳朝の方がおさまりがよい」と正直に述べられたのです。この言葉に、伊藤さんの考古学者としての誠実さと、古代史研究者としての論理の鋭さを感じました。たとえ意見が異なっていても、伊藤さんのような誠実な研究者とは学問的対話が成立し、お互いを高め合うことができます。

 対話の最後にわたしは、
「大阪歴博の研究者は全員が孝徳期造営説と思いこんでいたのですが、伊藤さんのような少数説があることに、ある意味安心しました。これからは文献研究者も考古学者も、考古学編年と宮殿発展史との矛盾をうまく説明することが要請されます。学問は多数決ではありませんので、これからも頑張ってください。今日はいろいろと教えていただき、ありがとうございました。」
とお礼を述べました。そして、伊藤さんが抱かれた矛盾(前期難波宮造営時期は、考古学的には七世紀中葉だが、近畿天皇家の宮殿様式・規模の変遷史からは七世紀後葉とするのが妥当)を解決できる仮説は、前期難波宮九州王朝王宮説しかないと確信を深めたものでした。

 孝徳朝説に反対の伊藤さんの認識「九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説」からも、〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟とした、わたしの見解はやはり妥当なものなのです。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」474話(2012/09/26)〝前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾〟


第3285話 2024/05/14

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (2)

 大下隆司さんが前期難波宮孝徳朝説への反対論者として紹介した研究者に白石太一郎さん(注①)がいます。しかし、白石さんは大下さんや泉武さんの天武朝説とは異なり、天智朝造営説です。白石さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(注②)冒頭の「はじめに」に次のように記されています。

「今日では、少なくとも考古学の分野では、前期難波宮を孝徳朝の難波長柄豊碕宮と考える説がほぼ定説化している。」3頁

 このように、孝徳朝説に反対する白石さん自身が、孝徳朝説を「少なくとも考古学の分野では(中略)ほぼ定説化している」と認識していることがわかります。わたしが〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟としたことと同様の認識なのです。そして、白石さんは次のような見解をくり返し述べ、孝徳朝説と同時に天武朝説(672~686年)をも否定しています。

 「前期難波宮整地層出土の土器群の中には明らかに西暦660年代頃のものが含まれている可能性が大きいと思われる。」3頁
「このように、前期難波宮整地層にはおそらくは水落段階、すなわち前章の検討結果からは660年代中頃から後半の土器が含まれていることになる。」17頁
「前期難波宮の整地層と水利施設の厳密な層位関係はもとより不明であるが、この水利施設が前期難波宮造営の一環として建設されたものであることについては疑いなかろう。ただしその時期は、飛鳥編年では坂田寺池段階のものであり、660年代前半、遡っても660年前後にまでしか上らない。」20頁
「前期難波宮下層の土器が『到底天武朝まで下がるものとは考えられない』という考え方が大きな落とし穴になっていたように思われる。それは天武朝までは下がらないとしても、孝徳朝までは遡らないのである。」22頁 ※この部分は白石氏自身の以前の見解に対してのもの。

 以上のように、白石さんは前期難波宮天武朝説ではなく、天智朝説(662~671年)なのです。その根拠は飛鳥編年に基づくもので、「最近の飛鳥編年にもとづく土器の編年研究では、少なくとも七世紀中葉から第3四半期では10年単位の議論が可能な段階になってきている」(20頁)として、孝徳朝説も天武朝説も否定し、天智朝説を主張されています。
ですから、孝徳朝説(定説)を否定する少数意見のなかにも両立し得ない天智朝説と天武朝説があり、飛鳥編年による土器編年も一様ではないことが見て取れます。ここで重要な視点は、飛鳥編年とは『日本書紀』の記事をその年次も含めて正しいとすることを前提として成立しています。更に、飛鳥から出土した遺構や層位を『日本書紀』の特定の記事に対応させ、そこからの出土土器を相対編年するという手法を採用しています。

 従って、『日本書紀』の記述が正しいかどうかは検証の対象であり、論証抜きで是とする一元史観を批判するわたしたち古田学派の研究者にとっては、飛鳥編年も検証の対象であり、採用する場合でも用心深く使用しなければならないことを改めて指摘しておきたいと思います(注③)。わたしは、白石さんのように土器の相対編年だけで10年単位の年次判定をすることは危険であり、難波編年を作成した佐藤隆さんのように前葉・中葉・後葉の幅で土器編年を捉えるのが妥当と考え、佐藤さんの七世紀の難波編年を支持してきました(注④)。
今回紹介した白石さんの論文によっても、前期難波宮孝徳朝説が定説となっていることがご理解いただけると思います。(つづく)

(注)
①下記①の論文発表時、大阪府立近つ飛鳥博物館々長。
②白石太一郎「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報16』大阪府立近つ飛鳥博物館、2012年。
③飛鳥編年の基礎データそのものが信頼性に問題があるとした次の論文がある。
服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 ―白石太一郎氏の提起を考える―」『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店、2014年。
④佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』2000年、大阪市文化財協会。


第3284話 2024/05/13

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (1)

 わたしは前期難波宮を七世紀中葉(九州年号の白雉元年、652年創建)に造営された九州王朝の複都の一つと考えていますが、近畿天皇家一元史観の学界では、近畿天皇家(後の大和朝廷)の孝徳天皇が造営した難波長柄豊碕宮とする説、すなわち孝徳朝説が定説の位置を占めています。このことを少なからぬ考古学者にも直接あるいは論文を読んで確かめてきましたので、〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟と、これまでも紹介してきました。

 ところが、昨日の多元的古代研究会月例会での大下隆司さんの研究発表では、孝徳朝説は大阪歴博による間違った見解であり、多くの考古学者や研究者から反対意見が出されており、定説はおろか、多数説でもないかのような説明がなされました。学問研究ですから、意見や解釈が異なるのは全くかまいませんし、異説が学問の発展に寄与することも稀ではありません。わたしも常々「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」と言ってきた通りです。しかし、事実(エビデンス)に対しては、誠実かつ正確であらねばなりません。良い機会でもありますので、前期難波宮孝徳朝説が古代史学界の「定説」であることを改めて具体的に紹介します。

 まず、大下さんが高く評価され、紹介した泉武さんの論文(注)冒頭の「要旨」には次の一文があります。

 「前期難波宮は乙巳の変(645年)により孝徳朝が成立し、難波遷都によって造営された難波長柄豊碕宮であることが定説化している。この宮殿が図1で示した正方位の建物を指し、前期難波宮整地層の上に造営されたことも周知されている。」

 このように、前期難波宮天武朝説の泉さんご自身が、前期難波宮整地層上の正方位の建物(前期難波宮)が孝徳朝の難波長柄豊碕宮であることが「定説化している」「周知されている」と明言しています。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「難波宮」の項目にも「前期難波宮」の解説として、次の記事があります。

 「乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。(中略)
建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。(後略)」

 このように定説に反対する研究者も、web辞書にも孝徳朝説を定説として取り扱っています。しかもウィキペディアには、少数説の天武朝説の紹介さえもなく(これはこれで問題ですが)、大下さんの発表内容とはかなり様子が異なっていることをご理解いただけることでしょう。(つづく)

(注)泉武「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
上町台地法円坂から出土した南北正方位の巨大宮殿である前期難波宮を天武朝、その下層遺構の東偏(N23°E)した建物跡(SB1883)などを孝徳朝の宮殿とする。


第3283話 2024/05/09

「正方位」宮殿の一元史観による編年

 泉論文(注①)では、下層遺跡土壙(SK10043)から出土した「贄」木簡、湧水施設(SG301)から出土した「謹啓」木簡などを根拠として、南北正方位の巨大宮殿である前期難波宮を天武朝、その下層遺構の東偏(N23°E)した建物跡(SB1883)などを孝徳朝の宮殿としました。これら木簡の他に、その建物の建築方位についても自説の根拠としました。それは飛鳥宮跡などの建築方位の変遷を根拠とする次の解釈によります。

(1) 飛鳥宮跡第Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636年)に比定されており、その建築方位は北で約20度西に振る。
(2) 第Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643年)であり、それ以降は建物主軸は正方位となる(注②)。
(3) 石舞台古墳の西の地域に造営された島庄遺跡は、Ⅰ~Ⅲ期(600~670年代)までは西偏する建物であり、Ⅳ期(670年以降)は正方位となる。Ⅳ期の建物は大規模な土地造成と設計計画のもとに建てられている(注③)。
(4) これらの調査成果により、自然地形に制約された建物主軸が正方位に変更されるのは七世紀中頃以降であるとの見通しが得られる。
(5) 以上のように、飛鳥京の諸宮殿と前期難波宮の二つの宮殿建物(前期難波宮と下層遺跡建物)は、斉明朝(皇極朝カ)から孝徳朝にかけて正方位建物ではなかった蓋然性が強い。

 この説明のうち、(1)(2)(3)は考古学的エビデンスとその編年の解釈で、それらに基づいた編年理解が(4)(5)になります。しかし、(1)(2)に基づけば正方位建物の出現は七世紀中葉であり、(3)を重視すれば七世紀後葉となりますので、そうした二つの解釈の内、後者の解釈を採用して(5)の自説を導き出すのは恣意的のように見えます。

 わたしは難波や飛鳥の王宮建築では、七世紀中葉になって正方位を採用したと考えていますが、仮に泉論文の解釈(5)が成立するとしても、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解によれば、九州王朝が飛鳥の近畿天皇家よりも早く正方位の宮殿建築を採用したと理解することが可能であり、やはり問題はありません。

 このように泉論文の一見鋭い指摘は、近畿天皇家一元史観に基づく通説に対して有効ではあっても、九州王朝説にとってはむしろ通説の限界や矛盾を指摘した視点となり、前期難波宮九州王朝複都説を側面から支持する研究と言うことができるのです。

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『飛鳥京跡Ⅲ』橿原考古学研究所調査報告第102冊、2008年。
③相原嘉之「嶋宮をめぐる諸問題 ―島庄遺跡の発掘成果とその意義―」『明日香村文化財調査研究紀要』第10号、明日香村教育委員会、2011年。


第3282話 2024/05/07

難波宮湧水施設出土「謹啓」木簡の証言

 泉論文(注①)では、下層遺跡から出土した「贄」木簡を孝徳朝宮殿の根拠としたのですが、前期難波宮北西の湧水施設(SG301)から出土した次の「謹啓」木簡(注②)も自説(前期難波宮天武朝説)の根拠としました。

・「謹啓」 ・「*□然而」 *□[初カ](遺物番号533)

 同水利施設は、井戸がなかった前期難波宮の水利施設と見なされ、七世紀中葉の造営であることが出土土器編年(須恵器坏G、坏H)により判明しました。さらに年輪年代測定により、湧水施設の木枠の伐採年が634年であったことも、「洛中洛外日記」で紹介した通りです(注③)。

 この従来説に対して、泉論文では、「謹啓」木簡は七世紀後葉の飛鳥池や石神遺跡の天武朝の遺構から出土しており、難波宮出土の「謹啓」木簡も天武朝のものと理解できるとされました。そして、「謹啓」木簡の出土層位(第7B層)は水利施設の最下層であり、難波宮水利施設が天武朝(七世紀後葉)に造営された証拠とされました。従って、この水利施設を利用した前期難波宮は天武朝の宮殿であり、その下の下層遺跡を孝徳朝の宮殿としたわけです。

 しかしながら、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解によれば、この「謹啓」木簡は九州王朝の難波進出の痕跡であり、前期難波宮九州王朝王宮説を示唆する傍証となります。すなわち、飛鳥に居した近畿天皇家の天武らよりもはやく九州王朝の難波宮では「謹啓」という用語が使用されていたと理解することができるからです。泉論文の「謹啓」木簡の証言は、九州王朝が採用していた「謹啓」という用語を、七世紀後葉に実力者となった天武らが飛鳥で使用開始したことに気づかせてくれたという意味で、貴重なものとわたしは評価しています。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。
③古賀達也「洛中洛外日記」3278話(2024/05/01)〝泉論文と前期難波宮造営時期のエビデンス〟