百済祢軍墓誌一覧

百済祢軍墓誌 百済禰軍墓誌
資料 大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/siryo/kudarahi.html

第3142話 2023/10/24

唐から帰国した「日本国王夫妻」記事

 今月の関西例会で谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から発表された〝百済禰軍(でいぐん)墓誌銘の「日本」誤読説〟(注①)によれば、従来説は「百済禰軍墓誌」(678年)銘文中の「于時日本余噍据扶桑以逋誅」の区切り方を誤り、次のように「日本」と続けて読んでしまったと批判しました。

 「于時、日本余噍、据扶桑、以逋誅」 〔時に日本の余噍(日本の残党)、扶桑によりて、以て誅を逋(のが)れ~〕

 そして前後の文脈から判断して、次の読解が正しいとしました。

 「于時日、本余噍、据扶桑以逋誅」 〔この日に、本余噍(百済の残党)、扶桑によりて、以て誅を逋れ~〕

 銘文の「于時日本余噍」の「日本」を続けて読み、国名の「日本」と理解したのが従来説ですが、同様の読解が『旧唐書』(中華書局本)でもなされていました。「洛中洛外日記」(注②)で紹介しましたが、それは中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(805)条に見える、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事です。日本国王夫妻(天皇・皇后か)が805年に唐から帰国したという不思議な記事です。原文(中華書局本)の表記は次の通りです。

 「至是方釋之。日本國王幷妻還蕃、賜物遣之。」

 貞元二十一年(805)条の記事ですから、平安時代の桓武天皇延暦二四年に相当し、桓武天皇と皇后が唐から帰国したことになり、このような記録は日本側史書には見えません。もしかするとこの〝日本国王夫妻〟とは王朝交代後の九州王朝の後裔(注③)かも知れないとも考えましたが、史料根拠がなく、論証が成立しませんでした。

 そこで、この記事のことを古田先生に相談したところ、先生はこの難問を見事に解決されました。すなわち、これは中華書局本の誤読、句読点のミス(文章の区切り方の誤り)であり、正しくは「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」であるとされました。古田先生はこの新読解を「歴史ビッグバン」という小論にされ、『学士会会報』(第816号、1997年所収)で発表しました。

 もちろん、古田先生の新読解も検証の対象です。今回の谷本さんによる「百済禰軍墓誌」の新読解に接し、30年前の古田先生との検討会を思い出しました。共に、一見すると国名の「日本」と思われる記事を、「日」と「本」を分けて理解するというものですので、興味深い現象です。古田史学による学問研究は本当に楽しいものです。

(注)
①谷本 茂「『百済禰軍(でいぐん)墓誌銘』に“日本”国号はなかった!」古田史学の会・関西例会、2023年10月21日。
②古賀達也「洛中洛外日記」864話(2015/02/06)〝中華書局本『旧唐書』の原文改訂〟
③八世紀、九州王朝の後裔が、『三国史記』に「日本国」として記されているとする仮説を、次の拙稿で発表した。
古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂、1993年。
同「洛中洛外日記」3055話(2023/06/28)〝30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む〟も参照されたい。


第3141話 2023/10/23

百済禰軍(でいぐん)墓誌銘の「日本」誤読説

 今月21日、浪速区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。11月例会も浪速区民センターで開催します。

 わたしは「よみがえる卑弥呼伝承 ―国内史料に見える「卑弥呼・壹與」―」を発表しました。卑弥呼の墓の有力候補に須玖岡本遺跡にある熊野神社社殿の地(須玖岡本山)とする古田先生の説があります(注①)。その古田説の傍証となる、江戸期史料に記された現地伝承を紹介しました(注②)。

 今回の例会で印象深かったのが、谷本茂さんの「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」(678年)に見える「日本」を国名とするのは誤読との発表でした。同墓誌に記された「日本(夲)」は国名の「日本」ではなく、前後の文脈から「于時日、本余噍、据扶桑以逋誅」と読み、「本余噍」を百済の残党とされました。従来説では「于時、日本、余噍、据扶桑以逋誅」と読まれ、この「日本」を国名の日本としており、わたしもその理解に基づく論稿(注③)を発表していましたので、谷本さんから厳しい批判をいただきました。わたしは〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えていますので、これを良い機会として再検討したいと思います。

 今回の例会には会員の中村さん(神戸市)が初参加されました。池上さんは久しぶりの発表でした。

 10月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔10月度関西例会の内容〕
①よみがえる卑弥呼伝承 ―国内史料に見える「卑弥呼・壹與」― (京都市・古賀達也)
②満田氏筑紫後期王朝説への疑問 (大阪市・西井健一郎)
③天の叢雲剣と草薙剣は同一か (京都市・池上正道)
④ハイキング報告「白鬚神社と継体大王ゆかりの地の散策」 (八尾市・満田正賢)
次回ハイキング(11/4)の説明「奈良公園歴史散策」 (大阪市・中山省吾)
正倉院展のお知らせ (京都市・久冨直子)
⑤「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」に“日本”国号はなかった! (神戸市・谷本 茂)
⑥「倭京」と多利思北孤 (東大阪市・萩野秀公)
⑦隋書の俀は倭であり多利思北孤の北は比が妥当 (大山崎町・大原重雄)
⑧難波宮は天武時代の・唐の都督薩夜麻の宮だった (川西市・正木 裕)

○会務報告(正木事務局長) 令和六年新春古代史講演会(2024/1/21、京都市)の件、関西例会の会員向けライブ配信の取り組み、他。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
11/18(土) 会場:浪速区民センター ※JR大和路線 難波駅より徒歩15分。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
②古賀達也「洛中洛外日記」3114話(2023/09/15)〝『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓〟
③古賀達也「百済人祢軍墓誌の考察」『古田史学会報』108号、2012年。

 

古田史学の会浪速区民センター第5会議室 2023.10.21

10月度関西例会発表一覧(参照動画付)

YouTube公開動画は①②です。
「5,」の谷本氏の動画のみ「古田史学会file」内に置いております。

1,よみがえる卑弥呼伝承 国内史料に見える「卑弥呼・壹與」
(京都市・古賀達也)
https://youtu.be/lwEw839dsx8 https://youtu.be/yQv946_HE6w

2,満田氏筑紫後期王朝説への疑問 (大阪市・西井健一郎)
https://youtu.be/689A1n4DlH4 https://youtu.be/r2x_zdsyGGI

3,天の叢雲剣と草薙剣は同一か (京都市・池上正道)
公開は辞退されました。

4,ハイキング報告「白鬚神社と継体大王ゆかりの地の散策」 (八尾市・満田正賢) 付:次回ハイキング(11/4)の説明・正倉院展のお知らせ
https://youtu.be/eu3rx3u_fdA

5,「百済禰軍(でいぐん)墓誌銘」に日本国号はなかった! (神戸市・谷本 茂)
YouTube講演はありません。「古田史学会file」内に解説動画設置しました。Zoomneeting参加者のみ視聴できます)アクセス場所非公開

付:「東海の古代№248 20214月」号「祢軍墓誌」を読む 名古屋市 石田 泉城(http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t248.pdf)

6,「倭京」と多利思北孤 (東大阪市・萩野秀公)
https://youtu.be/mYpKIO8SXqs

7,隋書の俀は倭であり多利思北孤の北は比が妥当 (大山崎町・大原重雄)
https://youtu.be/CTA902B55SM

8,難波宮は天武時代の・唐の都督薩夜麻の宮だった(川西市・正木 裕)
https://youtu.be/KtPUJVPVWc4


第2431話 2021/04/11

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (4)

 正木さんからのメール、「字体の変遷」

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)に触発されてスタートした本シリーズですが、それを読んだ正木裕さん(古田史学の会・事務局長)よりメールが届き、貴重な情報をご教示いただきました。

 『大辞林』の「六書と書体の変遷表」によれば、六朝・北魏・隋唐では「本」の楷書は「夲」となっており、藤原宮木簡の「夲位進第壱・・」や井眞成墓誌が「・・公姓井字眞成國號日夲」とあるのは当然とのことなのです。つまり、「夲」が「本」の「代わり」に通用していたのではなく、「六朝・北魏・隋唐時代は『夲』の字体が正しかった」のであり、当然、当時の倭国でも「夲」が用いられていたということでした。

 わたしはこうした中国での字体の変遷を知りませんでしたので、正木さんからのメールを拝見し、「ああ、そうだったのか」と腑に落ちました。というのも、北魏から隋唐時代の字体調査を行ったとき(注②)、専門書に掲載された当時の金石文や拓本を少なからず見たのですが、それらには「夲」の字体が普通に使用されており、むしろ「本」を見た記憶がなかったからです。国内の木簡調査でも同様でした。そのため、慎重な表現ではありますが、「その当時の国名表記の用字としては、『日夲』が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。」(注③)としたわけです。

 この度の正木さんからのメールにより、拙稿での結論が漢字学における字体の変遷研究結果と同じであったことを知り、わたしの推定が的外れではなかったことに自信を得ました。そうすると、「夲」が「本」に戻った時代とその理由についても知りたくなりましたが、漢字学の世界では既に研究済みのことかもしれません。この点、何かわかりましたら報告します。最後に、ご教示いただいた正木さんに感謝いたします。(おわり)

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月。
②古賀達也「洛中洛外日記」2090~2105話(2020/02/25~03/07)〝三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)~(10)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2099~2102話(2020/03/03~06)〝「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(1)~(4)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2106(2020/03/11)〝七世紀の筆法と九州年号の論理〟
③古賀達也「洛中洛外日記」2428話(2021/04/10)〝百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)〟

百済人祢軍墓誌


第2429話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)

 ―対句としての「日夲」と「風谷」―

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)では、百済人祢軍墓誌に見える「于時日夲餘噍」を「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)とする新読解を発表されました。「本」と「夲」は別字であり、墓誌の「日夲」を国名の「日本」とはできないとしたため、こうした読解に至ったものと思われます。漢文の訓みとしては可能なのかもしれませんが、この訓みを否定することになる見解を東野治之さんが発表していますので紹介します。

 百済人祢軍墓誌の当該部分は次の通りです。

「于時日本餘噍據扶桑以逋誅風谷遺氓負盤桃而阻固」

 これを東野さんは次のように訓まれ、正格漢文として対句になっているとされました。(注②)

「時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋(のが)れ、風谷の遺氓、盤桃を負いて阻み固む。」

 この「日本の餘噍」と「風谷の遺氓」が対句になっており、「正格の漢文体で書かれた文章は、厳格な対句表現を特徴とする。」と指摘されました。ただし東野さんは、この「日本」を国名とはされず、「日本餘噍」は百済の残党とされています(注③)。

 この東野さんの訓みは優れたものと思いますが、わたしは「日本餘噍」を前期難波宮か近江朝に落ち延びた九州王朝の残党と考えており、この点が大きく異なっています。言わば、一元史観と多元史観の相違です。なお、「于時日本餘噍」を「于時日、本餘噍」と区切る訓みは、ブログ「古代史の散歩道など」(注④)の主宰者が既に発表されていますので、ご参考までに当該部分を転載します。

【以下、部分転載】
私の本棚 東野治之 百済人祢軍墓誌の「日本」 2018/07/01
掲載誌『図書』2012年2月号(岩波書店)
(前略)
東野氏は、「于時」を先触れと見て、「日本余噍、拠扶桑以逋誅」とこれに続く「風谷遣甿、負盤桃而阻固」を四字句+六字句構成の対句と捉え、まことに、妥当な構文解析と思う。
ここに、当ブログ筆者は、「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅」と六字句+六字句と読めるではないか、そして、それぞれの六字句は、三字句+三字句で揃っているのではないか、と、あえて異説を唱え、見解が異なる。
つまり、当碑文は、「于時日 本余噍 拠扶桑 以逋誅」と読み、国号にしろ、詩的字句にしろ「日本」とは書いてないとするのが、当異説の壺であり、無謀かも知れないが旗揚げしているのである。
ちなみに、「本余噍」とは、「本藩」、すなわち「百済」余噍、つまり、「百済」残党である。
従って、当碑文は「日本」国号の初出資料ではないと見るのである。これは、東野氏の説くところに整合していると思う。(後略)
【転載おわり】

 百済人祢軍墓誌については『古代に真実を求めて』16集(2013年、明石書店)で特集しており、ご参照いただければと思います。次の論稿が掲載されています。

阿部周一 「百済祢軍墓誌」について ―「劉徳高」らの来倭との関連において―
「百済禰軍墓誌」について — 「劉徳高」らの来倭との関連において 阿部周一(古田史学会報111号)

古賀達也 百済人祢軍墓誌の考察
百済人祢軍墓誌の考察 古賀達也(古田史学会報108号)

水野孝夫 百済人祢軍墓誌についての解説ないし体験
資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月
②東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」岩波書店『図書』756号、2012年2月。
③東野治之「日本国号の研究動向と課題」『史料学探訪』岩波書店、2015年。初出は『東方学』125輯、2013年。
④https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-337c.html

百済人祢軍墓誌


第2428話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)

 ―古田先生との冨本銭研究の想い出―

 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲載された石田泉城さん(名古屋市)の「『祢軍墓誌』を読む」の最大の論点と根拠は墓誌に記された「日夲」の文字で、「本」と「夲」は本来別字で、この部分は国名としての「日本(夲)」ではないとするものです。そして、次のように述べられています。

 「文字の精査は、「壹」と「臺」を明確に区別した先師古田武彦の教えの真髄です。」『東海の古代』№248

 わたしもこのことについて、全く同感です。古田ファンや古田学派の研究者であれば御異議はないことと思います。それではなぜ同墓誌の「日夲」を別字の「日本」のことと見なしたのかについて説明します。

 実はこの「本」と「夲」を別字・別義とするのか、別字だが同義として通用したものと見なすのかについて、「古田史学の会」内で検討した経緯がありました。それは飛鳥池遺跡から出土した冨本銭がわが国最古の貨幣とされたときのことです。当時、「古田史学の会」代表だった水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、「フホン銭と呼ばれているが、銭文は『冨夲』(フトウ)であり、それをフホンと読んでもよいものか」という疑義が呈されました(注①)。

 その問題提起を受け、わたしも検討したのですが、通説通り「フホン」と読んで問題ないとの結論に至りました。古田先生も同見解だったと記憶しています。当時、古田先生とは信州で出土した冨本銭(注②)を一緒に見に行ったこともありましたが、先生も一貫して「フホン銭」と呼ばれていました。その後、わたしからの発議と古田先生のご協力により、「プロジェクト 貨幣研究」が立ち上がりしました。その成果の一端は『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』などに収録されました(注③)。

 古田先生やわたしが「冨夲」を「フホン」と呼んでもよいと判断した理由は、国内の古代史料には「夲」の字を「本」の別字として使用する例が普通にあったからです。たとえば古田先生が京都御所で実物を調査された『法華義疏』(御物、法隆寺旧蔵)の巻頭部分に記された次の文です。

 「此是 大委国上宮王私
集非海彼夲」

 この文は「此れは是れ、大委国上宮王の私集にして、海の彼(かなた)の夲(ほん)に非ず」と訓まれており、「夲」は「本」の同義(異体字)と認識されています。「大委国上宮王」とあることから、多利思北孤の自筆の可能性もあり、いわば九州王朝内での使用例です。

 更にこの十年に及ぶ木簡研究においても、7~8世紀の木簡に「夲」の字は散見されるのですが、むしろ「本」の字を目にした記憶がわたしにはありません。ですから当時の木簡においては、「夲」が「本」の代わりに通用していたと考えてもよいほどでの史料状況なのです。たとえば明確に「本」の異体字として「夲」を用いた8世紀初頭の木簡に次の例があります。

 「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部/冠」(藤原宮跡出土)

 これは山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階(本位)「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「本位」の「本」の字体が「夲」なのです。

 以上のような史料事実を知っていましたので、冨本銭の「夲」の字も「本」の別字(異体字)と、むしろ見なすべきと考えられるのです。

 『日本書紀』や中国史書における「日本」については、原本も同時代刊本も現存しないため、7~8世紀頃の字体は不明とせざるを得ませんが、後代版本では「日夲」の表記が散見され、その当時には「本」の異体字として「夲」が普通に使用されていたようです。具体的には『通典』(801年成立)の北宋版本(11世紀頃)には「倭一名日夲」とありますし、いつの時代の版本かは未調査ですが、岩波文庫『旧唐書倭国日本伝』に収録されている『新唐書』日本国伝の影印(163頁)にも「日夲国」の使用例が見えます。

 他方、中国の金石文によれば、百済人祢軍墓誌(678年没)よりも60年ほど後れますが、井真成墓誌(734年没)には明確に国号としての日本が見え(注④)、この字体も「日夲」です。

 「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字眞成國號日本」(後略)

 従って、百済人祢軍墓誌の「日夲」も「日本」のことと理解して問題ありません。むしろ、その当時の国名表記の用字としては、「日夲」が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①水野孝夫「『富本銭』の公開展示見学」『古田史学会報』31号、1999年4月。当稿においても、〝「本」字の問題(「本」の字は「木プラス横棒」ではなくて、「大プラス十」と刻字されている。ここにも意味があるかも知れない)。〟と述べている。
②長野県の高森町歴史民俗資料館に展示されている富本銭を見学した。同富本銭は高森町の武陵地1号古墳から明治時代に出土したもの。同資料館を訪問したとき、同館の方のご所望により、来訪者名簿に大きな字で、「富本銭良品 古田武彦」と先生は署名された。
③古田武彦「プロジェクト 貨幣研究 第一回」『古田史学会報』31号、1999年4月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第二回(第二信)」『古田史学会報』33号、1999年8月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第三回」『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第一報 古代貨幣異聞」(下にあり)
『古田史学会報』31号、1999年4月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第二報 『秘庫器録』の史料批判(1)」
『古田史学会報』33号、1999年8月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第三報 『秘庫器録』の史料批判(2)」
『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第四報 『秘庫器録』の史料批判(3)」
『古田史学会報』36号、2000年2月。
『古代に真実を求めて』第三集(2000年11月、明石書店)に「古代貨幣研究・報告集」として、次の論稿が掲載された。
古賀達也 プロジェクト貨幣研究 規約
古田武彦 プロジェクト貨幣研究 第一回、第二回、第三回
山崎仁礼男 古代貨幣研究方針
木村由紀雄 古代貨幣研究方針
浅野雄二 第一回報告
古賀達也 古代貨幣異聞
古賀達也 続日本紀と和銅開珎の謎
古賀達也 古代貨幣「無文銀銭」の謎
古賀達也 古代貨幣「賈行銀銭」の謎
古賀達也 『秘庫器録』の史料批判(1)(2)(3)
④井真成墓誌には次のように、「國號日夲」と記されている。
「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
■公姓井字眞成國號日夲才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
歸于故鄕」
※■は判読できない欠字。

百済人祢軍墓誌


第2427話 2021/04/09

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (1)

 昨日、「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248が届きました。同紙には、「日本」という国名が記されているとして注目された「百済人祢軍墓誌」に関する論稿二編が掲載されており、興味深く拝読しました。それは、畑田寿一さん(一宮市)の「祢軍墓誌からみる白村江の戦い以後の日本」と石田泉城さん(名古屋市)の「『祢軍墓誌』を読む」です。いずれも「古田史学の会・東海」にふさわしい多元史観・九州王朝説による論稿で、新たな視点と仮説が提起されており、とても触発されました。

 畑田稿は〝祢軍墓誌の記述からは、白村江戦以降の日本列島に東西二つの国があったことが読み取れる〟というもので、西の九州王朝と東のヤマト朝廷の併存という仮説へと展開されています。

 石田稿は、祢軍墓誌に記されている文字は「日夲」であり、「本」と「夲」は本来別字で、この部分は国名としての「日本(夲)」ではないとするものです。そして、通説のように「于時、日夲餘噍」(この時、日本の餘噍は)と訓むのではなく、「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)と訓むべきとする新読解を提起されました。そして、この「夲餘噍」を百済の残党と解されました(注①)。
わたしとしては当墓誌についてまだ研究段階でもあり、いずれの説にも賛成できるわけではありませんが、学問研究には異なる説が自由に発表でき、批判を歓迎し、互いにリスペクトしながら真摯に論争・検証することが大切と考えており、両仮説の発表を歓迎したいと思います。特に石田稿では、わたしが『古田史学会報』108号で発表した「百済人祢軍墓誌の『僭帝』」(注②)への批判もなされていましたので、精読させていただきました。

 ご批判いただいた拙稿は、「百済人祢軍墓誌」の存在を知った当初の論稿でもあり、不十分かつ不安定な内容でした。そこで、良い機会でもありますので、石田稿で指摘された論点について、わたしの理解を説明したいと思います。(つづく)

(注)
①餘噍とは残党の意味。
②古賀達也「百済人祢軍墓誌の『僭帝』」『古田史学会報』108号、2012年2月。これに先だって、次の「洛中洛外日記」で同墓誌について触れた。
古賀達也「洛中洛外日記」353話(2011/11/22)〝百済人祢軍墓誌の「日本」〟
古賀達也「洛中洛外日記」355話(2011/12/01)〝百済人祢軍墓誌の「僭帝」〟
古賀達也「洛中洛外日記」356話(2011/12/03)〝南郷村神門神社の綾布墨書〟

百済禰軍墓誌


第1549話 2017/12/06

渤海国書の「日本」

 今朝は久しぶりの東京出張で、新幹線車中で書いています。天候も良く、冠雪した富士山を見たくて窓側のE席を何とか予約できました。

 「洛中洛外日記」1537話の「百済禰軍墓誌の『日本』再考(1)」でも書いたように、「日本」表記に関する先行研究論文を読んでいます。そして、それらにもよく引用されている、『続日本紀』掲載の渤海国王からの国書に見える「日本」について考察を深めています。この渤海国の国書には以前から興味を持っていたのですが、今回、改めて読んでみると面白いことに気づきました。当該国書の一部を引用します。

 「武藝、啓(もう)す。(中略)伏して惟(おもひ)みれば、大王天朝命を受けて、日本、基を開き、奕葉(えきよう)光を重ねて、本枝百世なり。(後略)」聖武天皇 神亀五年正月条(728年)

 渤海国王(このときは渤海郡王)の武藝から聖武天皇に出された国書ですが、「啓す」という、共に唐の冊封を受けている対等な国の間で使用される字を用いていることから、渤海国は日本国とは対等であるとの立場に立った国書とされています。

 この国書記事がある神亀五年(728年)は『日本書紀』成立(720年)以後ですが、『日本書紀』に記された「天皇」という称号ではなく、「大王」と表記していることから、この時点では渤海国は『日本書紀』を入手していなかったと思われます。あるいは、唐の天子(高宗)が「天皇」を称していたことがあるため、それと同じ称号使用を避けたのかもしれません。

 国書では、日本国の成立について大王の天朝が命を受けて、日本を開基したとあり、この「天朝」という表記も意味深です。天朝が日本を開基する前は、その天朝の国名は何だったと理解しているのでしょうか。また、誰からの命を受けたというのでしょうか。一つの試案(作業仮説)として、唐の命を受けた天朝が日本を開基したという理解はいかがでしょうか。唐の冊封を受けている国が日本という国を開基したのですから、唐の命以外に誰からの命を受けたとできるのでしょうか。

 次に注目されるのが「奕葉光を重ねて、本枝百世なり」という日本国の歴史に関する表現です。倭国(九州王朝)と戦った高句麗の後継でもある渤海国は、701年に日本国が倭国(九州王朝)に替わって日本列島の代表者になったことを知っていたと思われますから、その天朝が日本を開基してから「百世」を経ていないことも理解しているはずです。そのため「本枝百世」という表現にしたのではないでしょうか。すなわち、倭国(本)と日本国(枝)を併せて「百世」と認識していたのではないでしょうか。

 倭国と日本国の関係を「本枝」という表現に例えたのは、多元史観・九州王朝説からすれば見事な歴史認識表記と思われるのです。そうだとすれば、倭国から日本国への王朝交代は所謂「放伐」てはなく、遠戚関係にあった権力者間による交代と、渤海国は認識していたと言えるようです。

 以上のように、728年に日本国にもたらされた渤海国からの国書は多元史観・九州王朝説に整合すると思われるのです。引き続き、国書文面の精査と、日本を開基した大王とは誰か、その時期はいつかについて研究したいと思います。

 ここまで書いたところで、新横浜駅に着きました。東京まであと少しです。


第1537話 2017/11/11

百済禰軍墓誌の「日本」再考(1)

 久留米市の犬塚幹夫さんから百済禰軍墓誌の研究論文のコピーをたくさんいただいたのですが、ようやく時間ができましたので少しずつ読み始めました。その中には筑紫土塁保存運動の先頭に立たれている清原倫子先生の「中国出土の墓誌にみる亡命百済人について 百済禰軍と扶余太妃」もありました。

 禰軍墓誌については6年ほど前に少しだけ調べ、「洛中洛外日記」353話(2011/11/22)「百済人祢軍墓誌の『日本』」などで報告しました。既に諸説が発表されており、中でも東野治之さんの「百済人祢軍墓誌の『日本』」(岩波書店『図書』2012.02)では墓誌に見える「日本」を倭国の国名ではなく朝鮮半島諸国のこととされ、この説は有力視されています。

 他方、氣賀澤保規さんは「百済人『祢軍墓誌』と“日本”と660年代の東アジア情勢」(文化継承学Ⅰ報告史料、2013年4月)で東野説を批判され、その時代に国号としての「日本」表記は成立していたと考えてよいとされました。わたしから見ると、東野説も氣賀澤保規さんの批判も大和朝廷一元史観枠内での解釈であるため、いずれも説得力に欠けるように思われました。(つづく)


第356話 2011/12/03

南郷村神門神社の綾布墨書

 百済人祢軍墓誌の「僭帝」が誰なのかという考察を続けていますが、倭王筑紫君薩野馬とする見解に魅力を感じながらも断定できない理由があります。それは、百済王も年号を持ち、「帝」を自称していた痕跡があるからです。 百済王漂着伝承を持つ宮崎県南郷村の神門(みかど)神社に伝わる綾布墨書に「帝皇」という表記があり、これが7世紀末の百済王のことらしいのです。「明雲 廿六年」「白雲元年」という年号表記もあり、百済王が「帝皇」を名乗り、年号を持っていた痕跡を示しています(『古田史学会報』20号「百済年号の発見」 で紹介しました)。

 また、金石文でも「建興五年歳在丙辰」(536年あるいは569年とされる)の銘を持つ金銅釈迦如来像光背銘が知られており、百済年号が実在したことを疑えません。こうした実例もあり、百済王が「帝」を自称した可能性も高く、百済人祢軍墓誌の「僭帝」が百済王とする可能性を完全に排除できないのです。

 学問の方法として、自説に不利な史料やデータを最も重視しなければならないという原則があります。従って、百済人祢軍墓誌の「僭帝」を百済王とする可能性が有る限り、どんなに魅力的であっても「僭帝」を倭王とする仮説を、現時点では「断定」してはならないと思っています。

百済禰軍墓誌


第355話 2011/12/01

百済人祢軍墓誌の「僭帝」

 この2週間ほど、毎日のように百済人祢軍墓誌のことを考えています。幸い同墓誌の拓本コピーを水野さんから送ってい ただき(古田先生から入手されたもの)、その難解な漢文と悪戦苦闘しているのですが、中でもそこに記された「僭帝」とは百済王のことなのか倭王のことなの かが、今一番の検討課題となっています。
 この「僭帝」という言葉は墓誌の中程(全31行中の14行目)に「僭帝一旦称臣」という記事で一回だけ出現します。その6行前には「顕慶五年(660) 官軍平本藩」と官軍(唐)が本藩(百済)を征服した記事があり、同じく4行前には「「日本余(口へんに焦)、據扶桑以逋誅」という記事があります。そして 「萬騎亘野」「千艘横波」という陸戦や海戦を思わせる記事(白村江戦か)があり、「僭帝一旦称臣」に続いています。次に年次表記が現れるのは「咸亨三年 (672)」の授位記事(17行目)ですから、「僭帝一旦称臣」はその間の出来事となります。更にいえば白村江戦(663)以後でしょう。
 従って、660年に捕虜となった百済王ではないようです。しかも「日本」記事の後ですから、やはり倭王と考えるのがもっとも無理のない解釈と思われま す。そうすると、大和朝廷は天智の時代ですが、『日本書紀』には天智が唐の天子に対して臣を称したなどという記事はありませんから、この「僭帝」は大和朝 廷の天皇ではなく、九州王朝の天子、おそらく薩野馬である可能性が大きいのではないでしょうか。
 しかも『隋書』によれば、九州王朝の多利思北弧は天子を自称していますから、唐の大義名分から見て倭王は「僭帝」、すなわち「身分を越えて自称した帝」 という表現もぴったりです。また、墓誌には何の説明もなく「僭帝」という表記をしていることから、七世紀末の唐の人々にとっても、「僭帝」というだけで誰のことかわかる有名な人物と理解されます。すなわち、『隋書』に特筆大書された「日出ずる処の天子」を自称した倭王以外に、それらしい人物は東アジアには いないのです。
 以上のような理由から、墓誌の「僭帝」は九州王朝の天子、おそらく薩野馬のことと推定していますが、まだ断定は避けながら、墓誌の検討を続行中です。

百済禰軍墓誌


第353話 2011/11/22

百済人祢軍墓誌の「日本」

 11月の関西例会で水野さんから紹介された「百済人祢軍墓誌」ですが、どうやらこの墓誌は九州王朝説に大変有利な内容を含んでいるようです。現在、墓誌拓本のコピー入手を試みていますが、新聞発表などでわかる範囲で、見解を述べてみたいと思います。

 この墓誌は百済人の祢軍(でいぐん・ねいぐん)という人物の墓誌で、678年二月に長安で没して同年十に埋葬されたと記されています。残念ながら墓誌そのものは行方不明ですが、その拓本が中国の学者から紹介されました。王連竜さん(吉林大学古籍研究所副教授)が「社会科学戦線」7月号で発表された「百済人祢軍墓誌論考」という論文です。中国在住の青木さん(「古田史学の会」会員)のご協力により、同論文を読むことができました。この場をお借りして御礼申し上げます。

 墓誌の中に「日本」という表記があり、これは現存最古の「日本」ということで、マスコミは取り上げています。これはこれですばらしい史料なのですが、実はそれ以外に大変興味深い記事が記されています。

 たとえば「僭帝一旦称臣」という記事です。くわしい解説は拓本コピーで確認した後にしたいと思いますが、この「僭帝」とは誰なのか、百済王なのか、倭王なのかというテーマです。関西例会後の懇親会でも喧々囂々の論争を行いました。墓誌の文脈から判断しなければなりませんが、倭王の可能性も高く、もしそうであれば九州王朝の天子、薩野馬のことではないでしょうか。白村江戦で敗北し、捕らわれの身となった薩野馬であれば、「僭帝一旦称臣」という表現がぴったりです。少なくとも大和朝廷にはこのような天皇がいた記録はありません。

 この他にも、「日本余(口へんに焦)、据扶桑以逋誅」という記事がありますが、朝日新聞(2011/10/23)によれば、白村江戦で敗れた「生き残っ た日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と解説されています。

 唐代において扶桑は東方にある国と認識されており、「日本の別称」という説明は必ずしも正確ではありません。従って、ここは日本の残存勢力が日本(倭国)の更に東に籠もって抵抗を続けていると解すべきではないでしょうか。そすると、扶桑とされた地域は近畿、あるいは東海か関東のいずれかと思われます。

 九州王朝説の立場から見れば、倭国・九州王朝の中枢領域である九州の更に東ということになりそうです。以前、わたしは「九州王朝の近江遷都」という論文で、白鳳元年(661)に九州王朝は近江遷都したのではないかという説を発表しました。すなわち、白村江戦の直前に九州王朝は近江に遷都したと理解したの です。こうした視点からすると、日本残存勢力が籠もったとする扶桑とは、近江宮か前期難波宮ということになります。

 墓誌拓本そのものを見ていませんので、まだアイデア(思いつき)の段階ですが、この墓誌の内容のすごさが予感されるのです。今後、拓本精査の上、詳論したいと考えています。

百済禰軍墓誌