第2429話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)

 ―対句としての「日夲」と「風谷」―

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)では、百済人祢軍墓誌に見える「于時日夲餘噍」を「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)とする新読解を発表されました。「本」と「夲」は別字であり、墓誌の「日夲」を国名の「日本」とはできないとしたため、こうした読解に至ったものと思われます。漢文の訓みとしては可能なのかもしれませんが、この訓みを否定することになる見解を東野治之さんが発表していますので紹介します。

 百済人祢軍墓誌の当該部分は次の通りです。

「于時日本餘噍據扶桑以逋誅風谷遺氓負盤桃而阻固」

 これを東野さんは次のように訓まれ、正格漢文として対句になっているとされました。(注②)

「時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋(のが)れ、風谷の遺氓、盤桃を負いて阻み固む。」

 この「日本の餘噍」と「風谷の遺氓」が対句になっており、「正格の漢文体で書かれた文章は、厳格な対句表現を特徴とする。」と指摘されました。ただし東野さんは、この「日本」を国名とはされず、「日本餘噍」は百済の残党とされています(注③)。

 この東野さんの訓みは優れたものと思いますが、わたしは「日本餘噍」を前期難波宮か近江朝に落ち延びた九州王朝の残党と考えており、この点が大きく異なっています。言わば、一元史観と多元史観の相違です。なお、「于時日本餘噍」を「于時日、本餘噍」と区切る訓みは、ブログ「古代史の散歩道など」(注④)の主宰者が既に発表されていますので、ご参考までに当該部分を転載します。

【以下、部分転載】
私の本棚 東野治之 百済人祢軍墓誌の「日本」 2018/07/01
掲載誌『図書』2012年2月号(岩波書店)
(前略)
東野氏は、「于時」を先触れと見て、「日本余噍、拠扶桑以逋誅」とこれに続く「風谷遣甿、負盤桃而阻固」を四字句+六字句構成の対句と捉え、まことに、妥当な構文解析と思う。
ここに、当ブログ筆者は、「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅」と六字句+六字句と読めるではないか、そして、それぞれの六字句は、三字句+三字句で揃っているのではないか、と、あえて異説を唱え、見解が異なる。
つまり、当碑文は、「于時日 本余噍 拠扶桑 以逋誅」と読み、国号にしろ、詩的字句にしろ「日本」とは書いてないとするのが、当異説の壺であり、無謀かも知れないが旗揚げしているのである。
ちなみに、「本余噍」とは、「本藩」、すなわち「百済」余噍、つまり、「百済」残党である。
従って、当碑文は「日本」国号の初出資料ではないと見るのである。これは、東野氏の説くところに整合していると思う。(後略)
【転載おわり】

 百済人祢軍墓誌については『古代に真実を求めて』16集(2013年、明石書店)で特集しており、ご参照いただければと思います。次の論稿が掲載されています。

阿部周一 「百済祢軍墓誌」について ―「劉徳高」らの来倭との関連において―
「百済禰軍墓誌」について — 「劉徳高」らの来倭との関連において 阿部周一(古田史学会報111号)

古賀達也 百済人祢軍墓誌の考察
百済人祢軍墓誌の考察 古賀達也(古田史学会報108号)

水野孝夫 百済人祢軍墓誌についての解説ないし体験
資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月
②東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」岩波書店『図書』756号、2012年2月。
③東野治之「日本国号の研究動向と課題」『史料学探訪』岩波書店、2015年。初出は『東方学』125輯、2013年。
④https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-337c.html

百済人祢軍墓誌

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