木簡一覧

木簡庫
奈良文化財研究所「木簡データベース」
https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/
 参考 YouTube講演
木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y
古田史学の会・関西例会
2023年8月19日

第3292話 2024/05/27

二つの「白雉元年」と難波宮 (4)

  ―九州王朝の「白雉元年二月条」―

 『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650年)二月条の白雉改元記事は、九州王朝により九州年号の白雉元年(652年)二月に行われた改元の行事を記した九州王朝系史書からの転載(盗用)と思われます。同記事の内容もそのことを示しています。それは次の二点です。

(1) 改元記事には九州王朝への「人質」となっていた百済王子豊璋等の名前が見える。
〝甲申(15日)、朝庭の隊仗、元會儀の如し。左右大臣・百官の人等、四列を「紫門」の外に為す。(中略)左右大臣乃(すなわ)ち、百官及び「百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝」・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率いて、「中庭」に至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を殿前に進ましむ。〟

(2) 応神天皇の時代に白烏が宮に巣を作ったという吉祥や、仁徳天皇の時代に龍馬が西に現れたという記事などが特筆されているが、いずれも記紀の同天皇条には見えない事件であることから、これらも九州王朝系史書にあった記事と思われる。
〝詔して曰く「聖王、世に出(い)でて天下を治める時、天則(すなわち)ち應えて其の祥瑞を示す。曩者(むかし)、西土の君、周の成王の世と漢の明帝の時に白雉爰(ここ)に見ゆ。我が日本國、譽田天皇の世に白烏宮に樔(すく)ふ。大鷦鷯帝の時に龍馬西に見ゆ。(後略)」〟

 このように難波に九州王朝が都(太宰府倭京と難波京の複都制)を造り、諸行事を執り行ったことにより、それら九州王朝の事績が『日本書紀』孝徳紀に詳しく取り込まれたと思われ、同時に孝徳自身が賀正礼や改元の儀に臣下の一人として出席していたと考えざるを得ません。

 二つの「白雉元年」という史料事実は、こうした歴史の真実に迫る上で重要なエビデンスであり、視点であることをご理解いただけるものと思います。なお、このエビデンスと視点は、二つの「大化年号」研究でも重要であり、このことは古田先生や、近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)をはじめ少なからぬ古田学派研究者が「大化改新詔」研究として発表されてきたところです。(おわり)


第3289話 2024/05/23

二つの「白雉元年」と難波宮 (1)

 ―「白雉」年号のエビデンス―

 九州年号「白雉」には『日本書紀』型と『二中歴』型の二種類があります。

◎『日本書紀』型は元年を650年庚戌として、五年間続く。
◎『二中歴』型は元年を652年壬子として、九年間続く。

 後代史料には、この二種類の白雉年号の存在に困惑したためか、次のような表記さえ出現します。

 「白雉元年[庚戌]歳次壬子」『箕面寺秘密緑起』(注①)

 []内の庚戌は小字による縦書き二行ですので、元来は「白雉元年歳次壬子」(652年)とあった記事に、『日本書紀』の「白雉元年」の干支「庚戌」(650年)を小文字で書き加えたものと思われます。というのも、元々「白雉元年[庚戌]」とあったのであれば、「歳次壬子」を付記する必要は全くありませんし、意味不明の年次表記にする必要もありません。しかし、「白雉元年歳次壬子」とあったのであれば、『日本書紀』の白雉元年干支と異なっているため、「庚戌」を付記したと動機を説明できます。

 50年に及ぶ九州年号研究により、『二中歴』型が最も九州年号の原姿に近く、『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用であると理解されてきました。その後、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡の再調査(2006年)により、『二中歴』型が正しかったことが決定づけられました。

 しかしながら、『木簡研究』19号(注②)には「三壬子年」と判読していましたので、兵庫県教育委員会の許可を得て、2006年4月21日に古田先生らと同木簡を二時間にわたり実見調査しました。そして次の所見を得ました。

【「元壬子年」木簡観察の所見】
1.第三画の右端が極端に上に跳ねている。木目に沿った墨の滲みかとも思われたが、そうではなく明確に上に跳ねていた。下には滲みがない。これが「元」である最大の根拠である。
2.第三画の中央付近が切れている。赤外線写真も撮影して確認したが、肉眼同様やはり切れていた。従って、「三」よりも「元」に近い。
3.第三画が第一画と第二画に比べて薄く、とぎれとぎれになっている。更に、左から右に引いたのであれば、書き始めの左側が濃くなるはずだが、実際は逆で、右側の方が濃くなっている。これは、右側と左側が別々に書かれた痕跡である。
4.木目により表面に凹凸があるが、第三画の左側は木目による突起の右斜面に墨が多く残っていた。これは、右(中央)から左へ線を書いた場合に起きる現象。従って、第三画の左半分は、右から左に書かれた「元」の字の第三画に相当する。
5.第三画右側に第二画から下ろしたとみられる墨の痕跡がわずかに認められた。これは「元」の第四画の初め部分である。

 以上のように、「三」ではなく「元」であることは明白ですし、肉眼でも「元」に見えました。元年を壬子の年とする年号は九州年号の「白雉」であり(注③)、やはり『二中歴』型が正しかったわけです。『木簡研究』の報告は『日本書紀』の二年ずれた白雉年号の影響を受けたようです。(つづく)

(注)
①「箕面寺秘密緑起」は五来重編『修験道資料集Ⅱ』(名著出版、1984年)による。同書解題には、「箕面寺秘密緑起」を江戸期成立と見なしている。
②『木簡研究』19号、木簡学会、1997年。
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/8834/1/AN00396860_19_044_045.pdf
③『木簡研究』19号には、高瀬氏一嘉氏による次の説明がなされている。
「裏面は年号と考えられ、年号で三のつく壬子は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」


第3283話 2024/05/09

「正方位」宮殿の一元史観による編年

 泉論文(注①)では、下層遺跡土壙(SK10043)から出土した「贄」木簡、湧水施設(SG301)から出土した「謹啓」木簡などを根拠として、南北正方位の巨大宮殿である前期難波宮を天武朝、その下層遺構の東偏(N23°E)した建物跡(SB1883)などを孝徳朝の宮殿としました。これら木簡の他に、その建物の建築方位についても自説の根拠としました。それは飛鳥宮跡などの建築方位の変遷を根拠とする次の解釈によります。

(1) 飛鳥宮跡第Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636年)に比定されており、その建築方位は北で約20度西に振る。
(2) 第Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643年)であり、それ以降は建物主軸は正方位となる(注②)。
(3) 石舞台古墳の西の地域に造営された島庄遺跡は、Ⅰ~Ⅲ期(600~670年代)までは西偏する建物であり、Ⅳ期(670年以降)は正方位となる。Ⅳ期の建物は大規模な土地造成と設計計画のもとに建てられている(注③)。
(4) これらの調査成果により、自然地形に制約された建物主軸が正方位に変更されるのは七世紀中頃以降であるとの見通しが得られる。
(5) 以上のように、飛鳥京の諸宮殿と前期難波宮の二つの宮殿建物(前期難波宮と下層遺跡建物)は、斉明朝(皇極朝カ)から孝徳朝にかけて正方位建物ではなかった蓋然性が強い。

 この説明のうち、(1)(2)(3)は考古学的エビデンスとその編年の解釈で、それらに基づいた編年理解が(4)(5)になります。しかし、(1)(2)に基づけば正方位建物の出現は七世紀中葉であり、(3)を重視すれば七世紀後葉となりますので、そうした二つの解釈の内、後者の解釈を採用して(5)の自説を導き出すのは恣意的のように見えます。

 わたしは難波や飛鳥の王宮建築では、七世紀中葉になって正方位を採用したと考えていますが、仮に泉論文の解釈(5)が成立するとしても、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解によれば、九州王朝が飛鳥の近畿天皇家よりも早く正方位の宮殿建築を採用したと理解することが可能であり、やはり問題はありません。

 このように泉論文の一見鋭い指摘は、近畿天皇家一元史観に基づく通説に対して有効ではあっても、九州王朝説にとってはむしろ通説の限界や矛盾を指摘した視点となり、前期難波宮九州王朝複都説を側面から支持する研究と言うことができるのです。

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『飛鳥京跡Ⅲ』橿原考古学研究所調査報告第102冊、2008年。
③相原嘉之「嶋宮をめぐる諸問題 ―島庄遺跡の発掘成果とその意義―」『明日香村文化財調査研究紀要』第10号、明日香村教育委員会、2011年。


第3085話 2023/07/31

王朝交代の痕跡《木簡編》(4)

 九州王朝時代の上部空白型干支木簡

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡冒頭の年干支(辛丑)の上に年号(大寶元年)を書き加えた元岡桑原遺跡出土「大宝元年」木簡により、九州王朝中枢領域の役人たちは、年次特定のために年干支と年号を併用するという表記スタイルを理解していたことを疑えません。しかし、九州年号が採用されていた時代〔継体元年(517年)~大長九年(712年)、『二中歴』による〕の木簡には年干支のみを記し、九州年号を記したものはありません。木簡の出土事実を見る限り、そう言わざるを得ないのです。そこでわたしは、九州王朝は使い捨てされる木簡に王朝の象徴でもある年号の使用を忌避したのではないかと考えたわけです。すなわち、木簡への年号記載を敢えてしなかったのです。

 この推論を支持する木簡が存在します。それは、目的地に着けば使い捨てられる荷札木簡ではなく、記録文書としての役割を持ち、一定期間保管されたであろう文書木簡と呼ばれるもののなかにありました。荷札木簡の場合、木簡の最上部から年干支が記されるのですが、文書木簡には上部に空白部分を残し、木簡の途中から年干支が記されるものがあることに、わたしは気付きました(注①)。管見では次の木簡です(注②)。

【木簡番号11】 難波宮跡出土
「・「□」○『稲稲』○戊申年□□□\○□□□□□□〔連ヵ〕」
「・『/〈〉/佐□□十六□∥○支□乃□』」
※戊申年は648年。紀年銘木簡としては最古。(古賀注)

【木簡番号1】 芦屋市三条九ノ坪遺跡出土
「・子卯丑□伺」
「・○元壬子年□」
※壬子年は652年。「木簡庫」では「三壬子年」とするが、筆者が実見したところ、「元壬子年」であった(注③)。紀年銘木簡としては2番目に古い。(古賀注)

【木簡番号185】 飛鳥池遺跡北地区出土
「・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)」
「・○□\○□」
上端・左右両辺削り、下端折れ。表面の左側は剥離する。「庚午年」は天智九年(六七〇)。干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。共伴する木簡の年代観からみてもやや古い年代を示している。庚午年籍の作成は同年二月であり(『日本書紀』天智九年二月条)、関連があるかもしれない。(奈文研「木簡庫」の解説)

 これら三点の木簡に共通していることは、いずれも荷札木簡ではなく、冒頭の年干支の上部に数文字分の空白があることです。現状の姿は、干支の上部に「稲稲」や「合合」の文字があるため、当初、わたしはそこが空白であったことに気付きませんでした。しかし、報告書などによれば、それらは後から書き込まれたもの(習字)であり、本来は空白だったのです。

 なかでも、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡は、元年を意味する「元」の文字があり、この「元壬子年」が九州年号の白雉元年壬子(652年)であることを示しており、「九州年号木簡」の一種とも言えるものです。従って、九州年号「白雉」が入るべきスペースとして意図的に上部に空白を設けたと思われるのです。同様に「戊申年」の上部には九州年号「常色二年」(648年)、「庚午年」の上部には「白鳳十年」(670年)の文字が入るべきものだったのです。
しかし、実際には空白スペースとなっていることから、九州年号を木簡に記すことを憚ったと考えるほかないように思われます。紙とは異なり、狭小なスペースしかない木簡ですから、不要な空白、しかも冒頭部分にいきなり空白スペースを設ける合理的な理由は見当たりません。文章末尾に結果として〝余白〟が生じるのならまだしも、いきなり冒頭部分に無意味な空白スペースを設けることは考えにくいのです。こうしたことから、九州王朝では木簡に年号を記すことを〝行政命令(格式)〟で全国一律に規制したとする仮説に至りました。そうとでも考えなければ出土木簡の史料事実(九州年号皆無)を説明できませんし、上部空白型干支木簡の合理的説明も困難ではないでしょうか。
それでは、木簡以外の金石文ではどうだったのでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」460話(2012/08/29)〝九州年号改元の手順〟
同「洛中洛外日記」1385話(2017/05/06)〝九州年号の空白木簡の疑問〟
同「洛中洛外日記」1961話(2019/08/12)〝飛鳥池「庚午年」木簡と芦屋市「元壬子年」木簡の類似〟
同「前期難波宮出土「干支木簡」の考察」『多元』157号、2020年。
奈良国立文化財研究所ホームページ「木簡庫」
③古賀達也「木簡に九州年号の痕跡─『三壬子年』木簡の史料批判─」『古田史学会報』74号、2006年。
同「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。


第3084話 2023/07/30

王朝交代の痕跡《木簡編》(3)

―年次表記、木簡冒頭から末尾へ―

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡として、木簡に見える年次表記の干支から年号への変更があるのですが、その表記位置(書式)にも変化が生じています。700年以前の九州王朝時代は木簡の表側の冒頭に干支が書かれ、その後に文章が続きますが、701年以後の大和朝廷の時代になると、文章の末尾に年号、あるいは年号+干支で年次が書かれるようになります。わたしはこの変化も王朝交代の重要な痕跡と考えています。この具体例として藤原宮出土木簡を紹介します(注①)。

《七世紀、九州王朝(倭国)時代の木簡》
【木簡番号1408】藤原宮跡東方官衙北地区
「庚子年三月十五日川内国□〔安ヵ〕→」 ※庚子年(700年)。
上端削り、下端折れ、左辺割りのまま、右辺二次的割りか。「庚子年」は文武天皇四年(七〇〇)。「川内国安」は、『和名抄』の河内国安宿郡にあたる。
【木簡番号146】藤原宮跡北面中門地区
「庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥」 ※庚子年(700年)。
庚子の年は文武四年(七〇〇年)。小丹生評木ツ里は『倭名鈔』では大飯郡木津郷にあたる。大飯郡は天長二年に遠敷郡より分置された(『日本書紀』天長二年七月辛亥条)。津をツと表記するのは国語史上注目される。用例としては大宝二年美濃国戸籍や藤原宮出土の墨書土器「宇尼女ツ伎」(奈教委『藤原宮』)にもみえる。

《八世紀、大和朝廷(日本国)時代の木簡》
【木簡番号1409】藤原宮跡東方官衙北地区
「・○□・□○慶雲元年七月十一日」 ※慶雲元年(704年)。
上下両端切断か、左辺削りか、右辺二次的割り。
【木簡番号1216】藤原宮跡東方官衙北地区
「□大贄十五斤和銅二年四月」 ※和銅二年(709年)。
上下両端折れ、左辺割れ、右辺削り。下端右部は切り込みの痕跡をとどめるか。

 このように木簡製造年次の記載位置が、木簡の冒頭から末尾へと大きく変化しています。両者の年次記載位置が王朝交代により一斉に変化している事実から、新旧王朝が定めた記載ルール(書式)に全国の担当役人が従っていたと考えざるを得ません。大和朝廷時代の木簡に年号が使用されるようになったのは、大和朝廷による新ルール「大宝律令」儀制令に従ったものと思われ、その条文は恐らく次の『養老律令』儀制令と同様と考えられています。

「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)

そして王朝交代直後、新旧両書式の移行途中に生じたと思われる表記が、元岡桑原遺跡出土の「大宝元年」木簡に見えます。

《701年、元岡桑原遺跡の「大寶元年辛丑」木簡》
〔表面〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている(注②)。

 この木簡は、九州王朝時代の書式である木簡冒頭の年干支(辛丑)の上に年号(大寶元年)を書き加えたものです。王朝交代直後(大宝元年十二月)の九州王朝中枢領域(筑前国)で、こうした中間的な書式が成立した背景には、九州王朝書式の伝統と、九州年号使用の実績があったからではないでしょうか。ちなみに、大和朝廷による大宝年号の建元はその年の三月と『続日本紀』に記されていることから、その九ヶ月後にこの木簡が作成されたことになります。(つづく)

(注)
①奈良国立文化財研究所ホームページ「木簡庫」。
②服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。


第3083話 2023/07/29

王朝交代の痕跡《木簡編》(2)

 ―「干支」木簡から「年号」木簡へ―

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡として、木簡に見える行政単位の全国一斉変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)こそ、代表的なエビデンスと指摘しました。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれにとどまりません。701年を境にして、ほぼ全国一斉に紀年表記が変更されています。すなわち干支から年号へ、あるいは年号+干支への変更です。

 荷札木簡を中心に、その発行年次の表記方法が700年までは年干支が採用されていますが、王朝交代後の大和朝廷(日本国)の時代になると年号が使用されるようになります。その最初の例が福岡市西区元岡桑原遺跡群から出土した「大寶元年」(701年)木簡です。同遺跡の九州大学移転用地内で、古代の役所が存在したことを示す多数の木簡が出士し、その「大寶元年」木簡には次の文字が記されていました(注①)。

〔表面〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている。

 これは納税の際の物品名(鮑)や、運搬する馬の特徴(黒毛馬胸白)を記したもので、関を通週するための通行手形とみられています。

 同遺跡出土木簡については既に「洛中洛外日記」(注②)で論じてきたところですが、王朝交代直後の701年(大宝元年、九州年号の大化七年に相当)に前王朝の中枢領域内(福岡市西区)で、新王朝が建元したばかりの大宝年号が使用されていることから、九州王朝から大和朝廷への王朝交代は、事前に周到な準備を経て、全国一斉になされたことがこれらの木簡からわかります。
このような木簡での年号使用は評から郡への変更と共に、ほぼ同時期に全国一斉に行われていることから、恐らく「大宝律令」儀制令の規定に基づくものと考えられます(注③)。

 他方、700年以前の九州王朝時代の木簡では、製造年次の特定方法として例外なく干支が用いられています。同じ元岡桑原遺跡出土木簡を一例として紹介します。

壬辰年韓鐵□□

※□は判読不明文字。「壬辰年」は伴出した土器の編年から、692年のこととされる(注④)。この年は九州年号の朱鳥七年に当たる。

 九州王朝時代は九州年号があるにもかかわらず、例外なく干支表記が採用されていることから、九州王朝は使い捨てされる木簡に、王朝の象徴でもある年号を使用することを規制したのではないかとわたしは考えています。もし、九州王朝律令あるいは行政命令(格式)にこうした規制条項がなく、全国の担当役人全員が、たまたま荷札に九州年号を使用せず干支だけを使用した結果とするのは、あまりに恣意的な解釈と言わざるを得ません。この出土事実を〝偶然の一致〟とするのではなく、九州王朝の国家意思が徹底されたことの痕跡と捉えるべきです(注⑤)。その〝証拠〟が木簡に遺されていました。(つづく)

(注)
①服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。
②古賀達也「洛中洛外日記」3051~3054話(2023/06/24~27)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(1)~(4)〟
③『養老律令』儀制令には次のように公文書に年号使用を命じており、荷札木簡もそれに準じたものと思われる。
「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)
なお、『令集解』「儀制令」に次の引用文が記されており、同様の条文が『大宝律令』にも存在したと考えられている。
「釋云、大寶慶雲之類。謂之年號。古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。穴云、用年號。謂延暦是。問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前云耳。」『令集解』(国史大系)第三 733頁。
ここに見える「古記」には「大寶」だけを例示していることから、この記事は『大寶律令』の注釈とされている。
④『元岡・桑原遺跡群12 ―第7次調査報告―』(福岡市教育委員会、2008年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2033~2046話(2019/11/03~22)〝『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)~(6)〟
この拙稿に対する次の批判がある。
阿部周一「『倭国年号』と『仏教』の関係」『古田史学会報』157号、2020年。


第3082話 2023/07/28

王朝交代の痕跡《木簡編》(1)

 ―「評」木簡から「郡」木簡へ―

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』27集の特集テーマが「王朝交代」であることから、701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡を、エビデンスベースで捉え直す作業に取り組んでいます。その最初の仕事として、木簡に見える王朝交代の痕跡について改めて検討しました。

 出土木簡が決め手となり、一応の〝決着〟がついた古代史研究で著名な郡評論争ですが、一元史観の通説では、単なる行政単位の名称変更(○○国□□評△△里→○○国□□郡△△里)が701年を境に大和朝廷によりなされたと説明しますが、古田先生は九州王朝から大和朝廷への王朝交代による行政単位の一斉変更としました。

 金石文や木簡などに記された行政単位の評が、701年(大宝元年)からは郡に変更されていること自体は出土木簡により実証的に証明されたものの、通説ではその理由の説明ができませんでした。ところが、古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説による王朝交代という概念の導入によって、行政単位変更の理由が説明可能となったわけです。この木簡に遺された行政単位の全国一斉変更こそ、王朝交代の代表的なエビデンスということができます。しかし、木簡に遺された王朝交代の痕跡はこれだけではありません。(つづく)


第3054話 2023/06/27

元岡遺跡出土木簡に遺る

      王朝交代の痕跡(4)

 元岡・桑原遺跡群出土の二つの紀年木簡、「大寶元年辛丑」(701年)木簡と「壬辰年韓鐵□□」木簡の考察を続けてきましたが、同遺跡からは次の二つの「延暦四年」(785年)木簡も出土しています(注①)。

・口壹升(サイン・花押)
・計帳造書口粮用(伋)口
延暦四年六月廿四日

献上  □□□(沙)魚皮〈折損〉延暦四年十月十四日真成

 701年に王朝交代し、785年にもなると木簡の紀年表記は年号(延暦四年)だけとなり、干支は使用されていません。しかも年号記載箇所は、「大寶元年辛丑」木簡とは異なり、文末に移動します。この頃になると、九州王朝時代の干支表記の伝統が失われていたことがわかります。

 九州王朝は早くから干支に強いこだわりを見せていたように思います。それを象徴するのが元岡遺跡群の古墳から出土した〝四寅剣(刀)〟です(注②)。それには金象眼で次の銘文が記されています。

大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)

 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、570年の庚寅であることがわかります。冒頭の「大歳庚寅」は『日本書紀』の用例に従えば、九州王朝の天子の即位年干支が庚寅であることを意味しますが、この年に九州年号が和僧から金光に改元されており、天子即位による改元と思われます。ところがこの年干支と日付干支が共に庚寅であることに着眼されたのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)でした。

 正木さんによれば、干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣(しいんけん)といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、570年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前3時~5時)に造られたのであれば四寅剣になることに気付かれたのです。朝鮮半島では古代から中近世にかけて四寅剣が数多く作られ、国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです(注③)。この四寅剣(刀)のように、九州王朝は干支の持つ意味に関心を示しており、荷札木簡にさえも年号ではなく干支表記を採用したことに、国家としての深い政治思想が込められていたと思われるのです。

(注)
①『元岡・桑原遺跡群8 ―第20次調査報告―』福岡市教育委員会、2007年。
服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。花押が古代木簡に使用されていたとする見解を服部秀雄氏は提起しており、興味深い。
②古賀達也「洛中洛外日記」339話(2011/09/25)〝「大歳庚寅」象眼鉄刀銘の考察〟
同「洛中洛外日記」340話(2011/10/01)〝「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元〟
同「洛中洛外日記」341話(2011/10/02)〝「大歳庚寅」銘鉄刀の目的〟
同「洛中洛外日記」342話(2011/10/09)〝「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)〟
正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」『古田史学会報』107号、2011年。
古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」『古田史学会報』107号、2011年。
③古賀達也「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟
正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」『古田史学会報』157号、2020年。
古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」『東京古田会ニュース』192号、2020年。
正木 裕「『壹』から始める古田史学・三十三 多利思北孤の時代Ⅹ 多利思北孤と九州年号と「法興」年号」『古田史学会報』167号、2021年。

Youtube 講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y
古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3053話 2023/06/26

元岡遺跡出土木簡に

     遺る王朝交代の痕跡(3)

 福岡市西区元岡・桑原遺跡群からは、「大寶元年」(701年)木簡(第20次調査)の他に七世紀末の紀年木簡が出土(第7次調査)しています。「壬辰年韓鐵□□」(□は判読不明文字)と記された荷札木簡で、「壬辰年」は伴出した土器の編年から、692年のこととされています(注①)。従って、これは王朝交代前の干支紀年木簡で、九州年号の朱鳥七年に当たります。ちなみに、「大寶元年辛丑」は九州年号の大化七年に当たります。

 当木簡に示された「韓鐵」が荷物の鉄製品・素材のことなのか、それとも地名なのかは判断し難いのですが、同遺跡群からは製鉄遺構が出土しており、それとの関係は否定できないと思われます。また、「壬辰年」と「韓鐵」の文字が連続していることを重視すれば、〝壬辰年(692年)に韓半島から届いた鉄〟という理解も可能です(注②)。

 出土した「壬辰年韓鐵」と「大寶元年辛丑」(701年)木簡を多元史観の視点から考察すれば、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代(701年)を跨いで、二つの王朝の木簡紀年表記の変化(干支→年号)を混乱なくスムーズに受け入れたことがわかります。すなわち、当地に於いて王朝交代は混乱なく行われたことを意味します。しかも、九州年号「大化七年(701年)」が継続していたにもかかわらず、大和朝廷の新年号「大宝元年」を干支表記「辛丑」と併用していることから、木簡の記載者は〝年号〟の持つ意味や使用方法を知悉していたと思われます。これには、最初の九州年号「継体」(元年は517年。注③)から続く年号使用の歴史的背景があったこと、言うまでもないでしょう。いわば、筑前国嶋郡は年号使用の最先進地だったのです。(つづく)

(注)
①『元岡・桑原遺跡群12 ―第7次調査報告―』(福岡市教育委員会、2008年
②「韓鐵」を朝鮮半島からの原料鉄とする次の先行説がある。
服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。
③「継体」を最初の九州年号とするのは、『二中歴』年代歴による。

 

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2023年8月19日


第3052話 2023/06/25

元岡遺跡出土木簡に

      遺る王朝交代の痕跡(2)

福岡市西区元岡・桑原遺跡群から出土(第20次調査)した次の「大寶元年」(701年)木簡は、年号が記載されたものとしては国内最古級の木簡です。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
官出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている(注①)。

701年の王朝交代に伴い、大和朝廷は大宝年号を建元(同年三月)し、大宝令を制定・施行します。そして律令制による全国統治を藤原宮で開始し、各地の産物を税として徴収するのですが、その荷札木簡に年号を記すことを命じたものと思われます(注②)。そう考えなければ、荷札木簡が全国一斉に紀年表記が干支から年号に変化したことを説明できません。そしてその最古の年号を記したのが、元岡・桑原遺跡群出土「大寶元年」木簡なのです。

通常、701年以後の荷札木簡の紀年表記は年号だけで、干支は記されないのですが、当木簡は年号と干支の併記「大寶元年辛丑」であることから、大宝令施行直後の状況を示す姿と考えられています(注③)。また、こうした王朝交代による紀年木簡の変化が、大和から遠く離れた九州王朝の中枢領域(筑前国嶋郡)で同時期に発生していることは、王朝交代が事前の周到な準備により、平和裏に行われたことを示唆します。更に、翌大宝二年(702)には大和朝廷による全国的な戸籍「大宝二年籍」が当地でも造籍されます。同戸籍が、正倉院文書「大宝二年筑前国嶋郡川部里戸籍」断簡として遺っていることは著名です。

これらの史料により、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の実像解明が進むことと期待されます。(つづく)

(注)
①服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。
②『養老律令』儀制令には次のように公文書に年号使用を命じており、荷札木簡もそれに準じたものと思われる。

「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)
なお、『令集解』「儀制令」に次の引用文が記されており、同様の条文が『大宝律令』にも存在したと考えられている。
「釋云、大寶慶雲之類。謂之年號。古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。穴云、用年號。謂延暦是。問。近江大津宮庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前云耳。」『令集解』(国史大系)第三 733頁。

ここに見える「古記」には「大寶」だけを例示していることから、この記事は『大寶律令』の注釈とされている。
③『元岡・桑原遺跡群8 ―第20次調査報告―』(福岡市教育委員会、2007年)に、「太賓元年辛丑」(七〇一)の年紀は干支との併用で、大宝令施行直後の状況を示す資料と言えよう。」とある。

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第3051話 2023/06/24

元岡遺跡出土木簡に遺る

    王朝交代の痕跡(1)

 九州年号研究における大きな問題の一つに、出土した紀年木簡に九州年号が見当たらないことがあります(注①)。唯一、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「元壬子年」木簡が(注②)、九州年号「白雉」の元年干支「壬子」と一致することから(注③)、九州年号に基づく干支木簡であることを示しています。

 701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代により、これら出土木簡の表記方法が全国一斉に変化したことが知られています。一つは行政単位が評から郡に、もう一つは紀年表記が干支から年号に変わります。

 こうした王朝交代による紀年木簡の変化が、大和から遠く離れた九州王朝の中枢領域でも王朝交代と同時期に発生しています。それは福岡市西区元岡桑原遺跡群から出土した木簡です。第20次調査(2000~2003年)で同遺跡の九州大学移転用地内で、古代の役所が存在したことを示す多数の木簡が出士しました。その木簡には、大和朝廷の最初の年号である「大寶元年」(701年)と書かれたものがあり、これは年号が記載されたものとしては国内最古級の木簡です。そこには次の文字が記されていました(注④)。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
官出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

※□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されている。

 これは納税の際の物品名(鮑)や、運搬する馬の特徴を記したもので、関を通週するための通行手形とみられています。(つづく)

(注)
①古賀達也「九州王朝「儀制令」の予察 ―九州年号の使用範囲―」『東京古田会ニュース』184号、2019年。
②古賀達也「木簡に九州年号の痕跡――『三壬子年』木簡の史料批判」『古田史学会報』74号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
「『元壬子年』木簡の論理」『古田史学会報』75号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③『日本書紀』の白雉元年(庚戌)は650年、九州年号の白雉元年(壬子)は652年であり、二年のずれがある。「元壬子年」木簡の出土により、九州年号の白雉が正しく、『日本書紀』の白雉は二年ずらして転用したことが明らかとなった。拙稿「白雉改元の史料批判」(『古田史学会報』76号、2006年。『「九州年号」の研究』に収録)において、『日本書紀』の史料批判により、同様の結論に至っていた。
④服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。

参考 Youtube講演

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古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3037話 2023/06/09

律令制都城論と藤原京の成立(3)

 新庄宗昭さんが『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)で発表された諸仮説の大半については、わたしも同意見です。他方、新庄説のなかでも最も賛成できないテーマが、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期(新庄説)とするのか、天武期(通説)とするのかです。最大で約30年もの差異がありますので、考古学的出土物(エビデンス)により、どちらが妥当かは明らかになると思います。

 藤原宮と藤原京の造営経緯を簡単に言えば、藤原京条坊造営開始が先行し、一旦造った条坊道路や側溝などを埋め立てて、その上に藤原宮(大宮土壇)が造営されています。通説ではその年代を、天武期に条坊の造営が開始され、持統期に藤原宮が創建されたとします。

この年代観の根拠となったのが、藤原宮下層から出土した干支木簡です。「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記した木簡が三点あり、天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)に相当します。これらの木簡は藤原宮下層の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮下層条坊道路を掘削して造られたことが判明しています。従って、下層条坊の造営開始は天武十三年以前と考えることができ、更に下層遺構出土土器が藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しています。

 更に下層条坊遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されたことがわかっています。また、下層条坊の側溝出土土器(須恵器坏B)の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。考古学エビデンスである干支木簡(683~684年)や年輪年代(682年伐採)、出土土器(須恵器坏B)編年に基づけば、下層条坊の造営は天武期頃とするのが適切であり、孝徳期・斉明期とするのはさすがに無理とわたしは考えています(注③)。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
③古賀達也「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。