木簡一覧

第2955話 2023/03/01

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (1)

 九州王朝研究に残された大きな課題に、大宰府政庁Ⅰ期の造営年代がありました。政庁Ⅲ期は藤原純友の乱(天慶四年、941年)で政庁Ⅱ期が焼亡した後に再建された礎石造りの朝堂院様式の宮殿です。Ⅱ期も礎石造りの建造物で、ほぼⅢ期と同規模同様式です。言わば、Ⅱ期の真上にⅢ期が再建されたことが調査により判明しています。Ⅱ期造営年代は通説では八世紀初頭とされ、その根拠はⅡ期築地塀の下層から出土した木簡が八世紀初頭前後のものと判断されたことによります(注①)。次の通りです。

「本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。」『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀初頭頃とする通説に対して、わたしは観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学の研究結果を重視し、観世音寺の創建瓦(老司Ⅰ式)と同時期の創建瓦(老司Ⅱ式)を持つ政庁Ⅱ期も670年頃としました(注②)。

 掘立柱建造物の政庁Ⅰ期については七世紀前半であり、九州年号「倭京元年(618年)」頃が有力とわたしは考えてきましたが(注③)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟(注④)を発表し、より踏み込んだ理解を示しました。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「太宰府条坊と宮域の考察」(『古代に真実を求めて』第十三集、明石書店、2010年)。
「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
「観世音寺考」『古田史学会報』119号、2013年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2669話(2022/01/27)〝政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)〟
同「九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―」『古田史学会報』174号、2023年。
④正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。


第2937話 2023/02/05

寺院の漢風名称と和風名称

 天皇の没後におくられる諡(いみな)に漢風諡号と和風諡号があることはよく知られています。寺院にも法隆寺や元興寺という漢風名と地名に基づく斑鳩寺や飛鳥寺のような和風名があります。観世音寺や薬師寺、浄土寺のように仏様や経典に由来する名前もあります。このことについて興味深い論稿を山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ(注)で発表されましたので、要点を紹介します。

 山田さんによれば天武紀の次の記事などを根拠として、天武は寺院の漢風名をやめ、和風名に統一したとされました。

「夏四月辛亥朔乙卯(5日)、詔曰、商量諸有食封寺所由。而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。」『日本書紀』天武八年(679年)四月条。

 もちろん、『日本書紀』の記事を史料根拠としているので、「この日、諸寺の名を定める也」をそのように解釈し、歴史事実と見なしてよいのかは、同時代史料(金石文・木簡)により検証する必要があります。管見では次の七世紀の「寺」史料があります。

○野中寺彌勒菩薩像台座銘(丙寅年、666年)
「柏寺」
○山ノ上碑(辛巳歳、681年)群馬県高崎市
「放光寺」
○観音像造像記銅板(甲午年、694年)
「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号945、遺構番号SK1153)
「飛鳥寺」
○山田寺出土木簡(木簡番号1464、遺構番号 黒灰色粘質土層)
「日向寺」
○飛鳥池遺跡北地区出土木簡(木簡番号181、遺構番号SD1130)
「軽寺」「波若寺」「涜尻寺」「日置寺」「石上寺」

 これらを見る限りでは、山田さんのご指摘は的を射ているようです。この寺号の和風名称への統一を天武が発案し命じたものか、『日本書紀』編者による九州王朝記事の転用かは、今のところ判断できませんが、この時期、飛鳥地方の最高権力者であった天武により、少なくとも同地域内では統一されたと考えてよいように思います。

 更に、山田さんの考察は九州年号「朱鳥」にまで及び、次のようなテーマへと進展し、わたしは驚きました。

「朱鳥元年七月戊午〔20日〕条に、つぎのような興味深い割注があります。

《朱鳥元年(六八六)七月》
戊午、改元曰朱鳥元年。〈朱鳥、此云阿訶美苔利。〉仍名宮曰飛鳥淨御原宮。

 年号「朱鳥」は漢字を普通に(通例に従って)読めば「シュチョウ」ですが、「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という年号だというのです。たしかに「朱」は「あか」なので「あかみ」(「み」は接尾辞)と読めます(朱(あけみ)さんもいますし)。しかし、年号を音読する通例を破るとはなかなかのものではないでしょうか(現在でも年号は「令和(れいわ)」と音読みしています)。
「これほどまでにする理由」は次の二つが考えられます。
(一)天武天皇は「和風が好き」だった。
(二)天武天皇は「漢風が嫌い」だった。」

 九州年号の「朱鳥」に「あかみとり」(「阿訶美苔利」)という和訓を付記する『日本書紀』の記事については以前から注目されてきましたが、山田さんはこの記事を根拠にある結論へと向かいます。それは山田さんのブログでご確認ください。

(注)山田春廣〝倭国一の寺院「元興寺」(番外編)―「法興寺」から「飛鳥寺」へ―〟『sanmaoの暦歴徒然草』。
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/


第2845話 2022/09/27

九州王朝説に三本の矢を放った人々(5)

 通説側からの「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)への反論として考えた前期難波宮九州王朝複都説でしたが、通説側でも論争が続いていました。それは、この巨大な前期難波宮を孝徳期とするのか天武期とするのかというものでした。それぞれに根拠を持った見解でしたので簡単に決着が付きそうもありませんでした。文献史学では、孝徳紀の大化改新詔などの文言が七世紀中頃のものではなく、孝徳紀の記事が疑わしく、出土した前期難波宮も規模や様式が七世紀中頃の宮殿にふさわしくないとする見解が出されていました。

 他方、考古学者からは出土土器編年や宮殿の北西部の谷から出土した干支木簡(「戊申年」648年)を根拠に、孝徳期とする見解が優勢でした。しかし、少数ですが天武期ではないかと考える考古学者もいました。たとえば難波の発掘に携わってこられた大阪歴博の考古学者、伊藤純さんもそのお一人でした。2012年9月、大阪歴博で伊藤さんに前期難波宮についてのご意見をうかがったところ、次のように答えられました(注②)。

「わたしは少数派(天武朝説)です。90数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。しかし、学問は多数決ではありませんから。」

 「学問は多数決ではない」というご意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学出土物(土器編年・634年伐採木樋年輪年代・「戊申年」648年木簡)などは全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。

 伊藤さんの答えは明瞭でした。「もし、宮殿平面の編年というものがあるとすれば、前期難波宮の規模・様式は孝徳朝では不適切であり、天武朝にこそふさわしい。」というものでした。すなわち、孝徳期では大和朝廷の王宮の発展史から前期難波宮は外れてしまい、天武期と考えると適切ということなのです。それと同時に、出土した土器の編年からみると、「孝徳期説の方がすわりが良い」とも正直に述べられました。この発言を聞いて、自説に不利なことも隠さずに述べられる伊藤さんの考古学者としての誠実性を感じました。

 この伊藤さんの〝前期難波宮の規模・様式は大和朝廷の王宮の発展史と整合しない〟とする見解こそ、前期難波宮は近畿天皇家(後の大和朝廷)の宮殿ではないとする、九州王朝複都説の根拠の一つでしたので、伊藤さんの見解を知り、わたしは自説への確信を深めました。(つづく)

(注)
①九州王朝説への《三の矢》「7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。」
②古賀達也「洛中洛外日記」474話(2012/09/26)〝前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾〟


第2669話 2022/01/27

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)

 通古賀(とおのこが)地区以外に政庁地区にもⅠ期の掘立柱建物がありますが、正殿後方の東北側にある後殿地区建物(SB500a、SB500b)の下層から政庁Ⅰ期当時の木簡が出土しています。調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には次のように紹介されています。

〝本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。〟『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀前半とする根拠とされた次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 ここに見える「竺志前」が「筑前」の古い表記であり、筑紫が筑前と筑後に分国された八世紀初頭前後の木簡と推定されたわけです。しかし、九州の分国が六世紀末から七世紀初頭にかけて九州王朝により行われたことが、わたしたちの研究(注②)で判明しています。ですから「竺志前」表記は八世紀初頭前後の木簡と推定する根拠にはならず、むしろ七世紀第3四半期以前まで遡るとしても問題ありません。
この政庁東北部地区からは八世紀初頭頃に至る多くの木簡やその削り屑が出土しており、当地に木簡を取り扱う役所があったのではないかと考えられています。しかし、政庁Ⅰ期時代の中心地と思われる通古賀地区(字扇屋敷)からは離れていますので、どのような役所があったのか未詳です。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の変遷」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」同前。
正木裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号2010年。
「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第2500話 2021/06/23

関川尚功さんとの古代史談義(3)

―なぜ古墳から木簡が出土しないのか―

関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は様々な問題意識をお持ちで、その中に〝なぜ古墳から木簡が出土しないのか〟というものがあり、わたしも同様の疑問を抱いていたので、意見交換を行いました。
国内で出土した木簡は7世紀中頃のものが最古で、紀年が記されたものでは、前期難波宮址の「戊申年」(648年)木簡が最も古く(注①)、次いで芦屋市の三条九之坪遺跡からの「元壬子年」(652年、九州年号の白雉元年)木簡があります(注②)。
一般的には水分を多く含んだ地層から出土しており、普通の地層では木簡は腐食し、残りにくいとされています。古墳石室内の環境では腐食が進み、木簡が遺らないのではないかと推定しています。あるいは木簡を埋納する習慣そのものがなかったのかもしれません。
他方、中国では漢代の竹簡が出土しており、油分を含む竹であれば材質的に遺存しやすいようにも思います。ところが、関川さんによれば、古墳時代の日本には竹簡に使用できるような竹がなかったとのことでした。孟宗竹のわが国への伝来は遅かったということを聞いたことはありますが、竹取物語など竹に関する古い説話(注③)があるので、古代から竹は日本列島にあったのではないかと文献を根拠に反論すると、「古墳から出土しない以上、古墳時代の日本には竹は伝来していなかったと判断せざるをえない」と、関川さんは考古学者らしく、出土事実に基づいて説明されました。しかし、鏃が出土しているので、細い〝矢竹〟はあったはずとのことでした。
古代の日本と中国における木簡と竹簡の採用事情が、情報記録文化の差によるものか、湿度などの自然環境の差によるものなのか、興味深い研究テーマです。先行研究論文などを読んでみることにします。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」419話(2012/05/30)〝前期難波宮の「戊申年」木簡〟
古賀達也「洛中洛外日記」1984~1985話(2019/09/07-08)〝難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(1)~(2)〟
②古賀達也「木簡に九州年号の痕跡 ―「三壬子年」木簡の史料批判―」『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。
古賀達也「『元壬子年』木簡の論理」同上。
③『万葉集』(巻十六、3791番長歌の詞書)に「竹取の翁」の説話が見える。


第2413話 2021/03/19

王朝と官道名称の交替(3)

 九州王朝官道が再編され、名称変更がなされるとすれば、そのタイミングは二回あったように思われます。一つは、九州王朝が難波に複都(前期難波宮)を置いたとき。もう一つは、大和朝廷へと王朝交替(701年、九州年号から大宝元年へ「建元」)したときです。

 前者の場合は同一王朝内での複都造営時(652年、九州年号の白雉元年「改元」)ですから、必ずしも官道名称の変更が必要なわけではありません。しかも、首都の太宰府はその後も継続したと思われますから。
後者は王朝交替に伴う首都の移動ですから、この時点では官道名称変更が大義名分の上からも必要となります。なぜなら、大和朝廷の「七道」のうち「山陽道」「山陰道」は九州王朝官道の「東山道」「北陸道」の前半部分に当たりますから、大和に都(藤原京)を置いた大和朝廷としては、都から南西へ向かう道が「東山道」「北陸道」では不都合なわけです。そのため、「東山道」「北陸道」を分割再編し、大和より西は「山陽道」「山陰道」、東はそれまで通り「東山道」「北陸道」としたのです。また、九州王朝官道の「東海道」も、その前半は大和よりも西の四国地方(海路)を通りますから、これも「南海道」に変更されました。
そこでこうした官道再編や名称変更の痕跡が『日本書紀』や『続日本紀』などに遺されてはいないか、その視点で史料調査したところ、『日本書紀』天武十四年(685)九月条に、次の記事がありました。

「戊午(十五日)に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者とす。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣參路眞人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。」『日本書紀』天武十四年九月条

 この記事に見える、使者(巡察使)が派遣された「東海」「東山」「山陽」「山陰」「南海」「筑紫」は、「七道」から「北陸道」をなぜか除いた各地域のことで、これらは天武の宮殿(飛鳥宮)がある「大和国」(注①)に起点を置いたことを前提とする名称です。この記事が事実であれば、天武十四年(685年)時点では既に九州王朝官道の再編と名称変更が行われていたことになります。これは701年の王朝交替の16年前、持統の藤原宮(京)遷都の9年前のことです。従って、この記事の信憑性が問われるのですが、従来のわたしの研究や知識レベルでは判断できませんでした。しかし、今は違います。この10年での飛鳥・藤原木簡の研究成果があるからです。

 飛鳥遺跡からは九州諸国と陸奥国を除く各地から産物が献上されたことを示す評制下(七世紀後半)荷札木簡が出土しています。「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟で次の出土状況を紹介したところです(注②)。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   7   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   7  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 224 126 350

 七世紀当時、他地域からは類例を見ない大量の荷札木簡が飛鳥から出土しており、当地に列島を代表する権力者(実力者)がいたことを疑えません(注③)。従って、各地へ巡察使を派遣したという天武十四年条記事の史実としての信憑性は高くなります。同時代史料の木簡、しかも大量出土による実証力は否定(拒否)し難いのです。(つづく)

(注)
①藤原宮北辺地区から出土した「倭国所布評大野里」木簡によれば、七世紀末当時の「大和国」の表記は「倭国」である。このことを「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟などで紹介した。
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
③飛鳥池遺跡北地区からは「天皇」(木簡番号224)「○○皇子」(木簡番号64、同92、他)木簡の他に「詔」木簡(木簡番号63、同669)も出土しており、最高権力者が当地から詔勅を発していたことを示している。


第2407話 2021/03/12

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(6)

本シリーズの最後に、飛鳥「京」と出土木簡との最も大きな齟齬について考察します。

 〝服部理論〟によれば、飛鳥出土の王宮跡や官衙遺構などが、律令制による全国統治には不適切(不十分)な規模であることは自明です。しかし、評制下(七世紀後半)の出土木簡(九州諸国と陸奥国を除く全国各地から献上された「荷」札木簡、『日本書紀』に対応した「天皇」「皇子」「詔」木簡、「仕丁」木簡など)を見る限り、飛鳥に七世紀の第4四半期における列島内の最高権力者(実力者)がいたこともまた自明です。この服部さんの論証結果と出土木簡による実証結果の差異が〝最大の齟齬〟とわたしは考えています。

 おそらく通説(一元史観)ではこの〝最大の齟齬〟の合理的説明は不可能ではないでしょうか。従来から学界内で指摘されていた問題ですが、孝徳没後に近畿天皇家は飛鳥へ還都したと『日本書紀』にはありますが、それならばあの巨大な前期難波宮(京)にいた大勢の官僚たちは飛鳥のどこで勤務したのか、その家族はどこに住んでいたのか、という問いに答えられないのです。

また考古学的にも次のような指摘がなされており、『日本書紀』が記す難波や飛鳥の姿と、土器の出土事実が示す風景が全くことなっていることが判明しています。

「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」
「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」
「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」
「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注)

この佐藤さんの論文は、日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れたという意味に於いても研究史に残る画期的なものです。

 他方、多元史観による古田学派の研究者からは、こうした王朝交替期の実相について諸仮説が提起されており、活発な学問論争が続いています。いずれ、研究が深化し、諸仮説が発展・淘汰され、〝最大の齟齬〟を合理的に説明でき、反対論者をも納得させうるような最有力説に収斂していくものと、わたしは期待しています。

(注)佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴博研究紀要』15号、2017年。「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟、同1906話(2019/05/24)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2) 七世紀後半の難波と飛鳥〟で紹介した。


第2401話 2021/03/06

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(4)

 飛鳥宮・藤原宮(京)からの出土木簡(同時代文字史料)に記された内容から、評制下の飛鳥宮地区には〝中央省庁〟の出先(下部)機関はあったが、〝中央省庁〟そのものはなかったのではないか、そして王朝交代後の藤原宮(京)に至って、近畿天皇家は〝中央省庁〟を置くことができたのではないかとする見解をわたしは持っています。しかし、これは史料事実に対する数ある解釈の一つに過ぎず、これ自体は論証でも論証結果としての仮説でもありません。せいぜい、九州王朝説に立つ、わたしの作業仮説(〝思いつき〟〝可能性の一つ〟)の域を出ません。なぜなら、通説側からの史料事実に基づく次のような強力な批判・反論が容易に想定できるからです。

(1)飛鳥宮地区から出土した各国の荷札木簡や「仕丁」木簡の存在により、七世紀後半天武期の頃に、この地に全国統治した権力者がいたことを疑えない。その時代の他地域からは、そのような内容の大量の木簡は出土していない。

(2)飛鳥宮に近畿天皇家の天皇がいたとする『日本書紀』(720年成立)の記述と出土木簡(七世紀後半の同時代文字史料)の内容が整合・対応しており、『日本書紀』に記されたこの時代の記事の信頼性が実証的に証明されている。

(3)飛鳥宮地区からは、当時としては大型の宮殿・官衙遺構(飛鳥京)と天皇や皇子がいたことを示す次の木簡が七世紀後半天武期の層位から出土しており(注①②)、最高権力者とその家族が居住していたことを疑えない。

○「天皇」 木簡番号244、遺構番号SD1130、飛鳥池遺跡北地区
○「舎人皇子」 木簡番号92、遺構番号SX1222粗炭層、飛鳥池遺跡南地区
○「大伯皇子」 木簡番号64、遺構番号SX1222粗炭層、飛鳥池遺跡南地区
○「大来」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-25、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「太来」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-26、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「大友□」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-17、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□大津皇」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-18、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□□□(大津皇カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-19、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「大□□(津皇カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-20、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□□□(津皇子カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-21、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「津皇」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-22、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「皇子□」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-23、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□□(皇カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-24、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「穂積□□(皇子カ)」 木簡番号65、遺構番号SX1222粗炭層、飛鳥池遺跡南地区

(4)上記木簡に記された名前は、『日本書紀』に見える天智や天武の子供たちと同名であり、これだけの一致は偶然とは考えられず、天武とその家族が〝飛鳥宮〟(注③)に住んでいたことは確実である。

(5)従って、七世紀後半に「天皇」「皇子」を名乗った最高権力者(近畿天皇家)が「飛鳥京」で全国を統治したとする通説は、出土木簡と『日本書紀』の記事により真実であると実証された不動の学説であり、そこに九州王朝説が成立する余地は無い。

 以上のように、通説が七世紀後半においては実証的で強力な史料根拠により成立しており、これを実証的に否定できるような木簡も史料もありません。ところが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から〝律令制下の官僚と都の規模〟という視点での優れた論証と研究が発表され、通説の「飛鳥京」に一撃を加えられました。(つづく)

(注)
①奈良文化財研究所木簡データベース「木簡庫」による。
②『飛鳥宮跡出土木簡』橿原考古学研究所編、令和元年(2019)、吉川弘文館。
③当地が「飛鳥」と呼ばれていたことを示す「飛鳥寺」木簡が飛鳥池遺跡北地区から出土していることや、法隆寺の金石文「観音像造像記銅板(甲午年、694年)」に「飛鳥寺」が見えることを「洛中洛外日記」1956話(2019/08/04)〝7世紀「天皇」号の新・旧古田説(6)〟で紹介した。


第2400話 2021/03/05

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(3)

石神遺跡の性格が王宮を構成する官衙の一部とされている根拠は出土した遺構の形式と出土木簡の内容に基づいており、市大樹さんは次のように説明されています。

「石神遺跡では飛鳥時代の遺構が何層にもわたってみつかっている。大きくA~Cの三時期に分けられ、さらにそれぞれが細分化されるという複雑なものである。(中略)
このB・C期の新たな建物群は藤原宮(六九四~七一〇)の官衙域の状況と似ており、饗宴施設から官衙へと性格を一変させたとみられる。そして、この見方を確固たるものとしたのが、石神遺跡北方域から出土した三〇〇〇点以上の木簡である。」(『飛鳥の木簡 ―古代史の新たな解明』)89~90頁。(注①)

同遺跡出土木簡に次の二つの「仕丁」木簡があり、注目されています。

○方原戸仕丁米一斗

○委之取五十戸仕丁俥物□□
二斗三中神井弥[  ]□(三カ)斗

「方原(かたのはら)」は後の三河国宝飫郡形原郷、「委之取五十戸(わしとりのさと)」は三河国碧海郡鷲取郷のことで、そこから出仕した二人の「仕丁」、「俥物□□」と「神井弥□□」に支給した食料が記された木簡です。仕丁とは律令に規定された役務者のことで、全国の各里(五十戸)から二名の出仕が定められています。これは、飛鳥に全国から仕丁が集められたことを意味します。すなわち、飛鳥に〝中央行政府〟があったことをも意味しています。

更に七世紀(評制下)の官職名が記された次の木簡・土器が飛鳥宮(石神遺跡)・藤原宮地区から出土しています。

◎「大学官」「勢岐官」「道官」 石神遺跡(天武期)
○「舎人官」「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区(持統・文武期)
○「加之伎手官」(墨書土器) 藤原宮跡東方官衙北地区(持統・文武期)
○「薗職」 藤原宮北辺地区(持統・文武期)
○「蔵職」「文職」「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区(持統・文武期)
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区(持統・文武期)
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区(持統・文武期)
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区(持統・文武期)

これらの官職名により、石神遺跡が七世紀における王宮を構成する官衙の一部と理解されたわけですが、わたしには違和感がありました。それは、木簡などの官職名に「二官八省」(神祇官・太政官・中務省・式部省・民部省・治部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)のような〝中央省庁〟らしい名称が見えないことです(注②)。たまたま出土していないという可能性もあり、断定はできませんが違和感を禁じ得ません。

他方、大宝元年(701年)の王朝交代後の藤原宮(京)出土木簡には次の〝中央省庁〟名が見えます(注③)。

○「宮内省移 価糸四□」
「大宝二年八月五日少□□
中務省移[ ]□(勘カ)宣耳」
木簡番号1482 藤原京左京七条一坊西南坪

○「中務省□(移)カ」
木簡番号1747 藤原京左京七条一坊西南坪

○「中務省牒□(留カ)守省」
木簡番号0 藤原宮跡内裏東官衙地区

○「中務省移」
「□○  ○□□(和銅カ)」
木簡番号1093 藤原宮跡内裏北官衙地区

○「中務省使部」
木簡番号18 藤原宮跡北面中門地区

○「中務省 管内蔵三人」
木簡番号17 藤原宮跡北面中門地区

○「粟田申民部省…○寮二処衛士」
「検校定○十月廿九日」
木簡番号1079 藤原宮跡東方官衙北地区

上記の他にも、各省直属の官職名が記された木簡が藤原宮(京)跡から出土しています。このような七世紀(評制下)と八世紀(郡制下)における差異が王朝交替の影響によるものか、それとも偶然なのか、出土木簡の情報だけでは断定できません。

ここからはわたしの作業仮説(思いつき)ですが、評制下の飛鳥宮地区には〝中央省庁〟の出先(下部)機関はあったが、〝中央省庁〟そのものはなかったのではないか、そして王朝交代後の藤原宮(京)に至って、近畿天皇家は〝中央省庁〟を置くことができたのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。
②『大宝律令』に先立つ浄御原令制下の官庁名は「○○官」と称されており、大宝令の名称とは異なると考えられている。しかし、それにしても〝中央官庁〟に匹敵する官職名を記した評制下木簡は知られていないようである。
③奈良文化財研究所木簡データベース「木簡庫」による。


第2399話 2021/03/04

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)

飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡に続き、今回は石神遺跡出土木簡を紹介します。先に紹介した評制下荷札木簡で年次(干支)記載のある石神遺跡出土木簡は次の通りです(注①)。

【石神遺跡出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡

次は石神遺跡と藤原宮(京)出土の献上国別荷札木簡数です(注①)。

【石神遺跡・藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡】
国 名 石神遺跡 藤原宮(京)
山城国   1   1
大和国   0   1
河内国   0   4
摂津国   0   1
伊賀国   1   0
伊勢国   1   1
志摩国   0   1
尾張国   5   7
参河国   0   3
遠江国   0   2
駿河国   0   2
伊豆国   2   0
武蔵国   1   2
安房国   0   1
下総国   0   1
近江国   7   1
美濃国  13   4
信濃国   0   1
上野国   0   3
下野国   0   2
若狭国   0  18
越前国   1   0
越中国   0   0
丹波国   3   2
丹後国   0   8
但馬国   0   2
因幡国   1   0
伯耆国   0   1
出雲国   0   4
隠岐国   7  21
播磨国   6   6
備前国   0   2
備中国   2   6
備後国   2   0
周防国   0   2
紀伊国   0   0
阿波国   0   2
讃岐国   2   1
伊予国   1   2
土佐国   1   0
不 明  54   7
合 計 109 122

この出土状況から見えてくることは、石神遺跡からは美濃国や近江国から献上された荷札木簡が比較的多く、時期的には天武・持統期であり、694年の藤原京遷都よりも前であることです。このことは、各国から産物の献上を受けた飛鳥の権力者が藤原宮へ移動したとする『日本書紀』の記述(注②)と対応しており、このことは歴史事実と考えてよいと思います。こうした史料事実により、当時としては列島内最大規模の藤原宮・藤原京(新益京)で全国統治した大和朝廷は、『日本書紀』に記されているように、〝藤原遷都前は飛鳥宮で全国統治していた〟とする通説(近畿天皇家一元史観)が、出土木簡により実証的に証明されたと学界では考えられています。

この点について、九州王朝説を支持するわたしたち古田学派には、出土木簡(同時代文字史料)に基づく実証的な反論は困難です。なぜなら、太宰府など九州王朝系遺跡からの木簡出土は飛鳥・藤原と比較して圧倒的に少数で、その記載内容にも九州王朝が存在していたことを実証できるものはないからです。

それに比べて、石神遺跡は飛鳥寺の北西に位置し、〝日本最古の暦〟とされる具注暦木簡が出土したことでも有名です。同遺跡からは3421点の木簡が出土しており、ごく一部に七世紀中葉の木簡を含みますが、圧倒的大多数は天武・持統期のものとされています。そして、遺跡の性格は「王宮を構成する官衙の一部」と説明されています(注③)。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
②『日本書紀』持統八年(694年)十二月条に次の記事が見える。
「十二月の庚戌の朔乙卯(6日)に、藤原宮に遷り居(おは)します。」
③市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。


第2398話 2021/03/03

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(1)

 飛鳥宮と藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡について、その献上国別と干支木簡の年次別データを「洛中洛外日記」で紹介しましたが、それら大量の木簡が同時代文字史料として戦後実証史学を支えています。すなわち、『日本書紀』の記述は少なくとも天武・持統紀からは信頼できるとする史料根拠として飛鳥・藤原出土木簡群があり、『日本書紀』の実証的な史料批判を可能にしました。
木簡は不要になった時点で土坑やゴミ捨て場に一括大量廃棄される例があり、干支などが記された紀年木簡(主に荷札木簡)と併出することにより、干支が記されていない他の木簡も一定の範囲内で年代が判断できるというメリットがあります。その結果、出土層位の年代判定においても、従来の土器編年とのクロスチェックが可能となり、より説得力のある絶対編年が可能となったため、木簡の記事と『日本書紀』の記事との比較による史料批判(『日本書紀』の記述がどの程度信頼できるかを判定する作業)が大きく進みました。

 具体例をあげれば、飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡からは、七世紀後半(主に670~680年代)の紀年木簡が出土しており、わずかではありますが八世紀初頭の「郡・里」(注①)木簡も出土しています。ところが一括大量出土しているおかげで、出土地点(土抗)毎の廃棄年代の編年が成立し、併出した木簡の年次幅が紀年木簡により判断可能となるケースが出てきました。

 たとえば奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、飛鳥池遺跡北地区の遺跡番号SK1126と命名された土坑から、播磨国宍粟郡からの「郡・里」木簡6点(木簡番号1308 1309 1310 1311 1312 1313)が出土しています。同データベースにはSK1126出土の木簡123点が登録されていますが、その多くは削りくずで文字数が少ないものばかりで、年代の判断が可能なものは「郡・里」制木簡くらいでした。そのため、この土坑を含め飛鳥池遺跡北地区から一括出土した木簡群の年代について次の説明がなされています。

〝北地区の木簡の大半は、2条の溝と2基の土坑から各々一括して出土した。遺構ごとにその年代をみると、2条の溝から出土した木簡は、「庚午年(天智九年=660年)」「丙子年(天武五年=676年)」「丁丑年(天武六年=677年)」の干支木簡を含み、コホリとサトの表記が「評五十戸」に限られる。これは天武末年頃(680年代中頃)以前の表記法。これに対して、2基の土坑は、一つが「評里」という天武末年頃から大宝令施行(大宝元年=701年)以前の表記法で記された木簡を出土し、もう一つは「郡里」制段階(大宝令から霊亀3年以前)の木簡を含む。つまり、年代の違う三つの木簡群に分類できる。〟(注②)

 このように、大量に出土した木簡(同時代文字史料)と考古学者による精緻な編年により、それらの内容と時間帯が『日本書紀』の記述に整合しているとして、戦後実証史学では〝近畿天皇家一元史観が七世紀後半頃は実証できた〟と確信を抱いたものと思われます。しかし、出土木簡と『日本書紀』の記述を丁寧に比較すると、そこには大きな齟齬が横たわっています。(つづく)

(注)
①大宝令(701年)から霊亀三年(717年)以前に採用された「郡・里」制による行政区域表記。それ後、「郡・郷・里」制に改められた。
②花谷 浩「飛鳥池工房の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』第8号、1999年。


第2395話 2021/02/28

飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年代

前話では、飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域から出土した350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡を国別に分けて、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を概観しました。今回はその中から年次(干支)が記された荷札木簡(49点)を抽出し、時間的な分布傾向を見てみます。
前回紹介した「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」350点のうち、数は少ないのですが産品を献上した年次(干支)が記された木簡があります。年次順に並べてみました。次の通りです。元史料は前回と同じ市大樹さんの『飛鳥藤原木簡の研究』(注)です。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
676 丙子 天武5 丙子年六□□□□ 不明  苑池遺構
677 丁丑 天武6 丁丑年十□□□□ 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月次米 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月三野 美濃国 飛鳥池遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年十二月尾張 尾張国 苑池遺構
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年高井五□□ 不明  藤原宮跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
682 壬午 天武11 壬午年十月□□□ 下野国 藤原宮跡
683 癸未 天武12 癸未年十一月三野 美濃国 藤原宮跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
687 丁亥 持統1 丁亥年若佐国小丹 若狭国 飛鳥池遺跡
688 戊子 持統2 戊子年四月三野国 美濃国 苑池遺構
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡
693 癸巳 持統7 癸巳年□     不明  飛鳥京跡
694 甲午 持統8 甲午年九月十二日 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年尾□□□□ 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年御調寸松  参河国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年木□(津カ)里 若狭国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 丙申年九月廿五日 尾張国 藤原京跡
696 丙申 持統10 丙申□(年カ)□□ 下総国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 □□□(丙申年カ)  美濃国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年□月□□□ 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若狭国小丹 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年三野国厚見 美濃国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年□□□□□ 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年六月波伯吉 伯耆国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 □□(戊戌カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
699 己亥 文武3 己亥年十月上捄国 安房国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年九月三野国 美濃国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□(月カ)  若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□□国小 若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年十二月二方 但馬国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年三月十五日 河内国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年四月佐国小 若狭国 藤原宮跡

(注)市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。