木簡一覧

第1408話 2017/05/30

佐藤論文に見える飛鳥編年の脆弱性

 土器の相対編年(様式変遷)などにより10年単位で暦年(絶対編年)が可能とする飛鳥編年(白石説)が、その根拠とした基礎データや『日本書紀』の暦年記事の信頼性が学問的に脆弱であることを、これまでも繰り返し指摘してきました。たとえば「洛中洛外日記」1387話「服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を」においても、次の服部さんのメッセージを転載しました。

【服部さんのメッセージの転載】
飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。

 白石氏の論考では、①山田池下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。

 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)

 ※服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)

 前期難波宮孝徳期造営説に対して飛鳥編年を根拠に批判される論者からは、残念ながらまだ服部説への応答がないようです。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させるとわたしは考えていますので、服部説への真摯なご批判を期待しています。

 前期難波宮造営時期について、飛鳥編年と難波編年の対立が考古学者間でも続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持するに至っていると聞いています。もちろん、学問は「多数決」ではありませんから、その当否・優劣は論証そのものにより決まります。
わたしの前期難波宮九州王朝副都説への批判においても、飛鳥編年を根拠に否定するという論者が見られますが、どちらの編年がより正しいのかが考古学的に論争されてきたのであり、“飛鳥編年によれば難波編年が間違っている”“飛鳥編年によれば660年代となる土器が前期難波宮整地層から出土している”というレベルの批判(循環論法)では、およそ学問論争の体をなしません。
その点、難波編年の妥当性を証明するために、出土「戊申年」木簡(648年)や出土木材の年輪年代測定値(634年)、出土木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値(583年、612年)を根拠(実証)に、孝徳期造営説が妥当としてきた大阪歴博や大阪府埋蔵文化財センターの考古学者の説明(論証)の方が合理的で説得力があります。他方、孝徳期造営説を批判する側からは、自説の根拠となる前期難波宮出土物の理化学的年代測定値の提示(実証)は全くありません。こうした両者の提示した実証や論証を冷静に比較したとき、そこには質・量ともに明確な差があり、従って大多数の考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持していることも当然であり、既に「勝負はついている」と、わたしには思われるのです。
今回、読んだ大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」でも、直接的な表現ではありませんが、随所に飛鳥編年の問題点が指摘されています。たとえば、土器の「法量変化」に関する指摘です。土器の径が時代とともに小さくなることを前提に成立していた飛鳥編年(白石説)に対しては、先に紹介したように服部さんも批判されていますが、佐藤論文にも同様の指摘がなされています。

 「筆者は飛鳥Ⅲを細分する必要性は感じていないが、たしかに飛鳥Ⅱの資料や飛鳥Ⅳの代表例である雷丘東方遺跡SD110などの資料と比べると、後者との様相差がより小さく見える(図4)。その内容としては、飛鳥Ⅲ・Ⅳでは土師器・須恵器ともに坏A・Bが定型化すること、土師器坏Cの器高がこの間に低下していくこと、いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなることなどである。」(8頁)

 わたしは「いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなる」という部分を読み、図4を確認したところ、佐藤さんの指摘通り、より新しく編年されている飛鳥Ⅲ・Ⅳの須恵器の方が飛鳥Ⅱよりもかなり大きいのです。わたしも、土器(主に須恵器)の径は時代が下がるとともに小型化するという飛鳥編年の基本テーゼは信用していましたので、佐藤論文の指摘にとても驚きました。考古学の土器編年を、もっと勉強しなければならないと深く反省しました。


第1385話 2017/05/06

九州年号の空白木簡の疑問

 ずっと気になっていて未だ解決できない問題があります。それは700年以前の干支木簡に九州年号が記されていないという問題です。701年(大宝元年)以降の紀年木簡には基本的に大和朝廷の年号が記されているのですが、九州王朝の時代の木簡にはなぜか九州年号が記されていません。この疑問をずっと抱いているのですが、解決のための良いアイデアがでないのです。学問研究ですから、わからないことが多いのは当たり前なのですが、九州王朝と大和朝廷の関係から考えても、この現象は不思議なことなのです。
大和朝廷の「大宝律令」(逸文による復元)や『養老律令』には次のように年次記載には年号を用いよと明確に規定しています。

 「凡公文応記年者、皆用年号。」(おおよそ公文に年を記すべくんば、皆年号を用いよ。)『養老律令』儀制令

 荷札木簡は公文書とは言えませんが、九州王朝も同様の律令を持っていたと思われますので、700年以前の木簡には干支が書かれるだけで九州年号がないのは不思議です。
今回は、もう一つのわたしの疑問を紹介します。それは前期難波宮出土の「戊申年」(648)木簡と、芦屋市出土の「元壬子年」(652)木簡についての謎です。
最初に不思議に感じたのが「元壬子年」木簡でした。この木簡については既に論文(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)などで発表していますが、九州年号の「白雉元年壬子」の木簡で、「白雉」が記されていないタイプです。というのも、この木簡の「元壬子年」の文字の上部にかなりのスペースがあり、意図的に空けたとしか思えないほどなのです。従って、後から「白雉」を書き入れる予定だったのか、あるいはあえて「白雉」を書かずに九州年号のスペース分を空けたのではないかと考えたりしました。すなわち、年号を神聖なものとして木簡に書くということがはばかられたとする理解です。もちろん根拠はなく、推定(思いつき)に過ぎません。
次に気づいたのが「戊申年」木簡です。この木簡は「戊申年」という文字を書いた後、空いたスペースを文字の練習に使用したと思われる「習字木簡」と考えられています。すなわち、本来の形としては「元壬子年」木簡同様に、九州年号(常色二年)が記入されるべき上部を空けているのです。
この二例だけですが、「九州年号空白木簡」とも称すべき木簡があるのです。しかしなぜ空白とされたのかはよくわかりません。どなたか良いアイデア(作業仮説)があれば、ご呈示ください。


第1384話 2017/05/06

飛鳥編年と難波編年の原点と論争

 このところ太宰府や北部九州の土器編年の勉強を続けていますが、それらが飛鳥編年に準拠しており、同編年の影響力の大きさを改めて感じています。
飛鳥編年の方法論と原点は、畿内の遺跡から出土した土器の相対編年を『日本書紀』の記事の暦年とリンクするというものです。それを基点に藤原京から出土した干支木簡などで追認されています。特に七世紀については須恵器の詳細な様式編年がなされており、土器により正確な暦年特定が可能と断定する論者もいます。すなわち、『日本書紀』の暦年記事は正しいとする立場(一元史観)です。

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を提起した後、難波編年について集中して勉強しました。特に大阪歴博の考古学者からは何度もご教示いただき、難波編年が文献(『日本書紀』孝徳紀、『二中歴』年代歴)との整合性もとれており、当初思っていた以上に正確であるとの印象を抱いたものです。その過程で、難波編年と飛鳥編年の考古学者間で激しい論争が続けられていることを知ったのです。

 それは前期難波宮整地層から極少数出土した須恵器(坏B)を根拠に、前期難波宮は天武期に造営された『日本書紀』に記録されていない宮殿であると、飛鳥編年に立つ研究者から批判が出され、それに対して難波編年に立つ研究者が出土事実(整地層や前期難波宮造営期の主要土器〔坏H、G〕、戊申年木簡〔648年〕の出土、前期難波宮水利施設からの出土木材の年輪年代〔634年〕、前期難波宮外周木柵の年輪セルロース酸素同位体比測定〔583年、612年〕など)を根拠に反論するという論争です。

 この論争経緯と内容を知ったとき、飛鳥編年により難波編年を批判する論者のご都合主義に驚きました。『日本書紀』の暦年記事を「是」として自らの飛鳥編年の正当性を主張しながら、前期難波宮整地層から自説に不都合な土器が出土したら、『日本書紀』孝徳紀の難波宮造営(652年)記事は誤りとするのです。理不尽(ダブルスタンダード)と言うほかありません。

 こうした理不尽な批判に対して、難波宮発掘を担当した考古学者は、『日本書紀』孝徳紀の記事を根拠に反論するのではなく、考古学者らしく出土事実と理化学的年代測定で反論を続けました。“孝徳紀の記事は間違っている”とする批判者に対して、“孝徳紀の記事は正しい”という反論では学問論争の体をなしませんから、考古学的事実の提示をもって反論するという大阪歴博等の考古学者の対応は真っ当なものです。ですから、わたしは彼らの方法や主張こそが学問的だと思いました。

 この論争はまだ水面下で続いているようですが、ほとんどの考古学者は大阪歴博が示した難波編年(前期難波宮の造営を7世紀中頃とする)を支持しているとのことです。もちろん、学問は多数決ではありませんが、この論争はどう贔屓目にみても難波編年がより正しいと言わざるを得ないのです。もし、難波編年が間違っているといいはりたいのなら、干支木簡でも年輪年代でも何でもいいですから、前期難波宮整地層や造営期の地層から明確に天武期とわかる遺物が出土したことを事実でもって示す必要があるでしょう。さらに指摘するなら、自らの飛鳥編年の根拠とした『日本書紀』の暦年記事は正しいが、孝徳紀の難波宮造営記事は誤りとする史料批判の根拠も示していただきたいものです。

 最後に、前期難波宮整地層出土の須恵器坏Bについてですが、大阪歴博の考古学者からお聞きした見解では当該須恵器は坏Bの原初的なタイプで、7世紀前半のものとみて問題ないとのことでした。報告書にもそのように記されていたと記憶しています。本年1月に開催した「古田史学の会・新春講演会」でも、講師の江浦洋さん(大阪府文化財センター次長)におたずねしたところ、同須恵器は通常の坏Bよりも大型で、いわゆる坏Bとは見なせないとのご返答でした。坏Bについては大宰府政庁Ⅰ期からも出土しており、太宰府編年とも深く関わっていますので、只今、猛勉強中です。


第1205話 2016/06/07

「須恵器杯B」は畿内より筑紫が早い

 一元史観でも編年が揺らいでいる「須恵器杯B」の成立年代をなるべく正確に判断する必要があるため、比較的安定した考古学的史料事実に基づいて考察してみます。

 最も編年の信頼性が高いのが前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」です。木簡(「戊申」年、648年)や自然科学的年代測定(年輪セルロース酸素同位体測定、年輪年代測定)というクロスチェックを経ていますので、遅くとも650年頃以前の「須恵器杯B」と考えられます。しかし、前期難波宮の水利施設造営時の地層から大量に出土した須恵器は「須恵器杯G」と呼ばれるタイプで、蓋につまみがあり、底に「脚」がない須恵器杯です。これは7世紀第2四半期頃と編年されており、前期難波宮が完成した652年(『日本書紀』による)と同時期かその直前であり、大阪歴博の考古学者はこの出土事実を前期難波宮孝徳期造営説の有力根拠の一つとしています。ですから、前期難波宮での7世紀第2四半期の流行土器は「須恵器杯G」であり、それに少数の「須恵器杯B」が混在していることとなり、「須恵器杯B」の近畿での発生時期がこの頃であったとする理解を支持します。なお畿内で「須恵器杯B」が主となって出土するのが藤原宮整地層(天武期)ですから、通説通り畿内での「須恵器杯B」の興隆時期は7世紀第4四半期(天武期・持統期)となります。わたしも畿内出土の「須恵器杯B」の発生と興隆の年代観はこれでよいと思います。

 他方、大宰府政庁遺構出土の「須恵器杯B」はⅠ期の整地層やⅠ期の時代の地層から、主流土器として出土しています(杉原敏之「大宰府政庁と府庁域の成立」『考古学ジャーナル』588号2002年所収、Facebookの写真参照)。このⅠ期は通説の編年でも天智期(660〜670年頃)からⅡ期が造営される8世紀初頭とされ、筑紫ではこの頃に「須恵器杯B」の興隆期を迎えていたことになり、畿内よりも興隆期が約20年ほど早くなるのです。一元史観に立ってもこれだけ「須恵器杯B」興隆期が揺らぐのですが、これに九州王朝説による修正を加えれば、「須恵器杯B」の筑紫での興隆時期は更に遡ることになります。(つづく)


第1202話 2016/06/05

前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」

 「須恵器杯B」の年代観が七世紀の編年の揺らぎの一因になっているのですが、わたしがそのことを知ったのは小森俊寛さんの『京から出土する土器の編年的研究』(2005)によってでした。同書で小森さんは前期難波宮整地層から少数だが「須恵器杯B」が出土していることを根拠に、前期難波宮の創建時期を天武期とされ、孝徳期とする大阪歴博などの考古学者と論争が続けられました

 現在では戊申年(648)木簡や出土木柱のセルロース酸素同位体測定、水利施設出土木材の年輪年代測定の結果がいずれも七世紀前半を指し示すことなどから、通説通り七世紀中頃の創建とする意見が圧倒的多数意見となっています。わたしもこの科学的測定結果とクロスチェックを経た652年(九州年号の白雉元年)造営説でよいと考えています。

しかし、同時に従来は七世紀第4四半期と編年されてきた「須恵器杯B」の発生時期の編年が古くなったのですから、この事実は「須恵器杯B」が出土した他の遺跡編年にも再検討を迫ると考えています。鞠智城も例外ではなく、大宰府政庁遺跡も同様です。(つづく)


第923話 2015/04/15

法道仙人開基の

  朝光寺訪問

 今日は兵庫県加東市に行きました。お客様との約束時間より早く到着しましたので、昼食の休憩を兼ねて近くの朝光寺を訪問しました。大きく立派な本堂(国宝)が見事でした。
 朝光寺は法道仙人が白雉2年に開基したとする寺伝を持つ古刹ですが、観光案内パンフレットなどでは、この白雉2年を『日本書紀』の白雉2年(651年)と紹介されていますが、やはり九州年号の白雉2年(653年)と理解すべきと思われます。開基伝承の出典は『朝光寺文書』などのようですので、これから調査したいと思います。
 朝光寺の他にも播磨地方には法道開基とされる白雉年間の創建伝承を持つ寺院が多く、九州年号研究でも注目されている地域なのです。ちなみに、加西市の一乗寺も法道による白雉元年の開基とされています。
 恐らく、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」(白雉元年壬子・652年)木簡も白雉年間における播磨地方の寺院創建ラッシュと関係するのではないかと推察しています。さらにはこの白雉年間の寺院創建は、九州年号の白雉元年(652)に完成した九州王朝の副都「前期難波宮」と無関係ではないようにも思われるのです。今後の研究の深化が期待されます。


第884話 2015/02/27

「玉作五十戸俵」木簡

       の初歩的考察

 難波宮近傍から出土した「玉作五十戸俵」木簡について、初歩的な考察を試みたいと思います。調査報告書や研究論文がまだ出されていないので、新聞発表や『葦火』174号(2015年2月)に掲載された谷崎仁美さんの報告「発見!『玉作五十戸俵』木簡」を参考にしました。

 同木簡の写真を見たとき、よく読解できたものだと思いました。大阪歴博の李陽浩(り・やんほ)さんにお聞きしたところでも、「玉作」と「俵」はすぐに読めたが「五十戸」は時間がかかったとのことでした。確かに「五」と「十」は異体字とも思えるような字で、特に「十」は「T」に近い字体です。「戸」も上の「一」が一画多い字体に見えます。

 さらにその筆跡もかなりの癖字で、その特徴的な筆跡から他の木簡にも似た筆跡が見つかるかもしれません。そしてうまくいけば他の木簡との比較により、不明とされている年代推定ができる可能性も残されています。この木簡が孝徳期まで遡れるとしたら、行政単位の「五十戸(さと)」が7世紀中頃に存在したこととなり、『日本書紀』の大化改新詔の研究が前進します。それほど貴重な木簡なのです。

 次にわたしが注目しているのが「玉作」という地名です。『和名抄』に見える郷名の「たまつくり」を根拠に、いくつかの地域が候補にあがっていますが、荷札木簡にしては疑問点があります。地方から前期難波宮に供出された荷物として「出荷地」を読む人(受取人・前期難波宮の役人)に伝えるためには最小地名単位の「玉作五十戸(さと)」だけでは各地にあったどこの「玉作」なのかわかりませんから、荷札としては「役立たず」なのです。すなわち、荷札としての本来の目的を果たすためには「○○国△△評玉作五十戸」と出荷地名を特定できる表記であってほしいのです。さらに出荷時期を示す「年干支」なども必要でしょう。記す場所も十分に残されているのに、なぜ書かれなかったのでしょうか(裏面に文字はありません)。不思議です。

 そこで、この現象を説明できる仮説があります。それは国名や評名を書かなくても、書いた人にも読んだ人にも「玉作五十戸」だけで場所が共通認識として特定できるケースとして、次の状況が考えられます。それはある特定の時期に難波の地域内、あるいは近傍の「玉作」からの供出のケースです。そのようなケースとして次の状況が考えられます。すなわち、前期難波宮造営のために造営時期に近隣の地域に供出を権力者が命じた場合です。このケースであれば、国名や評名がなくても供出地域が当初から限定されていますから、「玉作五十戸」だけで十分ですし、前期難波宮造営時の供出ですから、年次の記載も不要なのです。

 この仮説によれば「玉作」という地名が前期難波宮の近傍に存在しなければなりませんが、前期難波宮のすぐ南東に玉造町(大阪市中央区)や玉造本町(大阪市天王寺区)があります。ここからの供出であれば、書いた人も受け取った役人も「玉作五十戸」で十分です。

 以上、「玉作五十戸俵」木簡の初歩的考察でしたが、同木簡を実見できましたら更に論究したいと思います(現在は調査中のため同木簡は公開されていまん)。


第871話 2015/02/14

難波宮遺構から「五十戸」木簡出土

 出張を終え、週末に帰宅したら古谷弘美さん(古田史学の会・全国世話人、枚方市)からお手紙が届いており、2月4日付「日経新聞」のコピーが入っていました。それほど大きな記事ではありませんが、「『五十戸』記す木簡出土」「改新の詔の『幻の単位』」という見出しがあり、木簡の写真と共に次のような記事が記されていました。

 大阪市の難波宮跡近くで、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土し、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が3日までに明らかにした。
日本書紀には、難波宮に遷都した孝徳天皇が、646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。
しかし、五十戸と記した史料は、現在のところ天智天皇の時代の660年代のものが最古で、改新の詔の内容を疑問視する考えもある。
同研究所の高橋工調査課長は「木簡は書式が古く、孝徳天皇の時代にさかのぼる可能性があり、このころに『五十戸』があった証拠になるかもしれない」としている。(以下略)

 そして、この「玉作」という地名が陸奥や土佐にあったと紹介され、ゴミ捨て場とされる谷からの出土とのことで、そこからは古墳時代から平安時代までの出土品があり、木簡の正確な年代決定は難しいようです。

 写真で見る限り、肉眼による文字の判読は難しく、「作」「戸」「俵」は比較的はっきりと読めますが、他の文字は実物と赤外線写真で判読しなければ読めないように思われました。記事で紹介されていた高橋さんの見解のように、簡単に説明はしにくいのですが、その書式や字体は確かに古いように感じました。

 「洛中洛外日記」552話、553話、554話で紹介しましたように、「五十戸」は後の「里」にあたり、「さと」と訓まれている古代の行政単位です。すなわち、「○○国□□評△△五十戸」のように表記されることが多く、後に「○○国□□評△△里」と変更され、701年以後は「○○国□□郡△△里」となります。

 今回の「五十戸」木簡が注目される理由は、この「五十戸」制が孝徳期まで遡る可能性を指し示すものであることです。わたしは「洛中洛外日記」553話で次のように指摘し、「五十戸」制の開始は評制と同時期で、前期難波宮造営と同年で九州年号の白雉元年(652)ではないかとしました。

 わたしは『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の次の記事に注目しています。

 「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」

 通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(670)とされていますから、この652年の造籍記事は史実とは認められていないようですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この652年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。(「洛中洛外日記」553話より抜粋)

 この「五十戸」木簡を自分の目で見て、更に論究したいと思います。それにしても難波宮遺跡や上町台地からの近年の出土品や研究は通説を覆すようなものが多く、目が離せません。


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第789話 2014/09/22

所功『年号の歴史』を読んで(1)

「洛中洛外日記」775話で所功編『日本年号史大事典』の「建元」と「改元」について批判し、 古田先生の九州年号説に対して「学問的にまったく成り立たない」(15頁)と具体的説明抜きで切り捨てられていることを紹介しました。他方、同じく所功著の『年号の歴史〔増補版〕』(雄山閣、平成二年・1990年)では古田先生の九州年号説に対する批判が展開されています。

 所さんの九州年号説批判は古田説の根幹である九州王朝説には正面から検証するのではなく、そこから展開された九州年号に「焦点」を当て、その出典が信用できないというものです。その上で、次のように批判されています。

「もしもその“古代年号”(九州年号のこと。古賀注)が、ごくわずかでも六~七世紀の金石文なり奈良・平安時代の文献などに見出されるならば、当 然検討しなければならないであろう。しかし今のところ、そのような傍証史料は皆無であり、それどころか古田氏が高く評価される中国側の史書にも“古代年号”はまったくみえず、いわば“まぼろしの「九州年号」”とでも評するほかあるまい。」(26頁)

 この文章は「昭和五十八年八月三十日稿」(1983年)とされていますから、その後の九州年号金石文や木簡の発見・研究について、所さんはご存じなかったものと思われます。拙稿「二つの試金石」(『「九州年号」の研究』所収)などで紹介してきましたが、茨城県岩井市出土の「大化五子年(699)」土器や滋賀県日野町の「朱鳥三年戊子(688)」鬼室集斯墓碑などの九州年号金石文の存在をご存じなかったようです。

 更に、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」木簡の発見に より、「白雉元年」が「壬子」の年となる『二中歴』などに記されている九州年号「白雉」が実在していたことが明白となりました。そのため、大和朝廷一元史 観の研究者たちはこの木簡に触れなくなりました。触れたとしても「壬子年」木簡と紹介するようになり、「元」の一字を故意に伏せ始めたようです。すなわち、学界はこの「元壬子年」木簡の存在が一元史観にとって致命的であることに気づいているのです。

 所さんも年号研究の大家として、これら九州年号金石文・木簡から逃げることなく、正々堂々と論じていただきたいものです。


第785話 2014/09/14

倭国(九州王朝)遺産

・文字史料編

前話に続いて「倭国(九州王朝)遺産」です。今回は文字史料について「認定」します。もちろんわたしの個人的見解であることは、前話と同様です。九州王朝の実体を知る上で、文字史料はとても貴重です。それではご紹介します。

〔第1〕法隆寺釈迦三尊像・後背銘
九州王朝の天子、阿毎多利思北孤がモデルとされる「飛鳥仏」を代表する仏像です。従来は大和朝廷の聖徳太子のこととされてきましたが、古田先生の研究により九州王朝の天子の仏像であることが判明しました。後背銘にある「法興」が九州年号(正木裕説では多利思北孤の法号)であることも注目されています。

〔第2〕法華義疏
皇室御物である「法華義疏」を古田先生は京都御所で実見し、調査されました。その結果、九州王朝の上宮王が収集した文書であることをつきとめられました。冒頭部分に記された「大委国上宮王」は多利思北孤であるとされ、本来所蔵されていた寺院名が書かれていた箇所が切り取られていることも発見されていま す。

〔第3〕「十七条憲法」(『日本書紀』所収)
古田先生の研究によれば、『日本書紀』に聖徳太子によるとされている「十七条憲法」は九州王朝史書からの盗作とされています。『日本書紀』には九州王朝の事績が盗用されていることは知られていましたが、「十七条憲法」も九州王朝の「憲法」であれば、その研究により九州王朝の政治体制や実体解明にとって有効な史料となります。

〔第4〕芦屋市出土「元壬子年」木簡
芦屋市三条九の坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡は、当初「三壬子年」と判読され、『日本書紀』に見える「白雉三年壬子」(652年)のことと理解されてきました。ところがわたしたちの調査(赤外線撮影、光学顕微鏡観察)により、「元壬子年」であることが確認され、『二中歴』などに見える九州年号の 「白雉元年壬子」(652年)を示していることが明らかとなりました。この発見により、九州年号実在の直接的な証拠となる同時代の木簡であることがわかりました。この史料事実に対して、大和朝廷一元史観の学界や九州王朝説反対論者は今も沈黙を続けています。卑怯というほかありません。

〔第5〕「年代歴」(『二中歴』所収)
九州年号群史料として最も原型に近いとされているのが、『二中歴』に収録されている「年代歴」です。特にその細注に記された記事は九州王朝系史料に基づいていることが判明しており、とても貴重な史料です。

〔第6〕太宰府市出土「嶋評戸籍木簡」
2012年に太宰府市から出土した最古(7世紀末)の戸籍木簡は、九州王朝の中枢領域であるこの地域が造籍事業でも国内の先進地域であったことをうかがわせるもので、その内容は九州王朝の実体解明を進める上で貴重なものでした。正倉院文書の大宝二年『筑前国川辺里戸籍断簡』などの西海道戸籍の統一された様式からも、九州の造籍事業の先進性が従来から指摘されていましたが、この最古の戸籍木簡の出土がそれを裏付けることとなりました。

〔第7〕倭王武の「上表文」(『宋書』倭国伝所収)
九州王朝(倭国)と中国南朝との交流において、『宋書』に収録された貴重な倭王武の「上表文」は倭国の歴史や文化、文字使用の伝統などを知る上で貴重な史料です。史料そのものは中国史書ですが、その「上表文」部分は倭国遺産に認定したいと思います。

〔第8〕「君が代」(『古今和歌集』他所収)
日本国国歌「君が代」の歌詞も「文化遺産」として認定したいと思います。古田先生の研究により、その歌詞には糸島博多湾岸の地名・神名などが読み込まれており、同地域で弥生時代に成立したとされています。ちなみに、次の地名・神名などが読み込まれています。
「千代」福岡市千代
「さざれいし」糸島市細石神社
「いわお(ほ)」糸島市井原(いわら)山水無鍾乳洞
「こけのむすまで」糸島市志摩町桜谷神社祭神「古計牟須姫命」「苔牟須売神」

〔第9〕祝詞「六月の晦(つごもり)の大祓」
「六月の晦(つごもり)の大祓」の祝詞も文化遺産として認定したいと思います。古田先生の著書『まぼろしの祝詞誕生』(古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、1988年)によれば、「六月の晦(つごもり)の大祓」は「天孫降臨」当時(弥生時代前半期)に糸島博多湾岸(高祖山連峰近辺)で成立したとされています。

〔第10〕稻員家系図(福岡県八女市、広川町、他)
筑後国一宮である高良大社の神官であり、同社祭神の高良玉垂命を祖先とする稻員氏が九州王朝の王族の末裔であることが、古田先生の研究で明らかとなりました。同家の系図には7世紀以前の人物に「天皇」や「天子」の称号を持つものがあり、同系図が九州王朝系図であることもわかってきました。九州王朝王族にはいくつもの支流があるようで、その全体像はまだ不明ですが、稻員家系図や他家の系図の史料批判により、今後解明が進むことと思います。

以上の史料を「倭国(九州王朝)遺産」に認定したいと思います。いずれも、九州王朝研究にとって貴重な史料です。(つづく)


第753話 2014/07/27

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(3)

 森郁夫さんの『一瓦一説』は一元史観による理解や解説に立ってはいますが、「瓦」という考古学事実についてはとても勉強になります。たとえば「わが国最古の瓦」(200ページ)では、昭和53年(1978)に福岡県の神ノ前窯(太宰府市吉松字神ノ前)から、日本最古の瓦が出土したことが次のように 紹介されています。

 「その瓦が出土した窯は須恵器生産の窯であり、軒丸瓦や丸瓦、平瓦が出土したというのである。軒丸瓦の瓦当面には文様が施されていない。無文なのである。(中略)
 瓦とともに出土した須恵器の年代から六世紀末葉を若干さかのぼる、飛鳥寺に先行する時期であるとのことであった。」
 「神ノ前で生産された瓦の供給先は当初はっきりしなかったのだが、県内の発掘調査が進んだ結果、那珂遺跡(福岡市博多区那珂)から同様の瓦が出土したことによってそこで使用されたことが分かった。」

 このように、わが国最古の瓦は九州王朝の中枢である太宰府で生産され、同じく中枢の博多湾岸で使用されていたのです。この考古学的事実も九州王朝説にとって有利な事実です。瓦の受容と生産が九州王朝で6世紀末頃に開始されたということになりますが、北部九州の須恵器編年が通説よりも50~100年ほど遡る可能性がありますので、実際はもう少し早い時期に九州王朝は瓦の生産を開始したのではないでしょうか。更に、瓦は主に寺院建築に使用されていますから、仏教の伝来も仏寺の建築も北部九州が先行したことを、この最古の瓦は示唆しているように思われます。