2024年05月13日一覧

第3284話 2024/05/13

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (1)

 わたしは前期難波宮を七世紀中葉(九州年号の白雉元年、652年創建)に造営された九州王朝の複都の一つと考えていますが、近畿天皇家一元史観の学界では、近畿天皇家(後の大和朝廷)の孝徳天皇が造営した難波長柄豊碕宮とする説、すなわち孝徳朝説が定説の位置を占めています。このことを少なからぬ考古学者にも直接あるいは論文を読んで確かめてきましたので、〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟と、これまでも紹介してきました。

 ところが、昨日の多元的古代研究会月例会での大下隆司さんの研究発表では、孝徳朝説は大阪歴博による間違った見解であり、多くの考古学者や研究者から反対意見が出されており、定説はおろか、多数説でもないかのような説明がなされました。学問研究ですから、意見や解釈が異なるのは全くかまいませんし、異説が学問の発展に寄与することも稀ではありません。わたしも常々「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」と言ってきた通りです。しかし、事実(エビデンス)に対しては、誠実かつ正確であらねばなりません。良い機会でもありますので、前期難波宮孝徳朝説が古代史学界の「定説」であることを改めて具体的に紹介します。

 まず、大下さんが高く評価され、紹介した泉武さんの論文(注)冒頭の「要旨」には次の一文があります。

 「前期難波宮は乙巳の変(645年)により孝徳朝が成立し、難波遷都によって造営された難波長柄豊碕宮であることが定説化している。この宮殿が図1で示した正方位の建物を指し、前期難波宮整地層の上に造営されたことも周知されている。」

 このように、前期難波宮天武朝説の泉さんご自身が、前期難波宮整地層上の正方位の建物(前期難波宮)が孝徳朝の難波長柄豊碕宮であることが「定説化している」「周知されている」と明言しています。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「難波宮」の項目にも「前期難波宮」の解説として、次の記事があります。

 「乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。(中略)
建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。(後略)」

 このように定説に反対する研究者も、web辞書にも孝徳朝説を定説として取り扱っています。しかもウィキペディアには、少数説の天武朝説の紹介さえもなく(これはこれで問題ですが)、大下さんの発表内容とはかなり様子が異なっていることをご理解いただけることでしょう。(つづく)

(注)泉武「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
上町台地法円坂から出土した南北正方位の巨大宮殿である前期難波宮を天武朝、その下層遺構の東偏(N23°E)した建物跡(SB1883)などを孝徳朝の宮殿とする。