2024年05月15日一覧

第3286話 2024/05/15

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (3)

 大下隆司さんの発表資料には、前期難波宮孝徳朝説への反対論者として伊藤純さんの名前がありました。伊藤さんとは面識がありましたので、懐かしく思いました。十二年前のことですが、大阪歴博研究員だった伊藤純さんに前期難波宮造営年代についてお聞きしたことがありました(注)。
わたしは伊藤さんが前期難波宮孝徳期造営説に立っておられると思いこみ、その根拠について質問を続けていたのですが、どうも様子がおかしのいです。そこで突っ込んでおたずねしたところ、なんと伊藤さんは前期難波宮天武朝造営説だったのです。
「わたしは少数派です。九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。学問は多数決ではありませんから。」
「学問は多数決ではない」という意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学的出土物(水利施設出土土器編年、634年伐採木樋の年輪年代、「戊申年」648年木簡)は全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。伊藤さんの答えは、もし「宮殿平面の編年」というものがあるとすれば、前期難波宮の規模は孝徳朝では不適格であり、天武朝にこそふさわしいというものでした。

 この伊藤さんの見解にわたしは深く同意しました。もちろん、「天武朝造営説」にではなく、「前期難波宮の規模が孝徳朝では不適格」という部分にです。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝「副都」説(後に「複都」とした)に至った理由の一つだったからです。すなわち、七世紀中頃の大和朝廷の宮殿としては、その前後の飛鳥宮と比較して突出した規模と全く異なった様式(朝堂院様式)なのです。

 更に言えば、九州王朝説に立つものとして、大宰府政庁よりも格段に大規模な前期難波宮を通説通り大和の天皇のものとするならば、701年の王朝交代まで列島の代表王朝だった九州王朝(倭国)の存在と九州王朝説そのものが揺らぎかねません。しかも、前期難波宮創建(652年)は、王朝交代の主要因となった白村江敗戦(663年)よりも前のことです。この問題に気づいてから、わたしは何年も考え続け、その結果出した解答が前期難波宮九州王朝「副都」説だったのです。

 そこで、わたしは伊藤さんに次の質問を投げかけました。
「考古学的に見て、孝徳期説と天武期説のどちらが妥当と思われますか」。
この問いに対して、伊藤さんは
「孝徳期説の方がおさまりがよい」
と述べられたのです。自説は天武朝説であるにもかかわらず、考古学的な判断としては「孝徳朝の方がおさまりがよい」と正直に述べられたのです。この言葉に、伊藤さんの考古学者としての誠実さと、古代史研究者としての論理の鋭さを感じました。たとえ意見が異なっていても、伊藤さんのような誠実な研究者とは学問的対話が成立し、お互いを高め合うことができます。

 対話の最後にわたしは、
「大阪歴博の研究者は全員が孝徳期造営説と思いこんでいたのですが、伊藤さんのような少数説があることに、ある意味安心しました。これからは文献研究者も考古学者も、考古学編年と宮殿発展史との矛盾をうまく説明することが要請されます。学問は多数決ではありませんので、これからも頑張ってください。今日はいろいろと教えていただき、ありがとうございました。」
とお礼を述べました。そして、伊藤さんが抱かれた矛盾(前期難波宮造営時期は、考古学的には七世紀中葉だが、近畿天皇家の宮殿様式・規模の変遷史からは七世紀後葉とするのが妥当)を解決できる仮説は、前期難波宮九州王朝王宮説しかないと確信を深めたものでした。

 孝徳朝説に反対の伊藤さんの認識「九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説」からも、〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟とした、わたしの見解はやはり妥当なものなのです。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」474話(2012/09/26)〝前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾〟