東北王朝(蝦夷国)一覧

第3557話 2025/12/11

多元史観で見える蝦夷国の真実 (9)

古田先生の蝦夷国観(『真実の東北王朝』)

『失われた九州王朝』(注①)で示された古田先生の蝦夷国観は、『真実の東北王朝』(注②)において、更に研ぎ澄まされました。同書第九章「歴史の踏絵 東北王朝」に示された次の二つの視点です。

まず一つ目は、蝦夷国の領域について論じたものです。

**蝦夷国と陸奧国の実態は同じ**

エジプトへ向かう機内で、わたしの思いは「蝦夷国」にあった。あの多賀城碑に銘刻された国名。その実態は、何か。

この問題である。

そして従来の論者が依拠してきた「陸奧国」という国名。それとの関係は何か。

それらを、機内の「夜」の中で、くりかえし反芻していたのである。そしてその想念の結節点、それは次の一語――「蝦夷国と陸奧国の相補性」だった。

すなわち、この両語は〝別の実態〟をもつ国名ではない。一方から見れば「蝦夷国」、他方から見れば、その同じものが「陸奧国」と呼ばれる。そういうことだ。「陸奧国」の方は、もちろん、近畿天皇家側からの〝呼び名〟だ。「蝦夷国」の方は。――これが、わたしの問いだった。〔ミネルヴァ書房版 284~285頁〕

 

二つ目は、「蝦夷国」の字義と誰による命名かについて論じたものです。

**『蝦夷国』とは中国側の造字**

「蝦夷国」とは、何か。この問題をさらに追いつめてみよう。

先ず、誰が、この字面を構成したか。――その答えは、ズバリ言って、中国だ。決して近畿天皇家ではない。

この点、従来の学者は、漫然と、つまり、確たる論証なしに、「近畿天皇家側の造字」と〝信じ〟て、叙述しているものが少なくない。おそらく、『日本書紀』や『古事記』に「蝦夷」の語が多出しているからであろう。

しかしながら、忘れてならぬ史料がある。中国のものだ。

「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」(冊府元亀、外臣部、朝貢三)

これは、当然ながら、〝中国中心の目〟から見た、「外臣」(中国は、周辺の国々の王者を「外臣」と称した)の記事。その「外臣」からの「朝貢」の記事である。その中に、この「蝦夷国」の表記が現れている。

これと、並出している「倭国」も、当然ながら、中国側から見た場合、「外臣」である。(それを〝うけいれなかった〟から、唐と倭国〈九州王朝〉との間に戦争〈白村江の戦〉が生じたのだ)。

その「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである。(「叚」は〝はるか〟の意。「虫へん」は、〝夷蛮用の付加〟。)〔ミネルヴァ書房版 289~290頁〕

「蝦夷」を中国側の造字とする古田先生の視点と『冊府元亀』に見える「外臣」「朝貢」は、中国と蝦夷国との〝国交〟を不可避としています。こうした視点と蝦夷国観は、蝦夷国研究にとって避けられないテーマなのです。ところが、近畿天皇家一元史観に立つ、わが国の古代史学界はそれを欠いたまま、蝦夷を論じており、ここにも千数百年続く、近畿天皇家一元史観の宿痾を見るのです。(つづく)

(注)

①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。


3555話 2025/12/09

多元史観で見える蝦夷国の真実 (8)

  古田先生の蝦夷国観

   (『失われた九州王朝』)

 このシリーズでは、蝦夷国を独立した国家とする多元史観に基づく認識が必要であることを主張していますが、これはわたしが古田史学に入門以来、抱き続けた問題意識でした。その学問的背景にあったのは古田武彦初期三部作の一つ、『失われた九州王朝』(注①)の次の一節です(ミネルヴァ書房版 213~217頁)。要約して紹介します。

「蝦夷国 本書の論証の目指すところは、九州に連続した王権にあった。これと近畿の王権との関連が焦点となってきたのである。けれども、これと対をなすべき問題がある。近畿の王権の、さらに東方に位置した「蝦夷国」の問題だ。」

 このような書き出しの後、「洛中洛外日記」3554話(2025/12/01)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(7) ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―〟でも紹介した『日本書紀』斉明紀(斉明五年)の蝦夷記事を取り上げて、次のように指摘します。

「ハッキリいえば、何か〝珍獣〟まがいの扱いだ。(中略)

 このような『日本書紀』の文面にふれたあと、わたしは中国側の文献『冊府元亀(さっぷげんき)』(注②)の中に、つぎの文面を見出して、ハッと胸を突かれた。「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」〈冊府元亀、外臣部、朝貢三〉。ここでは、蝦夷国人は観賞用の「珍獣」でも、「珍物」でもない。レッキとした蝦夷国の国使として、唐朝に貢献してきた、と記録されている。年代も『日本書紀』とピッタリ一致している。」

 そして、結論として次のようにまとめています。

 「以上の結論と関連事項を記そう。
(一)『日本書紀』本文は、日本列島全体を〝近畿天皇家の一元支配下〟に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。

(二)「蝦夷国の国使派遣」は、歴史事実であるにもかかわらず『旧唐書』『新唐書』には記されていない。これは舒明二年(六三〇)の近畿天皇家派遣の遣唐使が、『旧唐書』や『新唐書』に記載されていないのと同じ扱いである。すなわち、倭人を代表する王権ではなく、辺域に国家として、いまだ『旧唐書』などの「正史」には記載されていないのである。

(三)なお、これと類似した現象は、『冊府元亀』の「琉球国」の記事においてもあらわれている。「煬帝、大業三年(六〇七)三月、羽騎尉朱寛を遣わして、琉球国に使せしむ」〈冊府元亀、外臣部、通好〉。ただし、「琉球国」の場合は、『隋書』俀国伝においても、すでに、「俀国」とは別個に出現している。
以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写。――両者の対照があざやかである。」

 五十年前に出版された『失われた九州王朝』にある、古田先生の蝦夷国観こそ、本シリーズを貫くわたしの蝦夷研究のバックボーンなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
②『冊府元亀』は北宋時代に成立した類書。王欽若・楊億らが真宗の勅命により大中祥符六年(1013)に完成させた。巻数は1000巻に及び、分類は31部1104門(実際は1116門)。


第3554話 2025/12/01

多元史観で見える蝦夷国の真実 (7)

 ―唐と倭国(九州王朝)と蝦夷国の関係―

『日本書紀』に「蝦夷国」という国名表記は斉明五年(三月)是月条と同七月条「伊吉連博德書」中の二ヶ所に見えます。次の通りです。要点のみ抜粋引用します。

○斉明五年(659年・三月)是月条
阿倍臣〈名を闕(もら)せり〉を遣して、船師一百八十艘を率いて、蝦夷國を討つ。阿倍臣、飽田・渟代二郡の蝦夷二百卌一人、其の虜卅一人、津輕郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏(いふりさへ)の蝦夷廿人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ。〈膽振鉏、此を伊浮梨娑陛(いふりさへ)と云ふ〉卽(すなは)ち船一隻と五色の綵帛(しみのきぬ)とを以て、彼地の神を祭る。肉入籠(ししりこ)に至る。時に菟(とひう)の蝦夷膽鹿嶋(いかしま)・菟穗名(うほな)、二人進みて曰く、「後方羊蹄(しりへし)を以て、政所とすべし。」〈肉入籠、此を之々梨姑(ししりこ)と云ふ。問菟、此を塗毗宇(とひう)と云ふ。菟穗名、此を宇保那(うほな)と云ふ。後方羊蹄、此を云斯梨蔽之(しりへし)と云ふ。政所は蓋(けだ)し蝦夷の郡か〉膽鹿嶋(いかしま)等が語(こと)に隨ひて、遂に郡領を置きて歸る。(後略)

○斉明五年(659年)七月条
秋七月丙子朔戊寅(三日)に、小錦下坂合部連(むらじ)石布・大仙下津守連吉祥を遣(つかは)して、唐國に使(つかい)せしむ。仍(よ)りて道奧の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。
〈伊吉連博德(はかとこ)の書に曰く、「同天皇の世に、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等が二船、呉唐の路に奉使(つかは)さる。己未の年(659年)の七月三日を以て、難波三津の浦より發(ふなだち)す。八月十一日に筑紫大津の浦より發す。(中略)潤十月一日に越州の底(もと)に行到(いた)る。十五日に驛(はいま)に乘り京に入る。廿九日に、馳(は)せて東京に到る。天子、東京に在(ま)します。卅日に、天子相見て問訊(と)ひたまはく、日本國の天皇、平安(たひらか)にますや不(いな)やと。(中略)天子問ひて曰く、此等の蝦夷國は何れの方に有るぞや。使人謹みて答ふ、國の東北に有り。天子問ひて曰く、蝦夷は幾種ぞや。使人謹みて答ふ、類(たぐひ)三種有り。遠き者をば都加留と名づけ、次の者をば麁(あら)蝦夷と名づけ、近き者をば熟(にき)蝦夷と名づく。今此れは熟蝦夷なり。歳毎に本國の朝(みかど)に入貢す。天子問ひて曰く、其の國に五穀有りや。使人謹みて答ふ、無し。肉を食いて存活(わたら)ふ。天子問ひて曰く、國に屋舍有りや。使人謹みて答ふ、無し。深山の中にして、樹の本に止住(す)む。天子重ねて曰く、朕、蝦夷の身面の異なるを見て、極理(きはま)りて喜び怪しむ。使人遠くより來(きた)て辛苦(たしな)からむ。退(まか)りて館裏に在れ。後に更(また)相見む。(後略)」〉
〈難波吉士(きし)男人の書に曰く、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に觸(つ)きて覆(くつが)へる。副使、親(みづか)ら天子に覲(まみ)へて、蝦夷を示(み)せ奉(たてまつ)る。是(ここ)に、蝦夷、白鹿の皮一つ・弓三つ・箭(や)八十を以て、天子に獻(たてまつ)る。」(後略)〉

斉明五年(659年・三月)是月条は、九州王朝時代の記事ですから、九州王朝(倭国)による蝦夷国への侵攻の記録史料に基づくものと思われます。ここでは明確に「蝦夷國を討つ」とありますから、九州王朝は蝦夷国を国家と認識していたと思われます。しかし、その後の記事に依れば、蝦夷らを集めて「大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ」とあり、実際には戦闘が行われた雰囲気でもありません。また、「政所は蓋(けだ)し蝦夷の郡か」とする記事から、蝦夷国は「政所」と呼ばれる行政単位を持っていたことがうかがえます。国家であれば、国内統治のために下位の行政単位を持つことは当然ではないでしょうか。

その「政所」に「遂に郡領を置きて歸る」とあることから、後方羊蹄の「政所」に「郡領」、実際には「評督」を置き、阿倍臣らは九州王朝に帰国したのではないでしょうか。七世紀中頃に九州王朝は全国に評制を施行し、評督を任命していますから、その一環として蝦夷国にも評制を施行しようとした記事が、この斉明五年是月条の記事だったのではないでしょうか。

斉明五年(659年)七月条も、「道奧の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す」とあり、九州王朝(倭国)の使者に同行して蝦夷国の使者が唐の天子に謁見したことがうかがえます。

伊吉連博德書にはより詳しく謁見の様子が記されており、「天子問ひて曰く、此等の蝦夷國は何れの方に有るぞや」とあり、唐の天子は蝦夷国を「国」と認識していたことがわかります。

「難波吉士男人書」には、「蝦夷、白鹿の皮一つ・弓三つ・箭八十を以て、天子に獻る」とあり、この「蝦夷」とは蝦夷国から唐への朝貢使であったことがわかります。

これらの蝦夷国記事については、古田武彦氏が早くから着目されていました。(つづく)

〖写真説明〗
“北海道博物館開館記念特別展” 蠣崎波響 「夷酋列像」展 ( いしゅうれつぞう)


第3553話 2025/11/23

多元史観で見える蝦夷国の真実 (6)

 ―蝦夷(蛮族)か蝦夷国(古代国家)か―

 中国史書の『通典』『唐会要』などには「蝦夷国」と表記されており、中国側は蝦夷国が倭国や日本国と同様に東夷の国と認識しています。他方、『日本書紀』には「蝦夷国」という国名表記は二カ所(斉明紀)しか見えません(この点は後述する)。他方、「齶田(秋田)蝦夷」(斉明紀)・「越蝦夷」(天武紀)・「越蝦蛦沙門」(持統紀)・「陸奧蝦夷沙門」(持統紀)などの用例があり、「蝦夷」を「倭人」などと同様の人種名として使用されています。

 こうした『日本書紀』の「蝦夷」使用例の影響を色濃く受けて、日本古代史学において、国家としての「蝦夷国」という認識が不十分なまま、程度の差はあれ、〝大和朝廷に逆らう東北の未開の蛮族〟として蝦夷研究がなされてきたのではないでしょうか。これは大和朝廷一元史観の通説派だけではなく、わたしたち多元史観・九州王朝説を是とする古田学派においても、七世紀後半頃の日本列島に、倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)・蝦夷国の三国が鼎立(注①)していたとする多元的歴史観を徹底できなかったように思われます。

 通説では、大和朝廷による東北地方の未開の蛮族である蝦夷を討伐(皇化)しながら、律令制下の陸奧国が北へ東へと拡大するというイメージで説明するのが常であり、国家としての蝦夷国への日本国(大和朝廷)による侵略戦争とする視点がなかったのではないでしょうか。

 わたしは国家としての蝦夷国(「蝦夷」という国名を自称していたかどうかは未詳)が実在したのではないかと考えています。その根拠として、注目すべき八世紀の金石文があります。次の銘文を持つ多賀城碑です(注②)。

「西
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷国界一百廿里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
将軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日」

 多賀城碑には「蝦夷国」「靺鞨国」(注③)という日本国以外の国名と、日本国の律令制下の「国」である「常陸国」「下野国」が記されており、当時の大和朝廷の「蝦夷国」認識がうかがえます。同時代の大和朝廷側の金石文ですから、当時の蝦夷国認識を知る上で最も貴重な同時代史料です。なお古田説によれば(注④)、多賀城は蝦夷国内部に位置するとされています。碑文中に「陸奧国」が見えないことも注目されます。(つづく)

(注)
①古田史学・九州王朝説では、中国の王朝(唐)が承認した列島の代表王朝は九州王朝(倭国)であり、701年に九州王朝から大和朝廷(日本国)への王朝交代がなされたとする。近年のわたしの飛鳥・藤原出土荷札木簡研究によれば、七世紀第4四半期頃(天武期)から近畿天皇家は九州島と蝦夷国を除く日本列島を影響下に置いていたと考えられる(古賀達也「七世紀後半の近畿天皇家の実勢力 ―飛鳥藤原出土木簡の証言―」『東京古田会ニュース』199号、2021年)。
②多賀城碑(たがじょうひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑(国宝)。当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、神龜元年(724)の多賀城創建と天平寶字六年(762)の改修を伝える。
③靺鞨(まっかつ)は、中国の隋唐時代に満洲・外満洲(沿海州)に存在したツングース系農耕漁労民族の国で、粛慎・挹婁の末裔。
④古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房より復刻。

〖写真説明〗多賀城碑拓本・多賀城碑。新婚旅行での多賀城碑前の記念写真。


第3549話 2025/11/15

多元史観で見える蝦夷国の真実 (5)

 ―津軽に逃げた安日王伝承―

 なぜ小領域の都加留(津軽)が唐の天子に紹介されたり、国名(領域名か)表記に使用された漢字に「都」のように好ましい字が使用されており、もしかすると都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか。実は津軽から出土している弥生の水田跡(砂沢遺跡、垂柳遺跡)などに見られるような、倭国(筑紫)と蝦夷国(津軽)との古くからの交流を示す伝承史料があります。それは秋田氏の系図と祖先伝承です。

 旧三春藩の秋田家には次のような逸話があります。そのことを紹介した「安東氏系図とその系譜意識 下国安東氏ノート~安東氏500年の歴史」(注①)より転載します。

【以下、転載】
〔安東氏の系図 エピソード〕
昭和3年8月15日大阪朝日新聞に、大正期の歴史学者で蝦夷研究家でもあった喜田貞吉が伝える話として掲載された、安藤氏系図に関するエピードがある。

 明治17年7月、参議、伊藤博文は憲法制定に先立って華族令を制定し、宮内庁は具体的な手続きのため、旧大名たちにそれぞれの系図の提出を求めた。
各大名たちの系図は、「寛永諸家系図」や「寛政重修諸家譜」などで確認されていたが、ほとんどが江戸初期の編纂で、その先祖を天皇から分かれた形の「源平藤橘」の諸姓につながっている。

 この時、三春藩主秋田映季(あきすえ)の提出した秋田系図に宮内省が困惑した。同系図では、秋田氏の先祖は安倍貞任だが、遠祖が長髄彦の兄・安日王となっている。長髄彦は日本史上初めての皇室への反逆者である。皇室の藩屛になる華族の先祖が逆賊では困る。宮内省は、その取り扱いに苦慮し、(長髄彦のない)別の系図の提出を求めた。 それに対して、秋田家の主張は「当家は神武天皇御東征以前の旧家ということをもって、家門の誇りとしている。天孫降臨以前の系図を正しく伝えているのは、出雲国造家と当家のみである。」こう答えて、自家系図の改訂を断った、という。

 喜田貞吉は、秋田家の気概をたいそう褒めていた。また、このようなことがあったということは、公式的には秋田家は否定したという。
【転載、終わり】

 同類の伝承が記された系図に「藤崎系図 安倍姓」(注②)があります。当系図は始祖を「孝元天皇」とするものですが、その後に「開化天皇―大毘古命―建沼河別命―安部将軍―安東―(後略)」と続き、「建沼河別命」と「安部将軍」の間に次の傍記があります。

「兄安日王
弟長髓彦
人皇之始。有安日長髓〈以下十一行文字不分明故付記之〉安東浦等是也。
安国
安日後孫。」
※〈〉内は細注。

 ここに見える「安東浦」とは西津軽群深浦町深浦のこととされ、この系図の子孫に前九年の役で敗死した安倍貞任がいます。これら安東(安藤)氏系図には自らの出自を「蝦夷」とする例が散見されます。また秋田家系図では、安日王は弟の長髄彦が神武天皇の東征の時に河内の日下で抵抗し殺された後、津軽に逃れ安倍一族の始祖となったとあります。(つづく)

(注)
①「安東氏系図とその系譜意識 下国安東氏ノート~安東氏500年の歴史」
https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page10
②「藤崎系図 安倍姓」『群書系図部集 第六』続群書類従完成会編。永正三年(1506)の書写奥書を持つ。

 


第3548話 2025/11/08

多元史観で見える蝦夷国の真実 (4)

  ―都加留は蝦夷国の拠点か―

 なぜ小領域の都加留(津軽)が、広領域の麁蝦夷(あらえみし)・熟蝦夷(にきえみし)と肩を並べて唐の天子に紹介されたのでしょうか。しかも三種の蝦夷の冒頭に紹介されています。紹介する側(倭国の使者)の立場からすれば、使者に同行し、「毎歳本國の朝に入貢」している熟蝦夷から紹介するのが当然のように思われますが、最も遠方で小領域の都加留を最初にするのは不自然ではないでしょうか。更に言えば、国名(領域名か)表記に使用された漢字にも〝格差〟が見えます。

 都加留の場合、一字一音表記であり、どちらかといえば「都」のように好ましい漢字が使用されています。比べて、麁蝦夷・熟蝦夷の場合は「蝦」や「夷」のように貶めた漢字です。また、蝦夷は三種あると紹介しているのに、都加留には蝦夷という表記が付けられていません。三種が同等であれば、せめて「都加留蝦夷」と表記すべき所でしょう。

 もしかすると、都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか。九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)からの侵略に備えて、本州で最も遠い都加留に蝦夷国の拠点を置いたとしても不思議ではないように思いますが、これは思いつきに過ぎませんので今後の検討課題です。(つづく)

〖写真説明〗津軽の十三湖。遠くに岩木山が見える。大和朝廷による蝦夷国侵攻図。


第3547話 2025/11/06

多元史観で見える蝦夷国の真実 (3)

   ―三種の蝦夷の不思議―

 七世紀の蝦夷国研究を著しく難しくしている理由の一つに、史料の少なさがあります。古代日本列島に実在していたことは疑うべくもないのですが、そのほとんどが『日本書紀』であるため、大和朝廷にとって都合の良い記述になっていると思われ、その実態を正確に知ることが難しいのです。その点、九州王朝(倭国)の場合は存在そのものが『日本書紀』には記されていませんが(隠されている)、幸いなことに隣国の歴代中国史書に倭人伝や倭国伝として九州王朝のことが記述されており、古田武彦先生の九州王朝説提唱以来、九州王朝研究は大きく進んできました。

 他方、大和朝廷は蝦夷国の存在を隠すことなく自らの史書に記しているのですが、これは701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代後、日本国と蝦夷国は二百年以上も激しく戦ってきたため、隠そうにも隠せなかったからでしょう。ですから、七世紀(九州王朝時代)の蝦夷国研究はどうしても『日本書紀』に頼らざるを得ません。その『日本書紀』には注目すべき蝦夷国記事が見えます。斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」の次の記事です。

 「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 倭国の使者が唐の天子の質問に、蝦夷国には都加留と麁蝦夷と熟蝦夷の三種類があると答えています。遠くの都加留とは今の津軽地方(青森県)のことと思われます。熟蝦夷は太平洋側の陸奥国領域、麁蝦夷は日本海側の出羽国領域ではないでしょうか。いずれも現在の東北地方の数県にまたがる広い領域です。ところが都加留は青森県の西半分であり、三種ある蝦夷の一つにしてはアンバランスではないでしょうか。しかも都加留には「蝦夷」という表記が付いていません。言わば、狭領域でありながら、三種の蝦夷の一つとして、広領域の麁蝦夷・熟蝦夷と並べて、倭国の使者(恐らく九州王朝の使者)が唐の天子に紹介しているわけです。

 前話で紹介したように、筑紫と津軽は弥生時代から交流があったことが知られています。蝦夷国の歴史を探究する上で、〝筑紫と津軽の交流〟というテーマは重要な視点ではないかと考えていますが、その真相にはまだ至っていません。(つづく)

〔余談〕私事ですが、この「洛中洛外日記」を病院のベッドで書いています。一週間ほどで退院できそうですので、HPに掲載されるのはその後になります。病棟の七階にある部屋ですので、比叡山や大文字山(如意ヶ嶽)、左大文字など東山・北山を展望ですます。夜は南の方にライトアップされた京都タワーが見えます。

〖写真説明〗五所川方面から見た岩木山。弘前城から見た岩木山。山頂の形が異なります。


第3546話 2025/11/03

多元史観で見える蝦夷国の真実 (2)

  ―古代の津軽と筑紫の交流―

 10月25日(土)に、『東日流外三郡誌の逆襲』(古賀達也編)の版元、八幡書店が同書出版記念イベントとして、東京麹町でトークショー「壁の外に歴史はあった!」を開催しましたので、わたしも参加しました。トークメンバーはわたしと武田崇元社長・黒川柚月氏の三名。参加者からの質疑応答も活発で、夕食を兼ねた懇親会でも質問が続き、とても楽しい一日となりました。

 イベント冒頭に、わたしから『東日流外三郡誌の逆襲』の概要と30年前の津軽調査の想い出を話させていただきました。トークショーでは古代(弥生時代)に遡る津軽と筑紫の交流の痕跡として、青森県の砂沢水田遺跡を紹介し、同水田遺跡は関東の水田遺跡よりも古く、その工法が福岡県の板付水田と類似していることを紹介しました。

 砂沢遺跡は青森県弘前市にある弥生前期(2400~2300年前)の本州最北端の水田跡遺跡で、北部九州を起源とする遠賀川系土器が出土しており、九州北部の稲作農耕が日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことが分かりました。
さらに、青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期(2100~2000年前)の垂柳遺跡からも656面の水田跡が検出され、津軽平野には稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなりました。このように、津軽(蝦夷国)と筑紫(九州王朝)には弥生時代から交流があったことを疑えませんが、その事情や歴史背景は未詳です。(つづく)


第3544話 2025/10/16

多元史観で見える蝦夷国の真実 (1)

 今年の7月6日(日)、久留米大学公開講座で「王朝交代前夜の倭国と日本国 ─温泉の古代史 太宰府遷都の背景─」というテーマで講演しましたが、その後半には「王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の日本列島 —倭国・日本国・蝦夷国の三国時代—」という研究分野について解説しました。下記のような内容です。

❶ 列島の代表王朝だった倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代は701年(大宝元年)のことと古田史学では考えられてきた。本研究により、それは七世紀第4四半期の天武天皇・持統天皇により準備されてきたことが明らかになった。

❷ 藤原京時代(694年遷都)には、出土木簡によれば近畿天皇家はヤマトを「倭国」と称していることから、自らの支配領域全体は「日本国」と称していた可能性が高い。

❸ しかし、その時期でも九州年号が各地で使用されていることから、大義名分上は九州王朝が700年まで倭国の代表王朝であり続けた。→大和朝廷(日本国)の年号は大宝(701年)から。

❹ 蝦夷国の存在をクローズアップすれば、七世紀後半の日本列島は倭国・日本国・蝦夷国の三国時代とも言いうる状況にあった。

❺ 蝦夷国は倭国(九州王朝)の冊封下にあったが、701年の王朝交代により独立を目指したようだ。八世紀になると新王朝の日本国と激しく争い、十世紀まで戦闘・抵抗を続け、蝦夷国は滅んだ。

❻ これからの日本古代史研究は、多元史観に基づき、「倭国・日本国・蝦夷国の三国時代」という視点が不可欠。

 古田史学の歴史認識の基本は多元史観であり、そうであれば九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)だけではなく、古代において東北地方に存在した蝦夷国もひとつの「王朝」あるいは「国家」とする、七世紀頃までの〝倭国・日本国・蝦夷国の三国時代〟という視点での研究や史料理解が必要です。この提言を、わたし自身も含めた古田学派への〝警鐘〟として、久留米大学で発表しました。(つづく)

《写真解説》
青森県東北町から発見された日本中央碑。仙台平野の遠見塚古墳と名取市の雷神山古墳。いずれも蝦夷国領域のもの。

第3539話 2025/10/06

津軽にいた阿倍比羅夫の御子孫

 弘前市立図書館では、キリシタン禁圧文書の他に、津軽藩内の神社や社司の調査記録「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」(写本)を閲覧しました。同書は安政二年(1855)に編纂されたもので、原本は弘前市の最勝院が蔵しています。そのため、弘前市立図書館にある八木橋文庫の同書写本(注①)のコピー版を閲覧しました。

 「神社微細社司由緒調書上帳」はかなり大部の史料のため、精査は無理でしたが、5時間ほどかけて二~三度目を通したところ、面白い記事が目にとまりました。それは『日本書紀』斉明紀に見える大将軍、阿倍比羅夫(あべのひらぶ)の御子孫についての記録です。弘前にある熊野神社の神主、長利(おさり)家の祖を阿倍比羅夫とする記事が「神主由緒書」の冒頭に次のように記されています。

 「神主由緒書
一神代 二津石 又、比羅賀□王より*号す。
右は阿倍比羅夫の子孫。(中略)

二二代 長利麿
(以下略)」
※古賀による訳文。□は一字不明。「*号」は偏が「号」、旁が「逓」の中の字か。

 長利家は津軽の著名な社家ですが、その祖先を阿倍比羅夫とする伝承が津軽藩による公的な調査資料に記されていることから、長利家自身がそのように自家の系譜を認識していたと考えられます。東北の蝦夷討伐で活躍し、更に北方の粛慎とも戦ったと『日本書紀』に記された阿倍比羅夫を祖先とするのですから、それは誇るべき事ではありますが、津軽には滅ぼされた側(蝦夷国)の末裔が多数住んでいるのですから、長利家は古代においては複雑な立場に置かれたのではないでしょうか。

 なお、阿倍比羅夫を祖先とする家系は他にもありますが(注②)、津軽(旧蝦夷国)にその後裔がいたことに、歴史の秘密が隠されているように思います。もしかすると、阿倍比羅夫は津軽に逃れた安日彦(あびひこ)の子孫ではないでしょうか。これからの研究課題です。(つづく)

(注)
①中村良之進(北門)書写『津軽史料』「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」。
②阿倍仲麻呂は阿倍比羅夫の子孫と伝えられている。

《写真解説》クマと戦う阿倍比羅夫。その孫と伝えられている阿倍仲麻呂。


第3525話 2025/09/03

東北地方の「山」地名〝山形〟を考える

 東北地方に濃密分布する「山神社」ですが、なぜか山形県が最も多いようでした。同県には下記の「山神社」がウィキペディアで紹介されています。

【山形県の主な山神社】
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野

 山形県内の「山神社」をプロットした地図を見ていて、山形県・山形市の山も「山神社」と無関係ではないのではないかと考えました。そこで「山形」地名の由来を調べてみました。関係自治体ホームページなどでは、『倭名抄』(注)に見える「山方郷」(山形市の南部とされる)が地名の由来とされています。それはその通りだと思いますが、今、問題にしているのは、「山形・山方(やまかた)」の「山(やま)」の由来ですから、こうした説明だけでは不十分です。平地から見て山の方にある郷だから山方郷とする説明も見えますが、内陸部にある山形市の四方はほぼ山ですから、南側だけ「山方」と名づけられたことになる、このような説明では納得できそうにありません。

 そこで、ここからはわたしの作業仮説(思いつき)ですが、「山方(やまかた)」は「やま」の「県(あがた)」が本来の行政地名であり、その「やまあがた」が「やまがた」と呼ばれ、漢字の「山方」「山形」を当てられたのではないでしょうか。そうであれば、その地名の語幹は「やま」となり、当地はもともと「やま」と呼ばれていた領域と考えることができます。なお、この場合の「やま」は moutain のこととは限りません。

 しかしながら「山県(やまあがた)」由来説には考えなければならない問題があります。それは、「県(あがた)」は七世紀前半以前の倭国(九州王朝)の行政単位であり、古代の蝦夷国であった山形県に倭国の行政単位が採用されていたのかという問題です。引き続き、この作業仮説が成立するのか深く考えてみます。(つづく)

(注)『倭名類聚抄』の略称。『和名類聚抄』『和名抄』ともいう。同書は源順による辞典類で、平安時代中期の承平年間(931~938年)に成立。当時の地名が記されており、地名研究では基本資料として重視されている。


第3522話 2025/08/27

宮城県の日本武尊伝承を持つ神社

 「「洛中洛外日記」」3518話〝狩野英孝さんの実家「櫻田山神社」の祭神「武烈天皇」〟では宮城県北部の栗原市にある櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)のご祭神として祀られている「武烈天皇」、3520話〝大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承〟では同県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊であることを紹介し、これらのご祭神は『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇や日本武尊に置き換えられて伝わったのかもしれないとしました。

 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に宮城県(蝦夷国)が含まれている可能性もあり、宮城県内の日本武尊伝承を持つ神社をWEBで探したところ、県内各地にあることを知り、驚きました。ブログ「宮城県・日本武尊・縁の社寺・温泉」によると大高山神社をはじめとして次の神社がリストアップされています。
https://www.miyatabi.net/sonota/yamatotakeru.html

大高山神社 (宮城県大河原町) 名神大社
多賀神社 (宮城県仙台市) 延喜式内社
多賀神社 (宮城県名取市) 延喜式内社
佐倍乃神社 (宮城県名取市)
熱日高彦神社 (宮城県角田市) 延喜式内社
斗蔵神社 (宮城県角田市)
鹿嶋天足和気神社 (宮城県亘理町)
安福河伯神社 (宮城県亘理町)
鹿島神社 (宮城県丸森町)
刈田嶺神社 (宮城県蔵王町) 名神大社
遠流志別石神社 (宮城県登米市) 延喜式内社
飯野山神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
拝幣志神社 (宮城県石巻市) 名神大社
日高見神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
白鳥神社 (宮城県村田町)
白鳥神社 (宮城県柴田町)
拆石神社 (宮城県柴田町)
駒形根神社 (宮城県栗原市) 延喜式内社
敷玉早御玉神社 (宮城県大崎市) 延喜式内社

 このように宮城県内各地に、日本武尊に置き換えられた倭王武伝承の痕跡があり、九州王朝(倭国)は蝦夷国(陸奧国の太平洋側)の中枢領域と思われる仙台平野とその以北まで侵攻したことがうかがわれます。この伝承分布は前方後円墳分布にも対応しているようなので、宮城県内の日本武尊伝承は史実の反映と見たほうがよいように思われます。(つづく)