古田史学会報一覧

『古田史学会報』は167号まで、ホームページで公開しております。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta9.html

第3328話 2024/07/23

『九州倭国通信』215号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.215号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「城崎温泉にて」を掲載していただきました。これは昨年末に家族旅行で訪れた城崎温泉の紀行文で、タイトルは志賀直哉の「城崎にて」に倣ったものです。初めて訪れた城崎温泉ですが、そのお湯がきれいで日本を代表する名湯「海内第一泉」とされていることも頷けました(注①)。
現地伝承では、舒明天皇の時代、傷ついたコウノトリが山中の池で湯浴みしているのを見た村人により、温泉が発見されたとのこと。これが史実を反映した伝承であれば、舒明天皇の時代(六二九~六四一年)とあることから、本来は当時の九州年号「仁王」「僧要」「命長」により、その年代が伝えられ、後世になって『日本書紀』紀年に基づき、「舒明天皇の時代」とする表記に変えられたものと思われます。

 本号の表紙には韓国慶州市の明活山城石垣が掲載されています。「九州古代史の会」では五月に「伽耶・新羅の旅」を行われており、会報紙面にもその報告が収録されています(注②)。福岡は地理的にも歴史的にも韓国との関係が深く、日韓の古代史研究も盛んです。これは同会の強みの一つと思います。同会事務局長の前田和子さんからは、「日本古代史研究のためにも、古賀さんは韓国を訪問するべき」と言われています。仕事で何度も韓国出張しましたが、残念ながら毎回ハードスケジュール続きで、当地の博物館や遺跡巡りの機会はありませんでした。退職後も国内旅行が精一杯で、韓国訪問の機会はないままです。

(注)
①一の湯には「海内第一泉」の石碑がある。江戸時代の医師、香川修庵が「天下一の湯」と推奨したことが一の湯の由来。
②鹿島孝夫「青龍か天馬かそれとも? 伽耶・新羅の旅を終えて」
工藤常泰「慶州の金冠と糸魚川の翡翠」
前田和子「その「一語」とあの「一文」の罪52 (再び白村江の戦い)~伽耶・新羅の旅~」


第3319話 2024/07/06

『多元』182号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』182号が届きました。同号には拙稿〝吉野ヶ里出土石棺被葬者の行方〟を掲載していただきました。同稿では、30年前に古田先生と吉野ヶ里遺跡に行ったときの思い出や、銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根県加茂町)を先生が一人お忍びで訪問されたときのエピソードなどを紹介しました。更に〝日本の発掘調査技術の進歩〟として、最先端機材を使用した福岡県古賀市の船原古墳発掘調査の方法を解説しました。それは次のようなものです。

(a)遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
(b)次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この(a)と(b)で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
(c)そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
(d)遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

 こうした作業により、船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元され、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存されました。日本の発掘調査技術がここまで進んでいる一例として紹介しました。

 同誌には清水淹(しみず ひさし、横浜市)さんの「最近の団体誌を見て」という記事が連載されており、『古田史学会報』や『東京古田会ニュース』などに掲載された論稿の批評がなされています。わたしも友好団体から送られてくる会誌を拝読していますが、わたしとは異なる清水さんの視点や感想が報告されており、とても勉強になります。学問研究は、自説への批判や自分の考えとは異なる意見に触れることにより発展しますので、毎号、楽しみに読んでいます。


第3300話 2024/06/11

『古田史学会報』182号の紹介

 本日届いた『古田史学会報』182号を紹介します。同号には拙稿〝「天皇」銘金石文の史料批判 ―船王後墓誌の証言―〟を掲載して頂きました。

 九州王朝(倭国)と近畿天皇家(後の大和朝廷)との関係について、古田先生は、701年の王朝交替より前は、倭国の臣下筆頭の近畿天皇家が七世紀初頭頃からナンバーツーとしての「天皇」号を称していたとされていましたが、晩年には、七世紀の金石文などに見える「天皇」はすべて九州王朝の天子の別称であり、近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする新説を発表されました。

 本稿において、わたしは古田旧説を支持しており、その根拠として船王後墓誌(国宝)に見える三名の天皇は、通説通り敏達天皇・推古天皇・舒明天皇でよいとし、古田新説は論証が成立していないとしました。

 一面に掲載された日野稿は、近畿天皇家皇族の呼称「皇弟・皇子・皇女」の実体や淵源について、『記紀』表記例を比較して論じたものです。更には天皇号の成立を天武からとする通説を批判し、船王後墓誌などを根拠に、敏達や用明は天皇を称していたとし、天智の不改常典に至り天皇号が世襲されるようになったとする仮説を発表しました。今後の論争や検証が待たれますが、とても興味深い論稿でした。

 なお、次号回しになった採用決定稿が複数ありますが、順次掲載していきます。

 『古田史学会報』に論文を投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込み簡潔でわかりやすい原稿にしてください。地域の情報紹介や面白い話題提供なども歓迎します。
長文の論文は『古代に真実を求めて』に投稿してください。次号28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。
182号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』182号の内容】
○皇弟・皇子・皇女の起源 たつの市 日野智貴
○さまよえる狗奴国と伊勢遺跡の謎 吹田市 茂山憲史
○緊急投稿「不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル」(下) 川西市 正木 裕
○小論・藤原宮の大溝SD1901A仮設運河説を考える 杉並区 新庄宗昭
○土佐国香長条里七世紀成立の可能性 高知市 別役政光
○「天皇」銘金石文の史料批判 ―船王後墓誌の証言―
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○会員総会・記念講演会のお知らせ
○「会員募集」ご協力のお願い
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第3281話 2024/05/06

『多元』181号の紹介

 友好団体の多元的古代研究会機関紙『多元』181号が届きました。同号には拙稿〝九州王朝の両京制を論ず(三) ―「西都」太宰府倭京と「東都」難波京―〟を掲載していただきました。同稿では、前期難波宮九州王朝複都説の研究経緯と、七世紀の九州王朝(倭国)が採用した両京制について論じました。
一面に掲載された新庄宗昭さんの〝「遺跡・飛鳥浄御原宮跡」異聞〟は、飛鳥浄御原遺跡の外形(平面図)が直角ではなく、台形であることに注目した論稿です。この飛鳥宮第Ⅲ期の遺構を「遺構事実として内裏の施設だけが点在したことは、規模からして王宮ではあり、王族の私的居住空間であることは間違いはない。」とされ、律令宮殿である飛鳥浄御原宮ではないと結論されました。考古学報告書に基づいた論稿であり、やや難解な解説が続きますが、天武期の近畿天皇家の実体について、考古学の視点から論じたもので、是非は別としても貴重な研究と思われました。

 同テーマについては拙稿「飛鳥「京」と出土木簡の齟齬 ―戦後実証史学と九州王朝説―」(注)で論じましたが、飛鳥宮や藤原京についての考古学研究が古田学派でも盛んになることを願っています。

 同号には、「倭国から日本国」(『古代に真実を求めて』27集)の紹介記事も掲載していただきました。

(注)古賀達也「飛鳥「京」と出土木簡の齟齬 ―戦後実証史学と九州王朝説―」『倭国から日本国へ』(『古代に真実を求めて』27集)明石書店、2024年。


第3275話 2024/04/22

『九州倭国通信』214号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.214号が届きましたので、紹介します。同号には拙稿「筑前地誌で探る卑弥呼の墓」を掲載していただきました。古田先生は卑弥呼の墓の有力候補地として、弥生遺跡として著名な須玖岡本遺跡(福岡県春日市須玖岡本)の山上にある熊野神社社殿下とされました(注①)。拙論では、この古田説を補強すべく、『筑前国続風土記拾遺』(注②)に見える次の記事を紹介しました。

 「熊野権現社
岡本に在。枝郷岡本 野添 新村等の産神也。
○村の東岡本の近所にバンシヤクテンといふ所より、天明の比百姓幸作と云者畑を穿て銅矛壱本掘出せり。長二尺余、其形は早良郷小戸、また當郡住吉社の蔵にある物と同物なり。又其側皇后峰といふ山にて寛政のころ百姓和作といふもの矛を鋳る型の石を掘出せり。先年當郡井尻村の大塚といふ所より出たる物と同しきなり。矛ハ熊野村に蔵置しか近年盗人取りて失たり。此皇后峯ハ神后の御古跡のよし村老いひ傅ふれとも詳なることを知るものなし。いかなるをりにかかゝる物のこゝに埋りありしか。」『筑前国続風土記拾遺』上巻、三二〇~三二一頁。

 ここに記された皇后峯の山頂が現・熊野神社に当たり、卑弥呼のことが神功皇后伝承として伝えられているとしました。
同号冒頭には大宰府蔵司遺跡の写真が掲載されており、本年二月十七日に開催された発掘調査報告会(九州歴史資料館主催)について、工藤常泰さん(九州古代史の会・会長)より詳細な報告がなされており、勉強になりました。なかでも、蔵司地区から出土した大型建物(479.7㎡)が政庁正殿よりも巨大で、大宰府官衙群中最大です。その用途として、「大宰府財政を束ねた中枢施設」や「外国の使節をもてなした饗応施設」とする諸説が出されているとのことです。九州王朝説に立った場合、どのような仮説が成立するのか楽しみなテーマです。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、一九八七年。
②広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(一九九三年)。


第3271話 2024/04/16

『古田史学会報』181号の紹介

本日届いた『古田史学会報』181号を紹介します。同号には拙稿〝『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名〟と〝「倭国から日本国へ」発刊のお知らせ〟を掲載して頂きました。前者では、愛媛県東部に濃密分布する「天皇」地名や伝承の歴史的背景に、当地の有力氏族越智氏が九州王朝より天皇号を許されたことがあったのではないかとするものです。後者は「倭国から日本国へ」の紹介と、『古代に真実を求めて』の投稿規定などを転載しました。

同号一面の正木稿は、過日報道されたNHKスペシャル古代史ミステリーの報道姿勢と番組内容を鋭く批判したものです。わたしも同番組を見ましたが、それは酷い偏向番組で、放送法に定められた公平の原則を完全に無視した内容でした。正木稿でも指摘されていますが、〝「ヤマト説の解説」ですらなく「邪馬台国はヤマト、倭の五王はヤマトの大王」を自明〟とした番組でした。

同番組は明らかに意図的な「情報操作」がなされていました。それは箸墓古墳の炭素同位体年代測定値による造営年代を三世紀前半とする解説場面の右下に、その根拠とした論文名が小さな字で記されていました。それを見て、現在では不正確とされている測定値を採用していたことがわかりました。念のために録画で確認しましたが間違いありませんでした。それは次の説明文です。

国立歴史民俗博物館研究報告2011
「古墳出現期の炭素14年代測定」

この2011年の報告書は、炭素14年代測定値の補正(較正)に国際補正値intCAL09を採用しています。専門的になりますので結論のみ言いますと、この国際補正値は数年毎に見直されており、近年では2009年、2013年、そして直近では2020年に見直されています。日本で開発されたJ-CALの補正データを採用した2020年のintCAL20は特に優れており、現在の世界標準になりました。その結果、弥生時代ではintCAL09による補正値が百年ほど古く誤っていたことが明らかとなりました(注①)。

したがって、歴史民俗博物館研究報告2011「古墳出現期の炭素14年代測定」は、intCAL09による補正で箸墓古墳の築造年代を240年頃としたのですが、現在(intCAL20補正)では不正確な数値として批判され、従来の考古学編年通り300350年頃とする炭素年代測定値が最有力とされています。このことは日本の考古学者であれば知らないはずがありません。元橿原考古学研究所の考古学者、関川尚功さんも同様のことを言っておられました(注②)。

NHKの当番組では考古学者の福永伸哉氏(大阪大学大学院教授・考古学)も出ていましたから、NHKの番組作成者がこのintCAL09とintCAL20の精度差を知っていて、後で視聴者から批判されても言い逃れができるように、申しわけ程度に小さな字で画面右下に出典論文名を数秒間提示したと考えざるを得ません。本当に悪質な報道姿勢と番組でした。

ちなみに、放送法第4条には次の条文があります。

(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

NHKは放送法違反の報道や番組をこれまでも放送してきました。和田家文書偽作キャンペーンのときもそうでした。古田先生と安本美典氏の討論番組で、安本氏にVTRの使用や多くの時間配分を行うなど、明らかにアンフェアな番組を放送したのです。このときはさすがにNHK関係者からも非難の声があがりました。こうした姿勢が、現在も全く代わっていないことがよくわかる「NHKスペシャル古代史ミステリー」でした。

181号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』181号の内容】
○緊急投稿 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル(上) 川西市 正木 裕
○倭国天皇の地位について ―西村秀己・古賀達也両氏への回答― たつの市 日野智貴
○「邪靡堆」論への谷本茂氏への疑問に答える 姫路市 野田利郎
○『朝倉村誌』(愛媛県)の「天皇」地名 京都市 古賀達也
○皇暦実年代の換算法について正木稿への疑問 たつの市 日野智貴
○大きな勘違いだった古代船「なみはや」の復元 京都府大山崎町 大原重雄
○「倭国から日本国へ」発刊のお知らせ 古田史学の会・代表 古賀達也
○会員総会・記念講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○2024年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2827話(2022/09/05)〝「夏商周断代工程」と水月湖の年縞〟
萩野秀公「若狭ちょい巡り紀行 年縞博物館と丹後王国」『古田史学会報』171号、2022年。
②令和三年六月十九日に開催された奈良市での講演会(古田史学の会・主催)で、関川尚功氏は、炭素14年代測定での国際補正値(IntCAL)と日本補正値(JCAL)とでは弥生時代や古墳時代では百年程の差が生じるケースがあると指摘された。
古賀達也「洛中洛外日記」2497話(2021/06/20)〝関川尚功さんとの古代史談義(1) ―炭素14年代測定の国際補正値と日本補正値―〟


第3262話 2024/04/04

『東京古田会ニュース』215号の紹介

 『東京古田会ニュース』215号が届きました。拙稿「興国の津軽大津波伝承の考察 ―地震学者・羽鳥徳太郎の慧眼―」を掲載していただきました。同稿では、東日流外三郡誌に散見する興国の大津波伝承が、江戸期成立の津軽藩の文書にも記されていることを紹介しました。そして、〝興国の大津波は東日流外三郡誌にしか掲載されていない〟〝歴史事実ではない〟として、そのことを偽作の根拠とした偽作説に反論しました。ちなみに、同稿で紹介した津軽藩系史料とは次の文書です。「洛中洛外日記」(注)でも紹介しましたし、国文学研究資料館のデジタルアーカイブ収録「陸奥国弘前津軽家文書」で閲覧できます。

 下澤保躬「津軽系図略」明治十年(一八七七)。
陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(一八一二)。
「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明。

 『東京古田会ニュース』215号掲載論文で注目したのが、橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)の「古代史エッセー78 天智天皇紀の重複記事」でした。天智紀に散見される重複記事を紹介し、その年次のずれが、七年・六年・五年・三年・二年のケースがあることを指摘され、「それぞれに原因を考える必要がある」とされました。

 なぜか天智紀に重複記事が頻出するのですが、その理由について、本当に重複記事なのか、唐軍の筑紫進駐記事は実際に二度あったのではないかとする見解も古田先生から出されてきました。また、もし重複記事であるのならば、そのことに『日本書紀』編者たちは誰一人として気づかなかったのかという疑問を払拭できませんし、なぜ天智紀に頻出するのかという疑問にも答えることが出来ていないように思われます。橘高稿を読み、この重要な未解決テーマについて、多元史観・九州王朝説でも説明し切れていないことに、改めて気づきました。

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」3107~3109話(2023/09/08~10)〝地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝興国の大津波の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
同「洛中洛外日記」3112話(2023/09/13)〝興国の大津波の伝承史料「前代御系譜」〟
同「洛中洛外日記」3113話(2023/09/14)〝興国の大津波は元年か二年か〟


第3251話 2024/03/16

スタンフォード大学にある

     明治時代の日本地図

 本日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。次回、4月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。

 (都島区民センター(図書館)から変更になりました)

 今回の発表で特にわたしが注目したのが、播磨風土記の地名の現在位置に関する研究で谷本さんが使用した明治期作成の地図でした。一見、現在作成されている国土地理院の地図のようですが、今は失われた明治期の字地名が掲載されています。その地図がアメリカのスタンフォード大学図書館のホームページに掲載されており、誰でもアクセス可能とのことで驚きました。
江戸時代に遡る字地名の調査には、江戸期の地誌か明治二年作成『明治前期 全国村名小字調査書』(注①)を使用していたのですが、それですと地名はわかっても、その正確な場所がわからないことが多く、調査が大変でした。ところが、スタンフォード大学所蔵の地図であれば正確な場所もわかり、研究者にとってはとても有り難いことです。谷本さんのご教示により、そのような地図がネットで見られること知り、有益でした。

 ちなみに、『古代に真実を求めて』28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」(注②)ですから、とてもタイムリーな研究発表でした。

 3月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔3月度関西例会の内容〕
①天孫降臨とニニギ命 (大阪市・西井健一郎)
②剣の神のタケミカヅチが素手でタケミナカタと戦う理由 (大山崎町・大原重雄)
③モーツァルトの「魔笛」と古事記の相似形の説話 (大山崎町・大原重雄)
④4月ハイキング「春の櫻宮から難波宮を歩く」の案内 (八尾市・上田 武)
⑤『隋書』重視で、『書紀』の元本に照らす (東大阪市・萩野秀公)
⑥「邪馬台国と火の国」論の再提起 (茨木市・満田正賢)
⑦播磨風土記・地名考(続) ―宍禾郡・柏野里・敷草村の条― (神戸市・谷本 茂)
⑧「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住跡を発見」報道と倭国の半島進出 (川西市・正木 裕)

◎古賀から役員会の報告
・会員総会・記念講演会(27集出版記念)の日程と講師
6月16日(日)午後 会場:ドーンセンター 参加費:無料
講演会講師:谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
演題:未定
※前日(6月15日)の関西例会もドーンセンターで開催します。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
04/20(土) 会場:豊中倶楽部自治会館

(注)
①『明治前期 全国村名小字調査書』ゆまに書房、1986年。
②二十八集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。風土記や地誌を研究対象として、そこに遺された九州王朝の痕跡を論じ、論文やフォーラム・コラムとして投稿してください。地誌の場合、その成立が中近世であっても、内容が古代を対象としており、適切な史料批判を経ていれば、古代史のエビデンスとして採用していただいてかまいません。(『古代に真実を求めて』28集の投稿募集要項より)

______________________________________________________________

古田史学の会 東成区民センター 2024.3.16

2024年 3月度関西例会発表一覧
(ファイル・動画)

YouTube公開動画①②です。

1,天孫降臨とニニギ命 (大阪市・西井健一郎)

 動画はありません

2,剣の神のタケミカヅチが素手でタケミナカタと戦う理由
(大山崎町・大原重雄)

https://youtu.be/2o-eoZcsysU
https://youtu.be/M3qkbHgjd9U

3,モーツァルトの「魔笛」と古事記の相似形の説話 (大山崎町・大原重雄)

https://youtu.be/DrWQ2nw9pH0
https://youtu.be/afRJ4Bdhgso

4,4月ハイキング「春の櫻宮から難波宮を歩く」の案内 (八尾市・上田 武)

 動画はありません

5,『隋書』重視で、『書紀』の元本に照らす (東大阪市・萩野秀公)

 動画はありません

6,「邪馬台国と火の国」論の再提起 (茨木市・満田正賢)

 動画はありません

7,播磨風土記・地名考(続) ―宍禾郡・柏野里・敷草村の条―
(神戸市・谷本 茂)

 動画はありません

8,「韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住跡を発見」報道と倭国の半島進出 (川西市・正木 裕)

https://youtu.be/0e3xqq5JO1U
https://youtu.be/G8XqfEc37EQ


第3241話 2024/03/04

『多元』180号の紹介

 友好団体の多元的古代研究会機関紙『多元』180号が届きました。同号には拙稿〝九州王朝の両京制を論ず(二) ―観世音寺創建の史料根拠―〟を掲載していただきました。同紙178号にあった、上城誠氏の「真摯な論争を望む」への反論の続編です。

 わたしの観世音寺創建白鳳十年(670年)説に対して、上城稿には「その史料操作にも問題がある。観世音寺の創建年代を戦国時代に成立の『勝山記』の記述を正しいとする方法である。(中略)史料批判が恣意的であると言わざるを得ない。」との論難がありましたので、

 〝「史料操作」とは学問の禁じ手であり、理系論文で言えば実験データの改竄・捏造・隠蔽に相当する、研究者生命を失う行為だ。たとえば「古賀の主張や仮説は間違っている」という、根拠(エビデンス)と理由(ロジック)を明示しての批判であれば、わたしはそれを歓迎する。しかし、古賀の「史料操作にも問題がある」などという名誉毀損的言辞は看過できない。しかも、『勝山記』をわたしがどう「史料操作」したのかについて、触れてもいない。〟

 と指摘し、これまで多くの論文で明示した史料根拠と、「洛中洛外日記」の観世音寺関連記事リストを紹介しました。続編「九州王朝の両京制を論ず(三) ―「西都」太宰府倭京と「東都」難波京―」を執筆中ですが、そこでは太宰府廃都を伴う難波遷都ではなく、太宰府倭京と難波京の両京制とする説へ発展した理由など近年の研究成果を紹介する予定です。

 同号には西坂久和さん(昭島市)の「まちライブラリー@MUFG PARKの紹介」が掲載されており、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご尽力と古田先生や会員からの図書寄贈(注)により開設された、アイサイトなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)の「古田武彦コーナー」が、昨年より西東京市の「まちライブラリー@MUFG PARK」に移設されたことが紹介されました。これは、大阪公立大学の発足に伴い、アイサイトなんばのライブラリーが廃止されたことによるものです。

 「まちライブラリー@MUFG PARK」は西東京市柳沢四丁目にあり、JR中央線吉祥寺駅・三鷹駅などからバスで15分、武蔵野大学下車すぐです。図書は三冊・二週間まで借り出し可能で、インターネットで蔵書検索が可能とのことです。古田先生の著書や「古田史学の会」の会報・論集などが揃っており、古田史学や古田学派の研究論文調査に役立つことと思います。

(注)古田先生からは『廣文庫』一式などが寄贈された。『廣文庫』(こうぶんこ)は明治時代の前の文献(和漢書・仏書・他)からの引用文を集大成した資料集。物集高見により大正七年(1918年)に完成した。全20冊。


第3228話 2024/02/15

『古田史学会報』180号の紹介

 本日発行された『古田史学会報』180号を紹介します。同号には拙稿「論文削除要請された『親鸞思想』―古田武彦「親鸞論」の思い出―」を掲載して頂きました。
同稿は、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から、「覚信尼と『三夢記』についての考察 豅弘信論文への感想」(『古田史学会報』178号)への批評を求められたおり、古田先生の親鸞研究関連著作を読み直したことをきっかけに、その代表作『親鸞思想』(冨山房、1975年)出版に関する思い出を綴ったものです。近年、古田学派内でも古田親鸞論の研究や論稿を久しく見なくなりましたので、わたしの記憶が鮮明なうちに、先生から直接お聞きしたことを書き残しておこうと考えています。

 一面の正木稿は、新年早々に茂山憲司さん(『古代に真実を求めて』編集部)から届いたメール情報(「南日本新聞」元旦の記事)に基づいて書かれたもので、鹿児島県指宿市(尾長谷迫遺跡)から出土した暗文土師器について論じた好論です。従来は大和朝廷に関係する遺構(国府跡など)からしか出土しない同土師器が、九州王朝時代の七世紀中葉の薩摩の遺跡から出土したことで、当地のメディアに注目されたようです。これは、正木さんがこれまで発表されてきた、天智の后、倭姫王が薩摩出身の〝九州王朝の姫〟(『続日本紀』には「薩末比売」、現地伝承では「大宮姫」)とする一連の仮説と整合する出土事実であり、正木説を支持する考古学的傍証となります。

 近年では、九州王朝(倭国)と鹿児島県との関係をうかがわせる「青竹の笛」伝承研究も伊藤正春さん(古田史学の会・会員、練馬区)から発表されており、注目しています(注)。

 180号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』180号の内容】
○「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」 川西市 正木 裕
○皇極はなぜ即位できたのか 河内祥輔・神崎勝両氏の問題提起を受けて たつの市 日野智貴
○野田利郎氏の「邪靡堆」論と漢文解釈への疑問 神戸市 谷本 茂
○論文削除要請された『親鸞思想』―古田武彦「親鸞論」の思い出― 京都市 古賀達也
○「中天皇」に関する考察 茨木市 満田正賢
○持統天皇の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと 京都市 久冨直子・大山崎町 大原重雄
○令和六年、新年のご挨拶 ―「立正安国論」日蓮自筆本の「国」― 「古田史学の会」・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己

(注)
美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』勝美印刷、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2597話(2021/10/18)〝美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』を読む〟
同「洛中洛外日記」2604話(2021/10/27)〝大隅国、台明寺「青葉の笛」伝承〟
同「洛中洛外日記」2633話(2021/12/11)〝失われた九州王朝の横笛か「清水の笛」〟
「失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五絃琴笛」『隋書』俀国伝―」『古田史学会報』168号、2022年。

___________________________________________________________________

YouTube講演 案内 

古代大和史研究会(59)2024年1月23日 於:奈良県立図書情報館

倭国(九州王朝) から日本国(大和朝廷) へ⒀

「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」正木裕

https://www.youtube.com/watch?v=8DDjZ2nPxW0


第3214話 2024/02/01

『東京古田会ニュース』No.214の紹介

 『東京古田会ニュース』214号が届きました。拙稿「藤原宮『長谷田土壇説』の再考察」を掲載していただきました。同稿は、八王子セミナー(注①)での藤原宮(京)研究において注目された〝もうひとつの藤原宮「長谷田土壇」〟について考察したものです。

 藤原宮の所在地については江戸時代から大宮土壇(橿原市高殿)が有力視され、大正時代には喜田貞吉が長谷田土壇説(同市醍醐)を発表しました。その後、大宮土壇から大型宮殿遺構が出土したことで論争は決着しましたが、わたしは喜田の指摘した論理性は今でも有力とする見解を「洛中洛外日記」(注②)で表明しました。喜田説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるため、大宮土壇の北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形の条坊都市となることです。

 そこで、八王子セミナーに先だって長谷田土壇説を再検討し、そこが王宮であれば、その南北の通りが朱雀大路となり、他の条坊大路よりも幅が大きいはずと考えました。ところが長谷田土壇を南北に通る「二坊大路」の幅は約16mであり、他の偶数大路(四条(坊)、六条(坊)など)と同規模です。他方、大宮土壇にあった藤原宮の朱雀大路は約24mであり、藤原京内では最大です。
ちなみに、九州王朝の倭京(太宰府条坊都市)の朱雀大路は(路面幅)約36m・(側溝芯々間)約37.8m。同じく難波京は約33mで、藤原京より大きいのです。大和朝廷が王朝交代後に造営した平城京は更に巨大化し、朱雀大路幅は約75mです。

 これらの朱雀大路幅を比較すると、長谷田土壇の南北の大路は、朱雀大路としては小さいのです。従って、長谷田土壇を九州王朝や近畿天皇家の王宮とするのは困難であることに気づきました。まだ結論は出ていませんが、朱雀大路の幅という視点は、王宮評価における一つの判断基準として有効ではないかと指摘しました。

 前号に続いて一面には、竹田侑子さん(弘前市、秋田孝季集史研究会々長)の「消えた卑弥呼(2) 卑弥呼は板乃木邑の荒覇吐宮に入り遺陀呼(イダコ)となったか」が掲載されました。和田家文書に見える卑弥呼伝承に着目した論稿です。竹田さんには『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)にも原稿「和田家文書を伝えた人々」を書いていただきました。これを機会に、和田家文書研究が更に活発となることを願っています。

(注)
①正式名は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウス主催。2023年11月11~12日に開催。
②古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013)〝二つの藤原宮〟、545話(2013)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟


第3201話 2024/01/16

『九州倭国通信』No.213の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.213を14日の講演会のおりにいただきました。同号には拙稿「孝徳紀・天智紀・天武紀の倭京」を掲載していただきました。『日本書紀』に見える「倭京」とは、九州王朝の倭京(太宰府)や東都難波京、あるいは通説の「飛鳥京」とするのか、『日本書紀』編者の認識に迫った論稿です。これは王朝交代期の権力構造や、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)との力関係をどのように理解するのかという、古田学派での最新研究テーマに関わる問題提起であり、まだ結論が出たわけではありません。
また、今村義則さんの「天子と九州年号」や鹿島孝夫さんの「隋使は阿蘇山を見なかった」など、九州王朝研究に関する論稿が掲載されていました。その結論への賛否は別にして、こうした研究論文を興味深く拝読しました。「九州古代史の会」の研究者との学問交流が進めばと願っています。