古田史学会報一覧

『古田史学会報』は178号まで、ホームページで公開しております。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta9.html

第3426話 2025/02/10

『古田史学会報』186号の紹介

『古田史学会報』186号を紹介します。同号には拙稿〝「九州王朝律令」復元研究の予察〟と〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟〝〔新年のご挨拶〕超満員御礼!新春古代史講演会〟の三編を掲載して頂きました。

〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟で紹介した、生前、安藤さんよりいただいた未発表稿「真福寺本古事記の文字について」は、遺稿として多元的古代研究会へお譲りしました。同会の会報『多元』か記念刊行物に収録していただけるとのことですので、故人のご遺志にもかない、同会々員のみなさんにも喜んでいただけることと思います。

〝「九州王朝律令」復元研究の予察〟は、現存しない九州王朝律令の復元のために、木簡・金石文・『日本書紀』などに遺っている断片史料を紹介したものです。言わば基礎研究ですので、今後の九州王朝研究に裨益できれば幸いです。
一面に掲載された正木稿「「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(上)」は前号掲載の「『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾」に続く、筑紫君磐井に関する本格的な論文です。この分野の有力説になるのではないでしょうか。注目したいと思います。

古谷さんの論稿〝「牛利」という姓名〟は倭人伝に見える「都市牛利」について、「都市」を官職名とした『古田史学会報』147号(2018年)の論稿「長沙走馬楼呉簡の研究」の続編でもあり、「牛利」の「牛」を姓、「利」を名とするものです。史料根拠も示されており、有力説ではないでしょうか。これもなかなか面白い仮説と思いました。
186号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』186号の内容】
○「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(上) 川西市 正木 裕
○不改常典仮託説批判 古田武彦説と中野渡俊治説の対比 たつの市 日野智貴
○國枝氏の「唐書類の読み方」への返答 神戸市 谷本 茂
○なぜ、『隋書』は「裴清」と書いたのか ―推古紀の遣唐使の解明― 姫路市 野田利郎
○「九州王朝律令」復元研究の予察 京都市 古賀達也
○「牛利」という姓名 枚方市 古谷弘美
○安藤哲朗氏のご逝去を悼む 古田史学の会・代表 古賀達也
○〔新年のご挨拶〕超満員御礼!新春古代史講演会 古田史学の会・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○「会員募集」ご協力のお願い
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く勉強になる紙面作りにご協力下さい。


第3419話 2025/01/31

『東京古田会ニュース』220号の紹介

 『東京古田会ニュース』220号が届きました。拙稿「『難波の宮」発見逸話 ―山根徳太郎氏の苦難―」を掲載していただきました。同稿では、難波宮を発掘した山根徳太郎氏が調査資金不足や有力な学問的批判に苦しんでいたことを紹介しました。

 その学問的批判とは喜田貞吉さんらによるもので、『日本書紀』に見える孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は、地名の一致や地勢から判断すると狭隘な大阪市中央区の法円坂ではなく、北区の長柄・豊﨑の地であるとするものです。当時はこの見解が有力説でしたが、前期難波宮の出土により法円坂説が通説となり、今日に至っています。しかし、それでは何故地名が一致しないのかという問題は未解決のままでした。そこで、拙稿では次のように論じました。

〝喜田氏の見解は『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応という文献史学の論証に基づいており、他方、山根氏の上町台地法円坂説は考古学的出土事実により実証されている。なぜ、このように論証と実証の結果が異なったのか。ここに、近畿天皇家一元史観では解き難い問題の本質と矛盾があるのだが、その理由は明白だ。“列島内最大規模の宮殿であるからには、列島の最高権力者である近畿天皇家の宮殿のはず”という、一元史観の歴史認識(岩盤規制)に従わざるを得ないからだ。

 結論から言えば、山根氏が発見した前期難波宮は孝徳紀に書かれた「難波長柄豊碕宮」ではなく、九州王朝の王宮(難波宮)だった。その証拠の一つとして、法円坂から出土した聖武天皇の宮殿とされた後期難波宮は、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記されており、「難波長柄豊碕宮」とはされていない。この史料事実は、法円坂の地は「難波長柄豊碕」という地名ではなかったことを示唆する。〟

 論文末尾には〝残された「真の問題」、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」が北区長柄にあったことを立証したい。〟と書きましたが、これは大変な仕事になりそうです。

 当号に掲載された國枝浩さん(世田谷区)の二つの論稿には深く考えさせられました。一つは一面を飾った「古田氏の旧説撤回問題(上)」で、古田先生が自説を変更されたいくつかのテーマについて、その問題点を指摘したものです。これらについては古田先生の著作だけではその経緯や論理構造がわかりにくいかもしれませんので、わたしも「洛中洛外日記」などで説明したこともありましたし、古田史学の会・関西例会でも少なからぬ論者により当否が論じられてきました。新たに古田史学に触れられた方のためにも、國枝さんの論稿は有意義なものと思いました。

 もう一つの「『大作塚』AIと会話して」も重要なテーマです。古田説や倭人伝の「大作塚」の理解に対してのAI(Chat GPT)との問答を紹介したものです。近年、実用化が飛躍的に進んだAIの機能が歴史学などの学問や研究にどのような影響を与えるのか、研究者はAIとどのように接するべきなのかなど、近未来の重要課題です。國枝さんの問題提起により、この問題を深く考えるきっかけとなりました。


第3414話 2025/01/23

『九州倭国通信』217号の拙稿紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.217号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「チ。-地球の運動について- ―真理(多元史観)は美しい―」を掲載していただきました。同稿は「美しい」というキーワードで多元史観を論じたもので、その前編です。

 前編ではNHKで放映されたアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)を引用しながら、中世ヨーロッパでの地動説研究者と多元史観で研究する古田学派との運命と使命について比較表現しました。原稿は次の言葉で締めくくりました。

 「あなた方(一元史観の学者)が相手にしているのは僕じゃない。古田武彦でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。それは流行病のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」

 後編では、中国史書の解釈において、一元史観よりも多元史観が「美しい」ことを具体的に比較紹介します。

 なお、「古田史学の会」と「九州古代史の会」との友好関係は、今年も更に深まることでしょう。1月19日の新春古代史講演会には同会の前田事務局長ら三名の方が見えられました。わたしたちも同会月例会での研究発表を今年もさせていただく予定です。

(注)『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて連載(二〇二〇~二〇二二年)。十五世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちを描いたフィクション作品。二〇二二年、単行本累計発行部数は二五〇万部突破。二〇二三年、第十八回日本科学史学会特別賞受賞。


第3409話 2025/01/10

『多元』185号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』185号が届きました。同号には拙稿〝二つの「白雉元年」と難波宮〟を掲載していただきました。同稿は、九州年号「白雉」には『日本書紀』型❶と『二中歴』型❷の二種類があることをエビデンスとして、『日本書紀』白雉元年(650)二月条に見える大規模宮殿での白雉改元儀式が、実は九州年号の白雉元年(652)二月に前期難波宮で開催されたものであることを論述したものです。
❶『日本書紀』型は元年を庚戌(六五〇)として、五年間続く。
❷『二中歴』型は元年を壬子(六五二)として、九年間続く。

 同号で特徴的だったのが、古田武彦記念古代史セミナー(通称:八王子セミナー)の目的「教科書を書き変える」に関する次の論稿が掲載されていたことです。

○「山川詳説日本史の主張」 昭島市 西坂久和
○「一年を顧みて」 事務局長 和田昌美

 今回から、わたしも同セミナーの実行委員として参画させていただくことになりましたので、「教科書を書き変える」という目的実現のための企画案を提出しました。「古田史学の会」の目的とも通ずる「教科書を書き変える」というセミナーの目的実現のために、微力ながら尽くしたいと思います。まずは、現行の歴史教科書の実態調査から始めることになろうかと思います。教科書に詳しい方々(教育関係者など)のご協力をお願いします。


第3396話 2024/12/18

『古田史学会報』185号の紹介

『古田史学会報』185号を紹介します。同号には拙稿〝水野孝夫さんご逝去の報告〟と〝王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言―〟の二編を掲載して頂きました。
後者は、前号掲載の〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言〟の続編で、荷札木簡(献納国分布)と同時代「天皇銘」金石文をエビデンスとして、七世紀第4四半期における近畿天皇家や天武天皇の実勢力について論じました。それは王朝交代前夜(七世紀の末頃)の列島には、直轄支配領域の九州島に君臨した倭国(九州王朝、大義名分上のナンバーワンとしての天子)と、九州島を除く西日本から関東までを支配した近畿天皇家(大和朝廷、ナンバーツーとしての天武天皇)とが併存していたことを論証したものです。
本号には注目すべき論稿が掲載されていますが、中でも正木稿「『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾」は興味深く拝読しました。同稿では「磐井の乱」に対する古田旧説(「継体の乱」とする)と古田新説(「乱」そのものがなかった)を批判され、「筑後国風土記逸文」に見える石人石馬を打ち壊したのは、700年以後の大和朝廷の隼人(九州勢力)討伐軍であるとする説を発表されました。そして、王朝交代直後の九州の情勢を次のように捉えておられます。

〝『隋書』は、七世紀初頭の「日出る処の天子」阿毎多利思北孤の国には「阿蘇山あり」とし、隋の使者は噴火の様子を記している。そこから七〇〇年に反乱をおこした「肥人(肥後の勢力)」は、多利思北孤の俀(倭)国の中心領域、古田氏の言う九州王朝の中心勢力だったことが分かる。「肥人」の反乱が記されているからには、七〇〇年以降の一連の「反乱」は肥後・薩摩にとどまらず、大和朝廷の支配に反抗する『旧唐書』にいう倭国(九州王朝)の中心地域で広く勃発していたことになる。そして、筑紫から 肥後・薩摩を目指す「官軍(大和朝廷軍)」の行程では、必ず筑後を通過することになる。その際、これを妨げようとする勢力の抵抗があったことは想像に難くない。
石人・石馬を破壊し、抵抗する筑後の人々を弾圧したのは大和朝廷の「隼人(九州勢力)討伐軍の兵士」たちだったのではないか。「古老」はそれを「現認」していた。また、その際障がいを負った人々が多数存在していた。〟

わたしもこの見解に賛成です。実は赤尾恭司さん(多元的古代研究会・会員、佐倉市)が『万葉集』巻六(971~974番歌)の歌を根拠に、「筑紫の賊」が天平四年(732)に至っても大和朝廷に抵抗していたとする説を「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)などで発表されており、注目してきました。両者は異なるエビデンスに基づき、同様の見解に至ったわけです。王朝交代後の九州王朝の残影が明らかになりつつあります。

『古田史学会報』への投稿は、❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、❷テーマを絞り込み簡潔に。❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、❹史料根拠の明示、❺古田説や有力先行説と自説との比較、❻論証においては論理の飛躍がないようご留意下さい。❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。読んで面白い紙面作りにご協力下さい。
185号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』185号の内容】
○〔訃報〕水野孝夫さんご逝去の報告 古田史学の会・代表 古賀達也
○「船王後墓誌」銘文の「天皇」は誰か
西村秀己・古賀達也両氏への回答(2) たつの市 日野智貴
○岡下英男氏の「定策禁中」王朝交替論に関わる私見 宝塚市 小島芳夫
○小島芳夫氏の拙論への疑問に応える 神戸市 谷本 茂
○『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾 川西市 正木 裕
○王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言― 京都市 古賀達也
○古田武彦記念古代史セミナー2024参加の記 千葉市 倉沢良典
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○新春古代史講演会のお知らせ


第3388話 2024/12/08

『東京古田会ニュース』219号の紹介

 『東京古田会ニュース』219号が届きました。拙稿「『幻想の津軽中山古墳群』の証言」を掲載していただきました。同稿で紹介した奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』(昭和51年刊)は、三十年前の和田家文書調査時に青森で入手したもので、同書には、津軽地方の石塔山横穴古墳(役小角墳墓)の解説中に、和田家が山中の洞窟から発見した遺物のことが記されています。次の記述です。

 「発見者(昭和26年6月)和田元市氏の口述、それをメモした在地の諸先生方のご教示と。福士貞蔵先生の解釈。出土した仏像と佛具、さらには舎利壺、銅板銘文、木皮漆書をもとに心血を傾けて数年間にわたって解読と解明にあたられた飯詰の開米智鎧師の後世に残るであろう原文の直訳記録に依存し、私見を導入して綴り込むことの大胆無謀を重々寛容願いたい。」70頁

 昭和26年に、山中で炭焼きをしていた和田父子(元市・喜八郎)が、自家の文書に基づいて発見した遺物について記されており、「和田元市氏の口述」とあることから、当時は喜八郎氏(25歳)よりも父親の元市氏の発言が重要であったことがわかります。このことは、和田家文書を喜八郎氏による偽作とする偽作説と、当時の状況を知る人の証言とは食い違うことを示しており、奈利田氏の証言は貴重です。

 同号で最も注目したのが國枝浩さん(世田谷区)の「本居宣長の中国との外交史論」でした。本居宣長『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』に見える日中国交史における宣長の思想性を論じたもの。古代史学界の一元史観批判にも通じる鋭い指摘であり、刮目しました。

 なお、國枝稿では『続日本紀』和銅二年条の蝦夷討伐記事を根拠に、『日本書紀』斉明四年条に見える蝦夷征討記事を史実とは認められないとしますが、『続日本紀』に記された大和朝廷と蝦夷国との交戦記事と、斉明紀に記された九州王朝によると思われる蝦夷支配記事を同列には扱えません。これは重要なテーマですので、改めて私見を述べたいと思います。


第3370話 2024/10/16

『古田史学会報』184号の紹介

 先日、発行された『古田史学会報』184号を紹介します。同号には拙稿〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言〟と〝《新年の読書》清水俊史『ブッダという男』〟を掲載して頂きました。

 〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言〟では、エビデンスベースというのであれば、まずエビデンスについて勉強しなければならないと思い、七世紀の同時代史料である木簡の調査を行い、天武らが飛鳥の王宮で天皇・皇子を名乗り、詔も発していたことを紹介し、七世紀の「天皇」を九州王朝の「天子の別称」とする古田新説の成立は困難としました。

 〝《新年の読書》清水俊史『ブッダという男』〟は、古代インドに生きた仏陀の思想を現代人の人権感覚(男女平等論者)で捉えることの誤りを解いた清水俊史氏の著書を紹介したものです(注①)。

 一面に掲載された都司喜宣(つじよしのぶ)さんの〝7世紀末の王朝交代説を災害記録から検証する〟は自然科学者の都司さんならではの好論です。701年を境に、記録された列島の災害地域が大きく変わることが、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡であることを明らかにされたものです。都司さんは高名な地震学者(元東京大学地震研究所)で、地震の歴史を調査研究するという、歴史地震学という分野でも活躍されています(注②)。

 『古田史学会報』に投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込み、簡潔でわかりやすい原稿にしてください。地域の情報紹介や面白い話題提供などは大歓迎です。わかりやすく、読んで面白い紙面作りにご協力下さい。

 184号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』184号の内容】
○7世紀末の王朝交代説を災害記録から検証する 龍ケ崎市 都司喜宣
○飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言 京都市 古賀達也
○持統が定策禁中を行って九州王朝を滅ぼした 京都市 岡下英男
○谷本氏論への疑問 宝塚市 小島芳夫
○唐書類の読み方―谷本茂氏の幾つかの問題提起について―谷本氏との対話のために 東京都世田谷区 國枝 浩
○《新年の読書》清水俊史『ブッダという男』 京都市 古賀達也
○古田史学の会・関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○「会員募集」ご協力のお願い
○編集後記 西村秀己

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3209~3213話(2024/01/27~31)〝「新年の読書」二冊目、清水俊史『ブッダという男』(1)~(4)〟
②古賀達也「洛中洛外日記」407話(2012/04/22)〝鹿島神は地震の神様〟


第3359話 2024/10/02

『東京古田会ニュース』218号の紹介

 『東京古田会ニュース』218号が届きました。拙稿「和田家文書「金光上人史料」の真実」を掲載していただきました。同稿では、和田家文書のなかでも金光上人史料は、『東日流外三郡誌』よりも早く、昭和24年頃には外部に提出され、書籍としても発刊された貴重な史料群であることを説明しました。

 同号には國枝浩さんの「唐書類の読み方 古田武彦氏の『九州王朝の歴史学』〈新唐書日本国伝の資料批判〉について」、橘高修さん(同会副会長)の「古代史エッセー81 倭国と日本国の関係」が掲載され、日本列島内の王朝交代についての中国側の認識について論じられました。なかでも橘高稿では、『旧唐書』『新唐書』の倭国伝と日本国伝の丁寧な説明がなされており、良い勉強の機会となりました。

 安彦克己さん(同会々長)の「和田家文書備忘録8 金寶壽鍛造の刀」は、和田家文書に記された刀について紹介されたもので、懐かしく思いました。というのも、和田家文書(『北鑑』39巻)に記された名刀「天国(あまくに)」「天坐(あまくら)」なるものを藤本光幸邸で実見し、和田喜八郎氏の依頼で調査したことがあったからです。このときの調査については『古田史学会報』(注)で報告しましたが、全貌については未発表です。機会があれば、わたしの記憶が確かな内に発表できればと思います。

(注)古賀達也「天国在銘刀と和田末吉」『古田史学会報』18号、1997年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga18.html


第3333話 2024/08/18

『古田史学会報』183号の紹介

 先日、発行された『古田史学会報』183号を紹介します。同号には拙稿〝難波宮から出土した「九州王朝」 ―泉武論文の欠失と新視点―〟を掲載して頂きました。同稿は、前期難波宮整地層下の土壙(SK10043)から出土した「贄」木簡(注①)や水利施設(第7B層)から出土した「謹啓」木簡(注②)を根拠に、前期難波宮を天武朝造営とする泉武論文(注③)を批判したものです。その要点は、この木簡の文字こそ、九州王朝の有力者に捧げられた「贄(にえ)」「謹啓(謹んで啓す)」を意味し、前期難波宮が九州王朝の王宮であることの根拠としました。

 本号で、陶山具史さん(防府市)さんが会報デビューしました。倉沢稿は放送大学での「古田史学サークル」立ち上げの呼びかけです。二名以上の学生による届け出で、サークルとして認定され、学内の掲示板に「古田史学の会」のポスター等が掲示できるとのこと。関東でのこうした地道な活動を「古田史学の会」としても応援したいと思います。

 この他に、「古田史学の会・メール配信事業」、10月27日(日)開催の創立30周年記念東京講演会の案内などを掲載しました。同東京講演会の案内チラシを作成しましたので、配布や掲示していただける関東エリアの方があれば、本会までその旨ご一報下さい。

 『古田史学会報』に論文を投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込み簡潔でわかりやすい原稿にしてください。地域の情報紹介や面白い話題提供なども歓迎します。
183号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』183号の内容】
○難波宮から出土した「九州王朝」 ―泉武論文の欠失と新視点― 京都市 古賀達也
○香川県の九州年号史料 「長尾三家由緒」の紹介 高知市 別役政光
○稲員家系図の史料批判と高良玉垂命の年代 たつの市 日野智貴
○2024年度 会費納入のお願い
○神功皇后の喪船と空船による策略の謎 京都府大山崎町 大原重雄
○九州王朝倭国とタケシウチノスクネの生誕地 防府市 陶山具史
○『古代に真実を求めて』二八集 投稿募集要項
○放送大学に古田史学サークルを 千葉市 倉沢良典
○「古田史学の会」メール配信のお知らせ 古田史学の会・代表 古賀達也
○古田史学の会 第三十回会員総会の報告
○古田史学の会 2023年度会計報告 2024年度予算
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○創立三十周年 東京講演会のお知らせ
○「会員募集」ご協力のお願い
○編集後記 西村秀己

(注)
①「・□□□□・□□〔比罷ヵ〕尓ア」
東野治之氏の釈読によれば、「此罷」は枇杷、「尓ア」は贄(にえ)とのこと。
②「謹啓」 *「□然而」 *□[初ヵ]
③泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集十七』二〇一八年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』四六巻、二〇二三年。


第3329話 2024/08/01

『東京古田会ニュース』217号の紹介

 『東京古田会ニュース』217号が届きました。拙稿「秋田孝季と橘左近の痕跡を求めて」を掲載していただきました。同稿では、『東日流外三郡誌』編者の秋田孝季と和田長三郎吉次の実在証明調査の最新情報を紹介しました。中でも和田長三郎吉次については、五所川原市飯詰の和田家菩提寺、長円寺にある墓石の戒名・年次(文政十二年・一八二九年建立。注①)と過去帳に記された喪主の名前「和田長三郎」「和田権七」などから、その実在は確実となりました。

 秋田孝季については今も調査中ですが、『東日流外三群誌』に「秋田土崎住 秋田孝季」と記される例が多く、孝季が秋田土崎(今の秋田市土崎)で『東日流外三群誌』を著述したことがわかっていました。そして太田斉二郎さんからは、秋田市土崎に橘姓が多いことが報告されています(注②)。全国的に見れば、秋田県や秋田市に橘姓はそれほど多くはないのですが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していていることを秋田孝季実在の傍証として紹介しました。
当号に掲載された安彦克己さん(東京古田会・会長)の「『和田家文書』備忘録7 遠野の古称は十戸」を興味深く拝読しました。その主テーマは和田家文書を史料根拠として、岩手県遠野市の名前の由来が「十戸」にあったとするもので、当初、わたしは「十戸(じゅっこ)」と「遠野」とどのような関係があるのか理解できませんでした。しかしそれはわたしの思い違いであり、「十戸(とおのへ)」と訓む論稿だったのでした。そうであれば「十戸(とおのへ)」の「へ」が何らかの事情で消え、「とおの」という訓みで地名が遺り、後世になって「遠野」の字が当てられたとの理解が可能です。

 念のため、「遠野」の由来をWEBで調べたところ、朝日新聞(2010年10月6日、注③)の記事に次の説が示されていました。

〝「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」〟

 この「遠閉伊(とおのへい)」説は『日本後紀』という史料根拠に基づいており有力と思いますが、わたしは地名を漢字2文字で表すという公の慣行により、「へ」という地名に「閉伊」という漢字が当てられたように思います。そうであれば、「遠閉伊(とおのへい)」の古称は「十戸(とおのへ)」であり、岩手県と青森県に分布する「一戸(いちのへ)」~「九戸(くのへ)」と同類地名としての「十戸(とおのへ)」であり、後世になって「遠野」の字が当てられたものと思います。もしこの解釈が妥当であれば、和田家文書の伝承力は侮れないと思いました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」三〇三六話(2023/06/09)〝実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―〟
墓石には次の文字が見える。()内は古賀注。
〔表面〕
「慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)」
〔裏面〕
「文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏」
壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(一八二九)に建立した墓碑であろう。
②太田斉二郎「孝季眩映〈古代橘姓の巻〉」『古田史学会報』二四号、一九九八年。
古賀達也「洛中洛外日記」三九二話(2012/03/05)〝秋田土崎の橘氏〟
③朝日新聞(2010年10月6日)の記事
発刊100年を迎えた「遠野物語」。その中で柳田国男は、「遠野」という地名の由来をアイヌ語に求めた。しかし、そこに異議をとなえる研究者もいる。
「遠野物語」で柳田は、トーは「湖や沼」。ヌップが「丘」。太古、遠野郷は湖だった。その水が流れ出て、今の盆地が現れたという神話と結びつけて「湖のある丘」と解釈した。多くの遠野市民もそう思っている。

「私はそうは思いません。遠野は和語だと思います」

5月に遠野市で行われた全国地名研究者大会(日本地名研究所主催)で、アイヌ語学者の村崎恭子・元横浜国大教授(73)はアイヌ語説を否定した。
アイヌ語の地名かどうかを検証するには、アイヌ語地名が原形に近い形で残っている北海道を手本にする。

アイヌ語で「サ」は「乾く」で、「ピ」は「小石」、「ナイ」は「川」だ。そういう状態の場所は「サピナイ」と呼ばれる。遠野郷にある「佐比内」も、かつてはそういう地形だったと思われる。

猿ケ石(サルガイシ)は「ヨシ原の上・にある・もの」で、附馬牛(ツキモウシ)は「小山・ある・所」。北海道の似た地形の場所には、似た地名が残っている。
しかし、遠野という地名は北海道にない。湖や沼や丘など、似た地形はたくさんあるにもかかわらず。

遠野と呼ばれ出した時期からも疑問を膨らませる。文献によると、遠野と呼ばれるようになったのは、中央集権化が進んだ古代。猿ケ石川などが、そうアイヌ語地名で呼ばれ出したはるか後の時代なのだ。もしアイヌ語だとすれば、なぜ遠野だけが遅れて名付けられたのか。その理由がわからない、と言うわけだ。

こう説明したあとで「遠野というのは、中心地から遠いところ、という意味で倭人(わじん)がつけたのではないかと思います」と自説を述べた。
遠野の語源に関しては「東方の野」からきた説や、たわんだ地形の盆地である「撓野(たわの)」の変化、など諸説ある。日本地名研究所の谷川健一所長(89)は、村崎説を支持した上で、平安時代に編まれた日本の正史の一つ「日本後紀」に「遠閉伊(とおのへい)」が登場することに注目。閉伊の拠点であった宮古地方から遠いところという意味で、「後年、そこから閉伊が抜け落ちた」とみている。(木瀬公二)


第3328話 2024/07/23

『九州倭国通信』215号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.215号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「城崎温泉にて」を掲載していただきました。これは昨年末に家族旅行で訪れた城崎温泉の紀行文で、タイトルは志賀直哉の「城崎にて」に倣ったものです。初めて訪れた城崎温泉ですが、そのお湯がきれいで日本を代表する名湯「海内第一泉」とされていることも頷けました(注①)。
現地伝承では、舒明天皇の時代、傷ついたコウノトリが山中の池で湯浴みしているのを見た村人により、温泉が発見されたとのこと。これが史実を反映した伝承であれば、舒明天皇の時代(六二九~六四一年)とあることから、本来は当時の九州年号「仁王」「僧要」「命長」により、その年代が伝えられ、後世になって『日本書紀』紀年に基づき、「舒明天皇の時代」とする表記に変えられたものと思われます。

 本号の表紙には韓国慶州市の明活山城石垣が掲載されています。「九州古代史の会」では五月に「伽耶・新羅の旅」を行われており、会報紙面にもその報告が収録されています(注②)。福岡は地理的にも歴史的にも韓国との関係が深く、日韓の古代史研究も盛んです。これは同会の強みの一つと思います。同会事務局長の前田和子さんからは、「日本古代史研究のためにも、古賀さんは韓国を訪問するべき」と言われています。仕事で何度も韓国出張しましたが、残念ながら毎回ハードスケジュール続きで、当地の博物館や遺跡巡りの機会はありませんでした。退職後も国内旅行が精一杯で、韓国訪問の機会はないままです。

(注)
①一の湯には「海内第一泉」の石碑がある。江戸時代の医師、香川修庵が「天下一の湯」と推奨したことが一の湯の由来。
②鹿島孝夫「青龍か天馬かそれとも? 伽耶・新羅の旅を終えて」
工藤常泰「慶州の金冠と糸魚川の翡翠」
前田和子「その「一語」とあの「一文」の罪52 (再び白村江の戦い)~伽耶・新羅の旅~」


第3319話 2024/07/06

『多元』182号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』182号が届きました。同号には拙稿〝吉野ヶ里出土石棺被葬者の行方〟を掲載していただきました。同稿では、30年前に古田先生と吉野ヶ里遺跡に行ったときの思い出や、銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根県加茂町)を先生が一人お忍びで訪問されたときのエピソードなどを紹介しました。更に〝日本の発掘調査技術の進歩〟として、最先端機材を使用した福岡県古賀市の船原古墳発掘調査の方法を解説しました。それは次のようなものです。

(a)遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
(b)次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この(a)と(b)で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
(c)そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
(d)遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

 こうした作業により、船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元され、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存されました。日本の発掘調査技術がここまで進んでいる一例として紹介しました。

 同誌には清水淹(しみず ひさし、横浜市)さんの「最近の団体誌を見て」という記事が連載されており、『古田史学会報』や『東京古田会ニュース』などに掲載された論稿の批評がなされています。わたしも友好団体から送られてくる会誌を拝読していますが、わたしとは異なる清水さんの視点や感想が報告されており、とても勉強になります。学問研究は、自説への批判や自分の考えとは異なる意見に触れることにより発展しますので、毎号、楽しみに読んでいます。