古田史学会報一覧

第2846話 2022/09/28

『東京古田会ニュース』No.206の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』206号が届きました。拙稿「和田家文書に使用された和紙」を掲載していただきました。同稿は和田家文書に使用された紙が明治時代の和紙であることや、故・竹内強さんによる美濃和紙の紙問屋調査報告(注①)などを紹介したものです。
 同号には拙稿の他にも皆川恵子さん(松山市)「意次と孝季in『和田家文書』」、玉川宏さん(弘前市、注②)「大神神社と三ツ鳥居」が掲載され、和田家文書特集の観がありました。これも東京古田会ならではの特色と思いました。わたしも、これを機にしばらくは和田家文書関連の投稿を続けたいと考えています。

(注)
①竹内強「寄稿 和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」『和田家資料3 北斗抄 一~十一』藤本光幸編、北方新社、二〇〇六年。
②秋田孝季集史研究会・事務局長。


第2810話 2022/08/17

『古田史学会報』171号の紹介

 『古田史学会報』171号が発行されました。一面には正木裕さんの〝「室見川の銘版」と倭王の陵墓・祭殿〟が掲載されました。古田先生が『ここに古代王朝ありき』(注)で初めて学界にその重要性を提起した「室見川の銘版」ですが、古田先生に次いで本格的な銘文の史料批判を試みたのがこの正木稿です。倭国(九州王朝)の墓誌(棟札)研究の起点にもなり得る優れた研究ではないでしょうか。
拙稿〝初めての鬼ノ城探訪 ―多元的「鬼ノ城」研究序論―〟を掲載していただきました。これは本年五月に初めて訪れた鬼ノ城の調査報告書を九州王朝説の視点から検討したものです。まだ、初歩的な研究ですので、これからも鬼ノ城を注視していきたいと思います。

 服部さんの論稿〝二倍年暦・二倍年齢の一考察〟は、『論語』など周代史料が二倍年暦(二倍年齢)で書かれているとするわたしの研究への疑問点を提示されたものです。この論争は関西例会などで数年前から行われてきました。〝学問は批判を歓迎する〟とわたしは考えていますので、こうした批判論文はありがたいものです。学問的な反論とは別に、二倍年暦研究の経緯や古田先生との「共同作業」などについて、詳しくご存じない会員や読者のために整理記録しておく必要を感じました。関係者やわたしの記憶が確かなうちにその作業を進めたいと思います。

 171号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』171号の内容】
○「室見川の銘版」と倭王の陵墓・祭殿 川西市 正木 裕
○二倍年暦・二倍年齢の一考察 八尾市 服部静尚
○若狭ちょい巡り紀行 年縞博物館と丹後王国 東大阪市 萩野秀公
○初めての鬼ノ城探訪 ―多元的「鬼ノ城」研究序論― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十七
「利歌彌多弗利」の事績 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会 第二十八回会員総会の報告
○古田史学の会・関西例会のご案内

(注)古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』朝日新聞社、昭和五四年(一九七九)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2789話 2022/07/17

『九州倭国通信』No.207の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.207が届きました。同号には拙稿「大化改新と王朝交替 ―改新詔が大化二年の理由―」を掲載していただきました。拙稿は、『日本書紀』孝徳天皇大化二年条(646年)に見える一連の大化改新詔には、九州年号の大化二年(696年)に近畿天皇家(持統)により出されたものと、九州年号の命長七年(646年)に九州王朝から出されたものとが混在していることを論じたものです。そして、九州年号の大化二年に出された改新詔は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替の準備段階の詔勅であり、その翌年(697年、文武元年)に文武が天皇に即位していることを指摘しました。
 今回の207号は、縦書きの論稿は拙稿を含めて3編で4ページ、それ以外の12ページは横書きでした。「九州古代史の会」の決算・予算報告などが横書きで掲載されていることはありますが、古代史の会報も横書き主流の時代に入ってきたのかも知れません。注目すべき傾向です。


第2781話 2022/07/03

『多元』No.170の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.170が届きました。同号には拙稿「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」を掲載していただきました。同稿は、古田先生が「紀尺」と名づけた編年方法を解説したものです。それは、中近世文書に見える古代の「○○天皇××年」という記事について、その実年代を当該天皇が実在した年代で理解するのではなく、「○○天皇××年」を皇暦のまま西暦に換算するという編年方法(『東方年表』と同様)です。
当号には『隋書』俀国伝に見える里程記事が短里か長里かをテーマとする論稿三編(注①)が掲載されており、同問題が活発に論議されているようです。こうした真摯な論争・検証は学問の発展には欠かせません。このテーマはすぐには決着がつきそうにありませんが、それは次のような克服すべき二つの問題があるためと考えています。一つは、短里なのか長里なのかを峻別するための史料批判や論証が簡単ではないこと。もう一つは、当時(隋代・唐代)の1里が何メートルなのかという実証的な問題です。
現在の論争は主に前者の史料解釈の当否を巡って行われていますが、わたしは後者の問題をまず検証すべきと考えています。特に『旧唐書』に見える中国々内の里程記事は、1里を何メートルに仮定しても、全ての、あるいは大半の里程記事を矛盾無く表すことが出来ず、実際の距離と乖離するケースが少なくないからです。わたし自身もこの問題に苦慮しています(注②)。従って、本テーマは結論を急がず、各論者の仮説の発展に注目したいと思います。
同誌末尾の安藤哲朗会長による「FROM 編集室」に次の一文があり、体調を崩されているのではないかと心配しています。
「◆人身受け難し(台宗課誦)◆私もあと短期ののち古田先生の忌に従うであろう◆」
洛中より、御快復を祈念しています。

(注)
①「隋書・日本書紀から見えてきた倭国の東進」(八尾市・服部静尚)、「海賦について」(清水淹)、「会報、友好誌を読む」(横浜市・清水淹)。
②古賀達也「洛中洛外日記」2642~2660話(2021/12/21~2022/01/13)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)~(10)〟


第2762話 2022/06/14

『古田史学会報』170号の紹介

 『古田史学会報』170号が発行されました。一面には拙稿〝『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識〟を掲載していただきました。同稿は周代の二倍年暦の復原方法の考察と『史記』にみえる二倍年暦(二倍年齢)の精査による周代の暦法について調査したものです。一年以上前に脱稿していたのですが、字数が多いため『古田史学会報』への投稿をためらっていまた。しかし、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)や山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)との共同研究の報告書という側面もあり、全面的にリライトして字数を削減し、掲載に至りました。この分野の研究が古田学派内で少ないこともありますので、拙稿へのご批判と新たな研究者の登場を期待しています。

 もう一つの拙稿〝百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷―〟も半年ほど前に投稿したもので、順番待ちのため、ようやく今号での掲載となりました。本稿は、百済祢軍墓誌に記された「日夲」の「夲(とう)」は「本」とは別字であり、「日夲」を国名の「日本」とはできないとする批判に対する反論です。七~八世紀当時の日中両国における使用例を挙げて、「夲」の字は「本」の異体字として通用していたことを実証的に証明しました。

 当号で異彩を放った論稿として、美濃晋平さんの「熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて、古代までさかのぼれるか」があります。美濃さんの初投稿ですが、熊本県と長野県に二大濃密分布圏(集積地)を持つ遺伝性疾患「家族性アミロイドニューロパチー」は、ある時代に両地域間で人の交流があったことを示すものであり、その時期が六世紀まで遡る可能性について論じたものです。筆者は創薬研究で日本を代表するケミストの一人で、いわば専門知識を活かしての論稿です。難病に苦しんでいる患者やご家族のことを思うと胸が痛みます。医学や薬学の発展により解決できる日が一日も早く来ることを望みます。また、歴史学や諸分野の研究が防疫や医療に貢献できることを願っています。

 古代における九州と信州の濃密な交流は様々な分野で発見されており、興味が尽きない研究テーマです。

 170号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』170号の内容】
○『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識 京都市 古賀達也
○会員総会と記念講演会のお知らせ(6月19日、アネックスパル法円坂にて)
○熊本県と長野県に共通する家族性アミロイドニューロパチーについて、古代までさかのぼれるか 東京都練馬区 美濃晋平
○高松塚古墳壁画に描かれた胡床に関して 京都府大山崎町 大原重雄
○百済祢軍墓誌の「日夲」 ―「本」「夲」、字体の変遷― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十六
もう一人の聖徳太子「利歌彌多弗利」 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集


第2752話 2022/06/01

『東京古田会ニュース』No.204の紹介

 一昨日、『東京古田会ニュース』204号が届きました。拙稿「『歎異抄』と『古事記』の悪人」を掲載していただきました。拙稿では河田光夫さんの『親鸞と被差別民衆』(明石書店、1994年)に記された、親鸞の時代に「悪人」と呼ばれていたのは被差別民とする説を紹介しました。あわせて、『古事記』に見える「悪人」は、蝦夷や大和朝廷の敵対勢力であることも説明しました。「洛中洛外日記」でも紹介したところです(注①)。
 同号には注目すべき記事が掲載されていました。それは同会々長の田中巌さんの「会長独言」と泉英毅さん(渋谷区)の「メディアの見識」です。奈良新聞に大きく掲載された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演記事「『邪馬壹国九州説』有力」(注②)を両氏は高く評価されています。同記事掲載の背景には、講師の正木さんをはじめ古代大和史研究会(原幸子代表)や竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)のご尽力があります。同時に、奈良県民が持つ歴史に対する深い知識や興味も反映していると思います。ちなみに、わたしが「市民の古代研究会」事務局長のときに都道府県別の会員数比率を調査したところ、奈良県が最も高い数値を示していました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2584話(2021/09/30)〝親鸞『歎異抄』の「悪人」とは何か〟
 同「洛中洛外日記」2585話(2021/10/01)〝『親鸞と被差別民衆』の人間模様 ―河田光夫氏と古田先生、藤田友治さん―〟
 同「洛中洛外日記」2586話(2021/10/02)〝『古事記』の中の「悪人」〟
②同「洛中洛外日記」2651話(2021/12/29)〝奈良新聞に「邪馬壹国九州説」有力の記事〟


第2722話 2022/04/17

横書き併用になった『九州倭国通信』No.206

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.206が届きました。同号には拙稿「七世紀末の近畿天皇家の実像 ―飛鳥・藤原宮木簡の証言―」を掲載していただきました。拙稿は、近畿天皇家(大和朝廷)による天皇号や律令の採用時期について論じ、近年の古田学派による九州王朝研究 を紹介したものです。
 同紙は前号からリニューアル(横書き併用、活字拡大など)がスタートし、今号にも横書きページが併用されていました。これも「九州古代史の会」代表幹事(会長)に就任された工藤常泰さんの野心的な取り組みの一つです。英文や数値を多用する論文は読み(書き)やすくなります。縦書きが主流の文系学術誌にも縦横併用が増えています。わたしが愛読している大阪歴博紀要も縦横併用で、考古学論文は横書き、文献史学論文は縦書きとなっており、読者には有り難い配慮です。


第2718話 2022/04/12

『古田史学会報』169号の紹介

 『古田史学会報』169号が発行されました。一面は谷本茂さんの〝「聃牟羅国=済州島」説への疑問と「聃牟羅国=フィリピン(ルソン島)」仮説〟です。『隋書』に見える聃牟羅国を済州島とする説に疑義を呈し、フィリピン(ルソン島)とする新説です。谷本さんはわたしの〝兄弟子〟にあたる古田学派の重鎮的研究者です。京都大学の学生時代から、古田先生のご自宅で研究成果を誰よりも早く聞いていたそうです。そうした御縁もあり、『「邪馬台国」はなかった』の発刊30周年記念講演会(2001年10月8日、朝日新聞東京本社別館小ホールにて)では、〝弟子〟らを代表して谷本さんが講演されました。演題は「史料解読方法の画期」でした。わたしも前座として、「古田史学の誕生と未来」という講演をさせていただきました。メインの古田先生の講演は「東方の史料批判 ―中国と日本―」でした。

 拙稿〝失われた飛天 ―クローン釈迦三尊像の証言―〟と〝大化改新詔の都は何処 ―歴史地理学による「畿内の四至」―〟の二編も掲載していただきました。〝失われた飛天〟は、法隆寺釈迦三尊像を三次元解析技術で造ったクローン像の写真を見てひらめいた論稿です。〝大化改新詔の都は何処〟は、古田史学の会・関西例会で発表された大化改新詔に関する主要三説を解説したものです。その中で、改新詔の畿内の四至について歴史地理学で考察した佐々木高弘さんの論文「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知」を紹介しました。

 〝大化改新詔の都は何処〟を『古田史学会報』に投稿した後、佐々木論文で難波京から紀伊国へ向かう古代官道の「最短ルート」とされた〝孝子峠・雄ノ山峠越え〟は最短距離ではないとする指摘が正木裕さんから寄せられました。もっともな指摘でしたので、調査検討の上、改めて報告する機会を得たいと思います。

 169号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』169号の内容】
○「聃牟羅国=済州島」説への疑問と「聃牟羅国=フィリピン(ルソン島)」仮説 神戸市 谷本 茂
○失われた飛天 ―クローン釈迦三尊像の証言― 京都市 古賀達也
○「倭日子」「倭比売」と言う称号 たつの市 日野智貴
○天孫降臨の天児屋命と伽耶 京都府大山崎町 大原重雄
○大化改新詔の都は何処 ―歴史地理学による「畿内の四至」― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十五
多利思北孤の時代⑪  ——多利思北孤の「東方遷居」について― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
〇古田史学論聚第26集『古代に真実を求めて』の発刊につきまして
○古田武彦記念古代史セミナー2022のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2022年度の会費納入のお願い


第2709話 2022/03/30

『東京古田会ニュース』No.203の紹介

 昨日、『東京古田会ニュース』203号が届きました。拙稿「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」を掲載していただきました。古田先生の小郡市の字地名「飛島(とびしま)」飛鳥説をはじめ、正木さんの筑前・筑後広域飛鳥説、服部さんの太宰府「飛鳥浄御原宮」説を紹介し、通説の大和飛鳥説と比較したものです。そして考古学成果と『日本書紀』の飛鳥記事との齟齬が考古学者から指摘されている近年の状況について説明しました。
 同号に掲載された皆川恵子さん(松山市)の論稿「意次と孝季in『和田家文書』その1」には、ベニョフスキー事件の紹介があり勉強になりました。1771年に起こった同事件は、ポーランド人の対ロシア抵抗組織に加わりロシアの捕虜となりカムチャッカ半島に流刑されたモーリツ・ベニョフスキーが船で脱走し、土佐で飲料水を補給し、さらに南下して奄美大島に上陸して、そこからオランダ商館長に書簡(注)を出し、ロシアの北海道(松前)攻撃計画を知らせたというものです。
 ロシアによるウクライナ侵略を目の当たりにしていることもあり、興味深く拝読しました。

(注)ベニョフスキー書簡 1771年7月20日付。ハーグ市の国立中央図書館蔵。


第2682話 2022/02/14

『古田史学会報』168号の紹介

 『古田史学会報』168号が発行されました。一面は正木事務局長の〝「邪馬壹国九州説」を裏付ける最新のトピックス〟です。同稿は昨年12月に開催された和泉史談会(辻野安彦代表)での講演のエッセンスです。同講演内容は奈良新聞(12月28日付)の第4面(カラー)の一頁全てを使って〝「邪馬壹国九州説」有力 考古学・科学分析で確実に〟と紹介されたもので、『古田史学会報』令和四年の冒頭を飾るにふさわしいものです。

 拙稿〝失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五弦琴笛」『隋書』俀国伝―〟と〝古今東西の修学開始年齢 ―『論語』『風姿華傳』『礼記』『国家』―〟の二編も掲載していただきました。野田稿〝『隋書』の「水陸三千里」について〟は関西例会で論争を巻き起こした仮説です。今後の検証や展開が期待されます。吉村稿と大原稿は同じく関西例会で発表された考古学論文で、いずれも興味深いテーマを取り扱ったものです。文献史学の論稿が多い『古田史学会報』にあって、こうした考古学分野の研究は貴重です。

 168号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』168号の内容】
○「壹」から始める古田史学・三十四
「邪馬壹国九州説」を裏付ける最新のトピックス 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五弦琴笛」『隋書』俀国伝― 京都市 古賀達也
○『隋書』の「水陸三千里」について 姫路市 野田利郎
○科野と九州 ―「蕨手文様」への一考察ー 上田市 吉村八洲男
○栄山江流域の前方後円墳について 京都府大山崎町 大原重雄
○古今東西の修学開始年齢 ―『論語』『風姿華傳』『礼記』『国家』― 京都市 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○編集後記 西村秀己


第2672話 2022/02/01

『東京古田会ニュース』No.202の紹介

 昨日、『東京古田会ニュース』202号が届きました。拙稿「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」を掲載していただきました。
 昨年11月の八王子セミナー(注①)で、古代山城の造営を五世紀の倭の五王時代とする意見や古代山城は詳しい調査がなされておらず年代を決定できるような出土品はないとする見解が出されていましたので、同論稿では最新の山城研究の成果を紹介し、多くの出土物に基づき七世紀後半から八世紀の築城であるとする見解が考古学者から有力視されていることを説明しました。同時に鬼ノ城や鞠智城などは八世紀になると土器が激減し、廃絶されたとする説があることから、この現象を701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交替の痕跡とする説を発表しました。
 更に、鬼ノ城の礎石建物の造営に前期難波宮と同じ基準尺(29.2cm)が採用されており、このことから従来の土器編年では八世紀とされた同遺構が七世紀後半に遡る可能性があるとする調査報告書(注②)の見解を紹介しました。この事実は、前期難波宮と鬼ノ城が共に九州王朝系勢力による造営であること、七世紀の土器編年に四半世紀ほどのぶれがあることを示唆しているとしました。
 古田史学の会・関西例会などで報告されてきた服部静尚さんの「小田富士雄氏の瓦編年に疑問を呈する」も掲載されており、たとえば北部九州出土の百済系単弁瓦を七世紀後半以降とする従来の編年は誤っており、七世紀前半まで遡るとされました。古田学派内に於いて、エビデンスを提示した考古学論文が発表される傾向は、文献史料の解釈論にとどまらない多元史観・九州王朝説の進展をうかがわせるものではないでしょうか。

(注)
古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 実施報告。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13~14日。
②『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。


第2661話 2022/01/14

活字が大きくなった『九州倭国通信』No.205

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.205が届きました。同号には拙稿「文字文化が花開く弥生の筑紫」を掲載していただきました。拙稿は、近年発見が続く弥生時代の硯についての柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(『纒向学研究』第八号、2020年)と久住猛雄さんの「松江市田和山遺跡出土「文字」板石硯の発見と提起する諸問題」『古代文化』(Vol.72-1 2020年6月)を紹介したものです。
 同紙は、今号から活字が大きくなりました。ご高齢の読者にはありがたい改善です。これは「九州古代史の会」代表幹事(会長)に就任された工藤常泰さんの新たな取り組み成果の一つです。そのため、投稿規定の字数制限が厳しくなりましたが、わたしも協力させていただくことにし、拙稿の字数を従来よりも半減させました。資料の紹介や論証は要点のみに絞り込みましたが、読みやすい文章になったのではないかと思います。