古田史学会報一覧

第2279話 2020/10/31

『多元』No.160の紹介

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.160が届きました。拙稿〝天武紀「複都詔」の考古学的批判〟を掲載していただきました。
 当号には、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「天武天皇は筑紫都督倭王だった 後篇」や「古田史学の会」関西例会常連の論客、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の「倭人伝には『方向のない行程』が二つある」、上田市の吉村八洲男さん(古田史学の会・会員)の「『景行紀』を読む」など力作が並んでいます。関東や関西など各地の研究者による学問的交流の場としても、『多元』の紙面が役立っているようです。
 中でもわたしが注目した論稿が西坂久和さん(昭島市)の「ユーカラにいた二倍年暦」です。アイヌが二倍年暦を使用していたのではないかとする研究は従来からありましたが、それらを紹介しながら、更に考察を深められています。わたしも「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」で「アイヌの二倍年暦」(『新・古代学』第8集 新泉社、2005年)を発表したことがあります。具体的には、菅江真澄『えぞのてぶり』と新井白石『蝦夷志』に見えるアイヌの二倍年暦の痕跡について紹介しました(「古田史学の会」HPに掲載)。
 今月開催される「古田武彦古代史セミナー2020」(八王子セミナー)でも、アイヌの二倍年暦について紹介する予定です。各地の研究者により、二倍年暦の研究が進められることを願っています。


第2277話 2020/10/29

辺境防備兵「戌人」木簡の紹介

 『古田史学会報』160号に掲載された山田春廣さんの論稿〝「防」無き所に「防人」無し〟によれば、「防人」は九州王朝(倭国)の畿内防衛施設「防」に配された守備兵とされ、他方、辺境防備の兵(さきもり)は「辺戌」と呼ぶのが適切とされました。そこで思い出したのですが、以前に読んだ木簡学会編『木簡から古代が見える』(岩波新書、2010年)に〝防人木簡〟の出土が次のように紹介されていました。

〝これまで防人に関する資料は、これらの「万葉集」の防人歌をはじめ、『続日本紀』や法令などに限られ、列島各地の発掘調査においても、なぜか防人に関する資料は全く発見されず、ほとんどその実態はわかっていなかった。
ところが、二〇〇四(平成一六)年、佐賀県の唐津湾に面した名勝「虹の松原」の背後の中原(なかばる)遺跡から“防人”木簡が全国ではじめて発見された。〟『木簡から古代が見える』88頁

 同書によれば、中原遺跡は肥前国松浦郡内にあり、魏志倭人伝にみえる末盧国の故地にあたります。古代から朝鮮半島に渡るための重要拠点とされています。出土した木簡は防人に関する名簿とのことですが、「防人」ではなく「戌人(じゅじん)」と書かれています。「延暦八年」(789年)とあることから8世紀末頃のものとされ、甲斐国から派遣された「東国防人」のことが記された名簿と見られています。

 この「戌人」木簡は、先の山田さんの考察が妥当であることを示しているようです。参考までに奈良文化財研究所「木簡データベース」から同木簡のデータを転載します。

【本文】・小長□部□□〔束ヵ〕○/〈〉□□∥○甲斐国□〔津ヵ〕戌□〔人ヵ〕○/不知状之∥\○□□家□□〔注ヵ〕○【「首小黒七把」】・○□□〈〉桑□〔永ヵ〕\【「□〔延ヵ〕暦八年○§物部諸万七把○§日下部公小□〔浄ヵ〕〈〉\○§□田龍□□〔麻呂ヵ〕七把§□部大前」】
【寸法(mm)】縦(269)・横(32)・厚さ4
【型式番号】081
【出典】木研28-212頁-(2)(木研24-153頁-(7))
【文字説明】裏面「首小黒七把」は表面の人名と同時に記されたかは不詳。
【形状】二度の使用痕残す。上端二次利用後さらに削って整形。左右二次利用後の削りヵ。
【遺跡名】中原遺跡
【所在地】佐賀県唐津市原字西丸田
【調査主体】佐賀県教育委員会・唐津市教育委員会
【遺構番号】SD502
【内容分類】文書
【国郡郷里】甲斐国
【人名】物部諸万・日下部公小(浄)・□田龍(麻呂)・(雀)部大前・首小黒・□□家□(注)・小長□部


第2268話 2020/10/22

『九州倭国通信』No.200のご紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.200が届きましたので紹介します。まずは、記念すべき200号の発刊をお祝いしたいと思います。九州王朝の故地で活動されている同会は「市民の古代研究会・九州」の流れをくんだ歴史ある会です。わたしたち「古田史学の会」とは、諸事情により疎遠となっていましたが、関係者のご尽力を賜り、2016年から友好団体として交流を再開しました。互いに切磋琢磨して学問と交流を深めたいと願っています。
 同号には拙稿「九州年号『大化』金石文の真偽論 ―『大化五子年』土器の紹介―」を掲載していただきました。前号掲載の「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論 ―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」の続稿です。「大化五子年」土器は茨城県岩井市矢作の冨山家が所蔵しているもので、高さ約三〇センチの土師器で、その中央から下部にかけて
 「大化五子年
   二月十日」
の線刻文字が記されています。これは九州年号の「大化五子年」(699年)銘を持つ同時代金石文で、九州年号と九州王朝の実在を示す証拠の土器です。
 なお、九州には「大化元年」銘を持つ木製神獣が現存しています。大分県豊後大野市緒方町大化の大行事八幡社にあるもので、『太宰管内志』には次のように紹介されています。

 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」(『太宰管内志』豊後之四・大野郡)

 ちなみに、当地地名の「大化」は、この神獣に由来するのではないでしょうか。この「大化元年」銘神獣を炭素同位体年代測定法で分析すれば、七世紀末の九州年号「大化」の同時代史料であることが判明するかもしれませんので、地元の皆様への調査協力も行いました。


第2259話 2020/10/12

『古田史学会報』160号の紹介

 本日、『古田史学会報』160号が届きましたので紹介します。わたしは近江関連の論稿二編、「西明寺から飛鳥時代の絵画『発見』―滋賀県湖東に九州王朝の痕跡―」と「近江の九州王朝 ―湖東の『聖徳太子』伝承―」を発表しました。近年、滋賀県湖東地域からは飛鳥時代に遡る瓦の出土などが続いており、九州王朝との関係がうかがわれ、目が離せません。

 会報冒頭を飾った服部さんの「改新詔は九州王朝によって宣勅された」は関西例会で発表された研究で、7世紀末の九州王朝から大和朝廷への王朝交替に関わるものであり、注目されています。例会では賛否両論が出されており、これからの討論での丁寧な掘り下げと展開が期待されます。
山田さんは久しぶりの会報登場です。ともに「さきもり」(辺境防備の兵)と訓まれてきた「防」と「防人」の従来説の理解に対して疑問を呈され、「防」は九州王朝(倭国)の首都圏(畿内)を防衛する版築土塁などの防衛施設であり、「防人(さきもり)」はその「防」に配された防備兵のこととされました。『日本書紀』に見える「防」と「防人」の悉皆調査に基づく仮説であり、方法論にも結論にも説得力を感じました。

 谷本稿も関西例会で発表された仮説で、意表をつくものでした。従来、「不記」と考えられてきた『二中歴』「年代歴」の虫食い部分の字を「不絶」とする新説です。従来説の「不記」が妥当とするわたしの見解とは異なりますが、立論のための方法論が従来にない巧みなもので、学問的刺激を受けました。

 160号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』160号の内容】
○改新詔は九州王朝によって宣勅された 八尾市 服部静尚
○「防」無き所に「防人」無し ―「防人」は「さきもり(辺境防備の兵)にあらず」― 鴨川市 山田春廣
○ 西明寺から飛鳥時代の絵画「発見」―滋賀県湖東に九州王朝の痕跡― 京都市 古賀達也
○欽明紀の真実 茨木市 満田正賢
○近江の九州王朝 ―湖東の「聖徳太子」伝承― 京都市 古賀達也
○『二中歴』・年代歴の「不記」への新視点 神戸市 谷本 茂
○「壹」から始める古田史学・二十六
多利思北孤の時代Ⅲ ―倭国の危機と仏教を利用した統治― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○各種講演会のお知らせ
○2020年度会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己


第2246話 2020/09/29

『東京古田会ニュース』194号の紹介

『東京古田会ニュース』194号が届きました。同号には拙稿「大化の改新詔と王朝交替」を掲載していただきました。同稿では、『続日本紀』の文武天皇「即位の宣命」や『日本書紀』の大化二年改新詔などの分析に基づいて、7世紀末の九州王朝から大和朝廷への王朝交替について考察しました。まだ初歩的な研究段階で不十分で未完成の論稿ですから、これからも修正や論究を深めたいと思います。
 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「継体天皇と女系天皇」も掲載されていました。現在の女系天皇反対論や容認論に継体天皇の皇位継承例が取り上げられることもあり、現代史からも興味深い研究です。なお、同稿は「古田史学の会」関西例会で口頭発表され論争となったテーマで、論点整理を含めた検証が待たれます。
 中村通敏さん(福岡市)の論稿「『史記』の『穆王即位50歳説』について」は、わたしや古田先生の古代中国や『論語』における二倍年暦説を批判したもので、なかなか興味深い内容でした。たとえば、そこで紹介された中国の国家的研究プロジェクトによる「穆王の即位年齢20歳」説は、『史記』の「50歳即位」記事との比較(2.5倍)から、周王朝の天子の年齢が二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」で『史記』に記述されていたことの証明にもなりそうです。この点、稿をあらためて詳述します。


第2225話 2020/08/04

『多元』No.159の紹介

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.159が届きました。
 同号の冒頭に掲載された吉村八洲男さん(上田市)の「『坂城神社・由緒書』とその歴史」には、『発見された倭京』収録の山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の論文「『東山道十五国』の比定」を紹介されながら、『日本書紀』景行紀に見える「東山道十五国都督」記事が年代的に問題があるとして、疑問視されています。九州王朝が都督を任命するのは中国の冊封から抜けた六世初頭からであり、四世紀頃とされる景行の時代とは合わないという指摘はもっともです。
 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「天武天皇は筑紫都督倭王だった 前篇」は、まず刺激的なタイトルに驚きました。この前篇では、『日本書紀』天智紀に見える「筑紫都督府」を唐が設置したものとする仮説と壬申の乱についての分析がなされています。後篇が楽しみです。


第2202話 2020/08/11

『古田史学会報』159号の紹介

 『古田史学会報』159号が発行されましたので紹介します。わたしは、「造籍年のずれと王朝交替 ―戸令『六年一造』の不成立―」を発表しました。『養老律令』戸令で戸籍は六年ごとに造ることと定められていますが、初めての全国的戸籍とされている「庚午年籍」(670年)から現存最古の戸籍「大宝二年籍」(702年)の間は32年であり、6年で割り切れません。このことから、両戸籍は異なる権力者により造籍されたと考えられ、それは九州王朝から大和朝廷への王朝交替の痕跡であると論じたものです。

 正木さんは、九州年号「大化」(元年は695年)と『日本書紀』「大化」(元年は645年)が50年ずれていることから、九州王朝史料から『日本書紀』大化年間頃へ50年ずらして転用された記事があり、それには藤原宮造営も含まれるとする論稿「移された『藤原宮』の造営記事」を発表されました。『日本書紀』の編集方法(九州王朝記事の転用方法)がまた一つ明らかになったようです。

 阿部さんの論稿「『藤原宮』遺跡出土の『富本銭』について ―『九州倭国王権』の貨幣として―」は、従来の研究では富本銭の中でも新しいタイプに分類されていた藤原宮出土品が、その重量や銭文の字体などから判断して古いタイプであり、九州王朝により造られたとするものです。これからの多元的古代貨幣研究にとって、基本論文の一つになるのではないでしょうか。

 服部さんの「磐井の乱は南征だった」は関西例会で発表された研究で、『日本書紀』に引用された『芸文類聚』の内容分析から、『日本書紀』の「磐井の乱」記事は、九州王朝内での「南征」記事の転用とされました。『芸文類聚』の内容に立ち入って、多元的に『日本書紀』記事を検証するという新しい研究方法の提示という意味に於いても注目される論稿です。

【古田史学会報』159号の内容】
○移された「藤原宮」の造営記事 川西市 正木 裕
○造籍年のずれと王朝交替 ―戸令「六年一造」の不成立― 京都市 古賀達也
○「藤原宮」遺跡出土の「富本銭」について ―「九州倭国王権」の貨幣として― 札幌市 阿部周一
○「俀国=倭国」は成立する ―日野智貴氏に答える― 京都市 岡下英男
○磐井の乱は南征だった 八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学・二十五
多利思北孤の時代Ⅱ ―仏教伝来と「菩薩天子」多利思北孤の誕生― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○各種講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第2190話 2020/07/27

『東京古田会ニュース』193号の紹介

『東京古田会ニュース』193号が届きました。同号には拙稿「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」を掲載していただきました。おりからのコロナ禍もあり、古代における感染症対策としての九州王朝と大和朝廷の事績や伝承を紹介したものです。
 たとえば、聖武天皇の時代に九州方面から流行した天然痘の脅威に曝され、天平八年(七三六)二月二二日に天皇家(光明皇后ら)が法隆寺で大規模な法会を開催し、釈迦三尊像を含む諸仏像に多くの奉納品を施入しています。この法会が「二月二二日」であることから、近畿天皇家は九州地方から発生した天然痘の流行を前王朝の祟(たた)りと考え、その前王朝の寺院(法隆寺)で大規模な法会を多利思北孤の命日「二月二二日」に開催したのです。
 九州王朝でも感染症の流行により九州年号を改元しています。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究によれば、金光元年(五七〇)に熱病蔓延という国難にあたり、邪気を祓うことを願って九州王朝が「四寅剣」(福岡市元岡古墳出土)を作刀しています。また、『王代記』金光元年条には「天下熱病起ル」との記事が見え、熱病の蔓延により九州年号が「金光」に改元されたことがわかります。
 同号に掲載された安彦克彦さんの「『和田家文書』から『日蓮聖人の母』を探る」も優れた論稿でした。安彦さんの和田家文書研究の進展にはいつも驚かされます。


第2189話 2020/07/23

『九州倭国通信』No.199のご紹介

 先日、「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.199を頂きましたので紹介します。同号には拙稿「九州年号『朱鳥』金石文の真偽論 ―三十年ぶりの鬼室神社訪問―」を掲載していただきました。
 「朱鳥三年」銘を持つ同時代九州年号金石文「鬼室集斯墓碑」を紹介した論稿で、銘文が発見された江戸時代から偽造説が発表され、後代製造のものとする説が主流を占めてきました。拙稿では、古田先生との共同調査の想い出などにも触れ、同墓碑が同時代九州年号金石文であることを説明しました。
 同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「大宮姫伝承の研究」も掲載されており、鹿児島県に伝わる「大宮姫伝承」について分析されたものです。わたしが古田史学に入門した当時の論文「最後の九州王朝―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代』第10集、1988年)も紹介していただきました。
 なお、大宮姫を九州王朝の皇女で、天智の皇后「倭姫王」のこととする優れた仮説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から発表されています。


第2181話 2020/07/04

『多元』No.158のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.158が届きました。同号には拙稿「多元的『蘇我氏』研究の予察 ―九州王朝の葛城臣と蘇我臣― 《補論》湯岡碑文の『我』と『聊』の論理」「《追記》『多元』一五七号の読後感」を掲載していただきました。
 拙稿では、九州王朝の有力臣下に「蘇我氏」と「葛城臣」が存在した史料痕跡を紹介し、『日本書紀』に両者の事績が多利思北孤の事績と共に転用されている可能性を指摘しました。そして、これからの古田学派における多元的「蘇我氏」研究の一つのアプローチを提起しました。


2169話 2020/06/12

『古田史学会報』158号の紹介

『古田史学会報』158号が発行されましたので紹介します。今号には『隋書』の研究論文が集まりました。いずれも関西例会で論争となったテーマで力作です。中でも谷本稿は説得力を感じました。これからの論争や研究の深化が期待されます。
また、正木さんによる九州王朝史の連載も多利思北孤の時代に入りました。いずれ本格的な九州王朝通史として発表していただきたいと願っています。
わたしは、「都城造営尺の論理と編年」を発表しました。本年一月十九日に開催した「新春古代史講演会2020」(古田史学の会・共催)での高橋 工さん(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)の講演「難波宮・難波京の最新発掘成果」で得た新知見を取り入れたものです。これからは文献史学も考古学の安定した最新成果を意識した立論が大切と思います。少なくとも、考古学的知見との整合性が無い仮説は説得力が低下することでしょう。
158号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【古田史学会報』158号の内容】
○会員総会中止の代替措置の報告 古田史学の会・代表 古賀達也
○『隋書』国伝の「王の都(邪堆)」の位置について 神戸市 谷本 茂
○イ妥王の都への行程記事を読む ―『隋書』国伝の新解釈― 姫路市 野田利郎
○『隋書』音楽志における倭国の表記 京都市 岡下英男
○都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・二十四
多利思北孤の時代Ⅰ ―「蘇我・物部戦争」以前― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第2167話 2020/06/05

『東京古田会ニュース』192号の紹介

先日、『東京古田会ニュース』192号が届きました。本号には拙稿「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」を掲載していただきました。観世音寺の創建を七世紀後半の白鳳時代(正確には白鳳10年、670年)とする各種史料を紹介し、その結果、太宰府条坊成立が観世音寺創建に先行するという井上信正説(太宰府市教育委員会)により、九州王朝(倭国)の首都太宰府条坊都市が大和朝廷(日本国)の藤原京条坊都市よりも早く造営されたことになると指摘した論稿です。
 コロナ禍により、「東京古田会」も今年の会員総会開催を断念されたため、同会決算書や事業報告などが同封されていました。コロナ禍の中で、どのようにして研究会活動を継続するのか、わたしたち「古田史学の会」にとっても試練のときを迎えていますが、それは同時に新時代の歴史研究のあり方を他に先駆けて提案・構築できるチャンスでもあります。皆さんからの画期的な提言やアイデアを求めます。