木簡一覧

第431話 2012/06/29

太宰府「戸籍」木簡の「評」

 今回の「戸籍」木簡から、「やはりそうか」という感想を持ったのが、「嶋評」の表記でした。白村江敗戦後の7世紀後半から造られたとされる、「庚午年籍」(670年)を筆頭とする古代戸籍は、700年までは九州王朝の評制下で造籍されたのですから、当然のこととして行政単位は「評」で記されていたと論理的には考えざるを得なかったのですが、今回の「戸籍」木簡の出現により、やはり「評」表記であったことが確実になりまし た。

 何をいまさらと言われそうですが、『日本書紀』や『古事記』では「評」は完全に消し去られ、「郡」に置き換えられていることから、近畿天皇家は九州王朝の痕跡を消すべく、徹底的に「評」文書を地上から消滅させようとしたと考えられていました。ところが、その一方で「大宝律令」や「養老律令」では、評制文書である「庚午年籍」の半永久的保管を近畿天皇家は命じているのです。これは何ともちぐはぐな対応ですが、今回の評制「戸籍」木簡の出土により、近畿天皇家は戸籍に関しては評制文書であるにもかかわらず、隠滅することなく保管していたと考えざるを得ないことが明らかとなったのでした。
たとえば9世紀段階でも近畿天皇家は全国の国司に「庚午年籍」の書写を命じ、中務省への提出を命じています(洛中洛外日記120話「九州王朝の造籍事業」参 照)。したがって、全国の国司たちは『日本書紀』の「郡」の記述が嘘であり、真実は「評」であったことを9世紀段階でも知っていたことになります。こうした歴史事実があったことも手伝って、若干ではありますが後代の諸史料に「評」表記が散見される一因となったのではないでしょうか。(つづく)


第430話 2012/06/24

太宰府「戸籍」木簡の「兵士」

 今回の出土で注目された「戸籍」木簡ですが、わたしはそこに記された「兵士」という文字に強い関心を抱きました。この二文字は九州王朝研究にとって重要な問題を持っているからです。

 九州王朝末期における列島内のパワーバランスを左右する要素として、白村江戦後に筑紫に進駐した数千人にも及ぶ唐の軍隊はいつ頃まで倭国に滞在したのか という問題があるのですが、『日本書紀』では天武元年五月条(672年)に唐軍の代表者である郭務宗(りっしんべん+宗)等の帰国を記してはいますが、そ の時全ての唐軍が帰国したかどうかは不明でした。古田学派内では唐軍はその後も長期間筑紫に駐留したと理解されてきたようですが、特に明確な史料根拠に基づいていたわけではありませんでした。

 このような研究状況の中で、今回の「戸籍」木簡にある「兵士」の二文字は、685~700年において、「徴兵制度」を維持、あるいは再開していたことを示しているからです。ということは、この時期に唐軍が筑紫に駐留していたとするならば、九州王朝倭国の武装解除をせずに、徴兵を容認していたことになります。これでは何のために唐軍は筑紫に駐留していたのか、その意味がわからなくなります。逆にこの時期、唐軍は既に帰国しており、筑紫にいなかったとすれば この矛盾は解消されるのです。

どちらが歴史の真実かはこれからも研究と考察を続けたいと思いますが、「戸籍」木簡の「兵士」の二文字は、「既に唐軍は帰国していた」とする仮説成立の可能性を示しているのです。(つづく)


第429話 2012/06/23

太宰府「戸籍」木簡の「竺志」

太宰府市で出土した最古の「戸籍」木簡について少しずつ検討結果や「発見」について報告したいと思います。その最初として、「戸籍」木簡と一緒に出土した「竺志前國嶋評」と記された木簡について述べることにします。
この木簡には「竺志前國嶋評」の下半分に2行で次のような文字が記されています。
「私祀板十枚目録板三枚父母」
「方板五枚并廿四枚」
この文から別の24枚の木簡の「タグ」の役割をしていたようです。また、「板」という表現から、古代において木簡のことを「板」と呼んでいたたことも判 明しました。しかし、わたしが最も注目したのは「竺志前國」の部分でした。すなわち、7世紀後半あるいは7世紀末の九州王朝において、「ちくし」の漢字表 記として「竺志」が正字として使用されていたことが明らかとなったのです。
通常、「筑紫」という漢字使いが現在でも一般的ですが、古代の九州王朝では「行政文書」としての木簡に「竺志」が採用されていたことは重要です。『日本 書紀』などでは「筑紫君薩野馬」のように、九州王朝の天子と考えられている人物の名称に「筑紫」の字を使っています。他方、『続日本紀』の文武四年六月条 (700年)には「竺志惣領」という文字表記がありますが、この文字表記が7世紀末の正当なものであったことが、この木簡により証明されたわけです。
なお、同じく『続日本紀』の文武四年十月条には「筑紫総領」という表記もあり、どちらが本来の文字使いなのかが釈然としなかったのですが、今回の木簡出 土により判明したのです。ちなみに六月条の「竺志惣領」は人名が不明ですが、十月条の「筑紫総領」は「石上朝臣麻呂」という人名が記されていることから、 前者は九州王朝の人物(だから名前がカットされた)、後者は近畿天皇家が任命した人物と考えてよいと思います。まさに、王朝交代時期の「ちくし」の代表者 交代を示した記事の文字使いの変化だったのです。
さらに「竺志前國」とありますから、この時期には既に「筑前」と「筑後」に分国されていたことも明確になりました。わたしは九州島を9国に分国したのは 九州王朝の天子・多利思北弧であり、その時期を7世紀初頭とする論文を発表しています。『九州王朝の論理』(明石書店)に採録された「九州を論ず」「続・ 九州を論ず」です。お持ちの方は是非御再読ください。(つづく)


第428話 2012/06/19

「戸籍」木簡、現地説明会の報告

台風4号の接近でJR北陸本線特急列車が運休となり京都に帰れません。急遽、福井市で一泊することにしました。そんなわけで、今日は福井駅前のホテルで書いています。明日は朝から大阪で仕事がありますので、列車が動くのか、間に合うのか心配です。
17日には大阪市中之島の府立大学サテライト校舎をお借りして、古田史学の会・会員総会と記念講演会を開催しました。午前中は関西例会が行われ、発表テーマは下記の通りでした。
関西例会では、その前日16日の太宰府市出土「戸籍」木簡の現地説明会に、古田先生とともに参加された大下さんより報告がなされました。本当にタイムリーな最新の報告で、大変勉強になりました。
大下さんの報告によれば、出土した木簡は13点で、その中の一枚が注目されている「戸籍」木簡です。出土場所は大宰府政庁の北西1.2kmの地点で、国 分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層で、その堆積層の上の部分から出土した木簡には「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されており、評 制の時期(650年頃~700年)から少なくとも天平十一年までの木簡が出土したことになりそうです。なお、この「天平十一年」木簡のみが広葉樹で、他の 12枚は針葉樹だそうです。
この他にも貴重な興味深い報告がなされました。今後、考察を含めて紹介することにします。
記念講演会では、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)の安彦さんにおこしいただき、和田家文書研究の最新成果を発表していただきました。関西例会ではなかなか聞く機会がない貴重な研究でした。
わたしからは、当初予定していたテーマに換えて、太宰府出土「戸籍」木簡について、大宝二年戸籍との比較考察を報告しました。

〔6月度関西例会の内容〕
1). 拓本文字データベース(木津川市・竹村順弘)
2). 大祚栄と粛慎(木津川市・竹村順弘)
3). 太宰府の木簡(豊中市・大下隆司)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・「三国志」版本研究の調査・藤田友治著『ゼロからの古代史事典』紹介・古代寺院と瓦の研究・その他

〔会員総会記念講演会〕
○安彦克己さん
『和田家文書』の安日彦、長髄彦
-秋田孝季は何故叙述を間違えたか-
○古賀達也
文字史料から見える九州王朝
-太宰府出土「戸籍」木簡の考察-


第427話 2012/06/16

「戸籍」木簡の史料性格

 太宰府市から出土した最古の「戸籍」木簡について、毎日考えています。中でもその史料性格についてと、その内容が指し示す歴史事実について集中し て調査検討を続けています。そこで、内容の史料批判は後日のこととして、出土木簡の基礎的な史料性格について整理確認しておきたいと思います。
まずその内容が「戸籍」関連史料であることは間違いないと思われます。今後、専門家による研究がなされることでしょう。

 次に、地域的には太宰府市での学術発掘による出土ですから由来は確かなものですし、「嶋評」という地名が記載され、一緒に出土した別の木簡にも「竺志前國嶋評」とありますから、糸島半島の旧志摩町に関わる木簡であることが明らかです。

 次に時代ですが、「嶋評」とありますから、評制が施行された650年前後から、郡制に移行する701年よりも前の時期となります。さらには「進大弐」と いう『日本書紀』天武14年に制定された冠位が記載されていることから、685~700年の時間帯まで絞り込めそうです。内容を精査検討すれば、さらに絞 り込めるかもしれません。

 このように地域と時代か特定、あるいは絞り込める文字史料ですから、研究史料としては大変有り難い貴重なものです。とりわけ、九州王朝研究にとっては王朝末期の、太宰府近傍という中枢領域での同時代史料として第一級史料です。この木簡を精査研究することにより、七世紀末の九州王朝の実体に迫ることができるのです。(つづく)


第426話 2012/06/15

最古の「戸籍」木簡、太宰府から出土

 もう皆さんはご存じのことと思いますが、ビッグニュースが届きました。13日の朝、出張先の名古屋のホテルで朝刊(中日新聞)に目を通していた ら、太宰府市から最古の「戸籍」木簡が出土したという記事がありました。本当に驚きました。駅のコンビニで全国紙3紙(読売・毎日・朝日)を購入し、急ぎ 目を通したのですが、その記事がいずれも1面に掲載されており、読売に至ってはトップ記事でした。このことからも、今回の木簡出土がいかに衝撃的な事件かがわかります。

 明日16日には現地説明会が開催されますが、古田先生も参加されるとのことです(古田史学の会・総務の大下隆司さんがアテンドされます)。古田史学にとっても新たな進展の予感がしています。

 新聞記事を読んでみると、専門家の様々なコメントやもっともらしい解説が掲載されていましたが、「何故、畿内ではなく九州太宰府から出土したのか」とい う本質的な疑問への説明は皆無でした。おそらく、古田先生の九州王朝説を知っている一元史観の学者にとっては、素晴らしい木簡が出土したことへの喜びと、 「よりによって太宰府から出土した(九州王朝説に有利)」ことへの「不安感(九州年号木簡などもう出ないで欲しい)」が交錯しているのではないでしょう か。

 今回出土した木簡に対する、わたしの見解発表は詳細な解説や報告を待ってからにしたいと思いますが、古代戸籍(主に大宝二年戸籍。正倉院文書)について は従来から西海道(九州)戸籍の「高度な統一性(用紙・体裁・記載様式)」が指摘されていました。わたしはこの西海道戸籍の「高度な統一性」こそ、九州王 朝が存在し、大和朝廷に先立って戸籍を造籍していたことの反映と理解していましたが、今回の「戸籍」木簡が他でもない九州王朝の都である太宰府近傍から出土したことにより、その「高度な統一性」が九州王朝に縁源することが証明されたのです。その意味でも、多元史観・九州王朝説にとっても画期的な出土史料な のです。

 この他にも、今回出土した木簡には様々な興味深い発見があるのですが、もう少し詳細な情報を得てから、紹介したいと思います。


第420話 2012/06/02

「はるくさ」木簡の考察

 難波宮編年の勉強を続けていて気がついたことがあります。それは難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡に関することです。第352話「和歌木簡と九州年号」でもふれましたが、万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土し、注目されました。

 わたしは、この「はじめのとし」という表記に興味をいだき、これは年号の「元年」のことではないかと考え、この時期の九州年号として、「常色元年」 (647)の可能性が高いと判断しました(「としのはじめ」であれば新年正月のことですが)。もちろん「白雉元年」(652)の可能性もありますが、『日 本書紀』によれば652年に完成したとされる前期難波宮の整地層からの出土ですから、やはり「常色元年」だと思います。

 このわたしの理解が正しければ、この木簡の歌は、春草のように勢いよく成長している九州王朝の改元を言祝(ことほ)いだ歌の一部ということになります。 そうすると、この歌は九州王朝の強い影響下で詠まれたものであり、その木簡が出土した前期難波宮を九州王朝の宮殿(副都)とするわたしの説に整合します。 ちなみに、この常色年間は九州王朝が全国に評制を施行した時期に当たり、「はるくさの」という枕詞がぴったりの時代です。

 さらに言えば、7世紀中後半での九州年号の改元は、「常色元年」「白雉元年」を過ぎると、「白鳳元年」(661)、「朱雀元年」(684)、「朱鳥元 年」(686)、「大化元年」(695)であり、これらの年が「はじめのとし」の候補となるのですが、661年は斉明天皇の時代です(近江京造営時期)。 684年と686年では天武天皇の晩年であり、その数年後に宮殿が完成したとすれば、それは藤原宮造営時期と同年代になります。しかし、出土土器の編年は、前期難波宮整地層と藤原宮整地層とでは明確に異なります。

 したがって、「はるくさ」木簡の「はじめのとし」を九州年号の「元年」のことと理解すると、前期難波宮整地層の年代は7世紀中頃にならざるを得ないと言 う論理性を有していることに気づいたのです。この論理性の帰結と、現在の考古学編年が一致して前期難波宮の造営を7世紀中頃としていることは重要なことだと思います。もちろん、「はじめのとし」を「元年」ではなく、もっと合理的でふさわしい別の意味があれば、わたしのこの説は撤回します。今のところ「元年」と理解するのが最も妥当と思っていますが、いかがでしょうか。


第419話 2012/05/30

前期難波宮の「戊申年」木簡

 東京に来ています。昨日は足利市に行きましたが、途中で開業後初めて東京スカイツリーを間近で見ました。やはり大きいですね。おそらく、古代の人々が法隆寺や観世音寺の五重の塔を見上げたときも、同じような感慨を抱いたのではないでしょうか。今日はこれから福島市へ向かい、夜は山形市で宿泊予定 です。

 難波宮編年の勉強のために『大阪城址2』(2002、大阪府文化財調査報告研究センター)を読んでいますが、この発掘調査報告書にはわが国最古の紀年銘 木簡である「戊申年」(648)木簡の報告が掲載されています。この木簡の出土が、前期難波宮の時代特定に重要な役割を果たしたことは既に紹介してきたと ころですが、今回その発掘状況と史料性格(何のための木簡か)を詳しく知りたいと思い、大阪市立歴史博物館に行き、同報告を閲覧コピーしました。

 同報告書によれば「戊申年」銘木簡が出土したのは難波宮跡の北西に位置する大阪府警本部で、その谷だった所(7B地区)の地層の「16層」で、「木簡をはじめとする木製品や土器を包含するとともに、花崗岩が集積した状態で検出されている。出土遺物からみて前期難波宮段階の堆積層である。」(12頁)とされています。この花崗岩は化学分析等によって上町台地のものではなく、前期難波宮造営に伴って生駒山・六甲山・滋賀県田上山などから人為的に持ち込まれた とのことです。

 木簡の出土は33点確認されており、その中の「11号木簡」とされているものが「戊申年」銘が記されたものです。この他にも、「王母前」「秦人凡国評」や絵馬も出土しており、大変注目されました。

 これら花崗岩や木簡が出土した「16層」は前期難波宮の時代(整地層ではない)と同時期とされていますが、堆積層ですからその時代の「ゴミ捨て場」のような性格を有しているようです。土器も大量に包含されていますので、その土器編年について積山洋さん(大阪市立歴史博物館学芸員)におたずねしたところ、 「難波3新」で660~670年頃とのことでした。従って、「戊申年」(648)木簡の成立時期よりもずれがあることから、同木簡作成後10~20年たっ て廃棄されたと考えられるとのことでした。積山さんの推測としては、同木簡などは前期難波宮のどこかに保管されていたもので、660~670年頃に廃棄されたのではないかとのことでした。

この積山さんの見解を正木裕さんに話したところ、これは近江遷都と関係しているのではないかとのアイデアが出されました。近江遷都は『海東諸国紀』によれば白鳳元年(661)、『日本書紀』によれば天智6年(667)とされていますが、同木簡廃棄時と同時期です。もしかすると近江遷都にともなって難波宮にあった文物の引っ越しがあり、その時に不要な木簡類が廃棄されたのではないかと想像しています。


第418話 2012/05/27

土器「相対編年」と「絶対年代」

 難波宮土器編年の勉強を続けていますが、その主要課題の一つに、土器様式の前後関係に基づく「相対編年」が、どのように 「絶対年代」とリンクされているのかということがあります。今回、前期難波宮の発掘調査報告を閲覧し、七世紀の畿内における土器「相対編年」と「絶対年代」との関連について、考古学者が何を根拠にどのように判断しているのかが分かってきましたので、少し紹介したいと思います。
「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会、2000・3)によれば、難波宮遺跡の編年は難波1期(5世紀)から難波5期(8世紀前葉~9世紀初)までに分類されており、「難波3中」が前期難波宮の時代で7世紀中葉とされています。

 こうした土器「相対編年」の中で「絶対年代」を確定できた年代は「定点」と称されています。たとえば「難波2新」段階は6世紀後葉~7世紀初頭と編年さ れていますが、その根拠となった「定点」は、狭山池北堤で検出されたコウヤマキの伐採年(年輪年代測定により616年とされている)から求められてます (狭山池調査事務所1998)。

 前期難波宮の時代の「難波3中」段階は、この土器と同様式の土器が出土している兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡SD01(兵庫県教育委員会1997)の「元壬子年」(652、通説では「三壬子年」と釈文されています)木簡の年代が「定点」として採用されています。

この他にも7世紀における「定点」資料・遺構があるのですが、年輪年代測定のような自然科学的分析で絶対年代を特定し、一緒に出土した土器の「相対年代」とリンクするという方法は論理的・科学的で説得力があります。わたしもこうした「定点」と土器「相対編年」の最新考古学の成果を知ることができ、九州 など他の地域への展開が必要と思われました。


第417話 2012/05/26

前期難波宮の「年輪年代」

 太宰府編年の小論を書き終わったので、今は難波宮考古学編年の勉強を続けています。先日も大阪市立歴史博物館に行き、二階の「なにわ塾」で発掘調査報告書を閲覧したり、同館学芸員の積山洋さんから難波宮編年についていろいろと教えていただきました。

 その積山さんから勧められて読んだのが、「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会、2000・3)でした。難波宮の北西に位置する旧大阪市中央体育館跡地の発掘調査報告なのですが、そこから出土した前期難波宮時代の水利施設遺構について大変重要な報告が記載されていましたのでご紹介したいと思います。

 その遺構は谷から湧き出る水を通す石造の施設で、そこには大型の水溜め木枠が設置されており、その木枠の伐採年が年輪年代測定により634年であると記 されていました。そしてその石造遺構の下層と石を固定する客土に大量に含まれていた土器が、前期難波宮整地層に含まれている土器と同様式で、共に七世紀中葉と編年されています。従って、この水利施設は前期難波宮の造営時から使用され、宮内に井戸がなかった前期難波宮のためのものであることが判明しました。

 この年輪年代測定による伐採年(634)が明らかな木枠と、同じく難波宮北方から出土した「戊申年(648)」木簡は、長く論争が続いた前期難波宮の年代について、相対編年による土器様式と絶対年代を関連付ける貴重な資料となったようです。

 同報告には、「今回得られた年輪年代のデータや、『戊申年』銘木簡などの暦年代のいくつかの定点を併せて検討すれば、前期難波宮の造営期は7世紀中葉に 明確に位置づけることができるであろう。」(85頁)、「前期難波宮がいつつくられたのか、長年の論争に対しSG301(石造水利施設のこと:古賀)の No.1の年輪年代は、遺跡、遺構を解釈する上で貴重な年代情報となるであろう。」(208頁)と記されています。

 今回、わたしは大阪市立歴史博物館を訪れて、前期難波宮の編年を確定した水利施設遺構や木枠の年輪年代の存在について知ることができ、大変よい勉強になりました。


第352話 2011/11/20

和歌木簡と九州年号

 昨日の関西例会で、わたしは「和歌木簡と九州年号」という研究発表を行いました。難波京整地層から出土した「春草」木簡と呼ばれるもで、650年頃のものとされています。「はるくさのはじめのとし」と読める万葉仮名が記されており、和歌木簡と見られています。
 「春草の」という言葉は万葉集でも「枕詞」の類として柿本人麿の歌にも見られますが、わたしはこの木簡の後半部分「はじめのとし」という表現に注目しま した。お正月を示す「年の始め」という表現はよく見られますが、「はじめの年」という表記を和歌で見た記憶がなかったからです。
そこでわたしは、この「はじめのとし」を「元(はじめ)の年」と理解し、ある九州年号の元年を意味するものとする説を発表しました。具体的にはその出土 地層の年代から、九州年号の常色元年(647)に読まれた歌ではないかと推測しました。「春草の」という「枕詞」も柿本人麿の歌では「大宮処」「わが大王」といったものに関わって使用されていることから、この和歌木簡の「はるくさの」も、 春草が勢いよく成長するように九州王朝の天子の権勢を形容したものであり、その天子の常色元年を言祝(ことほ)いだ歌ではなかったでしょうか。
 ちなみに九州年号の常色年間は評制が全国に施行され、我が国初で最大規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮の建設も始まっており、九州王朝史において 特筆される時期だったのです。そのことを言祝いだ和歌木簡が難波京整地層から出土したことも偶然とは思われません。
 このわたしの新説はいかがでしょうか。なお、11月例会の発表は次の通りでした。中でも、水野さんが紹介された「百済人祢軍墓誌」は7世紀後半の重要な内容が記されており、画期的な発見です。この点、今後報告したいと思います。〔11月度関西例会〕
1). ヘブライ語のミリアム(向日市・西村秀己)
2). 鬼前太后・干食王后・法興元で頓挫(豊中市・木村賢司)
3). 「伊都国」の論理 ーー邪馬一国、首都の変遷(姫路市・野田利郎)
4). 第八回古代史セミナー(八王子)主な項目(豊中市・大下隆司)
5). (彦島の)伊勢の地を探す(大阪市・西井健一郎)
6). 和歌木簡と九州年号(京都市・古賀達也)
7). 磐井討伐の詔の正体(川西市・正木裕)
8). 卑弥呼の名字(木津川市・竹村順弘)
9). 広開土王碑17年条と山海経記事(木津川市・竹村順弘)
10).南斉書の百済王名(木津川市・竹村順弘)○代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・百済人祢軍墓誌の追跡・他。

第347話 2011/11/12

九州年号の史料批判(2)

 文献史学での文字史料の優劣の判断基準で最も重要なものに、史料の同時代性という尺度があります。通常それは一次史料とか二次史料・三次史料といった表現で表されるのですが、九州年号で言えば、6世紀や7世紀の九州年号が実用されていた時代、すなわち同時代に記された史料は一次史料と呼ばれ、 最も信頼性の高い文字史料とされます。
 たとえば、その時代の木簡や金石文などに記された九州年号が一次史料となり、具体的には芦屋市から出土した「元壬子年」木簡(652年、白雉元年)や法隆寺釈迦三尊像光背銘の「法興元三一年」(621年)、「朱鳥三年戊子」鬼室集斯墓碑(688年)、「大化五子年」土器(699年)などがそれに当たりま す。こうした一次史料は九州年号存在の直接証拠でもあり、歴史研究において最も重視されるべきものです。
 ただし一次史料においても、史料そのものの信頼性についての検証が必要となるケース(真偽論争など)もあり、その場合は史料の自然科学的調査(年代測定など)や、他の同時代史料との整合性の検討が必要となります。
 一次史料に次いで重要なものが二次史料であり、一次史料に基づいて記された史料がそれに該当します。例えば、一次史料を書写した写本とか、同時代金石文の拓本や実見記録などです。具体例としては、「白鳳壬申年」骨蔵器(672年、『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)などがそれに当たります。江戸時 代に博多湾岸から出土した「白鳳壬申年」骨蔵器のことが、筑前黒田藩の地誌『筑前国続風土記附録』に記録されているのですが、実物は既に失われています。 しかし、黒田藩公認の地誌に記されている九州年号金石文の記録ですから、かなり信憑性の高い二次史料です。
 さらに、二次史料を引用したり、記録したものが三次史料となるのですが、歴史史料として利用できるのは、せいぜいこの三次史料まででしょう。例外的には 四次史料などでも他に同類のものがない場合とか。その信憑性が当該史料以外の証拠などで保証される場合は歴史史料として使用できるケースもあります。
 従って、歴史研究において根拠とする史料はなるべく一次史料か同時代史料に近い二次史料などに溯って調査採用することが要求されるのです。
ところで、『日本書紀』にも大化・白雉・朱鳥の九州年号が盗用されていますが、これは何次史料にあたると思いますか。720年に『日本書紀』は成立していますから、九州年号実用時代とはかなり近い時代です。しかし、厳密には同時代ではなく、九州王朝滅亡後に九州年号を盗用(九州王朝史書からの引用)した史書ですから、恐らく二次史料に相当するでしょう。そういう意味では、『日本書紀』は九州王朝や九州年号を研究する上でも、同時代史料に近い貴重な二次史料 という性格も有しているのです。(つづく)