第3419話 2025/01/31

『東京古田会ニュース』220号の紹介

 『東京古田会ニュース』220号が届きました。拙稿「『難波の宮」発見逸話 ―山根徳太郎氏の苦難―」を掲載していただきました。同稿では、難波宮を発掘した山根徳太郎氏が調査資金不足や有力な学問的批判に苦しんでいたことを紹介しました。

 その学問的批判とは喜田貞吉さんらによるもので、『日本書紀』に見える孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は、地名の一致や地勢から判断すると狭隘な大阪市中央区の法円坂ではなく、北区の長柄・豊﨑の地であるとするものです。当時はこの見解が有力説でしたが、前期難波宮の出土により法円坂説が通説となり、今日に至っています。しかし、それでは何故地名が一致しないのかという問題は未解決のままでした。そこで、拙稿では次のように論じました。

〝喜田氏の見解は『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応という文献史学の論証に基づいており、他方、山根氏の上町台地法円坂説は考古学的出土事実により実証されている。なぜ、このように論証と実証の結果が異なったのか。ここに、近畿天皇家一元史観では解き難い問題の本質と矛盾があるのだが、その理由は明白だ。“列島内最大規模の宮殿であるからには、列島の最高権力者である近畿天皇家の宮殿のはず”という、一元史観の歴史認識(岩盤規制)に従わざるを得ないからだ。

 結論から言えば、山根氏が発見した前期難波宮は孝徳紀に書かれた「難波長柄豊碕宮」ではなく、九州王朝の王宮(難波宮)だった。その証拠の一つとして、法円坂から出土した聖武天皇の宮殿とされた後期難波宮は、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記されており、「難波長柄豊碕宮」とはされていない。この史料事実は、法円坂の地は「難波長柄豊碕」という地名ではなかったことを示唆する。〟

 論文末尾には〝残された「真の問題」、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」が北区長柄にあったことを立証したい。〟と書きましたが、これは大変な仕事になりそうです。

 当号に掲載された國枝浩さん(世田谷区)の二つの論稿には深く考えさせられました。一つは一面を飾った「古田氏の旧説撤回問題(上)」で、古田先生が自説を変更されたいくつかのテーマについて、その問題点を指摘したものです。これらについては古田先生の著作だけではその経緯や論理構造がわかりにくいかもしれませんので、わたしも「洛中洛外日記」などで説明したこともありましたし、古田史学の会・関西例会でも少なからぬ論者により当否が論じられてきました。新たに古田史学に触れられた方のためにも、國枝さんの論稿は有意義なものと思いました。

 もう一つの「『大作塚』AIと会話して」も重要なテーマです。古田説や倭人伝の「大作塚」の理解に対してのAI(Chat GPT)との問答を紹介したものです。近年、実用化が飛躍的に進んだAIの機能が歴史学などの学問や研究にどのような影響を与えるのか、研究者はAIとどのように接するべきなのかなど、近未来の重要課題です。國枝さんの問題提起により、この問題を深く考えるきっかけとなりました。


第3418話 2025/01/30

安藤哲朗氏のご逝去を悼む

 多元的古代研究会の顧問(前会長)安藤哲朗氏が一月二四日、ご逝去されました(九一歳)。謹んで哀悼の意を捧げます。

 安藤さんは「市民の古代研究会」時代からの知己、漢文・中国史書に堪能な方で、誠実温厚なお人柄でした。亡くなられた高田かつ子さんの後を継いで多元的古代研究会々長に就任され、『多元』誌の編集発行などにご尽力されました。古田武彦先生が亡くなられた二〇一五年一〇月、友好三団体(多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会)の幹部が東京の学士会館に急遽集まり、追悼行事の打ち合わせをしたことなどが昨日のことのように思い起こされます。

 わたしの手元には、生前、氏から委ねられた未発表論稿があります。『古事記』真福寺本国生み神話に見える「天沼矛(あまのぬぼこ)」の字形に関する論稿で、それを「天沼弟(あまのぬおと)」と読み〝銅鐸の音〟と解釈する古田説を〝否〟とするものでした。研究途上あるいは古田先生に遠慮されたのか、発表の意思はないとのことで、安藤稿に賛成するわたしに託されたのかもしれません(注)。この論文は遺稿となりました。

 最後に『多元』一七〇号(二〇二二年七月)掲載、恐らくは絶筆であろう「FROM編集室」を転載します。
「◆人身受け難し(台宗課誦)◆私もあと短期ののち古田先生の忌に順うであろう◆NHKの深夜放送は例によって目を覆うばかりの小魚の群を少数の大魚が追い廻す光景を放送して◆暗示している◆私は来世何に生まれるやら◆人間を期待するのは無理だろうな◆でも人間は地上を荒らしすぎた◆最近それを人々は自覚しはじめたようだ◆哲朗誠恐誠惶頓首謹言」

 水野孝夫さんら古田史学第一世代の物故が続いています。悲しみと寂しさは雲委の如し。令和の御世、鬼哭啾々にして涙暇無し。あなたのご遺志をしっかりと引き継ぎます。

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」628話(2013/12/03)〝幻の古谷論文〟
同「洛中洛外日記」676話(2014/03/11)〝『古事記』道果本の「天沼矛」〟

 

【写真】学士会館(東京神田)にて。安藤哲朗さん(多元的古代研究会会長・当時)・古賀(古田史学の会代表)・藤沢徹さん(東京古田会会長・故人)2015.10.22。


第3417話 2025/01/26

秀逸!『隋書』俀国伝の

       「九州王朝」解説動画

 「古田史学の会」の会員から、若者向けに古田説・古田史学の解説動画を作成し、YouTube配信してはどうかとのご意見が少なからず寄せられます。わたしも賛成ですし、具体的に検討したことも何回かありました。しかし、今のわたしにはその力が足りず、また時間的余裕もなく、具体化できないままでした。何よりも、今の若者たちの心に届くようなコンテンツを造れるのはわたしではなく、若きクリエイターであるということが決定的でした。

 そうした問題意識もあって、古代史関係のYouTube番組を関心を持って見てきたのですが、先日、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)より、優れた動画サイトの紹介がありました。「未知の日本史」というタイトルで、『隋書』俀国伝(動画では倭国伝とする)に記された「九州王朝」説を解説した動画でした。その内容から、作成者は古田説をよく勉強されていることがわかりました。アクセス件数も初日だけで九万件を越えたとのことで、同サイトはいわゆるインフルエンサーによるもののようです。ちなみに、昨年の久留米大学公開講座では若者の受講者が突然増えて驚いたのですが、大学関係者の話によると「インフルエンサーが(九州王朝説をテーマとする)同講座を紹介したようだ」とのことでした。現代は、古田説を書籍ではなく、ネットで知る若者が主流の時代であることを改めて思い知らされた次第です。
動画の最後は次の言葉で締めくくられています。

〝それは私たちが教科書で学んできた歴史とは大きく異なる様相を見せていた。
魏徴が編纂したこの歴史書が伝える3つの重大な謎
第一は、なぜ『日本書紀』から消された600年の遣隋使の存在
第二は、700人もの後宮を持つ謎の支配者・多利思北孤
そして第三は、阿蘇山の記述から浮かび上がるもう一つの王朝の可能性である。

 これらの謎は、『日本書紀』が描く推古天皇と聖徳太子による日本の統治という一元的な歴史像の背後に、より複雑な政治構造が存在していた可能性を示唆している。そして、7世紀の日本がいかなる国家であったのかを考える上で極めて重要な手掛かりとなっている。この謎は今なお完全には解き明かされていない。『隋書倭国伝』は1400年の時を超えて、私たちに古代日本の新たな可能性を問いかけ続けているのだ。〟
https://youtu.be/xjcap8plu3g?si=82YhFAL5I86zR4qY

 なお、同サイトは「ヤバイ都市伝説」として紹介していますが、わたしたちは学問的有力仮説として検証・研究しなければならないこと、言うまでもありません。

(参考)「宝命」について

サイトおよび記事内は「宝命」で検索願います。

市民の古代・古田武彦とともに 第3集 1981年 古田武彦を囲む会編
古田武彦講演録1 『日本書紀』の史料批判

「遣隋使」はなかった 古田武彦 第一代天子の「宝命」間題

 

中村幸雄論集

新「大化改新」論争の提唱─『日本書紀』の年代造作について
『日本書紀』推古紀の年代造作記事

 

古田史学会報123号(2014年 8月 8日)

『日本書紀の中の遣隋使と遣唐使 服部靜尚

 


第3416話 2025/01/25

日野智貴さんの

  藤原京「九州王朝首都」説の論理

 1月18日、古田史学の会・関西例会の終了後に、日野智貴さん(古田史学の会・編集部)より藤原京の性格について、九州王朝(倭国)の首都と考えるべきとの意見が出されました。その日の例会でわたしが、藤原京を近畿天皇家の天武や持統が王朝交代のために造営したとする見解を発表したことにより、日野さんからこうした批判的意見が出されたものです。日野さんの主張は次のような論理に基づいています。

(1) 九州王朝から大和朝廷へ王朝交代するにあたり、それが禅譲であり、その儀式が藤原京で行われたのであれば、その場に九州王朝の天子がいたはずである。
(2) そのために九州王朝の天子が一時的にでも藤原京にいたのであれば、その期間はそこが九州王朝の王都となる。
(3) 従って一時的であっても、藤原京は九州王朝の都であったと定義すべきである。

 以上のような指摘がなされました。日野さんらしい鋭い視点です。これには、王朝交代が禅譲だったのかという根源的なテーマの検討が必要です。良い機会でもありますので深く考えてみたいと思います。今までの研究では禅譲説を支持するエビデンスとその解釈として、次のことがあげられます。

❶評から郡への変更が701年に全国一斉に行われたことが藤原宮出土荷札木簡などから判断できる。これは王朝交代が事前に周到な準備により、平和裏に行われたことを示唆する。
❷福岡市西区の元岡桑原遺跡から「大宝元年(701年)」木簡が出土しており、九州王朝の中枢領域である筑前の地で、王朝交代の年に大和朝廷の「大宝」年号が使用されていることから、当地は平和裏に大和朝廷の統治下に入ったことを示唆する(注①)。
❸太宰府からは「和銅八年(715年)」のヘラ書きを持つ甕片が複数出土していることもこのことを裏付けている(注②)。

 他方、南九州での隼人の抵抗記事やその痕跡が『続日本紀』に記されており、仮に王朝交代が禅譲であっても、最後の九州年号「大長」の末年(大長九年・712年)まで徹底抗戦した勢力もありました(注③)。

 なお、藤原宮に九州王朝の天子がいたとする仮説は、西村秀己さん(古田史学の会・会計、編集部)が20年前に提起されたものです。日野さんの今回の主張も、西村さんの提起を受けて考察した結果とのことでした。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3053話(2023/06/26)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(3)〟

元岡遺跡出土木簡

②同「洛中洛外日記」3384話(2024/11/28)〝王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫 (3)〟
③同「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。


第3415話 2025/01/24

日野智貴さんの歴史教科書改訂案

 1980年頃のこと。歴史教科書に古田説が掲載されたことがあったことを「洛中洛外日記」3404話(2024/12/31)〝教科書に「邪馬壹国」説が載った時代〟で紹介しました。その後、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)の調査により、昭和49年(1974)に三省堂から出版された家永三郎先生の教科書『新日本史』には、本文の「卑弥呼」で次のように書かれていたことがわかりました。

 「卑弥呼は、「魏志」の本文によれば、「邪馬壹国」の女王であったとしるされている。従来はこれを『後漢書』により「邪馬臺国」(臺は台)の誤りと考え、国名をヤマトと読み、そのヤマトが九州のヤマトであるか、今の奈良県のヤマトであるかについて、長年月にわたり、学界で論争がつづけられてきた。最近「壹」は誤字ではないという説があらわれ、卑弥呼の支配する国の名と所在地をめぐり、新しい論議を生んでいる。」16ページ

 このように『三国志』倭人伝原文には邪馬壹国とあることが記され、〝「壹」は誤字ではない〟とした古田説が紹介されています。しかし、現在の教科書本文からは邪馬壹国は消えています。そこで、教科書に詳しい日野智貴さん(古田史学の会・編集部員)に教科書改訂案を作って欲しいとお願いしたところ、次の案が示されました。教科書を書き換えるための効果的な視点を持つ改訂案ではないでしょうか。要点のみ紹介します。

山川出版社『詳説日本史 日本史探究』
「邪馬台国連合」改訂案
日野智貴

p.18 11行目より
《現状》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉の卑弥呼〈ひみこ〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする29国ばかりの小国の連合が生まれた。

《修正案》
そこで諸国は共同して邪馬台国〈やまたいこく〉(邪馬壱国〈やまいち(ゐ)こく〉)の卑弥呼〈ひみこ(ひみか)〉を女王として立てたところ、ようやく争乱はおさまり、ここに邪馬台国を中心とする30国ばかりの小国の連合が生まれた。

《訂正の趣旨》
学習指導要領には「原始・古代の特色を示す適切な歴史資料を基に,資料から歴史に関わる情報を収集し,読み取る技能を身に付けること」とある。
現行教科書も資料引用部分には「読みといてみよう」の言葉とともに『魏志』「倭人伝」の引用が記され、そこには「今使訳通ずる所三十国」「邪馬壹国に至る」等の記述がある。また「邪馬壹国」の注釈には「壹(壱)は臺(台)の誤りか」とあり、誤りであると断定はしていない。
にも拘らず、本文では「邪馬台国」とのみ掲載し、さらに「三十国」も「29国」としているのは、単に古田学派の立場からオカシイだけでなく、歴史資料を読み取る能力を育成するうえでも問題である。資料の注釈が両論併記ならば、本文も両論併記にすることは当然である。それが資料を読み取る能力の育成につながる。

p.19 6行目より
《現状》
一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は北部九州を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

《修正案》
一方、九州説をとれば、邪馬台国(九州説では邪馬壱国が正しいとする見解もある)連合は北部九州を中心とするものであるが、北部九州のみの比較的小範囲のものか、本州西部まで含む規模のものかは議論がある。ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国を統合したか、あるいは邪馬台国(邪馬壱国)の勢力かその分派が東遷してヤマト政権を形成したということになる。

《訂正の趣旨》
邪馬台国大和説とは異なり、九州説は多種多様な意見が存在するのであり、大和説同様一枚岩の仮説のように扱うのは不適であるし、また「多面的」な考察を妨げるものである。

 もちろん、様々な仮説を同様に紹介するのは困難であるが、例えば邪馬台国そのものではなくその分流が東遷したというのは、古田先生を批判していた安本美典氏も主張している説であり、立場の異なる複数の論者が主張している見解は教科書に掲載するべきである。


第3414話 2025/01/23

『九州倭国通信』217号の拙稿紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.217号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「チ。-地球の運動について- ―真理(多元史観)は美しい―」を掲載していただきました。同稿は「美しい」というキーワードで多元史観を論じたもので、その前編です。

 前編ではNHKで放映されたアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)を引用しながら、中世ヨーロッパでの地動説研究者と多元史観で研究する古田学派との運命と使命について比較表現しました。原稿は次の言葉で締めくくりました。

 「あなた方(一元史観の学者)が相手にしているのは僕じゃない。古田武彦でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。それは流行病のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」

 後編では、中国史書の解釈において、一元史観よりも多元史観が「美しい」ことを具体的に比較紹介します。

 なお、「古田史学の会」と「九州古代史の会」との友好関係は、今年も更に深まることでしょう。1月19日の新春古代史講演会には同会の前田事務局長ら三名の方が見えられました。わたしたちも同会月例会での研究発表を今年もさせていただく予定です。

(注)『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて連載(二〇二〇~二〇二二年)。十五世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちを描いたフィクション作品。二〇二二年、単行本累計発行部数は二五〇万部突破。二〇二三年、第十八回日本科学史学会特別賞受賞。


第3413話 2025/01/22

京都新聞に「新春古代史講演会」記事

 1月19日に開催した新春古代史講演会の記事が翌日の京都新聞朝刊に掲載されましたので紹介します。「古田史学の会」事務局から同新聞社に案内を送っていたこともあってか、京都新聞社より取材にうかがいたいとの電話をいただいていました。当日の開会前に高山浩輔記者が見えられ、わたしが取材を受けました。その後も高山記者は熱心に講演を聴いておられ、仕事とは言え、まじめな青年だなあと思いました。

 当日、奈良新聞記者として講演会に来ていた竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)によれば、翌日の朝刊に掲載されるはずとのことでしたので、京都新聞を置いているご近所の喫茶店タナカコーヒーで20日付け朝刊をいただきました。見ると、市民版のページにカラー写真入りで新春古代史講演会の記事が掲載されていました(WEB版 2025.01.19 には記事の冒頭部が掲載)。京都新聞社さん、ありがとうございます。

【2025.01.20「京都新聞」朝刊より転載】
博物館の未来像 市民考える
下京で古代史学ぶ講演会
「地域文化への拠点」へ転換訴え

 古代史について考える講演会が19日、京都市下京区のキャンパスプラザ京都で開かれた。文化庁博物館支援調査官の中尾智行氏が、考古学にも密接に関わる博物館の未来像について語った。

 中尾氏は博物館の約8割は公立だが「バブル崩壊後、自治体の財政悪化で予算が割けず学芸員を置いていないところも多い」と指摘。老朽化も進む中、予算を得るためには、市民ぐるみで「地域文化の拠点」に変える必要があるとし、文化財なども一部のファンだけではなく、社会で価値を共有する必要性を投げ掛けた。

 橿原考古学研究所(奈良県橿原市)の元所員も登壇し、邪馬台国の所在地論争で有力な「畿内説」に疑義を呈する独自の見解を披露した。講座は古代史家の故古田武彦氏のファンらでつくる古田史学の会が主催した。(高山浩輔)


第3412話 2025/01/20

超満員御礼! 新春古代史講演会

 昨日、キャンパスプラザ京都で開催した新春古代史講演会は108名という多数の御参加で超満員となり、大盛況でした。参加者や関係者の皆様、講演していただいた三名の講師(注)の方々に厚く御礼申し上げます。そして、定員オーバーのため、途中退室要請に応じていただいた十数名の皆様(古田史学の会・関西の皆さん・他)には心より感謝申し上げます。この方々のご協力がなければ、講演会を無事に終了することはできなかったかもしれません。

 今回の講演会は、多くの案内チラシを各地の図書館や大学などに配布し、講師の方々の前評判が高かったこともあり、各地からの問い合わせ電話が連日のように届きました。当日は京都新聞の取材もありました。遠く関東、南は佐賀県・福岡県からもご参加いただきました。中でも友好団体の「九州古代史の会」の前田事務局長・田中前会長・松中さんがご来場され、旧交を温めました。講演会後の懇親会には講師の中尾先生・関川先生・正木先生にもご参加いただき、とても楽しい京の一夕となりました。

 昨年から続けてきた「古田史学の会」創立30周年記念イベントも、この京都講演会で終了です。これからは創立40周年に向けて、決意も新たに前進してまいります。会員の皆様には様々な機会にご参加頂き、ご意見ご要望などお寄せ頂けましたら幸いです。

《追補》今日の午前中は、佐賀県から講演会に見えられたKさんと出町商店街のカフェ〝出町ビギン〟でお会いしました。Kさんは元東京新聞の記者で、古田先生の訃報を掲載していただいた方。九年ぶりの再会でした。午後は八王子セミナー実行委員会にリモート参加。
関西例会・新春講演会・セミナー実行委員会と連日のハードスケジュールが続き、その合間を縫って『古代に真実を求めて』28集のゲラ校正や『古田史学会報』投稿原稿の査読、論文執筆などを行いました。会務を徐々にでも後継に委ねたいと願っています。

(注)《講師・演題》
中尾智行氏 (文化庁 博物館支援調査官) 考古学と博物館の魅力を未来に
関川尚功氏 (橿原考古学研究所元所員) 畿内ではありえぬ「邪馬台国」 ―考古学から見た邪馬台国大和説―
正木 裕氏 (古田史学の会・事務局長、元大阪府立大学理事・講師) 百済の古墳と「倭の五王」


第3411話 2025/01/19

法隆寺移築説の画期と課題

 「新年の読書」で紹介した法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)のうち、最も新しく説得力がある移築説の優れている点と残された課題について紹介します。

 若草伽藍の発掘により再建説が定説になりましたが、塔の心礎が現法隆寺の方が古い様式であったり、金堂や塔の建築様式、釈迦三尊像の年代が飛鳥時代に遡ること、そして心柱底部断面の年輪年代測定により、伐採年が五九四年であることも明らかになり、現法隆寺の塔や金堂などが飛鳥時代(七世紀初頭頃か)の建造物であることが有力となり、これらのことを再建説では説明ができなくなりました。

 ところが、米田良三さん(建築家)が発表した移築説(注①)は、九州王朝(倭国)により七世紀初頭に建立された古い寺院を、若草伽藍焼失後に移築したというものですから、再建説では説明困難だった諸問題を解決できたのです。ところが移築説にも克服すべき課題がありました。それでは移築元の寺院はどこにあったのかという課題でした。米田さんは太宰府の観世音寺であるとされたのですが、大越邦生氏や川端俊一郎氏は観世音寺とする米田説に異論を唱えました(注②)。一方、飯田満麿氏からは建築家らしく、古代建築技術の視点から大越氏や川端氏の反論は根拠不十分とする見解が出されました(注③)。わたしも米田さんの観世音寺説は成立しないとする論文を発表し(注④)、東京で開催されたシンポジウムでも米田さんと論争を繰り広げました。
わたしの主張とそのエビデンスは以下のようなものでした。

〔1〕観世音寺が移築されたのであれば、その跡は更地になるはずだが、観世音寺は八世紀以後も存在しており、火災で焼亡するのは平安時代のことである。この一点で、観世音寺移築説は仮説としてさえも成立しない。『平安遺文』に次の火災記事が見える。
○筑前國観世音寺三綱等解案(内閣文庫所蔵観世音寺文書)
「當伽藍は是天智天皇の草創なり。(略)而るに去る康平七年(一〇六四)五月十一日、不慮の天火出来し、五間講堂・五重塔婆・佛地が焼亡せり。」(古賀訳)
元永二年(一一一九)三月二七日
『平安遺文』所収〔一八九八〕

〔2〕観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式であり、七世紀後半に編年されており、現法隆寺の創建時期である七世紀前半(飛鳥時代)にまでは遡らない。

〔3〕観世音寺の塔の心礎は基壇の上面にあり、基壇より下に心礎がある現法隆寺とは全く異なる。

〔4〕観世音寺の創建年次を記す史料には白鳳期(『二中歴』)、具体的には白鳳十年(670)であり、瓦の編年や塔心礎の様式編年と一致する。

〔5〕史料によれば、観世音寺の本尊は百済伝来の阿弥陀如来像とされており、現法隆寺の釈迦三尊像とは異なる(注⑤)。

 以上の理由から、観世音寺を法隆寺の移築元寺院とする米田説には反対です。しかしそれでもなお、移築説という仮説に至った米田さんの業績は色褪せるものではありません。そして、移築説にとっての残された課題、移築元寺院の追求がわたしたち古田学派研究者にとっての重要課題です。米田さんを越える優れた研究が待たれます。(おわり)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された 大宰府から斑鳩へ』新泉社、1991年。
②大越邦生「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)(その二)」、『多元』No.43・44、2001年6月・8月。
川端俊一郎『法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築』2001年6月、『北海道学園大学論集』第108号所収。
③飯田満麿「法隆寺移築論争の考察─古代建築技術からの視点─」2001年10月、『古田史学会報』46号。
④古賀達也「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」『古田史学会報』49号、2002年4月。
⑤同「百済伝来阿弥陀如来像の流転 ―創建観世音寺と百済系素弁瓦―」『東京古田会ニュース』181号、2018年。
同「洛中洛外日記」1638~1644話(2018/04/01~08)〝百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)~(6)〟


第3410話 2025/01/18

『旧唐書』倭国伝の「五十餘国」

         と「東西五月行」

 本日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。2月例会の会場も豊中自治会館です。

 今回、わたしは「『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国―」についての研究結果を発表しました。『旧唐書』倭国伝冒頭に記された倭国の領域記事の東西五月行や附属する五十餘国の数値は、従来言われてきた誇大なものではなく、七世紀当時の倭国(九州王朝)律令に基づく〝公的な数値〟とする仮説です。

 「五十餘国」とは律令で規定された66国から九州王朝直轄の九州(九国)を引いた57国(蝦夷国領域〈陸奥・出羽〉も含む)のことで、「東西五月行」も従来言われてきたような誇大値ではなく、律令で定められた「車」による一日の行程が官道の駅間距離の「卅里」に対応しており、東西の駅数を29.5日で割ると約五ヶ月となることから、正確な情報に基づいた記事と考えることができるとしました。
この点について、正木裕さんによる先行研究がありました。正木さんからのメールを紹介します。

《以下、メールから転載》
東西5月行の計算と根拠は以下のとおりです。
『後漢書』卷八十六。南蠻西南夷列傳第七十六「軍行三十里を程(*1日に進む距離)とす。」
(軍行三十里為程,而去日南九千餘里,三百日乃到,計人稟五升,用米六十萬斛,不計將吏驢馬之食,但負甲自致,費便若此。)
倭国:【東西5月行】軍行1日30里(14㌔)5月で150日≒1900㎞、5日1休(「每五日洗沐制」)で125日×14㌔≒1700㌔。五島列島から津軽海峡までの距離。
【南北3月行】3月で90日約1200㎞。5日1休で75日×14㌔≒1000㌔。ただし大半が「水行」なので軍行1日30里は当てはまらない。
『魏志倭人伝』で半島から邪馬壹国まで水行10日、邪馬壹国から投馬国まで20日、半島から投馬国まで計1月。地図で測ると600㎞、3月なら約1800㎞で台湾に届く。
《転載終わり》

 1月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔1月度関西例会の内容〕
①『古事記』定型句の例外について (姫路市・野田利郎)
②百済・倭王同一人物説や付随する諸問題に関して (大山崎町・大原重雄)
③扶桑国についての考察 (たつの市・日野智貴)
④縄文語で解く記紀の神々 景行帝西征譚 (大阪市・西井健一郎)
⑤熊本宇土への調査旅行報告 (東大阪市・萩野秀公)
⑥「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承について (川西市・正木 裕)
⑦『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国― (京都市・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
02/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館


第3409話 2025/01/10

『多元』185号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』185号が届きました。同号には拙稿〝二つの「白雉元年」と難波宮〟を掲載していただきました。同稿は、九州年号「白雉」には『日本書紀』型❶と『二中歴』型❷の二種類があることをエビデンスとして、『日本書紀』白雉元年(650)二月条に見える大規模宮殿での白雉改元儀式が、実は九州年号の白雉元年(652)二月に前期難波宮で開催されたものであることを論述したものです。
❶『日本書紀』型は元年を庚戌(六五〇)として、五年間続く。
❷『二中歴』型は元年を壬子(六五二)として、九年間続く。

 同号で特徴的だったのが、古田武彦記念古代史セミナー(通称:八王子セミナー)の目的「教科書を書き変える」に関する次の論稿が掲載されていたことです。

○「山川詳説日本史の主張」 昭島市 西坂久和
○「一年を顧みて」 事務局長 和田昌美

 今回から、わたしも同セミナーの実行委員として参画させていただくことになりましたので、「教科書を書き変える」という目的実現のための企画案を提出しました。「古田史学の会」の目的とも通ずる「教科書を書き変える」というセミナーの目的実現のために、微力ながら尽くしたいと思います。まずは、現行の歴史教科書の実態調査から始めることになろうかと思います。教科書に詳しい方々(教育関係者など)のご協力をお願いします。


第3408話 2025/01/08

新年の読書、

 法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)

 「新年の読書」で紹介している李進煕さんの論文「飛鳥寺と法隆寺の発掘」(注①)は、法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)のうちの非再建説ですが、その非再建説のなかで最も説得力のある主張が、李進煕さんも述べている次の指摘でした。

〝非再建説の重要なよりどころは、現在の法隆寺西院の金堂、塔、中門が大化改新(六四五年)以後には公的に使われなくなる高麗尺で設計されていることである。つまり、高麗尺(今のかね尺の一尺一寸七分五厘)と大化後の公用尺である唐の大尺(今の曲尺の九寸八分)の両方で測ってみると、高麗尺ではきちんと割り切れる数字となるけれども、唐の大尺では端数が出るのである。〟

〝こうしてみると、現在の法隆寺西院の建築様式が改めて問題とならざるをえない。いままでは、石田氏の「若草伽藍跡」発掘の結果をふまえて六七〇年の火災後の再建と認めながらも、建築様式は飛鳥時代のそれを踏襲しているということにならざるをえなかった。〟

〝また、六二三年(推古三一)につくられた金堂の釈迦三尊像についての疑問も解消する。再建説にたてば、一屋も残さず災(ママ)上したというそれこそ火急のときに、あれだけの重量のものをはたして搬出しうるのか、という疑問がどうしても解消しないのである。〟

 これらの指摘はもっともなものです。後に、心柱底部断面の年輪年代測定により、伐採年が五九四年であることも明らかになり、現法隆寺の塔や金堂などが飛鳥時代(七世紀初頭頃か)の建造物であることが有力となりました。

 他方、若草伽藍が火災で焼失したことは疑えず、現法隆寺との位置関係から、若草伽藍焼失後に法隆寺が建てられたこともまた疑えません。しかし、李進煕さんが指摘したように、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのも事実です。

 ところが、これらの矛盾点を解決しうる説が、1991年に米田良三さん(建築家)から発表されました(注②)。それは、飛鳥時代の様式を持つ九州王朝の古い寺院が、若草伽藍焼失後に移築されたとする法隆寺移築説です。その根拠は、昭和の解体修理工事により明らかとなった法隆寺の建築部材の調査報告書でした。そこには移築の痕跡が遺っていることを建築学的に明らかにされ、移築にあたり金堂と塔の位置が左右逆になっており、元々の伽藍配置は観世音寺式伽藍配置と呼ばれるものであることなどから、移築元寺院を太宰府の観世音寺としました。この移築説は九州王朝説とも対応しており、古田学派内では最有力説として注目されましたが、学界は米田説に対して沈黙したままです。(つづく)

(注)
①李進煕「飛鳥寺と法隆寺の発掘」『日本のなかの朝鮮文化』44号、朝鮮文化社、1979年。
②米田良三『法隆寺は移築された 大宰府から斑鳩へ』新泉社、1991年。