2023年06月一覧

第3033話 2023/06/06

律令制都城論と藤原京の成立(2)

新庄宗昭さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注①)。新庄説と通説との最大の違いは、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期とすることです。通説では天武期とします。最大で約30年もの差異がありますが、わたしは通説を支持しています。この問題については後述することにして、新庄説とわたしの説の一致点に興味を覚えました。両者には次のような一致点があります。

【新庄説と古賀説の一致点】
(1) 前期難波宮(難波京)を九州王朝(新庄さんは「上位権力X」「鼠」「倭」と表現)による652年創建の王宮・王都とする。(注②)
(2) 藤原京条坊(新庄さんは「先行条坊」「倭京条坊」と表現)創設当初の中枢遺構が長谷田土壇にあった可能性(喜田貞吉説)を指摘。(注③)
(3) 持統紀に見える「新益京」を、藤原宮(大宮土壇)創建により、同宮を周礼型の中心地となるように京域を拡大したことによる名称とする。(注④)
(4) 難波(難波津)には前期難波宮創建以前に既に九州王朝が進出していた。(注⑤)

以上の一致点は九州王朝説にとっていずれも重要なテーマであり、新庄説の登場はとても心強く思いました。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
④同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
⑤同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3032話 2023/06/05

「富岡鉄斎文書」三編の調査(3)

 ―長楽寺の石盤銘を拝観―

今朝は円山公園の南西にある長楽寺(注①)を妻と二人で訪問し、富岡鉄斎の文が彫られている石盤銘を拝観しました。石製の水盥側面に彫られた銘文を一字ずつ視認し、北山愚公さんのブログ「長楽寺の手洗い石盤について」(注②)で紹介された下記の銘文に誤りがないことを確認しました。なお、「楽」は旧字体の「樂」と確認できたので修正しました。

長樂 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長樂 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美(敬) 造 鐡(齋) 百(錬) 記

()で囲んだ末尾下段の3字(敬、齋、錬)は摩滅により判読しにくかったのですが、同寺ご住職にご協力いただき、文字の痕跡を確認できました。
久しぶりに訪れた祇園花見小路界隈は外国人観光客が目立ち、艶やかな振り袖姿のお嬢さんたちのほとんどは外国語を話していました。(つづく)

(注)
①長楽寺は最澄が延暦二四年(805年)に開基したと伝えられ、室町時代以降は時宗(遊行派)の寺院。山号は黄台山。円山公園の東南方に位置する。
「北山愚公のブログ」
http://hokusan-gukou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8a4b.html


第3031話 2023/06/04

律令制都城論と藤原京の成立(1)

 本年11月に開催される〝八王子セミナー2023〟にて(注①)、「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」という演題で発表予定でしたが(注②)、セミナー実行委員会の橘高修さん(東京古田会・副会長)より演題と発表要旨を変えて欲しいとの要請がありました。そこで、Skypeで2時間ほど面談し、その事情などをお聞かせ頂いたところ、同じセッションで発表される新庄宗昭さんの藤原京成立論に対応した内容とし、パネルディスカッションにて論議を深めて欲しいとのことでした。たしかに発表者が自説を述べ合うだけではなく、共通の論点で論議するという趣旨には大賛成で、今までのセミナーにはない面白い企画と思い、了承しました。
そこで、演題と要旨を次のように修正し、発表内容も企画意図にあわせることを約束しました。

《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―

《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。

 橘高さんの要請に応えるべく、新庄さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注③)。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」2980話(2023/04/06)〝八王子セミナー2023の演題と要旨(案)〟
③新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。


第3030話 2023/06/03

九州年号「大化」「大長」の原型論 (10)

 九州王朝の記憶が失われた後代において、各史料編纂者が考えた末に、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の大宝元年に接続した各種年号立てが発生したとする作業仮説の検証過程を本シリーズで解説しました。その検証の結果、大長は701年以後に実在した九州年号であり、本来の姿は「朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)」になるとしました。これであれば、『二中歴』の年号立て「朱鳥(686~694年)→大化(695~700年)→大宝元年(701年)」を維持しながら、大長(704~712年)の存在と整合することから、基本的に論証は完成したと考えました。
一旦こうした仮説が成立すると、それまで誤記誤伝として斥けられてきた次の九州年号記事の存在がむしろ実証的根拠となり、自説は九州年号研究での有力説とされるに至りました。

○「大長四年丁未(七〇七)」『運歩色葉集』「柿本人丸」
○「大長九年壬子(七一二)」『伊予三島縁起』

 この他にも愛媛県松山市の久米窪田Ⅱ遺跡から出土した「大長」木簡も実見調査しましたが、こちらは「大長」を年号と確認するまでには至りませんでした(注①)。
そして九州年号「大長(704~712年)」実在説は、九州王朝から大和朝廷への王朝交代研究に貢献することになります。直近では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による研究があり(注②)、注目されます。(おわり)

(注)
①古賀達也「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②正木裕「消された和銅五年(七一二)の『九州王朝討伐譚』」『古田史学会報』176号に掲載予定。


第3029話 2023/06/02

上岡龍太郎さんの思い出

 本日、上岡龍太郎さんの訃報に接しました。心より哀悼の意を捧げます。上岡さんは京都市ご出身のタレントで、トーク番組やバラエティーでのお笑いの芸は天才と評されていました。人気も実力も絶頂期の58歳で突然のように芸能界を引退され、以来、テレビやラジオ番組に出られることはなかったと聞いています。また、読書家でその博覧強記ぶりはよく知られていました。
そんな上岡さんに初めてお会いしたのは、信州諏訪湖畔にある昭和薬科大学諏訪校舎で、平成三年(1991)八月五日のことでした。古田先生の提唱により開催された「古代史討論シンポジウム 『邪馬台国』徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として―」(8月1日~6日、東方史学会主催)の実行委員会にわたしは「市民の古代研究会」事務局長として参画し、講演者として来場された上岡さんらと打ち合わせする任務についていました。上岡さんの印象はテレビで見るよりもスマートで端正なお顔立ちでした。また、言葉も態度も丁寧で、芸能人としての〝上岡龍太郎〟の印象とは全く異なっていました。
予定では上岡さんの持ち時間は1時間で、その後が皇學館大学の田中卓先生(1923~2018年)でした。確認のため、そのスケジュールを説明すると、上岡さんは「わたしは30分で結構です。その分、専門家の皆さんの発表時間に使って下さい。」とのこと。そして、その言葉通り、軽妙なトークで会場を盛り上げると、ぴったり30分で話を終えられたのです。しかも、時計も見ずにです。さすがはプロフェッショナル、見事な話芸を見せて頂き、感激したことを今でもはっきりと覚えています。その内容は『「邪馬台国」徹底論争』第3巻(新泉社、1993年)に収録されています。
その後も、上岡さんとは古田先生の講演会々場でときおりお会いしました。わたしが受付をやっていると、突然ふらっと現れて「カミオカです」と小声で挨拶されるのですが、どちらのカミオカさんだろうかと見るとあの上岡龍太郎さんでした。いつも物静かな感じで〝芸能人オーラ〟は全く見せない方でした。電話での会話は別にして、最後にお会いしたのは、平成十四年(2002)二月二一日、嵐山の料亭だったと記憶しています。そのときの写真を見てみますと、机を挟んで古田先生と熱心に対話されており、本に掲載するための対談風景のようですが、残念ながらその内容を思い出せません。なお、このときとは別に、『新・古代学』第1集(新泉社、1995年)に両者の対談録「上岡龍太郎が見た古代史」が掲載されています。
上岡さんは道義に篤い方でしたし、古田先生のことを敬愛しておられ、「古田先生には学恩ではなく芸恩を感じている」と仰っていました。きっと今頃は冥界で先生と対話を楽しまれていることでしょう。心よりご冥福をお祈りします。


第3028話 2023/06/01

『東京古田会ニュース』No.210の紹介

 『東京古田会ニュース』210号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の考古学」を掲載していただきました。拙稿は福島城跡(旧・市浦村)の創建年次などについて論じたものです。東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城(旧・市浦村)は東京大学による調査(注①)により、14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました(注②)。ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。この事実は東日流外三郡誌偽作説を否定するものとなりました。
当号には注目すべき論稿がありました。橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)による「古代史エッセー73 マクロ的に見た史観の推移」です。【皇国史観】【津田史学の登場】【皇国史観に対する津田の立場】【古田武彦の津田史学批判】【津田説から古田説へ】という小見出しからもわかるように、戦前から戦後、そして現在に至る日本古代史学の思潮を概説した好論です。特に津田史学の解説は興味深く拝読しました。
津田史学の特筆すべき業績に、皇国史観による『日本書紀』の解釈を否定したことがあります。戦前戦中は非難の対象となった津田史学でしたが、戦後は一転して評価されます。しかし、神話などを学問(史料批判)の対象から除外するという、行き過ぎた古代史学や戦後教育を生み出す一因にもなりました。こうした津田史学の影響を学問的に乗り越えたのが古田史学であり、フィロロギー(注④)という学問でした。
古田史学の歴史的意義を論じた橘高稿を読み、古田先生亡き後、改めて先生の学問やその方法、歴史的位置づけを確認することが、今日の古田学派にとって重要ではないかと考えさせられました。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古田武彦「アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。初出は『古代に真実を求めて』第二集、1998年。
古賀達也「洛中洛外日記」1370話(2017/04/15)〝フィロロギーと古田史学〟
茂山憲史「『実証』と『論証』について」『古代に真実を求めて』22集、2019年。初出は『古田史学会報』147号、2018年。