夷狄一覧

第3610話 2026/03/19

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (10)

 ―孔子は倭人を知っていた―

 数ある孔子の弟子で、最も多く『論語』に登場するのが子路(名は由)です。『論語』には孔子と弟子との対話が記されており、中でも有名な一節が「公冶長第五」に見える次の記事です。(注①)

○『論語』公冶長第五
〔原文〕子曰、道不行、乘桴浮于海。從我者其由與。子路聞之喜。子曰、由也好勇過我。無所取材。
〔釋文〕子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由かと。子路これを聞きて喜ぶ。子曰く、由や勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無しと。
〔現代語訳〕先生が言われた。「(今の中華では)道が行われない。筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう(海の向こうの国に行こうか)。私についてくる者は、由であろうか。」子路がそれを聞いて喜んだ。先生は言われた。「由は、武勇を好むことは私以上だ。しかし、筏の材料を得る才能はないな。」

 孔子と血気盛んな子路との師弟間の対話には、孔子の意味深長な二つの認識が示されています。一つは、中原の諸国に仁義を説いてきた孔子をして、「道行われず」と嘆く中華の状況。二つは、「桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん」とあるように、海中の国にはその仁義が行われており、筏に乗って行ってみたいものだという認識です。

 この孔子の言葉を深読みすれば、道が行われているのは海の向こうの国だけで、西や南北の国では中華同様に仁義が行われていないと孔子は考えていたのです。そうでなければ、わざわざ筏で海を渡ろうとは言わないはずです。大陸国家の中国ですから、海路よりも陸路の方がはるかに安全で、孔子も陸路の旅行には慣れています。しかしそこにも中華同様に仁義は行われていないので、孔子は筏で海を渡ろうかと子路に語りかけているのです。

 それでは海の向こうの国とはどこでしょうか。それは『論語』子罕第九の次の記事から推定できます。東方の海中にある「九夷」の国です。

○『論語』子罕第九
〔原文〕子欲居九夷、或曰、陋。如之何。子曰、君子居之、何陋之有。〔現代語訳〕孔子は九夷の中で暮らしたいと願った。ある人が「それは野蛮だ。どうしてそんなことができるのか」と尋ねた。孔子は「もし徳のある人(君子)がそこに住むなら、どうして野蛮だと言えるだろうか」と言った。

 ここで孔子は「九夷」に住みたいとまで言っているのです。そしてこの「九夷」とは『爾雅』釋地第九に記された東方の「九夷」、すなわち東夷の国です。

○『爾雅』釋地第九(注②)
〔原文〕九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。
〔釋文〕九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。

 ここには、「東は日が出るところを大平と為し、(中略)大平の人は仁」とあり、東の日出ずるところの「大平」は、儒教の最高の徳目を表す「仁」の人の国とされています。これこそ、孔子が筏で行きたいと願った仁義の国であり、東の海の向こうにある東夷であることを如実に表しているのです。そしてこの東夷の国こそ、『山海経』に記された「蓋國」(朝鮮半島の国)の南にある「倭」に他なりません。

○『山海経』海内北経(注③)
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

 このように『論語』公冶長の孔子の言葉を、『論語』の他の記事や周代史料に基づいて理解すれば、古田先生が「孔子は倭人を知っていた」としたのは、優れた論証の結果であることが明らかなのです。本シリーズ冒頭で國枝稿の論証には賛成できないとした、わたしの見込みは間違ってはいなかったようです。

 最後に國枝浩さんに感謝したいと思います。この度、國枝稿(注④)に触発されて、20年ほど前に古田先生から託されていた周代史料の研究を再開することができました(注⑤)。ありがとうございます。(おわり)

(注)
①原文と釋文は明治書院新釈漢文大系『論語』(1960年)による。現代語訳は古賀による。
②原文は維基文庫(WEB)による。釋文は古賀による。『爾雅』は中国最古の類語・語釈辞典。
③原文は中国哲学書電子化計画(WEB)による。釋文は古賀による。『山海経』は中国最古の地理書。
④國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
⑤『論語』は二倍年暦で書かれているとする論文をわたしが発表したとき、『論語』年齢記事用語の悉皆調査と論証を行い、一冊の本にするようにと古田氏はいわれた。たとえば、平成22年(2010)「八王子セミナー」で次の発言があった。
「二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。」(古田武彦『古田武彦が語る多元史観』ミネルヴァ書房、2014年。66~67頁)

 当時のわたしには氏の期待に応えられるだけの能力はなく、その課題に取り組める環境にもなかった。

2026年4月11日 古田史学・リモート研究会

孔子は倭人を知っていた

— 周代四夷の史料批判 古賀達也

 


第3609話 2026/03/17

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (9)

 ―周代春秋期、『論語』の史料批判―

 周代戦国期の史料『孟子』『繋年』『爾雅』『山海経』の記事を前提として、春秋期成立の『論語』に見える「夷蛮戎狄」記事を考察します。人名に使われた字を除くと、『論語』には次の「夷蛮戎狄」の用例があります(注①)。

❶「八佾 第三」
〔原文〕子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。
〔現代語訳〕夷狄であっても君主がいるのであれば、諸夏(中国)に君主がいないよりはましだ。

❷「子罕 第九」
〔原文〕子欲居九夷、或曰、陋。如之何。子曰、君子居之、何陋之有。
〔現代語訳〕孔子は九夷の中で暮らしたいと願った。ある人が「それは野蛮だ。どうしてそんなことができるのか」と尋ねた。孔子は「もし徳のある人(君子)がそこに住むなら、どうして野蛮だと言えるだろうか」と言った。

❸「子路 第十三」
〔原文〕樊遲問仁。子曰、居處恭、執事敬、與人忠、雖之夷狄、不可棄也。
〔現代語訳〕樊遲(はんち)は仁について問うた。孔子は「礼儀正しく振る舞い、職務に励み、忠誠を尽くせ。夷狄に行っても、これらの徳を捨ててはならない」と言った。

❹「子路 第十三」
〔原文〕子曰、善人教民七年、亦可以即戎矣。
〔現代語訳〕孔子は言った。もし善人が七年間民を教えれば、民を戦争へ赴かせることができる。

❺「衛靈公 第十五」
〔原文〕子張問行。子曰、言忠信、行篤敬、雖蠻貊之邦行矣。言不忠信、行不篤敬、雖州里行乎哉。立則見其參於前也。在輿則見其倚於衡也。夫然後行。子張書諸紳。
〔現代語訳〕子張は行いについて問うた。孔子は言った。「言葉が誠実で信頼でき、行いが真摯で敬意に満ちていれば、蠻貊の邦でも行うことができる。言葉が誠実で信頼できず、行いが真摯で敬意に満ちていなければ、自分の故郷でさえ行うことはできない。立っていれば、自分の前に見え、馬車に乗っているときは、体が横木に寄りかかって見える。そうして初めて行うことができる。」子張はこれを帯に書き留めた。

 以上の通りですが、ここで注目されるのが❷「子罕 第九」の「九夷」です。『爾雅』「釋地第九」にあった「九夷」(注②)の先例が『論語』にあったのです。ですから、この「九夷」は東夷の国です。すなわち、孔子の時代の周代春秋期でも、「夷蛮戎狄」と方角「東西南北」とを結びつけて認識されていたと考えざるを得ません。ただし、その組み合わせが東夷・南蛮・西戎・北狄に固定化する時期については、少し遅れるとは思いますが未詳です。(つづく)

(注)
①『論語』原文は明治書院新釈漢文大系『論語』(1960年)による。現代語訳は古賀による。
②『爾雅』「釋地第九」によれば、「四海」の「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」が東夷・北狄・西戎・南蛮に相当する。


第3608話 2026/03/16

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (8)

 ―周代戦国期の史料批判―

 本シリーズの冒頭(注①)で、國枝稿(注②)について次のように指摘し、自ら周代史料の再検討を行いました。

(ⅰ)前漢代に成立した『史記』などに、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつける記事があるという史料事実は、前漢代の認識を示す史料根拠には使えても、〝周代にそうした認識はなかった〟とする根拠にはできない。
(ⅱ)孔子の認識を確認するためには、『論語』だけではなく、孔子と同時代(春秋期)か、せめてその直後(戦国期)の史料に基づくことが必要である。

 そして、『孟子』の「東夷」「西夷」、精華簡『繋年』の「西戎」、『爾雅』の「九夷」、『山海経』の「倭」などを紹介してきました。ここで一旦立ち止まり、これら周代戦国期の史料が示す夷蛮戎狄とその方角について考察してみます。

❶『孟子』「離婁篇第四上」
〔原文〕孟子曰。舜生於諸馮。遷於負夏。卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周。卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也。千有餘里。世之相後也。千有餘歳。得志行乎中國。若合符節。先聖後聖其揆一也。」
〔釋文〕孟子曰わく、舜は諸馮(しょひょう)に生まれ、負夏(ふか)に遷(うつ)りて、鳴條(めいじょう)に卒(おわ)る、東の夷(えびす)の人なり。文王は岐周に生まれ、畢郢(ひつえい)に卒る。西の夷の人なり。地の相い去ることは千有餘里、世の相い後(おく)るるは千有餘歳なるも、志を得て中国に行えることは、符節(わりふ)を合わすがごとし。先聖も後聖も、その揆(みち)は一つなり。

 大意は、東夷の舜(先聖。夏王朝建国期の帝)と西夷の文王(後聖。殷を滅ぼし周王朝を建国した武王の父)は、生きた時代も住んだ地も離れているが、二人の行いは全く一致している、というもの。ここでは東夷も西夷も聖人の地として使用されています。すなわち、孟子は中華の東西の端を「夷」と呼んでいたことがわかります。

❷精華簡『繋年』第二章
〔原文〕周幽王取妻于西申、生平王、王或(又)取褒人之女、是褒姒、生伯盤。褒姒嬖于王、王與伯盤逐平王、平王走西申。幽王起師、回(圍)平王于西申、申人弗畀、曾人乃降西戎、以攻幽王、幽王及伯盤乃滅、周乃亡。
〔釋文〕周の幽王、妻を西申より取り、平王を生む。王或いは褒人の女を取り、是れ褒姒にして、伯盤を生む。褒姒、王に嬖せられ、王と伯盤と平王を逐(お)い、平王西申に走る。幽王師を起し、平王を西申に回(かこ)み、申人弗畀(おそ)れず、曾人乃ち西戎に降りて、以て幽王を攻め、幽王と伯盤と乃ち滅び、周乃ち亡ぶ。

 紀元前四世紀(炭素年代測定による)、周代戦国期の同時代史料(竹簡)に「西戎」の用例が見え、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)の結びつけが周代戦国期に行われていたことがわかります。

❸『爾雅』「釋地第九」
〔原文〕東至靯泰遠、西至於邠國、南至於濮鈆、北至於祝栗、謂之四極。觚竹、北戸、西王母、日下,謂之四荒。九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。——四極。
〔釋文〕東は靯泰遠に至り、西は邠国に至り、南は濮鈆に至り、北は祝栗に至る、これを四極という。觚竹、北戸、西王母、日下、これを四荒という。九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。——四極。

 これは東西南北方向にある四極・四荒・四海を論じた記事。その四海の冒頭に「九夷」とあり、「八狄」「七戎」「六蛮」と続き、これを「四海と謂う」とあります。四海とは四方向(東西南北)にある「海」のことですから、「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」とは東夷・北狄・西戎・南蛮に相当します。『爾雅』成立時には、方位と夷狄戎蠻を結びつけて表記していたことがわかります。

❹『山海経』「海内北経」
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

❺『山海経』「海内東経」
〔原文〕鉅燕在東北陬。
〔釋文〕鉅燕は東北の陬(隅)に在る。

 ❹は蓋國の位置を示したもの。鉅燕とは❺の通り、中華(海内)の中の東北の隅にある大国燕(えん)のことです。その南にある蓋國は朝鮮半島の国と思われ、その蓋國は倭の北にあると記されています。従って、倭は朝鮮半島の南岸、あるいは朝鮮半島南岸と日本列島を含む領域と思われます。「倭は燕(えん)に屬す」とありますから、倭は周の天子の下の燕国に政治的に属していたことになります。すなわち、燕を介して周と倭の国交があったことをも示唆しています。

 以上の考察から、國枝稿の下記の指摘のうち、(c)は成立しないことが明らかになったように思います。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説(注③)は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 少なくとも周代戦国期には、「東夷」の国として倭は周と交流していたことを周代戦国期史料は示しています。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3590話(2026/02/08)〝國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (1) ―孔子は東夷(倭国)を知っていたか―〟。
②國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
③古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。


第3607話 2026/03/14

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (7)

 ―周代史料、『山海経』の「倭」―

 精華簡『繋年』の「西戎」、『爾雅』の「九夷」に次いで『山海経』(注①)の「倭」記事を紹介します。中国最古の地理書『山海経』も周代戦国期の成立で、前漢期に増補したとされています。おそらく中国史料で最も初期の「倭」の記事と思われます。

○『山海経』「海内北経」
〔原文〕蓋國在鉅燕南、倭北。倭屬燕。
〔釋文〕蓋國は鉅燕(きょえん)の南、倭の北に在る。倭は燕に屬す。

 これは蓋國の位置を示したもので、蓋國は鉅燕の南、倭の北にあると記されています。鉅燕とは中華(海内)の中の東北の隅にある大国燕(えん)のことで、「鉅」とは「巨」を意味します。その南にある蓋國は朝鮮半島の国と思われ、その蓋國は倭の北にあると記されています。従って、これを素直に理解すると、この倭は朝鮮半島の南岸にあったことになります。あるいは朝鮮半島南岸と日本列島を含む領域の可能性があります。

 なお、鉅燕の位置は同じ『山海経』の「海内東経」に次のように記されており、中華(海内)の東北の隅(陬)、すなわち、北京付近から朝鮮半島の北側に至る大国と思われます。従って『山海経』の地理認識は比較的〝正確〟ではないでしょうか。

○『山海経』「海内東経」
〔原文〕鉅燕在東北陬。
〔釋文〕鉅燕は東北の陬(隅)に在る。

 そして、「倭は燕(えん)に屬す」とありますから、当時の倭は燕国に政治的に属していたことになります。このことについて、古田先生は次のように論じています。

 〝今、わたしに注目されるのは、「倭は燕に屬す」の一句です。「属す」とは、何を意味する言葉でしょう。“地理的に属している”というのでは、意味をなしません。やはり、それは“政治的に属している”ことです。いいかえれば“その倭人は燕へ貢献物を持参していた”ということです。「貢献物」こそ、“政治的に属す”ことの“物理的証拠品”なのですから。

 とすると、“倭人は燕に貢献物をもっていった”ことになるわけですが、「燕」は決して終着点ではありません。“周の天子のもとの燕王”なわけですから、「夷蛮」が燕王に貢献物を持参する、ということは、実は“燕王を通じて周の天子に貢献する”ことなのです。とすると、ここにも――この戦国期の周の書物にも――「倭人の周王朝貢献」の事実が裏付けられていたことになるわけです。〟『邪馬一国への道標』「(一)縄文人が周王朝に貢献した 山海経の秘密」(注②)

 わたしは三十代の若き日に、この古田先生の論証に触れ、文献史学の可能性と奥深さを知ったのでした。(つづく)

(注)
①原文は中国哲学書電子化計画(WEB)による。釋文は古賀による。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。

 


第3605話 2026/03/13

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (6)

 ―周代史料、『爾雅』の「九夷」―

 精華簡『繋年』の「西戎」に次いで、東方の「九夷」記事を持つ周代戦国期成立とされる『爾雅(じが)』を紹介します。『爾雅』釋地第九(注)の末尾に次の記事があります。

〔原文〕東至靯泰遠、西至於邠國、南至於濮鈆、北至於祝栗、謂之四極。觚竹、北戸、西王母、日下,謂之四荒。九夷、八狄、七戎、六蠻、謂之四海。岠齊州以南、戴日爲丹穴、北戴斗極爲空桐、東至日所出爲大平、西至日所入爲大蒙。大平之人仁、丹穴之人智、大蒙之人信、空桐之人武。——四極。
〔釋文〕東は靯泰遠に至り、西は邠国に至り、南は濮鈆に至り、北は祝栗に至る、これを四極という。觚竹、北戸、西王母、日下、これを四荒という。九夷、八狄、七戎、六蛮、これを四海という。岠斉州の南、日を戴くところを丹穴と為し、北は斗極を戴くところを空桐と為し、東は日が出るところを大平と為し、西は日が入るところを大蒙と為す。大平の人は仁、丹穴の人は智、大蒙の人は信、空桐の人は武。——四極。

 これは東西南北方向にある四極・四荒・四海を論じた記事です。その四海の冒頭に「九夷」とあり、「八狄」「七戎」「六蛮」と続き、これを「四海と謂う」とあります。四海とは四方向(東西南北)にある「海」のことと理解できますから、「九夷」「八狄」「七戎」「六蛮」とは東夷・北狄・西戎・南蛮に相当すると思われます。従って、『爾雅』成立時には、方位と夷狄戎蠻をセットにして表記するという認識が成立していたと想定できます。(つづく)

(注)原文は維基文庫(WEB)による。釋文は古賀による。『爾雅』は中国最古の類語・語釈辞典。


第3604話 2026/03/12

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (5)

 ―周代史料、精華簡『繋年』の「西戎」

 國枝浩さんの「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」(注①)には次の指摘がなされています。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 わたしは(c)の指摘には同意できません。その理由として、周代史料に方位付き夷蛮戎狄の例があるからです。そこでまず最初に、成立年代が炭素同位体比年代測定により紀元前305±30年(戦国期後半)と証明されている竹簡、精華簡『繋年』第二章(注②)の次の記事を紹介します。

〔原文〕周幽王取妻于西申、生平王、王或(又)取褒人之女、是褒姒、生伯盤。褒姒嬖于王、王與伯盤逐平王、平王走西申。幽王起師、回(圍)平王于西申、申人弗畀、曾人乃降西戎、以攻幽王、幽王及伯盤乃滅、周乃亡。
〔釋文〕周の幽王、妻を西申より取り、平王を生む。王或いは褒人の女を取り、是れ褒姒にして、伯盤を生む。褒姒、王に嬖せられ、王と伯盤と平王を逐(お)い、平王西申に走る。幽王師を起し、平王を西申に回(かこ)み、申人弗畀(おそ)れず、曾人乃ち西戎に降りて、以て幽王を攻め、幽王と伯盤と乃ち滅び、周乃ち亡ぶ。

 紀元前四世紀、周代戦国期の同時代史料(竹簡)に「西戎」の用例が見えますから、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)の結びつけが周代戦国期には為されていたことを疑えません。

 なお、精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、2388点の竹簡からなる膨大な史料です。このうち、138件からなる編年体の史書が『繋年』と名付けられ、2011年に発表されました。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全二三章のうち第一章から第四章までに西周の歴史が記されています。竹簡が同時代史料として有力であることは、拙稿「周代の史料批判」(注③)でも論じました。(つづく)

(注)
①國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
②原文は維基文庫(WEB)による。釋文は小寺敦氏の「精華簡『繋年』訳注・解題」(『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年)に従った。
③古賀達也「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。

〖写真説明〗精華簡『算表』


第3594話 2026/02/17

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (4)

 ―『孟子』の東夷と西夷―

 『春秋左氏伝』の精読と併行して、より孔子の時代と成立が近い『孟子』を久しぶりに読んでいます。儒教の経典で、わたしが『論語』に次いで好きなのが『孟子』です。孟子(孟軻、前372~前290)は周代戦国期の人物で、孔子(前552~前479)の孫弟子くらいに当たります(注①)。その孟子の言葉や著述に基づいて、孟子没後(周代戦国期)に編纂されたものとされ、孔子の時代に近い人々の用語や認識を探ることができます。

 ちなみに、わたしが『論語』『孟子』を好きな理由ですが、その内容はもとより、わたしの名前「達也」の出典が『論語』顔淵第十二(注②)にあることを古田先生の著作(注③)で知ったこと、青年の頃『孟子』離婁篇にある「誠は天の道なり、誠は人の道なり。至誠にして動かされざる者は、未だこれ有らざるなり。」という言葉に惹かれたことによります。

 また、これも余談ですが、中小路俊逸先生(追手門学院大学文学部教授・故人)から、書名の『孟子』と人名の孟子を区別するため、『孟子』(もうじ)・孟子(もうし)と読み分けることを教えていただきました。学会や講義ではこのように読み分けるが、これは聞く人が勘違いしないようにするためとのことでした。古代史学において、わたしは二人の善き師に恵まれました。

 『春秋左氏伝』を読んでいて、「蠻夷戎狄」のうち、虫偏や獣偏の字が使用されている「蠻狄」、武器や軍事の意味を持つ「戎」とは異なり、「夷」はそれほど差別的な文字として使用されているようにも思えませんでした。しかし、その理由がわかりませんでした。ところが『孟子』に次の記事があることに気づきました。

 「孟子曰。舜生於諸馮。遷於負夏。卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周。卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也。千有餘里。世之相後也。千有餘歳。得志行乎中國。若合符節。先聖後聖其揆一也。」『孟子 上』離婁篇第四上、40~41頁(注④)
〔訳文〕孟子曰わく、舜は諸馮(しょひょう)に生まれ、負夏(ふか)に遷(うつ)りて、鳴條(めいじょう)に卒(おわ)る、東の夷(えびす)の人なり。文王は岐周に生まれ、畢郢(ひつえい)に卒る。西の夷の人なり。地の相い去ることは千有餘里、世の相い後(おく)るるは千有餘歳なるも、志を得て中国に行えることは、符節(わりふ)を合わすがごとし。先聖も後聖も、その揆(みち)は一つなり。

 大意は、東夷の舜(先聖。夏王朝建国期の帝)と西夷の文王(後聖。殷を滅ぼし周王朝を建国した武王の父)は、生きた時代も住んだ地も離れているが、二人の行いは全く一致している、というものです。ここでは東夷も西夷も聖人の地として使用されており、聖地の表現とは言えないまでも、それほど差別的な卑字として「夷」が使用されているようには見えません。むしろ、『春秋左氏伝』にある〝夷の禮〟の由来となった故事と理解すべきではないでしょうか。

 「廿七年、春、杞桓公來朝。用夷禮。」『春秋左氏伝 一』399頁(注⑤)
〔訳文〕廿七年、春、杞の桓公來朝す。夷の禮を用ふ。

 したがって、東夷という用語の背景にはこうした故事があり、それを前提として孟子や孔子の言葉を理解する必要があります。なお、『孟子』離婁篇第四上に見える「千有餘里」は、周代の短里(一里約76メートル)ですから、東夷と西夷は中原の東と西の領域と解すべきであり、両地域はそれほど離れてはいないことになります。(つづく)

(注)
①ここでの孔子と孟子の生没年は通説による。周代史料には二倍年暦(1年(1才)を2年(2才)と数える暦法・年齢)が採用されているため、暦年補正が必要であり、実際の生没年は通説より数百年ほど新しくなる。次の拙論を参照されたい。

「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第七集、新泉社、2004年。
「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」『新・古代学』第八集、新泉社、2005年。
「A study on the long lives described in the classics」『Phoenix』No.1、国際人間観察学会、2007年。
「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2018年。
「二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―」『東京古田会ニュース』195号、2020年。
「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』170号、2022年。
『二倍年暦』研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命―」『古田史学会報』172号、2022年。
「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。
②『論語』顔淵篇に「夫達也者。質直而好義。察言而観色。慮以下人。」〔『達』とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり〕とある。
③古田武彦『邪馬一国への道標』(講談社、1978年)で『論語』顔淵篇を紹介し、『三国志』の著者陳寿を「質直にして義を好む」人物として次のように紹介した。
「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の“言葉”や表面の“現象”(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている」
この解説を読み、「達也」の出典が『論語』であることを知った。以来、わたしは名に恥じぬよう、「質直」を人生の指針とした。陳寿のような立派な人物になれそうもないが、古田氏や陳寿を尊敬することはできる。『邪馬一国への道標』は生涯忘れ得ぬ一冊となった。
④中国古典選『孟子 上・下』金谷治、古川孝次郎監修、朝日新聞社、1978年。
⑤新釈漢文体系『春秋左氏伝 一~四』明治書院、1971年。

〖写真説明〗孟子画、中小路俊逸先生、『孟子』岩波文庫。


第3592話 2026/02/12

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (3)

 『春秋左氏伝』の「東海」「東夷」

 國枝浩さんは「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」(注①)で、次のように論じています。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説(注②)は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 このうちの(a)については妥当な見解と思われますが、この『論語』の史料状況だけを根拠に、(b)~(d)が仮説としてただちに成立しうるとも思えません。そこで『論語』以外の周代史料を調べてみることにしました。幸い、周代の二倍年歴を研究したときに購入した『新釈漢文体系 春秋左氏伝』全四冊(注③)が書架にありましたので、あらためて精読しました。

 『春秋左氏伝』は孔子が制作した『春秋』を、孔子没後に左丘明が編纂した解釈書とされ、周代戦国期中葉の成立とする説が有力のようです(注④)。広く見ても、孔子の時代(周代春秋期)と秦代の間に成立したと考えて大過ないと思います。すなわち、司馬遷の『史記』よりも早い時代の成立です。
まず、『春秋左氏伝』では中国の周辺(東西南北)が、どのように認識されているかを調べてみました。その結果、次の記事が目にとまりました。

❶「卅一年、夏、齊候來獻戎捷、非禮也。凡諸侯有四夷之功、則獻于王。王以警于夷。」『春秋左氏伝 一』新釈漢文体系(以下同じ)、232頁
〔訳文〕齊候來たりて戎の捷を獻ずるは、禮に非(あら)ざるなり。凡そ諸侯、四夷の功有れば、則ち王に獻ず。王以て夷を警(いまし)む。
❷「賜我先君履、東至于海、西至于河、南至于穆陵、北至于無棣。」『春秋左氏伝 一』265~266頁
〔訳文〕我が先君に履(り)を賜ひ、東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣(むてい)に至る。
〔語釈〕穆陵:山東省臨胊県の南方の大峴山の上にある穆陵関。一説に楚地という。無棣:河北省無棣県。
❸「若出於東方、觀兵於東夷、循海而帰、其可也。」『春秋左氏伝 一』268頁
〔訳文〕若し東方に出(い)で、兵を東夷に觀(しめ)し、海に循ひて帰らば、其れ可ならん。
❹「六人叛楚卽東夷。」『春秋左氏伝 二』479頁
〔訳文〕六人、楚に叛(そむ)き東夷に卽(つ)く。
❺「秋、楚公子朱自東夷伐陳。」『春秋左氏伝 二』506頁
〔訳文〕秋、楚の公子朱、東夷より陳を伐(う)つ。
〔語釈〕東夷:もと陳の邑。後に楚の領地となる。陳・楚の東にあったので東夷と称したものという。
❻「蠻夷戎狄、不式王命。」『春秋左氏伝 二』701頁
〔訳文〕蠻夷戎狄、王命を式(もち)いず。

 これらの記事から次のことが判断できそうです。

(Ⅰ)❶の「四夷」という表現から、東西南北に「夷」と呼べる勢力があった。
(Ⅱ)❸❹❺に「東夷」という表記が見え、「夷」の中でも「東夷」が著名だったように思われる。ただし、その「東夷」は中国大陸内の「夷」であり、日本列島(倭国)を「東夷」とした明確な用例は『春秋左氏伝』には見えない。
(Ⅲ)中原から見て、四方の表記として❻「蠻夷戎狄」があるようだが、それぞれが南蛮・東夷・西戎・北狄と方角が限定されているようには見えない。
(Ⅳ)同じく、中原から見て、四方の領域名・地名として❷「東至于海、西至于河、南至于穆陵、北至于無棣。」が注目される。特に中国大陸の東側が「海」であると認識されていたことがわかる。
(Ⅴ)❸「若出於東方、觀兵於東夷、循海而帰、其可也。」とあり、「東方」の「東夷」への「觀兵」においては、「循海而帰」と海沿いに帰ることができるとしており、中国大陸の東が海であると認識していることを疑えない。

 今回、あらためて『春秋左氏伝』を読んでいて、「蠻夷戎狄」のうち、虫偏や獣偏の字が使用されている「蠻狄」、武器や軍事の意味を持つ「戎」とは異なり、「夷」は人名や動詞にも使用されており、それほど差別的な文字として認識されているようにも思えません。その為か、次のような記事もあります。

❼「廿七年、春、杞桓公來朝。用夷禮。」『春秋左氏伝 一』399頁
〔訳文〕廿七年、春、杞の桓公來朝す。夷の禮を用ふ。

 この記事によれば、「夷」には「禮」があったとされています。もちろん中華の「禮」とは異なっており、恐らくより低位の「禮」とされていたこととは思います。ここでは「東夷」とは書かれていませんから、中原内かその近辺の「夷」と思われますが、「蠻戎狄」と「夷」とでは漢字の用例や、記事中の扱いが明らかに異なるように感じました。(つづく)

(注)
①國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。
③新釈漢文体系『春秋左氏伝 一~四』明治書院、1971年。
④鎌田正「春秋左氏伝解題」『春秋左氏伝 一』明治書院、1971年。


第3591話 2026/02/10

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (2)

 ―古田説誕生の発端、「中国海」―

 九州の片田舎の中学を卒業し、高専で有機合成化学を専攻したわたしは、恥ずかしいくらい古典・漢文について無知でした。高校・大学で学ぶような文系の素養がほとんど無かったのです。その不勉強さに、古田先生は何度もあきれかえられていました。今、思い出しても赤面する出来事が何度もありました。ですから、わたしの中国古典の知識は古田先生の著作から学んだものであるため、その基本理解は七十歳の今でも、古田史学・古田説により形成されています。なかでも最も影響を受けた著作の一つが『邪馬一国への道標』(注)です。同書は〝です・ます調〟で書かれており、初学者や一般読者が古田先生の史料批判や文献理解の方法を学ぶ上で、珠玉の一冊です。その冒頭に、同書の中心テーマを表す言葉として、「中国海」という造語が説明されています。

「中国海  そのとき、わたしは考えました。〝中国大陸と朝鮮半島と日本列島(九州と沖縄)に囲まれた海〟――これも「内海」ではないか、と。〔中略〕
ところが、この「内海」には、包括的(トータル)な名前がありません。北の方が渤海(ぼっかい)、真ん中が黄海、南の方が東シナ海。しかし、全体の名前がないのです。
そこで〝造る〟ことにしました。――「中国海」です。〔中略〕とすると、中国、朝鮮半島、日本列島の三つは、〝中国海を内海とする〟文明圏だ。」

 このことを裏付ける考古学的出土物に「玦(けつ)状耳飾り」があります。縄文早期末(約7000年前)の日本列島や中国浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡(紀元前5000~3000年)などからも出土しており、日本列島から長江沿岸地域を結ぶ文明圏の存在を示しています。また、縄文中期(紀元前3000~2000年)には縄文土器が太平洋を渡った痕跡として、南米ペルーのバルディビア遺跡出土の縄文土器が知られています。太平洋を渡れた倭人(縄文人)が東シナ海を渡れないはずはありません。

 『邪馬一国への道標』では文献史学の史料根拠として、王充(後漢代、一世紀の人物)の『論衡(ろんこう)』に記された、〝倭人の周代貢献〟記事が紹介されています。

○周の時、天下太平、越裳、雉を獻じ、倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す。 (巻八、儒増篇)
○成王の時、越常、雉を獻じ、倭人暢草(ちょうそう)を貢ず。 (巻一九、恢国篇)

 王充は後漢の光武帝に仕えた官僚ですから、光武帝が倭人に金印(志賀島の金印)を与えたことを知っているはずです。ですから、『論衡』に記された「倭人」は、金印を与えられた日本列島の「倭人」であると認識していたことを疑えません。すなわち、後漢の天子や官僚たちが、周代における倭人の鬯艸貢献伝承を史実として、疑っていないのです。

 この周代(注②)の倭人貢献伝承が史実であれば、孔子もその伝承を知っていたはずとして、古田先生は〝孔子は東夷(倭国)を知っていた〟根拠の一つとしたわけです。この論理性(論証)により、古田説は仮説として成立しています。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。
②従来説によれば、周の第二代成王の年代を紀元前11世紀とする。わたしは二倍年歴による補正が必要であり、実際は数百年新しくなると次の拙稿で発表した。
「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2018年。
「二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―」『東京古田会ニュース』195号、2020年。
「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』170号、2022年。
『二倍年暦』研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命―」『古田史学会報』172号、2022年。
「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。


第3590話 2026/02/08

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (1)

 ―孔子は東夷(倭国)を知っていたか―

 衝撃的な論稿に接しました。國枝浩さんの「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」です。『東京古田会ニュース』226号(2026年)冒頭に掲載された同稿の主張は、二倍年歴研究において中国古典(周代史書など)から得た、わたしの認識とは全く異なるものだったからでした。

 國枝さんの主張の論点と史料根拠は次のようです。
(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説(注①)は『史記』(注②)に幻惑されたものであり成立しない。

 この國枝さんの主張は史料根拠や論理構造が明快であり、有力な仮説として成立していると思います。他方、論証の方法において不備があり、直ちに賛成できるものではありませんでした。それは次の理由からです。

(ⅰ)前漢代に成立した『史記』などに、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつける記事があるという史料事実は、前漢代の認識を示す史料根拠には使えても、〝周代にそうした認識はなかった〟とする根拠にはできない。
(ⅱ)孔子の認識を確認するためには、『論語』だけではなく、孔子と同時代(春秋期)か、せめてその直後(戦国期)の史料に基づくことが必要である。

 とは言え、國枝氏の論考は刺激的かつ有力です。そこで、わたし自身の認識を見直し、中国古典への理解を深めるためにも、周代史書と古田説の論理構造を再検討する必要を感じました。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。
②國枝氏は『史記』「五帝本紀第一」を挙げる。そこには次の記事が見える。
「都を中心とする五千里四方のはて、すなわち荒服の地にまでいたった。南は交阯・北発、西は戎・析枝・渠廋・氐羌、北は山戎・発・息慎、東は長・鳥夷を鎮撫し、四海のうちはみな帝舜の功業に浴した。」『史記』上、中国古典文学大系10、平凡社、1968年。


第2935話 2023/02/03

富雄丸山古墳出土「蛇行剣」の発祥地

 奈良新聞に掲載された富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡を見て、その形状と文様が平城京跡出土の「隼人の盾」(注①)に似ていることに気付きました。ともに「盾」と称されているのですから、形状が似ていることは当然ですが、盾形銅鏡の上下にある「鼉(だ)龍鏡」文様と「隼人の盾」の逆S字文様も似ています。
鼉龍鏡とは国産鏡の一種で、乳と呼ばれる突起の周りを想像上の動物「鼉龍」が巻き付いた文様のあるのが特徴です。盾形銅鏡には上下二つの鼉龍鏡文様がありますが、その「鼉龍」の巻き方向が上下で反対方向になっています。「隼人の盾」の逆S字の字体も、上と下とで文字のラインの巻き方向が異なります。   更にいえば、盾形銅鏡には鋸歯文があり、「隼人の盾」にも鋸歯文が上下にあります。このように、両者には形状と文様に共通の要素があります。もちろん、両者の年代(四世紀と八世紀)や材質(銅と木材)は異なり、偶然の類似という可能性も否定できません。
しかしながら、わたしは両者の関係は偶然ではないように思います。富雄丸山古墳からは蛇行剣も出土しているからです。この蛇行剣の出土は南九州が最も多く、当地で発祥したと考えられています。「ウィキペディア」では蛇行剣について次のように説明しています。

〝蛇行剣(だこうけん)は、古墳時代の日本の鉄剣の一つ(大きさによっては鉾と捉えられている)。文字通り剣身が蛇のように曲がりうねっている(蛇が進行しているさまの如く)形状をしているため、こう名づけられている。
〔概要〕
西日本を中心に出土している鉄剣で、その形状と出土数から実用武器ではなく、儀礼用の鉄剣と考えられている。古墳や地下式横穴墓群などから出土している。九州地方発祥の鉄剣と考えられているが、5世紀初頭には近畿圏にも広がりをみせている。(後略)〟

 以上のように、「隼人の盾」と蛇行剣の発祥の地(注②)が九州地方(南九州)であることから、富雄丸山古墳出土の盾形銅鏡と大型(2.37m)蛇行剣を九州王朝系勢力によるものとする視点での研究が必要ではないでしょうか。

(注)
①「ウィキペディア」には次の説明がある。
〝隼人の楯(はやとのたて)は、奈良県奈良市の平城宮跡より出土した、古代在京隼人が使用した8世紀前半頃の木製の盾。『延喜式』に見える「隼人楯」の記述と合致する特徴を備えた奈良時代の考古資料である。
〔概要〕
飛鳥・奈良時代、南九州の薩摩・大隅地域の人々は、当時の律令政府により擬製的な化外の民(夷狄)として扱われ、「隼人」と呼ばれた。(後略)〟
②主に宮崎県と大隅地方の古墳・地下式横穴墓から出土している。
「日本の歴史」(https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2017/11/%e8%9b%87%e8%a1%8c%e5%89%a3/)には、韓国での1例を除いては同時代の海外での出土例は報告されていないとあり、この見解に従った。