第1372話 2017/04/19

肥後と薩摩の共通地名

 久富直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』を更に一月延長してお借りし、読みふけっています。考古学の専門家を対象読者としているだけに難しい内容なのですが、現場の考古学者により書かれた最先端研究の論文集ですので、九州王朝説から見ても貴重な情報が満載という感じです。
 今回、注目した論稿は松崎大嗣さん(指宿市教育委員会社会教育課)の「西海道南部の土器生産」です。わたしは南九州の土器について全く知りませんので同論稿を興味深く読みました。そこに注目すべき記述がありました。それは土器ではなく地名についてです。
 『続日本紀』和銅6年(713)三月条に豊前国から二百戸が隼人の領域(薩摩・大隅)に移民させられた記事があり、その痕跡として豊前・豊後の地名が大隅国桑原郡にあることが紹介されています。更に肥後の地名も薩摩にあることから、大和朝廷の政策として肥後からも薩摩に移民させられたとする説を紹介されています。その共通地名とは、薩摩国高城郡の6郷の内、合志・飽田・宇土・託万の4郷で、これらが肥後国の郷名と一致しているとのことなのです。
 松崎さんはこの郷名の一致を大和朝廷による律令体制の強化策と見られているようですが、わたしは九州王朝時代に肥後から薩摩への郷名移動(命名)がなされた可能性も考えたほうがよいと思いました。もちろん両方の可能性があるので、断定はできませんが、肥後と薩摩については『続日本紀』に有名な記事があり、両地域の関係が九州王朝の時代から深かったと考えられます。それは次の記事です。

 「薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県、助督弖自美、また、肝衝難波、肥人等に従いて、兵を持ちて覓国使刑部真木を剽劫(おびやか)す。是に竺志惣領に勅して、犯に准(なず)らへて決罰せしめたまう。」『続日本紀』文武4年(700)6月条

 薩摩の比売を中心に九州王朝の地方官職名「都督・助督」を持つ衣評(鹿児島県頴娃郡)の長官と副官らが「肥人等」に従って、大和朝廷の使者を脅かしたという記事です。この九州王朝最末期の記事から、肥後と薩摩の結びつきは明らかです。しかも「肥人等」に従ったとありますから、上位者は薩摩比売ではなく「肥人」ということを示しています。ですから地名の「移動」も肥後から薩摩へと考えてよいかと思います。
 この地名「移動」が九州王朝の時代(700年以前)なのか、それよりも後の大和朝廷の時代なのか、にわかには結論は出せませんが、松崎さんの論稿により、こうした肥後と薩摩の共通地名の存在を知ることができました。
 「乞食と地名(研究)は三日やったら、やめられない」という言葉があることを古田先生からお聞きしたことがあります。それほどに地名研究は面白いものです。ただし、「歴史学としての地名研究」には資料や論証により地名成立の時間軸という視点をどのように明確にするのかという困難で重要な課題があります。こうした学問的手続きを欠いた「地名研究」は古田史学とは異質です。もちろん異質だからダメということではありません。

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