第3064話 2023/07/08

『隋書』俀国伝に記された

         都の位置情報 (6)

 『隋書』俀国伝に記された、大業四年(608年)の隋使の行程記事(注)の要点は次の通りです。()内は進行方角です。

百済→竹島→都斯麻国→(東)一支国→竹斯国→(東)秦王国→十餘國→海岸
※古田説では、具体的に国名が記された「百済→竹島→都斯麻国→(東)」を主線行路、国名が記されていない「→十餘國→海岸」を傍線行路とする。

 百済から一支国や秦王国へは進んだ方角は東とありますが、竹斯国や十餘國への方角が記されておらず、都が置かれている「邪靡堆」がどの方角にあるのか、この記事(位置情報)だけでは読者には不明です。そこで、わたしが注目したのが俀国伝冒頭に記された(1)と(3)の二つの位置情報です。「洛中洛外日記」3060話で指摘したことですが、読者は俀国伝を初めから読み始め、俀国に対する認識を構成するはずです。この視点はフィロロギーの基本的な学問の方法でもあります。従って、読者は行程記事の前にある、次の俀國とその都「邪靡堆」の記事(位置情報)を読んでいるはずです。

(1) 俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(3) 都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。

 (1)は俀国伝冒頭に記された俀国の位置情報で、読者が最初に目にする俀国に関する位置情報です。すなわち、俀国は百済や新羅の「東南」にある島国という印象的なフレーズであり、最初に得たこの認識(位置情報)で、読者は後に続く俀国伝の行程記事などの内容を判断するはずです。もちろん編纂者も、読者がそのように理解できるように(それ以外の理解をしないように)という前提で俀国伝を執筆したはずです。ときの天子に上程する正史であるからには、当然の配慮でしょう。

 この視点で先の行程記事を読むとき、百済からの進行方向を示す方角が一支国と秦王国の「東」しかないことに読者は気づき、方角が示されていない竹斯国と十餘國と海岸は「南」方向ではないかと考えるのではないでしょうか。もし、百済から「東」方向にしか行かないのであれば、百済や新羅の「東南」にあると冒頭に記された俀國とその都に行き着けないからです。

 大和朝廷一元史観では、「十餘國」と「海岸」を秦王国から更に東方向に進んだところの瀬戸内海諸国と摂津難波と解釈するしか、自説を維持できないのですが、これでは俀国伝冒頭に「俀國在百濟新羅東南」とある位置情報と行程記事の進行方角とが齟齬をきたします。「東南」方向にある島国と最初に書いてあるのですから、行程記事中の進行方角の記載がない竹斯国と十餘國と海岸は「南」方向と読者は理解するほかありません。そして、この理解を後押しする記事が、行程記事(5)の前に記された俀國の都「邪靡堆」の位置情報(3)なのです。(つづく)

(注)『隋書』俀國伝に記された、大業四年(608年)隋使の行程記事。
「上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。」

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