太宰府一覧

第2479話 2021/06/05

水城築造に要した労働力試算

    林 重徳

 「水城に関する土木建築・技術・構造論的考察」

 「洛中洛外日記」2476話(2021/05/31)〝土木工学から見た水城の建設技術〟で、林重徳さんの「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む」(注①)を紹介しました。その論文には「水城の築堤工事は基本的にわずか1年足らずの短期間で完了したものと考えられる。」とありましたが、同論文の主要テーマが水城の建設技術でしたので、築造に要した労働力などには触れられていませんでした。そこで、同じく林さんの論文「水城に関する土木建築・技術・構造論的考察」(注②)に記されている水城築造に要した労働力試算について紹介します。それは、水城築堤が一年で可能とする根拠にもなります。
 同論文冒頭に次の記述があり、試算の前提が示されています。

〝平成二十五年・平成二十六年度の断面開削調査によって築堤材料がほぼ特定されたことを受け、『日本書紀』の記述通り、約一年間で築造されたものとして、全体の土工量と作業人員が概算する。なお、土工量の変化率ならびに作業能率等は、大林組による『王陵 現代技術と古代技術による「仁徳天皇陵の建設」』を参考にした。〟307頁

 そして、土工作業可能日数の推定として、太宰府気象観測所の過去十年の観測データをもとに、日降雨量に関する次の土木作業基準によって土木作業可能日数を推定されました。

(1)日降雨量10mm以下の日:土木作業は可能
(2)日降雨量10mm以上~50mm未満の日:その日の土木作業は不可能
(3)日降雨量50mm以上~100mm未満の日:その日+一日の土木作業は不可能
(4)日降雨量100mm以上の日:その日+二日の土木作業は不可能

 この結果、太宰府地方においては、61.9日が降雨により土木作業が不可能となり、一年間に施工(土木)可能な日数を303日とされました。
 次に、堤体の復原標準断面形状から盛土量を次のように計算されました。下部堤体(下成土塁)延長1040m、上部堤体(上成土塁)延長1030mとして、堤体盛土量は24万8560立法㍍及び8万340立法㍍で、合計32万8900立法㍍。そして、堤体盛土量、濠掘削量と土取場掘削量および「土工」に関わる作業を一年間での施工とすると、約3200人/日になるとされました。
 従って、この動員が可能であれば水城の築堤は一年で行えることになります。なお、築堤以外に東西二ヶ所の門や塀の建設、関連施設と道路の造成も必要ですから、恐らく水城全体の造営は数年で完了したと思われます。そうであれば、『日本書紀』天智三年(664)条の水城築城記事(注③)により(他に水城築造年次に関する史料根拠はない)、白村江戦(663年)以前に水城築造は開始され、完成したのが天智三年(664)とするのが土木工学の考察と『日本書紀』の史料根拠に基づいた穏当な理解です。
 そして、この期間は唐軍の筑紫進駐以前(注④)ですから、九州王朝(倭国)は水城を完成させることができたのではないでしょうか(注⑤)。更に、筑紫に進駐した唐軍二千人の実態は大半が船団の水夫(百済人による送使)であり、筑紫を制圧できるような軍団規模ではないとする説(注⑥)も出されており、留意が必要です。

(注)
①林 重徳「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む ~特別史跡・水城を中心として~」『ジオシンセティックス論文集』第18巻、2003年12月。
②林 重徳「水城に関する土木建築・技術・構造論的考察」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編、平成三十年(2018)。当論文は平成二九年十月に没した著者の遺稿である。
③「筑紫国に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰う。」『日本書紀』天智三年(664)条
④『日本書紀』天智紀によれば唐の集団二千人が最初に来倭(筑紫)したのは天智八年(669)である。
⑤古賀達也「水城築造は白村江戦の前か後か」(『古田史学会報』149号、2018年12月)において、水城完成を白村江戦後の天智三年と考えても問題ないとした。
安随俊昌「『唐軍進駐』への素朴な疑問」(『古田史学会報』127号、2015年4月。『古田武彦は死なず』2016年、に収録)によれぱ、『日本書紀』天智十年(671)条に見える唐軍2,000人による倭国進駐記事について、この2,000人のうち1,400人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」とされた。すなわち、百済人1,400人は戦闘部隊ではないとされた。


第2477話 2021/06/01

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(6)

–内倉武久さんの太宰府・筑後「倭の五王」王都説

 古田先生が、考古学的エビデンス(五世紀の王宮遺構の出土)がない、「倭の五王」王都を大宰府政庁とする仮説に至った根拠や淵源について、本シリーズで検証してきました。そして、その根拠の一つと思われる「九州大学が古いと言って出しているもの」(坂田測定)について精査した結果、大宰府政庁「倭の五王」王都説のエビデンスとして採用できるような試料性格ではないことがわかりました。
 古田先生が『古田武彦の古代史百問百答』(注①)の次の記事に示された、もう一つの根拠、「内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。」についても検証します。

〝もう一つ紫宸殿というのでなくて、権力者の建物ということになると、内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。わたしは『邪馬壹国の論理』の最後に書きましたが、九州大学が古いと言って出しているものを、今の考古学会は知らない振りをしているわけです。そういう問題をクリアしなければならない。〟『古田武彦の古代史百問百答』「32 九州の紫宸殿について」ミネルヴァ書房版、212頁

 ここに示された弥生時代から連綿と続いた「建物の跡」とは、恐らく内倉さんが『太宰府は日本の首都だった』(注②)に書かれたものと思われますので、同書を改めて精査しました。同書には「倭の五王」や大宰府政庁跡について次の記述があり、内倉さんの見解をより深く理解することができました。

(1)(倭王)武は朝鮮半島からみて「海の南」にいたことになる。そう呼べる場所は、地理的に北部九州しかない。その中心は筑後川流域や太宰府だ。(157頁)
(2)太宰府に都していた「倭の五王」ら(163頁)
(3)結論からいえば、九州王朝・倭国の首都は、瀬高町や八女市、久留米市の高良大社付近、太宰府などを転々とした後、六世紀末から7世紀終わりまでは、再び太宰府に腰を据えたのかもしれない。(183頁)

 以上のように内倉さんは記されていることから、おおよそ次のように倭国王都の変遷を捉えておられるようです。

 4世紀(筑後瀬高)→5世紀(筑後川流域・筑前太宰府)→6世紀(筑後八女)→6世紀末~7世紀(筑前太宰府)

 この変遷案から、「倭の五王」の王都に関する記述を厳密にみると、(1)では「中心は筑後川流域や太宰府」と示唆され、(2)では「太宰府に都していた」とありますから、論旨に幅がありますが、同書全体の内容や文脈からは、「倭の五王」時代の王都は太宰府であり、巨視的には筑後川流域も含むという説のように読み取れます。これは晩年の古田説「表は太宰府、実際は久留米付近」(注③)という「倭の五王」王都二重構造説に近いものです。ただし、内倉さんは大宰府政庁(筑前)を主とされ、古田先生は「実際は久留米」(筑後)というように、重心が異なってはいます。
 なお、内倉さんは大宰府政庁の考古学的出土事実を次のようにも紹介されており、古田先生が根拠とされたような「内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。」という内容の記述は見当たりません。

〝太宰府の中心部、約六平方キロに及ぶ「大宰府政庁」遺跡には、「古墳時代の土層がない」という。〟『太宰府は日本の首都だった』6頁

 もちろんこれは「という」とあるように、「考古学者による通説」の紹介部分ですが、大宰府政庁整地層に通説では古墳時代とする「土層がない」という考古学的事実までを否定したものではありません。何よりも、大宰府政庁に弥生時代から7世紀まで〝連綿と続く建物〟の出土報告はありません。
 以上の精査結果から、「倭の五王」王都所在説の論点を整理すれば、大宰府政庁か筑後川領域かという問題ではなく、大宰府政庁跡(あるいはその近傍)に5世紀の倭国の王都にふさわしい王宮遺構や出土物があるのかということが最大の論点であることがわかります。晩年の古田説や内倉説にしても、筑後や筑後川流域も王都の対象としており、筑後説を否定しているわけではないからです。他方、わたしも支持する筑後川流域説にしても、同様に5世紀の王宮遺構の存在を明示できていません。
 本年11月の八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー、大学セミナーハウス)では、この点についての真摯な論争や質疑応答がなされることを期待しています。もちろん、その結論が〝現時点ではわからない〟であっても全くかまいません。わからないことはわからないとし、わからない理由を明示する。学問研究とはそのようなものですから。(おわり)

(注)
①古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(2015)。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
②内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
③古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁。


第2476話 2021/05/31

土木工学から見た水城の建設技術

 ―林 重徳「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む」―

 水城の創建年代などに関する小論(注①)を近年発表してきましたが、そのおりに土木工学や土木史の先行研究論文から多くのことを学びました。その中の1つ、林重徳さんの「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む」(注②)は刺激的でとても勉強になりましたので、紹介します。
 論文の目的と概要について、次のように説明されています。

〝ここではまず、”水城”築堤の目的と当時の情勢に基づいて、現代の土木工学と水利・水文学的視点から、水城の構造を検討するとともに、御笠川・欠堤部の復元について考察する。つぎに、建設技術・地盤工学の観点から過去の調査報告書等の内容を考察するとともに、最近の水城堤の断面調査および西門門柱基礎の調査結果等から、”水城”に 用いられている築堤上の工夫・建設技術について検討し、設計・施工を指揮監督した古代人の意図を推察する。続いて、水城の堤体から採取された不撹乱試料の土質試験結果などから、盛土の土質特性に及ぼす約千三百年の歳月による効果(年代効果)を 考察する。〟

 論文中、わたしが最初に注目したのは水城の築造期間について、『日本書紀』など文献を根拠に一年足らずの短期間で完了したとされていることです。

〝このような記録にみられる歴史背景と情勢から明らかなことは、”水城”の築堤は、何時敵の襲来があるかも知れないという非常な恐怖心と緊迫した状況の下で、施工されたものであり、失敗は許されず、1日でも早い完成が要求された工事であったと云うことができる。また、敗戦直後の当時の国力からも、水城の築堤工事と2つの山城の築 造を平行して施工したとは考え難いので、水城の築堤 工事は基本的 にわずか1年足らずの短期間で完了したものと考えられる。
 即ち、水城の築堤は、緊急の防衛施設工事であり、今日云うところの”急速施工”と”確実施工”が求められた大規模土工工事であったと言えよう。〟

 古田学派内では『日本書紀』を根拠に、唐軍が進駐している白村江戦後の筑紫で水城のような巨大防衛施設が造れるはずがないとする解釈が主流意見ですが、同じく『日本書紀』の記述を根拠にして、逆の解釈が成立していることがわかります。従って、水城の造営年代については、実物が現存していますから、その調査・観察に基づいた考古学的手法により判断するのが合理的です。この方法であれば、両論者が同一の考古学的事実に基づいて、建設的な論議が可能だからです。
 同論文の「まとめ」では、水城の築造技術について土木建築学の視点から、次の所見が記されており、いずれも興味深いものでした。

1) 超軟弱な箇所では、梯子胴木的工法を採用している。
2) 工事途中ですべり崩壊を生じた箇所では、抑止杭工と石材投入によるカウンターウェイトエを施工している。
3) 本堤の高盛土部においては版築工法が、また低盛土部においては通常の締固め施工が行われているようである。
4) 出土した”えぶり”等を用いて敷均しと撒出し厚の管理がなされていたと考えられる。
5) 木樋付近においては版築工法が用いられ、締固め後に掘削して木樋を敷設するなど、木樋に作用する土圧を軽減するための処置が施されており、土圧の概念を認識していたと考えられる。
6) 急傾斜側を密に締固め、緩傾斜側は比較的緩く締固めるとともに、緩い傾斜の締固め層および排水層を施工することにより、力学的な安定化とともに雨水・浸透流に対する堤体の侵食対策が組み込まれている。
7) 沖積地盤上に約10~14m規膜の急勾配の築堤を、しかも短期間に確実に施工するために、押え盛土工および敷粗朶による補強土工などの対策が必要であることを、盛土の最下部の施工段階から認識していた。
8) 敷粗朶は地下水位以下に使用しており、まさ土の鉄分等により、敷粗朶を酸欠状態に置き、腐植を防止できること、即ち、耐久性の確保を認識していたとすれば、驚くべきことである。
9) 西門門柱の基礎の硬質粘土層は、門柱の腐植防止(耐久性確保)、荷重の再配分、の意図とともに、免振対策としての工夫であると推察することは十分可能であり、現代技術の積層ゴムを用いた場合の半分強の効果がある。
10) 敷粗朶についても、補強土工法が地震に強いことを十分に認識した上で、使用した可能性がある。

 この指摘にあるように、水城の築造技術思想が現代の建築技術に通じるものがあることに感激しました。何よりも、基底部の造成段階に採用された各種技術が、最終完成物(水城土塁)にとっての必要性を認識して使用されていた可能性に言及されていることは重要です。
 水城が、土木工学的には当初から計画的に強度・耐震設計されていたと推定でき、このことは水城が短期間に造成されたとする見解を指示するものです。少なくとも、今後の水城築造年代についての論議は、文献史学における解釈論にとどまることなく、林さんによる土木工学の所見も踏まえた上でなされるべきと思います。もちろん、土木工学的に林さんの所見が間違っているという学問的な批判も、当然あり得ることでしょう。
 林さんは論文を次のように締めくくっておられます。

〝この河内狭山池(依網池)においても、築堤の基部から複層の腐植層が確忍されており、関西においては”敷葉工法”と名付けられている。材料こそ天然のものであるが、またそれ故に耐久性までを考慮に入れているとしたら、水城築堤に用いられているこれらの”古代の建設技術”は、千数百年を隔てる”現代の技術”を凌駕しているとさえ言うことができる。遺跡・遺構を豊かな想像力と洞察力をもって見直すことにより、現在の建設技術を見直し、未来に活かすことのできる古代の建設技術が発見されるであろう。〟

 なお、同論文末尾に挙げられた参考文献欄に、「古田武彦;古代史60の証言 金印から吉野ヶ里まで、騒々堂、1991」があったことも紹介しておきます。

(注)
①古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
 古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
②林 重徳「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む ~特別史跡・水城を中心として~」『ジオシンセティックス論文集』第18巻、2003.12。


第2475話 2021/05/30

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(5)

 ―坂田測定「水城出土杭」、もう一つの可能性―

 「坂田測定」でBC300年頃とされた水城出土杭ですが、その測定値が正しければ、大きく異なる他者の測定値(七世紀以後が大半)と整合できるもう一つの可能性があります。それは、弥生時代に造成された河岸の補強杭が、七世紀の水城築造時に再利用されたか、そのまま水城堤体内に取り込まれたというケースです。今回はその可能性について説明します。
 考古学的出土事実に基づいた土木史研究では、縄文時代・弥生時代から河岸の防護に木杭などが使用されていることが注目されています。安保堅史さんらの研究(注①)によれば、治水遺構や利水遺構に木杭が古代から使用されていたことが、次のように報告されています。

〝(1)治水遺構について
1.堤防遺構
 (中略)最も大規模なのは7世紀後半から築造されたといわれている「水城大堤」で、幅40m、高さ10mである。当時の国防施設であるとはいえ、これほど大規模な築堤はわが国では江戸期まで例はない。同時期の狭山池も大規模な築堤であったことがわかる。これら2つの堤防に共通することは、どちらも後述する特徴的な工法(古賀注:敷葉・敷粗朶、版築、護岸・土留め杭など)によって堤体強度を上げていたということである。(中略)「護岸・土留め杭」は先述の「原の辻」両堤からみつかっており、中世の「佐堂」江戸期の「浅山新田」など、各時代の堤防で行われていたようである。「基礎杭」のなかでも多くの杭を打ち込んだ工法が見られるのは古墳期「津寺」からで、その後、鎌倉期の「百間米田」左岸堤防を最後に見られなくなる。(中略)

2.護岸・水制遺構
 (前略)「杭・矢板」は土留めや低水護岸のために岸に流路に沿って杭を打ち込む工法で、最古は縄文後期の「袋低地」があり、奈良・平安期まで確認されている。(中略)

(2)利水遺構について
1.堰遺構
 (中略)年代的に見ると、杭を使った堰で、「杭群」形式は弥生期のみの発掘で、「那珂久平」など数千本の杭を使ったものがあったが、古墳期からは事例がない。構造型の「柵枠」「斜め柵」は最も古くからある堰の形式で、縄文後期の「牟礼」から、古墳期の「免」などがある。また「合掌型」は弥生中期から弥生後期まで見つかっている。(中略)「杭・横板」は弥生後期の「能峠中島」が最も古いが、古墳期の「纒向」のころから灌漑水路の分水堰として機能している。大木を横たえる「丸太型」は弥生中期の「軽部池」から、古墳期の「森脇」までの事例があった。〟

 以上のように、杭が治水・利水遺構に古代から使用されていたことが確認されています。水城が築造された地域も御笠川をはじめとするいくつかの水路があったことが知られており、そのため水城基底部の補強に敷粗朶工法が採用されています。何よりもそうした豊富な水量が確保できることが前提条件にあって、「水城」という大型の濠を持つ防衛施設が造営可能だったわけです。「水城」というネーミングが、そうした古代建築や古代人の防衛認識を象徴しているのではないでしょうか。
 従って、この地域に居住していた縄文・弥生・古墳時代の人々(注②)にとって、治水・利水は必須であり、そのための施設に多くの杭が使用されたことをわたしは疑うことができません。ですから、この時代の杭が水城に再利用されたり、そのまま取り込まれた可能性も一応は抑えておく必要があります。しかしそれであれば、尚更に「坂田測定」を根拠に水城の造営年代を論じることは危険ですし、ましてや大宰府政庁「倭の五王」王都説のエビデンスとして「坂田測定」を使用することもできないのです。(つづく)

(注)
①安保堅史・藤田龍之・知野泰明「発掘記事にみる治水・利水技術の変遷に関する研究」『土木史研究』第21号、2001年5月。
②『水城跡 上巻』(九州歴史資料館、平成二一年〔2009〕、150~151頁)の「水城築堤以前の遺構」では、縄文時代の竪穴式住居や弥生時代の竪穴式住居・貯蔵穴・土坑の出土が報告されている。


第2474話 2021/05/29

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(4)

 ―水城出土物の放射性炭素年代測定値―

 「坂田測定」では「1950年より2250年前±80年」とあるKURI 0102「大宰府町水城堤防の中の杭」は水城本体からの出土ですから、その測定値(BC300年頃)が正しければ、それは水城の造営年代を示すはずです。しかし、これまで報告されている水城出土物の放射性炭素年代測定値とは大きく異なります。たとえば次の測定値が報告されています(注①)。

○第35次発掘調査(2001年)
敷粗朶層サンプル中央値 660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)
(第38次調査出土木材測定時に追加測定)
暦年較正年代(1σ) 粗朶540~600年、葉653~760年、葉658~765年

○第38次調査(2004年)
暦年較正年代(1σ) 木杭(外皮)777~871年

○第40次調査(2007年)
暦年較正年代(1σ) 敷粗朶木片675~719年(41.7%)・742~769年(26.5%)、炭化物675~718年(42.0%)・743~769年(26.2%)
 ※測定値が示す年代期間に複数のピークが存在する場合、複数の年代が発生し得ます。その場合、どちらの年代がどの程度妥当かの確率を示したものが()内の%の数値です。(古賀)

 以上のように、水城の学術発掘調査により検出した木材などの放射性炭素年代は、その大半が七世紀以後の測定値を示しています。古いものでも三世紀です。従って、「坂田測定」による杭の年代(BC300年頃)だけがかけ離れたものであることがわかります。従って、他の測定値を否定して、「坂田測定」のみを是とすることは、学問的にはあり得ないことです。
 もし「坂田測定」の値を正しいとできるケースがあるとすれば、樹齢千年以上の大木を裁断加工して杭に使用し、大木の芯中部分をサンプルとして測定したという場合ですが、水城から出土している木杭は、「全て広葉樹の丸木材で、基本的には先端を加工しただけの簡単なもの」(注②)と報告されていますから、それは考えにくいと思います。
 結論として、「坂田測定」を根拠に水城の造営年代を論じることは危険と言わざるを得ません。同時に、大宰府政庁「倭の五王」王都説のエビデンスとして「坂田測定」を使用することもできないとするのが、合理的で穏当な判断ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』九州歴史資料館、平成二一年(2009)、327~332頁。
②同①、219頁。「杭(26~48) 全て広葉樹の丸木材で、基本的には先端を加工しただけの簡単なものである。」


第2458話 2021/05/11

九州王朝と大和朝廷の「都督」(2)

 太宰府が「都府楼」あるいは「都督府」と近世まで呼ばれていたことを根拠に、「都督」を称していた「倭の五王」の王都が太宰府にあったとする論者がおられます。草野善彦さんも『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)や「倭国の都城・太宰府について」(注②)で同見解を表明されています。古田先生も一時期そのように考えておられ、わたしとの〝論争〟になったことは、先に紹介したとおりです。
 九州王朝(倭国)が「都督」「都督府」という称号や役所名をある時期に採用していたことに異議はないのですが、そのことが5世紀の「倭の五王」の王都を太宰府とする根拠になるのかといえば、そうとは限りませんし、考古学的にもその見解を支持する出土事実はありません。
 というのも、王朝交代後の大和朝廷も「都督」の称号を使用していた史料事実があるからです。今までにも指摘してきたところですが(注③)、「都督」という役職名は九州王朝だけではなく、その伝統を引き継いで、大和朝廷も自らの「都督」を任命しており、その人名が『二中歴』「都督歴」に多数列挙されています(注④)。『続日本紀』にも次の「都督」記事があります。

 「九月丙申、大師正一位藤原恵美朝臣押勝を都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使となす。」『続日本紀』天平宝字八年(764)九月条

 こうした「都督」使用の伝統は近世まで続き、筑前黒田藩主や戦国武将も「都督」を称していたことが諸史料に見えます(注⑤)。ですから、現存遺跡名や地名に「都督府」「都府楼」があることを以て、それを九州王朝の「倭の五王」時代の都督の痕跡とすることは学問的に危険なのです。すなわち「都督」も多元的に認識すべきで、九州王朝と大和朝廷の「都督」が歴史的に存在していたことを前提に、現存地名がどちらの「都督」の影響を受けて成立したのかを考える必要があります。
 太宰府の場合、その地が「都府楼」と称されていたことは、菅原道真の漢詩「不出門」の一節に「都府楼わずかに見る瓦色 観音寺は只鐘の声を聴くのみ」と見え、10世紀頃には近畿天皇家側の役所「都府楼」が現地に置かれていたことがわかります。従って、現代人の認識の根拠は、5世紀の九州王朝の「都督」よりも、10世紀から江戸時代まで続いた近畿天皇家側の「都督」に基づいて成立したと考える方が合理的です。
 従って、草野さんの通説への批判「私は『倭の五王』の都城は太宰府と考えております。今日、太宰府政庁跡と呼ばれている遺跡に『都督府古跡』と彫った石碑が立っています。この『都督府古跡』とは何なのか。通説はこれに沈黙しているのではありませんか。」は、気持ちはわからぬでもありませんが、学問的には有効とは言えません。なぜなら、その論拠〝都督府・都府楼と呼ばれている地は太宰府だけで、近畿にはない〟では通説側を説得できません。〝近畿天皇家が西海道支配のために地方都市・太宰府に置いた役所だから、近畿にないのは当たり前〟という反論が一応は史料根拠(『続日本紀』『二中歴』他)に基づいて成立するからです。
 また、太宰府遺構を5世紀の「倭の五王」の王都とする見解についても、〝考古学的根拠(5世紀の王宮の出土)がない〟と一蹴されて終わりでしょう。日本古代史学が人文科学である以上、こうした批判(エビデンスの明示要請)は避けられないのです。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。
③古賀達也「洛中洛外日記」641話(2014/01/02)〝黒田官兵衛と「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」642話(2014/01/05)〝戦国時代の「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1374話(2017/04/22)〝多元的「都督」認識のすすめ〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年9月。後に『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)に収録。
④鎌倉時代初期に成立した『二中歴』「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されている。
⑤『糸島郡誌』(大正15年の序文あり、昭和47年発行)によれば、雷山・層々岐神社上宮の祠(石の寶殿)に銘文があり、この祠を寄進した人物名「本邦都督四位少将継高公」が記されている。「継高公」とは、筑前黒田藩六代目藩主の黒田継高(治世1719~1769年)のこと。
 『太宰管内誌』「豊後之五(海部郡)・壽林寺」の項に、戦国大名の大友宗麟のことを「九州都督源義鎮(大友氏)」と記している。大友宗麟(大友義鎮・おおともよししげ。1530~1587年)は筑前を一時期(1559~1580年頃)支配領域にしたことがある。


第2457話 2021/05/11

九州王朝と大和朝廷の「都督」(1)

 草野善彦さんは著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)に読者から寄せられた意見「〝倭国の都城がはじめから太宰府〟というのは、違うのではないか」に対して、「倭国の都城・太宰府について」(注②)において自説の説明と反論を行われ、次のように述べられています。

 「私は『倭の五王』の都城は太宰府と考えております。今日、太宰府政庁跡と呼ばれている遺跡に『都督府古跡』と彫った石碑が立っています。この『都督府古跡』とは何なのか。通説はこれに沈黙しているのではありませんか。」
 「『倭王・武の上表』に従えば、五世紀の新羅・百済の都城・王宮を凌駕した規模でなければならず、(中略)すなわち今日の太宰府の遺跡群こそは、『倭の五王』の都城と思います。」
 「私は、三世紀から五世紀、『倭国』の都城・首都は移動していないのではないか、と考えています。」『多元』159号、10~11頁。

 これだけ明解にご自身の見解を表明されると、読者の理解は進み、賛否の意見も出しやすくなり、精確な論議が可能となり、学問研究の発展にも寄与します。わたしはこの草野さんの姿勢を歓迎したいと思います。誰に対する批判なのか、どの意見に対しての反発なのかわからない意味不明の文章も散見される昨今ですから、尚更です。
 この草野さんの見解で同意できる点は、都城の規模を問題にされていることです。倭国の代表者の宮殿・都城であるからには、朝鮮半島諸国との比較、国内の他の遺構との比較が重要とすることは当然です。ただし、ことは都城・王宮にとどまらず、王墓(古墳)の規模や数も比較の対象となりますが、このことについては別に論じることとします。
 今回は、大宰府政庁跡に立つ「都督府古趾」(注③)の「都督」について、多元史観による説明をしたいと思います。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。
③大宰府政庁跡に立つ石碑には、「都督府古跡」ではなく、「都督府古趾」と彫られている。明治4年、乙金村(現、大野城市乙金)大庄屋高橋善七郎が建立した。


第2456話 2021/05/10

大宰府政庁の科学的年代測定(14C)情報(2)

 草野善彦さんの著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)によると、大宰府政庁正殿跡出土炭化物の炭素同位体比(14C)年代測定値が発表されていることが、次のように紹介されていました。

 また、大水城のみならず「大宰府政庁正殿における放射性炭素年代測定も、「暦年代(西暦)AD四三五~六一〇」という測定値も、報告されています。(『大宰府政庁跡』、三五三頁、九州歴史資料館、二〇〇二年、吉川弘文館」)。
 『「倭国」の都城・首都は太宰府』161~162頁 ※文中の「」はママ。

 草野さんが紹介された『大宰府政庁跡』(注②)に掲載された炭化物(№1~3)の測定値を示し、その出土状況についての解説を転載します。

【大宰府政庁正殿跡における放射性炭素年代測定結果】(『大宰府政庁跡』353頁より略載)
 試料名 暦年代              中央値(古賀による)
 №1 1σ:AD435~610     525
 №2 1σ:AD645~815, AD850~850(ママ) 730, 850
 №3 1σ:AD1180~1290     1235

「3. 大宰府政庁正殿跡における放射性炭素年代測定について

 大宰府政庁の変遷を考える上での重要な画期として、”藤原純友の焼き討ち”の史実がある。『扶桑略記』(ママ)よれば、天慶3年(940)、藤原純友の焼き討ちにより大宰府政庁は炎上した。
 その後、大宰府政庁が再建されたか否かの議論は、昭和43年(1968)より始まった大宰府史跡の発掘調査で明らかにされた。大宰府政庁における3期の建物変遷の中で、Ⅱ期からⅢ期への建替えは、多量の焼土層を挟んで行われていたことから、この焼土層こそが藤原純友の兵火によるものと理解されたのである。
 今回の正殿跡の調査(第180次)でも、この藤原純友の兵火によると考えられる焼土や炭化物が多量に出土した。そこで焼土層より検出した炭化物について放射性炭素年代測定を行い、科学的な年代判定を試みることにした。

分析試料の採取状況

 採取試料は、正殿跡基壇東北隅付近から焼土とともに検出された炭化物を対象とした。

 試料№1は、焼け落ちたⅡ期の瓦を廃棄した土壙SK108から採取した。採取にあたっては、堆積層の上層部を除去し、確実に焼土層に含まれていることを確認した後、瓦の内側に貼り付いた炭化物を採取した。ただ、採取の際に注意されたのは、土壙の埋土下位までかなり水分が存在していたことであった。

 試料№2は、基壇隅部地覆石前面のⅢ期整地層下位のⅡ期雨落ちと考えられる溝状遺構中の炭化物を採取した。整地層を除去し、確実に溝内に封入されたものを取り上げた。

 試料№3は、基壇後面の階段東側を対象とした。試料№2と同じく、Ⅲ期整地層中に封入されたものを採取した。この地点は、試料№2より整地層は厚く、残りの良いⅢ期整地層下位の試料であるため、まず汚染されることは考えられない試料である。」『大宰府政庁跡』354頁

 この第180次調査は、大宰府政庁が天慶の乱(940年)での焼失後に再建されたことを確認した貴重な調査でした。しかも、正殿付近の焼土層から採取した炭化物の放射性炭素年代測定もなされ、各遺構の年代を考察するデータの一つとなりました。
 最も古い値を示した試料№1の炭化物の中央値は525年ですが、政庁Ⅱ期の瓦の内側に付着した炭化物ですから、恐らく重い屋根瓦を支えていた梁か柱の燃焼物(煤か)ではないでしょうか。その場合、太い木材が使用されたはずですから、それだけ年輪の数も多く、木材の内側と外側では恐らく百年以上の差があるでしょうから、測定中央値(525年)から政庁Ⅱ期の創建年を判断するのはあまり適切ではありません。しかしながら、その年代よりも政庁Ⅱ期の創建は古くはなりませんから、こうした調査は無駄ではありません。
 以上のように、草野さんが紹介された測定値は、残念ながら太宰府政庁Ⅰ期やⅡ期の創建年の根拠としては使いにくいデータであることがわかりました。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。


第2455話 2021/05/10

大宰府政庁の科学的年代測定(14C)情報(1)

 古田先生とは様々なテーマで意見交換や討論を行いましたが、どうしても合意に至らなかったテーマがいくつかありました。その一つが『宋書』に見える「倭の五王」の王都の場所についてでした。『宋書』には当時の倭国王都の位置情報が記されていませんから、このテーマは文献史学ではなく考古学上の根拠に基づく必要がありました。ですから、先生との論争もこの分野での知見に基づいて行ったのですが、今でもそのときのことをよく憶えています。
 古田先生は太宰府都府楼跡(大宰府政庁Ⅰ期)とするご意見でしたが、わたしは大宰府政庁Ⅰ期出土の土器編年はとても五世紀までは遡らないし、出土遺構も堀立柱の小規模なものであり、倭王の宮殿とは考えられないと反論してきました。そして次のような対話が続きました。

古田「それならどこに王都はあったと考えるのか」
古賀「わかりません」
古田「水城の外か内か、どちらと思うか」
古賀「五世紀段階で九州王朝が水城の外側に王都を造るとは思えません」
古田「だいたいでもよいから、どこにあったと考えるか」
古賀「筑後地方ではないでしょうか」
古田「筑後に5世紀の王宮の遺跡はあるのか」
古賀「出土していません」
古田「だったらその意見はだめじゃないですか」
古賀「だいたいでもいいから言えと先生がおっしゃったから言ったまでで、まだわかりません」

 およそこのような「論争的」対話が続いたのですが、合意には至りませんでした。しかし「水城の内側(南側)」という点では意見の一致を見ていました。倭王の都城についてはその他にも論争があり、そのことを紹介した論稿を古田先生没後(三回忌の翌年)に発表しました(注①)。いずれの論争も、懐かしい思い出でばかりです。
 この論争テーマには二つの論点(土器・古墳)がありました。一つは大宰府政庁Ⅰ期の整地層から、7世紀第3四半期後半から第4四半期に編年されている「須恵器坏B」(注②)と呼ばれる土器が出土していることでした。この土器の編年を、いくらなんでも5世紀まで二百年も遡らせるというのは無茶というもので、この出土事実をわたしは強く主張しました。
 二つ目は、古田先生が論文発表されていた〝九州王朝の筑後への移動〟という仮説です。それは「『筑後川の一線』を論ず」(注③)という、古田学派でもあまり知られていない小論文ですが、筑後川を挟んでの九州王朝王都の移動変遷に関する重要論文です。
 要旨は、弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に中心領域が移動するというもので、その根拠としてそれぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷するという指摘です。その理由として、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられています。
 この「筑後川の一線」という指摘に基づいて、わたしは「九州王朝の筑後遷宮」という仮説を提起し、高良大社の玉垂命こそ古墳時代の倭国王(倭の五王ら)であったとする論文(注④)を発表しました。古田先生も「『筑後川の一線』を論ず」において、「弥生と古墳と、両時代とも、同じき『筑後川の一線』を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは『主敵方向』のみだ。この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」とされています。
 この論文を発表された当時、古田先生は「倭の五王」の王都を筑後とされていたのですが、いつの頃からか太宰府説に変わられていました。しかし、晩年の先生の認識が記された『古田武彦の古代史百問百答』(注⑤)には「倭の五王」の王都の位置については触れられていませんので、わたしとの論争の結果、態度を保留されたのではないでしょうか。
 いずれにしても、この仮説は重要なもので、そのことをわたしは繰り返し訴えましたが(注⑥)、古田学派内からの反響はありませんでした。他方、わたしは土器編年以外に大宰府政庁跡の暦年を探る方法はないものか検討を続けてきました。その中で、大宰府政庁跡出土炭化材の炭素同位体比(14C)年代測定値が『大宰府政庁跡』(注⑦)に発表されていたことを草野善彦さんの著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注⑧)で知りました。(つづく)

(注)
古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年8月。古田先生と見解が対立したテーマについての二人のやりとりについては、先生の三回忌が過ぎるまでは論文発表しないとわたしは決めていた。
②7世紀後半の代表的須恵器で、蓋につまみがあり、底に「足」がついている。652年(九州年号の白雉元年)創建の前期難波宮整地層からは出土せず、694年に持統が遷都した藤原宮(京)整地層からは大量に出土する。これらの出土事実や共出した木材の年輪年代測定・年輪セルロース酸素同位体比年代測定などのクロスチェックにより、その編年観が成立している。
 年輪セルロース酸素同位体比年代測定については、拙稿「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟、同第672話 2014/03/05(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟を参照されたい。
③古田武彦「『筑後川の一線』を論ず」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
⑤古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、2015年。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」555話(2013/05/05)〝筑後川の一線〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1382話(2017/05/04)〝「倭の五王」の都城はどこか(1)〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年9月。後に『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)に転載。
⑦『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
⑧草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。本書を著者から贈呈していただいた。記してお礼申し上げる。


第2454話 2021/05/09

水城の科学的年代測定(14C)情報(3)

 今回、紹介した炭素同位体比(14C)年代測定結果は、水城の築造(完成)時期を7世紀後半、おそらくは天智三年(664年)の築城とする説を支持すると、わたしは指摘しました。この拙稿をFaceBookでご覧になった高野博秀さんと正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、重要なご指摘をいただきました。おかげで、わたしの史料理解や問題点に対する認識が深まり、感謝しています。それぞれ学問上の重要な問題提起が含まれているため、「洛中洛外日記」で改めて丁寧に返答させていただくことにしました。両氏の指摘は次の通りです。

(1)高野博秀さんからの指摘
〝素朴な疑問です
あんな大規模な構造物が数年で造れる訳がない。しかも水を貯えるならば。参考までに、太宰府に来て戸惑うことの一つに水城駅と水城なる地区がかなり離れていること。全長が長いからだろうけど、水城は佐賀まで続くとも?〟

(2)正木 裕さんからの指摘
〝「炭素同位体比(14C)年代測定の中央値は、660年(最上層)」とあるのに、何故「白村江敗戦後の664年」にこだわるのか、理解できません。660年(白村江前整備)と664年(敗戦後整備)では「歴史観」が逆転します。戦争突入直前に防衛施設整備が行われたのか、敗戦で膨大な犠牲者を出し、国力が失われた中で大工事が行われたのか、どちらが考えやすいのかですね。660年でいいのでは?C14の中央値を無視して「664年と『書紀』に書いてあるから」というだけであれば『書紀』は正しいとする通説と変わらないのでは。〟

 まず、高野さんの指摘に対して、わたしの見解を説明します。実はわたしも太宰府都城研究を始めた当初は、水城の造営は長期間かけて行われ、白村江戦前には完成していたと考え、そうした論文(注①)を発表していました。それは次の二つの見解に基づいていました。
 白村江戦前に水城は完成していたとする見解は古田先生が主張されてきたもので、敗戦後の筑紫は唐の進駐軍に制圧されており、その中で水城など造営できるはずがないという理由でした。これは正木さんからの指摘にもあったもので、古田学派内では通説としてもよいほどの多数説となっています。
 水城の造営には長期間を要したであろうとする見解は、内倉武久さんが著書『太宰府は日本の首都だった』(注②)で示された水城の木樋の14C年代測定値(540年)を根拠としていました。
 その後、内倉さんは論稿「太宰府都城の完成は五世紀中ごろ」(注③)において、水城の敷粗朶層サンプル三点の14C年代測定中央値(上層660年、中層430年、下層240年)を根拠に、「太宰府都城がほぼ完成したのは井上氏(井上信正氏:古賀注)の想定より二百年以上古い五世紀中ごろ、いわゆる『倭(ヰ)の五王』の時代である。」「太宰府は卑弥呼が当初建設した都城である可能性が高い。」とされました。
 この内倉論稿を読み、その結論に疑問を感じたわたしは、水城に関する考古学報告書(注④)を自らの目で確認することにしました。その結果、敷粗朶のサンプリングの信頼性に差があることから、最上層の中央値660年(注⑤)がもっとも安定した測定値であることを知り、そのことを論文発表しました(注⑥)。
 他方、水城築造に関する先行研究を勉強したところ、版築により造成された水城は、台風の季節が終わり、翌年の梅雨入りの前までに築堤を完了しておかなければならないことも知りました。降雨により造成途中の版築が流されてしまうからです。そのため、基底部の版築とその上層堤部の版築を雨が少ない季節に大量の労働力を集中投入して一気呵成に終えなければなりません。従って、版築工法の実施は半年程度で完了させ、その前後の工程を含めても、恐らく数年で水城は完成したと考えるに至ったのです。
 以上が高野さんのご指摘に対する一応の返答ですが、版築工程以外の準備工程(設計・測量・整地・工事用道路施設の造営など)や後工程(城門・城壁などの建造)に、どの程度の期間が必要かは正確にはわかりません。引き続き、古代建築の専門家による研究論文を調べたいと考えています。
 ですから、現時点でのわたしの考えは、〝水城は七世紀中頃から後半にかけて築造・完成したもので、恐らくは唐との開戦に先立って、太宰府防衛のために準備・計画され、完成は『日本書紀』に記された天智三年(664年)としても問題なく(他に史料根拠がない)、その工事期間は数年と思われる〟というものです。高野さんのご指摘に感謝します。(つづく)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。後に『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
②内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
③内倉武久「太宰府都城の完成は五世紀中ごろ」『九州倭国通信』185号、2017年3月。
④『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
⑤この測定値は測定原理上の有効桁数により、下一桁を丸めた数値であり、660年という暦年には数理統計上のほぼ中央値という以上の精確性はない。
⑥古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。


第2451話 2021/05/07

水城の科学的年代測定(14C)情報(1)

このところ文献史学の研究に没頭してきましたが、今日は久しぶりに考古学、特に太宰府関係の年代測定や土器編年についての報告書を読みました。その成果として、水城の基底部出土敷粗朶の炭素同位体比(14C)年代測定について、新しいデータがあることを知り、水城の築造時期についての確信を深めました。
 水城の築造時期について、わたしは『日本書紀』天智紀に見える次の記事の年代(664年)として問題ないと考え、論文を発表してきました(注①)。

 「是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国等に、防と烽を置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ。」『日本書紀』天智三年是歳条(664年)

 その主たる根拠は水城の基底部から出土した敷粗朶の炭素同位体比年代測定値でした。
 同敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていたもので、平成十三年の第35次発掘調査で、調査地の地表から2~3.4m下位にある厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見されました。それは敷粗朶と積土(約10cm)を交互に敷き詰めたものです。その敷粗朶層最上層から採取した粗朶の炭素同位体比年代測定の中央値が660年でした。その数値を重視すると、敷粗朶層の上にある積土層部分(1.4~1.5m)の築造期間も含め、水城の造営年代(完成年)は七世紀後半頃となり、『日本書紀』に記された水城造営を天智三年(664)とする記事ともよく整合しています。
 なお、同敷粗朶層からは最上層のサンプルとは別に、「坪堀」という方法で更に下層からのサンプルも採取されており、その年代は中央値で「坪堀1中層第2層、430年」と「坪堀2第2層、240年」とされ、最上層とは約200~400年の差がありました。わたしはこの差について、サンプリング条件が原因と考えていました。なぜなら、厚さ約1.5mの積土中に11面ある敷粗朶層が数百年もかけて築造されたとは考えられなかったからです。従って、最も安定したサンプリング方法により採取された最上層の粗朶の測定値が最も信頼性が高いと判断したのです。「調査報告書」(注②)にも、「各一点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とあり、その追加測定を待っていました。ところが、その追加測定が既に実施されていたことを今回の勉強で知りました。(つづく)

(注)
①古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2016年5月。
古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2016年6月。
 古賀達也「太宰府都城の年代観 ―近年の研究成果と九州王朝説―」『多元』140号、2016年7月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1354話(2017/03/16)〝敷粗朶の出土状況と水城造営年代〟
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。


第2430話 2021/04/11

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その5)

服部静尚
「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の構成は「巻頭言」の後に「総括論文」「各論」「コラム」、そして特集以外の「一般論文」からなっています。「一般論文」は会員からの投稿、『古田史学会報』などに掲載された論稿を対象に、書籍の形で後世に残すべきと編集部で判断したものを採用します。今回、採用論文選考の編集会議でわたしが最も強く推薦したのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」でした。
 同論稿は『古田史学会報』150号(2019年2月)に掲載されたもので、わずか五頁の小論ですが、シンプルで頑強な論理と根拠に基づいた秀論で、古代の真実(多元史観・九州王朝説)は万人の眼前にあり、かくも簡明で頑固であるということを示す好例でした。「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」という、この服部説について、わたしは「洛中洛外日記」1834話(2019/02/09)〝『古田史学会報』150号のご案内〟において、次のように評しました。

 〝服部さんは、太宰府条坊都市の規模が平城京などの律令官僚九千人以上とその家族が居住できる首都レベルであることを明らかにされ、太宰府が首都であった証拠とされました。この論理性は骨太でシンプルであり強固なものです。管見では古田学派による太宰府都城研究において五指に入る優れた論稿と思います。〟

 同論稿には服部さんご自身による先行論文「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」(注)がありますので、そちらも是非お読みいただければと思います。

(注)服部静尚「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」『発見された倭京―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)。初出は『古田史学会報』136号、2016年10月。