第2458話 2021/05/11

九州王朝と大和朝廷の「都督」(2)

 太宰府が「都府楼」あるいは「都督府」と近世まで呼ばれていたことを根拠に、「都督」を称していた「倭の五王」の王都が太宰府にあったとする論者がおられます。草野善彦さんも『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)や「倭国の都城・太宰府について」(注②)で同見解を表明されています。古田先生も一時期そのように考えておられ、わたしとの〝論争〟になったことは、先に紹介したとおりです。
 九州王朝(倭国)が「都督」「都督府」という称号や役所名をある時期に採用していたことに異議はないのですが、そのことが5世紀の「倭の五王」の王都を太宰府とする根拠になるのかといえば、そうとは限りませんし、考古学的にもその見解を支持する出土事実はありません。
 というのも、王朝交代後の大和朝廷も「都督」の称号を使用していた史料事実があるからです。今までにも指摘してきたところですが(注③)、「都督」という役職名は九州王朝だけではなく、その伝統を引き継いで、大和朝廷も自らの「都督」を任命しており、その人名が『二中歴』「都督歴」に多数列挙されています(注④)。『続日本紀』にも次の「都督」記事があります。

 「九月丙申、大師正一位藤原恵美朝臣押勝を都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使となす。」『続日本紀』天平宝字八年(764)九月条

 こうした「都督」使用の伝統は近世まで続き、筑前黒田藩主や戦国武将も「都督」を称していたことが諸史料に見えます(注⑤)。ですから、現存遺跡名や地名に「都督府」「都府楼」があることを以て、それを九州王朝の「倭の五王」時代の都督の痕跡とすることは学問的に危険なのです。すなわち「都督」も多元的に認識すべきで、九州王朝と大和朝廷の「都督」が歴史的に存在していたことを前提に、現存地名がどちらの「都督」の影響を受けて成立したのかを考える必要があります。
 太宰府の場合、その地が「都府楼」と称されていたことは、菅原道真の漢詩「不出門」の一節に「都府楼わずかに見る瓦色 観音寺は只鐘の声を聴くのみ」と見え、10世紀頃には近畿天皇家側の役所「都府楼」が現地に置かれていたことがわかります。従って、現代人の認識の根拠は、5世紀の九州王朝の「都督」よりも、10世紀から江戸時代まで続いた近畿天皇家側の「都督」に基づいて成立したと考える方が合理的です。
 従って、草野さんの通説への批判「私は『倭の五王』の都城は太宰府と考えております。今日、太宰府政庁跡と呼ばれている遺跡に『都督府古跡』と彫った石碑が立っています。この『都督府古跡』とは何なのか。通説はこれに沈黙しているのではありませんか。」は、気持ちはわからぬでもありませんが、学問的には有効とは言えません。なぜなら、その論拠〝都督府・都府楼と呼ばれている地は太宰府だけで、近畿にはない〟では通説側を説得できません。〝近畿天皇家が西海道支配のために地方都市・太宰府に置いた役所だから、近畿にないのは当たり前〟という反論が一応は史料根拠(『続日本紀』『二中歴』他)に基づいて成立するからです。
 また、太宰府遺構を5世紀の「倭の五王」の王都とする見解についても、〝考古学的根拠(5世紀の王宮の出土)がない〟と一蹴されて終わりでしょう。日本古代史学が人文科学である以上、こうした批判(エビデンスの明示要請)は避けられないのです。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。
③古賀達也「洛中洛外日記」641話(2014/01/02)〝黒田官兵衛と「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」642話(2014/01/05)〝戦国時代の「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1374話(2017/04/22)〝多元的「都督」認識のすすめ〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年9月。後に『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)に収録。
④鎌倉時代初期に成立した『二中歴』「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されている。
⑤『糸島郡誌』(大正15年の序文あり、昭和47年発行)によれば、雷山・層々岐神社上宮の祠(石の寶殿)に銘文があり、この祠を寄進した人物名「本邦都督四位少将継高公」が記されている。「継高公」とは、筑前黒田藩六代目藩主の黒田継高(治世1719~1769年)のこと。
 『太宰管内誌』「豊後之五(海部郡)・壽林寺」の項に、戦国大名の大友宗麟のことを「九州都督源義鎮(大友氏)」と記している。大友宗麟(大友義鎮・おおともよししげ。1530~1587年)は筑前を一時期(1559~1580年頃)支配領域にしたことがある。

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