第2479話 2021/06/05

水城築造に要した労働力試算

    林 重徳

 「水城に関する土木建築・技術・構造論的考察」

 「洛中洛外日記」2476話(2021/05/31)〝土木工学から見た水城の建設技術〟で、林重徳さんの「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む」(注①)を紹介しました。その論文には「水城の築堤工事は基本的にわずか1年足らずの短期間で完了したものと考えられる。」とありましたが、同論文の主要テーマが水城の建設技術でしたので、築造に要した労働力などには触れられていませんでした。そこで、同じく林さんの論文「水城に関する土木建築・技術・構造論的考察」(注②)に記されている水城築造に要した労働力試算について紹介します。それは、水城築堤が一年で可能とする根拠にもなります。
 同論文冒頭に次の記述があり、試算の前提が示されています。

〝平成二十五年・平成二十六年度の断面開削調査によって築堤材料がほぼ特定されたことを受け、『日本書紀』の記述通り、約一年間で築造されたものとして、全体の土工量と作業人員が概算する。なお、土工量の変化率ならびに作業能率等は、大林組による『王陵 現代技術と古代技術による「仁徳天皇陵の建設」』を参考にした。〟307頁

 そして、土工作業可能日数の推定として、太宰府気象観測所の過去十年の観測データをもとに、日降雨量に関する次の土木作業基準によって土木作業可能日数を推定されました。

(1)日降雨量10mm以下の日:土木作業は可能
(2)日降雨量10mm以上~50mm未満の日:その日の土木作業は不可能
(3)日降雨量50mm以上~100mm未満の日:その日+一日の土木作業は不可能
(4)日降雨量100mm以上の日:その日+二日の土木作業は不可能

 この結果、太宰府地方においては、61.9日が降雨により土木作業が不可能となり、一年間に施工(土木)可能な日数を303日とされました。
 次に、堤体の復原標準断面形状から盛土量を次のように計算されました。下部堤体(下成土塁)延長1040m、上部堤体(上成土塁)延長1030mとして、堤体盛土量は24万8560立法㍍及び8万340立法㍍で、合計32万8900立法㍍。そして、堤体盛土量、濠掘削量と土取場掘削量および「土工」に関わる作業を一年間での施工とすると、約3200人/日になるとされました。
 従って、この動員が可能であれば水城の築堤は一年で行えることになります。なお、築堤以外に東西二ヶ所の門や塀の建設、関連施設と道路の造成も必要ですから、恐らく水城全体の造営は数年で完了したと思われます。そうであれば、『日本書紀』天智三年(664)条の水城築城記事(注③)により(他に水城築造年次に関する史料根拠はない)、白村江戦(663年)以前に水城築造は開始され、完成したのが天智三年(664)とするのが土木工学の考察と『日本書紀』の史料根拠に基づいた穏当な理解です。
 そして、この期間は唐軍の筑紫進駐以前(注④)ですから、九州王朝(倭国)は水城を完成させることができたのではないでしょうか(注⑤)。更に、筑紫に進駐した唐軍二千人の実態は大半が船団の水夫(百済人による送使)であり、筑紫を制圧できるような軍団規模ではないとする説(注⑥)も出されており、留意が必要です。

(注)
①林 重徳「遺跡に〝古代の建設技術〟を読む ~特別史跡・水城を中心として~」『ジオシンセティックス論文集』第18巻、2003年12月。
②林 重徳「水城に関する土木建築・技術・構造論的考察」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編、平成三十年(2018)。当論文は平成二九年十月に没した著者の遺稿である。
③「筑紫国に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰う。」『日本書紀』天智三年(664)条
④『日本書紀』天智紀によれば唐の集団二千人が最初に来倭(筑紫)したのは天智八年(669)である。
⑤古賀達也「水城築造は白村江戦の前か後か」(『古田史学会報』149号、2018年12月)において、水城完成を白村江戦後の天智三年と考えても問題ないとした。
安随俊昌「『唐軍進駐』への素朴な疑問」(『古田史学会報』127号、2015年4月。『古田武彦は死なず』2016年、に収録)によれぱ、『日本書紀』天智十年(671)条に見える唐軍2,000人による倭国進駐記事について、この2,000人のうち1,400人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」とされた。すなわち、百済人1,400人は戦闘部隊ではないとされた。

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