第2477話 2021/06/01

「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(6)

–内倉武久さんの太宰府・筑後「倭の五王」王都説

 古田先生が、考古学的エビデンス(五世紀の王宮遺構の出土)がない、「倭の五王」王都を大宰府政庁とする仮説に至った根拠や淵源について、本シリーズで検証してきました。そして、その根拠の一つと思われる「九州大学が古いと言って出しているもの」(坂田測定)について精査した結果、大宰府政庁「倭の五王」王都説のエビデンスとして採用できるような試料性格ではないことがわかりました。
 古田先生が『古田武彦の古代史百問百答』(注①)の次の記事に示された、もう一つの根拠、「内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。」についても検証します。

〝もう一つ紫宸殿というのでなくて、権力者の建物ということになると、内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。わたしは『邪馬壹国の論理』の最後に書きましたが、九州大学が古いと言って出しているものを、今の考古学会は知らない振りをしているわけです。そういう問題をクリアしなければならない。〟『古田武彦の古代史百問百答』「32 九州の紫宸殿について」ミネルヴァ書房版、212頁

 ここに示された弥生時代から連綿と続いた「建物の跡」とは、恐らく内倉さんが『太宰府は日本の首都だった』(注②)に書かれたものと思われますので、同書を改めて精査しました。同書には「倭の五王」や大宰府政庁跡について次の記述があり、内倉さんの見解をより深く理解することができました。

(1)(倭王)武は朝鮮半島からみて「海の南」にいたことになる。そう呼べる場所は、地理的に北部九州しかない。その中心は筑後川流域や太宰府だ。(157頁)
(2)太宰府に都していた「倭の五王」ら(163頁)
(3)結論からいえば、九州王朝・倭国の首都は、瀬高町や八女市、久留米市の高良大社付近、太宰府などを転々とした後、六世紀末から7世紀終わりまでは、再び太宰府に腰を据えたのかもしれない。(183頁)

 以上のように内倉さんは記されていることから、おおよそ次のように倭国王都の変遷を捉えておられるようです。

 4世紀(筑後瀬高)→5世紀(筑後川流域・筑前太宰府)→6世紀(筑後八女)→6世紀末~7世紀(筑前太宰府)

 この変遷案から、「倭の五王」の王都に関する記述を厳密にみると、(1)では「中心は筑後川流域や太宰府」と示唆され、(2)では「太宰府に都していた」とありますから、論旨に幅がありますが、同書全体の内容や文脈からは、「倭の五王」時代の王都は太宰府であり、巨視的には筑後川流域も含むという説のように読み取れます。これは晩年の古田説「表は太宰府、実際は久留米付近」(注③)という「倭の五王」王都二重構造説に近いものです。ただし、内倉さんは大宰府政庁(筑前)を主とされ、古田先生は「実際は久留米」(筑後)というように、重心が異なってはいます。
 なお、内倉さんは大宰府政庁の考古学的出土事実を次のようにも紹介されており、古田先生が根拠とされたような「内倉さんが書かれたように弥生時代から、建物の跡が連綿と続いています。」という内容の記述は見当たりません。

〝太宰府の中心部、約六平方キロに及ぶ「大宰府政庁」遺跡には、「古墳時代の土層がない」という。〟『太宰府は日本の首都だった』6頁

 もちろんこれは「という」とあるように、「考古学者による通説」の紹介部分ですが、大宰府政庁整地層に通説では古墳時代とする「土層がない」という考古学的事実までを否定したものではありません。何よりも、大宰府政庁に弥生時代から7世紀まで〝連綿と続く建物〟の出土報告はありません。
 以上の精査結果から、「倭の五王」王都所在説の論点を整理すれば、大宰府政庁か筑後川領域かという問題ではなく、大宰府政庁跡(あるいはその近傍)に5世紀の倭国の王都にふさわしい王宮遺構や出土物があるのかということが最大の論点であることがわかります。晩年の古田説や内倉説にしても、筑後や筑後川流域も王都の対象としており、筑後説を否定しているわけではないからです。他方、わたしも支持する筑後川流域説にしても、同様に5世紀の王宮遺構の存在を明示できていません。
 本年11月の八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー、大学セミナーハウス)では、この点についての真摯な論争や質疑応答がなされることを期待しています。もちろん、その結論が〝現時点ではわからない〟であっても全くかまいません。わからないことはわからないとし、わからない理由を明示する。学問研究とはそのようなものですから。(おわり)

(注)
①古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(2015)。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
②内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
③古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』「Ⅶ 白村江の戦いと九州王朝の滅亡」「32 九州の紫宸殿について」、212頁。

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