太宰府一覧

第2456話 2021/05/10

大宰府政庁の科学的年代測定(14C)情報(2)

 草野善彦さんの著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)によると、大宰府政庁正殿跡出土炭化物の炭素同位体比(14C)年代測定値が発表されていることが、次のように紹介されていました。

 また、大水城のみならず「大宰府政庁正殿における放射性炭素年代測定も、「暦年代(西暦)AD四三五~六一〇」という測定値も、報告されています。(『大宰府政庁跡』、三五三頁、九州歴史資料館、二〇〇二年、吉川弘文館」)。
 『「倭国」の都城・首都は太宰府』161~162頁 ※文中の「」はママ。

 草野さんが紹介された『大宰府政庁跡』(注②)に掲載された炭化物(№1~3)の測定値を示し、その出土状況についての解説を転載します。

【大宰府政庁正殿跡における放射性炭素年代測定結果】(『大宰府政庁跡』353頁より略載)
 試料名 暦年代              中央値(古賀による)
 №1 1σ:AD435~610     525
 №2 1σ:AD645~815, AD850~850(ママ) 730, 850
 №3 1σ:AD1180~1290     1235

「3. 大宰府政庁正殿跡における放射性炭素年代測定について

 大宰府政庁の変遷を考える上での重要な画期として、”藤原純友の焼き討ち”の史実がある。『扶桑略記』(ママ)よれば、天慶3年(940)、藤原純友の焼き討ちにより大宰府政庁は炎上した。
 その後、大宰府政庁が再建されたか否かの議論は、昭和43年(1968)より始まった大宰府史跡の発掘調査で明らかにされた。大宰府政庁における3期の建物変遷の中で、Ⅱ期からⅢ期への建替えは、多量の焼土層を挟んで行われていたことから、この焼土層こそが藤原純友の兵火によるものと理解されたのである。
 今回の正殿跡の調査(第180次)でも、この藤原純友の兵火によると考えられる焼土や炭化物が多量に出土した。そこで焼土層より検出した炭化物について放射性炭素年代測定を行い、科学的な年代判定を試みることにした。

分析試料の採取状況

 採取試料は、正殿跡基壇東北隅付近から焼土とともに検出された炭化物を対象とした。

 試料№1は、焼け落ちたⅡ期の瓦を廃棄した土壙SK108から採取した。採取にあたっては、堆積層の上層部を除去し、確実に焼土層に含まれていることを確認した後、瓦の内側に貼り付いた炭化物を採取した。ただ、採取の際に注意されたのは、土壙の埋土下位までかなり水分が存在していたことであった。

 試料№2は、基壇隅部地覆石前面のⅢ期整地層下位のⅡ期雨落ちと考えられる溝状遺構中の炭化物を採取した。整地層を除去し、確実に溝内に封入されたものを取り上げた。

 試料№3は、基壇後面の階段東側を対象とした。試料№2と同じく、Ⅲ期整地層中に封入されたものを採取した。この地点は、試料№2より整地層は厚く、残りの良いⅢ期整地層下位の試料であるため、まず汚染されることは考えられない試料である。」『大宰府政庁跡』354頁

 この第180次調査は、大宰府政庁が天慶の乱(940年)での焼失後に再建されたことを確認した貴重な調査でした。しかも、正殿付近の焼土層から採取した炭化物の放射性炭素年代測定もなされ、各遺構の年代を考察するデータの一つとなりました。
 最も古い値を示した試料№1の炭化物の中央値は525年ですが、政庁Ⅱ期の瓦の内側に付着した炭化物ですから、恐らく重い屋根瓦を支えていた梁か柱の燃焼物(煤か)ではないでしょうか。その場合、太い木材が使用されたはずですから、それだけ年輪の数も多く、木材の内側と外側では恐らく百年以上の差があるでしょうから、測定中央値(525年)から政庁Ⅱ期の創建年を判断するのはあまり適切ではありません。しかしながら、その年代よりも政庁Ⅱ期の創建は古くはなりませんから、こうした調査は無駄ではありません。
 以上のように、草野さんが紹介された測定値は、残念ながら太宰府政庁Ⅰ期やⅡ期の創建年の根拠としては使いにくいデータであることがわかりました。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。


第2455話 2021/05/10

大宰府政庁の科学的年代測定(14C)情報(1)

 古田先生とは様々なテーマで意見交換や討論を行いましたが、どうしても合意に至らなかったテーマがいくつかありました。その一つが『宋書』に見える「倭の五王」の王都の場所についてでした。『宋書』には当時の倭国王都の位置情報が記されていませんから、このテーマは文献史学ではなく考古学上の根拠に基づく必要がありました。ですから、先生との論争もこの分野での知見に基づいて行ったのですが、今でもそのときのことをよく憶えています。
 古田先生は太宰府都府楼跡(大宰府政庁Ⅰ期)とするご意見でしたが、わたしは大宰府政庁Ⅰ期出土の土器編年はとても五世紀までは遡らないし、出土遺構も堀立柱の小規模なものであり、倭王の宮殿とは考えられないと反論してきました。そして次のような対話が続きました。

古田「それならどこに王都はあったと考えるのか」
古賀「わかりません」
古田「水城の外か内か、どちらと思うか」
古賀「五世紀段階で九州王朝が水城の外側に王都を造るとは思えません」
古田「だいたいでもよいから、どこにあったと考えるか」
古賀「筑後地方ではないでしょうか」
古田「筑後に5世紀の王宮の遺跡はあるのか」
古賀「出土していません」
古田「だったらその意見はだめじゃないですか」
古賀「だいたいでもいいから言えと先生がおっしゃったから言ったまでで、まだわかりません」

 およそこのような「論争的」対話が続いたのですが、合意には至りませんでした。しかし「水城の内側(南側)」という点では意見の一致を見ていました。倭王の都城についてはその他にも論争があり、そのことを紹介した論稿を古田先生没後(三回忌の翌年)に発表しました(注①)。いずれの論争も、懐かしい思い出でばかりです。
 この論争テーマには二つの論点(土器・古墳)がありました。一つは大宰府政庁Ⅰ期の整地層から、7世紀第3四半期後半から第4四半期に編年されている「須恵器坏B」(注②)と呼ばれる土器が出土していることでした。この土器の編年を、いくらなんでも5世紀まで二百年も遡らせるというのは無茶というもので、この出土事実をわたしは強く主張しました。
 二つ目は、古田先生が論文発表されていた〝九州王朝の筑後への移動〟という仮説です。それは「『筑後川の一線』を論ず」(注③)という、古田学派でもあまり知られていない小論文ですが、筑後川を挟んでの九州王朝王都の移動変遷に関する重要論文です。
 要旨は、弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に中心領域が移動するというもので、その根拠としてそれぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷するという指摘です。その理由として、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられています。
 この「筑後川の一線」という指摘に基づいて、わたしは「九州王朝の筑後遷宮」という仮説を提起し、高良大社の玉垂命こそ古墳時代の倭国王(倭の五王ら)であったとする論文(注④)を発表しました。古田先生も「『筑後川の一線』を論ず」において、「弥生と古墳と、両時代とも、同じき『筑後川の一線』を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは『主敵方向』のみだ。この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」とされています。
 この論文を発表された当時、古田先生は「倭の五王」の王都を筑後とされていたのですが、いつの頃からか太宰府説に変わられていました。しかし、晩年の先生の認識が記された『古田武彦の古代史百問百答』(注⑤)には「倭の五王」の王都の位置については触れられていませんので、わたしとの論争の結果、態度を保留されたのではないでしょうか。
 いずれにしても、この仮説は重要なもので、そのことをわたしは繰り返し訴えましたが(注⑥)、古田学派内からの反響はありませんでした。他方、わたしは土器編年以外に大宰府政庁跡の暦年を探る方法はないものか検討を続けてきました。その中で、大宰府政庁跡出土炭化材の炭素同位体比(14C)年代測定値が『大宰府政庁跡』(注⑦)に発表されていたことを草野善彦さんの著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注⑧)で知りました。(つづく)

(注)
古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年8月。古田先生と見解が対立したテーマについての二人のやりとりについては、先生の三回忌が過ぎるまでは論文発表しないとわたしは決めていた。
②7世紀後半の代表的須恵器で、蓋につまみがあり、底に「足」がついている。652年(九州年号の白雉元年)創建の前期難波宮整地層からは出土せず、694年に持統が遷都した藤原宮(京)整地層からは大量に出土する。これらの出土事実や共出した木材の年輪年代測定・年輪セルロース酸素同位体比年代測定などのクロスチェックにより、その編年観が成立している。
 年輪セルロース酸素同位体比年代測定については、拙稿「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟、同第672話 2014/03/05(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟を参照されたい。
③古田武彦「『筑後川の一線』を論ず」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
⑤古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、2015年。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」555話(2013/05/05)〝筑後川の一線〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1382話(2017/05/04)〝「倭の五王」の都城はどこか(1)〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年9月。後に『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)に転載。
⑦『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
⑧草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。本書を著者から贈呈していただいた。記してお礼申し上げる。


第2454話 2021/05/09

水城の科学的年代測定(14C)情報(3)

 今回、紹介した炭素同位体比(14C)年代測定結果は、水城の築造(完成)時期を7世紀後半、おそらくは天智三年(664年)の築城とする説を支持すると、わたしは指摘しました。この拙稿をFaceBookでご覧になった高野博秀さんと正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、重要なご指摘をいただきました。おかげで、わたしの史料理解や問題点に対する認識が深まり、感謝しています。それぞれ学問上の重要な問題提起が含まれているため、「洛中洛外日記」で改めて丁寧に返答させていただくことにしました。両氏の指摘は次の通りです。

(1)高野博秀さんからの指摘
〝素朴な疑問です
あんな大規模な構造物が数年で造れる訳がない。しかも水を貯えるならば。参考までに、太宰府に来て戸惑うことの一つに水城駅と水城なる地区がかなり離れていること。全長が長いからだろうけど、水城は佐賀まで続くとも?〟

(2)正木 裕さんからの指摘
〝「炭素同位体比(14C)年代測定の中央値は、660年(最上層)」とあるのに、何故「白村江敗戦後の664年」にこだわるのか、理解できません。660年(白村江前整備)と664年(敗戦後整備)では「歴史観」が逆転します。戦争突入直前に防衛施設整備が行われたのか、敗戦で膨大な犠牲者を出し、国力が失われた中で大工事が行われたのか、どちらが考えやすいのかですね。660年でいいのでは?C14の中央値を無視して「664年と『書紀』に書いてあるから」というだけであれば『書紀』は正しいとする通説と変わらないのでは。〟

 まず、高野さんの指摘に対して、わたしの見解を説明します。実はわたしも太宰府都城研究を始めた当初は、水城の造営は長期間かけて行われ、白村江戦前には完成していたと考え、そうした論文(注①)を発表していました。それは次の二つの見解に基づいていました。
 白村江戦前に水城は完成していたとする見解は古田先生が主張されてきたもので、敗戦後の筑紫は唐の進駐軍に制圧されており、その中で水城など造営できるはずがないという理由でした。これは正木さんからの指摘にもあったもので、古田学派内では通説としてもよいほどの多数説となっています。
 水城の造営には長期間を要したであろうとする見解は、内倉武久さんが著書『太宰府は日本の首都だった』(注②)で示された水城の木樋の14C年代測定値(540年)を根拠としていました。
 その後、内倉さんは論稿「太宰府都城の完成は五世紀中ごろ」(注③)において、水城の敷粗朶層サンプル三点の14C年代測定中央値(上層660年、中層430年、下層240年)を根拠に、「太宰府都城がほぼ完成したのは井上氏(井上信正氏:古賀注)の想定より二百年以上古い五世紀中ごろ、いわゆる『倭(ヰ)の五王』の時代である。」「太宰府は卑弥呼が当初建設した都城である可能性が高い。」とされました。
 この内倉論稿を読み、その結論に疑問を感じたわたしは、水城に関する考古学報告書(注④)を自らの目で確認することにしました。その結果、敷粗朶のサンプリングの信頼性に差があることから、最上層の中央値660年(注⑤)がもっとも安定した測定値であることを知り、そのことを論文発表しました(注⑥)。
 他方、水城築造に関する先行研究を勉強したところ、版築により造成された水城は、台風の季節が終わり、翌年の梅雨入りの前までに築堤を完了しておかなければならないことも知りました。降雨により造成途中の版築が流されてしまうからです。そのため、基底部の版築とその上層堤部の版築を雨が少ない季節に大量の労働力を集中投入して一気呵成に終えなければなりません。従って、版築工法の実施は半年程度で完了させ、その前後の工程を含めても、恐らく数年で水城は完成したと考えるに至ったのです。
 以上が高野さんのご指摘に対する一応の返答ですが、版築工程以外の準備工程(設計・測量・整地・工事用道路施設の造営など)や後工程(城門・城壁などの建造)に、どの程度の期間が必要かは正確にはわかりません。引き続き、古代建築の専門家による研究論文を調べたいと考えています。
 ですから、現時点でのわたしの考えは、〝水城は七世紀中頃から後半にかけて築造・完成したもので、恐らくは唐との開戦に先立って、太宰府防衛のために準備・計画され、完成は『日本書紀』に記された天智三年(664年)としても問題なく(他に史料根拠がない)、その工事期間は数年と思われる〟というものです。高野さんのご指摘に感謝します。(つづく)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。後に『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
②内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
③内倉武久「太宰府都城の完成は五世紀中ごろ」『九州倭国通信』185号、2017年3月。
④『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
⑤この測定値は測定原理上の有効桁数により、下一桁を丸めた数値であり、660年という暦年には数理統計上のほぼ中央値という以上の精確性はない。
⑥古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。


第2451話 2021/05/07

水城の科学的年代測定(14C)情報(1)

このところ文献史学の研究に没頭してきましたが、今日は久しぶりに考古学、特に太宰府関係の年代測定や土器編年についての報告書を読みました。その成果として、水城の基底部出土敷粗朶の炭素同位体比(14C)年代測定について、新しいデータがあることを知り、水城の築造時期についての確信を深めました。
 水城の築造時期について、わたしは『日本書紀』天智紀に見える次の記事の年代(664年)として問題ないと考え、論文を発表してきました(注①)。

 「是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国等に、防と烽を置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ。」『日本書紀』天智三年是歳条(664年)

 その主たる根拠は水城の基底部から出土した敷粗朶の炭素同位体比年代測定値でした。
 同敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていたもので、平成十三年の第35次発掘調査で、調査地の地表から2~3.4m下位にある厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見されました。それは敷粗朶と積土(約10cm)を交互に敷き詰めたものです。その敷粗朶層最上層から採取した粗朶の炭素同位体比年代測定の中央値が660年でした。その数値を重視すると、敷粗朶層の上にある積土層部分(1.4~1.5m)の築造期間も含め、水城の造営年代(完成年)は七世紀後半頃となり、『日本書紀』に記された水城造営を天智三年(664)とする記事ともよく整合しています。
 なお、同敷粗朶層からは最上層のサンプルとは別に、「坪堀」という方法で更に下層からのサンプルも採取されており、その年代は中央値で「坪堀1中層第2層、430年」と「坪堀2第2層、240年」とされ、最上層とは約200~400年の差がありました。わたしはこの差について、サンプリング条件が原因と考えていました。なぜなら、厚さ約1.5mの積土中に11面ある敷粗朶層が数百年もかけて築造されたとは考えられなかったからです。従って、最も安定したサンプリング方法により採取された最上層の粗朶の測定値が最も信頼性が高いと判断したのです。「調査報告書」(注②)にも、「各一点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とあり、その追加測定を待っていました。ところが、その追加測定が既に実施されていたことを今回の勉強で知りました。(つづく)

(注)
①古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2016年5月。
古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2016年6月。
 古賀達也「太宰府都城の年代観 ―近年の研究成果と九州王朝説―」『多元』140号、2016年7月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1354話(2017/03/16)〝敷粗朶の出土状況と水城造営年代〟
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。


第2430話 2021/04/11

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その5)

服部静尚
「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の構成は「巻頭言」の後に「総括論文」「各論」「コラム」、そして特集以外の「一般論文」からなっています。「一般論文」は会員からの投稿、『古田史学会報』などに掲載された論稿を対象に、書籍の形で後世に残すべきと編集部で判断したものを採用します。今回、採用論文選考の編集会議でわたしが最も強く推薦したのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」でした。
 同論稿は『古田史学会報』150号(2019年2月)に掲載されたもので、わずか五頁の小論ですが、シンプルで頑強な論理と根拠に基づいた秀論で、古代の真実(多元史観・九州王朝説)は万人の眼前にあり、かくも簡明で頑固であるということを示す好例でした。「太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する」という、この服部説について、わたしは「洛中洛外日記」1834話(2019/02/09)〝『古田史学会報』150号のご案内〟において、次のように評しました。

 〝服部さんは、太宰府条坊都市の規模が平城京などの律令官僚九千人以上とその家族が居住できる首都レベルであることを明らかにされ、太宰府が首都であった証拠とされました。この論理性は骨太でシンプルであり強固なものです。管見では古田学派による太宰府都城研究において五指に入る優れた論稿と思います。〟

 同論稿には服部さんご自身による先行論文「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」(注)がありますので、そちらも是非お読みいただければと思います。

(注)服部静尚「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」『発見された倭京―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)。初出は『古田史学会報』136号、2016年10月。


第2262話 2020/10/15

「防人」と「防」と「防所」

 『古田史学会報』160号に掲載された山田春廣さんの論稿〝「防」無き所に「防人」無し〟は優れたものでした。従来、『日本書紀』に記された「防人」「防」はともに「さきもり」と訓まれ、辺境防備の兵とされてきましたが、山田稿では「防」は九州王朝(倭国)防衛のために対馬・壱岐・筑紫国防衛のために建設された防衛施設(版築土塁)であり、「防人」はその「防」に配備さたれた防備兵(戍)のこととされました。『日本書紀』の用例悉皆調査に基づいて導き出された仮説であり、その結論だけではなく、方法論にも説得力を感じました。この仮説が更に検証されることを願っています。
 山田稿を読んで、以前から気になっていたことを思い出しました。佐賀県に「防所」(ぼうじょ、ぼうぜ)という地名があり、現在でも知られているのが、吉野ヶ里遺跡の東にある三養基郡上峰町坊所です。現在は「ぼうじょ」と訓むようですが、『佐賀縣史蹟名勝天然記念物調査報告 下巻』(佐賀県・佐賀県教育委員会編、昭和51年)に収録されている昭和26年の報告書には「ぼうぜ」と記されています。「所」を「ぜ」と訓む例は、滋賀県大津市膳所(ぜぜ)や奈良県御所(ごせ)市があり、これは古い言葉(地名接尾語)ではないでしょうか。
 同書によれば、佐賀県内三カ所に「防所」地名があったとされ、先の上峰村坊所の他に、基山の東峰に「城戸ボージョ」と呼ばれている所があり、『和名抄』高山寺本「佐嘉郡」の条に「防所郷」の名前があるとのこと(地名としては現存せず、正確な所在地は未詳)。弘仁四年八月九日の太政官符により、肥前国の軍団が三団であったことは明らかと同書869頁に紹介されており、佐賀県内三カ所の「防所」の存在(数)と一致しています。
 この「防所」は、山田説とどのように整合するのでしょうか。それとも、同書の説明にあるような律令体制下の軍団の駐屯地と考えてよいのか興味があるところです。基肄城にある「城戸ボージョ」は山田説の「防」(防衛施設)に対応すると考えて問題ありませんが、上峰村の「坊所」は当地に版築土塁の防衛施設があるのかどうかが問題となります。同地は吉野ヶ里遺跡の近隣であり、古墳や廃寺跡など古代遺跡は少なくないようですので、太宰府から吉野ヶ里を結ぶ軍事道路の守備隊がいたことは間違いないように思われます。ちなみに、偶然かもしれませんが、上峰村坊所の近くには佐賀県唯一の陸上自衛隊の基地(目達原駐屯地)があります。今も昔も軍事上の要衝の地ということなのでしょう。
 更に山田説を突き詰めれば、九州王朝の首都太宰府を防衛する山城や版築土塁付近に「防」地名が遺っていてほしいところです。今のところ、佐賀県の「坊所」地名しかわたしは知りませんので、当地の皆さんの調査協力を賜りたいと願っています。


第2258話 2020/10/11

古典の中の「都鳥」(5)

 『伊勢物語』(九段)の舞台、武蔵国の「隅田川」で当地には飛来しない「都鳥」(宮こ鳥)のことが詠われることから(注①)、わたしは謡曲「隅田川」(注②)を思い出しました。それにも隅田川に「都鳥」(鴎のこと)が登場するからです。能楽(謡曲)の中に九州王朝系のものがあることは古田学派の研究者から指摘されてきました(注③)。九州王朝の都があった北部九州に飛来する渡り鳥が「都鳥」と呼ばれている事実は九州王朝説を支持するもので、その「都鳥」が詠われる謡曲「隅田川」や『伊勢物語』(九段)の説話は、本来は九州王朝の「都」から武蔵国「隅田川」へ、人買いにさらわれたわが子を探すために「物狂い」(旅芸人)となった母親が放浪したという故事に由来するのではないかとわたしは考えました。
 たとえば、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は謡曲「桜川」の淵源となる説話は北部九州で成立したとされ(注④)、謡曲「桜川」に見える地名(日向、桜の馬場、箱崎)が筑前にあることなどを根拠とされました。謡曲「隅田川」には、地名として武蔵国の「隅田川」の他に、母子の出身地「都」「北白河」、その父方の姓「吉田」が見えます。そこで、これらの地名などが都鳥が飛来する九州王朝の「都」に存在したはずと考え、博多湾岸や太宰府周辺の地名を調査しました。その結果、太宰府天満宮の西側に「白川」という地名が見つかりましたが、そこは都鳥が飛来する沿岸部ではないので、有力候補地とはできませんでした。
 もしやと思い、大分県(豊前国)の京都(みやこ)郡を調査したところ、苅田町の南部に「白川」という地名があり、隣接する行橋市北部に「吉田神社」がありました。「吉田神社」の近くには小波瀬川があり、東流し長峡川と合流、そのすぐ先が海です。この地域であれば都鳥が飛来しそうですが、「吉田神社」の由来など現地調査が必要です。
 現時点ではこれ以上の調査はできていませんが、引き続き、北部九州の地名や「都鳥」伝承の調査を続けます。(おわり)

(注)
①『伊勢物語』(九段)に「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」の歌が記されている。『古今和歌集』(411)にも同様の説話と歌が見える。
②観世元雅(かんぜもとまさ、1394・1401頃~1432)の作。
③新庄智恵子『謡曲の中の九州王朝』新泉社、2004年。
④正木 裕「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。
 謡曲「桜川」(世阿弥作)も、筑紫日向(福岡県糸島の日向)で東国の人買いに連れ去られたわが子「桜児」を、母親が「物狂い」(旅芸人)となって常陸国(茨城県桜川市)まで放浪して再会するという内容で、「隅田川」と似た筋書きです。「隅田川」では、息子は一年前に亡くなっていたという悲劇もので、この点が「桜川」とは異なります。


第2231話 2020/09/15

古典の中の「都鳥」(1)

 冬になるとシベリア方面から博多湾(北部九州)に飛来する都鳥(みやこどり)と呼ばれる鳥について、「洛中洛外日記」1550話(2017/12/08)〝九州王朝の都鳥〟で紹介し、博多湾岸に九州王朝の都があったから都鳥と呼ばれるようになったと解説しました。すなわち、このミヤコドリ科の都鳥はほとんどが博多湾など北部九州にしか飛来しないことから、九州王朝説でなければ都鳥という名称の説明がつかず、九州王朝説の傍証ともいえる渡り鳥です。
 今回は、古典に見える「都鳥」を紹介し、都鳥がどのように認識されていたのかについて考察します。管見では次の『万葉集』と『伊勢物語』に見える「都鳥」が著名です。(つづく)

 「船競ふ 堀江の川の水際に 来(き)居(い)つつ鳴くは 都鳥かも」『万葉集』巻第二十 4162 (大伴宿禰家持の作)

 「さるおりしも、白き鳥の嘴(はし)と脚(あし)と赤き、鴫(しぎ)の大きなる、水のへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、『これなん宮こ鳥』といふを聞きて、
 名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
 とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。」『伊勢物語』九段 (この歌は『古今和歌集』にも収録されている。411)


第2082話 2020/02/12

高倉彰洋さんの「観世音寺伽藍朱鳥元年完成」説

 「洛中洛外日記」1841話(2019/02/19)〝九州王朝説で読む『大宰府の研究』(5)〟で、高倉彰洋さん(西南学院大学名誉教授)の「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」(『大宰府の研究』所収)を紹介しました。それは瓦の編年と文献史学の研究により、観世音寺の伽藍完成を朱鳥元年(686)とするもので、この説を以前から高倉さんは主張されていました。わたしの白鳳10年(670)創建説とは16年差ということの他、貴重な知見が示されており、この高倉説をわたしは高く評価してきました。
 たとえば、観世音寺創建瓦「老司Ⅰ式」を従来説の7世紀後半頃(天智期)よりも新しく編年(藤原宮式中段階)した岩永省三さんの説(「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』№7 2009年)に対して、次のような反論が論文中の「注17」でなされています。

 「観世音寺伽藍の完成を朱鳥元年としたとき、創建瓦の老司Ⅰ式の年代が課題となる。近年の老司Ⅰ式に関する諸説を検討した岩永省三は、本薬師寺式系譜に有り、藤原宮式の中段階に併行するとする〔岩永二〇〇九〕。藤原宮中段階の瓦は藤原宮大極殿に葺かれている。大極殿の初見が文武二年(六九八)だから、中段階の瓦も六九八年以前に造られていたことになる。ただ、岩永が指摘するように藤原宮式瓦とは文様の細部に違いがあり、造りや文様の仕上げが粗く、精緻流麗に造る老司Ⅰ式と同列に論じるのには疑問がある。堂宇の建設に際して、まず骨格となる柱を建て、未完成の堂宇の内部や板材などの建築素材を雨の害から守るために瓦を葺くから、造瓦は大極殿造営事業の初めに行われる。それは六八〇年代前半であり、朱鳥元年に観世音寺伽藍の完成を考えたとき、老司Ⅰ式は藤原宮の瓦より数年早くなることになるが、国宝銅鐘の上帯・下帯を飾る偏行唐草文がその可能性を強める。」(517頁)

 老司Ⅰ式瓦の年代を藤原宮式まで新しく編年するという岩永説に対して、「藤原宮式瓦とは文様の細部に違いがあり、造りや文様の仕上げが粗く、精緻流麗に造る老司Ⅰ式と同列に論じるのには疑問がある。」との高倉さんの批判は、太宰府現地の考古学者の見解として説得力があります。
 他方、7世紀末頃には観世音寺が存在していたことを示す次の史料を紹介されています。

 「(朱鳥元年)観世音寺に封二百戸を施入する。」(『新抄格勅符抄』)

 平安時代に書かれた法制書『新抄格勅符抄』に見える、朱鳥元年(686)に「観世音寺に封二百戸を施入する」という記事を、高倉さんは自説の史料根拠として提示されています。観世音寺への「食封」記事は『続日本紀』にも見えます。

 「太政官処分、近江国志我山寺の封は庚子年(700)より起こして計り三十歳に満ち、観世音寺・筑紫尼寺の封は大宝元年(701)より起こして計り、五歳に満つれば並びにこれを停止せよ。皆封に准じて物を施せ、という。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条
〔意訳〕(前略)大宰府観世音寺の食封は、大宝元年から計算すると満五年になるので、これを停止し、食封に準じた物を施入するように、との処分を下した。

 これらの記事から、大宝元年以前から観世音寺には封戸・食封が施入されており、朱鳥元年までには観世音寺が完成していたことがうかがえます。このように、近畿天皇家一元史観の研究者からも観世音寺が七世紀後半には完成していたとする説が出されているのです。
 しかし、通説の論者はこのことを認めることができないようです。それは、大宰府政庁・観世音寺・朱雀大路よりも太宰府条坊の成立が先行する、という井上信正(太宰府市教育委員会)説が最有力になったためと思われます。この井上信正説(観世音寺よりも条坊造営が先)と高倉説(観世音寺伽藍朱鳥元年完成)を承認すると、太宰府条坊都市の成立が藤原京(694年遷都)よりも先になってしまいます。大和朝廷の都(藤原京条坊都市)よりも「地方都市」に過ぎない太宰府条坊都市のほうが先に造営されていたということは、通説(近畿天皇家一元史観)論者にとっては受け入れがたい〝不都合な真実〟ではないでしょうか。


第2081話 2020/02/11

観世音寺「養老繪圖」の証言

 「観世音寺注進本寺進上公験等案文目録事」には「大宝四年縁起」の他にも、「養老繪圖一巻」という記事が見えます。その名称から判断すれば、養老年間(717〜724)に描かれた観世音寺の絵図と見るべきものです。同目録には「養老繪圖一巻」の右横に「雖入目録不進」と書き込まれていることから、この絵図は、この時、東大寺には行かなかったようです。
 この「養老繪圖一巻」とは観世音寺が描かれたものではなかったでしょうか。観世音寺から東大寺への献上品目録ですから、とりたてて説明も無く「養老繪圖一巻」とあれば、養老年間の観世音寺の姿が描かれていたと判断するのが妥当です。そうであれば、養老年間には観世音寺が創建されていたことになります。そのことは先に紹介した「大宝四年縁起」と同じ結論を示します。すなわち、『続日本紀』を根拠とした観世音寺天平年間創建説は成立しないということです。
 なお、古の観世音寺の姿を伝えるものに、有名な大永六年(1526)写の「観世音寺古図」というものがあります。この古図は、観世音寺の考古学的発掘調査の結果と同じ伽藍配置を示しており、また、焼失前の五重塔も描かれていることから、創建観世音寺の姿を伝えていると思われます。今回紹介した「養老繪圖」が12世紀に現存していたことを考えると、大永六年に写された「観世音寺古図」はこの「養老繪圖」を写した可能性が高いのではないでしょうか。


第2080話 2020/02/10

観世音寺「大宝四年縁起」の証言

 観世音寺の創建を通説では、『元亨釈書』に見える落慶法要記事を根拠に天平18年(746)としています。しかし、創建が更に遡ることを示す史料は少なくありません。今回は、「観世音寺注進本寺進上公験等案文目録事」という史料を紹介します。
 観世音寺は度重なる火災や大風被害のため貧窮し、独力での復興は困難となったため、保安元年(1120)に東大寺の末寺となったのですが、そのおり、東大寺に提出した観世音寺の文書案文(写し)の目録が存在します。それが「観世音寺注進本寺進上公験等案文目録事」ですが、同目録中には注目すべき書名があります。「大宝四年縁起」です。大宝四年(704)に成立した観世音寺の縁起があるということは、それ以前に観世音寺は創建されていたことを意味します。
 なお現在、観世音寺に同縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものでは延喜五年(905)成立の『観世音寺資財帳』があります。九州王朝の中心的寺院であった観世音寺の縁起は近畿天皇家一元史観によって書き直され、あるいは破棄されたのではないでしょうか。


第2079話 2020/02/09

『平安遺文』に見える観世音寺「天智天皇草創」説

 「洛中洛外日記」2078話(2020/02/08)で、文明12年(1480)に観世音寺を訪れた宗祇の『筑紫道記』に見える観世音寺「白鳳年中草創」記事を紹介しました。同様の認識が平安時代(12世紀初頭)の観世音寺側にもあったこと示唆する史料が『平安遺文』に収録されています。次の史料です。

○筑前國観世音寺三綱等解案
 「當伽藍は是天智天皇の草創なり。(略)而るに去る康平七年(1064)五月十一日、不慮の天火出来し、五間講堂・五重塔婆・佛地が焼亡した。」(古賀訳)
 元永二年(1119)三月二七日
 『平安遺文』〔一八九八〕所収。※内閣文庫所蔵観世音寺文書
 
 康平七年(1064)の火災により観世音寺は五重塔や講堂等が全焼し、金堂のみが火災を免れたのですが、その55年後の元永二年に観世音寺から出された上申書の下書き「解案(げあん)」です。
 観世音寺の三綱(寺院を管理する僧職の総称)が書いた公文書に、「當伽藍は是天智天皇の草創なり」とあり、観世音寺の公的な見解として、当寺の草創が天智天皇によるとされているわけです。他の史料に見える観世音寺創建年「白鳳十年」(670)は天智天皇の末年に相当し、この「解案」の内容と対応しています。
 このように、平安時代においても観世音寺の僧侶たちがその草創年代を七世紀後半(天智天皇草創)と主張していることは重要です。また、この「解案」は近畿天皇家の時代、律令制下の公文書ですから、「天智天皇の草創」とだけ書き、九州王朝の年号「白鳳」の使用を避けていることも偶然では無いように思われます。現地ではこの時代でも、四百年前の九州王朝や九州年号の存在が伝承されていたのではないでしょうか。