太宰府一覧

第1354話 2017/03/16

敷粗朶の出土状況と水城造営年代

 『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ 平成13・14年』によると、敷粗朶が検出された水城遺構について次のような説明がなされています。
 敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていたことが従来の発掘調査により知られていました(3層の敷粗朶を発見)。ところが平成13年の発掘調査では、発掘地の地表から2〜3.4m下位に厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見されました。それは敷粗朶と積土(10cm)を交互に敷き詰めたものです。また、以前に発見されていた敷粗朶は水城土塁と平行方向に敷かれていましたが、今回のものは直角方向に敷かれていました。その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による1.5mの敷粗朶層が、400年もかけて築造されたものとは思えない出土状況です。単純計算では約4mm/年の築造ペースとなりますが、これはありえないでしょう。
 敷粗朶層最上層からサンプリングされた粗朶の炭素同位体比年代測定の中央値660年を重視すると、敷粗朶層の上の積土層部分(1.4〜1.5m)の築造期間も含め、水城の造営年代(完成年)は7世紀後半頃となり、『日本書紀』に記された水城造営を天智3年(664)とする記事と矛盾しないことになります。このことは、水城を白村江戦以前のかなり早い時期から長期間を要して造営されたと考えてきた従来の九州王朝説からすると意外ですが、引き続き検討したいと思います。(つづく)


第1355話 2017/03/17

敷粗朶のサンプリング条件と信頼性

 水城造営年代の判断材料の一つとなる敷粗朶とその炭素同位体比年代測定値について、さらに深く検討してみましょう。『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』によると、地表から2m下位に敷粗朶最上層があり、以下、11層の敷粗朶が発見されました。その統一された工法や1.5mの厚さに11層あることなどから、恐らく短期間に造営されたと考えざるを得ない遺構状況を示していることは既に指摘した通りです。
 粗朶の測定サンプルは3点で、その内の1点は地表から発掘を続けて最初に発見された敷粗朶最上層からのサンプルで、「GL-2m」とネーミングされています。測定の中央値が660年とされたものです。最上層敷粗朶面の写真も開示されており、確実に最上層の粗朶と断定できるサンプリング条件であり、サンプルの信頼性も高いものです。
 その他の2点について、内倉稿では「中層430年±」と「最下層240年±」と表記されているのですが、調査報告書では「坪堀1中層第2層」「坪堀2第2層」とネーミングされており、「坪堀」という狭い範囲での発掘で、しかも位置が異なります。層位についてもどちらが深いのか具体的な説明もなく、相対的な深度もよくわかりませんでした。考古学の専門家であればわかるのかもしれませんので、この点、引き続き調査します。ただ、最上層の粗朶とは発掘方法(サンプリング方法)が異なることは間違いないようです。このことが、サンプルの信頼性に差をもたらしているかもしれません。
 いずれにしましても、短期間に築造された敷粗朶層からの3サンプルの測定がこれほど異なっているのですから、そのサンプルや測定結果の信頼性が疑われるのも当然です。特に敷粗朶最上層の「GL-2m」とは発掘方法が異なる「坪堀1中層第2層」「坪堀2第2層」のサンプルに問題があるのではないかとする判断は妥当なものです。従って、本来なら測定結果からサンプルに疑義が生じた時点で、他のサンプル(合計32サンプルが採取されています)の測定を実施すべきです。もし、わたしの勤務先の製品検定において、これほどの不自然な測定値が出たら、再測定やサンプル数を増やしての追加測定を行うよう指示したでしょう。ですから、調査報告書に「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」(142頁)と記されていることはよく理解できます。当時は予算的な問題があったのかもしれませんが、九州歴史資料館が再度これらの粗朶サンプルの測定を実施されることを希望します。(つづく)


第1353話 2017/03/15

敷粗朶による水城の造営年代

 水城造営年代の根拠となる炭素同位体比年代測定値には先に紹介した木樋以外に、基底部補強に使用された敷粗朶があり、九州歴史資料館が測定しています。
 内倉さんの『多元』掲載論稿にもその測定値が紹介されていますが、出典文献が明示されていませんので、わたしが調査したところ、『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』(九州歴史資料館、二〇〇三年)の「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」と「9 水城第三五次調査(出土粗朶 年代測定)」にサンプリングの状況や方法とともに詳しく記されていました。
 内倉稿によると、水城から出土した敷粗朶の年代測定値として最上層出土を中央値660年、中層出土を中央値430年、最下層出土を中央値240年と紹介され、「太宰府都城は五世紀中ごろには完成」の根拠の一つとされているようです。しかし、内倉稿にはこれら敷粗朶の出土位相やサンプリング条件などが記されていませんし、どの調査報告書によるのか出典も不明でした。従って、内倉稿だけを読むと、水城築造に当たり使用された敷粗朶の年代測定値から、水城は3世紀頃から延々と築造され、400年程かけて7世紀中頃に完成したと思ってしまいそうです。当初、わたしも内倉稿により、そのように理解していました。(つづく)


第1352話 2017/03/12

炭素同位体比年代測定による水城の造営年代

 太宰府条坊の造営年代を判断する上で、同時期に築造されたと思われる水城について検討してみます。幸いに水城からは炭素同位体比年代測定データが存在します。一つは水城基底部の敷粗朶(三層)、もう一つは基底部に埋設された木樋です。
 構造物としての水城は、土塁、濠、導水管として埋設された木樋、東西に置かれた門やそこを通過する官道、中央を貫流する御笠川などで構成されます。土塁は上下に分かれ、上層は版築工法によるものです。下部の基底部の積土の単位は厚く、最下層付近には軟弱な地盤に対する積土の基礎強化を目的とした、枝葉を敷き詰めた敷粗朶工法がみられます。
 濠は、土塁の博多側の外濠、太宰府側の内濠とからなり、外濠は土塁に平行する形で幅約六〇m。内濠は土塁と平行する形で一部確認されていますが、全体の規模は不明です。
 この内濠から取水して外濠へ水を流し込むため、木樋が基底部に埋設されています。土塁幅と同じく約八〇mにわたる大規模なもので、複数発見されています。板材を繋ぎ合わせるための加工方法や、大型の鉄製カスガイを使用するなど高度な建築技術がみられます。
 水城の東西には門が置かれ、官道が敷設されていたことが分かっています。水城の中央を流れる御笠川については、貯水、あるいは交通機能を持っていたと考えられています。
 わたしが注目するのが基底部に埋設された木樋です。内倉武久さんの『太宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房、二〇〇〇年)によれば、観世音寺に保管されていた水城の木樋の炭素同位体比年代測定が九州大学の故坂田武彦氏によりなされており、西暦四三〇年±三〇年とのこと。この測定は一九七四年にまとめられたものなので、「最新データで測定値を補正してみると五四〇年ごろになりそうだ。」(一九三頁)と内倉さんは記されています。わたしも年輪年代値による補正表(注)で補正したところ、約五四五年頃となりましたので、内倉さんの補正とほぼ同じ年代を示しました。
 この補正により、木樋のサンプリングした部分の年輪の年代が五四〇年頃ということがわかります。水城の木樋はかなり大きなものですから、年輪のどの位置からのサンプリングなのか不明ですが、伐採年は五四〇年より数十年新しい可能性を有しています。少なく見積もってもこの木樋に使用した木材の伐採年は六世紀後半となるでしょう。そうすると六世紀後半の木材を使用した木樋を基底部に埋設し、その後に版築工法による土塁や門を築造するわけですから、水城の完成は六世紀後半から七世紀初頭以降となります。
 こうした木樋の炭素同位体比年代測定値から判断すると、水城は七世紀前半に造営された太宰府条坊都市防衛のため同時期に築造されたと考えて問題ありません。この場合、太宰府条坊都市造営を七世紀前半とするわたしの理解と整合します。(つづく)

(注)『鞠智城 第13次発掘調査報告』(平成4年3月、熊本県教育委員会)所収「二一表」


第1351話 2017/03/11

太宰府都城の造営年代

 太宰府都城の年代を論じる場合、現在の研究水準からすれば、条坊都市、その北部の政庁や観世音寺、水城、大野城、基肄城などを個別に年代を判断しなければなりません。「都城」というからには、それら全てを含みますから、学術論文であれば丁寧に分けて論じる必要があることは言うまでもないでしょう。
 わたしは太宰府条坊都市部分の成立を七世紀前半(倭京元年〔六一八〕が有力候補)、北部エリアの大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺などを七世紀後半(白鳳十年〔六七〇〕頃)の成立と考えていますが、残念ながらそれらの遺構から出土した木材等の炭素同位体年代比測定のデータの存在を知りません。まだ測定されていないのかもしれません。
 大野城については出土した柱の炭素同位体比年代測定がなされており、650年頃とする測定値が発表されています(西日本新聞 2012年11月 23日)。このことから、大野城は大宰府政庁Ⅱ期と同時期に造営されたと考えることができそうです。その規模と城内に点在する倉庫遺構の存在から、大野城は太宰府政庁の北の守りと条坊都市住民の為の逃げ城の性格を有しているようです。
 他方、博多湾方面からの敵の侵入から太宰府を防衛する為の水城は条坊都市とほぼ同時期の造営と考えていますので、水城の造営年代を炭素同位体比年代測定値を参考に検討してみることにします。(つづく)


第1350話 2017/03/10

炭素同位体比年代測定値の性格

 友好団体「多元的古代研究会」の機関紙『多元』No.138に掲載された内倉武久さんの「太宰府都城は五世紀中ころには完成していた」を興味深く拝見しました。内倉さんが太宰府都城の成立を五世紀中頃とされた根拠は炭素同位体比年代測定(14C)データという「実証」でした。よい機会ですので、古代史研究に使用する際の炭素同位体比年代測定値の性格について整理しておきたいと思います。
 古代遺跡や遺物の年代判定において、従来の土器や瓦の相対編年に対して、理化学的年代測定が科学技術の進歩とともにますます重視されるようになりました。炭素同位体比年代測定もその一つですが、絶対年代の判断材料になるという長所と同時に留意すべき弱点も持っています。従ってこの弱点や限界を正確に理解しておかないと、誤判断が避けられません。
 わたしの本業は化学ですが、勤務先の品質保証部で製品検定などにも携わってきた経験もあります。そのとき、機器分析や化学分析において様々な弱点や欠点に配慮しながら品質評価をしてきました。中でも、必要とされる評価基準に機器の精度や管理は適切なのか、測定するサンプルは製品全体を正しく代表しているのか、母集団に対してサンプル数は妥当なのか、分析担当者の技能は十分なのか、その技能水準の判定は確かかなど、実に多くの項目や課題をクリアしなければなりませんでした。その上で出された分析値を信用してよいのかどうかを勘と経験を交えて判断するのですから、理化学的分析能力と職人芸の両方が必要でした。理科学的分析と「勘と経験」では矛盾するようですが、機械による測定値を無条件に信用してはならないということは、同じような仕事の経験をお持ちの方であればご理解いただけるのではないでしょうか。
 理化学的年代測定全般を含め、特に炭素同位体比年代測定も同様で、それで出された年代をそのままサンプルやサンプル採取した遺物・遺跡の年代と判断することは危険です。ちょっと考えただけでも次のような問題をはらんでいるからです。

1.測定年代値は幅を持っており、たとえば西暦500年±50年のような表記がなされます。従って、年輪年代測定や年輪セルロース酸素同位体比測定のようにピンポイントで暦年を特定できません。
2.酸素同位体比については新たな補正値が報告されており、その補正が適切になされているか確認しなければなりません。
3.サンプルが木材の場合、年輪の最内層と最外層では年輪の数だけ年代幅があります。従って、木材のどの部分からサンプリングしたのかが明示されていない測定データは要注意です。木材が大きければそれだけサンプリング箇所の年代と伐採年との年代差発生の原因となります。
4.その点、米(炭化米)のような一年草は年代幅がなく、比較的年代判定に有利です。水城築造に使用された敷粗朶のような小枝の場合も年輪の数が少ないので、これも比較的年代判定に有利です。
5.炭化木材のように年輪の外側から焼失した炭からのサンプリングの場合、当然のこととして伐採年よりも焼けた年輪の数だけ古く測定値が出ます。したがって、炭による測定値はそのまま遺物・遺跡の年代とするのは危険です。
6.古代においては木材の再利用や、廃材の再利用は一般的に行われます。従って、測定値が伐採年か再利用時なのかの判断が必要です。その判断ができない場合は遺跡の年代判定に炭素同位体比年代測定値を採用してはいけません。
7.以上の問題点をクリアできても、その測定値から論理的に言えることは、そのサンプルの遺物・遺跡は測定値よりも「古くならない」ということであり、測定値の年代は参考値にとどまるという論理的性格を有しています。
8.従って、炭素同位体比年代測定は遺物・遺跡の年代判定の参考にはできるが、その他の年代判断方法(年輪年代や土器編年など)による総合的判断を加え、より適切な年代判定を行う必要があります。

 以上のことは極めて単純で常識的なことですから、理系の人間でなくてもご理解いただけるものと思います。
 また、最先端の理化学的分析結果であれば信頼できるとされた時代もありましたが、足利事件のように当時としては最先端のDNA鑑定結果(実証)を採用した判決によって悲劇的な冤罪事件が発生した経験もあり、現在では最先端技術はそれだけ未完成部分が多い不安定な技術と理解されるようになりました。他方、「和歌山毒物カレー事件」では最先端科学装置スプリング8による砒素の分析結果を根拠に有罪判決が出されましたが、その分析値に対する判断が誤っているとする京都大学の学者による指摘もなされるようになりました。(つづく)


第1341話 2017/02/23

続・太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼

 従来の「実証」に基づいて成立した飛鳥編年により太宰府の土器や遺構(政庁・条坊など)は編年されていました。例えば政庁Ⅱ期や条坊都市は8世紀初頭以降の造営とされてきました。大和朝廷の大宝律令下の地方組織「大宰府」に相当するとされてきたわけです。
 そられ旧「実証」に代えて、更に精密な調査に基づく新「実証」により太宰府編年の修正をもたらした画期的な研究が井上信正さん(太宰府市教育委員会)によりなされたことは、これまで繰り返し説明してきたところです。井上さんが発見された新「実証」とは、太宰府条坊都市の北側にある大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺と南側に広がる条坊とは異なる尺単位で設計されており、政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立の方が早いということを考古学的調査により明らかにされたことです。素晴らしい発見と言わざるを得ません。
 この発見により、井上さんは大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺の成立を従来通り8世紀初頭、条坊都市は藤原京と同時期がやや早い7世紀末頃とされました。その結果、太宰府は大和朝廷の都である藤原京と同時期に造営された日本最古の条坊都市となったのです。その後、前期難波宮の時代に条坊都市難波京造営の可能性が高まってきており、正確には太宰府は国内二番目の条坊都市となりますが、この点については別途詳述します。
 しかし、この井上さんによる新「実証」とそれに基づく修正太宰府編年も、実は田村さんの次の疑問に対して答えることができません。

 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁Ⅰ期の天智期:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」(田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和62年刊。)

 井上さんの新「実証」による修正太宰府編年によっても、太宰府条坊都市の成立が8世紀初頭から7世紀末頃になっただけであり、田村さんが疑問とされたように、やはり天智期(660〜670年頃)に水城や大野城で護るにふさわしい宮殿や都市は太宰府には存在しないことになるのです。しかも、昨年には筑紫野市から羅城跡と思われる大規模土塁が発見されたことにより、太宰府条坊都市の成立に対して、現地の考古学者は飛鳥編年による従来説ではますます説明困難となっているのです。
 やはり九州王朝説に基づく「論証」を優先させ、これまでの「実証」やそれに基づく太宰府編年を根底から見直す必要があるのです。まさに「論証」の出番です。これこそ「学問は実証よりも論証を重んじる」ということに他なりません。


第1340話 2017/02/22

太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の具体例として、太宰府編年における実証と論証というテーマで説明したいと思います。
 従来、大宰府政庁の編年はⅠ期の堀立柱の小規模建物が天智期、Ⅱ期の朝堂院様式の礎石造りの政庁と条坊都市が8世紀初頭の大宝律令下の「大宰府」とされてきました。その根拠は出土土器等の飛鳥編年に基づいたものです。飛鳥編年とは畿内の出土土器や遺構(考古学的出土事実:実証)を『日本書紀』の記事(史料根拠:実証)の暦年にリンクさせて成立した土器編年です。これは現代の考古学編年における「不動の通念」とされているものです。この「実証」に基づいた飛鳥編年に準拠して、太宰府出土土器等(考古学的事実:実証)が編年され、先の大宰府政庁編年が成立しているのです。これらの「実証」からは「太宰府は九州王朝の都」という古田説が成立不可能であることをご理解いただけるでしょう。
 このような「実証主義」に基づいた太宰府編年に根源的な疑問を呈した碩学がおられました。九州歴史学の重鎮、田村圓澄さん(1917-2013)です。田村さんは太宰府編年に対して率直に次のような根源的疑問を呈されていました。

 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁Ⅰ期の天智期:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」(田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和62年刊。)

 大宰府政庁Ⅰ期の小規模な堀立柱建物を防衛するために大規模な防衛施設である水城や大野城(『日本書紀』によれば天智期の造営:実証)が必要であったとは思えないという、きわめて理性的な疑問を呈されたのです。歴史学者の慧眼というべきでしょう。しかし、田村さんはこの疑問を解明すべく、新たな論証へは進まれなかったようです。大和朝廷一元史観の限界を田村さんでも越えられなかったのです。
 この疑問に対して、九州王朝説に立てば次のような論理展開が可能となります。

1.『日本書紀』の記述を「是」とすれば、天智期に水城や大野城など国内最大規模の防衛施設が造営されたこととなり、それにふさわしい防衛すべき宮殿や重要施設が既に当地にあったと考えざるを得ない。
2.それほどの宮殿には当地を代表する権力者がいたと考えざるを得ない。
3.『日本書紀』にはそうした筑紫の権力者の存在が記されていない。従って、大和朝廷側の権力者ではない。
4.そうした筑紫の権力者の存在は、古田武彦氏が提唱した九州王朝しかない。
5.従って、太宰府には日本列島最大規模の巨大防衛施設で守るべき九州王朝の王都があったこととなる。
6.その時期(7世紀後半頃)の宮殿遺構は通説の大宰府政庁編年では存在しない。
7.従って、通説の太宰府編年は間違っている可能性が高い。

 このように論理展開でき、この「論証」は従来の「実証」と対立するのですが、「学問は実証よりも論証を重んじる」という立場に立てば、この論証結果に従わざるを得ません。「論理の導くところへ行こう。たとえそれがいずこに至ろうとも。」です。こうして「太宰府は九州王朝の都」という仮説へと論証は進むのですが、もちろん「太宰府は九州王朝の都」などと記した「実証」などありません。わたしが古代史研究を進める上で、この論証と実証の関係性こそ古田史学を正しく理解し継承するためにどうしても避けて通れない課題でした。
 ちなみに、この太宰府九州王朝王都説の論証を試みたのが拙稿「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」です。「古田史学の会」HPに収録されていますのでご覧下さい。ただ、この論稿は2002年に発表したもので、現在の研究水準から見ると不十分かつ不正確です。しかし、初歩的ではありますが大宰府編年に対する疑問に真正面から挑戦したものであり、研究史的意義はあると思っています。
 なお付言しますと、わたしの前期難波宮九州王朝副都説も基本的に同様の論理構造と学問の方法からなっています。この点については別の機会に改めて詳述します。(つづく)


第1323話 2017/01/16

井上信正さんの謦咳に接す

 昨日は「九州古代の会」主催の井上信正さん(太宰府市教育委員会)の講演会に参加しました(於:ももち文化センター)。「大宰府-古代都市と迎賓施設」というテーマで、太宰府条坊の発掘調査にたずさわられている条坊研究の第一人者である井上信正さんの講演を是非ともお聞きしたいと、前日から実家のある久留米に戻っていました。講演会当日は大雪により新幹線ダイヤが乱れましたので、正解でした。
 初めてお聞きするような新発見や新説が次から次へと発表され、2時間では説明しきれないようでした。発表された新説の中でも特に驚いたのが、大宰府政庁の西に位置する「蔵司(くらのつかさ)」の礎石造りの大型建物が倉庫ではなく、唐長安城の麟徳殿に相当する「饗宴施設」とされたことです。その根拠は礎石配列や礎石が自然石ではなく加工されていることなどでした(大野城や奈良の正倉院など、倉の礎石は自然石をそのまま使用するのが普通で、蔵司の礎石は丸い柱に対応した加工が施されている。礎石配列も政庁正殿と同じ)。それではなぜ「蔵司」という地名が遺存しているのかという問題は残りますが、出土事実からの判断としては納得できるものでした。
 太宰府条坊都市が完成した後に大宰府政庁Ⅱ期と朱雀大路が造営されたことを井上さんは発見されたのですが、なぜその位置に造営されたのかという点についても明らかにされました。それは都城の南に位置する南山を「闕」とみなす秦始皇帝以来の中国都城の伝統を受け継いだ(模倣)ためと説明されました。大宰府政庁から南へ延びる朱雀大路の延長線上には基肄城の「東北門」があり、その位置関係が唐の乾陵(高宗・則天武后陵)に類似しているとのことでした。
 井上さんとは講演会後の懇親会でも隣の席に座らせていただき、太宰府や飛鳥・難波編年についてかなり突っ込んだ意見交換をさせていただき、とても有意義でした。「古田史学の会」の講演会へ講師として来ていただくことを了承していただきましたので、日程などが決まりましたらお知らせします。わたしは井上さんのお名前とその太宰府条坊研究は日本古代史学の研究史に残るものと確信しています。
 なお、1月21日の「古田史学の会」関西例会で、井上講演の概要をわたしから報告する予定です。


第1306話 2016/12/04

現地説明会資料に「大宰府都城」の表記

 筑紫野市前畑遺跡で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会資料が、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から送られてきましたので、解説部分を下記に転載します。
 この解説で驚くべき表現が使用されています。なんと「大宰府都城(とじょう)」と記されているのです。さらに「東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡」と説明されています。筑紫野市教育委員会による、太宰府を「都城」とするこの表記はほとんど九州王朝説による解説といえます。九州王朝の故地では、考古学的出土事実が当地の考古学者を確実に九州王朝説へと誘っているかのようです。
 さらに土塁の造営を「7世紀後半」と認定し、「大宰府防衛の羅城」と理解されていますが、実はこの理解は大和朝廷一元史観に決定的な一撃を与える論理性を有しています。すなわち、この土塁が防衛すべき「大宰府政庁Ⅱ期」の宮殿も7世紀後半には存在していたことが前提となった防衛施設だからです。従来の8世紀初頭という「大宰府政庁Ⅱ期」の編年が数十年遡るわけですが、ことはこれだけでは終わりません。「大宰府政庁Ⅱ期」よりも太宰府条坊都市の成立が早いという井上信正説がここでも頭をもたげてくるのです。
 井上信正説に従えば、「大宰府政庁Ⅱ期」が7世紀後半成立となることにより、太宰府条坊都市は7世紀前半まで遡り、難波京(652年前期難波宮造営)や藤原京(694年遷都)よりも太宰府がわが国最古の条坊都市となってしまうのです。もちろん九州王朝説に立てば当然の結論です。
 犬塚さんが現地説明会で、この土塁(羅城)が守るべき太宰府の創建時期について質問されたそうですが、筑紫野市教育委員会の担当者が回答できなかったのにはこのような「事情」があったからです。地元の考古学者が井上信正説や九州王朝説を知らないはずがなく、大和朝廷一元史観を否定してしまう今回の発見に、彼らも本当に困っていることと思います。

【現地説明会資料から転載】
    平成28年 12月3日(土曜日)・4日(日曜日)
    筑紫野市教育委員会 文化情報発信課
新発見太宰府を守る土塁
前畑遺跡第13次発掘調査 現地説明会

1.発見された土塁(どるい)
 筑紫駅西口土地区画整理事業に伴い実施している前畑遺跡の発掘調査では、弥生時代前期〜中期の集落、古墳時代後期の集落と古墳群、窯跡、中世の館跡、近世墓などが発見され、遺跡が長期間にわたって形成されてきたことがわかりました。
 今回の丘陵部での調査では、7世紀に造られたと考えられる長さ500メートル規模の土塁が、尾根線上で発見されました。

2.土塁の構造
 土塁は大きく上下2層から成り、上層の外に土壌(どじよう:模式図紫部分)を被せた構造です。上層は層状に種類の異なる土を積み重ねた「版築」(はんちく:模式図緑部分)と呼ばれる工法で造られています。このような工法は特別史跡の水城跡(みずきあと)や大野城跡(おおのじょうあと)の土塁の土壌にも類似しており、7世紀後半に相次いで築造された古代遺跡に共通した要素と言えます。
 ただ、すでに知られている水城や小水城、とうれぎ土塁、関屋(せきや)土塁といった7世紀の土塁は、丘陵と丘陵の間の谷を繋ぎ、敵の侵入を遮断する目的で作られた城壁としての機能が想定されています。
 今回、前畑遺跡で発見された土塁は、宝満川から特別史跡基難城跡(きいじょうあと)に至るルート上に構築されたもので、丘陵尾根上に長く緩やかに構築された、中国の万里の長城のような土塁となっています。
 また、土塁の東側は切り立った斜面になっており、西側はテラス状の平坦面を形成しています。これは東側から攻めてくる敵を想定した構造で、守るべき場所、つまり大宰府を防御する意図を持って築かれたと考えられます。

3,前畑遺跡で発見された土塁の歴史的な背景
 このように都市を防御するために城壁(土塁や石塁)を巡らす方法は、古代の東アジアで中国を中心として発達し、羅城(らじょう)と呼ばれていました。
 日本に最も近い羅城の類例は、韓国で発見された古代百済の首都・涸批(サビ)を守る扶余羅城(プヨナソン、全長8.4Km)があります。扶余羅城は、北と東の谷や丘陵上に土塁を構築し、西を流れる錦江(白馬江)を取り込んで羅城としています。自然の濠ともいうべき、河川をうまく利用して羅城を築いていることになります。
 日本書紀によれば、660年に滅んだ百済の遺臣達によって、この筑紫の地に664年に水城、665年には大野城と基難城が築造されており、脊振山系や宝満山系などの山並みの自然地形を取り込んだ形で大宰府にも羅城があったのではと長く議論されてきました。前畑遺跡の土塁は丘陵尾根上で発見され、丘陵沿いに北へ下ると、低地から宝満川へ至ります。このことから、当初の大宰府の外郭線は、宝満川を取り込んでいた可能性も想定され、古代の東アジア最大となる全長約51Kmにおよぶ大宰府羅城が存在した可能性がにわかに高まってきました。

4.土塁の評価
 前畑遺跡の土塁は、文献史料に記載はないものの、古代大宰府を防衛する意図を持ったものであると考えられ、百済の城域思想を系譜にもつ大宰府都城(とじょう)の外郭線(がいかくせん)に関わる土塁であると推測され、東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡です。
 このような巨大な都市が建設されるのを契機に、「日本」の国号や「天皇」といった用語が史料に現れ、「律令(りつりょう)」という法治国家の制度が整備され、現在の日本の原形としての古代国家が成立しました。前畑遺跡から見る景色は日本のあけぼのを感じる特別な眺望といえるのではないでしょう。


第1305話 2016/12/04

太宰府防衛土塁の現地説明会報告

 筑紫野市で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会が12月3日に開催されたそうで、参加された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から報告メールと写真が送られてきました。写真はわたしのfacebookに掲載していますので是非ご覧ください。犬塚さんのご了解をいただきましたので、メールを転載します。

【以下、メールから転載】
本日筑紫野市で発見された土塁の現地説明会がありました。
天候にも恵まれ多くの見学者や報道機関が集まり関心の高さが窺えます
筑紫野市教委の担当者も、これほど反響があるとは思わなかったとのことです。
さて、説明は別添資料に沿って行われましたので読んでいただければと思いますが、
資料にない説明及び質問に答えた部分については以下のとおりです。
 
●土塁の西側(内側)のテラス状になった部分は兵士が移動する道路として使用されていた。烽火がうまくいかなかった場合兵士がこの道路を走って連絡に行ったと思われる。
 
●大宰府羅城推定図にある外郭線が阿志岐山城と繋がっていないのは、阿志岐山城が西側(大宰府側)に向いて築かれていることから、羅城の外城として築かれた可能性が考えられるためである。
 
●この土塁と阿志岐山城の間を流れる宝満川も外郭線としていたと考えられるが、これは扶余羅城が錦江を外郭線としていたのと同じである。
 
●この土塁からは北に大野城や阿志岐山城、西に基肄城がよく見える位置にある。当時は水城も見えたと思われる。軍事上このようなロケーションは非常に重要である。
 
●このような羅城を造るためには、相当な人員とそれを支える住居、食糧補給等が必要だが、どのような体制で造られたか不明。
 
●この土塁が造られた時期が7世紀とする直接の根拠はないが、7世紀と判断した根拠は三つある。
 一つは、土塁のテラス状の道路が8世紀に使用されていたことと土塁の下にある古墳時代の遺跡が6世紀のものであることがわかっており、その間に当該土塁があること。
次に、この土塁は版築という工法で造られており、7世紀に造られた水城などの工法と同じであること。
 最後に、7世紀の東アジアが、このような防御施設が必要とされるような状況にあったこと。
 これらのことから7世紀と判断した。
 
 このような大規模な「大宰府羅城」が造られたとすれば、守るべき太宰府はいつごろできたのかと質問したのですが、はっきりした答えはありませんでした。「白村江の敗戦後に水城だけでも短期間ででできたとは思えない。」とのことでしたので、羅城全体となるとかなりの期間が必要ですが、その前に太宰府が存在する必要があるとするとどのような説明ができるのでしょうか。
 説明資料に太宰府が描かれていないのはそのためでしょうか。
 
 以上現地説明会の報告です。
 
犬塚幹夫


第1303話 2016/12/01

倭国と日本国の「尺」

 11月27日に福岡市で開催した「古田史学の会」主催の講演会では問題意識の高い質問が参加者から出され、講演会後の懇親会も含めて成功裏に終えることができました。ご協力いただいた久留米大学の福山先生、「九州古代史の会」の方々、「古田史学の会」会員の犬塚幹夫さん中村通敏さん、そして参加された皆様に御礼申し上げます。

 その質疑応答で、太宰府条坊地割(一辺約90m)の「尺」とその後に地割された北部(政庁・観世音寺)の「尺」の違いについての質問が出されました。井上信正さんは前者を「大尺」、後者を8世紀初頭の「小尺」とされたのですが、わたしは九州王朝(倭国)の「尺」制度の変遷について研究中でもあり、1尺は約30cm程度としか答えられませんでした。

 太宰府条坊の一辺90mという実測値から、約30cmの「尺」で300尺という整数が得られることから、七世紀初頭の九州王朝「尺」は約30cmと考えてよいかもしれませんし、あるいは36cmであれば250尺となります。この点、引き続き調査検討が必要です。

 先日、京都の染色工場の経営トップの方と懇談する機会があったのですが、そのとき正倉院宝物のカタログを見せていただきました。それには東大寺の「緑綾几帯(みどりあやのつくえのおび)」が掲載されており、それに墨で次のような長さと年代が記されていました。

「花机帯 長二丈三尺四寸 廣二寸五分 天平勝寶四年四月九日」「東大寺」

 解説には現在の実測値が「長六八二・〇 幅七・五」とあり、墨書の数値と実測値から計算すると、全長から1尺は29.145cm、幅からは30cmという数値が得られます。この計算値から、天平勝寶四年(752)時点の大和朝廷(日本国)の「尺」は1尺=29〜30cmだったことがわかります。ちなみに天平勝寶四年は東大寺の大仏開眼供養の年ですから、この帯はその儀式に用いられたものと思われます。

 この正倉院宝物カタログを見せていただいた方は草木染めの専門家で、愛子内親王が二十歳の宮廷儀式で着用される十二単(じゅうにひとえ)の天然染料を用いた染色を宮内庁から委託されているとのこと。その十二単に使用される生地は蓮糸(ハスの糸)で織られているそうで、それを天然染料(主に草木染)で復元することはかなり困難とのことでした。わたしも色素化学・染色化学のケミストの一人として、何かお手伝いできればと願っています。ちなみに、本日(12月1日)は愛子内親王15歳のお誕生日です。おめでとうございます。