第1354話 2017/03/16

敷粗朶の出土状況と水城造営年代

 『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ 平成13・14年』によると、敷粗朶が検出された水城遺構について次のような説明がなされています。
 敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていたことが従来の発掘調査により知られていました(3層の敷粗朶を発見)。ところが平成13年の発掘調査では、発掘地の地表から2〜3.4m下位に厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見されました。それは敷粗朶と積土(10cm)を交互に敷き詰めたものです。また、以前に発見されていた敷粗朶は水城土塁と平行方向に敷かれていましたが、今回のものは直角方向に敷かれていました。その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による1.5mの敷粗朶層が、400年もかけて築造されたものとは思えない出土状況です。単純計算では約4mm/年の築造ペースとなりますが、これはありえないでしょう。
 敷粗朶層最上層からサンプリングされた粗朶の炭素同位体比年代測定の中央値660年を重視すると、敷粗朶層の上の積土層部分(1.4〜1.5m)の築造期間も含め、水城の造営年代(完成年)は7世紀後半頃となり、『日本書紀』に記された水城造営を天智3年(664)とする記事と矛盾しないことになります。このことは、水城を白村江戦以前のかなり早い時期から長期間を要して造営されたと考えてきた従来の九州王朝説からすると意外ですが、引き続き検討したいと思います。(つづく)

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