太宰府一覧

第1299話 2016/11/19

天武朝(天武14年)国分寺創建説

 本日の「古田史学の会」関西例会はいつも以上にエキサイティングな一日となりました。中でも正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の発表で、天武朝(天武14年)国分寺創建説なるものがあったことを初めて知りました。正木さんの見解では『日本書紀』天武14年条に見える「諸国の家ごとに仏舎を造営せよ」という記事は、34年遡った九州王朝の記事とのことでした。国分寺のなかには創建軒丸瓦が複弁蓮華紋のケースもあり、その場合は天武期の創建とすると瓦の編年ではうまく整合するので、天武期(白鳳時代)における九州王朝の国分寺創建の例もあるのではないかと思いました。なお、正木さんの発表を多元的「国分寺」研究サークルのホームページに投稿するよう要請しました。

 茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の発表は、水城の軍事上の機能として、単に土塁と堀による受け身的な防衛施設にとどまらないとするものでした。このテーマについては茂山さんとのメールや直接の意見交換を交わしてきたこともあり、水城と交差する御笠川をせき止めることが、当時の土木技術で可能だったのか否かという質疑応答が続きました。来月も後編の発表を予定されているとのことで、わたしとは異なる見解ですが、刺激的で勉強になるものでした。

 なお、このテーマについて茂山説に賛成する服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)とわたしとで例会後の二次会・三次会で「場外乱闘」のような論争が続きました。知らない他人が見たら二人がケンカしているのではと心配されたかもしれませんが、関西例会ではよくあることですので、心配ご無用です。
11月例会の発表は次の通りでした。

〔11月度関西例会の内容〕
①「淡海」から「近江」そして「大津」は何時かわったのか(堺市・国沢)
②倭国・日本国考 八世紀初頭の造作(八尾市・服部静尚)
③「水城は水攻めの攻撃装置である」という作業仮説について(上)(吹田市・茂山憲史)
④藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について(川西市・正木裕)
⑤天武の「国分寺創建詔」はなかった -『書紀』天武十四年の「仏舎造営・礼拝供養」記事について-(川西市・正木裕)
⑥『二中歴』細注の「兵乱海賊始起又安居始行」と「阡陌町収始又方始」(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
大阪府立大学「古田史学コーナー」の移転(二階に)・パリ在住会員奥中清三さん寄贈の絵画(「壹」の字をデザイン)を「古田史学コーナー」に展示・千歳市の「まちライブラリー」(国内最大規模の「まちライブラリー」)で「古田史学コーナー」設置の協力・11/26和水町で古代史講演会の案内・11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の案内(久留米大学福岡サテライト)・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・会費未納者への督促・『古代に真実を求めて』20集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」の編集について・藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について・その他


第1295話 2016/11/04

井上信正説と観世音寺創建年の齟齬

 今朝は新幹線で豊橋市方面に向かっています。今日は蒲郡地区の顧客訪問を行い、明日は豊橋技術科学大学で開催される中部地区の化学関連学会で招待講演を行います。講演テーマは機能性色素の概要と金属錯体化学の歴史と展望(用途開発)などについてです。化学系学会等の講演はこれが年内最後となり、その後は今月26〜27日の熊本県和水町と福岡市での古代史講演に向けて準備を始めます。一昨日も京都市産業技術研究所で講演したのですが、今年は講演回数がちょっと多すぎたように感じますので、来年はもう少し落ち着いたペースに戻したいと思っています。

 拙稿「多元的『信州』研究の新展開」を掲載していただいた『多元』136号(多元的古代研究会)を新幹線車内で精読していますが、大墨伸明さん(鎌倉市)の「大宰府の政治思想」に太宰府条坊に関する井上信正説が紹介され、自説に援用されていることに注目しました。わたしも以前から井上信正さんの太宰府条坊の編年研究に関心を寄せてきましたので、古田学派の研究者に井上説が注目されだしたことは喜ぶべきことです。
 井上説の核心は太宰府条坊の北側にある政庁や観世音寺の区画と条坊都市の規格(小尺と大尺)が異なっており(そのため観世音寺の南北中心軸は条坊道路と大きくずれている)、政庁・観世音寺よりも条坊都市の方が先に造営されていることを考古学的に明らかにされたことです。その上で、井上さんは政庁2期の成立時期を通説通り8世紀初頭(和銅年間頃)、条坊都市の成立はそれよりも早い7世紀末とされました。その結果、太宰府条坊都市と藤原京(新益京)とは同時期の造営とされました。
 この井上説は大和朝廷一元史観にとっては「致命傷」になりかねないもので、わが国初の大和朝廷による条坊都市とされている藤原京と地方都市に過ぎない太宰府条坊都市が同時期に造営された理由を説明しにくいのです。ですから井上説は多元史観・九州王朝説にとって刮目すべきものです。
 政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立が早いとする井上説に賛成ですが、その年代については井上説では説明困難な問題があります。それは観世音寺の創建年についてです。『続日本紀』などにも観世音寺は天智天皇が亡くなった斉明天皇のために造営させたという記事があり、どんなに遅くても670年頃には大宰府政庁2期宮殿の位置と共に方格地割を決め、造営を開始していなければなりません。そうすると観世音寺以前に太宰府条坊都市が造営されたとする井上説により、条坊都市造営の年代は更に遡って、遅くても7世紀前半頃となります。その結果、太宰府条坊都市は藤原京よりも早く、わが国最古の条坊都市ということになるのです。この論理的帰結は九州王朝説にとっては当然のことですが、大和朝廷一元史観の学界にとって受け入れ難いものなのです。このような大和朝廷一元史観にとって「致命傷」となる論理性を持つ井上説は学界に受け入れられないのではと、わたしは危惧しています。
 他方、文献史学から観世音寺創建年を見ますと、九州年号の白鳳年間とする『二中歴』や、白鳳10年(670)とする『日本帝皇年代記』『勝山記』があります。観世音寺創建瓦の老司1式瓦の編年も藤原京に先行するとされてきましたから、文献史学と考古学の双方が観世音寺創建年を670年頃と、一致した結論を示しています。その上で井上説の登場により、太宰府条坊都市の造営は7世紀前半頃となり、わが国最古の条坊都市は九州王朝の都、太宰府ということになるのです。井上説が一元史観の学界に受けいれられることを願ってやみません。


第1285話 2016/10/13

『古田史学会報』136号のご案内

 『古田史学会報』136号が発行されましたので、ご紹介します。

 本号には九州王朝都城論に関する基本的で重要な論稿が掲載されました。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「古代の都城 -宮域に官僚約八千人-」です。7世紀における律令制度に基づく全国支配に必要な宮域(王宮・官衙)の規模を、『養老律令』に記載された中央官僚定員数や平安京や前期難波宮の宮域を図示し、八千人にも及ぶ官僚を収容できることが必要条件であると指摘されました。

 この服部さんの指摘により、今後、律令時代の九州王朝の都城候補を論ずるときは、これだけの規模の王宮・官衙遺構の考古学的出度事実の提示が不可欠となったのです。この規模の都城遺構を提示できないいかなる仮説も成立しません。ちなみに、この規模を有す7世紀における王都は太宰府と前期難波宮(難波京)、そして藤原宮(新益京)だけです。近江大津宮は王宮の規模は巨大ですが、周囲の都市化が進んでいるためか官衙遺構や条坊都市は未発見です。

 わたしからは「九州王朝説に刺さった三本の矢(中編)」と「『肥後の翁』と多利思北孤」を発表しました。九州王朝の兄弟統治の一例として、筑後の多利思北孤と鞠智城にいた「肥後の翁」を兄弟の天子とする仮説です。

 西村秀己さん(『古田史学会報』編集部)は古代官道南海道の変化が、九州王朝から大和朝廷への王朝交代に基づくことを報告されました。とても面白いテーマです。

 上田市の吉村八洲男さんは『古田史学会報』初登場です。古代信濃国の多元史観による研究です。このテーマは「多元的古代研究会」や「東京古田会」では活発に論議されています。「古田史学の会」でも関心が深まることが期待されます。

 136号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』136号の内容
○古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚
○「肥後の翁」と多利思北孤 -筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解- 京都市 古賀達也
○「シナノ」古代と多元史観 上田市 吉村八洲男
○九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案②
九州王朝(銅矛国家群)と銅鐸国家群の抗争  古田史学の会・事務局長 正木裕
○〔書評〕張莉著『こわくてゆかいな漢字』 奈良市 出野正
○南海道の付け替え 高松市 西村秀己
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1283話 2016/10/06

「倭京」の多元的考察

 九州年号「倭京」(618〜622年)は太宰府を九州王朝の都としたことによる年号であり、九州王朝(倭国)は自らの都(京)を「倭京」と称していたと考えていますが、『日本書紀』にも「倭京」が散見します。ところが、『日本書紀』の「倭京」はなぜか孝徳紀・天智紀・天武紀上の653〜672年の間にのみ現れるという不思議な分布状況を示しています。次の通りです。

○『日本書紀』に見える「倭京・倭都・古都」
①653年  (白雉4年是歳条) 太子、奏請して曰さく、「ねがわくは倭京に遷らむ」ともうす。天皇許したまわず。(後略)
②654年1月(白雉5年正月条) 夜、鼠倭の都に向きて遷る。
③654年12月(白雉5年12月条) 老者語りて曰く、「鼠の倭の都に向かいしは、都を遷す兆しなり」という。
④667年8月(天智6年8月条) 皇太子、倭京に幸す。
⑤672年5月(天武元年5月条) (前略)或いは人有りて奏して曰さく、「近江京より、倭京に至るまでに、処々に候を置けり(後略)」。
⑥672年6月(天武元年6月条) (前略)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭京へ遣す。(後略)
⑦672年7月(天武元年7月条) (前略)時に荒田尾直赤麻呂、将軍に啓して曰さく、「古京は是れ本の営の処なり。固く守るべし」ともうす。
⑧672年7月(天武元年7月条) (前略)是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率いて、急に倭京に馳せしむ。
⑨672年9月(天武元年9月条) 倭京に詣りて、島宮に御す。

 これら『日本書紀』に現れる「倭京」について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当)から、壬申の乱に見える「倭京」は前期難波宮・難波京のことではないかとするコメントがわたしのfacebookに寄せられました。その理由は、当時の「倭」とは九州王朝のことであり、「倭京」は九州王朝の副都(西村説では首都)である前期難波宮のことと理解すべきというものです。このコメントに対して、わたしは当初半信半疑でしたが、『日本書紀』の「倭京」記事を再検討してみると、作業仮説としては一理あると思うようになりました。その理由は次の通りです。

1.『日本書紀』に「倭京」記事が現れるのは前期難波宮の時代(652年創建〜686年焼失)に限定されている。通説のように奈良県明日香村にあった近畿天皇家の王都であれば、推古天皇や持統天皇の時代にも「倭京」は現れてもよいはずだが、そうではない。
2.壬申の乱では「倭京」の争奪戦が記されているが、当時の最大規模の宮殿前期難波宮が全く登場せず、従来から疑問視されていた。しかし、「倭京」が前期難波宮・難波京のことであれば、大友軍(近江朝)や天武軍が争奪戦を行った理由がより明確となる。

 以上のように、従来説では説明できなかった問題をうまく解決できることから、「倭京」=前期難波宮・難波京説は作業仮説として検討に値するのではないでしょうか。
 九州王朝では倭京元年に造営した太宰府条坊都市を「倭京」と呼んでいたのであれば、副都の前期難波宮・難波京もある時期に「倭京」と称されていた可能性があります。その史料的痕跡が『日本書紀』の孝徳紀・天智紀・天武紀上だけに現れた「倭京」ではなかったてしょうか。引き続き、精査検討したいと思います。


第1278話 2016/10/01

水城防衛技術の小論争

 「古田史学の会」の研究仲間との間で水城の防衛方法についてのちょっとした論争(意見交換)をメールで行っています。もちろん、わたしも勉強中のテーマですので、まだ結論には至っていませんが、とてもよい学問的刺激を受けています。
 その論争テーマとは、水城は博多方面から押し寄せる敵軍に対して、事前に御笠川をせき止め、太宰府側に溜めた水を一気に放流し、せん滅する防衛施設であるという意見が出され、それに対して、そのような御笠川をせき止めたり、水圧に抗して一気に放流するような土木技術が当時にあったとは思えないという意見のやりとりです。
 わたしは後者の立場ですが、いつ攻めてくるかわからない敵のために御笠川をせき止めて太宰府を水浸しにするよりも、土手を高くするなり、堅固な防塁を増やしたほうがより簡単で効果的と思っています。
 そんな論争もあって、大野城市のホームページを見ると、そうした議論は以前からあり、現在では決着がついているとする解説がありましたので、転載します。歴史学的にも土木工学的にも面白いテーマだと思いませんか。

【大野城市HPから転載】
  『日本書紀』に「大堤を築き水を貯えしむ」と書かれている水城跡ですが、水をどのように貯えていたのでしょうか。
  このことについては古くから議論があり、中でも水城跡の中央部を流れる御笠川をせき止めて太宰府市側(土塁の内側)にダム状に水を貯め、博多湾側(土塁の外側)から敵が攻めて来た場合、堤を切って水を流し敵を押し流すという説が有力でした。
  ところが、昭和50年から52年にかけて九州歴史資料館が行った発掘調査によって、太宰府市側にあった内濠から水を取り、木樋を通して博多湾側の外濠に貯めるという仕組みが明らかになり、土塁と外濠で敵を防ぐという水城の構造が確認されました。


第1274話 2016/09/24

水城の敷粗朶工法と傾斜版築

 『季刊考古学』第136号を読んでいるのですが、水城の築造技術について林重徳さん(佐賀大学名誉教授)が書かれた論稿「水城」はとても勉強になりました。今まで漠然と考えていた水城の築造技術がいかに素晴らしく、当時の最先端技術の粋を集めて築造されたことがよくわかりました。
 水城の築造には版築という種類の異なる土を何層にも突き固める工法が用いられており、その層の間に粗朶が敷き詰められています(水城の下層部分)。この敷粗朶は水城に降った雨水などが土塁に溜まらないように排水する機能があります。これらの技術が水城に採用されていたことは知っていたのですが、林さんの詳しい解説によれば、水城の上部の堤体には鉄分の多い「まさ土」が使用されているため、浸透水の酸素が奪われ、結果として敷粗朶の耐久性が確保されているとのことなのです。敷粗朶工は、堤体下部の引っ張り補強材として作用し、基礎地盤の圧密沈下対策とともに砂質地盤の液状化に対して(地震対策として)も有効であり、「筑紫地震(679年):M=6.7」による大きな被害を被った痕跡も確認されていないそうです。
 この水城の版築は水平ではなく傾斜を持っています。博多側は敵の侵入を防ぐために急斜面になっており、版築も緻密に固められ、その層は太宰府側に低くなり、版築層から排水される水は太宰府側に流れるように設計されています。その結果、博多側の急斜面には水が流れることなく、土塁の崩落を防いでいます。
 このような実に巧みな工法と設計により水城が築造されていることを、林さんの論文により知ることができました。(つづく)

 ※わたしのfacebookに水城の断面図・写真を掲載していますので、ご覧ください。


第1262話 2016/08/24

「阿志岐城跡」調査報告書を読む

 今朝は東京に向かう新幹線車中で『阿志岐城跡』確認調査報告書(筑紫野市教育委員会、2008年)を読みました。小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)からいただいたものです。小林さんは考古学に詳しく、全国の主要遺跡や有名古墳はほとんど実見されており、「古田史学の会・関西」では「古墳の小林」と呼ばれています。わたしも古墳についてわからないことがあれば、小林さんから教えていただいています。
 「阿志岐城跡」調査報告書はカラー写真や地図が収録されており、同遺跡の全体像や太宰府・大野城・水城・基肄城との位置関係がよくわかります。説明では「阿志岐城」山頂から、北は太宰府や水城・大野城、南は基肄城・高良山神籠石山城が見えるとのこと。防衛に適した位置にあることもよくわかります。
 神籠石山城には城内に谷などの水源を有しており、多くの人の長期に及ぶ「籠城戦」を想定して造営されています。唐や新羅の軍隊に水城を突破され、太宰府が陥落した場合、大野城や神籠石山城に住民も含めて籠城し、眼下の敵陣に「夜討ち朝駆け」を続け、延びきった兵站を寸断し、侵略軍を殲滅するという持久戦を想定したものと思われます。隋や唐による侵略の恐怖にさらされた倭国では、首都の住民も守るという設計思想の山城を築城したのですから、住民の協力も得やすかったのではないでしょうか。
 ここの神籠石列石は高良山神籠石のような直方体の一段列石ではなく、四角に整形された積石による列石のようです。しかも耐震強度を高めるために「切り欠き加工」が施されています(わたしのfacebookに写真を掲載していますので、ご参照ください)。素人判断では高良山神籠石よりも技術的に高度であり、時代も新しいように思われました。
 この「阿志岐山城」について、「洛中洛外日記」で触れたことがあります。以下、再録します。

古賀達也の洛中洛外日記
第815話 2014/11/01
三山鎮護の都、太宰府

 大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、全国に「○○三山」というセットが多数ありますが、古代史では都を鎮護する「三山鎮護」の思想が知られています。たとえば平城遷都に向けての元明天皇の詔勅でも次のように記されています。

 「まさに今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ふ。」『続日本紀』和銅元年二月条

 平城京の三山とは東の春日山、北の奈良山、西の生駒山とされていますが、軍事的防衛施設というよりも、古代思想上の精神文化や信仰に基づく「三山鎮護」のようです。藤原京の三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、まず防衛の役には立ちそうにありません。しかし、大和朝廷にとって、「三山」に囲まれた地に都を造営したいという意志は元明天皇の詔勅からも明白です。
 この三山鎮護という首都鎮護の思想は現実的な防衛上の観点ではなく、風水思想からきたものと理解されているようですが、他方、百済や新羅には首都防衛の三つの山城が知られており、まさに「三山鎮護」が実用的な意味において使用されています。日本列島においても実用的な意味での「三山鎮護」の都が一つだけあります。それが九州王朝の首都、太宰府なのです。
 実はわたしはこのことに今日気づきました。赤司さんの論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に、平成11年に発見された太宰府の東側(筑紫野市)に位置する神籠石山城の阿志岐城の地図が掲載されており、太宰府条坊都市が三山に鎮護されていることに気づいたのです。その三山とは東の阿志岐城(宮地岳、339m)、北の大野城(四王寺山、410m)、南の基肄城(基山、404m)です。
 九州王朝の首都、太宰府にとって「三山鎮護」とは精神的な鎮護にとどまらず、現実的な防衛施設と機能を有す文字通りの「三山(山城)で首都を鎮護」なのです。当時の九州王朝にとって強力な外敵(隋・唐・新羅)の存在が現実的な脅威としてあったため、「三山鎮護」も現実的な防衛思想・施設であったのも当然のことだったのです。逆の視点から見れば、大和朝廷には現実的な脅威が存在しなかったため(唐・新羅と敵対しなかった)、九州王朝の「三山鎮護」を精神的なものとしてのみ受け継いだのではないでしょうか。なお付言すれば、九州王朝の首都、太宰府を防衛したのは「三山(山城)」と複数の「水城」でした。
 これだけの巨大防衛施設で守られた太宰府条坊都市を赤司さんが「核心的存在に相応しい権力の発現」と表現されたのも、現地の考古学者としては当然の認識なのです。あとはそれを大和朝廷の「王都」とするか、九州王朝の首都とするかの一線を越えられるかどうかなのですが、この一線を最初に越えた大和朝廷一元史観の学者は研究史に名前を残すことでしょう。その最初の一人になる勇気ある学者の出現をわたしたちは待ち望み、熱烈に支持したいと思います。


第1228話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(2)

 太宰府の般若寺跡は条坊内(左郭14条4坊)にあった古代寺院とされており、もともとは筑紫野市の塔原廃寺に「甲寅年」(654年、九州年号の白雉3年。『上宮聖徳法王帝説』裏書による)に蘇我日向により創建されたものが、奈良時代に太宰府市朱雀地区(旧大字南字般若寺)に移転されたとする説が通説となったようです。もちろん、移転されたとするのは一元史観による解釈にすぎず、「移転」の痕跡が考古学的事実に基づいて証明されたわけではありません。
 なぜこのような移転説が採用されたのでしょうか。わたしの推定では、太宰府条坊造営が井上説でも7世紀末頃(藤原京造営と同時期)とされているため、654年には存在しないはずの条坊に沿った寺院など造営できないとされたのではないでしょうか。しかし、地名として残っているのは太宰府市の「般若寺」であり、塔原廃寺跡のある場所の地名は「塔原(とうばる)」であって「般若寺」ではなく、その廃寺を般若寺とするのはかなり恣意的な判断と言わざるを得ません。
 地名と考古学的事実の指し示すところ、太宰府市の字地名「般若寺」から、条坊と同じ南北方位軸をもった寺院跡が出土しているのですから、7世紀には造営されていた太宰府条坊都市の中に般若寺が創建されたとする理解が最も真っ当で無理のないものでしょう。わたしの研究では、太宰府条坊都市は九州年号の倭京元年(618年)頃に造営されたと考えていますから、その後に般若寺が条坊内に創建されたことになります。
 そこで注目されるのが、般若寺跡から出土した最も古い瓦が、なんと観世音寺と同じ複弁八葉蓮華文軒丸瓦の「老司1式」瓦なのです(わたしのfacebookの写真を参照ください)。もしこの「老司1式」瓦が般若寺の創建瓦とすれば、その創建年は観世音寺と同時期の670年(白鳳10年)頃となり、「甲寅年」(654年)よりやや遅れます。今のところ、これ以上のことはわかりませんが、九州王朝の都、太宰府に観世音寺と般若寺が条坊内に存在していたことになり、九州王朝史研究の新たな手がかりになります。


第1227話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(1)

 太宰府市の著名な考古学者、井上信正さんの論文「大宰府条坊の基礎的考察」(『年報太宰府学』第5号、平成23年)を読んでいて、興味深い問題に気づきました。この論文は太宰府条坊研究において考古学的には大変優れたものですが、大和朝廷一元史観との「整合性」をとるために非常に苦しい表現や矛盾点を内包しています。
 たとえば観世音寺の創建について「創建年代が天智朝に遡る可能性がある観世音寺」(p.90)と冒頭に紹介されています。他方、井上さんが発見されたように、太宰府条坊区画とその北部に位置する政庁2期・観世音寺・朱雀大路の主軸はずれており、条坊区画の造営が先行したと考えられることから、政庁2期などを7世紀末〜8世紀第1四半期、条坊区画はそれ以前とされました(p.88)。この表現からすると、観世音寺は天智朝の頃なのか、7世紀末〜8世紀第1四半期とされるのか混乱しており、意味不明です。
 井上さんの理解としては太宰府条坊区画は7世紀末頃の造営で、藤原京造営と同時期であり、政庁2期や観世音寺はそれ以後の造営とされています。しかし、そうすると観世音寺が天智天皇の発願により660〜670年頃に造営開始されたとする史料事実や伝承と矛盾してしまいます。この明白な矛盾の存在について井上論文では触れられていません。もし、観世音寺造営を660〜670年頃としてしまうと、自身の研究成果により条坊区画の造営が7世紀前半にまで遡ってしまい、わが国初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が古くなってしまうのです。これでは大和朝廷一元史観に不都合なため、その点を曖昧にし、矛盾を内包した不思議な論文となってしまうのです。
 この井上説が内包する重大な「矛盾」については、これまでも指摘してきましたが、今回、発見したのは同じく太宰府条坊内にある般若寺の創建年についての問題です。(つづく)


第1223話 2016/07/07

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《二の矢》について解説します。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 6〜7世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。このことはほとんどの九州王朝説論者が賛成するところでしょう。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。

 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論されている記事を読んだときでした。この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。

 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を50年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を7世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には6世紀末から7世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳10年〔670〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。7世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから解釈変更によって否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解にはわたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元史観論者を説得することもできず、彼らの「6〜7世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、その事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元史観論者との「他流試合」で勝つためにはこの頑固で強力な《二の矢》から逃げることはできません。

 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が6世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。

 また別の角度からの研究として、従来は8世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により7世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に記されています。

 こうした研究は、ようやくその研究成果が現れ始めた段階です。このテーマは7世紀における土器編年の再検討という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学も避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。(つづく)


第1216話 2016/06/26

阿志岐山神籠石の列石は折れ線構造

 一昨日、九州出張から帰宅すると、八王子市の前田嘉彦さんから郵送物が届いており、その中に筑紫野市教育委員会発行の「ちくしの散歩 国指定史跡 阿志岐山城跡」という説明書がありました。前田さんは、わたしの久留米大学での講演などにも遠くから参加される熱心な研究者です。
 阿志岐山城跡とは平成11年に発見された、太宰府の東南に位置する神籠石山城(宮地岳)で、山頂部(標高338m)付近は列石が見あたらず未完成とのことです。いただいた説明書によれば、その列石は直線に並べた列石線を連続させていく「折れ構造」であり、北部九州の他の神籠石の「曲線構造」とは異なっており、瀬戸内地方にある神籠石に類似しているとのこと(瀬戸内型)。また、列石の積み上げ技術も石材の一部を切り欠く「切り欠き技法」という高度な技術が採用されているそうです。
 こうした形状や年代、そして神籠石内部の建築物遺構や土器の発見と調査が期待されます。なお、大野城・基肄城・阿志岐山城を太宰府鎮護の三山と理解する仮説「三山鎮護の都、太宰府」(「洛中洛外日記」第815話 2014/11/01)を発表していますので、ご覧ください。前田さんからいただいた説明書はFacebookに掲載しています。


第1210話 2016/06/17

鞠智城の造営年代の考察

 鞠智城の創建が大野城・基肄城よりも古いとする新説を紹介しましたが、わたしもその結論自体には賛成です。問題は、その年代と根拠や背景が一元史観の論者とは異なることです。これまでの論稿の編年を整理するために、わたしの年代観を再度説明します。
 わたしは『隋書』「イ妥国伝」の記述にあるように、隋使が阿蘇山の噴火が見える肥後の内陸部にまで行っていることを重視し、いわゆる古代官道の西海道を筑後国府(久留米市)からそのまま南下し肥後国府(熊本市付近か)に進んだのではなく、「車路(くるまじ)」と呼ばれている古代幹線道路を通って鞠智城経由で阿蘇山に向かったと考えました。
 また、国賓である隋使一行が無人の荒野で野営したとは考えられず、国賓に応じた宿泊施設を経由しながら阿蘇山へ向かったはずです。その国賓受け入れ宿泊施設の有力候補の一つとして鞠智城に注目したのですが、当地には6世紀の集落跡や7世紀第1四半期、第2四半期の土器が出土しており、考古学的にもわたしの仮説に対応しています。
 このように、『隋書』の史料事実と考古学的出土事実から、九州王朝における鞠智城の造営は6世紀末頃から7世紀初頭にかけて開始され、九州王朝が滅亡する701年頃まで機能していたと思われます。従って、九州王朝滅亡時の7世紀末頃には機能を停止し、無人化(無土器化)したと考えられます。現在の考古学者の編年では、その無人化(無土器化)を8世紀の第2四半期頃とされていますが、この編年はたとえば「須恵器杯B」編年の揺らぎなどから、30〜40年ほど古くなることは、わたしがこれまで論じてきた通りです。
 なお、鞠智城内の各遺構の編年はまだ十分には検討できていませんが、たとえば鼓楼(八角堂)の初期の2塔は前期難波宮の八角殿との類似(共に堀立柱で板葺き)から、7世紀中頃ではないかと、今のところ考えていますが断定するには至っていません。引き続き、勉強しようと思います。(つづく)