太宰府一覧

第587話 2013/08/25

観世音寺と観音寺

 太宰府の観世音寺の創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)に見える観世音寺創建記事から、白鳳年間(661~683)であることはわかっていましたが、その後、九州年号史料の『勝山記』(鎮西観音寺造)や『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳10年(670)の創建とする記事のあることが発見され、観世音寺創建が白鳳10年(670)であることが判明しました。
 考古学的にも、創建瓦が7世紀後半頃の「老司1式」であることにも対応しており、考古学編年とも一致しています。こうした文献と考古学の一致から、観世音寺創建白鳳10年(670)説は最有力説だと思うのですが、一つだけ気になっていたことがありました。『二中歴』では「観世音寺」と正式名称が記載され ているのですが、『勝山記』や『日本帝皇年代記』では「観音寺」となっていることです。
 ところが、この疑問は思ったよりも簡単に解決してしまいました。観世音寺は古代から「観音寺」とも称されていたことがわかったからです。それは有名な次の史料です。

 「沙彌満誓、綿を詠ふ歌一首 造筑紫観音寺別當、俗姓笠朝臣麿といふ
 しらぬひ筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖かに見ゆ」『万葉集』巻三 336番

 『万葉集』の有名な歌ですが、その作者の沙彌満誓を「造筑紫観音寺別當」と紹介しているのです。この記事から、『万葉集』成立期には観世音寺を「観音寺」とも表記していたことがわかるのです。
 更にもう一つ見つけました。これも有名な菅原道真の漢詩「不出門」の一節です。

 「都府楼わずかに見る瓦色
  観音寺は只鐘の声を聴くのみ」

 ここでも道真は観世音寺を「観音寺」と表記しています。ただ七言律詩とするために、三文字の「観音寺」の方を採用したのかもしれません。いずれにしても「観音寺」と詠えば、聴く人にも「太宰府の観世音寺」のことと理解されることが前提(共通認識)となっていたから「観音寺」と作詩したと考えられま す。
 こうして『勝山記』『日本帝皇年代記』の「鎮西観音寺」を太宰府の観世音寺のこととする理解は妥当なものであることが、よりはっきりしました。なお、「鎮西」とありますから、この部分の成立は近畿天皇家の時代となります。恐らく、「観音寺」だけではどこのお寺か判断できないので「鎮西」(九州)という 表記を付け加えたのでしょう。この点、『二中歴』「年代歴」には「観世音寺」だけで、地名表記はありません。これは「年代歴」細注部分が北部九州で書かれ たため、地名をつける必要もなく、「観世音寺」と記すだけで太宰府の観世音寺のことだと、書いた人も読む人もそのように認識するということが前提の表記で す。
 同じ『二中歴』「年代歴」の細注でも、「難波天王寺」(倭京二年、619年)のように「難波」という地名表記があるケースとは対照的です。すなわち、北部九州の読者には「難波」と地名表記をつけなければ、どこの天王寺か特定できなかったからと思われます。したがって、この「難波」は北部九州ではなく、摂津難波の「難波」と理解することが最も穏当な理解となるのです。
 観世音寺を「観音寺」と表記するものは他の史料にもありそうですので、引き続き探索したいと思います。


第531話 2013/02/28

大野城木柱の伐採は650年頃
       
       
         
            

 24日の日曜日、東京で講演してきました(多元的古代研究会主催、東京古田会協賛)。100名以上のご参加があり、盛況
でした。ご静聴いただき、ありがとうございます。日程が東京マラソンと重なったため、ホテルの予約がとれず、当日早朝の新幹線で上京したのですが、車窓か
らマラソン風景が見え、ラッキーでした。
 講演会のおり、多元的古代研究会の和田昌美事務局長から西日本新聞(2012年11月23日)のコピーをいただきました。「大野城の築城年 白村江の戦
い前? 木柱伐採は650年ごろ」という見出しの記事で、大野城で出土した木柱の伐採年がエックス線CTスキャナーにより650年頃であったことが判明し
たとのこと。その結果、大野城の築城開始は白村江戦(663年)よりも前である可能性が高いとされています。
 大野城は当然のこととして、守るべき都市の存在が前提で築城された山城です。すなわち、大野城築城以前に九州王朝の都、太宰府条坊都市が存在していたと
考えざるを得ません。太宰府条坊都市の成立とそこへの遷都年代を、わたしは文献史学の立場から九州年号「倭京」元年(618)とする仮説を発表してきまし
た。もちろん条坊都市全体の完成は更に遅れたことと思いますが、今回の大野城築城開始時期を650年頃とする考古学的発見から、太宰府条坊都市の造営が
650年頃よりも早い時期となり、倭京元年(618)の太宰府遷都と矛盾がなく、うまく整合します。
 こうした推論が正しければ、九州王朝は七世紀中頃に太宰府条坊都市の造営と大野城の築城、そして前期難波宮の創建をほぼ同時期に行ったことになります。
唐の脅威と一大決戦に備え、九州王朝が抱いた危機感とその権力の大きさがうかがえます。大野城出土木柱の伐採年確定により、こうして七世紀の九州王朝の姿
がまた一つ復元できたように思われるのです。


第528話 2013/02/17

大宰府政庁と前期難波宮の須恵器杯B

 大宰府政庁1期と2期遺構から須恵器杯Bが出土していることを第526話で指摘しましたが、大宰府政庁の編年も含めて、もう少し詳しく説明したいと思います。
   大宰府政庁遺構は1期・2期・3期の三層からなっており、1期は堀立柱形式の建物跡で、2期と3期は礎石を持つ朝堂院様式の「大宰府政庁」と呼ぶにふさわしい立派なものです。もっとも「大宰府政庁」とは考古学的につけられた名称で、九州王朝説からすると2期遺構は「政庁」ではなく、倭王がいた「王宮」で はないかと考えられています。もっとも、倭王が生活するには規模が小さいという指摘が伊東義彰さん(古田史学の会・会計監査)からなされており、今後の研究課題でもあります。
    問題の須恵器杯Bは1期遺構の中でも最も古い1期古段階の整地層からも出土しているようで(藤井巧・亀井明徳『西都大宰府』NHKブックス、昭和52 年。229頁)、一元史観の通説では660年代頃の遺構とされています。その整地層からの出土ですから、当該須恵器杯Bの年代は通説でも7世紀中頃となり ます。田村圓澄編の『古代を考える大宰府』(吉川弘文館、昭和62年)にも、「第1期は堀立柱建物で主に上層遺構の中門と回廊東北隅に相当する所で検出さ れた。(中略)この整地土の中に含まれる土器は最も新しいもので七世紀中ごろのものである。」(112頁)とあります。
  須恵器杯Bはその後の1期新段階や2期からも出土しますから(杉原敏之「大宰府政庁と府庁域の成立」『考古学ジャーナル』588号、2009年)、その継続期間は小森俊寛さんが主張する20年や30年のような短いものではありません。九州王朝説の立場からは、大宰府政庁1期や2期の時代は一元史観の通説よりも古いと考えられますが、仮に通説に従っても須恵器杯Bの発生は7世紀中頃以前まで遡ることとなり、近畿よりも大宰府政庁の方がより古いことがうかが えます。
   その場合、須恵器杯Bは北部九州で発生し、近畿には前期難波宮の地、上町台地に先駆けて伝播したこととなりそうです。同様の現象については既に洛中洛外日記第224話「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」でも紹介してきたところです。これらの現象は、上町台地がいち早く九州王朝の直轄支配領域となったこと の傍証となり、前期難波宮九州王朝副都説と整合するのです。七世紀の九州王朝倭国の研究にあたっては、この前期難波宮をどのように位置づけるのかが重要な判断基準になることを強調しておきたいと思います。


第526話 2013/02/13

大宰府政庁出土の須恵器杯B

 小森俊寛さんが前期難波宮を天武期の造営とされた考古学的理由は、その整地層からわずかに出土した須恵器杯Bの存在でした。小森さんは須恵器杯Bの存続期間(寿命)を20~30年とされ、藤原宮(700年頃)から多数出土する須恵器杯Bの発生時期を引き算で 670~680年とされ、したがって須恵器杯Bを含む前期難波宮整地層は660年より古くはならないと主張されたのです。
   この一見もっともなように見える小森さんの主張ですが、わたしには全く理解不能な「方法」でした。そもそも須恵器杯Bの継続期間(寿命)が20~30年 とする根拠が小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』には明示されていませんし、証明もありません。あるいは、前期難波宮が天武期造営であるこ とを指し示すクロスチェックを経た考古学的史料も示されていません。更に、前期難波宮造営を7世紀中頃と決定づけた水利施設出土木枠の年輪年代測定にも全 く触れられていません。自説に不利な考古学的事実を無視されたのでしょうか。こうした点からも、わたしには小森説が仮説として成立しているとは全く見えな いのです。
   しかし、わたしはこの須恵器杯Bを別の視点から注目しています。それは大宰府政庁1期と2期の遺構から須恵器杯Bと見られる土器が主流須恵器杯として出 土しているからです。もちろん、大宰府政庁調査報告書などを見ての判断であり、出土土器を実見したわけではありませんので、引き続き調査を行いますが、少なくとも報告書には須恵器杯Bと同様式と見られる須恵器が掲載されています。この事実は重大です。
    小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』は「京(みやこ)から出土する土器」とありますが、ここでいう「京(みやこ)」とは近畿天皇家の 「都」だけであり、近畿天皇家一元史観の限界ともいうべき著作なのです。ですから九州王朝の都、太宰府などの出土土器は比較考察の対象にさえなっていませ ん。したがって、古田学派・多元史観の研究者は、こうした一元史観論者の著作や仮説に「無批判に依拠」することは学問的に危険であること、言うまでもありません。
    須恵器杯Bが多数出土している大宰府政庁1期と2期遺構ですが、一元史観の通説でも1期の時期を天智の時代とされています。すなわち660年代としてい るのです。ところが小森説に従えば、この大宰府政庁1期も天武期以後となってしまいます。小森説では1個でも須恵器杯Bが出土したら、その遺構は680年 以後と見なされるのですから。古田学派の論者であれば、大宰府政庁1期を天武期以後とする人はいないでしょう。すなわち、前期難波宮を天武期とする小森説の支持者は、須恵器杯Bの編年を巡って、これまでの古田史学の学問的成果と決定的に矛盾することになるのです。(つづく)


第521話 2013/02/03

大宰府の「主神」

 『養老律令』には大宰府の官僚組織として、その冒頭に「主神」という職掌があり、「掌らむこと、諸の祭祀の事」と記されています。この「主神」という職掌は他の諸国には見られず、大宰府独特のものです。他方、大和朝廷には同様の職掌として「神祇官」が「職員令」の冒頭に記されています。
 こうした『養老律令』の史料事実から、九州王朝も大和朝廷も律令制組織の冒頭に神事や祭祀を司る職掌を位置づけていたことがわかります。もちろん、九州王朝の「主神」の制度を大和朝廷が模倣したと考えられるのですが、九州王朝を滅ぼした後も大宰府にこの「主神」制度を温存したことは興味深いことです。
 おそらく、九州王朝大宰府の権威が「主神」が祭る神々(天神か)に基づいていたことによるのではないでしょうか。大和朝廷も九州島9国を大宰府による間接統治する上で、「主神」の職掌が必要だったと考えられます。第二次世界大戦後の日本に、マッカーサーが天皇制を残したことと似ているかもしれません。
 同様に、大和朝廷も自らが祭祀する神々により、その権威が保証されていたのでしょう。こうした王朝の権威の縁源をそれぞれの「祖神」とするのは、古代世界ではある意味において当然のことと思われます。したがって、『養老律令』の大宰府に「主神」があることは、九州大宰府が別の権威に基づいた別王朝の痕跡ともいうべき史料事実なのです。
 大宰府の「主神」を司った人物や、祭った神々が明らかとなれば、九州王朝史研究も更に進展するでしょう。今後の大切な研究テーマです。


第520話 2013/02/02

「蔵司」「老司」「門司」

 第518話で、大宰府政庁の西側にある蔵司遺跡は九州王朝律令にあった職掌(役所)の「蔵司(くらのつかさ)」に縁源するのではないかと述べましたが、この他にも同類の地名が福岡県にはあります。観世音寺や大宰府政庁II期の創建瓦「老司式瓦」の窯跡が出土した「老司」(福岡市南区)と、「門司」(北九州市門司区)です。
 大和朝廷の『養老律令』には「蔵司」「関司」は見えますが、「老司」や「門司」といった職掌(役所)はありません。「門司」はその名称や場所から、関門海峡を管理する役所と思われますが、「老司」とは何のことか想像がつきません。「糧司」のことで、食料を管理する職掌ではないかとする説もあるようですが、その根拠や理由がわかりませんので、魅力的な仮説ですが今のところ当否を判断できません。
 「老司」が古代まで遡る地名かどうかは検証が必要ですが、他の地域にない地名ですので、やはり九州王朝との関係が高いように思われます。「門司」は古代木簡にも記載例(「豊前門司」など)があり、関門海峡を挟んで九州側にあることから、やはり九州王朝太宰府を基点とした役所と考えられます。これと同様の例が大分県の「佐賀関」です。九州と四国の間にある「関」地名ですが、ここも九州側にあることから、太宰府を基点として設けられた「関」と考えられます。
 九州の地名を九州王朝や九州王朝律令の視点から検討してみると、いろいろと面白いことが見えてきそうです。


第519話 2013/01/30

『養老律令』の中の大宰府

 大和朝廷は自らの最初の律令として「大宝律令」を公布しましたが、残念ながら現在は伝わっていません。その後『養老律令』を制定し、その内容から「大宝律令」の復元研究が試みられてきました。その『養老律令』の中には九州王朝の痕跡が残されているのですが、その最たるものは「大宰府」です。
 『養老律令』には中央官庁の組織とともに地方官組織についても規定されているのですが、九州の9国(筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩)だけは大宰府を介して支配しており、他の諸国とは異なる扱いとなっています。すなわち、大和朝廷は九州王朝の旧直轄支配領域(九州島)だけは、九州 王朝の「中央組織」であった大宰府による間接支配を行ったのです。
 こうした九州島諸国の特異な支配形態こそ、九州王朝が存在した痕跡(証拠)であり、大和朝廷一元史観では説明困難な『養老律令』の史料事実なのです。なお、現存地名は「太宰府」ですが、『養老律令』などでは「大宰府」の字が使用されています。


第497話 2012/11/28

大宰府とアンチモン

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれているアンチモンが、越智国や伊予国から献上されていたと見られる記事が『続日本紀』文武二年七月条(698)と『日本書紀』持統五年(691)七月条にあります。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」(『日本書紀』持統五年七月条)

 『続日本紀』には霊亀二年(716)五月条にも「白(金へん+葛)」が見えます。大宰府の百姓が白(金へん+葛)を私蔵しており、それが私鋳銭に使用されているので、官司に納めよという詔勅記事です。

 「勅したまはく、『大宰府の佰姓が家に白(金へん+葛)を蔵(おさ)むること有るは、先に禁断を加へたり。然れども
遒奉(しゅんぶ)せずして、隠蔵し売買す。是を以て鋳銭の悪党、多く奸詐をほしいままにし、連及の徒、罪に陥ること少なからず。厳しく禁制を加へ、更に然
(しか)らしむること無かるべし。もし白(金へん+葛)有らば、捜(さぐ)り求めて官司に納めよ』とのたまふ。」

 このように霊亀二年(716)の詔勅によれば、大宰府の人々が所蔵している白(金へん+葛)が和同開珎の私鋳に使用
されていることがうかがえます。おそらくこの時期の和同開珎であれば古和同銅銭と考えられますから、この記事の「白(金へん+葛)」もアンチモンのことと
見てよいと思われます。すなわち、越智国や伊予国産のアンチモンが九州王朝中枢の人々により収蔵されていたと考えられるのです。
 こうした理解が正しければ、銅とアンチモン合金により貨幣を鋳造する技術が九州王朝に存在したことになります。ちなみに『続日本紀』によれば、近畿天皇による和同銀銭や銅銭の発行は和銅元年(708)のことです。

 「始めて銀銭を行う。」(『続日本紀』和銅元年五月条)
 「始めて銅銭を行う」(『続日本紀』和銅元年八月条)

 そして、その二年後の和銅三年(710)には早くも大宰府から銅銭が献上されています。

 「大宰府、銅銭を献ず。」(『続日本紀』和銅三年正月条)

 この銅銭は和同開珎(おそらくは「古和同」銅銭)のことと思われますが、この素早い銅銭献上記事こそは九州王朝に貨幣発行の伝統があったことの傍証といえるのではないでしょうか。(つづく)


第462話 2012/09/03

通古賀の王城神社

 九州歴史資料館を見学した後、太宰府市に戻って、通古賀(とおのこが)の王城神社・清明井・観世音寺・榎寺・大野城百間石垣・国分寺跡・大字大裏・水城跡などを見学しました。弟の直樹はこのあたりの地理にやたら詳しく、おかげで短時間のうちに要領よく廻れました。
 大野城にも初めて登ったのですが、その土塁や石垣の規模は想像以上でしたし、水源の豊富さにも目を見張りました。これならば多くの人々が長期間籠城できると思いました。さすがは九州王朝の都を守る日本列島屈指の山城と言えます。
 通古賀の王城神社でも貴重な「発見」がありました。同地区は筑前国府の有力候補地であり、「古賀」地名も「国衙(こくが)」に由来すると見られていま す。そして、神社の説明が書かれた看板には、この神社の始まりを天智4年(665)に都府楼が造営された時とあったことに驚きました。大宰府政の造営年代 を665年のことと伝承されているのです。
 この天智4年(665)の都府楼造営説は船賀法印(江戸時代の僧侶らしい)による「王城神社縁起」からの引用とのことで、同縁起を何としても見てみたい ものです。都府楼を「天智天皇による造営」とする現地伝承はいくつかの古文献に見えるのですが、天智4年のことと具体的年次が記されたものは初めて見まし た。
 わたしは九州王朝の宮殿である大宰府政庁2期遺構(創建瓦は主に老司2式)の造営を、観世音寺創建時期(白鳳10年、670年。創建瓦は老司1式)との関連から、同時期か少し遅れる時期と考えていましたが、王城神社の伝承では、逆に観世音寺よりも少し早い時期ということになります。いずれにしても、白鳳年間創建という大枠は揺るぎませんが、両者の前後関係は引き続き検討しなければならないなと感じています。


第458話 2012/08/25

『日本帝皇年代記』の九州年号

 昨日の深夜、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)からメールが届きました。『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)のことが紹介されており、その中に九州年号が使用されていることや、白鳳10年条(670)に「鎮西建立観音寺」という記事があることなどをお知らせいただきました。『日本帝皇年代記』という年代記はわたしも初めて聞くもので、阿部さんもインターネット検索で「発見」されたとのこと。
 さっそく、お知らせいただいた長崎大学リポジトリ(山口隼正「『日本帝皇年代記』について:入来院家所蔵未刊年代記の紹介」2004.03.26)を閲覧したところ、たしかに今まで見たことのないタイプの九州年号群史料でした。神代の時代から始まり、歴代天皇へと続く年代記ですが、九州年号の善記元年(522)からは九州年号を用いた編年体年代記となり、大化6年(700)までは九州年号を、それ以降は近畿天皇家の大宝年号へと続いています。
 多くの史料から集められた様々な和漢の記事が記されている年代記ですが、なかでもわたしが注目したのは、阿部さんも指摘された白鳳10年(670)の 「鎮西建立観音寺」という記事でした。太宰府の観世音寺創建年を記す貴重な記録ですが、同様の記事が山梨県の『勝山記』に見えることは既にご紹介してきたところです。観世音寺白鳳10年建立を記した史料が、山梨県から遠く離れた鹿児島県の入来院家所蔵本『日本帝皇年代記』にも記されているという史料状況は、観世音寺白鳳10年建立の記事が誤記誤伝の類ではなく、九州王朝系史料に確かに存在していたことを指し示すものです。同年代記の「発見」により、観世音寺白鳳10年建立説は創建瓦の編年との一致も含め、ますます確かなものになったといえます。(つづく)

参考

『日本帝皇年代記』について : 入来院家所蔵未刊年代記の紹介(上) PDF


第428話 2012/06/19

「戸籍」木簡、現地説明会の報告

台風4号の接近でJR北陸本線特急列車が運休となり京都に帰れません。急遽、福井市で一泊することにしました。そんなわけで、今日は福井駅前のホテルで書いています。明日は朝から大阪で仕事がありますので、列車が動くのか、間に合うのか心配です。
17日には大阪市中之島の府立大学サテライト校舎をお借りして、古田史学の会・会員総会と記念講演会を開催しました。午前中は関西例会が行われ、発表テーマは下記の通りでした。
関西例会では、その前日16日の太宰府市出土「戸籍」木簡の現地説明会に、古田先生とともに参加された大下さんより報告がなされました。本当にタイムリーな最新の報告で、大変勉強になりました。
大下さんの報告によれば、出土した木簡は13点で、その中の一枚が注目されている「戸籍」木簡です。出土場所は大宰府政庁の北西1.2kmの地点で、国 分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層で、その堆積層の上の部分から出土した木簡には「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されており、評 制の時期(650年頃~700年)から少なくとも天平十一年までの木簡が出土したことになりそうです。なお、この「天平十一年」木簡のみが広葉樹で、他の 12枚は針葉樹だそうです。
この他にも貴重な興味深い報告がなされました。今後、考察を含めて紹介することにします。
記念講演会では、東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)の安彦さんにおこしいただき、和田家文書研究の最新成果を発表していただきました。関西例会ではなかなか聞く機会がない貴重な研究でした。
わたしからは、当初予定していたテーマに換えて、太宰府出土「戸籍」木簡について、大宝二年戸籍との比較考察を報告しました。

〔6月度関西例会の内容〕
1). 拓本文字データベース(木津川市・竹村順弘)
2). 大祚栄と粛慎(木津川市・竹村順弘)
3). 太宰府の木簡(豊中市・大下隆司)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・「三国志」版本研究の調査・藤田友治著『ゼロからの古代史事典』紹介・古代寺院と瓦の研究・その他

〔会員総会記念講演会〕
○安彦克己さん
『和田家文書』の安日彦、長髄彦
-秋田孝季は何故叙述を間違えたか-
○古賀達也
文字史料から見える九州王朝
-太宰府出土「戸籍」木簡の考察-


第427話 2012/06/16

「戸籍」木簡の史料性格

 太宰府市から出土した最古の「戸籍」木簡について、毎日考えています。中でもその史料性格についてと、その内容が指し示す歴史事実について集中し て調査検討を続けています。そこで、内容の史料批判は後日のこととして、出土木簡の基礎的な史料性格について整理確認しておきたいと思います。
まずその内容が「戸籍」関連史料であることは間違いないと思われます。今後、専門家による研究がなされることでしょう。

 次に、地域的には太宰府市での学術発掘による出土ですから由来は確かなものですし、「嶋評」という地名が記載され、一緒に出土した別の木簡にも「竺志前國嶋評」とありますから、糸島半島の旧志摩町に関わる木簡であることが明らかです。

 次に時代ですが、「嶋評」とありますから、評制が施行された650年前後から、郡制に移行する701年よりも前の時期となります。さらには「進大弐」と いう『日本書紀』天武14年に制定された冠位が記載されていることから、685~700年の時間帯まで絞り込めそうです。内容を精査検討すれば、さらに絞 り込めるかもしれません。

 このように地域と時代か特定、あるいは絞り込める文字史料ですから、研究史料としては大変有り難い貴重なものです。とりわけ、九州王朝研究にとっては王朝末期の、太宰府近傍という中枢領域での同時代史料として第一級史料です。この木簡を精査研究することにより、七世紀末の九州王朝の実体に迫ることができるのです。(つづく)