太宰府一覧

第814話 2014/11/01

考古学と文献史学からの太宰府編年(2)

 赤司善彦さん(九州国立博物館展示課長)の論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について −朝倉橘廣庭宮の記憶−」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に見える考古学的出土事実が、結果として九州王朝説を支持する例を引き続き紹介します。
 大宰府政庁 I 期造営の時代については7世紀初頭(倭京元年・618)として問題ないのですが、 II 期の造営年代については文献史学からは史料根拠が不十分のため、今一つ明確ではありません。考古学的には創建瓦が老司 II 式が主流ということで、老司 I 式の創建瓦を持つ観世音寺創建時期と同時期かやや遅れると考えられますから、観世音寺の創建年(白鳳10年・670)の頃と見なしてよいと考えてきまし た。
 ところが、赤司さんの論文に政庁 II 期の造営時期を示唆する考古学的痕跡について触れられていたのです。次の記載です。

 (3期に時代区分されている大野城大宰府口城門)「 I 期は、堀立柱であることや出土した土器や瓦から7世紀後半代。 II 期は、大宰府政庁 II 期と同笵の大宰府系鬼瓦や鴻臚館系瓦を使用していることから、大宰府政庁 II 期と同じく、8世紀第1四半期を上限と考えられる。(中略)
 大野城の築城年代について、考古学の側から実年代を語ることのできそうな資料が出土している。大野城の大宰府口城門跡で、創建期の城門遺構に伴う木柱が出土した。(中略)
 木柱の年輪年代測定が実施された。計測年数197層の年輪が確定され、最も外側の年輪が648年という結果が出されている。(中略)大野城の築城の準備は、『日本書紀』の664年(665年か。古賀)よりも遡ることを考慮すべきではないかママ思われる。」(80頁)

 これらの記述が指し示す考古学的事実は大野城創建期の大宰府口城門と大宰府政庁 II 期の造営が同時期であり、出土した木柱の年輪年代測定から648年頃と考えられるということです。「8世紀第1四半期」というのは大和朝廷一元史観に基づいた「解釈」、すなわち大宰府政庁 II 期を大宝律令制下の役所とする仮説であり、考古学的事実から導き出された絶対年代ではありません。絶対年代を科学的に導き出せるのは出土木柱の年輪年代測定であることは言うまでもありません。従って、大宰府政庁 II 期と同笵の鬼瓦などが出土する大野城城門 II 期の造営は648年よりも遅れ、かつ大宰府政庁 II 期と同時期と見ることができます。
 そうしますと、既に指摘しましたように観世音寺創建年の白鳳10年(670)の頃に、大宰府政庁 II 期の宮殿が大野城築城とともに造営されたと考えて問題ないようです。なお疑問点を指摘しますと、老司 I 式瓦の観世音寺と老司 II 式瓦を主とする政庁 II 期の造営時期を、老司式瓦の先後関係から見れば観世音寺が先となります。他方、地割区画から見ると、政庁の中心軸を起点に観世音寺の中心軸が割り出されています(この結果、観世音寺の中心軸は条坊ラインから大きく外れています)。このように政庁と観世音寺が条坊都市よりも遅れて造営され、条坊とは異なった 「尺」で地割されていることを考えれば、起点とした政庁が先に設計され造営されるというのが常識的な判断のように思われるのです。この政庁と観世音寺の造営年の先後関係については「ほぼ同時期」という程度に現時点では判断しておくのが良いと思います、この点、今後の検討課題とします。
 以上、赤司さんの論文に見える考古学的事実が、『日本書紀』や大和朝廷一元史観よりも、結果として九州王朝説に有利であることをご理解いただけたのではないでしょうか。


第815話 2014/11/01

三山鎮護の都、太宰府

 大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、全国に「○○三山」というセットが多数ありますが、古代史では都を鎮護する「三山鎮護」の思想が知られています。たとえば平城遷都に向けての元明天皇の詔勅でも次のように記されています。

 「まさに今、平城の地、四禽図に叶ひ、三山鎮(しづめ)を作(な)し、亀筮(きぜい)並びに従ふ。」『続日本紀』和銅元年二月条

 平城京の三山とは東の春日山、北の奈良山、西の生駒山とされていますが、軍事的防衛施設というよりも、古代思想上の精神文化や信仰に基づく「三山鎮護」のようです。藤原京の三山(耳成山・畝傍山・天香具山)など、まず防衛の役には立ちそうにありません。しかし、大和朝廷にとって、「三山」に囲まれた地に都を造営したいという意志は元明天皇の詔勅からも明白です。
 この三山鎮護という首都鎮護の思想は現実的な防衛上の観点ではなく、風水思想からきたものと理解されているようですが、他方、百済や新羅には首都防衛の三つの山城が知られており、まさに「三山鎮護」が実用的な意味において使用されています。日本列島においても実用的な意味での「三山鎮護」の都が一つだけあります。それが九州王朝の首都、太宰府なのです。
 実はわたしはこのことに今日気づきました。赤司さんの論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010 年、VOL.61 4号)に、平成11年に発見された太宰府の東側(筑紫野市)に位置する神籠石山城の阿志岐城の地図が掲載されており、太宰府条坊都市が三山に鎮護されていることに気づいたのです。その三山とは東の阿志岐城(宮地岳、339m)、北の大野城(四王寺山、410m)、南の基肄城(基山、 404m)です。
 九州王朝の首都、太宰府にとって「三山鎮護」とは精神的な鎮護にとどまらず、現実的な防衛施設と機能を有す文字通りの「三山(山城)で首都を鎮護」なのです。当時の九州王朝にとって強力な外敵(隋・唐・新羅)の存在が現実的な脅威としてあったため、「三山鎮護」も現実的な防衛思想・施設であったのも当然のことだったのです。逆の視点から見れば、大和朝廷には現実的な脅威が存在しなかったため(唐・新羅と敵対しなかった)、九州王朝の「三山鎮護」を精神的なものとしてのみ受け継いだのではないでしょうか。なお付言すれば、九州王朝の首都、太宰府を防衛したのは「三山(山城)」と複数の「水城」でした。
 これだけの巨大防衛施設で守られた太宰府条坊都市を赤司さんが「核心的存在に相応しい権力の発現」と表現されたのも、現地の考古学者としては当然の認識なのです。あとはそれを大和朝廷の「王都」とするか、九州王朝の首都とするかの一線を越えられるかどうかなのですが、この一線を最初に越えた大和朝廷一元史観の学者は研究史に名前を残すことでしょう。その最初の一人になる勇気ある学者の出現をわたしたちは待ち望み、熱烈に支持したいと思います。


第813話 2014/10/31

考古学と文献史学からの太宰府編年(1)

 「洛中洛外日記」812話で山崎信二さんの「変説」の背景にせまりましたが、 その最後に「考古学という「理系」の学問分野において、文献史学に先行して九州王朝説を(結果として)「支持」する研究結果が発表されている」と記しました。その例について紹介したいと思います。
 本年3月に福岡市で開催された講演会『筑紫舞再興三十周年記念「宮地嶽黄金伝説」』(「洛中洛外日記」671話で紹介)で講演された赤司善彦さん(九州国立博物館展示課長)による次の論文に重要な指摘や出土事実がいくつも記されています。

 赤司義彦「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)

 同論文については「一元史観からの太宰府王都説 -井上信正説と赤司義彦説の運命-」『古田史学会報』 No.121(2014年4月)でも紹介しましたが、太宰府条坊都市を斉明天皇の「都(朝倉橘廣庭宮)」(「遷都」「遷居」と表現)とする新説です。わたしが特に注目したのが大野城と大宰府政庁 I 期の編年についての記載です。

 「(大宰府政庁 I -1期遺構)出土土器は6世紀後半の返りのある須恵器蓋が1点出土している。」(81頁)
 「(政庁 I 期の遺構群)これらの柵や掘立柱建物は周辺を含めて整地が行われた後に造営されている。柵の柱堀形や整地層には6世紀後半~末頃の土器を多く含んでいる。 これらは以前に存在した古墳に伴う副葬・供献品だったと思われる。 I 期での大規模な造成工事に伴って古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう。」(83頁)

 大宰府政庁遺構は3層からなり、最も古い I 期はさらに3時期に分けられています。その中で最も古い大宰府政庁 I -1期遺構から6世紀後半の須恵器蓋が出土しているというのですから、 I 期遺構は6世紀後半以後に造営されたことがわかります。更にその整地層から出土した土器が「6世紀後半~末頃の土器を多く含んでいる」という事実は、 I 期の造営は7世紀初頭と考えるのが、まずは真っ当な理解ではないでしょうか。「これらは以前に存在した古墳に伴う副葬・供献品だったと思われる。 I 期での大規模な造成工事に伴って古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう。」というのは、遺構をより新しく編年したいための 「解釈」であり、出土事実から導き出される真っ当な理解は、整地層に6世紀後半から末の土器が多く含まれるのであれば、その整地は7世紀初頭のことであるとまずは理解すべきではないでしょうか。
 こうした赤司さんが紹介された大宰府政庁 I 期に関わる出土土器の編年から、それは7世紀初頭の造営と理解できるわけですが、文献史学による九州王朝説の立場からの研究では、太宰府条坊都市の造営を九州年号の倭京元年(618)と考えていますが、この時期が先の政庁 I 期の造営時期(7世紀初頭)と一致します。
 そして、井上信正さんの調査研究によれば、政庁 I 期と太宰府条坊造営が同時期と見られているのです。そうすると、考古学出土事実と九州年号という文字史料の双方が、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭とする理解で一致し、「シュリーマンの法則」すなわち、考古学的事実と文字史料や伝承が一致すれば、より歴史事実と考えられることになるのです。
 このように考古学出土事実を大和朝廷一元史観(『日本書紀』の記述を基本的に正しいとする歴史認識)による「解釈」で強引に「編年」するのではなく、 真っ当な理解で編年した結果が、九州王朝説に立つ文献史学の論証(倭京元年・618)と一致したのですから、まずは九州王朝の都である太宰府条坊都市の造営は7世紀初頭としてよいと思います。正確に言うならば、7世紀初頭から条坊都市太宰府は造営されたということでしょう。あれだけの大規模な条坊ですから、造営開始から完成までは幅を持って考えたいと思います。
 それでは次に大宰府政庁II期の宮殿の造営はいつ頃でしょうか。この問題を解決するヒントも赤司さんの論文にありました。(つづく)


第811話 2014/10/26

山崎信二さんの「変説」(1)

 学問研究において自説を変更することは悪いことではありません。ただしその場合、何故「変説」したのかという説明責任と、「変説」の結果、より真実に近づくということが不可欠です。
 いきなりなぜこんなことを言い出すのかというと、「洛中洛外日記」808話の『「老司式瓦」から「藤原宮式瓦」へ』で山崎信二さんの『古代造瓦史 −東アジアと日本−』(2011年、雄山閣)で、次のように主張されていることを紹介しました。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突 然一斉に変化するのである。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生 じたことは間違いないところである。」
 「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。(中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」

 このように山崎さんは瓦の製作技法の突然の一斉変化の方向が「大和から筑前へ」と、根拠を示さずに断定されていました。 ところが、昨日、岡下英男さん(古田史学の会・会員、京都市)からメールが届き、山崎さんは本来「筑前から大和へ」説だったはずで、九州王朝説に有利なこのような説を発表して差し支えないのだろうかと思っていた、という趣旨が記されていました。添付されていた資料によると、たしかに以前は山崎さんは次のように発表されていました。

「藤原宮軒瓦と老司式軒瓦の年代
 それでは、藤原宮軒瓦と筑前・肥後の老司式軒瓦のどちらが古く遡るのであろうか。(中略)
 決定的な資料はないが、以上のように、一般的には老司式が藤原宮の軒瓦のうち古い様相をもつものと共通点が多いことが指摘できる。これは老司式軒瓦の最も初期のものが、藤原宮軒瓦の最も初期のものと同時期か、それより若干遡る可能性を考えさせる。
 老司式軒瓦のうち最古のものは筑前観世音寺出土のものであろうが、(中略)
 このようにみると、九州の老司式軒平瓦と藤原宮軒平瓦の文様の使い分けは、九州の老司式軒平瓦の文様(6640)がすでに存在していたので、その文様を避けて藤原宮軒平瓦の文様(6641・6642・6643)を選択したと考えた方がよいだろう。観世音寺と藤原宮の造瓦において、文様・作製技法を含む技術的な交流がなければ、以上のような相互関係は成り立ち得ないだろう。(中略)
 即ち、老司式と藤原宮の瓦の相互関係については、まず観世音寺造瓦にたずさわった工人の一部(この工人は大和を経由して招来された可能性がある)が、藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ移動した場合が想定できる。」(p.265-267)
 山崎信二「藤原宮造瓦と藤原宮の時期の各地の造瓦」『奈良国立文化財研究所創立40周年記念論集 文化財論叢II』所収(同朋舎出版、平成7年・1995年)

 このように1995年時点の論文では「藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ」と工人の移動を「筑前から大和へ」とされており、藤原宮式よりも観世音寺創建瓦(老司1式)のほうが若干古いとされていたのです。ところが2011年発刊の『古代造瓦史 −東アジアと日本−』では「大和から筑前へ」に「変説」され、「老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期」と微妙に表現が変化していたのです。1995年から 2011年の間になにがあったのでしょうか。山崎さんの論文等をすべて読んだわけではありませんが、わたしには思い当たることがありました。(つづく)


第796話 2014/10/01

白村江戦の合同慰霊祭

 今朝は仕事で新大阪駅に行ったのですが、新幹線用みどりの窓口に長蛇の列ができていましたので、駅員さんに何事かとたずねたところ、東海道新幹線 開業50周年記念入場券購入のために並ばれているとのこと。新幹線改札口では駅員が無料で0系からN700A系までの歴代新幹線車両が描かれたクリアシー トを乗降客に配られていました。水野代表にも差し上げようと思い、わたしは催促して2枚いただきました。民営化してJRのサービスは本当に良くなりました。
 懐かしい初代0系はノーズが丸く、500系はコンコルドのように尖っています。これはトンネル突入時のドーンという衝撃音(業界用語で「トンネル・ド ン」と言う)を緩和するためのデザインですが、その結果、先頭車両の客席数が減り、営業的にはマイナスとなったそうです。その後も改良が続けられ、客席数を減らさずにトンネル・ドンも緩和するデザインとして現在の700系が採用されました。このように新幹線も進化しています。山が多い島国ならではの進化ですね。
 新大阪駅から東京行きのぞみ16号に乗ったのですが、新大阪駅で降りた人が新聞をシートに残されていたので見てみますと、私の故郷の地方紙「西日本新 聞」でした。懐かしい新聞でしたので目を通したところ、22面(ふくおか都市圏)に「白村江の戦い『1350年前のえにし』交流に」「慰霊祭 太宰府から 参加」という見出しがありました。同記事によれば、10月4日に韓国扶余郡で第60回「百済文化祭」が催され、白村江戦で亡くなった人々(唐・新羅・百済・倭)の合同慰霊祭が行われるとのこと。扶余と姉妹都市の太宰府市に招待があり、市長らが参加されます。
 同記事には「この敗戦(白村江戦)を機に、博多湾奥に水城や大野城が築かれた。」とあり、残念ながら西日本新聞の記者(南里義則さん)は古田説・九州王朝説をご存じないようです。しかしながら旧百済の地である扶余での慰霊祭に招待されたのが「大和朝廷」の奈良市長ではなく、九州王朝の旧都・太宰府市の市長であることは、招待する側の「歴史認識」がうかがわれます。冷え込んでいる日韓両国の友好親善のためにも、こうした取り組みは意義があることと思いま す。慰霊祭の成功を期待します。


第786話 2014/09/18

倭国(九州王朝)遺産・遺跡編

 今回の「倭国(九州王朝)遺産」は遺跡編です。すでに失われた遺跡も含めて、九州王朝にとって重要な遺跡を認定してみたいと思います。

〔第1〕太宰府条坊都市と「政庁」(紫宸殿)
 太宰府に条坊があったかどうか不明とされてきた時代もありましたが、現在では考古学的発掘調査により条坊跡がいくつも発見されており、疑問の余地はありません。その上で、条坊がいつ頃造営されたのかが検討されてきましたが、井上信正さんの研究により7世紀末頃には既に存在していたとする説が地元の考古学 者の間では有力視されています。さらに井上さんの緻密な研究の結果、大宰府政庁2期遺構や観世音寺創建よりも条坊の造営の方が早いということも判明しまし た。
 こうした一元史観に基づいた研究でも太宰府条坊都市の成立が藤原京と同時期かそれよりも早いという結論になっているのですが、わたしたち古田学派の研究によれば太宰府条坊都市の成立は7世紀初頭(618年、九州年号の倭京元年)まで遡ります。従って、わが国初の条坊都市は通説の藤原京ではなく、九州王朝の首都太宰府となります。
 大宰府政庁遺跡は3期に区分されていますが、2期が九州王朝の紫宸殿と思われます。「紫宸殿」や「大裏(内裏)」という字地名が残っており、同地はいわゆる「政庁」ではなく、九州王朝の天子の宮殿と見なすべきです。ただ、規模が王宮にしては小さいので、天子が日常的に生活する館は別にあった可能性もあり ます。
 2期の造営年代は使用されている瓦が主に老司2式とされるもので、観世音寺の造営と同時期かやや遅れた頃と推定されます。観世音寺の創建年を九州年号の白鳳十年(670)とする史料が複数発見されたことから、政庁2期の造営もその頃と考えられます。九州王朝の首都遺構ではありますが、まだまだ研究途上ですので、古田学派内での論議と解明が期待されます。

 *考古学的報告書などの用語は「大宰府」が使用されていますので、考古学的遺跡名としての「大宰府政庁」などについては、現地名や九州王朝の役所名の「太宰府」ではなく、「大宰府」を使用し、使い分けています。

〔第2〕水城(大水城・小水城・上津荒木水城)
 九州王朝の首都太宰府を防衛する国内最大規模の防塁施設が水城です。『日本書紀』天智三年条(664年)の記事により、水城は白村江戦(663年)後の 造営と通説では理解されていますが、理科学的年代測定(14C同位体測定)によれば、それよりもかなり早くから造営が開始されていたことが判明していま す。
 通常知られている水城(大水城)以外にも太宰府方面への侵入を防衛するために小水城も造営されています。さらには有明海側からの侵入を防ぐための上津荒木(こうだらき)水城が久留米市にあります。これら水城は「倭国(九州王朝)遺産」に認定するに値する規模で、現在でもその偉容を見ることができます(上津荒木水城は今ではほとんど残っていません)。
 ちなみに、この水城は鎌倉時代の元寇でも太宰府防衛に役だったことが知られています。

〔第3〕神籠石山城群
 水城と共に、九州王朝の首都太宰府や近隣の筑後国府・肥前国府を囲繞するような防衛施設(水源を内部に持ち、住民の収容も可能な大規模施設)としての神籠石山城群は九州王朝を代表する遺跡です。直方体の切石が山の中腹を取り囲む列石遺構は同じ規格で造営されていることから、統一権力者によるものと、一元史観の研究者からも指摘されてきました。瀬戸内海方面にも神籠石山城がいくつか点在しており、九州王朝の勢力範囲がうかがえます。
 水城や神籠石山城群の造営という超大規模土木事業は九州王朝の実力を推し量ることができます。文句なしの「倭国(九州王朝)遺産」です。

〔第4〕大野城
 太宰府の真北にある大野城は、首都防衛と水城が敵勢力に突破された場合、「逃げ城」としての機能も併せ持っています。大規模で頑強な「百間石垣」はその代表的な遺構ですが、山内にある豊富な水源や倉庫遺構群は長期の籠城戦にも耐えうる規模と構造になっています。首都太宰府の人々にとっては水城や神籠石山城とともに心強い防衛施設だったことを疑えません。逆から考えれば、当時の九州王朝や「都民」にとって恐るべき外敵の存在(隋や新羅、あるいは近畿天皇家)もうかがえます。
 近年の発掘や研究成果よれば、出土した木柱の年輪年代測定の結果、大野城が白村江戦(663年)以前に造営されていたことは確実です。このことは同時に 大野城が防衛すべき条坊都市太宰府もまた白村江戦以前から存在していたという論理的帰結へと至ります。従って、一元史観の通説で日本初の条坊都市とされてきた藤原京(694年遷都)よりも太宰府条坊都市の方が早いということになるのです。このことも多元史観・九州王朝説でなければ合理的で論理的な説明はできません。

〔第5〕基肄城(基山)
 太宰府の北にある大野城に対して、南方には基肄城(基山)があり、首都を防衛しています。基肄城は交通の要衝の地に位置し、現代でも麓を国道3号線と JR鹿児島本線が走っています。山頂からの眺めもよく、北は太宰府や博多湾方面、南は筑後や有明海方面、東は甘木や朝倉方面が望めます。また、太宰府条坊 都市の中心部の扇神社(王城神社)がある「通古賀(とおのこが)」は、真北(北極星)と基山山頂を結んだ線上にあり、太宰府条坊都市造営にあたり、基肄城 は「ランドマーク」の役割を果たした可能性もあります。九州王朝にとって重要な山城であったこと、これを疑えません。

〔第6〕筑後国府跡(含む曲水宴遺構・久留米市)
 倭の五王の時代、九州王朝は筑後に遷宮していたとする研究をわたしは発表したことがあります。筑後国府は3期にわたり位置を変えながら長期間存続していたことが判明しています。中でも「曲水宴」遺構は珍しく、九州王朝の中枢にふさわしい遺構です。高良山神籠石や高良大社なども、九州王朝中枢にふさわしいものでしょう。ちなみに高良大社の御祭神の玉垂命を祖先に持つ稻員家が九州王朝の王族の末裔であることは既に述べてきたとおりです。

〔第7〕鞠智城
 九州王朝研究で検証がまだ進んでいないのが鞠智城です。おそらく九州王朝による造営と思うのですが、古田学派内での調査検討はこれからです。あえて認定することにより、今後の研究を促したいと思います。

〔第8〕岩戸山古墳(八女古墳群)
 現在異論のない九州王朝の王(筑紫君磐井)の墓が岩戸山古墳です。おそらく八女丘陵に点在する石人山古墳・鶴見山古墳などは九州王朝の歴代の王の墓であることは確実と思われます。さらには三潴地方の御塚古墳なども倭の五王の墓ではないかと考えています。これらも含めて認定します。

〔第9〕装飾壁画古墳(珍塚古墳・竹原古墳・他)
 北部九州の装飾壁画古墳も九州王朝を代表する遺跡です。中でも珍塚古墳や竹原古墳の壁画は古田先生の研究により、その謎が解き明かされつつあり、貴重なものです。

〔第10〕宮地嶽古墳
 巨大な横穴式石室を持つ宮地嶽古墳は、その超豪華な副葬品(金銅製馬具・他)と共にダブル認定です。これも異論はないと思います。その石室内で九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞が舞われていたことも「倭国(九州王朝)遺産」にふさわしいエピソードです。

 以上の他にも認定するにふさわしい遺跡は数多くありますが、とりあえず「遺跡編」はここまでとします。なお、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮も候補の対象ですが、検証過程の仮説ですので、今回は認定しませんでした。(つづく)


第766話 2014/08/15

終戦の日、雑感

 「終戦の日」の今日は、最近買ったばかりのファンモン(FUNKY  MONKEY BABYS)の3枚組アルバム「LAST BEST」を聴いています。昨年、惜しまれながら解散したグループで、プロ野球の田中将大選手のテーマ曲でもある「あとひとつ」やラストシングルとなった「ありがとう」、そして「サヨナラじゃなくて」「ちっぽけな勇気」「ヒーロー」などが好きな曲で、繰り返し聴いています。

 「終戦の日」のテレビの特別番組を見ると思うのですが、世界中で戦争に負けた日を「記念日」として、毎年国を挙げて「記念」している国は他にあるのでしょうか。「独立記念日」や「建国記念日」「戦勝記念日」を祝う国は多いと思うのですが、日本は特別なのでしょうか。考えてみると不思議な気持ちがします。
 先の戦争の敗戦は日本にとって初めての敗戦ではありません。みなさんはよく知っておられるように、663年の白村江戦で当時の倭国(九州王朝)は天子が捕虜となるほどの敗北を唐と新羅の連合軍に喫しました。敗戦後、唐の軍隊や使節が数千人単位で何度も筑紫に来たことが『日本書紀』に記されています。そして、倭国(九州王朝)から大和朝廷(近畿天皇家)に列島の代表者が交代しました。701年(大宝元年)のことです。
 鎌倉時代になると有名な元寇があり、対馬や博多湾岸は元軍の侵略により主戦場となりました。一般的には「神風」が吹き、博多湾で元の軍船は壊滅し、日本は救われたとされ、「神国日本」と言われるようになりましたが、だいぶ前に読んだ研究論文では、日本軍の勝利は「神風」だけではないという説が記されていました。勝因はいくつかあったようですが、一つは鎌倉武士がよく戦ったということがあります。そしてもう一つはなんと古代に築造された水城でした。
 わたしが読んだ論文によれば、博多湾の防塁は簡単に元軍に突破されてしまうのですが、鎌倉武士は苦戦しながらもよく戦い、元軍の猛攻に耐えながら水城まで撤退します。その水城で防戦し、結局、元軍は目的としていた大宰府攻略を目前にしながらも水城を突破できませんでした。そして日が暮れたのが幸いしました。元軍は敵地での野営は夜討ちの危険があるため、博多湾まで戻り、船中で夜を明かすことにしました。そのときです、博多湾に暴風雨が吹き荒れたのです。 そして、元軍の船舶は壊滅します。
 このように、研究者の論文が正しければ元寇を防いだ要因は鎌倉武士の勇敢さと古代九州王朝が築造した水城、そして「神風」だったのです。元寇ではこうした要因により奇跡的に勝利しましたが、白村江戦と先の大戦は敗北しました。これは歴史的必然だったのでしょうか。古代史研究と近代史研究はどのように結論付けるのでしょうか。こんなことを、終戦の日にファンモンを聴きながら考えています。


第754話 2014/07/28

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(4)

 「洛中洛外日記」751話で、 観世音寺の創建瓦と同笵の瓦が飛鳥の川原寺、近江の崇福寺から出土していることが森郁夫著『一瓦一説』で紹介されていることを記しました。その観世音寺の 創建瓦は老司1式と呼ばれるもので、同笵とされる軒丸瓦の瓦当文様は「複弁蓮華文」と称されています。この複弁蓮華文軒丸瓦の最初は川原寺と一般的にはされているようで、川原寺の創建年には諸説ありますが、森さんは「天智朝」の頃、具体的には「近江遷都」する前の662~667年頃とされています。
 ところが複弁蓮華文軒丸瓦は近江大津の寺院(南滋賀廃寺・穴太廃寺・崇福寺・園城寺前身廃寺)の方が早いとする考古学者もいます。大津市歴史博物館編 『近江大津になぜ都は営まれたのか』(平成16刊)に掲載されている林博通さんの講演録「大津宮とその時代」には次のような説明がなされています。

 「南滋賀廃寺・穴太廃寺などで出土する軒瓦の系統を整理したものが、図34になります。A系統とB系統に整理できまして、A系統というのは、複弁 蓮華文軒丸瓦といいまして、じつは大津京時代頃に初めて使われ始める瓦です。一般には、大和の川原寺が最初だという意見が大半ですけれども、川原寺の瓦作りの技法が大津京のこれらの寺院のA系統瓦にはまったく認められないことなどから、私は、大津京で使われた方が古いだろうというふうに考えています。」 (84ページ)

 この林さんの見解が正しければ、複弁蓮華文軒丸瓦は白鳳元年(661年、『海東諸国記』による)の近江遷都に伴って建立されたと考えられる南滋賀廃寺などでの使用が最初ということになります。南滋賀廃寺は大津宮の北側にあり、両者の南北の中心軸はほぼ一致していることから、大津宮と密接な関係を 持った寺院であることは明白です。しかも、その伽藍配置(西に金堂、東に塔、等)が観世音寺と同じで、この一致は偶然とは思えません。ともに九州王朝との関係が深い寺院ではなかったでしょうか。ちなみに川原寺の伽藍配置も似ています。
 複弁蓮華文軒丸瓦の最初の使用が大津宮の南滋賀廃寺などで白鳳元年(661)頃とすれば、太宰府の観世音寺創建は白鳳10年(670)ですから、まず近 江大津で使用開始された複弁蓮華文軒丸瓦が、その後、同型の瓦当笵とともに大和の川原寺や筑紫の観世音寺創建に使用されたとする理解に至ります。白村江戦 前後にまたがる時代の近畿と九州王朝の関係を考える上で、この複弁蓮華文軒丸瓦の変遷や瓦当笵の移動は一つのヒントになるかもしれません。


第752話 2014/07/26

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(2)

 太宰府の観世音寺創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)や、『勝山記』(鎮西観音寺造)『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳十年(六七〇)の創建とする記事が発見され、観世音寺創建が白鳳十年(六七〇)であることが史料的に明らかになってい ました。
 森郁夫著『一瓦一説』では、観世音寺創建瓦の同笵品瓦の発見により、観世音寺の創建が川原寺や崇福寺と同時期(7世紀後半頃)と見なしうることが示唆されています(瓦当文様の比較から、大和の本薬師寺創建と同時期とされています。この点、別に論じます)。したがって文献と考古学の一致(シュリーマンの法則)からしても、ほぼ確実に観世音寺創建年を白鳳10年(670)と見なして良いと思います。
 ところが、この観世音寺創建年を認めてしまうと、近畿天皇家一元史観にとって耐え難い大問題が発生します。それは太宰府の地元の考古学者、井上信正さんの調査研究により、観世音寺よりも太宰府条坊都市の成立の方が早いことが明らかとなっていることから、日本初の条坊都市とされている藤原京(694年遷都)よりも太宰府の条坊成立の方が先となってしまうからなのです。このことは九州王朝説の立場からは当然ですが、「九州王朝や古田説はなかった」とする一 元史観論者や学界にとっては大問題なのです。すなわち、大和朝廷の都(藤原京)よりも、「地方都市」太宰府の方が先に条坊が造営されたこととなり、我が国 初の条坊都市が太宰府になってしまうからです。
 このことを「洛中洛外日記」などで何度もわたしは指摘してきましたが、一元史観論者や学界は無視を決め込んでいます。この「洛中洛外日記」を見ておられる一元史観論者の皆さんに敢えて申し上げます。どの一元史観論者よりも早く、最初に「古田説・九州王朝は正しい」と言った学者は研究史や後世に名を残せますよ。よくよくお考えください。(つづく)


第751話 2014/07/24

森郁夫著

『一瓦一説』を読む

 今朝の京都は祇園祭の山鉾巡行(後祭)のため、観光客が見物席の場所取りであふれていました。今年は山鉾巡行が二回になりましたので、観光収入は増えると思いますが、混雑でバスが遅れたりしますので、住んでいる者にはちょっと大変です。
 今日は愛知県一宮市に仕事で来ていますが、ちょうど「一宮七夕祭り」の日で、駅前はイベントで賑やかです。女子高生によるキーボード演奏などもあり、わ たしも若い頃にバンド活動をやっていましたので、生演奏には今でも興味をひかれます。わたしはリードギターを担当していましたが、主にスクウェアやカシオ ペアの曲を好んで演奏していました。30年ほど昔の話しです。

 さて、今回は森郁夫著の新刊『一瓦一説 瓦からみる日本古代史』(淡交社)をご紹介します。あとがきによると、森郁夫さんは昨年五月に亡くなられ たとのことで、同書は最後の著書のようです。古代の瓦についての解説がなされた本で、近畿天皇家一元史観にたったものですが、考古学的遺物という「モノ (瓦)」がテーマですので、考古学的史料事実と一元史観というイデオロギーとの齟齬が見られ、興味深い一冊です。
 なかでもわたしが注目したのが、飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦についての関連を示した次の解説です。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。 そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかる のである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために 天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 観世音寺の創建瓦(老司式)と川原寺や崇福寺の瓦に同笵品があるという指摘には驚きました。九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家 の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという指摘が正しけれ ば、この考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。
 しかもそれら寺院の建立年代は、川原寺(662~667)、崇福寺(661~667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定されていますから、観世 音寺のほうがやや遅れるのです。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係を考える上で重要な問題を含んでいるようです。(つづく)


第731話 2014/06/19

「月」の酒と歌

昨日から山形市で宿泊しています。今日は仕事がはやく終わりましたので、山形駅の近くのお店(花膳)で夕食をとり、地酒をいただきました。わたし は「月」が好きなので、名前に「月」の字を持つ銘酒「月山の雪」(寒河江市、月山酒造)と「雅山流 極月」(米沢市、新藤酒造店)を注文しました。中でも 「雅山流 極月」は絶品でした。今までわたしが飲んだ日本酒の五指に入る美味しさでした。ちなみに、一番おいしかった日本酒は月桂冠の幻の銘酒「春光 (しゅんこう)」です。酒屋さんでも手に入らないほどの銘酒です。
「月」が好きなわたしですが、お気に入りの漢詩や和歌もやはり「月」がテーマの次のものです。

静夜思  李白
牀前(しょうぜん) 月光を看る
疑うらくは 是れ地上の霜かと
頭を挙げて 山月を望み
頭を低(た)れて 故郷を思う

この李白の詩は「望郷の詩」の最高傑作とも言われています。次の和歌は李白の友人の阿倍仲麻呂(698~770)の、これもまた有名な和歌です(『古今和歌集』巻九)。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山をいでし月かも

日本を出て唐に向かうときに詠んだ歌とされていますが(諸説あり)、皆さんもご存じと思いますが、ちょっと違うところがあることにお気づきでしょうか。『古今和歌集』に収録されたこの名歌は、通常、次のように詠われています。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山にいでし月かも

普通(流布本)は「三笠の山にいでし月かも」とされていますが、『古今和歌集』の古い写本では「三笠の山をいでし月かも」となっています。『古今 和歌集』には、この歌を「に」とする流布本と、「を」とする古写本の二種類の写本があるのです。どちらも同じようなものと思われるかもしれませんが、これ が大違いなのです。
一元史観の通説では、この「春日なる三笠の山」を奈良県の御蓋山(山焼きで有名な「若草山」ではなく、近くにある別のもっと低い「御蓋山・みかさやま」 のこと。283m)から出た月を思って詠まれたと説明されていますが、御蓋山では低すぎて、すぐ後ろの春日山連峰や高円山(500~700m級)から月は 出ます。昔、古田先生たちと平城宮跡に行って、月が本当に御蓋山から出るのか観測したこともありましたが、御蓋山では低すぎて、そこからは絶対に月は出な いのです。それを実証するために、平城宮跡での「観月会」となったわけです。詳細は『古田史学会報』98号の拙論「『三笠山』新考  和歌に見える九州王朝の残映」をご参照ください。
そして結論として、「春日なる三笠の山」とは福岡県の三笠山(宝満山、869m)のことであり、仲麻呂は太宰府でその月を見たことがあり、その「観測事 実」に基づいて詠まれたのがこの歌だと、古田先生やわたしたちは考えたのです。なお太宰府からだと、月は三笠山(宝満山)から出ます。
すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地太宰府でこの歌を詠み、三笠の山から出た月と表現したのですが、近畿天皇家の時代になると、奈良の御蓋山では低すぎ て、「三笠の山をいでし月かも」では不自然すぎるため、「三笠の山にいでし月かも」と原文改訂(改竄)し、後方の春日山連峰から出た、低い三笠の山のずっ とずっと上にある月を詠んだとも理解できるように「三笠の山にいでし月かも」として流布されたのです。
どちらが本来の仲麻呂の歌でしょうか。学問的判断としては、より古い写本を重視することと、更に原文改訂されるとすれば、「を」から「に」であり、その 逆は近畿では発生し得ない(古写本は近畿で成立)という論理性の二点から、「三笠の山をいでし月かも」が原型であると解すべきなのです。
このように阿倍仲麻呂の有名な和歌も、多元史観による理解が有効であることをご理解いただけるものと思います。仲麻呂問題は他にも面白い研究テーマがありますが、それはまた後日ご紹介いたします。


第588話 2013/08/31

阿部周一さんからの「鎮西」試案

 第587話「観世音寺と観音寺」に対して、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)より興味深いメールが寄せられましたので、ご紹介します。
 太宰府の観世音寺の創建年を記した史料『日本帝皇年代記』の「鎮西建立観音寺」の読みについて、わたしは「鎮西」を九州という地名表記と見なしたのです が、阿部さんは単なる地名表記ではなく、観世音寺(観音寺)の創建主体、すなわち九州太宰府(九州王朝)のことと理解すべきではないかと提起されたので す。
 その理由として、「鎮西」が「九州の」といった地域特定のための「形容詞的」用法であるなら、「鎮西建立観音寺」ではなく、「建立鎮西観音寺」というように「観音寺」の直前になければならないというものでした。しかし、「鎮西建立観音寺」とあるので、この「鎮西」は『日本帝皇年代記』に見える他の寺院建立記事と同様に読まれるべきで、そうであれば「鎮西」が観音寺を建立したと解さざるを得ないという御指摘をされたのです。
 たしかに「文法的」には阿部さんの言われることはもっともです。そのため、わたしは「検討させていたたきます」とメールで返答しました。学問的検証方法としては、当該史料『日本帝皇年代記』の史料批判、すなわち執筆者の「和風漢文」の「文法」を調べたり、史料中の同じような用例や「鎮西」の抽出と比較解析などが必要と思われます。ただちに阿部試案の当否は判断できませんが、とても興味深く鋭い御指摘ですので、しっかりと検討させていただきたいと思います。
 阿部さんのような優れた研究者がわたしの洛中洛外日記に対して、このような試案を寄せていただくことは有り難いことです。
 なお、太宰府の観世音寺を「観音寺」と表記する史料を新たに見いだしましたのまで、ご紹介します。それは『新抄格勅符抄』という平安時代成立の文書で、 そこに収録されている大同元年(806)の太政官牒に「太宰観音寺 二百戸 丙戌年施 筑前国百戸 筑後国百戸」と記されているようです。ちなみに、この「丙戌年」は朱鳥元年(686)のことと見なされているようですが(『若宮町誌』上巻、2005年)、このことが正しければ、朱鳥元年には観世音寺が太宰府に存在していたことの証拠となります。原本未見ですので、引き続き調査します。