太宰府一覧

第2965話 2023/03/15

律令制王都の先駆け、倭京(太宰府)

 九州王朝(倭国)時代の律令制王都の先駆けとも言える都市が倭京(太宰府)です。律令制王都の五つの絶対条件(注①)を備えている理由について説明します。

《条件1》官衙遺構の存在。
太宰府条坊右郭の中心部にある通古賀地区(王城神社の地)から七世紀の古い土器が出土しており、そのエリアに初期の中心遺構(王宮と官衙)があったと考えられる(注②)。七世紀初頭(倭京元年、618年)、多利思北孤による倭京(太宰府)遷都(注③)により、律令制が整えられ、中央官僚群の発生と増加に伴って条坊も拡充されたと考えられる。その考古学的痕跡として、近隣の牛頸窯跡群が六世紀末から七世紀初頭にかけて急増していることがあげられる。

《条件2》巨大条坊都市の存在。
条坊跡(二十二条、右郭八坊・左郭十二坊)が検出されている。

《条件3》食料・消費財の生産地の存在。
九州島内屈指の平野(福岡平野・筑後平野)が広がっている。消費財としての土器を供給する日本三大須恵器窯跡群(注④)の一つ、牛頸窯跡群が太宰府の西にある。

《条件4》官道(山道・海道)の存在。
筑前・筑後・肥前・豊前に通じる官道があり、博多には朝瀬半島・日本海に向かう港湾都市(那の津)がある。

《条件5》防衛施設・地勢的有利性の存在。
太宰府の南北には基肄城と大野城があり、後者は日本列島最大の山城である。博多側からの侵入を防ぐ古代日本最大の防塁水城があり、太宰府条坊都市を囲むように阿志岐山城(神籠石山城)や土塁がある。更にその南側には天然の大濠、筑後川と神籠石山城(杷木・高良山)が南からの敵の侵入を防いでいる。このように、倭京(太宰府)は古代日本最大最強の防衛施設で護られている。

 以上のように、倭京(太宰府)は七世紀の律令制王都に相応しいのですが、難点としては『養老律令』で規定された約八千人の官僚群(注⑤)が執務するには、通古賀地区の規模では小さすぎます。従って、七世紀初頭の遷都時には比較的小規模な律令組織だったのではないでしょうか。そのため、全国統治の王都として七世紀中頃(652年、白雉元年)に難波京(前期難波宮)を造営し、遷都したものとわたしは考えています。
おそらく九州王朝(倭国)は全国統治のための権力の都・難波京と天孫降臨依頼の伝統的な権威の都・倭京(太宰府)との両京制(注⑥)を採用したものと考えられます。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の絶対条件〟
②井上信正「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。
④牛頸須恵器窯跡群は、堺市の陶邑窯跡群、名古屋の猿投山(さなげやま)窯跡群と並んで、古代日本の三大須恵器窯跡群とされる。
⑤服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
同「柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京―」『古代に真実を求めて』26集、明石書店、2023年。


第2964話 2023/03/14

七世紀、律令制王都の有資格都市

 多元的古代研究会の月例会(3/12)で、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な5条件を提示しました。下記の通りです。

《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

 これらの条件を満たしてる七世紀の都城は、わたしの見るところ次の3都市です。倭京(太宰府)、難波京(前期難波宮)、新益京(藤原宮)。なお、近江京(大津宮)は、《条件1》の全貌が未調査、《条件2》の巨大条坊都市造営が可能なスペースが近傍にないことにより、有資格都市とするにはやや無理があると考えました。この点、重要ですので後述したいと思います。(つづく)


第2961話 2023/03/07

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (6)

 山村信榮(太宰府市教育委員会)さんは、政庁Ⅰ期古段階の成立を六世紀の第2四半期頃とする論文「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」を発表しました(注①)。大宰府政庁Ⅰ期(古段階)整地層から出土した須恵器坏Hを古墳時代の土器が整地盛土に紛れ込んだとする説を否定し、坏H(九州編年ⅢA)の時代(六世紀第2四半期)に政庁Ⅰ期古段階が成立し、同新段階の成立を七世紀の第4四半期とするものです。いわゆる〝磐井の乱(528年)〟のすぐ後に政庁Ⅰ期古段階が成立し、政庁Ⅰ期新段階成立は通説通り七世紀第4四半期とする仮説です(注②)。

 この山村説は、六世紀前半の古墳時代から7世紀末までを大宰府政庁古新Ⅰ期の時代、そして八世紀初頭成立の政庁Ⅱ期までの遺構を、連続して廃絶・造営されたものとする歴史理解に基づいたもののようです。そうした認識が次の説明に表れています。

〝このように大宰府政庁地区ではⅢA型式(坏Hの古いタイプ)の土器群を主体とする時期に谷部が整地され、正方位を示す柵や掘立柱建物が建てられ、Ⅳ型式(坏Hの新しいタイプ)を消費する段階では政庁地区西の蔵司地区からさらにその西側の谷部にまで土地の利用が広がっている。調査報告書では政庁正殿Ⅰ期古段階の遺物は「古墳時代の遺物」とされ、遺構生成時の前代に当たる混入遺物として取り扱われる。Ⅰ期古段階の出土須恵器がⅢA型式、Ⅰ期新段階がⅥ(坏Bの古いタイプ)からⅦ型式(坏Bの新しいタイプ)であり、土器の型式的不連続がそういう結論を導き出したのかもしれない。(中略)古段階と新段階の建物群に連続性があった可能性は捨てきれない。古相段階の建物の柱が抜き取られて新相段階の整地がなされていることも見逃せない。(中略)このことから政庁Ⅰ期古新相の遺構群は後に大宰府政庁の中枢となるⅡ期政庁の遺構群と連続性を持つ可能性があると言える。(注③)〟※()内は古賀による補記。

 既に指摘しましたが(注④)、わたしは山村説よりも通説のように政庁Ⅰ期古段階整地層から出土した坏Hを古墳時代の古い土器が整地盛土に紛れ込んだとする理解が穏当と思いますが、これは考古学に関するテーマであり、発掘当事者たちによる論争の発展に期待しています。(おわり)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②同①の「第1表 土器のセリエーションとフェイズ」による。
③同①204~205頁。
④古賀達也「洛中洛外日記」2960話(2023/03/06)〝大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (5)〟


第2960話 2023/03/06

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (5)

 大宰府政庁Ⅰ期(古段階)整地層から古墳時代の土器(坏H)が出土しており、通説ではこれを古墳時代の土器が整地盛土に紛れ込んだとしますが、この通説とは異なる考古学者の見解があります。その紹介の前に、政庁出土土器と編年について簡単に説明します(注①)。

(1)〔政庁Ⅰ期古段階整地層〕須恵器坏Hが出土。
(2)〔政庁Ⅰ期新段階整地層〕須恵器坏B(蓋につまみがあり、坏身に脚があるタイプ)と坏Hが出土。
(3)〔政庁Ⅱ期整地層〕須恵器坏Bが出土。

 通説では(1)の坏Hを六世紀、(2)の坏Bを七世紀第4四半期、(3)の坏Bを7世紀末から八世紀初頭と編年しています。ここで重要なことは、政庁Ⅰ期古段階整地層出土の坏Hをどのように理解するのかということと、坏Bの発生を暦年(実年代)とどのようにリンクさせるのかの二点です。
問題となっている政庁Ⅰ期古段階整地層から出土した須恵器坏Hですが、整地盛土に周辺の古墳から紛れ込んだとする通説の根拠は、恐らく当該坏Hが六世紀と編年されていることから、七世紀の第4四半期と編年された政庁Ⅰ期新段階成立時期と約百五十年も離れていることです。というのも、政庁Ⅰ期の新旧両遺構は連続して廃絶・造営された痕跡を示していることや、同じく出土土器の最古と最新の年代差が約五十年(注②)であることとは整合しないからです。従って、暦年リンクの当否を別とすれば、当該坏Hは整地盛土に紛れ込んだものとする見解は穏当と思われます。

 更に言えば、六世紀前半頃に南北正方位の建物が成立したとするのも、他に例が無いと思われ、政庁Ⅰ期古段階の成立はやはり七世紀以降と考えざるを得ません。ところが山村信榮(太宰府市教育委員会)さんは、政庁Ⅰ期古段階の成立を六世紀の第2四半期頃とする論文を発表しています(注③)。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②同①385頁。
③山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2959話 2023/03/05

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (4)

 古田学派内では大宰府政庁の通説の編年を疑う意見は早くから出されていました。その理由として、政庁整地層から古墳時代の土器が出土しているが、通説では古墳時代の土器が紛れ込んだとするため、大宰府政庁が不当に新しく編年されているというものでした。土器編年について疑問視する意見は出されていたものの、具体的に土器編年のどの部分にどの程度問題があるのか、何を根拠にそう理解できるのかという考古学的な批判はほとんどなかったように思います。他方、少数意見でしたが、土器編年はそれほど間違ってはいないとする論者もいました。そのお一人が伊東義彰さん(古田史学の会・会員、生駒市)でした。

 伊東さんは考古学に造詣が深く、太宰府条坊が政庁Ⅱ期・観世音寺よりも先に造営されたとする井上信正説を「古田史学の会」関西例会で最初に紹介した方です。関西例会での太宰府研究の先駆的な存在でした。わたしたちが大宰府政庁Ⅱ期を九州王朝の天子の宮殿と考えていたとき、伊東さんはそれに対して批判的論評を発表され、考古学的事実を自らの願望よりも優先すべきと警鐘を鳴らされました。その代表的論文が「太宰府考」でした(注①)。同稿には次のような心境の吐露が見えますが、その内実は、検証抜きで大宰府政庁を倭王の宮殿と見なす古田学派研究者(わたしも含む)への誡めでした。

〝九州王朝説を信じる者の立場からすれば、太宰府からその可能性を示す遺構・遺物が出土することを願ってやまないのですが、それらしきものがなかなか見つからないのが現状ではないかと思われ、切歯扼腕の限りです。中でも政庁跡Ⅱ期遺構が九州年号「倭京」元年に造営された倭王の宮殿遺構であれば、という思いは、九州王朝説を信じる者の共通の願いではないでしょうか。その切なる願いと考古学的出土遺構・遺物とのギャップを埋めることの難しさを痛切に感じている今日この頃です。あれこれ埋めてみようといろいろ試みてみたものの、その都度ボロが生じ、なかなかうまくいかないのが現状です。〟

 そして、飛鳥宮や前期難波宮よりも規模が小さい大宰府政庁Ⅱ期は倭王の宮殿には相応しくないとされました。

〝内裏は一国の支配者が私的生活を営む一区画ですから、その規模が大きいのは当たり前で、飛鳥浄御原宮でさえ、南北約一九七㍍、東西約一五二~一五八㍍におよんでおり、その中に数多くの建物遺構が検出されていて、規模的には太宰府政庁跡Ⅱ期遺構よりも大きいのです。〟
〝前期難波宮の内裏・朝堂院遺構は南北約五三〇㍍(一部推定)、東西約二三三㍍ありますから、太宰府政庁Ⅱ期遺構はその約五分の一ぐらいの規模だということになります。(中略)
規模という点から見ても、Ⅱ期遺構が日本列島を代表する倭王(天子)の宮殿としてはいささか見劣りするのではないかという感を抱かざるを得ないのです。〟

 今から見れば、この伊東さんの指摘は妥当なものです。こうした考察を「古田史学の会」関西例会などで発表され(注②)、わたしは自説(注③)の修正を余儀なくされました。また、伊東さんは大宰府政庁Ⅰ期(掘立柱建物)については、次のように述べています。

〝思いつきではありますが、Ⅰ期遺構が多利思北孤の建設した内裏の跡ではないかという可能性も考えられなくもありません。〟

 こうした伊東さんの作業仮説は、その後のわたしの太宰府研究への大きな刺激となりました。(つづく)

(注)
①伊東義彰「太宰府考」『古代に真実を求めて』13集、明石書店、2010年。
②伊東義彰「太宰府の条坊」古田史学の会・関西例会での発表、2009年7月18日。
古賀達也「洛中洛外日記」216話(2009/07/19)〝太宰府条坊の再考〟
同「洛中洛外日記」218話(2009/08/02)〝太宰府条坊の中心領域〟
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ―観世音寺と水城の証言―」『古田史学会報』50号、2002年。


第2958話 2023/03/04

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (3)

 大宰府政庁Ⅰ期(掘立柱建物)の造営年代について、九州王朝説による新たな仮説を提起したのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)です。正木さんの論稿「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」(注①)では、政庁Ⅰ期を七世紀中頃、前期難波宮(白雉元年〔652年〕創建)と同時期の造営としました。そして、太宰府条坊都市草創期とされる通古賀(とおのこが)地区遺構(王城神社の地)を「大宰府古層」と名付け、七世紀前半の多利思北孤と利歌彌多弗利の時代と編年されました。

 この正木説の優れている点として感心したのが、政庁Ⅰ期の遺構の位置が太宰府条坊都市の北側にあり、言わば北闕式の王都になるとされたことです。しかも「南北正方位」の「掘立柱建物」であることから、これらは前期難波宮と共通した要素であり、両者の創建を同時期とする根拠とされました。その結果、各大宰府政庁遺構の年代が次のような位置づけとなりました。

〔大宰府古層〕条坊都市成立期 七世紀前半 ※条坊都市の中心領域、通古賀(とおのこが)地区、周礼式(注②)。 ※九州王朝の天子、阿毎多利思北孤と利歌彌多弗利の時代(618~646年)。
〔政庁Ⅰ期〕北闕式に相当 七世紀中頃。
〔政庁Ⅱ期〕北闕式 七世紀後葉(670年頃) ※観世音寺創建(白鳳十年)と同時期。

 この正木説による大宰府遺構編年は、出土土器の相対編年とも矛盾はなく(通説の暦年リンクとは異なる)、前期難波宮九州王朝複都説とも整合しており、有力説と思いました。(つづく)

(注)
①正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。
②『周礼』考工記に見える、条坊都市の中央に王宮を置く都市様式。


第2956話 2023/03/02

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (2)

 大宰府政庁Ⅰ期(掘立柱建物)の造営年代について、通説では天智期から七世紀末頃とされてきました(注①)。そして、政庁Ⅰ期を古段階と新段階に分けて、古段階の最初と新段階の終わりが50年ほど開いており、政庁Ⅰ期新段階の廃絶から政庁Ⅱ期創建(八世紀初頭)は連続していると考古学的には見られています(注②)。

「Ⅰ期遺構はいわゆる大宰府の創設期の遺構であり、この遺構の年代とそのあり方は草創期の大宰府を考える上で極めて重要である。年代の手掛かりとして、最も良好な資料は、正殿周辺部で検出したⅠ期遺構である。以下、この調査結果を中心に検討してみよう。
Ⅰ期の開始期にあたるものとして、掘立柱建物SB122や柵SA111がある。SB122に関わる暗茶色土の整地層から出土した土器で主体となるものは、6世紀末から7世紀初頭に位置づけられるものがある。また、掘立柱建物SB120・SB121、柵SA110、溝SD125などはⅠ期の最終期に考えられる。そして、これらの遺構に関わる遺物の多くは、8世紀第1四半期初頭に位置づけられる。出土土器の様相からみた年代では、開始期の遺構と最終期の遺構には約半世紀の隔たりがある。」『大宰府政庁跡』385頁

 以上の見解が大宰府政庁を発掘調査した考古学者の共通認識と思われます(注③)。具体的にはⅠ期開始期の掘立柱遺構の整地層から主に6世紀末から7世紀初頭の土器が出土していることから、同建物は7世紀初頭以後(天智期)に造営されたとしているようです。そして、最終期の遺構からは8世紀第1四半期初頭の土器が検出されていることから、政庁Ⅰ期活動期の最終を8世紀第1四半期初頭とする通説の根拠となったわけです。

 土器相対編年の暦年リンク年代については賛成できませんが、政庁Ⅰ期の開始期から最終期、すなわち政庁Ⅰ期活動期間を約半世紀とする見解は興味深く思います。これを文献史学による政庁Ⅱ期創建期の670年(白鳳十年)頃から逆算すると、政庁Ⅰ期の造営開始期は620年頃となり、九州年号の倭京元年(618年)とほぼ一致し、注目されます。(つづく)

(注)
①田村圓澄編『古代を考える 大宰府』吉川弘文館、1987年。
②『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
③山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(『大宰府の研究』高志書院、2018年)では、政庁Ⅰ期古段階の成立を6世紀中葉から後半頃(牛頸窯跡群操業開始と同時期)とされている。この見解については後述する。


第2955話 2023/03/01

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (1)

 九州王朝研究に残された大きな課題に、大宰府政庁Ⅰ期の造営年代がありました。政庁Ⅲ期は藤原純友の乱(天慶四年、941年)で政庁Ⅱ期が焼亡した後に再建された礎石造りの朝堂院様式の宮殿です。Ⅱ期も礎石造りの建造物で、ほぼⅢ期と同規模同様式です。言わば、Ⅱ期の真上にⅢ期が再建されたことが調査により判明しています。Ⅱ期造営年代は通説では八世紀初頭とされ、その根拠はⅡ期築地塀の下層から出土した木簡が八世紀初頭前後のものと判断されたことによります(注①)。次の通りです。

「本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。」『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀初頭頃とする通説に対して、わたしは観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学の研究結果を重視し、観世音寺の創建瓦(老司Ⅰ式)と同時期の創建瓦(老司Ⅱ式)を持つ政庁Ⅱ期も670年頃としました(注②)。

 掘立柱建造物の政庁Ⅰ期については七世紀前半であり、九州年号「倭京元年(618年)」頃が有力とわたしは考えてきましたが(注③)、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟(注④)を発表し、より踏み込んだ理解を示しました。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「太宰府条坊と宮域の考察」(『古代に真実を求めて』第十三集、明石書店、2010年)。
「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
「観世音寺考」『古田史学会報』119号、2013年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2669話(2022/01/27)〝政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)〟
同「九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―」『古田史学会報』174号、2023年。
④正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。


第2946話 2023/01/16

『古田史学会報』174号の紹介

 『古田史学会報』174号が発行されました。一面には日野智貴さんの論稿「菩薩天子と言うイデオロギー」が掲載されました。近年の『古田史学会報』に掲載された論稿としては、政治思想史を主題としたもので異色、かつ優れた仮説です。

 九州王朝の天子、阿毎多利思北孤を〝海東の菩薩天子〟と古田先生は述べられましたが、なぜ多利思北孤が「菩薩天子」として君臨したのかを政治(宗教)思想から明らかにしたのが日野稿です。すなわち、天孫降臨以降、日本列島各地に侵出割拠した天孫族(天神の子孫)に対して、多利思北孤は菩薩戒を受戒することにより、仏教思想上で「天神」よりも上位の「菩薩天子」として、全国の豪族を統治、君臨したとするもので、独創的な視点ではないでしょうか。

 当号には、もう一つ注目すべき論稿が掲載されています。正木さんの〝「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ〟です。同稿は、大宰府政庁Ⅰ期とⅡ期の成立年代について、文献史学と考古学のエビデンスに基づく編年を提起したものです。太宰府の成立年代としては北部の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも南部の条坊造営が先行し、両者の創建時期を八世紀初頭と七世紀末とする井上信正説(注①)が最有力視されていますが、観世音寺創建を白鳳十年(670年)とする文献史学のエビデンス(注②)と整合していませんでした。

 正木稿では、飛鳥編年に基づく太宰府の土器編年が不適切として、政庁Ⅱ期を670年頃、政庁Ⅰ期を前期難波宮と同時期の七世紀中頃、そして条坊都市の中心にある通古賀(王城神社)が多利思北孤と利歌彌多弗利時代の遺構として「太宰府古層」と命名し、条坊造営と同時期の七世紀前半成立としました。この正木説は有力と思われます。

 拙稿〝九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―〟も大宰府政庁遺構の造営尺と造営時期を論じていますので、併せてお読み頂ければと思います。
上田稿〝九州王朝万葉歌バスの旅〟は『古田史学会報』デビュー作、白石稿〝舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地〟は久しぶりの投稿です。

 174号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』174号の内容】
○菩薩天子と言うイデオロギー たつの市 日野智貴
○九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」― 京都市 古賀達也
○舒明天皇の「伊豫温湯宮」の推定地 今治市 白石恭子
○九州王朝万葉歌バスの旅 八尾市 上田 武
○「壹」から始める古田史学・四十
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅱ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○関西例会の報告と案内
○『古田史学会報』投稿募集・規定
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2022年度会費未納会員へのお願い
○『古代に真実を求めて』26集発行遅延のお知らせ
○編集後記

(注)
①井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』2001年
同「大宰府条坊について」『都府楼』40号、2008年。
同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 44』太宰府市教育委員会、平成26年(2014年)。
同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』(大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編)、高志書院、2018年。
②古賀達也「観世音寺考」119号、2013年。


第2913話 2023/01/11

観世音寺の和風寺号と漢風寺号

先週の多元的古代研究会主催のリモート研究会で、藤田さんによる『元興寺伽藍縁起』の講読がありました。活字本だけではなく写本(写真版)に基づく解説で、活字本には文字の改変がなされた部分があることを教えていただき、とても勉強になりました。
飛鳥に創建された元興寺の元々の名称は法興寺とも飛鳥寺ともされており、寺名の変遷については諸説があります。そのときの質疑応答では、飛鳥池遺跡(天武期の層位)から出土した木簡に「飛鳥寺」と記されたものがあることを参加者(岩田さん)から紹介されました。わたしからも紹介しましたが(注①)、「飛鳥寺」の銘文を持つ七世紀末頃(694年)の金石文もあります。「法隆寺観音像造像記銅板(奈良県斑鳩町)」に次の銘文があり、「飛鳥寺」が見えます。

「法隆寺観音像造像記銅板」(奈良県斑鳩町)
(表) 甲午年三月十八日 鵤大寺德聡法師 片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師 三僧所生父母報恩 敬奉觀世音菩薩
像依此小善根 令得无生法忍 乃至六道四生衆生 倶成正覺
(裏) 族大原博士百済在王此土王姓

このように、寺号には和風寺号として「鵤(いかるが)大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」があり、たとえば「鵤大寺」には漢風寺号「法隆寺」が『日本書紀』に見え、複数の名前を持つことが知られています。後代になると「山号」も称されるようになりますが、法隆寺のように山号を持たない寺院もあります。この和風と漢風の寺号に注目しているのですが、一般的には和風寺号は地名に関係しているものがあり、鵤寺や飛鳥寺は所在地名に関係するものです。
古代(七世紀頃)において、寺名に和風と漢風の双方を持つのが一般的であれば、九州王朝の代表的寺院にも和風と漢風の両寺号を持っていたと考えることができます。そこで、まず検討の対象となるのが太宰府の観世音寺(白鳳十年[670年]創建。注②)と難波の天王寺(現・四天王寺、倭京二年[619年]創建。注③)です。現在の観世音寺の名称は「清水山(せいすいざん)観世音寺」とされており、和風寺号は見えません。天王寺は現在では「荒陵山(あらはかさん)四天王寺」で、ここにも和風寺号は見えません。
そこで、古典を根拠に類推すれば、次の和風寺号候補があげられます。

○観世音寺 「清水(しみず・きよみず)寺」 典拠『源氏物語』玉蔓の巻「大弐の御館の上の、清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、みかどの行幸にやはおとれる。」
○天王寺 「難波(なにわ)寺」 典拠『二中歴』年代歴「倭京 二年難波天王寺聖徳造」

「難波」は上町台地の地名として伝わっていますが、「清水」という地名としては観世音寺域には伝わっていないようです。ただ『源氏物語』に基づいて、江戸時代の黒田藩士・加藤一純により、観世音寺五重塔心礎の傍らに「清水記碑」が建てられており、当地に清水が湧き出していたことを伝えています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2418話(2021/03/22)〝七世紀「天皇」「飛鳥」金石文の紹介〟
同「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
②同上「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」『東京古田会ニュース』192号、2020年。
③『二中歴』年代歴に「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とある。「倭京」は九州年号で、元年は618年。『日本書紀』には「四天王寺」の創建を推古元年(593年)とする。次の拙稿を参照されたい。
同上「九州王朝の難波天王寺建立」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。


第2879話 2022/11/19

大宰府政庁Ⅱ期遺構は「都督府」説

 本日はエル大阪(大阪市中央区)で「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月もエル大阪(大阪市中央区)で開催します(参加費500円)。来年1月の関西例会は、初めてキャンパスプラザ京都(ビックカメラJR京都店の北)で開催します。午後は恒例の新春古代史講演会を同施設で開催します。

 今回の例会では冒頭に正木裕さんから〝「九州王朝」万葉歌 バスの旅〟の報告がありました。糸島から大宰府政庁や観世音寺・水城、別府温泉など、九州王朝と深く関係する名所旧跡を三日で巡るというものです。報告の中で、大宰府政庁Ⅱ期の創建年代は、白鳳十年(670年)創建の伝承を持つ観世音寺と同時期と考えられ、そうであれば当時は「太宰府」ではなく「都督府」と呼ばれていたはずとされました。
 確かにその方が適切のように思いました。ただし、王朝交代後の八世紀になると大和朝廷の「大宰府」と称されたことが律令に見えますので、正式名称は「大宰府」となり、「都督府」「都府楼」は歴史的遺称として併用されたものと思われます。今後、論文などに書くときは、どの名称を使用すべきか、悩ましい問題も発生しそうです。同テーマはわたしも「洛中洛外日記」(注)などで論じましたので、ご参照いただければと思います。
 大原さんからは『日本書紀』垂仁紀などに見える〝トキジクノカグノコノミ〟をナツメヤシ(デーツ)とする新説が発表されました。30年前に西江碓児さん(故人)がバナナとする説を発表されて以来の新説で、有力説と思いました。『古田史学会報』での発表が待たれます。

 11月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

(注)
 古賀達也「洛中洛外日記」1386話(2017/05/07)〝都府楼は都督府か大宰府か〟
 同「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年。

〔11月度関西例会の内容〕
①〝正木裕氏と行く 「九州王朝」万葉歌 バスの旅〟の報告(川西市・正木 裕)
②田道間守の持ち帰った橘のナツメヤシの実のデーツとしての考察(大山崎町・大原重雄)
③ジョン・レノンが繰り返したナンバー9(ナイン)(大山崎町・大原重雄)
④縄文語で解く記紀の神々・第八話 イザナミ神が生んだ国々(前・後)(大阪市・西井健一郎)
⑤伊勢神宮はいつの時代に近畿王朝の聖地となったか(茨木市・満田正賢)
⑥名前だけで実体のない不改常典(京都市・岡下英男)
⑦宇治橋断碑と宇治橋(八尾市・服部静尚)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
12/17(土) 会場:エル大阪(大阪市中央区)
 01/21(土) 会場:キャンパスプラザ京都(京都市下京区、ビックカメラJR京都店の北)


第2851話 2022/10/03

『維摩詰経巻下』の「浄土寺蔵経」印(3)

 九州年号「定居元年」(611年)が記されている北京大学図書館蔵『維摩詰経巻下』末尾には「浄土寺蔵経」の所蔵印が押されています。谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)はこの「浄土寺」を奈良県の法興寺と位置的に近い浄土寺(山田寺、桜井市)ではないかとされました(注①)。
 奈良県桜井市にある山田寺が浄土寺の寺号を持つことが、『上宮聖徳法王帝説』(知恩院本)の「裏書」に記されています。

 「有る本に云わく、誓願して寺を造り、三宝を恭敬す。(舒明)十三年辛丑(641年)の春三月十五日、浄土寺を治むと云々。
 注に云わく、『辛丑年に始めて地を平かにす。(中略)癸亥(643年)に塔を構う。(中略)癸酉年(673年)十二月十六日、塔の心柱を建つ。其の柱礎中、円穴を作り、浄土寺と刻す。(中略)山田寺是れ也』と。注は承暦二年〈戊午〉(1078年)、南一房に之を写す。真曜の本なり。」※()内は古賀注。(注②)

 ところが、この裏書の浄土寺について、奈良県桜井市の山田寺のことではないとする田中重久氏の論文があります(注③)。田中さんは『上宮聖徳法王帝説』裏書に見える浄土寺の塔の創建時期の矛盾した記事を根拠に、同裏書には複数の別の浄土寺記事が混在しており、「癸亥(643年)に塔を構う」の浄土寺は岐阜県各務原市の山田寺とされました。そして、「癸酉年(673年)十二月十六日、塔の心柱を建つ」とある天武期の浄土寺は大和の山田寺とされました。
 こうした田中氏の理解が可能であれば、前者の浄土寺は筑紫太宰府付近にあったとする仮説も提起できるのではないでしょうか。というのも、同裏書には浄土寺の記事に続いて次の般若寺記事があり、田中氏は「法王帝説裏書の般若寺は武蔵寺の誤」として、この武蔵寺を太宰府市の般若寺のこととされました。

 「曽我日向子臣、字は無耶志(むさし)臣。難波長柄豊碕宮に御宇しめしし天皇の世、筑紫大宰の帥に任ずる也。甲寅年(654年)十月癸卯朔壬子、天皇不余*の為め、般若寺を起つるなり。」 ※「余*」=「余」の下が「心」。

 この「般若寺」と同様に、「浄土寺」も筑紫太宰府にあった寺院とできるのであれば、七世紀中頃に「浄土寺」に相応しい寺院の痕跡があります。田中氏の論文によれば、全国にある「浄土寺(院)」の大半は阿弥陀堂を持ち、本尊は阿弥陀であるとしています。この視点からすると、太宰府の観世音寺の本尊が百済から伝わった阿弥陀如来であったことが史料に遺されており、注目されます。
 白鳳十年(670年)の創建とされる観世音寺(創建瓦は七世紀後半の老司Ⅰ式)の下層から百済系単弁軒丸瓦が出土しており、この地に七世紀前半頃(注④)と思われる百済系単弁軒丸瓦を採用した寺院があり、そこに百済からの阿弥陀如来像が安置されていたのではないかと、わたしは考えています(注⑤)。阿弥陀如来を本尊とした寺院ですから、おそらく寺号は「観世音寺」ではなかったはずです。この観世音寺の地にあった阿弥陀如来を祀っていた寺院も『上宮聖徳法王帝説』裏書にある「浄土寺」の候補の一つにしたいと考えています。
 なお、百済からの阿弥陀如来像を本尊にしたにもかかわらず、なぜ寺号が観世音寺なのかは、今後の研究課題です。

(注)
①谷本茂「北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判」古田史学の会・関西例会、2015年5月。
②岩波文庫『上宮聖徳法王帝説』東野治之校注、2013年。
③たなかしげひさ(ママ)「『上宮聖徳法王帝説』裏書の浄土寺・山田寺別寺説」『仏教芸術』99号、1974年。
④服部静尚「小田富士雄氏の瓦編年に疑問を呈する」『東京古田会ニュース』202号、2022年。
⑤古賀達也「百済伝来阿弥陀如来像の流転 ―創建観世音寺と百済系素弁瓦―」『東京古田会ニュース』181号、2018年。
 同「洛中洛外日記」1638~1644話(2018/04/01~08)〝百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)~(6)〟