第2965話 2023/03/15

律令制王都の先駆け、倭京(太宰府)

 九州王朝(倭国)時代の律令制王都の先駆けとも言える都市が倭京(太宰府)です。律令制王都の五つの絶対条件(注①)を備えている理由について説明します。

《条件1》官衙遺構の存在。
太宰府条坊右郭の中心部にある通古賀地区(王城神社の地)から七世紀の古い土器が出土しており、そのエリアに初期の中心遺構(王宮と官衙)があったと考えられる(注②)。七世紀初頭(倭京元年、618年)、多利思北孤による倭京(太宰府)遷都(注③)により、律令制が整えられ、中央官僚群の発生と増加に伴って条坊も拡充されたと考えられる。その考古学的痕跡として、近隣の牛頸窯跡群が六世紀末から七世紀初頭にかけて急増していることがあげられる。

《条件2》巨大条坊都市の存在。
条坊跡(二十二条、右郭八坊・左郭十二坊)が検出されている。

《条件3》食料・消費財の生産地の存在。
九州島内屈指の平野(福岡平野・筑後平野)が広がっている。消費財としての土器を供給する日本三大須恵器窯跡群(注④)の一つ、牛頸窯跡群が太宰府の西にある。

《条件4》官道(山道・海道)の存在。
筑前・筑後・肥前・豊前に通じる官道があり、博多には朝瀬半島・日本海に向かう港湾都市(那の津)がある。

《条件5》防衛施設・地勢的有利性の存在。
太宰府の南北には基肄城と大野城があり、後者は日本列島最大の山城である。博多側からの侵入を防ぐ古代日本最大の防塁水城があり、太宰府条坊都市を囲むように阿志岐山城(神籠石山城)や土塁がある。更にその南側には天然の大濠、筑後川と神籠石山城(杷木・高良山)が南からの敵の侵入を防いでいる。このように、倭京(太宰府)は古代日本最大最強の防衛施設で護られている。

 以上のように、倭京(太宰府)は七世紀の律令制王都に相応しいのですが、難点としては『養老律令』で規定された約八千人の官僚群(注⑤)が執務するには、通古賀地区の規模では小さすぎます。従って、七世紀初頭の遷都時には比較的小規模な律令組織だったのではないでしょうか。そのため、全国統治の王都として七世紀中頃(652年、白雉元年)に難波京(前期難波宮)を造営し、遷都したものとわたしは考えています。
おそらく九州王朝(倭国)は全国統治のための権力の都・難波京と天孫降臨依頼の伝統的な権威の都・倭京(太宰府)との両京制(注⑥)を採用したものと考えられます。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の絶対条件〟
②井上信正「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。
④牛頸須恵器窯跡群は、堺市の陶邑窯跡群、名古屋の猿投山(さなげやま)窯跡群と並んで、古代日本の三大須恵器窯跡群とされる。
⑤服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
同「柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京―」『古代に真実を求めて』26集、明石書店、2023年。

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