第3234話 2024/02/22

指宿市「暗文土師器」の出土層位

 尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)から出土した暗文土師器は考古学的に恵まれた条件下で検出されました。それは出土層位が〝青コラ〟と呼ばれている開聞岳噴火層の下から出土したため、編年が可能となったことです。青コラとは七世紀後半の噴火により生じた火山灰の層です。従って、暗文土師器の年代を七世紀の中頃から後半にかけてと編年されました。

 「青コラの噴火年代は、次のような事例から推定される。橋牟礼川遺跡から約5km南西方向にある山川町成川遺跡では、青コラの下に豊富な土器・鉄器・遺構が検出されているが、なかでも多数の人骨が出土し墓域であったことが判明している。これらの人骨に共伴している土器・鉄器は、古墳時代に属する5~6世紀のものとされ、青コラは6世紀以降の噴出物であることが明らかにされた。その後橋牟礼川遺跡で行われた発掘により、後述のように直接覆われた須恵器が出土したが、その編年は他地方との比較により7世紀後半とされており、噴火は古墳時代の終わり頃に発生したことが明らかになった。」(注①) ※橋牟礼川遺跡は指宿市十二町にある縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡。

 暗文土師器は、官僚制の整備とそれに伴う官人層の大量発生を背景として出現しており、通説では大和朝廷の飛鳥時代(七世紀中頃)に畿内で製造・使用開始されたとしますから、それとほぼ同時期の薩摩で暗文土師器が出土したことは、〝存在しないはずだった〟と驚きをもって受け止められたのです。しかし、多元史観・九州王朝説の視点で考えると、九州王朝(倭国)の律令制官僚の発生時期は七世紀前半~中頃(太宰府Ⅰ期)まで遡りますから、七世紀後半の薩摩に暗文土師器が伝播していても、何の不思議もありません。同土師器の出土を報道した南日本新聞にも次の記事があり、必ずしも「畿内産」ではないことを示唆しています(注②)。

 今回の暗文土師器出土により、その編年の確認のため、開聞岳の噴火年代について勉強したところ、面白いことに気づきました。(つづく)

(注)
①成尾英仁・下山 覚「開聞岳の噴火災害 ―橋牟礼川遺跡を中心に―」『加速器質量分析計業績報告書 Ⅶ』名古屋大学、1995年。
②「南日本新聞」WEB版(2024/01/01)には次の解説がある。
〝存在しないはずだった…飛鳥時代の「暗文土師器」が鹿児島で初確認 大和政権の影響勢力、指宿に存在か 尾長谷迫遺跡から出土
鹿児島県指宿市の尾長谷迫(おばせざこ)遺跡で、7世紀中ごろ、飛鳥時代の「暗文土師器(あんもんはじき)」と呼ばれる土器が鹿児島県内で初めて見つかった。古代国家・大和政権の都があった畿内地域の影響を受けた土器とされ、これまでの南限は宮崎県だった。鹿児島県内では政権と衝突した隼人が暮らしており、専門家は「県内には存在しないと考えられていた。政権と何らかの関係を持つ勢力が指宿にいたことを示す」と注目している。
暗文土師器は元々は都の「畿内産土師器」を模倣したもので、器の内面には大陸から流入した金属器の光沢を表現した放射状の線が施されている。政治施設である「官衙(かんが)」に関連する遺跡から見つかるケースが多く、国立歴史民俗博物館研究部の林部均教授(考古学)は「古代国家、都の存在を示す象徴となる土器。国家と関わりがあった地域でのみ出土する」と解説。これまでは西都市にある日向国府跡の寺崎遺跡と水運関連施設の宮ノ東遺跡が南限とされていた。
指宿市教育委員会によると、今回見つかった土器は口径17.1センチ、器高6.4センチ。7世紀後半に噴火した開聞岳の噴出物(青コラ)の下の地層から、南九州特有の成川式土器と一緒に割れた状態で出土した。〟

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