第3235話 2024/02/23

開聞岳噴火の考古学と文献史学

 尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)出土暗文土師器の編年に、〝青コラ〟(注①)と呼ばれる開聞岳噴火層(七世紀後半)が決め手になったことを「洛中洛外日記」前話(注②)で紹介しましたが、同噴火層には〝紫コラ〟と呼ばれる火山灰層もあります。紫コラは平安時代の貞観16年テフラ(注③)とも呼ばれており、かなり大規模な噴火だったこともあって、『日本三代実録』に記録されています。

〝秋七月丁亥朔。戊子二日。地震。大宰府言。薩摩國從四位上開聞神山頂。有火自燒。煙薫滿天。沙如雨。震動之聲聞百餘里。近社百姓震恐矢精。求之蓍龜。神願封戸。及汚穢神社。仍成此祟。勅奉封二十戸。〟『日本三代実録』貞観十六年(874)七月二日条 ※蓍亀(しき)とは、ノコギリソウと亀甲を指し、占いに用いられた。

 この紫コラのような火山灰層とその近辺の出土土器を研究対象とする火山学・考古学、そして『日本三代実録』などを対象とする文献史学という異なる学問分野の共同研究により、実年代をピンポイントで確定できたことは古代史学にとってとても恵まれたケースです。
ちなみに、当地の火山灰層に埋もれた橋牟礼川遺跡(指宿市十二町)は、縄文時代と弥生時代の先後関係を明らかにした遺跡として知られています。ウィキペディアには次のように説明されています。

〝発見と調査
1916年(大正五年)、指宿村出身で、旧制志布志中学校の生徒・西牟田盛健が縄文土器と弥生土器を拾ったことが遺跡発見のきっかけである。志布志中学校を訪れた喜田貞吉がその土器を実見し、鹿児島県内の考古学者・山崎五十麿に調査を依頼した結果、縄文土器と弥生土器が出土する遺跡の存在が確認された。喜田から情報を得た濱田耕作と長谷部言人が、1918年(大正七年)と1919年(大正八年)に現地で発掘調査を実施した。
縄文・弥生土器論争の決着
調査結果では、火山灰層を挟み、上層から弥生土器(正確には弥生土器ではなく、古墳時代後期の成川式土器)が、下層からアイヌ式土器(縄文土器)が出土することが確認された。このことから「縄文土器は弥生土器より古い」ことが層位学的に実証された。
それまでは「縄文土器と弥生土器は同じ時代に違う民族が作った土器」という説も有力であったが、この遺跡の発見により縄文時代→弥生時代という年代関係が確定した。〟(つづく)

(注)
①〝コラ〟は南九州薩摩半島の俗語で、火山灰からなる特殊土壌の一つ。当地の「固い物」「かたまり」を意味する言葉に由来する。
②古賀達也「洛中洛外日記」3234話(2024/02/22)〝指宿市「暗文土師器」の出土層位〟
③テフラとは(ギリシャ語で「灰」の意味)アイスランドの地質学者シグルズール・ソラリンソンによって定義された語で、火山灰・軽石・スコリア・火砕流堆積物・火砕サージ堆積物などの総称。火山灰などの火山噴出物中のケイ素酸化物の組成や含有する微量元素を分析することで、起源となった火山の特定が行われる。また、層厚と堆積面積によって噴火規模を推定する事ができる。

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