第2938話 2023/02/07

倭王に従った南九州の軍事氏族

先週末、お仕事で京都大学に来られた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅によられたので、富雄丸山古墳の出土品について意見交換を行いました。そのとき、強く印象に残ったのが、南九州の豪族達は韓半島へも進出した痕跡(前方後円墳の形状近似)が遺っているという正木さんの指摘でした。韓半島で前方後円墳が次々と発見されたこともあって、その形状が「前方・後円」というよりも、「前三角錐・後円」であり、それと同型の古墳が宮崎県に散見されることを「洛中洛外日記」などで紹介したことがありました(注①)。
こうしたことから、正木さんは南九州の氏族は九州王朝の軍事氏族ではないかと示唆されたのです。『宋書』倭国伝に見える、五世紀に活躍した〝倭の五王〟の一人、倭王武の上表文によれば、倭国(九州王朝)は東西(日本列島)と北(韓半島)へ軍事侵攻してきたことがわかります。南九州と韓半島の前「三角錐」後円墳の編年は五世紀末から六世紀頃であり、富雄丸山古墳の被葬者の時代は四世紀後半と編年されていますから、南九州の軍事氏族による侵攻は長期にわたっていることがわかります。
その痕跡が『日本書紀』の歌謡にも遺されています。推古紀の次の歌です。

「推古天皇二十年(620年)春正月辛巳朔丁亥(7日)、(中略)
天皇、和(こた)へて曰く。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」『日本書紀』推古二十年(620年)春正月条(注②)

この歌は内容が不自然で、以前から注目してきました。推古天皇が「蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」と詠んだとするのであれば、この「大君」とは誰のことと『日本書紀』編者は理解していたのでしょうか。九州王朝説では、九州王朝の天子のこととする理解が可能ですが、そうであればなおさら『日本書紀』編者はそのことを伏せなければなりませんので、やはり不可解な記事なのです。
この問題は別として、わたしが注目したのは「馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀」の部分です。優れた軍事力の象徴として「日向の駒」「呉の真刀」と歌われており、この日向が宮崎県を意味するのであれば、その地にいた九州王朝の軍事氏族の大和侵攻が、七世紀になっても伝承されていたのではないでしょうか。この理解の当否を含めて、富雄丸山古墳からの盾形銅鏡や蛇行剣の出土は、九州王朝における南九州の政治的位置づけを考えるうえで、よい機会となりました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
同「古代のジャパンクオリティー 11 韓国で発見された前方後円墳
」繊維社『月刊 加工技術』、2016年4月。
同「前「三角錐」後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年。
②日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。

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