和田家文書一覧

第3068話 2023/07/14

秋田孝季の父、橘左近の痕跡調査(1)

 『東日流外三郡誌』を編纂した秋田孝季や和田長三郎吉次の実在を否定するという偽作論者の主張に対して、古田先生とわたしは津軽行脚を続け、両者の痕跡を探し続けました。和田長三郎吉次の痕跡は幸運にも恵まれて、わりと早く見つけることができました(注①)。

 五所川原市飯詰の和田家菩提寺、長円寺に和田家の墓石(文政十二年・1829年建立。注②)と過去帳があり、過去帳(原本は火災で焼失。五所川原市教育委員会によるコピー版によった)には「智昌良恵信士 文化十年十一月 下派 長三郎」「安昌妙穏信女 同年(文化十四年)十月下派 長三郎」との記載があり、墓石の戒名・没年と一致していました。「下派」とは「下派立(しもはだち)」の略であり、長円寺や和田家がある旧地域名。「長三郎」は喪主。和田家当主は「長三郎」を襲名しており、この長三郎は「和田氏」墓石との関連から、和田長三郎のことであり、時代からすると和田吉次に相当します。同過去帳には「和田権七」や明治の「和田長三郎(末吉か)」の名前も見え、和田家歴代当主の名前が、和田家文書の記事と一致することを確認できました。

 その後、もう一人の編者、秋田孝季実在の痕跡調査を行いましたが、こちらはまだ進んでいません。そこで、孝季の父親「橘左近」(注③)の痕跡調査を始めました。和田家文書によれば橘左近は長崎出島でオランダ通詞を勤めていたとありますので、その方面から実在を確認できないかと考えてきました。しかし、長崎まで行っての調査は容易ではありません。しかも、現地のどこにどのような史料があり、閲覧が可能かさえも簡単にはわかりません。そうしたとき、力強い助っ人が現れました。中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)です。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3036話(2023/06/09)〝実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―〟
②墓石には次の文が見える。()内は古賀注。
〔表面〕
「慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)」
〔裏面〕
「文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏」
壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(1829)に建立した墓碑であろう。
③『和田家資料4 北斗抄』p.477~478の「孝季系譜」による。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第3046話 2023/06/19

東北地方の罵倒語「ツボケ」の歴史背景

 松本修『全国アホ・バカ分布考』(注①)には、不思議な罵倒語として、「田蔵田(タクラダ)」の他に東北地方の「ツボケ」があります。これを言素論で解析すると、語幹は「ツボ」で、「ケ」は古層の神名と理解できます(注②)。すなわち「ツボ」の神様となります。「ツボ」は文字通り「坪」「壺」のことか、あるいは地名の可能性もありそうです。たとえば「つぼの碑(いしぶみ)」という石碑のことが諸史料に見え、これを青森県東北町坪(つぼ)の集落近くで発見された「日本中央」碑のこととする説があります(注③)。そうすると、「ツボ」は地名のこととなります。

 いずれにしても、「ツボ」の「ケ」(神)が罵倒語として使用されていることから、対立し罵倒された「ツボケ」の民がある時代に存在していたと考えられます。恐らく、この対立は古代に遡るものであり、「ツボケ」の民とは蝦夷国の民であり、蝦夷国が祀った神様に「ツボ」の「ケ」様がいたのではないでしょうか。この推測を支持する史料があります。和田家文書『東日流外三郡誌』です。同書には古代東北(津軽)にいた「津保化族」の説話が多数収録されています。津軽には「津保化族」と「阿蘇部族」が住んでいたが、大和あるいは筑紫から逃げてきた安日彦・長脛彦兄弟に征服されたとする説話です。

 このような先住民の名前が罵倒語として使用された例を、古田先生が上岡龍太郎さんとの対談で次のように紹介しています(注④)。

上岡 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。
古田 そうなんですよ。
上岡 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これをやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちょっと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。
古田 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうです。
上岡 ほう、やっぱり先住民。
古田 ええ「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②古賀達也「洛中洛外日記」41話(2005/10/30)〝古層の神名「け」〟
同「古層の神名」『古田史学会報』71号、2005年。
③ウィキペディアには次の解説がある。
〝12世紀末に編纂された顕昭作の『袖中抄』19巻に「顕昭云(いわく)。いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。」とある。〟
〝青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に1000人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
明治天皇が東北地方を巡幸する1876年(明治9年)に、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。
1949年(昭和24年)6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。〟
④「上岡龍太郎が見た古代史」『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。


第3036話 2023/06/09

実在した「東日流外三郡誌」編者

―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―

 6月17日(土)の午前中に開催される「古田史学の会」関西例会で(午後は『九州王朝の興亡』出版記念講演会)、わたしは「和田家文書の明治写本と大正写本」というテーマを発表します。内容は、昭和61年頃にテレビ東京で放送された、文書所蔵者の和田喜八郎氏が登場する番組「みちのく黄金伝説の謎を求めて」(注①)の紹介がメインです。同番組中に五所川原市飯詰の長円寺(注②)にある和田家の墓石が映っており、同墓石や長円寺の過去帳を古田先生と調査したときのことを思い出しました。

 和田家文書偽作論者は「和田家は明治22年以前は飯詰村には住んでいなかった」と主張していましたが、現地調査により和田家が江戸時代から飯詰にあったことを確認できました(注③)。和田氏宅の近くにある長円寺に和田家墓地があり、文政十二年(1829年)に建てられた墓石が存在します。その表には四名の戒名と内三名の没年が彫られています。次のように読めました。
()内は古賀注。

慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)

裏面は次のようです。

文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏

壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(1829)に建立した墓碑でしょう。

 他方、長円寺の過去帳(原本は火災で焼失したとのこと。五所川原市教育委員会によるコピー版によった。)には「智昌良恵信士 文化十年十一月 下派 長三郎」「安昌妙穏信女 同年(文化十四年)十月下派 長三郎」との記載があり、墓石の戒名・没年と一致しています。長円寺御住職の説明では、「下派」とは「下派立(しもはだち)」の略であり、「長三郎」は喪主とのこと。ちなみに、和田家当主は「長三郎」を襲名しており、この長三郎は「和田氏」墓石との関連から、和田長三郎のことであり、時代からして和田吉次のこととなります。下派立とは長円寺や和田家がある旧地域名のことです。こうして飯詰村下派立に和田家が江戸時代から住んでいたことを金石文(和田家墓石)と長円寺過去帳の一致から証明できたのです。

 この他、同過去帳には「和田権七」や明治の「和田長三郎(末吉か)」の名前も見え、和田家歴代当主の名前が、和田家文書の記事と一致していることも確認できました(注④)。

 この調査は和田家が江戸時代から当地にあったことを証明するために行ったのですが、このことは、東日流外三郡誌の編者の一人、和田長三郎吉次の実在を意味しており、当調査の重要性に改めて気付くことができました。もう一人の編者、秋田孝季についても調査を続けています。

(注)
①「土曜スペシャル ミステリアス・ジャパン みちのく黄金伝説の謎を求めて」、テレビ東京・キネマ東京作成。MCは中尾彬氏。
②長円寺は曹洞宗の寺院で、和田家宅の近傍にある。
③古賀達也「和田家文書現地調査報告 和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年。
④長三郎吉次→長三郎権七→長三郎末吉→長作→元市→喜八郎。


第3017話 2023/05/16

桐原・古田対談テープなどを

  CD、DVDにダビング

 東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書への偽作キャンペーンが猖獗を極めていたとき、こともあろうに古田先生が200万円を支払って、ある人物に偽書作成を依頼した疑惑があるとする悪意に満ちた記事が週刊誌(アサヒ芸能)や『季刊邪馬台国』(注①)などに掲載されたことがありました。その人物は桐原さんという広島市の方で、古田先生と親交がありました。

 そこで、平成9年4月9日、古田先生と水野さん(当時、古田史学の会・代表)、古賀の三人で、京都タワーホテルの会議室にて桐原氏と対談し、そうした報道が事実無根であるとの証言をしていただきました。この度、その録音テープを専門業者に依頼してCDにダビングしました。ことの真相(注②)や詳細な経緯が桐原さんより語られています。今は亡き古田先生の名誉を守るためにも、「古田史学の会」ではその内容の公開も含めて、今後の取り扱いについて検討したいと考えています。

 また、三十年前に古田先生と実施した津軽での聞き取り調査など、東日流外三郡誌に関わる当時の重要証言ビデオも専門業者に依頼してDVDにダビングしました。当時の証言者(注③)がほとんど物故されていますので、いずれも貴重な証言録画です。これらの編集を行い、関係団体にも提供できればと思います。ネットでの動画配信も有効かもしれません。このことも「古田史学の会」で検討を進めたいと考えています。編集作業や配信など、皆さんのご協力をお願いいたします。

(注)
①『季刊邪馬台国』56号、1994年。同誌冒頭に「古田武彦昭和薬科大学教授に衝撃の疑惑!! 二百万円支払って、古文書作成偽造を依頼」の見出しとともに、『アサヒ芸能』記事を転載している。
②古田先生から江戸期の紙の調査とサンプル収集依頼を受けたこと、桐原氏の娘さんの学費支援が古田先生からあったことなどが証言されている。別の日に、京都駅前の新阪急ホテルラウンジで古田先生、桐原さんと娘さん、古賀の四人でお会いしたこともある。終始なごやかな歓談が続いた。
③永田富智氏(北海道史、松前町史編纂委員)、松橋徳夫氏(市浦村、山王日吉神社宮司)、佐藤堅瑞氏(柏村、浄円寺住職。青森県仏教会々長)。地名・肩書きは当時のもの。


第3014話 2023/05/13

豊島勝蔵氏の証言、

   「墳館(ふんだて)」の発見

 この度の和田家文書調査では数々の成果に恵まれたのですが、その一つに弘前市の古書店で「東日流外三郡誌」関連の古書を購入できたことがあります。恐らく地元でなければ入手できないような資料もあり、望外のことでした。それはガリ版刷りでホッチキスどめの「津軽の安東について」の表題をもつ冊子です。表紙には次のように記されています。

「津軽の安東について
郷土史研究家
豊島勝蔵

昭和57年4月25日
於 五所川原市民図書館
昭和57年度北奥文化研究会総会 記念講演会」

 市浦村史版『東日流外三郡誌』を編纂された豊島勝蔵さんの講演録、本文39頁の手作り冊子です。東日流外三郡誌に触れた部分が多く、偽作説が現れた当時の雰囲気が豊島氏の口吻から感じられます。この中で次のような貴重な証言が記されています。市浦村(当時)の遺跡〝墳館〟発見の経緯が紹介された次の部分です。

〝(墳館)
それから、ずうっと市浦に入ってきてしまったんですけども、磯松の所に、これは外三郡誌馬鹿にならないなあと思った一つなんですけれども、市浦の方で今まで墳館発見していながったわけです。福島城、唐川城ね、太田の鏡城とかいうのはわかっていたのですけれども、墳館があったのはわからなかったんです。
外三郡誌によって初めて出て来たもんで、一体どこら辺だろうと言うので、磯松の人達の通りがかりの婆様をつかまえて聞いたわけです。「ん、あすことばフンダデってしたんだ…」というわけです。最初古舘かなと思っていたわけです。行って見ました。熊野宮のある傍なんです。行って見ましたら完全に城跡なんです。空堀が三つ位あるんでねんですか。残っている所は個人持ちで、上は畑にしています。けれども、完全な城跡だということわかったわけです。それで外三郡誌に書いてあるところを見ますと、そこは安東一族の霊を祀る所ですね。安東の墓所です。神護寺という名前も出て来ますけどね。完全な城跡だとわかったんです。
(五輪の塔)
ふしぎにも、そこから完全な五輪の塔が出るんです。あすこに墓地があ〈ママ〉ますけど、その墓地の所に二基完全なのがあるんです。三がい位になっていますけど同じものが二つ。これは一体どっから来たんだ聞きますと「墳館の所です。まだまだ五輪の部分品はたくさん出る。」というのです。ちょっとこう墳館の沢になっている所、五輪の沢という名前で呼んでいます。私達が古館だなあと思っていた所、墓場であったわけですね。墳墓の墳なんです。それが外三郡誌ではじめて上巻の中に名前を出すようになったわけです。〈後略〉〟

 東日流外三郡誌には「墳館」と記された地図などが見えますが、その遺構が現地の婆様たちからは「フンダデ」「墳館」と呼ばれており、実在していたことがわかったという内容です。それまでは、地元の研究者は「古舘」と理解していたようです。この豊島勝蔵さんの証言は東日流外三郡誌に記された「墳館」の存在が事実であり、それは安東氏の墓所(墳)であったことが五輪の塔の出土から明らかになったというものです。これは東日流外三郡誌真作説を指示するものです。

 この他にも同冊子には豊島さんによる貴重な情報が載せられており、別の機会に紹介したいと思います。


第3013話 2023/05/12

「東日流外三郡誌」の〝福島城の鬼門〟

 東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城跡(旧・市浦村)は東日流外三郡誌にも繰り返し現れます。東京大学による調査(注①)により、福島城は14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました。

 「福島城 別称視浦館
城領半里四方 城棟五十七(中略)
承保甲寅元年築城」『東日流外三郡誌』(注②)

 ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。このように、福島城の考古学的事実が東日流外三郡誌真作説を支持するものとして、わたしは注目していました(注④)。
この度の和田家文書調査に先立ち、改めて東日流外三郡誌を精査したところ、次の記事に着目しました。

 「(前略)
山王社殿建立 選地福島城 以鬼門封 定現在霊地 (以下略)」(注⑤)
〈読み下し文〉山王社殿建立の選地には、福島城の鬼門封じを以て現在の霊地を定めた。

 福島城の真北に位置する山王坊(日吉神社)が、同城の鬼門封じのため、その地に建てられたとする記事です。鬼門といえば王都の北東、艮(うしとら)方向にあるとされており、たとえば京都であれば比叡山(延暦寺)であり、九州王朝の大宰府であれば宝満山(竈門神社)です。ところが、東日流外三郡誌によれば福島城の真北の山王坊を鬼門としており、もしかすると古代の蝦夷国の時代から鬼門は北東ではなく、真北だったのではないでしょうか。
九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)にとっては北東の大国「蝦夷国」が脅威であり、そのため北東を鬼門とする思想が成立したものと思われ、比べて、蝦夷国の場合は北東ではなく北方向の大国「粛慎」「靺鞨」を脅威として、その方位を鬼門としたのではないでしょうか。その思想が中世に至っても採用されたと考えれば、福島城と山王坊との位置関係がその伝統を受け継いだものと捉えることができます。他方、北辰信仰の反映とする理解も可能ですので、この点、留意が必要です(注⑥)。いずれにしても、古代日本思想史上の興味深いテーマと思われます。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年。
⑤『東日流外三郡誌4』八幡書店版、651頁。「東日流外三郡誌」八十六巻ロ本、第一章〔山王十三日記〕。
⑥『山王坊遺跡 ―平成18~21年度 発掘調査報告書―』五所川原市教育委員会、2010年。当報告書には福島城と山王坊の位置関係について、北斗信仰・北極星信仰の反映とする見方が示されている。また、「秋田孝季集史研究会」の増田氏からも同様のご指摘を得た(2023年5月8日の研究会にて)。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3012話 2023/05/10

和田家(和田長作)と

  秋田家(秋田重季)の交流

 今回の津軽調査(5/06~09)では、秋田孝季集史研究会のご協力をを得て、期待を上回る数々の成果に恵まれました。特筆すべきものとして、和田家(和田長作)と秋田家(旧三春藩主・秋田重季子爵)の交流を示すと思われる写真の〝発見〟がありました(注①)。藤本光幸さんの遺品のなかにあった一枚の写真(女性5名と男性6名)です。その裏には次の氏名が書かれています。

 「天内」、「森」、「和田長三〈郎〉」(注②)、「秋田重季」、「綾小路」です。男性1名と日本髪の女性たち(芸者さんか)の名前は記されていません。そのくつろいだ様子から、宴席後の記念写真と思われました。撮影年次や場所は記されていませんが、「和田長三〈郎〉」のふくよかな顔立ちから、和田喜八郎氏の祖父、長作さんの若い頃(20~30歳か)の写真のようです。藤崎町の旧家「天内(あまない)」さんと一緒であることから、津軽での写真ではないでしょうか。
秋田孝季集史研究会の会長、竹田侑子さんのお父上(藤本光一氏)は天内家から藤本家へ養子に入られたとのことで、写真の「天内」さんは〝父親とよく似た顔だち〟とのことです。残念ながら下の名前は未詳です。

 秋田重季(あきた しげすえ、1886~1958年、子爵議員)さんは秋田家(旧三春藩主、明治以降は子爵)の第十四代当主です。ネットで調査したところ写真が遺っており、秋田重季氏ご本人で間違いなさそうです。その他の男性、「森」「綾小路」の両氏は調査中です。秋田子爵と同席できるほどの人物ですから、いずれ明らかにできるでしょう(注③)。

 そして、肝心の和田長作さんとされる人物の確認です。全くの偶然ですが、和田喜八郎氏宅の屋根裏調査時に、同家仏壇の上に飾ってあった遺影(女性2名と男性1名)をわたしは撮影していました。その写真をスマホに保存していたので、持参したノートパソコンに移し、秋田重季さんとの記念写真の「和田長三〈郎〉」とを拡大・比較したところ、同一人物のように思われました。遺影の人物は晩年の長作さんのようで、ふくよかな頃の写真とは年齢差があると思われるものの、顔の輪郭、特徴的な右耳の形、坊主頭の形、切れ長の目、まっすぐな鼻筋、顎の形などが一致しています。

 これは和田家と秋田家の交流が明治・大正時代からあったことを示す貴重な証拠写真かもしれず、藤本光幸氏の遺品中にあったことから、おそらく和田喜八郎氏から光幸氏にわたったものと思われます。偽作キャンペーンでは和田家と秋田家との古くからの交流を否定しており、同キャンペーンの主張が虚偽であったことを証明する証拠とできそうです。しかしながら、〝似ている〟だけではエビデンスとして不十分ですので、更に調査を重ね、人物の同定が確実となれば、改めて発表したいと考えています。

 東京へ向かう東北新幹線はやぶさ16号の車窓から冠雪した岩手山が見えてきました。もうすぐ盛岡駅です。

(注)
①竹田元春氏より見せて頂いた。同氏は、藤本光幸氏の妹の竹田侑子氏(「秋田孝季集史研究会」会長)のご子息。
②長作か。「長三郎」を和田家当主は襲名する。写真下部が切り取られており、〈郎〉の字は見えない。和田長作は喜八郎氏の祖父で、明治期に「東日流外三郡誌」を書写した和田末吉の長男。末吉の書写作業を引き継いでいる。
③「綾小路」とある人物は貴族院議員の綾小路護氏(1892~1973年、子爵議員)ではあるまいか。ウィキペディアに掲載されている同氏の写真とよく似ている。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第3011話 2023/05/09

雨の津軽路、藤本光幸さんの墓前に誓う

 昨日は、「秋田孝季集史研究会」(会長、竹田侑子さん)の皆さんと、藤崎町摂取院を訪れ、藤本光幸さんのお墓に参りました。わたしは、和田家文書〝偽作キャンペーン〟と戦うことを墓前に誓い、「われらに加護あれ」と祈りました。一行は雨の津軽路、板柳に向かい、沢の杜遺跡などを見学しました。

 その後、弘前市に戻り、玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)ご紹介のお店「こころ」の和室をお借りして、パワーポイントで「東日流外三郡誌」真作説の根拠と、これからの研究テーマとその方法について説明させて頂きました。この日は玉川さんと夜遅くまで杯を傾けました。

 調査最終日の今日は、朝から和田家文書調査です。竹田元春さん(竹田侑子さんのご子息)のご協力を得て、『北鏡』の紙(多くは大福帳の裏を利用)の調査を実施。大福帳の使用年次を丹念に調べたところ、明治30年代後半から大正2年の印字が見えました。時間が足らず、『北鏡』全巻を調査できませんでしたので、残りは次の機会としました。調査終了後、弘前城址にて夕日に照らされた霊峰岩木山(1625m、青森県の最高峰)を拝し、「津軽の民と東日流外三郡誌に加護あれ」と祈りました。明日は京都に帰ります。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3010話 2023/05/07

津軽での一夕、三十年ぶりの邂逅

 昨日、弘前市に到着。三十年ぶりの津軽です。「秋田孝季集史研究会」会長、竹田侑子さんらの歓待を受けました。今回の調査日程の説明を受けた後、夜九時過ぎまで和田家文書についての質問攻めと、地酒・郷土料理による接待攻勢が続きました。なかでも、市会議員選挙(4月23日投開票)を終えたばかりの同会副会長・石岡ちづこさん(弘前市議・無所属)からの本質を突いた質問により、一気に場が盛り上がりました。東日流外三郡誌の重要性を理解し、支持される地元有力者が少なからずおられることに、わたしも気を強くしました。

 今日は朝から和田家文書調査を行いました。竹田さん親子のご協力を得て、主に未見の「東日流外三郡誌」の筆跡と紙の精査を行い、下記の分別(基礎的史料批判)を実施しました。その他の多くは三十年ぶりに目にした文書群で、懐かしさを覚えました。引き続き、調査を実施します。

【和田家文書群の分類(試案)】
(α群)和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行した機械梳き和紙が主流。

(β群)主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。大福帳などの裏紙再利用が多い。

(γ群)戦後作成の模写本(戦後レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は複数。紙は戦後のもの。厚めの紙が多く使用されており、古色処理が施されているものもある。展示会用として外部に流出したものによく見られる。

 

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3004話 2023/05/03

「東日流外三郡誌」、新野直吉氏の証言

 今月六日から青森県弘前市を訪れ、三十年ぶりに和田家文書調査を実施します。その事前準備のため、『東日流外三郡誌』をはじめ、関連資料の整理と精査を進めていますが、「東日流外三郡誌」に触れた、秋田大学名誉教授の新野直吉さん(注①)の発言記録を見つけました。それは『安倍・安東氏シンポジウム(記録)』という冊子で、平成元年八月八日に市浦村(青森あすなろホール)で開催されたシンポジウムの記録です(注②)。
そこで、昭和五七年(1982)の山王日吉神社発掘調査の経緯について、新野さんが次のように紹介されています。

〝それでは山王坊をどうして掘ろうとしたかという事でありますが、山王坊の事について『東日流外三郡誌』という、この村の村史の中に活字化された資料がありまして、その中に山王坊の事が出ております。それから山王坊という地名が先ずあるわけですから、山王坊というからには山王さんである事は明らかであり、しかもあそこに山王鳥居がちゃんとあって現実に山王さん―日吉神社―が祀られているわけで、あの地域に昔の山王さんの何らかの遺跡があるのではないか、という事は誰でも考える事ができるわけであります。
最初にあそこを発掘する事を、昭和五十七年に決める前には、実は檜山のある遺跡を発掘しようかという事も考えたのでありますが、そちらの方はある意味でここが○○のお寺の跡であるという事が史跡的に明確になっていました。いつでも掘れば明らかになるというか、どういった寺院の跡であるかは、ほぼ推察がつきました。ところが、山王坊の方は今言ったように神社はある。地名もある。それから市浦の村史の資料の中にも関係した記述がある、という事はあるけれども本当は学問的にはその事を誰も立証した事がないわけであります。そしてまた、わからないわけであります。
現実には豊島先生(注③)はじめ土地の方々はご承知のように、上の方の階段―要するに階(きざはし)―から上の方の部分には、当時既に石組等が露出していましたので、この土地ではここに何らかの遺跡があるんだという事は伝承されていたと考えられます。私はその年初めて現地に入ったわけでありまして、それ以前の状況は全く知りませんでした。唯、豊島先生という強い味方がおられていろいろ教えてもらえたわけです。〟52~53頁

 このように、昭和五七年の発掘調査までは山王坊遺跡の存在を「学問的にはその事を誰も立証した事がない」という、新野さんの証言は貴重です。すなわち、当時としては東日流外三郡誌の記述(絵図)が唯一の詳細な史料であったということなのです。そして、発掘調査の成果を次のように語られています。

〝現在の状況ではですね、展示されている坂田さん(注④)の描いた絵でもお分かりのように二列に並んだ日吉神社の社殿跡と考えられるものが検出されています。そして別に言えば、あのスペースには外三郡誌という資料の中に出ていたような十三宗寺というようなお寺の伽藍が稠密に並んでいた可能性はあれだけではありません。もしそういうものがどうしても存在するとするならば、それはあの山王坊の林の前面に連なっている田圃の中にあるかも知れませんが、その可能性は中世的建物の礎石ですから今までの耕作でいっぺんも当たっていないとするならば、無いんだと思います。思いますと言うので、断定しているわけではありません。従って私はまた今度、じゃ一体あの東日流外三郡誌に書いてある十三宗寺というようなもの―十三千坊というようなものになるんですね―そのようなものが本当にあったのかどうか。どうも、もしああいうものが近世以前からああいう絵のようなものの原図になるものが伝わっていたとするならば、「単なる宗教的な曼荼羅」だと、(後略)〟54頁

 山王坊を発掘したら二列に並んだ日吉神社の社殿跡が検出されたのですが、その反面、東日流外三郡誌に描かれたような「十三宗寺」のような伽藍は無いのではと語っていることから、新野さんはこのシンポジウムの時点(1982年)では懐疑的であったことがうかがえます。しかし、その後の発掘調査(2006~2009年)で、「山王坊の林の前面に連なっている田圃の中」から大型の伽藍跡が複数出土したのです。すなわち、新野さんの推定よりも東日流外三郡誌の絵図の方が当たっていたわけです。当時、懐疑的だった新野さんのこの証言「山王坊の林の前面に連なっている田圃の中にあるかも知れませんが」は、東日流外三郡誌の真作性を結果として指し示していたのです。

(注)
①新野直吉氏(1925年~)。日本古代史および東北地方史の専門家。秋田大学名誉教授、秋田県立博物館名誉館長。
②『安倍・安東氏シンポジウム(記録)』市浦村歴史民俗資料館編、平成五年(1993)。
③豊島勝蔵氏(1913~2001年)。当時、市浦村史編纂委員長。
④坂田泉氏。当時、東北大学工学部、建築史の専門家。

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第2991話 2023/04/20

5月の津軽調査の目的と準備

 「洛中洛外日記」2979話(2023/04/05)〝来月、津軽へ調査旅行します〟で紹介した津軽(弘前市)での和田家文書調査に備えて、「東日流外三郡誌」を久しぶりに精読しています。調査報告と研究成果については、5月の和田家文書研究会(注①)や「古田史学の会」関西例会(5月20日)で発表の予定です。
今回の調査の目的は次の3点です。
(1)現存する和田家文書の精査、
(2)当地の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんとの交流、
(3)藤本光幸さん(注②)の墓参です。

 同氏は、わたしが30年前に和田家文書調査を始めたときからお世話になった恩人で、竹田侑子さんの実兄にあたります。なお、藤本さんの父方は天内(あまない)家ご出身とのことで、「東日流外三郡誌」や和田家文書の「天内家文書」にも記された一族です。同「天内家文書」を藤本邸で見せて頂きました。古田先生67歳、わたしが38歳のときの懐かしい想い出です。そのときの先生と同じ年齢になったわたしが、藤本さんのお墓参りをすることに不思議な縁(えにし)を感じます。「東日流外三郡誌」が、津軽へ、真実へと、わたしを導いているのかもしれません。

 これからの和田家文書研究テーマの一つとして、実現したいことがあります。それは和田家文書史料批判のアプローチとして、同史料群の分類とその方法論の確立です。具体的には、次のようなグループ分けが可能なのか、適切なのかを検討しています。

【和田家文書群の分類(試案)】

(α群)和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行し始めた機械梳き和紙が主流。

(β群)主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。大福帳などの裏紙の再利用が多いようである。

(γ群)戦後作成の模写本(戦後レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は複数である。紙は戦後のもの。厚めの紙が多く使用されており、古色処理が施されているものもある。展示会用として外部に流出しているものによく見られるようだ。

 この他に「寛政原本」など江戸期成立と鑑定された史料が少数あり(注③)、これらの貴重史料は(S群)に分類しようかと考慮中です。こうした分類が可能であれば、次は分類ごとに史料批判を行い、その史料がどの分野の研究に有効であるかの検討へと進み、最終的には史料の内容がどの程度の信頼性を有しているかの検証作業になります。

 まずは上記分類の可能性と妥当性について検討を続けます。こうしたことも「秋田孝季集史研究会」や「和田家文書研究会」に提起できればと、調査旅行の準備に明け暮れています。

(注)
①東京古田会が隔月で開催。本年1月から和田家文書調査報告をリモート発表させていただいている。次回、5月13日には「『東日流外三郡誌』の考古学」を発表予定。
②藤本光幸氏(2005年10月没)は『東日流外三郡誌』を世に紹介した人物で、北方新社版『東日流外三郡誌』の編集者。次の遺稿と拙稿を参照されたい。
藤本光幸「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察1」『古田史学会報』71号、2005年。
同「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察2」『古田史学会報』72号、2006年。
同「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察3」『古田史学会報』73号、2006年。
「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史考察4」『古田史学会報』75号、2006年。
古賀達也「洛中洛外日記」39話(2005/10/25)〝故・藤本光幸さんのこと〟
③古田武彦氏が「寛政原本」として発表された「東日流内三郡誌」など6史料で、笠谷和比古氏(国際日本文化研究センター研究部教授)の鑑定による。


第2979話 2023/04/05

来月、津軽へ調査旅行します

 東京古田会主催の和田家文書研究会にリモート参加し、古田先生との『東日流外三郡誌』調査の思い出などを発表させていただいています(注)。それが契機となり、青森県の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんとの交流が本格化し、来月(5/06~10)、当地を訪問することになりました。連休中は弘前城などの花見客が多く、ホテルを予約できず、この日程になりました。
30年前、和田家文書調査のため弘前市を訪問したとき、弘前城の満開のしだれ桜に感動したことを覚えています。風が吹く度に周囲の空間が花びらでピンク色に染まります。今までわたしが見た桜では、ベストスリーに入る素晴らしさでした。
今回の津軽旅行の目的は、和田家文書の現状調査と当地の研究者との交流、そして藤本光幸さんのお墓参りです。藤本さんには和田家文書調査でお世話になった恩人です。藤崎町の藤本邸に泊めていただき、夜遅くまで歓談・痛飲したことは、忘れ得ぬ思い出です。藤本さんはお酒(ウイスキー)が大好きで、古田先生と三人のときは、お酒を飲まない先生の分までわたしが飲んだものです。笑顔が素敵で、実に心優しい方でした。

(注)1月は「和田家文書調査の思い出」、3月は「『東日流外三郡誌』真実の語り部たち」を発表。5月は「『東日流外三郡誌』の考古学」を発表予定。